日本人と漢詩(112)

◎三上於菟吉とチェーホフと李群玉

 またもや、脱線!三上於菟吉は、「雪之丞変化」が代表作の大正から昭和にかけての大衆小説作家。彼に、こんな「チェーホフ論」があったのは、意外である。その中で、一首、晩唐使・李群玉の詩を引く。

水蝶嚴峰倶不知 水蝶《すいちょう》 厳峰《げんぽう》 倶《とも》に知らず
露紅凝艷散千枝 露紅《ろこう》 艶《つや》を凝《こら》し 千枝《せんし》に散ず
山深春晚無人賞 山深く春晩《しゅんばん》人 賞《め》ずるなし
卽是杜鵑催落時 即ち是れ 杜鵑《とけん》催落《さいらく》の時

 水面をとぶ蝶々と険しい山は互いに気づいていない。露のような赤い花は艶っぽく美しく、千の枝に散りばめられている。山奥の春の美しさを理解する者は誰もいない。ホトトギスでさえ、それを終わらせるよう促しさえずっている。

くらいの意味か?起句の、「水蝶嚴峰倶不知」が、なんとも言えずよい。

 比較的マイナーな詩人を引用するところから、三上於菟吉は結構な素養があったのだろう。険しい山を平原の向こうに見える丘陵に変え、鳥の種類を違ったものにするという条件つきで、チェーホフの小説に出てきそうなシチュエーションではある。
 「小論」全体も、チェーホフの深読みになっており、昨今の評論家を抜きん出てなかなか秀逸である。たとえば、当方の好きな小説「いいなずけ」を論じて、

彼女の智慧を啓くものが首都の大学に、彼女を待つことを囁やく。生活の暁に立つて未知に戦のくナーヂヤは、智慧にあこがれて、病青年の啓示のままに許婚者を捨てて――一切の田舎町の平和と愛を、古いしつとりとした邸宅や、教会堂や、祖母や、母親をも捨てて大都会の渦の中へ飛び込むために家出をする。やがて病める者は死に、彼女の智慧は大学でも、さう急には啓いてくれないのがわかる。けれどもチエホフは、それを青年やうら若い処女の軽はずみとして責めはしない。チエホフは彼女の未来を見捨てない。これが若し他の作家でもあれば、青春者の「都会病」や「智識熱」の方を責めて、彼等に捨て去られるために荒廃する田舎町や、田舎人の生活を歎くだらう。さうした感傷性に堕ちないところにチエホフの面目がある。

が一例だろう。

 ライセンス的には、フリーなので、その全文を掲げる。

三上於菟吉・チエホフ小論

自叙伝――気禀の高かさ――アンドレーフとの比較――ゾラのナチユラリズム挽歌――真人――ビヨルネや及びドストエフスキーの憎悪心――チエホフの強さ――彼のニイチエ観――未来への信仰――トルストイの堂々ぶりと彼――インテリゲンチヤの克服――智慧――憎みは愛に死は生に――真理への先導――基督者チエホフ――チエホフの世界征服

 私の手許にあるチヤツトオ・ウインダス版「チエホフ書簡集」は千八百九拾余通といふ豊富な量をおさめてゐる露西亜原本から、百六十余通を摘訳したものに過ぎないが、しかし英訳者コンスタンズ・ガーネツトの巧妙な按排は分量の貧しさを優に補つて、チエホフ研究者のために少なからぬ便宜を与へてゐる。その書簡編の二九五頁、チホノフ氏に寄せた一節にかうある。
 ――僕はタガンログに一八六〇年に生れた。一八七九乍タガンログ高等学校を卒へ、一八八四年モスクワ大学医科を得業した。プウシユキン賞を受けたのは一八八八年だつた。一八九〇年に樺太へ旅行した。往きはシベリヤ通過、帰りは海路。一八九一年ヨーロツパ巡歴を試みて素ばらしい葡萄酒を飲み蠣を食つた。一八九二年にはV・A・チホノフの名付日の集りで鯨飲した。(これはこの書簡がチホノフ家の集りのすぐあとで、チホノフその人に宛てたものなので、チエホフ一流の気軽なユーモアを弄したのだ)――物を書きはじめたのは一八七九年、作品の集は「いろいろな話」「暮明の中に」「物語集」「気六かしき人々」それから長篇「決闘」だ。僕は又穏当なやり口でではあるが戯曲方面へも罪を作つた。独逸語には随分以前翻訳されたけれども、西欧には幾分除外例もある。チエツクやセルビアも亦僕を閑却せなんだ。フランスも無頓着ではない。恋の不可思議さをば十三歳で会得した。学校でも、医者どもの中でも、文学者の中でもみんなと親密につき合つた。僕は独身ものだ。(まだ此の時は有名なクニツペル夫人と結婚してはゐなかつた。――於菟吉)僕は恩給がほしい。僕は医業に自ら当つた。夏分にはときどき死体解剖もしたが此の二三年はしない。文学者ではトルストイ、医者ではザハアリンが好きだ。だが、みんなノンセンスだ。君のいいやうに書いて置いてくれ給へ。抒情詩的に事実を捏ち上げない限りは。――

