南總里見八犬傳第三輯卷之一第二十三回
東都 曲亭主人 編次
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【挿絵説明】「糠助が懺悔物語窮客稚兒を抱きて身を投んとす」
岩波文庫「南総里見八犬伝」(二)から
犬塚義遺託を諾く
網乾謾歌曲を賣る
犬塚信乃戍孝は、伯母夫大塚蟇六が家に移居しより、嫌忌の中に日を彌り、年を送れば、里人などには、親しくも物いはず。只彼百姓糠助のみ、舊馴染と、伯母も許して、信乃が故に疑はず。その性愚直なればなり。現この老人は、信乃が爲に、言葉敵になるものならねど、愚なる隨僞らず、よろづに實意あるものなれば、信乃はその木訥の、仁にちかきを愛しつゝ、その門邊を過る日は、立ながら安否を問ひ、初にかはらず交參けり。かゝりし程に、糠助が女房は、去歲の秋身まかりつ。長き病著なりけるに、究て寒家にあなれば、果は藥價續かず。このとき信乃は糠助に、圓金一兩を贈與て、藥料の資にしたり。しかれども、蟇六龜篠等はこれをしらず。されば信乃が今にして、これらの貯祿あるよしは、父番作が遺せる也。番作貧かりしかど、身まかりし後に見れば、鎧櫃の底に、圓金十兩あり。「この金三ッが一ッもて、わが葬の事に充よ。その他は竊に腰に纏て、身の爲又友の爲に、肝要の事あらば、用ひよ」、と書遺したり。亦是後の後までを、慮りし親の恩、戴く金も湯と沸ん、淚と共に袖に藏して、龜篠等にはこれを吿ず、「貯祿ありや」、と問れしとき、その金三兩を出して、棺槨墓碑の料としつ。又父の三十五日を弔ひける宵に、復一兩を伯母に遞與て、法筵酒食の料とせり。蟇六も龜篠も、これらの金には我を折て、「なほ有りや」、と問しとき、「是のみ也」と答しかば、「さならん」、と思ひつゝ、その後は問ざりけり。「かくてこの七八年、伯母夫婦と同居すなれば、彼番作田は名のみにて、わが爲にはえならず。われには舊衣をのみ被せて、不自由ならずといふ事なけれど、美味美服を樂はざれば、親の遣財を減らすことなし。しかれども彼糠助は、わが犬、與四郞が事に就て、憂を倶にせし日もありけり。その艱難を救はずは、我只彼に負く也」、とこゝろひとつに思ひとりて、竊に金を贈しかば、糠助夫婦は、感淚を禁めあへず、只管信乃を伏拜みて、その信義を賞嘆し、藥劑を求て用ひしかども、定業なればにや、その妻はなくなりにき。
しかるに今茲七月の比より、糠助亦時疫にて、うち臥せしより頭揚らず。流行病は傳染を懼れて、人大かたはよりつかず。しかるも信乃はしのび〳〵に、糠助が宿所にいゆきて、湯液を煎じ、食事を勸め、又わが暇なき時は、額藏にこゝろ得さして、竊にこれを遺しつゝ、看とらする日もありけるに、今その病危し、と龜篠が吿しかば、信乃はとるもの取あへず、遽しくいゆきて見るに、邪熱やうやく裏に入て、とり亂したる事はなけれど、その衰は日にましたり。さて枕方に膝を進めて、「心地はいかに、糠助阿爺。信乃が來て候は」、といふに臥しつゝ熟視て、起なほらんとするにかなはず、いと苦しげにうち咳き、「犬塚ぬし、よくぞ來ませし。年來日ごろ懇に、愛憐被て給はりし、報ひも得せず別になりぬ。某今茲は六十一歲、女房には後れたり。貯祿もなく、氏族もなければ、後やすきに似たれども、心かゝりが只ひとつ」、といひあへずさし塞ぐ、痞に息をとゞむれば、信乃は手ばやく湯液を煖め、只管に勸しかば、糠助咽喉を潤して、「心かゝりは、在としも、人には吿ざる、わが子の事のみ。某原は安房國、洲崎のほとりの土民なり。耕作と漁獵とに、ともかくもして世を渡るに、長祿三年十月下旬、先妻に男兒出生て、玄吉と名つけたり。いと優に見えたるに、母は產後の侭に肥立ず、乳に乏しかりければ、兒さへ脾疳の病つきて、母の看病、その子の介抱、耕作網引を外にして、はや二とせになりしかば、物大かたは售殫し、剩女房は、遂にむなしくなりにけり。