巖窟王(下 その2)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
写真は、モンテ・クリスト島(Wikipedia から)
巖窟王 : 一五一 愈よ土曜日
愈々土曜日の夕、晩餐會の時は來た、場所は樣々の因縁の有る吹上小路廿八番邸、嗚呼此會を眞に巖窟島伯爵の大仕事の序開きとすれば、何の樣に始まツて何の樣に終るのだらう。
昔ドアンチン公爵は國王 路易十四世の目障りになると云ふが爲に一夜の中に大木の林を切平げ芝生の庭に造り替へて了ツたとの話がある、古來土木の工事で是れほど早く行つた仕事は無い、併し伯爵が此廿八番邸に手入を加へた早さも殆ど其れに匹敵する、門口から玄關から庭木から室室の造作まで唯だ三日許りの間に悉く取替て誰が見ても今までの廿八番邸とは認め得ぬ程にした、書齋も出來た、盆栽室も出來た、球突場も出來た、凡そ贅澤な紳士の別莊として一點の非難を加へる事が無い、併し唯だ二ヶ所だけ少しも手を着けぬ所がある。其れは昔H・N男爵夫人と云ふ素性の知れぬ未亡人が寢間として居た一室から裏庭へ降りる階段までの總體と、蛭峰の手で私生兒を埋めたと云ふ裏庭の其の部分とである、イヤ實は此二ヶ所へも手を着けた、着けたけれども少し變更を加へぬのだ、昔 緋の戸帳の掛ツて居た所へ、其通りの緋の戸帳を掛け、昔芝草の茂ツて居た所へ其通りの芝草を植るなど、若し昔此 寢間と此庭とを知つて居た人が今此の所へ來たならば、其頃の事を思ひ出さずには居られぬ樣に拵へたのだ。
序に記して置くが、此等の仕事一切を任せられて監督したのは家扶の春田路良助である、彼れは伯爵から渡された明細の差圖書を以て三日前に茲へ來た、其れだから此前々日に侯爵皮春博人と小侯爵皮春永太郎とがエリシー街の伯爵の本邸で父子の對面を遂げた時も彼れは伯爵の許に居なんだ、今以て彼の父子の事は知らぬ、のみならず顏さへも見た事が無いのだ、其れから此別邸へ來て以來、伯爵の差圖書と首ツ引をする樣にして綿密に監督し、到々豫定の時間通りに豫定の仕事を仕上げて其の他晩餐に就ての一切の準備をも調へ了ツて爾して伯爵のお出を待つて居た。
午後の五時半に伯爵は茲へ來た、爾して彼を從へて一切の設備を見廻ツた、實に彼れが伯爵に對するは犬が飼主に對するよりは猶ほ忠順である、伯爵の見廻る間、若しや茲が惡いとか彼所が不可とか小言を云はれはせぬかと眞に戰々兢々の状であツた、頓て總體を見終ツて伯爵が「アヽ能く出來た」と下した一語に彼れは初めて重荷を取卸された樣に、ホツト安心の息を吐いた。
六時近くなると玄關に荒々しい馬の足音が聞えた、伯爵は直に出迎へて見ると來客の一人森江大尉である、大尉は打解けた言葉で「伯爵、先日貴方に戴いた此馬は天下の逸物ですよ、今來る道で、一時間に六哩を走ると云ふ段倉男爵夫婦の馬車を追拔き、續いて官房長出部嶺の馬をも拔きました、出部嶺は總理大臣が急使に用ふると云ふ名馬を借てゐますけれど此馬の樣な輕足は出ないのです」と滿面に嬉しさを湛へて居る、抑も此馬に就ても一場の竒談がある、餘事ながら是も序ゆゑに茲に記して置くが、此時より一週間ほど前に催された競馬倶樂部の秋期競爭に誰の持馬とも知れぬ馬が出た、番組には「鬼小僧」と云ふ名が附いて居たけれど、何處の牧場で産し、何の樣な快速力を持つて居るか巴里中の博勞にさへ一人も知る者が無い、見物は勿論審判者までも怪しんで居るうち、愈々出場と爲ると、十六七の男裝した女では無いかと疑はれる華奢な騎手が之に乘り、名高い駿馬のみの一列を追拔いて、金牌を初めとして、當日第一等の名譽ある大賞品を占斷した、滿場の驚きは云ふ迄も無かツたが、見物の中に一人、最も尊敬せられる某貴婦人が居て、深く贔屓の心を走され特に「鬼小僧」の騎手に逢ひ度いと所望された、けれど騎手は馬と共に掻消す如く姿を隱し、更に尋ねる由も無かツた、所が其夜、其貴婦人が邸へ歸られて見ると、彼の馬の得た金牌が、呈上品として其許に屆いて居た、實に合點の行かぬ爾して面白い事柄なので、其後此話が上流社會の一の佳話として口から口に傳はツた、けれど翌日になると大抵の人が此事を目下名高い巖窟島伯爵の好謔だらうと言囃す事になつた、伯爵で無くて誰が此樣な名馬を持ち得た賞牌を惜氣も無く人に與へなどするものか、殊に一人、確に伯爵の仕業と見破り得た者がある、其れは外でも無い彼の野西武之助なのだ、彼れは初めて鬼小僧の名を聞いた時、忽ち羅馬の山賊を思ひ走し伯爵の馬と氣附き、爾して更に華奢な騎手の顏を見て其身が戒食節の終後の夜に美人と思ふて馬車に同乘し、胸の邊りへ短銃を差し附けられた其の少年である事を知つたのだ、此の一條の事件の爲にも伯爵の名が高く爲つたは勿論であるが更に本統の事を云へば此の武之助の推量さへも未だ事實を盡しては居ぬ、實は巖窟島伯爵が自分の大仕事の運動の爲に駿足の馬を幾頭も要するので兼て鬼小僧へ馬の周旋を命じて有る、即ち此馬も彼が伯爵へ遣ひ物として寄越したのだが、丁度競馬の前日に此の巴里へ着いた爲め、彼れは幸ひに其の駿足な事を事實の上に證明して伯爵のお目に留まらせて樣と思ひ、假りに「鬼小僧」と名を附けて競馬に出したのだ、伯爵自身は其時までも知らなんだのだ、併し此樣にして得たものを喜んで我物としては鬼小僧の出過ぎた振舞を奬勵する樣にも當るから、金牌は此馬の勝利を喜ばれた貴婦人に贈り、馬は兼て駿足の得難いことを嘆じて居る森江大尉に遣つて了ツた。