 一八九二年二月廿二日モスクワで書かれたこの書簡の一節は、何といふ明るさと、正直さで彼自身の過去を語つてゐることだらう。この明るさと正直さとこそは、チエホフの最大特徴で、そして同時に彼を他の多くの文学者から隔絶させ、何の見せかけや、気取りや、声高くひびくひろめ屋の喇叭をも用ひずに、しかも小さいぺン先から流れた文字で、世界億兆に彼の魂を伝へた原動力だ。世にいくばくの良いもの、すぐれたもの、すばらしいものがあらうとも、最も良い、最もすぐれた、最もすばらしいものは「純」だ。みがきのかゝつた「素直さ」だ。智慧のプリズムを通した温い「明るさ」だ。これを同時代の作家アンドレーフ氏に比較して見給へ。同じ短かい自伝を書くにしても、アンドレーフはいつもの業々しい気取方や、見せかけや、ひろめ屋の喇叭を忘れはせぬ。(十数年前早稲田文学に昇曙夢氏が訳された「露西亜文学者自伝」を思ひ出されたし)こんな傾向の作家が常用する――大作家すらも折々慣用する思念、表現両方面のコケ嚇的手段は、なる程一時公衆を驚倒させ、魅惑させるに充分だ。彼等をして静かで、素直で、愛しはするが媚びはせぬ作家を忘れさせるに充分だ。けれども公衆が酣酔と、眩惑とから恢復した時、それは二日酔の青年が、ゆふべの悪酒の盃を思ひ出した刹那に感じるやうないまはしい後味を覚えさせるに過ぎぬ――此の場合もしいつまでも悪い陶酔が忘れられずに、もつともつと囚はれたがり、溺れたがつてゐるものがあるとすれば、それは救はれないヂレツタンチズムに堕した、憐れむべく古めかしい世紀末児の亜流に過ぎないと言はれても仕方がない、だが、正しい鑑賞力の持主たちや、芸術品から生活の尽きざる源を汲むことをよろこぶ人たちは、たとひ一度は腐つた美や、怪奇な幻影に惑はされたとしてもすぐに自分に帰つて、自分が真に求めてゐるものは、鬼面し、粉飾した作品からは到底与へられないことに気がつき、純粋で気高い――しかし、温かく素直な魂から生れたほんものの芸術を探さうとする。同時に芸術といふものが、傾向や趣味に生命点をおかず、永遠な人間性の発露に於いて「不朽」を主張する理由があるのを理解する。そしてかくの如き人々が、つまり人間らしい心で、不朽な芸術品を絶えず求める人達が、ごく手近なところにアントン・P・チエホフを持つことのいかに幸福であることよ!
 事実われわれの知る限りに於いて、チエホフ程はつきりした目で、人生を直観し得た人間は見当らぬ。されど彼自身「自分は製作に当つて殆んど無意識に筆を進めるが」しかし「文学は能ふだけ実在そのまゝに描く術である。何よりも肝心なのは絶対の真実と正直とだ」と公言して、此手段によつてのみ隠された「真珠」を此の世界に掘り出して見せることが出来ると語つてゐる。この言葉は時代はづれのナチユラリストの慣用句に似てゐると思ふものもあるかも知れない。だが、ナチユラリズムは、チエホフ以前にすでにあのゾラにさへ――ルゴン・マツカールの大作家にさへ見捨られてゐた。一八八八年彼は宣言した――「疑ひなく新らしい哲学が新らしい文学を生むのだ。ナチユラリズムはもう古い月界に居を占めた」そして三四年して、「未来は……諸理論から脱却してもつと打ち解けて人生を受け容れることを承認する者、又は者達に属するであらう。私はより広い、より複雑な描写を、人道へのより大きな門戸を信じるものである――そして私に仮すに時を持つてすれば、私自身がそれをする。彼等が叙するところを私がしてのけて見せる」と付け足した。この言葉の中には豪雄無双ないつものゾラがのぞいてゐて私達を微笑せしめるが、兎に角ゾラをしてさへもう前期のものだと叫ばせたナチユラリズムは、チエホフの胸からは過ぎ去つてゐた。チエホフこそは「諸理論から脱却してもつと打ち解けて人生を受け容れた」人間だつた。そして、そのやうに自由に、しかし正しく人生を受け容れることの可能力を持つた人間が此の世界に幾人あり得たか? 