迹に殘るは借錢と、この年僅に二歲の稚兒、わが身ひとつには字みかたし。いかで養ふ人もがな、と庶幾へども貰乳もて、辛く育る稚兒なれば、瘦髐ひて餓鬼の如し。養育錢を贈らでは、貰んといふ人のなければ、せんすべ盡たる出來こゝろ、洲崎の浦は靈地とて、役行者の崫あれば、殺生禁斷せられたり。この故に、介鱗其處に集りて、網代なき生洲に似たり。竊に網を下すならば、一夕にして數貫の錢を、獲ること易し、と思ひしかば、僞りて稚兒を、霎時鄰家に豫けつゝ、烏夜に紛れて彼禁斷所へ、舟漕入れて曳鯛は、たびかさならねど人にしられて、忽地に捕られ、國守の廳へ牽れにけり。脫るべき路のなければ、柴漬の刑に定られ、且く獄舍に繁れしに、折もよくその秋は、國守里見殿の奧ざま五十子の上、及おん愛女伏姬うへの、三回忌に當らせ給へば、俄頃に大赦を行れて、吾儕も死罪を宥られ、軈て追放せらるゝ日、迺守のおん慈悲により、村長に領られたる、小兒玄吉を、返し下されたりければ、鄙言にいふ難有迷惑、已ことを得ず稚兒を、負つ、抱つ安房を追れ、上總を過りて下總なる、行德まで來つる途の艱難、乞食熟ねば親も子も、餓勞れてせんすべしらず。役行者の惜せ給ふ、介鱗を漁りし、冥罰はなほかくても脫れず、途に仆れて死恥を、曝んより親子共侶、身を投るこそますらめ、と思決めて名もしらぬ、橋の櫛干に足を踏かけ、跳沒んとしつる折、武家の飛脚とおぼしき人、件の橋を渡りかゝりて、遽しく抱き禁め、推引居て懇に、緣故を問れしかば、懺悔の爲に恥を忍びて、一五一十を吿るになん、その人、聞てふかく憐み、『原來汝は素よりの惡人にはあらざりけり。われは鐮倉殿(足利成氏をいふ)の御內にて、小祿卑職のものなれども、聊慈善の志願あり。その故は、年今四十に餘るまで、子は擧ながら子育なし。されば年來、夫婦心をひとつにして、神佛を祈念し奉り、又身に稱ふべき事は、人の艱苫を救ん、と心に誓ふも久しくなりぬ。尒るに汝は殊にして、一子をもてあまし、親子ほと〳〵死んとせり。人さま〳〵の浮世也。然らばその子をわれに得させよ。ともかくもして養ん』、とよに憑しくいはれしかば、その時の忝さ、息絕くてまはらぬ舌には、說盡さずとも察し給へ。地獄で逢し佛欤神欤、と思へば更に一議に及ばず、そがいふまゝに承引て、只感淚を推拭へば、彼人かさねて、『われは殿のおん飛脚にて、安房の里見へ赴きたる、かへさなれば私に、稚兒を携かたし。このわたりには定宿あり。家あるじに相譚て、且くその子を預け置、鐮倉へ立かへりて、妻の女にもよしを吿、日ならずして迎とるべし。見るにその子は焦悴たれども、武藏なる神奈川には、小兒五疳の妙藥あり。これを用ひば效驗あらん。既に親子とならんには、われ等閒に字育んや。けふより後やすく思ふて、志すかたあらば、とく赴きね』、と喩しつゝ、路費にせよとて、懷中なる、方金二顆とり出し、晝餉の料に欤、腰に纏たる、割籠と共に賜しかば、辭するによしなく受納め、重々の恩義を謝して、玄吉を賺こしらへ、遞與せばやをら抱きとりて、舊來しかたへ立戾るを、つく〴〵と見送りたる、歡しくも悲しくて、是なん親子一生涯の別なれども、養親の、名をも得問はず、われも名吿らず。こゝにはじめて恩愛の、重荷をばおろしても、竭ぬ名殘は葛飾の、行德濱より便舩して、江戶の津に赴きつ、聊相識る人あれば、この大塚に流れ來て、農家に奉公する程に、その冬和君は生れ給へり。