其れは扨置き、森江の嬉しげに云ふ言葉を聞き伯爵は、「フム其れでは出部嶺や、段倉夫妻も程無く來ますね、シタガ蛭峰氏には遭ひませんでしたか」と問返した。
巖窟王 : 一五二 掌中から何か紙切
森江は答へた「ハイ蛭峰氏には遭ひませんでした」肝腎の此會へ蛭峰が來なくば大變であると巖窟島伯爵は氣遣ふた、併し能く思へば昨日 那の通り釘を打つて置いたのだから來ぬ筈は決して無い、森江「併し伯爵、猶だ約束の時間より五分ほども早いではありませんか、刻限には佶と來ますよ、唯私丈は馬の駿足を試し度くもあり且又誰も來ぬ間に貴方へお話し申し度い事があつて、其れで此通り急いで來たのです」伯爵「エヽ私へ話し度いとは」森江「ナニ、私の妹と其の夫江馬仁吉が、毎日の樣に貴方の事ばかり言暮してゐますから、何うか此後ともお暇のある毎に必ず尋ねてお遣り下さる樣に願ひ度いのです」是れ伯爵に取つては願ふたり叶ふたりと云ふものである、伯爵は江馬仁吉夫婦の家を此世に唯だ一つの清淨な家庭と爲し今までも折さへあれば尋ねてゐる上に、猶ほ此後も爾う仕たいのである、伯爵の顏には嬉しげなる笑が見えた「其の事ならば私の方で望む所だとお傳へ下さい」
言葉の纔に終る所へ又二頭の馬が着いた、是は出部嶺と砂田伯である、二人が馬を下るが否や又着いたのは段倉夫妻の馬車である、之には先頃伯爵が一旦買取つて直に返した彼の栃色の馬二頭が附いてゐる、此馬車が止まると見るが否や出部嶺は直に其窓に近づき手を出して段倉夫人を之に縋らせた、夫人は縋りつゝ誰にも知さず自分の掌中から何か紙切の樣なものを出部嶺に握らせた、其の技の早い事は全く誰の目にも留まらなんだが、唯だ巖窟島伯爵の烱眼のみには見て取られた、伯爵は竊に點首いた「アノ早い所を見ると兩人の間に永く仕慣てゐる事と見える、現在夫の目の前で仇し男と平氣で密書の遣取りをするとは、爾だ此樣な不義の樂しみが持つて生れた彼の夫人の癖かも知れぬ」夫人に續いて段倉男爵も馬車から出た、彼の顏色は毎も赤味ばしツて活々してゐるのに、今日に限つて殆ど土の樣である、其の仔細は問ふに及ばぬ、昨夜から今日へ掛けて、運の神、將た福の神たる自分の妻の爲に株式市場で二百萬圓からの損を蒙らされた爲である、實際の損は二百萬圓でも、彼の西國公債を賣らずに居たなら確に二百萬圓儲かる所で有つたのだから、其取逃がした儲けを加へると四百萬の損である、何れほど豪い相場師でも一朝に四百萬圓の損は顏色に現はさぬ譯に行かぬ、況して段倉の如き既に充分の位地が出來て、公債と云ふ樣な手堅い物の買占にのみ着手し最早相場師と云はれにほどに手を締め極確實に遣つて居る者の身に取つては、殆ど囘復の道の無い大打撃である。
伯爵は氣味能く思ふ心を隱して彼れを迎へた、爾して是より此人々に、盆栽室から美術室などを示したが、全く伯爵の富の度には誰も驚かぬ事は出來ぬ、壁に掛けた一枚の畫と雖も、床に飾ツた一塊の置物と雖も、皆其れ〴〵に有名な來歴が有ツて、或は朝廷が所望したけれど持主が手放さなんだとか、或は餘り高價の爲に博物館が買入れ得なんだとか云ふ如き品のみである、一應是等を見終ツて、客室へ歸ツた時、取次の聲として「皮春侯爵及び皮春小侯爵がお見えに成りました」と聞え、聲と共に金色燦然たる勳章四五個を胸に飾ツた剛ない老軍人と紅顏の一美少年とが入つて來た。
伊國の古い貴族名鑑を見た人なら、誰も皮春と云ふ一族が何れ程に舊家であるかは無論知つて居る、一同は此名を聞いた丈で多少の尊敬の念を生じた、中に段倉は伯爵に向ひ「皮春とは伊國の皇族から出た家筋だと云ひますが財産は何うですね」と問ふた、伯爵が聊か嘲る樣に「伊國の貴族には貧乏が附物では有りませんか、歳入が纔に五十萬圓ですもの」歳入五十萬圓の貧乏とは驚く可しだ、大金滿家と自信して居る段倉自身よりも富んで居る、段倉は胸に思ふた「フム此伯爵が、斯う嘲る樣に云ふ所を見ると、必ず財産に於て此伯爵と雄を爭ふほどの敵なんだな」、と爾して又問ふた「何の爲に此巴里へ來たのでせう」伯爵「生意氣に金を使ひに來たなどゝ云つて居ます、ナアニ親代々の儉約家ですもの、使ふと云つたとて、幾等使ひますものか、併し彼れの財政上の事は私より貴方が能く知つて居ませう、一昨夜私が逢つた時、段倉銀行を指定されて居るが確實だらうかなどと聞きました、其だから私は今夜貴方が爲に彼を招いたのです」傍に居た段倉夫人は浮氣な性分の常と見え「アノ小侯爵と云ふ方は大層美しい方ですねえ」伯爵「ハイ彼は此國の學校で先日まで修業して居たのですから爺よりは幾等か金を使ふ道も知て居ませう、何でも巴里で妻を搜すのだ相です」段倉夫人「アレ先ア小子爵より餘ツぽど男が好いでは有りませんか」小子爵とは自分の娘夕蝉の婿として見立てゝある野西武之助の事である、早や武之助より此永太郎に乘替へたい心を起したのかも知れぬ、伯爵は腹の中で滿足に堪へぬ「兎も角も小侯爵の肩書丈けで、諸所の令孃逹に目を附けられませうから、一月と經たぬうちに令夫人の候補者が一ダース位は出來ませう」と煽り立てる樣に云ふた、此時又も取次の聲が聞えた「蛭峰氏及び令夫人がお見えになりました」
巖窟王 : 一五三 荊の路、針の蓆
全く蛭峰と其妻との馬車が着いた、客一同は玄關の方を見た、此時其の馬車より出る蛭峰の顏は、先刻段倉の顏の青かツたよりも更に青い、殆ど幽靈の樣に見える、アヽ彼れは廿年目に我が舊惡の地を踏むのである、人に疑はれまいと思ふだけ益々心が萎縮けるのだらう。
