南総里見八犬伝(024)

南總里見八犬傳第三輯卷之一第二十三回
東都 曲亭主人 編次

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【挿絵説明】「糠助ぬかすけが懺悔さんげ物語ものかたり窮客きうするたびゝと稚兒をさなこを抱いだきて身みを投なげんとす」
岩波文庫「南総里見八犬伝」(二)から

犬塚いぬつか義遺託ぎゐたくを諾うけひく
網乾あぼし謾歌曲そゞろにかきよくを賣うる

 犬塚信乃戍孝いぬつかしのもりたかは、伯母夫大塚蟇六をばむこおほつかひきろくが家いへに移居うつりすまひしより、嫌忌けんきの中うちに日を彌わたり、年を送れば、里人さとひとなどには、親しくも物いはず。只たゞ彼百姓糠助かのひやくせうぬかすけのみ、舊馴染ふるきなじみと、伯母も許して、信乃が故ゆゑに疑はず。その性愚直さがぐちよくなればなり。現げにこの老人おきなは、信乃が爲に、言葉敵ことばかたきになるものならねど、愚おろかなる隨僞まゝいつはらず、よろづに實意まごゝろあるものなれば、信乃はその木訥ぼくとつの、仁じんにちかきを愛しつゝ、その門邊かどべを過よぎる日は、立たちながら安否あんひを問ひ、初はじめにかはらず交參まじらひけり。かゝりし程に、糠助が女房にようばうは、去歲こぞの秋身まかりつ。長き病著いたつきなりけるに、究きはめて寒家まづしきくらしにあなれば、果はては藥價くすりのしろ續かず。このとき信乃は糠助に、圓金一兩こばんいちりやうを贈與おくりあたへて、藥料やくりやうの資たすけにしたり。しかれども、蟇六龜篠等ひきろくかめさゝらはこれをしらず。されば信乃が今にして、これらの貯祿たくはへあるよしは、父番作ばんさくが遺のこせる也。番作貧まづしかりしかど、身まかりし後のちに見れば、鎧櫃よろひびつの底に、圓金こばん十兩あり。「この金かね三ッが一ッもて、わが葬ほうむりの事に充みてよ。その他たは竊ひそかに腰に纏つけて、身の爲又また友の爲に、肝要かんえうの事あらば、用ひよ」、と書遺かきのこしたり。亦是後またこれのちの後のちまでを、慮おもひはかりし親の恩、戴いたゞく金かねも湯と沸わかん、淚と共に袖に藏かくして、龜篠等にはこれを吿つげず、「貯祿たくはへありや」、と問とはれしとき、その金かね三兩を出いだして、棺槨墓碑くわんくわくぼひの料としつ。又父の三十五日を弔とひける宵よに、復また一兩を伯母に遞與わたして、法筵酒食はうえんしゆしよくの料とせり。蟇六も龜篠も、これらの金には我がを折をりて、「なほ有りや」、と問とひしとき、「是これのみ也」と答こたへしかば、「さならん」、と思ひつゝ、その後のちは問とはざりけり。「かくてこの七八年、伯母夫婦と同居すなれば、彼番作田かのばんさくたは名のみにて、わが爲にはえならず。われには舊衣ふるきをのみ被きせて、不自由ならずといふ事なけれど、美味美服を樂ねがはざれば、親の遣財いざいを減らすことなし。しかれども彼かの糠助は、わが犬、與四郞よしらうが事に就つきて、憂うれひを倶ともにせし日もありけり。その艱難かんなんを救はずは、我只彼われたゞかれに負そむく也」、とこゝろひとつに思ひとりて、竊ひそかに金を贈おくりしかば、糠助夫婦は、感淚かんるいを禁とゞめあへず、只管ひたすら信乃を伏拜ふしおがみて、その信義を賞嘆し、藥劑くすりを求もとめて用ひしかども、定業じやうごうなればにや、その妻はなくなりにき。