此の複雑な人生の、神を信ずる者を、不信者を、耶蘇を、悪魔を、醜くき実在を、華大なる夢想を、恋を、貪欲を「都の生活を、百姓の一生を――さうしたすべての現象を真正面から直視して、何物にも捉へられずにその現象全体を認識し、しかも弱々しい悲哀にも、荒々しい憤怒にも我々を忘れずに、新らしい生の信仰――より誠実で、より自由で、あらゆる点でより精神的な世界の到来に対する信仰を抱きつづける可能力を持つ魂がさうザラにあるものではない。この魂を抱き得る人間こそ自由主義者《リベラリズム》と呼ばれる事をすら厭ふほんものの人間――古来の宗教家や、神学者が夢想したやうな「神の創り給うた」人と呼ばれるに値する第一級の人物だ。玲瓏として曇りのない、そして絶えず一脈の温味を湛へてゐる胸は、人生の欺きや、偽りと憎みとを静かに乗り超えて、憤るべきもの憎むべきものの依つて生ずる人間生活の汚濁を、彼はみづからの手で澄まさせてやり拭ひ取つてやらうとする――チエホフの「真珠を掘り出す」といふ言葉には、此の意味が含まれてゐはすまいか? この博くやさしい気持こそ、チエホフをして徐々としかも確実に――この英吉利人の言ひふるした言葉を私はあまり好まぬ。随分プホザイクで金儲専門の商業に似てゐるが――文学世界を征服させつつある魅力の源泉だ。一切の荒々しさや、悪どさや、猛々しさは畢竟するにその持主の叡智の不足か、もしくは気禀の狭浅を示してゐる。私は折々憤怒し易く、憎悪し易い性質の天才をも尊敬する。たとへばゲーテを一生憎み通した同じフランクフオルト生れのビヨルネの「巴里からの書簡」またはその中で、ツルゲーネフを小酷くやつつけてあるドストエフスキーの「悪霊」をも、どうして重んぜずにゐられるだらう。だが、怒りに燃えた場合のビヨルネや、猜疑に昂奮した場合のドストエフスキーは、われわれを――小さく、貧しく、恒に此の人生に面していぢけてゐるわれわれを抱いてもくれず、富ましてもくれず、また希望に充たさせてもくれない。寧ろ偉大な人格の憤怒の姿は、却つてわわわれをいぢけさせ、貧しくさせ、せせこましい排他的気分にさへ誘つてしまふことがある。私はドストエフスキーを、偉いなる人間であるとは信じてゐるが、しかもその作品が全部人間の未来に約束されてゐると感じることが出来ないのを悲しむ。それに引かへて、チエホフの全製作は、十が十まで、五が五まで、それがいかに小さい分量のものでも、五枚しかないものでも、測るべからざる人間の深さと、美しさとを、われわれに暗示せぬものはない。ある人達はチエホフの静かさを弱さと誤解し、量の少なさを質の貧しさと誤認し、正確な、たぐひない美しさを、デコデコでないから、悪どくないからの故を以つて無魅惑なりとしてゐる。禍ひなる哉! 強い弱いで言へば彼なぞこそ無比の強人である。無比の強人であればこそ、彼はひとりであることすら歎きもせず、怖れもしなかつた。彼は次兄ニコラーイ――絵描きになりつつあつたニコラーイに若き時語つてゐる。「あなたは始終公衆が自分を理解しないと言つて私に訴へる。ゲーテやニユートンは訴へなかつたではないか。キリストだけは訴へたが、しかし自分を理解しないからと言つてではなく、信条を理解しないのを歎いたのだ。公衆はあなたを十分理解しますよ。もしあなたが、あなた自身を理解しないのなら、それは彼等のあやまりではない」この毅然としてしかも物静かな覚悟は、寧ろ東洋的なものを含んでゐる。私はよく曠野に旅して、雑木の中に朗らかな花を見せた花木を眺めると晩唐李群玉の詩を思ひ出す――それは、水蝶厳峰倶不知、露紅凝艶散千枝、山深春晩無人賞、即是杜鵑催落時といふのであつたが、この詩から東洋風高人の姿を充分に彷彿させることが出来、此の種の心意気を真人の至極境として尊敬するのである。さればこそ、チエホフは一切の強調された主張に対しては静かに微笑した。