巖窟島伯爵は、此状を見て思ふた「此樣な所になると、男より女の方が餘ツぽどズウズウしい、女は未だ顏色さへも變へずに甘く瞞かして居る」女とは誰を云ふのか讀者には略見當が着いて居やう、兎も角も是で客の數は揃ふた、段倉夫妻、蛭峰夫妻、皮春侯爵父子、砂田、出部嶺、森江之に主人伯爵を合せて十人の晩餐會である、何しろ伯爵の催しだから定めし馳走の獻立も亦非凡だらうと、一同は竊に食堂の開くを待ちつゝ思ひ〳〵に或は窓より庭を覗き、或は打群て雜談などする間に、伯爵は一寸と次の室に退き家扶春田路を呼び寄せた、爾して彼に向ひ、何氣も無き小聲で「食堂の用意は好いのか」春田路「ハイお客の數はお揃ひに成つたでせうか」伯爵「揃ツたか揃はぬか自分で數へて見よ、己を除いて九人だと言つて置いたぢや無いか」言葉に應じて春田路はソツと座敷を覗いたが、忽ち顏の色を變へて「アヽ那の夫人、那の夫人」と、打驚いて身を退いた、伯爵「何だ那の夫人とは、何を其樣に驚くのだ」春田路は猶も驚きの鎭まぬ聲で「アノ大層 華美に着飾つて、柱の傍に立つて居る那の若作りの夫人です、那れが昔此家に居た姙娠の未亡人です、私が此家の庭から掘出して育てたと先日お話し申しました辨太郎の母親です」と段倉の妻を指さした、けれど伯爵は驚かぬ、充分爾と知ツた上に唯だ念のため春田路に見させたのだ「餘計な事を云はずに先づ一々數へて見よ」春田路は再び首を出して見直した上、「彼は確に私の短劍に仆れましたのに、其後で蘇生したのでせうか」伯爵「春田路、コルシカ人の復讐は肋骨の六枚目と七枚目の間を刺すに極つて居るにの、其方は手練の足らぬ爲め外の所を刺したのだらう、其れだから彼が生返ツたのだ、其れとも其方が刺したと思ツたのは、或は疲れ寢の夢で有つたのかも知れぬ、サア早く數へぬか」
春田路は三たび首を出して數へたが、最後の九人目に到り、今度は殆ど尻餠を搗かぬ許りに飛び退ツた、「人間 業では有りません天運です、天運です」伯爵「其方は何を云ふのか」春田路「辨、辨、辨太郎が彼處に居ます」伯爵「小侯爵皮春永太郎君を辨太郎などと無禮な事をいふな、客數が滿ちて居れば、早く食堂を開く樣に差圖せよ」
廿年前の同じ家に、同じ密夫と密婦而も此間に出來たる同じ私生兒の辨太郎まで茲に揃ふとは春田路の目に天運の循環と見えるのも無理は無い、けれど彼は伯爵に對して犬よりも從順である、食堂を開けといふ嚴かな命令に返す言葉も無く縮み込む其のまゝ引下つた、後に伯爵は再び客の間に出たが、是より五分間ばかりを經ると又も春田路が閾の所へ現はれた、彼は必死の想ひで自分の心を制して居ると見え、確では有るけれど少しも餘韻の無い聲で「食堂が開けました」と報じて去つた、伯爵は其 躬親ら直ちに蛭峰夫人の手を引き「サア皆樣食堂へ參りませう」といひ、特に蛭峰に向つては「サア蛭峰さん、貴方が段倉夫人の手を引てお上げ成さい」蛭峰は身震ひしたけれど、無言で其言葉に從ふた、アヽ當年のH・N夫人、同じ密夫の其人に手を引かれて食堂に歩み入るとは、引く人、引かれる人、共に何の樣な想ひがするだらう、荊の路、針の蓆とは、此樣なもので有るまいか。
巖窟王 : 一五四 食堂
食堂に入りても矢張り蛭峰と段倉夫人とを並べて据らせた、爾して巖窟島伯爵は絶えず二人の顏色を讀む事の出來る樣に、其の前に座を占めた。
勿論食堂の贅澤は云ふの及ばぬ、何一つ來客を驚かさぬは無い程であつた、其中で一例を記せば、獻立の中に露國のオルガと伊國のフサロ湖より外では得られぬ魚があつた、露國産の方は世界の食物通を以て自任する砂田伯が看破し、伊國産の方は皮春侯爵が心附き、何うして其の樣な遠國から取寄せたかと客一同の大疑問とは成ツたが伯爵は直に給仕長を呼び、二個の大樽を客の間に擔ぎ出させた、樽の中には猶だ雙方の魚が雙方の湖水の特種なる藻と共に活活して泳いでゐる、伯爵は説明した「一個の樽に八人の人夫が係ります、露國の方からは十二晝夜、伊國の方からは四晝夜、二時間毎に人夫を取替晝夜の別無く急がせて取寄せました、幾等此魚が強くても樽の水では二週間以上活きてゐる事は出來ません」客一同は返事が出なんだ、唯だ九人の客の爲に爾まで手を盡す贅澤は歴史の上にも曾て無い、更に伯爵が「ナニ是れは皆樣の爲に故々取寄せた譯では無く、常に私は自分の膳に上る品を世界の各地から取寄せてゐるのです」と言譯するに及んで食物道樂の砂田伯は埀涎萬丈と云ふ景状で「其れ許りは羨ましい」と嘆じた。
必然の結果として話は伯爵の贅澤を襃立る一點に集まツた「イヤ若も伯爵の命令が其の下僕に行はれる樣に裁判所の命令が快速に行はれたならば、私は世の中に罪人と云ふ者を一人も無い樣にしてお目に掛ますけれど」といつたのは蛭峰である「此のお座敷の工事などもドアンチン侯爵以來の早さでせう、何でも三日か四日の間に修繕を成さつたと思はれます」之は出部嶺の口から出た、砂田伯「何から何まで嘆服の外は無い、實は私も此家を、數年前に持主の米良田伯が賣物に出したと聞いた時、買ふ積りで見に來ましたが、餘り荒れてゐて化物でも出るか、或は舊い犯罪でも潛んでゐるかと疑はれる程でしたから匆々に立去りました」偶然にも舊い犯罪との語が出たので蛭峰の顏を異樣に曇つた。
「オヤ此の邸の持主は米良田伯でありましたか」と問ふたのは森江大尉である、米良田伯ならば自分と思ひ思はれてゐる蛭峰華子孃の母方の祖父に當ると知つてゐるから何と無く聞いて見たいと見える、伯爵「イヤ一切家扶の者が買取の手續きを濟ましたので私は誰が持主だか今までも知りませんでしたが、扨は米良田伯でしたか」と蛭峰に向ツて問ふた、蛭峰は詮方無く「ハイ實は米良田伯が私の娘華子の婚資の一部分に充てよとて私へ托してありましたが私も更に公證人へ托して置きましたから、誰が買取つたのか知りませんでした、併し華子の婚禮も愈々近く成りましたので、私は買手の有つたのを喜んで居たのです」今度は森江大尉が顏色を變へた、華子の婚禮が近づいたとの一語に、全く口さへ開けぬ事になツた。