 しかるに今茲七月ことしふつきの比ころより、糠助亦時疫またときのけにて、うち臥せしより頭揚まくらあがらず。流行病はやりやまひは傳染うつるを懼おそれて、人大おほかたはよりつかず。しかるも信乃はしのび〳〵に、糠助が宿所にいゆきて、湯液くすりを煎せんじ、食事しよくじを勸すゝめ、又わが暇いとまなき時は、額藏がくざうにこゝろ得さして、竊ひそかにこれを遺つかはしつゝ、看みとらする日もありけるに、今その病危やまひあやうし、と龜篠が吿つげしかば、信乃はとるもの取とりあへず、遽いそがはしくいゆきて見るに、邪熱じやねつやうやく裏りに入いりて、とり亂したる事はなけれど、その衰おとろへは日にましたり。さて枕方まくらべに膝ひざを進めて、「心地こゝちはいかに、糠助阿爺おぢ。信乃が來て候は」、といふに臥しつゝ熟視つらつらみて、起おきなほらんとするにかなはず、いと苦しげにうち咳しはぶき、「犬塚ぬし、よくぞ來ませし。年來としころ日ごろ懇ねんごろに、愛憐被あはれみかけて給はりし、報むくひも得えせず別わかれになりぬ。某今茲それがしことしは六十一歲、女房には後おくれたり。貯祿たくはへもなく、氏族うからもなければ、後うしろやすきに似たれども、心かゝりが只たゞひとつ」、といひあへずさし塞ふさぐ、痞つかえに息いきをとゞむれば、信乃は手ばやく湯液くすりを煖あたゝめ、只管ひたすらに勸すゝめしかば、糠助咽喉ぬかすけのんどを潤うるほして、「心かゝりは、在ありとしも、人には吿つげざる、わが子の事のみ。某原それがしもとは安房國あはのくに、洲崎すさきのほとりの土民どみんなり。耕作こうさくと漁獵すなとりとに、ともかくもして世を渡るに、長祿ちやうろく三年十月下旬、先妻に男兒出生をのこゞいできて、玄吉げんきちと名つけたり。いと優すくよかに見えたるに、母は產後の侭まゝに肥立ひたゝず、乳ちに乏しかりければ、兒ちごさへ脾疳ひかんの病やまひつきて、母の看病、その子の介抱かいほう、耕作網引あびきを外よそにして、はや二ふたとせになりしかば、物大おほかたは售殫うりつくし、剩あまつさへ女房は、遂つひにむなしくなりにけり。迹あとに殘るは借錢しやくせんと、この年僅はつかに二歲の稚兒をさなこ、わが身ひとつには字はぐゝみかたし。いかで養ふ人もがな、と庶幾こひねがへども貰乳もらひちもて、辛からく育そだつる稚兒をさなこなれば、瘦髐やせさらばひて餓鬼がきの如し。養育錢やういくしろを贈らでは、貰もらはんといふ人のなければ、せんすべ盡つきたる出來できこゝろ、洲崎の浦は靈れい地ちとて、役行者えんのぎやうじやの崫いはむろあれば、殺生禁斷せつせうきんだんせられたり。この故ゆゑに、介鱗其處うろくずそこに集あつまりて、網代あじろなき生洲いけすに似たり。竊ひそかに網あみを下おろすならば、一夕ひとよさにして數貫すくわんの錢ぜにを、獲うること易やすし、と思ひしかば、僞いつはりて稚兒をさなこを、霎時鄰家しばしとなりに豫あづけつゝ、烏夜やみに紛まぎれて彼禁斷所かのきんだんしよへ、舟漕入ふねこぎいれて曳鯛ひくたひは、たびかさならねど人にしられて、忽地たちまちに捕とらへられ、國守こくしゆの廳ちやうへ牽ひかれにけり。脫のがるべき路みちのなければ、柴漬ふしつけの刑つみに定さだめられ、且しばらく獄舍ひとやに繁つながれしに、折もよくその秋は、國守里見殿さとみとのの奧おくざま五十子いさらごの上うへ、及またおん愛女伏姬まなむすめふせひめうへの、三回忌に當らせ給へば、俄頃にはかに大赦たいしやを行おこなはれて、吾儕わなみも死罪を宥なだめられ、軈やがて追放せらるゝ日、迺守すなはちかみのおん慈悲により、村長むらをさに領あづけられたる、小兒しやうに玄吉を、返し下されたりければ、鄙言ことわぎにいふ難有迷惑ありがためいわく、已やむことを得ず稚兒をさなこを、負おひつ、抱いだきつ安房を追おはれ、上總かつさを過よぎりて下總しもふさなる、行德ぎやうとこまで來つる途みちの艱難かんなん、乞食熟こしきなれねば親も子も、餓勞うへつかれてせんすべしらず。役行者えんのぎやうじやの惜をしませ給ふ、介鱗うろくずを漁すなとりし、冥罰めうばつはなほかくても脫のがれず、途みちに仆たふれて死恥しにはぢを、曝さらさんより親子共侶もろとも、身を投なぐるこそますらめ、と思決おもひさだめて名もしらぬ、橋の櫛干らんかんに足を踏ふみかけ、跳沒おどりいらんとしつる折、武家の飛脚ひきやくとおぼしき人、件くだんの橋を渡りかゝりて、遽いそがはしく抱いだき禁とゞめ、推引居おしひきすえて懇ねんごろに、緣故ことのもとを問とはれしかば、懺悔さんげの爲に恥を忍びて、一五一十いちぶしゞうを吿つぐるになん、その人、聞きゝてふかく憐あはれみ、『原來さては汝なんぢは素もとよりの惡人にはあらざりけり。われは鐮倉殿かまくらとの(足利成氏あしかゝなりうぢをいふ)の御內みうちにて、小祿卑職せうろくひしよくのものなれども、聊慈善いさゝかぢぜんの志願あり。その故は、年とし今四十よそぢに餘るまで、子は擧もちながら子育こそだてなし。されば年來としころ、夫婦心をひとつにして、神佛しんぶつを祈念し奉たてまつり、又身に稱かなふべき事は、人の艱苫かんくを救すくはん、と心に誓ふも久しくなりぬ。尒しかるに汝は殊ことにして、一子ひとりこをもてあまし、親子ほと〳〵死しなんとせり。人さま〳〵の浮世うきよ也。然さらばその子をわれに得させよ。ともかくもして養やしなはん』、とよに憑たのもしくいはれしかば、その時の忝かたじけなさ、息絕いきたはしくてまはらぬ舌には、說盡ときつくさずとも察し給へ。地獄で逢あひし佛欤か神欤か、と思へば更に一議に及ばず、そがいふまゝに承引うけひきて、只たゞ感淚を推拭おしぬぐへば、彼人かのひとかさねて、『われは殿のおん飛脚にて、安房あはの里見へ赴おもむきたる、かへさなれば私わたくしに、稚兒をさなこを携たづさへかたし。このわたりには定宿じやうやどあり。家いへあるじに相譚かたらふて、且しばらくその子を預け置おき、鐮倉へ立たちかへりて、妻めの女をんなにもよしを吿つげ、日ならずして迎むかへとるべし。見るにその子は焦悴やつれたれども、武藏むさしなる神奈川かながはには、小兒五疳せうにごかんの妙藥めうやくあり。これを用ひば效驗こうげんあらん。既に親子とならんには、われ等閒なほざりに字育はぐゝまんや。けふより後うしろやすく思ふて、志こゝろさすかたあらば、とく赴おもむきね』、と喩さとしつゝ、路費ろようにせよとて、懷中くわいちうなる、方金二顆ぶばんふたつとり出いだし、晝餉ひるけの料りやうに欤か、腰に纏つけたる、割籠わりこと共に賜たびしかば、辭するによしなく受納うけおさめ、重々かさね〴〵の恩義を謝しやして、玄吉げんきちを賺すかしこしらへ、遞與わたせばやをら抱いだきとりて、舊來もときしかたへ立戾るを、つく〴〵と見送りたる、歡よろこはしくも悲しくて、是これなん親子一生涯の別わかれなれども、養親やしおやの、名をも得問えとはず、われも名吿なのらず。こゝにはじめて恩愛の、重荷をばおろしても、竭つきぬ名殘なごりは葛飾かつしかの、行德濱ぎやうとこはまより便舩びんせんして、江戶えどの津わたりに赴きつ、聊相識いさゝかあひしる人あれば、この大塚おほつかに流れ來て、農家に奉公する程に、その冬和君わきみは生れ給へり。かくて次つぐの年、この家の先住せんぢうなる、籾七もみしちといふもの身まかりて、後家ごけに入夫いりうとを招もとむるとて、ある人に媒妁なかたちせられ、その名迹めうせきを續つぎたれども、一舛瓢いつせうふくべは何いつでも一舛いつせう、年中未進みしんを債はたられて、水飮のみあへぬ瘦百姓やせひやくせう、人には嗚呼をこの白物しれもの、と貶おとしめられても腹たゝず、故鄕こけうで釀かもせし禍わざはひは、貧ひんの盜ぬすみの咎とがなれば、心を切せめて貪むさぼらず、只たゞ正直を宗むねとして、朝な〳〵に手を合せ、小角せうかくさまへ罪障ざいせうを、勸解わび奉るも十八年、その每月つきごとの會日ゑにちには、鹽鰯しほいはしでも箸はしにはかけず、其精進そのせうしんも年夥としあまた、送るは誰爲たがため、玄吉は、恙つゝがなく生育おひたてかし、人なみなみの人になれ、と願ふものから去歲こぞ身まかりし、妻にも吿つげざるわが子のうへを、今臨終しにきはに口走くちはしり、和君わきみに吿つぐるは凡庸よのつねならぬ、信義を豫かねてしればなり。かくいへばとて、風を追ひ、影を捕とるよりなほ果敢はかなき、わが子のうへをしるにもあらねど、鐮倉の前管領家さきのくわんれいけ(持氏成氏をさしてしかいふ)は、番作ばんさくぬしの主筋しゆうすぢならずや。されば亦成氏朝臣またなりうぢあそんは、兩管領、山內顯定やまのうちあきさだぬし、扇谷定正あふぎがやつさだまさぬしと不和にして、鐮倉のおん住ひかなはせ給はず、許我こがの城に移らせ玉ひ、其處そこをも迫おはれて近ころは、千葉ちばの城にまします、と世の風聞ふうぶんに傳へ聞きけり。しからばわが子玄吉も、その養親やしおやも役に從ひ、下總千葉しもふさちばにあらんずらん。和君わきみもし許我殿こがとの(成氏をいふ)へ、參り玉ふ事ありて、その便宜びんぎをもて玄吉を、識しることあらばこれらのよしを、潛しのびやかに傳へてたべ。わが子は實まことの親あるよしを、しらでをらば是非もなし。仄ほのかに傳へ聞く事あらば、些すこしは心にかゝるべし。よしや目今環會たゞいまめぐりあふとも、親子迭かたみに面忘おもわすれして、名吿なのるよすがはあらざめれど、渠かれは生れながらにして、右の頬尖ほゝさきに痣あざありて、形牡丹ぼたんの花に似たり。又渠かれが生れたる七しち夜やには、祝ことほぎの爲、わが釣つりせし、鯛たひを庖丁ほうちやうしたりしに、魚うをの腹に玉ありて、文字もんじのごときもの見えたり。取とりて產婦さんふに讀よませしに、『これまこととか訓よむ信しんの字に似たるやう也』といへり。よりて渠かれが臍帶ほそのをもろ共、護身嚢まもりふくろに納めつゝ、『長祿ちやうろく三年ねん、十月廿日誕生たんせうす。安房あはの住民ぢうみん、糠助ぬかすけが一子いつし、玄吉げんきちが初毛臍帶うぶけほそのを、竝ならびに感得祕藏かんとくひさうの玉たま』、と母が手づから寫しるしつけたる、國字ひらかなにして釘くぎの折をれの、曲りなりにも讀めつべし。渠物情かれものこゝろを知る比ころまで、失はずは今なほあらん。これらを證据せうこにし給ひてよ。紛まぎれあるべくもあらずかし。さても益やくなき事にこそ、傍痛かたはらいたく思はれけめ。今朝けさまでは舌强したこはりて、これ程には物いはれざりしに、今和君わきみが面おもてを見て、心地淸々こゝちすがすがしく覺おぼゆるも、燈將ともしひまさに滅きえんとして、光を倍ますの類たぐひなるべし。末遙すゑはるかなる弱冠わかうどにをはすれば、勉つとめて發跡なりいで給へかし」、といひつゝ頻しきりに落淚す。いにしへ賢けん者しやの言ことの葉はに、鳥の將まさに死しなんとするとき、その鳴なくことかなしく、人の將まさに死しなんとするとき、そのいふこと善よしといへり。糠助ぬかすけが今般いまはの辭ことばも、生平つねには大いたく立たちまさりて、あはれ賢かしこく聞えたり。