「私は汽車や汽船の中で、ニイチエのやうな哲学者と出逢ひ、そして一夜を語り明かしたいものだと思ふ。だが、あの人の哲学は永持ちのしないものらしいです。あれは納得の行くものといふより、華やかな見ものだ」といふ意味の言葉を、アヴイロフ夫人に対して語つてゐる。チエホフの穏かな唇は決して嘲笑は浮べない――しかし、やさしく微笑む。恐らく彼が若し昂奮した天才と――ニイチエに限らず――出逢つたなら、とつくりと相手の熱烈な言葉に耳を傾けたあとで、「お疲れにならぬやうに――その立派なお考へが御自分の胸の劫火の火炉の中で、おのづと焼け亡びてしまはないやうに――」と心の中に無限のいたはしみを以つて撫でさすつたであらう! そして天才ならぬ凡人の労役と、生苦とに悩やむものに対しては――「ああ、さぞ辛いでせうね、人生は苦しいものです――だが、私達の此の苦しみ、それは決して無効なものではない。私達が汗水を流して植えた一本の木は――椎木の林はあの禿山を豊かに飾るでせう」とやはり無限のいたはしみを以つて慰さめ励ましたであらう! この慰さめや励ましは、出鱈目の世辞ではない――成程チエホフの人生観は、悲しむべく苦しむべき此の現実世界に生きた彼である故に、いたずらに明るいものではなかつた。多くの批評家が言ふやうに、憂鬱暗憺たる一面を持つてゐた。しかし絶望の深淵に自らを陥れて、浮む瀬もない暗黒にのみ生きるには彼の智恵はあまりに澄み切つてゐた――チエホフをかなり早く日本に紹介した、前田晁氏も引用してゐるが、彼は晩年ヤルタで、クープリンに逢つた時、「此処は以前石と薊とで蔽はれた荒地であつたのですが、僕が来てから開墾して、こんな美しくしました。もう二三百年も経ちましたら、世界中がみんな花の咲き乱れた花ぞのになりませう」と語つたといふ、前田氏は、これは字義通りに取るべきではなく、絶望的な人生に対する一種のアイロニイであると言つてゐるが、私はさうとは考へぬ。その期間が二百年であるか二千年であるかは知らぬ――しかし、早晩人間生活が改善せらるべきものであり、自分達の労苦はその未来に対する捨石であるといふ観念は、新芸術の天才達の胸の祭壇を照らす光明であらねばならなかつた。――チエホフは決して絶望の極、血を吐いて死んだ人間ではない。彼は日本では多少ナチユラリストに謬まられてゐる形である。日本ナチユラリストは、殊更人生は暗黒であるといふ例証を芸術に求めて、絶望に昂奮してみたいといふロマンチシズムに囚はれてゐた――で、チエホフも一種の絶望家の如く謬り伝へられた場合もある。これ等の謬見は機会ある毎に打破されねばならぬ。人類の歴史を通じて偉いなる、又は正しき、または良き気禀を抱いた人物は、たとひ自殺者、もしくは不慮の死を遂げたものと雖も、人類の未来に絶望はしなかつた。それは狂熱した信仰家でなくとも、ソクラテスのやうな不幸な被殺者にしろ、牢番のすゝめた毒盃を微笑を以つて傾けた刹那、彼自身――即ち人類の勝利を未来に於いて信じたればこそ、安んじて死を迎へたのであらう。肉は死ぬ――だが魂は死なぬ。これは単なる迷信、または「言葉」ではない。それは精神に於いて人は人へと生き、自分は永久に延長されるからだ。ここに個人が一般人類の福祉に寄与せんとする意志の根がある。ツルゲーネフは「ルウヂン」の中にルウヂンに対して「真理」とは何だ! つまらん妄想だ。口惜しいと思ふなら出して見て貰ひたい――と放言する偏熱狂的《モノマニヤツク》な実際主義者を描いてゐるが、たとへばへーゲリズムなどが流行した後では、こんな人間の存在も多少は諷刺的意義を有するであらう。しかし、人間の精神は近代に於いてもやはりかうした暴言を許さない。神聖性は完全に偶像からは奪ひ去られたけれども、神聖なるものは新しい力で、われわれの内奥に目ざめて来た。この信念を抱き得ずして何が文学であらう! 否、生活であらう! 