砂田伯は猶も犯罪論を繰返して「確に私は幽靈の出る家だらうと思ひました、若し大檢事の嶽父の持家で無かツたならば誰とても此家に犯罪の有つたのを疑ひますまい、其を何うも斯まで陽氣な家に作り替て了ふとは益々伯爵の手腕が分るでは有りませんか、ねえ、蛭峰君」犯罪論は全く伯爵の手際を引立たせる爲の下染であツた、蛭峰は返事が出ぬ、彼の夫人が之の答へて「爾ですとも、伯爵のお手が障れば犯罪の場所でも幽靈の家でも直に極樂園の樣になります」
話の中に晩餐會は終り、更に席を他へ移す可き時とは成ツた、伯爵は今の話の緒口を把らへて「イヤ私とても買取つてから初めて見た時は、犯罪だか幽靈だか孰れにしても深い因縁の籠つて居る家だらうと云ふ樣な氣が致しました、其の中にも一個、貴婦人の寢室にでも用ひたかと思はれる室がありますがね、緋の帳が埀れて居まして、何んと無く凄い樣な感じを走させます、餘り不思議ですから私は他の人も其室を見れば同じ感じがするだらうかと思ひ、元の儘にして手を着ずに置いてありますが、今夜は皆樣に其室を見て頂きませう」といひ、更に蛭峰に向ひ、貴方は此家を托されて居たとしても御自分で見た事はありますまい、犯罪には始終直接なさる御職業ゆゑ、其室を見たとても吾々の樣に、異樣に神經を騷がせる樣な事はありますまいけれど先づ一緒の御覽下さい、イヤ段倉夫人も共々に、サア皆さん行きませう」一同は伯爵の後に隨つて座を立ツた、唯だ蛭峰と段倉夫人は宛も其席に釘附けにせられた状である、異樣に恐れを帶びた眼で互に問ふ如く顏と顏を見合せた。
巖窟王 : 一五五 罪の深い或品物
顏見合せた段倉夫人と蛭峰との心持は何の樣だらう、眞逆に伯爵が自分等の舊惡を知つて故と自分等を其舊惡の室へ連れて行く者とは思はれぬけれど、家中の室を悉く見違へる程に作り直しながら唯だ其舊惡の室のみ殊更に昔の儘に存してあるとは、偶然にしては餘り異樣だ、夫人の方は終に細語いた「餘り妙では有りませんか」實に妙だ、併し蛭峰の方は氣が確だ「恐れる状を示して疑ひを招くは愚の至りです。何事もありますものか、サア行きませう」とて大膽に夫人の手を取り、此室を出た。
室の外には猶ほ伯爵が待つて居て、恭々しく此二人を遣過ごして後に立ツた、伯爵の顏には笑が浮んで居る、此笑を二人は唯だ伯爵の愛嬌の外に猶意味のある事を看破し得たなら、二人とも身振ひする所だツたかも知れぬ、頓て一同は彼の室へ集ツたが唯だ段倉男爵だけは彼の皮春侯爵を連れて喫煙室に入ツた、其の仔細は彼れ早や此の侯爵を驚く可き金滿家と見て、特別の懇意を結び資本を引出さうと言ふ目算なのだ、其の説く所は侯爵の領地だらうと思はれる伊國のフロレンスからレグホン港へまで鐵道を敷く計畫である「此鐵道を布けば、株だけでも餘ほど儲かります」と言ふのが彼れの聲で「私は金を儲ける事は面倒で嫌ひです」と答へるのが侯爵の聲だ「侯爵は伯爵の差圖を能く呑み込んで仲々旨く掛引して居る、言葉も行ひも最早金といふ事の必要を感ぜぬほどの大金持らしい、段倉は益々勉める許りだ。
此方の室では客一同が「成るほど陰氣な室ですねえ」とか「室總體に何だか歴史的の趣味があります」とか甘く伯爵に相槌を打つて居るが、唯だ蛭峰と段倉夫人のみは無言である、無言も道理や餘りの事で聲が出ぬのだ、室の中に唯だ茫乎と一個の燈火が點ツて居る、是れが昔蛭峰とH・N夫人の姿を照らした蘭燈である、置かれた場所までも同じ事だ、爾して壁には、何の飾氣も無いが二個の繪額が掛ツて居る、是れも昔のを其儘だ、伯爵は此額を指して「此室の中で何の樣な事が有つたか、其れを見て居たのは此額の中に人物のみでせう、名覽なさい此人物の顏が何だか『隱したとて己が知つて居るぞ』と云ふ樣に見えるではありませんか」と、特に段倉夫人の方に向ツて云ふた、夫人は蛭峰と共に知らず〳〵逡巡して閾の外に出た、茲に至つては「恐れる状を示して疑ひを招くのは愚の至りです」との約束も其功が消えたと見える。
伯爵も身を轉じて外に出た「併し皆樣、室の中の陰氣なのは此の裏梯子に及びません、時々茲から忍び男でも出入した樣に見えるでは有りませんか」忍び男を聞いて、今度は段倉夫人のみか蛭峰の顏まで變つた、出部嶺や砂田伯などは何事とも知れぬけれど唯だ伯爵の言葉に釣込まれ「左樣さ、何うしても忍び男の出入道です」と砂田伯がいへば「爾すると今の室には何々夫人といふが閉ぢ籠つて居た樣に思はれます」と出部嶺はいふた、伯爵は又段倉夫人に向ひ「貴女は何とお思ひです、若しも忍び男が夜の夜中に、罪の深い或品物を小脇に挾み、神に隱すことは出來ずとも人目にだけは見られまいと、大事を取つて一段づつ此梯子を降つたと想像すれば、何だか其の状が目に見える樣ではありませんか、今も其の忍び男が此邊に居る樣な氣が致します」
夫人は聞くに堪へ得で、重く蛭峰の腕に仆れ掛つた、面色は土の如しである、氣絶では無いけれど殆ど氣絶の際に逹したのだ、第一に驚いたのが出部嶺である「段倉夫人、何うか成されましたか」夫人は必死の想ひで身を引起し、「イヽエ、少しも、少しも」と元氣を示した、蛭峰は矯める樣に伯爵に向ひ「貴方が餘り氣味の惡い想像話を成される者ですから -- 」伯爵は詫入る樣に「之は全く濟みませんでした、イヤ段倉夫人、何も此梯子を忍び男のみが上つたと云ふでは無く定めし醫者だの看護婦なども上つたでせう、生れた許りの可愛い罪の無い赤兒も此梯子から抱卸されたでせう」赤兒の一語は、纔に殘つて居た一縷の生氣を段倉夫人から奪つて了つた、夫人は全く氣絶した。