 信乃は彼玄吉かのげんきちが、痣あざの事玉の事、わが身に思ひあはせつゝ、大かたならず感嘆し、「噫あ、阿爺おぢよ、こゝろ得たり。けふはじめてしるおん身が素生すせう、誤あやまち*て改めたる、年來としころの深信精進しんしんせじみ、人及およばざる事になん。加旃子息しかのみならずしそくのうへに、われと暗合あんがうする事あり。過世すくせの契ちぎりと覺おぼゆれば、まだ見ぬ兄いろねのこゝちぞする。折を得えば、下總しもふさへ赴おもむきて、その宿所を索たづねんに、養父の姓名をしらずといふとも、證据せうこくさ〴〵分明ふんめうなれば、環會めぐりあはざることはあらじ。これらのことを念ねんとせで、しば〳〵湯劑くすりを用ひ給へ。夜よも來て看病せまほしけれど、親類に寄宿きしゆくすなれば、思ふに任まかせぬ事多かり。さばれ一卜たび諾うけひたる、辭ことばは金石變改きんせきへんかいなし。こゝろやすく思ひ給へ」、と應いらへつゝなほさま〳〵に、勦いたはり慰めたりければ、糠助は掌たなそこを、うち合あはして拜むのみ、哀情あいぜう胸に塞ふたがりてや、復またいふ事もなかりけり。