若しチエホフがトルストイのやうな気禀の人物であつたら、人類の未来への希望と信念とを「叔父ワーニヤ」の中で村医者の口から語らせたりなぞはせずに、堂々たる論文または宣言にして全世界に頒布したであらう。けれども彼は、彼の純朴性からあらゆる誇大な、強迫的なものを嫌つた。彼はトルストイの小説をば好いたが、堂々好みに対しては少なからずおぞ毛を振つてゐた。彼は書いてゐる――「トルストイは人間から不朽性を拒非した。だが神よ! その中にパーソナルなものがどれ程あつたか! をととひ私は彼の「死後」を読んだ。だがそれは、私が軽蔑する「ある知事の妻の手紙」よりももつと馬鹿げた、もつと咽喉の窒るやうなものだつた。世界偉人の哲学なるものに、悪魔よ取憑け! 大聖者たちはみんな将軍のやうに専制的で、将軍のやうに粗野で、無智だ。それといふのも罰を受けないといふ特権があるからだ。ヂオゲネスは民衆の顔へ唾を吐きかけた。それに対して後腹が病めぬといふことを知つてゐればこそだ。トルストイが医者達を悪者同然に誹謗して、大問題に対する無智を表白したのも、ヂオゲネス同様禁錮もされねば新聞で叩かれる憂ひもないのを知りぬいてゐるせいだ……」チエホフは「無智」なもの――従つて「粗野」であるもの専制的であるものをば、トルストイの衷に見出してさへ、眉をひそめないではゐられなかつた。チエホフはたゞ「絶対の真実」と正直さとで、彼の見た人生の現実の姿を描き――現実に潜められた「真珠」を掘り出して見せようとした。人間の痴かしさを叱りつけずに、その痴かしさを民衆ともども自分も乗り超さうと努めた。ツルゲーネフは露西亜インテリゲンチヤの典型を描いては見せたが、その病所が、いかにすれば救はれるかを訓へはしなかつたやうに見える――自分も彼等と共に苦しんでその病所を乗り越へやうとまではしなかつたやうに見える。しかしチエホフはそれをした。彼はたとへば「わが妻」の中で饑饉に悩む百姓達の救済に焦心しながら、しかもインテリゲンチヤの特徴に縛られて、徒らにその救済の方法や、結果の善悪について思ひ煩らつて実行に移ることの出来ない学者を主人公にしてゐるが、主人公にはあまりに無考へに見える美しく若き妻のナターリヤは、衷心良人の不実行で、不尊にのみ溺れてゐる性癖に愛憎をつかして、独逸種の医者リベルを相談相手に、どしどし実際的救済に突進するのである。そしてたうとう妻の人間らしい熱情が、良人を打負かすまでの夫婦の苦悶を物凄いまでに正確な筆致で彫み上げてゐる此の一篇は、人間を去勢し、無力にする智識はほんたうの智慧ではなく、ほんたうの智慧は各個の人間そのもののうちに隠れてゐること――その智慧をめいめい素朴に生かし抜くことに依つて幸福が恵まれ得るであらうことを語るのである。この智慧がひらめき輝く時、憎みは赦しとかはり、死は生と変容する。よく世の中で、誰れそれは「愛の詩人」だとか、「愛の使徒」だとか言ふが、それはいかなる恋愛詩人、もしくは狂熱宗教家《フアナティツク》よりも、本質的にチエホフに当てはまる言葉だ。で、有名な長篇代表作「決闘」の主要人物科学者コオレンは、うぢ虫のやうに憎んだラエフスキーをたうとういたはる――憎悪のあまり決闘までした弱小な軽蔑すべき生ものにも、人間らしい力が潜んでゐることを発見して、ピストルを曽つて握つた手で握手をする。チエホフが作中人物の中に、人間の進歩と進歩ヘの不断の努力を見出す時、その筆に何とも言はれない歓喜の力が宿る。現世の穢れと擾れとに精神的に死滅しつつあつた人物が、ある機縁と冒険とから「人間」に復活する時――その死中に活を求め得た作中人物、たとへばラエフスキーのやうな男と一緒に、作者自身もホーツと深い吐息をする。そして作中人物と一緒にかう呟やく――「それはボートを後へ押し戻す……ボートは二歩進んで一歩戻る。しかし船頭は頑固だ。どんな高波にも怖れない。ボートはだんだん進んでゆく。もうボートは見えなくなつた。