巖窟王 : 一五六 此伯爵は大變者
段倉夫人は全く氣絶した、何故の氣絶だらう、其仔細を知る者は蛭峰と夫人自身を除いては巖窟島伯爵の外に無い。
伯爵は直に蛭峰夫人の傍に寄り小聲で「先日差上げた氣附藥をお持ちではありませんか」と問ふた、氣附藥とは即ち毒藥である、極少し用ふれば直に人を活し、聊か餘計に用ふれば、忽ち人を殺すとは伯爵が曾て此夫人に説明して與へた所である、女の身として宴會の場所にまで斯る危險な最劇藥を持つて出るとは、餘り尋常な事では無いのだから、若しも伯爵が「貴方は先日の毒藥をお持ではありませんか」と問ふたなら、夫人は直に「否」と拒む所だツたらう、唯だ「氣附藥」をと、而も小聲で聞いたから「ハイ持つて居ます」と答へた、併し此答へも聊か極り惡げで有ツた、若し小聲で無く、人に聞える聲だツたら矢張り「否」と答へたかも知れぬ、伯爵は斯る際疾い忙しい際にさへも此蛭峰夫人が何れほど彼の毒藥を珍重して居るかを試驗し、胸の中に頷いて直に其の小さな瓶を受取り、其の藥を盃の中に唯だ一滴落して、瓶は直に蛭峰夫人に還し、藥は氣絶して居る段倉夫人の口に注いだ。
其の效目は驚く可しだ、段倉夫人は直に呼吸を吹返した、けれど恐れは猶ほ其の心中に徘徊して居ると見え「オヽ恐ろしい、恐ろしい、何だか夢の樣に」と叫んだ、若しも此の半は正氣半は夢の樣な状態で昔の事を口走りでもせられては大變だと驚き懼れたは蛭峰である、彼れは遽だしく夫人の肩を搖すぶツて「段倉夫人、夢では有りませんよ、氣を確に、貴女の良人段倉男爵もお出ですから」と引立てた、引立るのは實は豫防である、夫人は猶も震へる聲で、「爾でしたか、私は又昔の -- 」アヽ昔の事を語られて耐るものか、蛭峰は必死である、直に此夫人を何處か人の居ぬ所へ連れて行かねば安心ならぬ、頓智に長けた彼れは叫んだ「新しい空氣、空氣、早く新鮮な空氣を呼吸させて上げねば」此の口實で夫人を庭へ連れて出る積りである、併し巖窟島伯爵の頓智は更らに其の上を越した「新鮮な空氣ならば蛭峰さん直に貴女が其の儘庭へ抱いて行つてお上げ成さい、此の裏梯子を降れば直に庭ですから」蛭峰は此語に從ふ一方である、詮方無しに蹌踉く夫人の肩を扶け、數々の因縁有る彼の裏梯子を降ツて行つた。
是を竒觀と云はずば何をか竒觀と云はう、廿年間の密夫と密婦、今は全くの他人でありながら手を引き引かれて又も其の昔降ツた梯子を昔の通りに下るとは縱し天の配劑にしても斯うまで竒妙に行く者でない、伯爵の心の中の滿足は何の樣だらう、直に伯爵は續いて其の梯子を降ツた、他の客も亦降つた、中に砂田伯は、笑談で此騷ぎの熱を消すのが客たる者の義務で是を交際術の奧の手とでも思ツたと見え最と快活な聲で「イヨー蛭峰君が爾して降りて行く所は、今伯爵の話された忍び男の影に能く嵌まるぜ、出部嶺君爾では無いか」と打笑ツた、此聲が蛭峰の耳へは何の樣に響いた事やら。
愈一同が裏庭には出た、此時は早や蛭峰が夫人の耳へ何事をか細語いたと見え、夫人は確に足踏〆めて立つて居る「誠に皆樣をお騷がせ申しました」と立派に挨拶をさへ述べた、是だけで最早や伯爵が今夜の此宴會の目的は充分に逹した筈であるけれど猶だ一つ聊か逹せぬ所が殘ツて居る、若し是だけで止めては佛作ツて魂を入れぬ樣な者である、伯爵は其の魂を入れる積りで私かに折を待つて居ると、客一同は代る代る段倉夫人の前に行き劬はる樣な世辭なぞを述べ初めたが其中に又砂田伯は「イヤ夫人が神經をお動かし成さツたのだ道理ですよ、如何にも此家には一方ならぬ陰氣な所が有つて、此庭さへも、表庭の陽氣な状に引替へ、何となく陰鬱です、斯う云つては主人公へは失禮か知れませんけれど、男子でさへも少し胃の重い時には自然と物凄い感じなどが起ります」全く夫人に成り替はツて其氣絶を辨解する樣な言葉だから夫人も有難相に眼を上げて謝意を表した、蛭峰も心の中で、成るほど交際家と云ふ者は旨く何人にも跋を合せて、八方を取繕ふ者である、と感服したけれど、其の感服は僅の間で有ツた、直に伯爵が其尾に就て茲ぞと魂を入れに掛ツた「イヤ全く砂田伯のお説の通りです、殊に此庭の此邊は何方よりも私が神經を動かします、實を申せば先日改築の爲め今私の立つて居る此木の下を掘ました所、恐ろしい犯罪の證跡が現はれました」犯罪の證跡と云ふ如き非常な言葉は何の場合にも人の注意を引かずには止まぬ、一同は我知らず伯爵の立つて居る所に目を注いだ、伯爵「此の土の二尺ほど底から一個の箱が現はれ、何うでせう其中から生れた許りの小兒だらうと思はれる小さな骨が出たのです」一同は身を震はせた、伯爵「茲は墓地では無いのですから必然犯罪の證跡です、多分は活埋にしたのかも知れません」段倉夫人は再び氣附藥の厄介に成り相に見えて全く蛭峰の手に再び蹌踉き掛つた、けれど客一同は伯爵の足許に目を注いで夫人の状には氣が附かぬ、其間に蛭峰は夫人の手を確と握ツて注意を與へ且つ夫人に細語き告げた「此伯爵は大變者です、明日篤と貴女に話さねば成りません」夫人「爾ですか、何處で」蛭峰「司法省の官房へお出下さい、官房なら誰も怪しみませんから、極めて無難に話が出來ます」司法省の官房を、密夫密婦の密會の場所に用ふるとは、餘りと云へば大膽である、官規も何も有つたものでは無い。