かくて次の年、この家の先住なる、籾七といふもの身まかりて、後家に入夫を招るとて、ある人に媒妁せられ、その名迹を續たれども、一舛瓢は何でも一舛、年中未進を債られて、水飮あへぬ瘦百姓、人には嗚呼の白物、と貶しめられても腹たゝず、故鄕で釀せし禍は、貧の盜の咎なれば、心を切て貪らず、只正直を宗として、朝な〳〵に手を合せ、小角さまへ罪障を、勸解奉るも十八年、その每月の會日には、鹽鰯でも箸にはかけず、其精進も年夥、送るは誰爲、玄吉は、恙なく生育かし、人なみなみの人になれ、と願ふものから去歲身まかりし、妻にも吿ざるわが子のうへを、今臨終に口走り、和君に吿るは凡庸ならぬ、信義を豫てしればなり。かくいへばとて、風を追ひ、影を捕よりなほ果敢なき、わが子のうへをしるにもあらねど、鐮倉の前管領家(持氏成氏をさしてしかいふ)は、番作ぬしの主筋ならずや。されば亦成氏朝臣は、兩管領、山內顯定ぬし、扇谷定正ぬしと不和にして、鐮倉のおん住ひかなはせ給はず、許我の城に移らせ玉ひ、其處をも迫れて近ころは、千葉の城にまします、と世の風聞に傳へ聞り。しからばわが子玄吉も、その養親も役に從ひ、下總千葉にあらんずらん。和君もし許我殿(成氏をいふ)へ、參り玉ふ事ありて、その便宜をもて玄吉を、識ることあらばこれらのよしを、潛やかに傳へてたべ。わが子は實の親あるよしを、しらでをらば是非もなし。仄に傳へ聞く事あらば、些は心にかゝるべし。よしや目今環會とも、親子迭に面忘れして、名吿よすがはあらざめれど、渠は生れながらにして、右の頬尖に痣ありて、形牡丹の花に似たり。又渠が生れたる七夜には、祝ぎの爲、わが釣せし、鯛を庖丁したりしに、魚の腹に玉ありて、文字のごときもの見えたり。取て產婦に讀せしに、『これまこととか訓む信の字に似たるやう也』といへり。よりて渠が臍帶もろ共、護身嚢に納めつゝ、『長祿三年、十月廿日誕生す。安房の住民、糠助が一子、玄吉が初毛臍帶、竝に感得祕藏の玉』、と母が手づから寫しつけたる、國字にして釘の折の、曲りなりにも讀めつべし。渠物情を知る比まで、失はずは今なほあらん。これらを證据にし給ひてよ。紛れあるべくもあらずかし。さても益なき事にこそ、傍痛く思はれけめ。今朝までは舌强りて、これ程には物いはれざりしに、今和君が面を見て、心地淸々しく覺るも、燈將に滅んとして、光を倍の類なるべし。末遙なる弱冠にをはすれば、勉て發跡給へかし」、といひつゝ頻に落淚す。いにしへ賢者の言の葉に、鳥の將に死んとするとき、その鳴ことかなしく、人の將に死んとするとき、そのいふこと善といへり。糠助が今般の辭も、生平には大く立まさりて、あはれ賢く聞えたり。
信乃は彼玄吉が、痣の事玉の事、わが身に思ひあはせつゝ、大かたならず感嘆し、「噫、阿爺よ、こゝろ得たり。けふはじめてしるおん身が素生、誤て改めたる、年來の深信精進、人及ざる事になん。加旃子息のうへに、われと暗合する事あり。過世の契りと覺れば、まだ見ぬ兄のこゝちぞする。折を得ば、下總へ赴きて、その宿所を索んに、養父の姓名をしらずといふとも、證据くさ〴〵分明なれば、環會ざることはあらじ。これらのことを念とせで、しば〳〵湯劑を用ひ給へ。夜も來て看病せまほしけれど、親類に寄宿すなれば、思ふに任せぬ事多かり。さばれ一卜たび諾たる、辭は金石變改なし。こゝろやすく思ひ給へ」、と應つゝなほさま〳〵に、勦り慰めたりければ、糠助は掌を、うち合して拜むのみ、哀情胸に塞りてや、復いふ事もなかりけり。
かくてはや、黃昏になりにければ、信乃は行燈に火を點し、再び劑湯を勸めなどしつ、別を吿て宿所に還り、その夜額藏にのみ、糠助が遺言のよしを物かたり、玄吉が痣の事、玉の事を吿にければ、額藏聞て驚嘆し、「これ必吾黨の人ならん事疑ひなし。この身が隨になるならば、今にも其處へ赴きて、見まほしくこそ候へ」、と密語あへず立別れ、詰朝とく起て、糠助を訪んとせしに、その近鄰の莊客詣來て、糠助はこの曉に、身まかりたるよしを吿にければ、信乃は殊さらに、これを悼みて、しば〳〵蟇六に說勸め、永樂錢七百文貸與て、その夜、道場へ棺を送らせ、日子歷て、その家を售ときに、件の七百文を返し納させ、殘れる錢と、最褊なる田圃は、彼道場へ寄進して、糠助夫婦、そが代々の、香花の料にしたりけり。この事莊官蟇六が計ひて、その鄰人に指揮したれど、實は信乃が蟇六に、說勸めたるよしを、誰いふとはなく僉知りて、「この人莊官たらんには、慈善にして下を伸育る、われらが爲の父母なるべし。とく代り給へかし」、といはざるものはなかりけり。