 かくてはや、黃昏たそがれになりにければ、信乃は行燈あんどんに火を點し、再び劑湯くすりを勸すゝめなどしつ、別わかれを吿つげて宿所に還かへり、その夜額藏よがくざうにのみ、糠助が遺言ゆいげんのよしを物かたり、玄吉が痣あざの事、玉の事を吿つげにければ、額藏聞きゝて驚嘆し、「これ必吾黨かならずわがたうの人ならん事疑ひなし。この身が隨まゝになるならば、今にも其處そこへ赴おもむきて、見まほしくこそ候へ」、と密語さゝやきあへず立別たちわかれ、詰朝あけのあさとく起おきて、糠助を訪とはんとせしに、その近鄰きんりんの莊客詣來ひやくせうまうきて、糠助はこの曉に、身まかりたるよしを吿つげにければ、信乃は殊ことさらに、これを悼いたみて、しば〳〵蟇六ひきろくに說勸ときすゝめ、永樂錢ゑいらくせん七百文貸與かしあたへて、その夜よ、道場どうじやうへ棺ひつぎを送らせ、日子歷ひがらへて、その家を售うるときに、件くだんの七百文を返し納いれさせ、殘れる錢ぜにと、最褊いさゝかなる田圃たはたは、彼かの道場へ寄進して、糠助夫婦、そが代々だい〳〵の、香花かふげの料にしたりけり。この事莊官せうくわん蟇六が計はからひて、その鄰人りんじんに指揮さしづしたれど、實まことは信乃が蟇六に、說勸ときすゝめたるよしを、誰たれいふとはなく僉みな知りて、「この人莊官たらんには、慈善にして下しもを伸育のだつる、われらが爲の父母ふぼなるべし。とく代り給へかし」、といはざるものはなかりけり。