巖窟王 : 一五七 乞食
何か蛭峰は巖窟島伯爵の所爲に付いて思ひ當ツた事でも有るに違ひない、爾無くば此伯爵を「大變もの」と云ふ筈も無く又段倉夫人を司法省の官房へ來て下さいと謂ふ筈も無い、知らず彼は何事を思ひ當ツたゞらう、爾して段倉夫人に密會して何事を相談する積りだらう。
兎に角も彼は是より全く無言の人と爲つた、此席の終るまで多くは人の蔭に身を置き、何氣無く見せ掛けながらも深く物思に沈んで居た、其うちに夜も次第に更け一同の歡は未だ盡きたと云ふでは無いけれど散會の時刻に成ツた、彼は自分の妻及び段倉夫人と三人にて自分の馬車に乘り、段倉は皮春侯爵と同乘した、其外の人逹は銘々に乘つて來た馬に乘り、皮春永太郎は父と共に乘つて來た馬車へ唯一人乘つた。
勿論 孰れも無事に歸り着いたに極ツて居るが獨り皮春永太郎のみは爾ほど無事でも無かツた、彼は宴會の間、成る可く注意して口數を利かず、偶々利けば必ず人に感心せられる樣な事のみを云つて居た爲め、客一同から多少の尊敬を得て、成るほど侯爵の息子ぞと思はれる迄に至り、其上に又、凡そ交際の景状や人々の氣質なども分り、若し此次に此樣な席へでも出れば一入巧に掛引が出來るとの案も略ぼ胸の中に定まツたから大に滿足して緩々と歩み出て、馬車を自分の後に從へて一丁ほども歩んだのは最早馬車にも乘飽きたと云ふ人の樣に見えた、頓て一つの曲り角まで來て馬車に乘らうとすると誰やら背後から肩を叩いた者がある、振向いて見ると馬車の燈に散らりと光る其者の顏と姿が確に乞食らしく見えた、彼は氣にも留めぬ樣に其まゝ乘つて了ツたが、乞食は追縋る樣にして「コレ辨太郎、辨太郎」と呼掛けた、辨太郎とは誰も知らぬ本名だのに、抑も此乞食は何者だらう、小侯爵は馬車の隅に小さく成ツたが、早くも御者が聞咎め「ナニ、己の名は辨太郎と云ふものぢや無いわ、コレ乞食の癖に此深夜にマゴ〳〵して居ると巡査に捕まツて竊盜の罪に落されるぞ」乞食は燈の前に自分の穢い顏を突き出し、宛も馬車の中なる辨太郎に此の顏を見ろと云ふ樣に仕向けつゝ御者に向ひ「おゝお前さんの姿が私の知つて居る辨太郎と云ふ御者に能く似て居たから呼んだのだが -- 」と旨く瞞かし、更に「ナニ私は乘つて居る旦那に用事が有るのだよ、ねえ旦那、此樣な風をして居るけれど乞食ぢや無い、今から二週間ほど前に此旦那から少し探し物を頼まれ、其の結果を報告したいのだよ旦那、旦那、今夜私の報告をお聞き成さらずとも宣いのですか、エ旦那、夫れとも明日お宿へ伺ひませうか」妙に事情を作ツて云ふは一通りの相手で無い、今夜茲で追拂へば仇を復すぞとの意が、御者には分らぬけれど小侯爵には能く分る、小侯爵は止むを得ず調子を合せて「オヽお前だツたか。幾等私立探偵會社の役員にもせよ、乞食の風をして己の馬車へ近づかれては困るぢや無いか、報告なら今夜聞かう」と云ひ、ヒラリと馬車から降りたのは詮方盡きての事と云へ此方も仲々の氣轉である、爾うして乞食を暗い道傍まで連れて行き小聲ながらも少し腹立しい調子で「己に何の用事がある」乞食「用事の次第は緩々話すが、先づ己を一緒に馬車へ乘せて呉れ、今御者の云ふ通り此樣な穢い状でマゴマゴして居ては巡査に捕まる恐れが有る、巴里の市中まで行つて卸して貰はう」乞食らしく無く横柄である、小侯爵は無言で衣嚢を搜し初めた、乞食「ナニ、話の濟まぬうちに小遣錢を貰はうとは云はぬ、お前が馬車に乘れば己だツて馬車に乘度いぢや無いか、同じツーロンの牢の中で、一緒に臭い飯を食つて居たのだもの」斯う成つては何うしても出世して居る方が弱味で、小侯爵は又詮方無く馬車に歸り、御者には然る可き口實を設けて不相應な小遣錢を與へ、酒でも呑んで他の乘合馬車にでも乘つて歸れと云ひ、其の喜んで立去る状を見屆けた上、更に彼の乞食と共に今の馬車に乘つた、乞食は勝誇る樣な語調で「オヽ流石に辨太郎だよ、幼い時には己を叔父さん叔父さんと呼んだ事もある -- 」小侯爵「誰がお前を叔父さんなどゝ云ふ者か」乞食「其樣な事は何うでも好いワ、先ア爭ふまい、エ辨、少しの間に大層出世したなア、お前が出世すれば己もお蔭で樂が出來る樣な者だから、ナニ己はお前の出世を妨げやうとは云はぬよ、コレ辨、辨、何で其樣に恐い顏をする、お前此の毛太郎次が、お前に嫌がられる樣な惡人で無い事は能く知つて居るぢや無いか」扨ては此の乞食が昔の尾長屋の主人である。
巖窟王 : 一五八 年金とは幾等
尾長屋の主人毛太郎次が珠玉商人を殺した事から、其の終に捕はれて終身の獄に投ぜられた迄は春田路の物語に依り讀者の既に知る所である、而も今茲に現はれて來た所を見れば彼何うかして脱牢したのだ。
小侯爵は彼に向ひ「お前は牢破りの罪の有る暗い身で、己を劫らうとは餘り大膽ぢや無いか」毛「コレ辨や辨、お前だツて前科者の癖に、何してだか貴族の仲間へ潛り込んで居るでは無いか、洗ひ立すれば己もお前も五分々々だから互に舊い事は言ひツこ無しにして、牢の中でも折々話合つた事の有る通り、互に助け合はうでは無いか」何うしても毛太郎次に方が一段上だ、小侯爵は默ツた、併し默り切では無い、一方の手で竊に腰の衣嚢の短銃を探ツて居る、毛太郎次は其れと察し手早く隱し持つた庖丁を取出し「野暮は止せと云ふ事よ、己だツて素手で來て居るのでは無いのだから」とて其刄を小侯爵の目の前へ閃かせて見せた、爾して頓て物凄く「ホホヽヽ」と笑つて其庖丁を衣嚢に收めた。
