日本人と漢詩(090)

◎葛子琴と頼山陽


前回も述べたように、葛子琴は、木村兼葭堂と縁の深い混沌詩社のいわば盟主。木村兼葭堂への賛詞は以前に記した。

頼春水も渡った、玉江橋が完成した時の作。

玉江橋成 葛子琴

玉江晴度一條虹 玉江《ぎょっこう》 晴れて度《わた》る 一条の虹
形勢依然繩墨功 形勢 依然たり 縄墨《じょうぼく》の功
朱邸綠松當檻映 朱邸《しゅてい》 緑松《ろくしょう》 檻《かん》に当たりて映じ
紅衣畫舫竝橈通 紅衣《こうい》 画舫《がほう》 橈《かじ》を並べて通ず
蹇驢雪裡詩寧拙 蹇驢《けんろ》 雪裡《せつり》 詩寧《なん》ぞ拙《せつ》ならん
駟馬人閒計未工 駟馬《しば》 人間《じんかん》 計《けい》未だ工《たくみ》ならん
南望荒陵日將暮 南のかた 荒陵《こうりょう》を望めば 日将《まさ》に暮れんとし
浮圖湧出斷雲中 浮図《ふと》湧出《ゆうしゅつ》す 断雲《だんうん》の中《うち》

首聯と頷聯の語釈、訳文は、サワラ君の日誌を参考のこと、そこには訳文として、

玉江橋 晴れわたる 一筋の虹のごとし
その姿 以前のままに 完成
諸藩の蔵屋敷 緑の松 欄干の水際に映り
派手な衣装 色艶やかな遊覧船 橈(かじ)を並べて通う

とある。頸聯、尾聯と続けると、
「この橋のたもとに住む私が、雪の中、ロバ上での詩は、下手なわけはないと思うが、四頭立ての馬車に乗るほど出世したかった司馬相如のように、作詩の工夫は上達しそうにない。南の方には、天王寺方面の高台には、日が暮れようとし、四天王寺五重の塔が雲のあいまから湧き出て見えている。」
玉江橋を南北に通る、なにわ筋を南に眼をやると、天王寺の五重の塔が見えたことは、前に述べた。「浪華風流繁盛記」の挿絵にも、遠景として描かれている。

頼山陽は、子琴を「混沌社の傑材」として称賛する。

論詩絶句 其十六
浪速城中朋童箸 浪速《なにわ》城中に朋童箸《あつま》り
猶従嘉蔦索金銭 猶ほ嘉蔦に従って金銭を索《もと》む
廷証混沌新穿薮 廷証たる混沌に新たに薮《あな》を穿《うが》つは
唯有多才葛子琴 唯だ多才有るのみ 葛子琴

竹村則行氏「頼山陽の論詩絶句と哀枚の論詩絶句」より

子琴の作品は、五言、七言の古詩など力作長編詩も多いが、ここでは、今の季節感に満ちた五言律詩を一首。

端午後一日芥元章見過留酌 端午後一日《たんごごいちにち》。芥元章《かいげんしょう》過《す》ぎらる、留め酌《しゃく》す
風烟堪駐客 風烟《ふうえん》 客を駐《とどむ》るに堪《た》う
落日一層樓 落日 一層《いっそう》の楼
緑樹連中島 緑樹《ろくじゅ》中の島に連なり
靑山擁上游 青山《せいざん》 上游《じょうゆう》を擁《よう》す
采餘河畔草 采《と》り余《あま》す 河畔《かはん》の草
競罷渡頭舟 競《きそ》い罷《や》む 渡頭《ととう》の舟
不但殘蒲酒 但《た》だに蒲酒《ほしゅ》を残《ざん》するのみならず
簾櫳月半鉤 簾櫳《れんろう》 月半《なか》ば鉤《こう》す

語釈など]端午の翌日の作 芥元章:京都の儒者、子琴より二十九才年長 風烟:かぜにたなびく靄 一層の楼:唐・王之渙「登鸛鵲楼」より「更に上る一層の楼」より 緑樹 中の島に連なり:今より中の島は緑豊かだった 青山 上游を擁す:上流には、金剛、葛城などの山々が連なり 采り余す 河畔の草 競い罷む 渡頭の舟:屈原の入水にちなんで、薬草を採取したり、舟競争を行ったり 蒲酒を残する:厄払いに少なくなった菖蒲酒を飲み 簾櫳 月半ば鉤す:すだれ窓に、(旧暦なので)三日月の倍くらいの六日月がかかる