不題、管領家の退糧人に、網乾左母二郞といふ壯佼ありけり。近き比まで、扇谷修理大夫定正に仕て扈從たり。便佞利口のものなれば、一トたびは寵用せられて、人を戕ふこと多かり。よりて、傍輩に强訴せられて、忽地にその非義發覺れ、軈て追放せられけり。そが父母は往に世を逝り、いまだ妻子もあらざれば、遠緣のものをよるべに、大塚の鄕に流浪ひ來つ、糠助が舊宅を購得て、形のごとく膝を容たり。さればこの左母二郞は、今茲二十五歲にして、面色素く、眉目秀て、鄙には稀なる美男なり。手迹は大師樣と見えて、草書拙からず。加旃、遊藝は、今樣の艷曲、細腰鼓、一節切なンど、習ひうかめずといふことなし。犬塚番作身まかりし後、里に手跡の師匠なければ、左母二郞は、每日に、手習子を集て生活とし、又女の子には、歌舞今樣を誨るに、浮たる技を好むもの、都も鄙も多なれば、手迹にまして遊藝の、弟子日々に聚來つ、打囃し舞ふ程に、是首の少女、彼首の孀婦と、仇なる名さへ立もあれど、龜篠はわかき時より、漫に好む技なれば、左母二郞が事としいへば、をさ〳〵夫に執成により、渠を憤るものありといへども、蟇六は聞かぬ態して、遂に網乾を追ざりけり。
かくてその年の終りに、城主大石兵衞尉が陣代、簸上蛇太夫といふもの身まかりつ。次の年五月の比、蛇太夫が長男、簸上宮六、亡父の職祿を賜りて、新陣代になりにければ、その屬役軍木五倍二、卒川奄八等と共に、夥の若黨奴隸を將て、彼此を巡檢し、その夜は、莊官蟇六許止宿してけり。蟇六は豫てより、饗膳の准備して、佞媚賄賂ずといふことなく、勸盃すべて禮に過たり。折しも庚申なりければ、龜篠は夫に勸めて、綱乾左母二郞を招よせ、庚申守に假托て、歌曲の遊樂を催すに、女兒自慢の癖なれば、濱路には殊更に、花手やかなる羅衣被せて、わりなくその席に侍らせ、或は酌を執らせ、又筑紫琴を奏させ、左母二郞には、例の艷曲を謌せつゝ、をさ〳〵興をそえにけり。濱路はかゝる席に侍りて、見もせぬ人々に、馴々しく物をいひかけられ、賸網乾と臂を連ねて、おのが拙き絃のしらべを、賓客達に聽せん事、信乃が思はんことのをしくて、心裏恥しき限りなれども、親には爭ふべくもあらず、困じて纔に一曲を奏つるに、陣代簸上宮六等は、醉顏蕩けて燈燭と、光をあらそへども愧ず、眼を細くして、濱路をかへり見、聲を太くして、その節奏を譽興じ、扇を短くとりて、節を拍し、鼻下を長くして、涎の流るゝを覺えず。長短細大、我を忘れて、賑然と笑ひたのしみ、「眞、今宵の管待は、美酒もいまだ美を盡さず、膳部もいまだ善を盡さず、唯令弱の一曲のみ、玄の又玄、玄賓僧都も、聽聞せば墮落せん。妙の又妙、妙音天女も、合奏せば撥を投ん。吁有がたの音樂や。おもしろの今の音樂や」、と訛聲合して謠ふになん、濱路は慚て、且腹たゝしさに、其處に得堪ず散動に紛れて、減るが如く退きけり。
されば亦左母二郞は、管領家の退糧人なれども、宮六等は鐮倉へ、在番せしものならざれば、迭にこれを識ることなし。網乾はその性浮薄也。かゝる遊興の席を累し、嗚呼の浪子なりければ、虛辯をさ〳〵媚を呈して、盃を勸るに趣あり。又をり〳〵秀句を吐きて笑ひを催し、宮六等を稱して殿といひ、檀那と唱へ、蟇六を大人と稱し、龜篠を奧方とし、給事の奴脾を姉樣と喚び、下男をすべて先生といふ、稱呼繽紜德操なき、是兒輕薄の習俗なり。すべてかうやうの席には、聲色を嗜ざる、老實者は愚なるが如し。彼紂王が、比干をもて、不肖とし、又|儵忽が、混沌を、不具と思ひし、これと同じ。かゝれば信乃はこの夜さり、ひとり子舍に引籠て、燈下に兵書を繙くのみ、その席に入らねども、蟇六も亦これを問はず、故より思ふよしあれば、陣代には信乃が事を、一句も披露せざりけり。かくて鷄鳴曉を吿る程に、稍盃盤をとり納め、蟇六は、宮六等に、「忝し」と敬ひ謝して、更に早飯を勸るに、宿酒いまだ醒ざれば、各よくも食はず、なほ彼此を巡らんとて、三ン人齊一立出れば、暮六は遽しく、その從者にうち雜りて、村盡處まで送りけり。