最う小侯爵は彼に意に從ふ一方である、口の中に「惡人」と呟いて、更に「何うすれば好いんだ」と問ふた、毛太郎次「其れはお前の收入次第さ、お前の收入が少しなら己も少しで我慢すると、お前が多く取れば己も多く貰はねば成らぬ」宛で株主の樣な事を云つて居る、「併し辨、お前は何うして斯う出世した、牢を出てから未だ一月と經たぬぢや無いか、本統に感心だよ、何でも己は昔から爾う思ツて居た、此兒は智慧が逞しいから、人並外れた事をするだらう、と其れにしてもコレ辨、何うして出世した、話で聞かせ」小侯爵「本統の父に廻り合つたのさ」毛太郎次「アヽ父に、爾々お前は常に爾う云つて居たなア、何處かに本統の父が居るに違ひ無いから何うか尋ね出して子を捨てた罪を散散に思ひ知らせて遣りたいと、併しお前を斯う貴族社會へ入れて呉れる樣な父なら滿更憎くも無いだらう、誰だ、誰だ、其父と云ふのは」小侯爵「伊國の皮春侯爵だよ」毛「大層立派な父だなア、其れで最うお前の身は生涯食はぐれの無い事に極つたから、己に生涯の年金を呉れ、己も最う取る年だから、仕事をせずに生涯を樂に暮したい」小侯爵「年金をとて何時勘當されるかも知れぬ、お前の樣な者が此通り馬車へ合乘すると分れば直にも勘當せられるよ」毛「だから年金を呉れと云ふのだ、呉れさへすれば決して合乘などの所望はせぬ、お前が勘當せられては己も口が乾揚がるから、成る丈けお前の爲を計るよ、エ辨、お前が勘當されたら其日限りに止めると云ふ約束で己に年金を拂つて呉れ、己は最う眞實惡事が厭に成つた」小侯爵「年金とは幾何」「爾さ月に四十圓」と云つて小侯爵の顏を見、其驚かぬ状を見認めて「爾さ四十圓あれば何うか斯うか暮しは附くが、實は五十圓も慾しいよ、五十圓か六十圓も有れば」と段々顏を見て糶上げ「己は樂隱居の眞似をして毎朝顏を剃つてよ、垢の附かぬ着物を着て、日の暮から大通の珈琲店へ行き新聞でも讀んで、苦なしに日を送るのだ、己も最う其上の慾は無い、爾するには少し又臨時の費用も斯るから月に七十圓と思つて呉れ」四十圓が到頭七十圓になつた、小侯爵は此上の梯子登りを恐れるから直に財布を探つて八十圓取出し「サア是が最初の一ヶ月分だ」毛太郎次「八十圓か有難い有難い今の内は是で足りる」小侯爵「足りても足り無くても其上は知らないよ、來月から毎月初めに己の宿へ來れば執事から拂ひ渡す事に仕て置く」毛「エ、執事、大層お前は貴族らしく成つたなア、だけれど辨や、執事とはお前の雇人ぢや無いか、己はお前と取引するのだよ、雇人には用事が無いよ」小侯爵「では己の手から直々遣らう」毛「爾して呉れ、其中に又口でも有れば何處かの貴族の家へ執事とか家扶とか云ふ樣な者に住み込ませて呉れ」
是れで先づ用は濟んだと云ふ用に彼は馬車の外を見廻したが、最早巴里の町へ入つて居る「オヤ辨、其の帽子を己に貸せ」と云ひ小侯爵の頭から帽子を取り、更に御者臺に在る御者の外套を手早く着て「其では來月又逢はう」小侯爵「コレ〳〵其れを持つて行つては困る」毛「ナニ帽子と外套が無ければ己は巡査に怪しまれるよ、お前は風に帽子を取られたと云へば其れで濟む、御者の外套は新しく買つて遣れ」言ひ捨て彼毛太郎次はヒラリと馬車を降り早や暗に姿を隱した、後に小侯爵は深く感じた樣に「アヽ此世の中には、邪魔者の無い本統の幸福と云ふ者は無いと見える」呟いて且嘆息した。
巖窟王 : 一五九 妻の室に飛で行つた
小侯爵の馬車よりも一時間ほど先に巴里へ歸り着いた馬車が二臺ある、其一臺は蛭峰の乘ツた馬車で、之は先づ段倉の家の前に着き、中に相乘した、段倉夫人を其玄關に卸して置いて去ツた、此玄關には此馬車よりも猶ほ先に騎馬で歸つて來た出部嶺が待つて居て、馬車から降りる段倉夫人を扶け引いて家の中に入つた。
今一臺の馬車は段倉男爵の馬車で、之は矢張り相乘して居た皮春侯爵を其旅館へ送り屆け、爾して前の馬車より少し遲れて段倉家に歸り着いた。
此馬車から降りた主人段倉は、何故だか異樣に顏が曇つて居る、出迎へる下僕どもには振向きもせず直に自分の居室へ引込み、長椅子に向つたまゝ手を組んで考へ初めた、「何うも一昨日から不思議に運が傾いて來た、伯爵の馳走は立派だツたが四百萬からの損失を考へると箸も取る氣もせなんだ、何だツて西國公債へ那も影響を及ぼす樣な馬鹿げた電報の間違ひが有つたのだらう、此損失は何しても皮春侯爵の資本を引出し伊國の鐵道株を動かす外は無い、大分今夜は侯爵の機嫌を取つて置いたから追々資本引出しの道も開けるだらうけれど、彼の侯爵に少しも山氣が無いのだから始末が惡い、金は正金で持つて居るほど安心な事は有りませんと許りで、宛で金儲けを恐れる樣に逡巡する、併しナニ那の息子と夕蝉とを縁組させる樣に仕向ければ四五百萬圓は取り出せる事に成らう、先づ細工は流々だ、息子の方から手懷ける行くと仕やう」と呟き終るか終らぬに、下僕の一人が手紙の樣な物を持つて來て至急の書類だとて「唯今銀行の書記が持つて參りました」と云つて退いた、段倉は封を切つて讀むが否や、獨り腹立しげに絶望した「何だ伊國のマンフレダイ銀行が破産した、エヽ惡い時には惡い事ばかり續く者だ、是も其實は西國公債の影響かも知れぬ、アノ銀行へは百萬圓以上の貸越に成つて居る、又百萬圓の損失か、餘り甚い、餘り甚い、此樣な損失が引續いては、待て、待て、富村銀行から取附に逢つた爲と書いて有る、富村銀行ならば伯爵に頼んで其の取附を猶豫して貰へば好かツたのに、と云つた所で今は後の祭りだ、情無いなア、此樣な事ばかり續いては幾等己の段倉銀行の信用が厚くても、遠からず世間から疑ひを受ける事になる、此不運と云ふも總て其元は妻が餘計な口出をするから出て來るのだ、出部嶺の樣な口先の旨い奴に欺されて、好し、一思ひに叱り懲して呉れねば腹が癒えぬ」