葛子琴の墓は、大阪市北区栗東寺にあるが、写真のように、表面が剥げ落ちている。どうか、なんとかならないものだろうか?生粋の浪華詩人であるだけに、復元整備を切に望みたい。また、機会あれば、葛子琴の作品を紹介することにする。

写真は、「浪華風流繁盛記」より、落成当時の玉江橋、大阪市HPより、玉江橋顕彰碑、子琴の旧居近く、橋の北詰めにあるが、彼の名前は出てこない。 葛子琴の墓碑(栗東寺)(参考文献から)

・参考文献】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」
・中村真一郎「木村兼葭堂のサロン」

日本人と漢詩(089)

◎中村真一郎と頼春水、木村兼葭堂

中村真一郎の「漢詩三部作」のうち(「頼山陽とその時代」、「蠣崎波響の生涯」と本書)「木村兼葭堂とそのサロン」での執筆動機の序章は、思いの外、情緒的でもある。
まず、戦争中に、書信を持って、励ましてくれた師ともいえる人物が三人、片山敏彦、吉満義彦、それと、「フマニスト(人文主義)」に対して強固な信念を持ち続けた渡辺一夫の名を挙げる。それに続けて、戦後の日本に対しても、

それは手のつけられない混乱と分裂の有様であり、極めて優秀な若者が生長しつつある反面、単なる日本猿の親戚に過ぎない、絶望的な未開の大衆も生産しつつある。ある種のテレビのお笑い人物とか称するもののなかには、動物園以下のもの、人間の言葉を間違って真似して喋っている連中が横行していて、もし彼らが民主主義の原則に従って多数を占め、権力を握った時を想像すると、「猿の王国」以下に悲惨な世界が出現するだろうと、慄然とする。

もちろん、こうした「蔑視主義」に全面的に組みはしないが、彼が懸念するディストピアの危険性が高まってきたのも事実だろう。

日本の多くのマルクス主義者が、ご本尊の託宣を鵜呑みにして、西欧の歴史上の長い社会主義的蓄積を「空想的社会主義」のもとに切り捨て、自分の頭脳で検証するのを省略する軽薄さ…毛沢東の文化大革命の大波が起こると、それに軽々と乗って、「日本の実権派」を退治せよなどなどと大見得を切る…他人事ながら顔を𧹞らめた…」

これも、満腔の賛意ではないが、遠い昔にマオイストに振り回され、幾ばくかの友人を失ったことを経て、理解の範囲内であり、同意の半ばを共有する。また、昨今に至っても、あまりにも物事を単純化する運動集団の羅列には事欠かない。

こうして、中村真一郎は、江戸漢詩に出会い、その豊かな世界に魅了され、頼山陽、蠣崎波響の評伝執筆を経て、木村兼葭堂とそれを中心として円心上に廻るといった「知識人の共和国」を描く最晩年になった。この大部な著作からくみ取れることは、豊穣とも言えるが、以前の拙稿の続編(過去の記事は、タグ「木村兼葭堂」を参照)
ということで、蒹葭堂と関係の深かった、混沌社で「詩豪」の名を馳せた頼山陽の父、頼春水 Wikipediaが、その社中で中村真一郎にコクトーと讃えられる葛子琴( Wikipedia)に贈った玉江橋(子琴は、御風堂と称し、橋の北詰に書楼を営んだ)からの眺めを詠った詩。春水は、明和3年(1766年)当時は、大坂在住で、子琴の住まいを、たびたび訪問した。ちなみに混沌社は、子琴のネーミングだったらしく、ロシア革命時のアバンギャルド詩人集団を彷彿させるステキな名である。

玉江橋春望贈葛子琴 頼春水
玉江乘霽好從容 玉江、霽《はれ》に乗じて、好《はなは》だ従容
水映長橋淑景濃 水、長橋に映じて、淑景濃し
侯邸古松濤陣陣 侯邸の古松、涛陣々
市樓春柳翠重重 市楼の春柳、翠重々
雲邊塔影天王寺 雲辺の塔影は天王寺
海上嵐光佛母峰 海上の嵐光は仏母峰
莫道村郊靑可蹈 道《い》う莫《なか》れ、村郊、青、踏むべしと
不如此處植吟筇 ここに吟筇を植《たつ》るにしかず