が、半時間の後には船頭は明らかに、汽船の灯を見るだらう。一時間の後には船の梯を上るだらう。人生でもその通りだ……真理の探求に当つて人間は二歩進めば一歩後戻りをする。だが真理への渇望と頑固な意志とは、一歩一歩前進させるのだ。誰が知らう。恐らく彼等は最後には真の真理に到達するのだ。」それ故チエホフの愛する若く美しい男女たちは、不起の病に悩んでゐても、なほ且つ曙の光を讃め、折々すべての旧習の平和を捨てて、ただひとり新生活へと突進する、「許婚」のアレキサンドル・チモフエイツチは、肺病みの美術書生で、明日をも知れない病弱の身を、静かで単調な田舎に棲む大叔母の家に養ひに行くのであるが、その大叔母の孫娘に当るナーヂヤといふ娘の、今にも同じ町の青年と結婚せんばかりになつてゐる「許婚処女」の感じ易い耳に、彼女の智慧を啓くものが首都の大学に、彼女を待つことを囁やく。生活の暁に立つて未知に戦のくナーヂヤは、智慧にあこがれて、病青年の啓示のままに許婚者を捨てて――一切の田舎町の平和と愛を、古いしつとりとした邸宅や、教会堂や、祖母や、母親をも捨てて大都会の渦の中へ飛び込むために家出をする。やがて病める者は死に、彼女の智慧は大学でも、さう急には啓いてくれないのがわかる。けれどもチエホフは、それを青年やうら若い処女の軽はずみとして責めはしない。チエホフは彼女の未来を見捨てない。これが若し他の作家でもあれば、青春者の「都会病」や「智識熱」の方を責めて、彼等に捨て去られるために荒廃する田舎町や、田舎人の生活を歎くだらう。さうした感傷性に堕ちないところにチエホフの面目がある。彼は、長篇「匿名話」の中では頗る貴族的教養を有する若い大家の、偽の愛を信じて、良人を捨てて愛人の懐ろに投じたヂナイダのために、熱烈な真理と真実とを愛する一青年と共に、大官の「恋の欺満」をあばき、甘たるく豊かな、しかし偽りに充ちた恋の巣を捨てて、遠い旅に上らせてしまふ。旅に上つて彼女は死ぬ――しかしチエホフも、作中の青年も彼女の死を寧ろ、偽りの甘楽の長命よりも優ると信じてゐるのである。そして最も見逃せないのは「許婚」の病画学生も「匿名話」の青年も、ともに女主人公達に恋してゐるわけではないことだ。彼等は、彼女等のために恋をささやかずに、真理をささやく。彼等は彼女等に「恋」の情熱の代りに「真理」の情熱を注ぎ込んでやる。新生活へ突き遣る――チエホフは真の愛はむしろ、残酷に真理を知らしめてやることだと考へてゐるやうに見える。此処に、人としてのチエホフの底の知れない勇気が蔵されてゐる。そして、われわれがいつも彼の作品から、未来への希望と生活の鼓舞とを頒けて貰ひ、人生への愛を深かめさせて貰へる原因も亦、同時に此処に存してをらねばならぬ。私は敢へて言ふ――私はチエホフの衷にクリスチヤニテイの真の閃光を見る――人間の歎きを頒けることを知つて、しかも死をも怖れなかつた最高の慈悲者、最高の真理者の新らしい変容を見る。耶蘇も若々しい哲学者達に依つては、ガラリヤの柔順すぎ、弱すぎる牧者――羊しか飼へない牧者として嘲られた。チエホフも早急な批評家に依つては、彼の静かさと微笑と歎息とのために、その真面目をあやまり解かされるかも知れない。だが彼等の衷なる力は遂にすべてに克つ、チエホフの神の如き芸術は、遂に世界を征服しつくすであらう!
 この小感想の筆者は更らに、数十種の主要作について、個々の評論を試みたかつた。だが、今はこの漠とした覚え書だけに止めて置く。そのうちに早稲田文学社の好意は、より綿密な記述の自由を、筆者のために与へてくれるであらう。

 チエホフ小論 三上於菟吉著「早稲田文学」(大正13年3月号)を底本として電子書籍化。漢字は通用字体に改めた。書肆風々齋
Wikipedia 三上於菟吉
青空文庫 三上於菟吉

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