【挿絵説明】「艷曲を催して蟇六權家を管待す」「ひき六」「あぼし左母二郞」「いさ川庵八」「ひかみ宮六」「龜さゝ」「ぬるて五倍二」「はまぢ」
岩波文庫「南総里見八犬伝」(二)から
是より先に龜篠は、日待月待の折に觸れて、網乾左母二郞を招きつゝ、艷曲を聽く程に、左母二郞は早晚に、濱路を看て思ひを焦し、人目の關をしのび〳〵に、言葉の露を結びかけて、淫かはしき色を見せ、或は亦、鳥の跡を媒妁にて、筆に物をぞいはせたる。いかなる事を書たりけん、濱路は手にだに觸れずして、いといたう罵辱しめ、後には網乾が來る每に、避て再び面を對へず。現人の性ばかり、習ひにもよらざりけり。さればこの少女は、その心ざま親に似ず、行ひよろづに貞くて、信乃には親の口づから、豫て許せしよしあれども、それすらいまだ婚姻を、とり結ざる夫なれば、迭に親く物いはず。況て浮たる風流士に、名を立らるゝ事あらば、女子の恥辱このうへあらじ、とふかく念じてこれらの人を、引入れたる母親を、心つきなしと思ひけり。さるにより、簸上宮六等が止宿せし夜、二親がわりなくも、濱路を給仕に侍らして、左母二郞共侶に、琴よ曲子と晴がましく、酒宴の興をそえさせたる、いと朽をしく思ふものから、人の諫を用ひざる、親の氣質に推辭かたくて、こよなき羞也、と歎きつゝ、稍一曲を奏し也。
濱路はかくのごとくなれども、母龜篠がこゝろは異なり。龜篠日來思ふやう、「件の網乾左母二郞は、鐮倉武士の浪人とか聞えて、いと愛たき美男なり。渠がいふよしを聞くに、鐮倉にありし日は、食祿五百貫を宛行れ、しかも近習の首に處れば、殿のおん寵大かたならず、出頭第一なるをもて、傍輩ふかく媢みて黨を樹、頻に讒言したるにより、身の暇を賜りしかども、原是殿のおん志にはあらず。かゝれば近きに、召返さるべき御內意あり、この里の僑居は、霎時が程にあらんといへり。この人今は窶々しくとも、その言のごとくならば、遠からずして歸參せん。管領家の出頭人を、吾女壻に招ん事、その時には及びかたし。今より情を被んには、彼の榮利となることあるべし。親の心を子はしらで、鈍や濱路が只管に、信乃を良人と思ひとりてや、婚姻を待わびしげなる。曩にはちらと見つけし事あり。可惜女兒を可愛氣のなき、甥に一ト口態進ては、田蛭に噬入らるゝが如く引放すとき血で血を洗ふ、後々までも痛みにならん。此に由て彼を推せば、網乾が濱路に意ありとも、後々の害にはならず。濱路が信乃に情を寓ては、久後さへに憑しからず。又利を捨て、男を取るとも、左母二郞は美男なり。手迹愛たく遊藝さへ、何暗からず、音曲妙也。これ粹中の粹なるもの、信乃と同日の論にはあらず。大年したる吾儕でも、良人がなくは思案も狂ん。かゝれば濱路に信乃が事を、思ひ絕する囮には、綱乾にますものあらじ」、とおもひて、世の嘲をも、里人等が憤りをも見かへらず、折に觸れ、事に托て、しば〳〵網乾を招きしかば、左母二郞は懲ずまに、且その親に副馴て、いかで濱路を手に入れん、と思ふこゝろの色見えて、要緊の事ある日にも、龜篠に招るれば、使とゝもにゆかざる事なく、途に蟇六に逢ふ時は、雨中といへども木屨を脫し、斗米の爲にあらずして、折る腰の低ければ、莊官夫婦は只顧に、その佞眉らるゝを歡びて、貳なきものにぞ思ひける。