語釈]
従容:ゆったりとした様 淑景:春の光を伴う景色 陣々:切れ切れに続く 侯邸:大名屋敷だが誰のかな?玉江橋北詰近くには、福沢諭吉生誕の地の中津藩屋敷があった 雲辺の塔影は天王寺:当時は、玉江橋から南を見れば、四天王寺の塔が見えたらしい。もちろん今はビルに遮られててそうした展望はない。逆に、大阪大空襲後の焼け野原では、天王寺から大阪城天守が見えたとのことである 道《い》う莫《なか》れ、村郊、青、踏むべしと:郊外の村に青草を踏みにいかなくても 吟筇:詩作にふけるための杖

今は川沿いに、散歩道も出来ているが、行き交う人は、気忙しく、詩作(ないし思索)にふけるとまではいかない。
写真は、頼春水画像(Wikipedia)と現在の玉江橋から南方天王寺方面を見る(筆者撮影)

参考】
中村真一郎「木村兼葭堂のサロン」(新潮社)

日本人と漢詩(087)

中島棕隠

独断ではあるが、京都人は、大坂や江戸とはひと味違い、揶揄とまでは言わないが、自らを客観視する姿勢があったようだ。もっとも、昨今は、「みやこびと」のプライドもいくぶん薄くなっているが…ところで、わが中島棕隠にこんな狂詩がある。

江戶者嘲京 江戸者《えどもの》京を嘲《あざわら》う
木高水淸食物稀 木は高く水は清くして食物《くいもの》稀《まれ》なり
人人飾表內證晞 人々は表を飾りて内証は晞《かわ》く
牛糞路連大津滑 牛糞の路《みち》大津に連《つらな》って滑《なめらか》に
茶粥音向叡山飛 茶粥《ちゃがゆ》の音は叡山に向かって飛ぶ
算盤出合無立引 算盤《そろばん》出合い立引《たてひき》無く
筋壁連中假權威 筋壁連中《きんかべれんちゅう》は権威《けんい》を仮る
女雖奇麗立小便 女 奇麗《きれい》なりと雖《いえど》も 立小便《たちしょんべん》
替物茄子怕數違 替《か》え物の茄子《なすび》数の違《たがわ》んことを怕《おそ》る

棕隠は、文化二年(1805年)から同十一年(1814年)まで江戸に暮らし、その「江戸っ子」の視点で、京都人を少々突き放して評している。語釈や訳文の詳細はほぼ不要と思われるが、「京都の食物《くいもの》、おいしいもの、あらしまへん」、「内証は懐具合、立引は「勉強しときまっさ」、筋壁連中は、塀の向こうのおえらいさん、替物茄子は、農家の下肥え集めの際に交換する野菜の量をめぐる駆け引き、棕隠の「都繁盛記」に微に入り細に入り詳しい。「粋なねーちゃん、たちしょんべん」という寅さんの口上はここから来たのかな?

鴨東四時雑詞より
酣飮何知迫曉天 酣飲《かんいん》何ぞ知らん 暁天に迫るを
粉香脂膩和衾眠 粉香脂膩《ふんこうしじ》衾《しとね》に和して眠る
遊郞畢竟偎花蝶 遊郎《ゆうろう》畢竟《ひっきょう》花に偎《よ》する蝶
抵得芳心非偶然 芳心に抵《いたり》得るは偶然に非らず

夜を徹して飲み続けて、化粧濃厚な妓と同衾、わては、花に身を寄す、てふてふどすえ。花蕊に引き寄せされるのは、たまたまじゃないわいのお。実は、棕隠は、自作の詩に対して、無類の自註や解説好きで、ここでも委細を極めているが、あえて省略。要するに、高い前金を払わずに、雑魚寝をうまく利用しロハでその妓と首尾を遂げようとのことである。

棕隠は、もともと儒家の家柄、その実家とかえってプレッシャーになり、江戸に一定期間逃避するなど、ボヘミアン的な生活を送った。帰京後は、詩家としての名声もあがり、放蕩の経験豊かなせいか、このような「きわどい」「竹枝詞」を作るようになった。