金錢の事より外に餘り立腹する事の無い丈に、金錢の事と云へば親身をも忘れる程に怒るのだ、直に彼は妻の室に飛んで行つたが、茲には妻と出部嶺が何か密々話して居る、多分は先刻伯爵別邸で、馬車から卸りる時手渡した密書にて出部嶺を呼寄せた者と見える、妻は驚いて「オヤ貴方は、今夜株式の方へお廻りで無かつたのですか」段倉は大聲に「此頃の亂高下に仲買は徹夜して居やうけれど、一晝夜に四百萬圓の損をした此段倉は最う仲買などに用は無い」出部嶺は氣色を察して立上り「イヤ夫人、段倉さん、今夜は失禮のみ致しました、又明日伺ひます」と云ひ、コソ〳〵と辭して去つたのは、立場を失はぬうちに逃て行く如才無い掛引で有る、すると今迄出部嶺の膝に居た一匹の狆兒が更にお世辭を呈する樣に段倉の膝へ來た、段倉は直に首の邊の皮を無慈悲に掴んで最う此樣な贅澤な物などは飼つて置かれぬ、ズツと暮し向を儉約して貰はねば」とて室の隅へ投附けた、八つ當りとは此事だらう、幾等 狆兒が贅澤でも幾百萬幾千萬の身代に此れ一匹が影響を仕まいのに、夫人は其身に弱みが有つても默ツては居られぬ「又お極りを成さツては困りますよ、幾等貴方が株式で損をしたとて、狆兒が知つた事ですか、金の爲の御立腹なら、金の爲に雇ふて有る銀行の書記や手代にお當り成さい」段倉「書記や手代は月給以上に働いて居る、何も己に間違つた電報などを教へて四百萬圓の損は掛けぬ、和女は四百萬圓の金を何れほどの高だと思ふ、金貨で積めば此室へ入り切れぬ程で有るのに」夫人は痛く夫を賤しむ樣に尻目に掛けて「開けても暮ても金々と、だから私は銀行家の妻は厭だと云つたのですよ、生れた里でも前の夫 糊菅男爵の家でも、家内の間で金と云ふ事は一言も云つた事が有りません」段倉「其れは其筈さ、言ひ度くも云ふ丈の金の無い家だもの」と惡口雜言に入り掛けた。
巖窟王 : 一六〇 二ケ條の宣告
夫の惡口雜言に妻も仲々負ては居ぬ「朝から晩まで金々と私は金の音と貴方の聲とが何よりも嫌ひです」聲が嫌ひとは無言て立去れと云ふ事である。
妻として夫に對し、是ほどの侮辱が又と有らうか、若しも彼の僞電報を作爲した人の目的が段倉を苦しめる爲めで有つたとすれば、其目的は二重に逹したと云ふ者だ、彼に金錢の損失を掛けたが上に、彼の夫婦仲を破ツて一家の平和をも擾亂した、宛も石一ツで鳥二羽を殺し得た樣な者である、段倉は眞赤になり「今まで和女から政治上の祕密を聞き、其れで金儲けをした場合には必ず二割五分を和女へ配當して來たのだ、私が百萬圓儲ければ和女も廿五萬圓の利益に成ツた、此計算で今度の四百萬圓の損失に就き和女の財産から百萬圓は支出させねば成らぬ、其れが共同營業の原理だから」妻は冷やかに笑ツて「其樣な金が有る者か」と呟く樣に云つた、段倉「無い、愈無いとならば出部嶺へ注ぎ込んだのだ、彼に出させるが好い」妻は猶も落付いて居る、段倉は殆ど操る樣に「和女は、知らぬは亭主ばかりなどと思つて居るだらうが、和女のした事で、私の知らぬ事は一個も無い、夫婦に成つて後の事は勿論、其前の事とても、知つては居ても營業と家の信用が大事だから、知らぬ顏で默ツて居るのだ、其れが爲に最う四年以來夫婦と云ふは上部ばかりで、別居同樣にして居るでは無いか、知らぬ亭主は馬鹿の樣に見えると云ふけれど知つて知らぬ顏を仕て居ればこそ、出部嶺だとて私に頭が上らぬでは無いか、今も私が入ツて來れば孤鼠々々と去つて了ふでは無いか、出部嶺のみか蛭峰とても其通りだ、大檢時と云ふ豪い職には居るけれど私の前では誰の前よりも小さく成ツて居る」此言葉で見れば、營業の爲に妻の不しだらを默許して居るのだ、此樣な人間が上流社會に在るだらうかと怪しむのは抑も野暮だ、此頃の彿國の上流社會は大抵此樣な者で有ツた、併し夫人は蛭峰の名の出たのに殆ど顏色を失ツて落着いた状は全く消え「蛭峰さんが何ですか」と叫んだ。
叫ばずには居られまい、今夜彼と二人で舊惡の場所に立ち、氣絶する迄に驚き恐れて今も猶ほ其心が鎭まらず、明日司法省の官房で彼に逢ふと云ふ約束を唯だ一個の頼みの綱として居たのだから、今度は段倉の方が冷やかに笑ツて「何ですかなどと私に問ふより、和女の前の夫 糊菅男爵が何で死んだかを思ひ出して見るが好い、可哀想に男爵は九ヶ月の旅から歸つて見ると最愛の妻が姙娠して六ヶ月に成つて居た、爾して其相手が蛭峰と分り、悔しさに急に病氣が重ツて血を吐いて死んだぢや無いか」夫人は返す言葉も無い、唯だ「餘りな疑ひです」と再び叫び尻餠 搗いて長椅子の上に沈んだ。
夫は勿論介抱もせぬ、唯だ宣告する樣に「敢て濟んだ事を咎めるのでは無い、兎も角も四百萬圓の損失は、出來る丈け和女の財産から取立て、猶不足の分は此後の配當で差し引くから、爾う思つて居るが好い、但し其れ丈では未だ足らぬから、娘夕蝉をも、誰か大身代を持つて居る人の息子に縁附ける、是も横合から口を容れて貰ツては困る」と二ヶ條を言ひ聞けて立ち去つた、扨は唯舊惡を鳴らすのが目的では無かツた、舊惡を責めてグーの音も出ぬ樣に凹ませて置いて、爾して二箇條を無理往生に押附ける爲で有ツた、仲々外交の掛け引が旨い、日頃の默許も無理が無かツた。
此翌日である、妻は約束の刻限までに蛭峰を司法省に尋ねる積りで、只管夫の外出を待つて居ると、夫の方は二ヶ條の中の一ヶ條、娘の夕蝉の縁談に就て地歩を進める運動の爲家を出た、爾して行く先は巖窟島伯爵の邸であツた。