もう一首、京都の風情の一つ、「大文字の送り火」を題材にした七絶。

士女蘭盆送鬼時 士女《しじょ》蘭盆《らんぼん》鬼《き》を送る時
相携薄夜傍前涯 相い携《たずさ》えて薄夜《はくや》前涯《ぜんさい》に傍《そ》う
且觀如意峰頭火 且《しばら》く観る 如意峰頭《にょいほうとう》の火の
大字畫雲收焰遲 大字《だいじ》雲を画《かく》して 焰《ほのお》を収《おさ》むること遅きを

男女連れ添ってお盆の最終イベントに、鴨の河原にでかける。まずは大文字山の「大」の字が雲間に照り、ゆっくりと消えるまで眺めやる。
子ども時代は、近くの醒泉小学校の屋上が開放され、「大文字焼き」(俗称、正式には送り火)を見ていた思い出が残っている。

京都で、詩集や、江戸の寺門静軒の「江戸繁盛記」の対抗して「都繁盛記」も出版、名声が高まったが、元号が天保に入り、天下はにわかに忙しくなってきた。天保の大飢饉を皮切りに、1837年 大塩平八郎の乱、1839年 蛮社の獄と続く騒乱へと続き、棕隠も、なかなかまっとうな見解を詩で表現するが、それは、またの機会に…
写真は、鴨川河原(Wikipedia より)と大文字の送り火
参考】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」(岩波書店)
・中村真一郎「江戸漢詩」

日本人と漢詩(085)

◎柏木如亭と白居易

江戸時代は、漢詩の表現法などが大きな変遷を遂げた時期だった。中期までの、いささや大言壮語に堕した「格調派」から、後期ともなると、日常茶飯事を含む細やかな心の動きを描出する「性霊派」へと変わってきた。柏木如亭もその潮流の一人で、その訳詩集「訳注聯珠詩格」では、白楽天の詩も、ちょっとした日常詩である。

聞亀児詠詩      亀児が詩を詠ずるを聞く    白楽天

憐渠已解弄詩草    憐れむ 渠《かれ》が已に詩草を弄することを解するを
揺膝支頤学二郎    膝を揺がし頤《あご》を支へて二郎を学ぶ
莫学二郎吟太苦    学ぶ莫れ 二郎が吟に太《はなは》だ苦しむを
年纔四十鬢如霜    年纔《わづ》かに四十 鬢《びん》 霜の如し

〈柏木如亭譯〉
憐《かあい》や渠《あれ》は已《いつか》詩草《し》を弄《つくること》を解《おぼ》えて
揺膝《びんぼゆすり》をしたり支頤《ほゝづゑをつい》たりして二郎《おれ》を学《まね》る
二郎《おれ》が吟《しをつくる》に太苦《なんぎす》るをば莫学《まねやる》な
年は纔《やうゝゝ》四十だが鬢《びん》は 如霜《まっしろになった》
以上、昭和レトロな赤坂の思い出から、語釈も同サイト参照のこと。
よりいっそうの現代語訳は、白楽天 舞夢訳を参照のこと。

訳文も、森川許六の三体詩訳の俳文調から抜け出し、現代の口語訳と変わらないところまで来ており、漢詩の日本語を使った解説の一つの到達点であろう。ずいぶん駆け足だったが、平安から室町、江戸時代にかけての訳文を通じての漢詩受容の話題は、ひとまずは、終わることにする。

実際の彼は、白楽天の詩で触れる「家庭の幸福」を知らない人生で、江戸、新潟から京都などへの放浪の詩人だった。追加として、如亭の晩年の詩作を一つ、どこか唐詩への回帰の趣きがある。
絶句
歸鴉閃閃沒煙霄 帰鴉閃閃 煙霄《えんしょう》に没す
但見漁舟趂晚潮 但だ見る 漁舟の晩潮を趁《お》うを
一傘相扶侵雨去 一傘あい扶《たす》けて 雨を侵し去《ゆ》く
黃昏獨上水東橋 黄昏に独い上る 水東の橋

簡単な注釈】
ねぐらに帰るカラスの群れが霞空へ消え、漁船も夕べの潮を追いかける。相合い傘でアベックが雨の中を寄り添って歩いている。その夕暮れの中に一人橋の上にたたずんでいる。
中村真一郎は「孤独な老人の感慨」と書くが、それでいて、どこかある種の温もりも感じる。

参考】
・柏木如亭「訳注聯珠詩格」(岩波文庫)
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波同時代ライブラリー)