 不題こゝにまた、管領家くわんれいけの退糧人らうにんに、網乾左母二郞あぼしさもじらうといふ壯佼わかうどありけり。近き比ころまで、扇谷修理大夫定正あふぎがやつしゆりのたいふさだまさに仕つかへて扈從こせうたり。便佞利口べんねいりこうのものなれば、一トたびは寵用ちやうようせられて、人を戕そこなふこと多かり。よりて、傍輩はうばいに强訴ごうそせられて、忽地たちまちにその非義發覺ひぎあらはれ、軈やがて追放せられけり。そが父母ちゝはゝは往さきに世を逝さり、いまだ妻子やからもあらざれば、遠緣とほえんのものをよるべに、大塚おほつかの鄕さとに流浪さそらひ來つ、糠助が舊宅きうたくを購得あがなひもとめて、形かたのごとく膝ひざを容いれたり。さればこの左母二郞は、今茲ことし二十五歲にして、面色素いろしろく、眉目秀まゆひいでて、鄙ひなには稀まれなる美男なり。手迹しゆせきは大師樣だいしやうと見えて、草書拙はしりかきつたなからず。加旃しかのみならず、遊藝ゆうげいは、今樣いまやうの艷曲ざれうた、細腰鼓こつゞみ、一節切ひとよきりなンど、習ひうかめずといふことなし。犬塚番作いぬつかばんさく身まかりし後のち、里に手跡しゆせきの師匠しせうなければ、左母二郞は、每日ひごとに、手習子てらこを集あつめて生活なりはひとし、又女めの子こには、歌舞かぶ今樣いまやうを誨をしゆるに、浮うきたる技わざを好むもの、都も鄙ひなも多さはなれば、手迹しゆせきにまして遊藝の、弟子をしえご日々に聚來つどひきつ、打囃うちはやし舞ふ程に、是首ここの少女をとめ、彼首かしこの孀婦やもめと、仇あだなる名さへ立たつもあれど、龜篠かめさゝはわかき時より、漫そゞろに好む技わざなれば、左母二郞が事としいへば、をさ〳〵夫をつとに執成とりなすにより、渠かれを憤いきどほるものありといへども、蟇六ひきろくは聞かぬ態ふりして、遂つひに網乾を追おはざりけり。

 かくてその年の終りに、城主大石兵衞尉ぜうしゆおほいしひやうゑのぜうが陣代ぢんだい、簸上蛇太夫ひかみじやだいふといふもの身まかりつ。次つぐの年五月さつきの比ころ、蛇太夫が長男、簸上宮六ひかみきうろく、亡父ぼうふの職祿しよくろくを賜りて、新陣代になりにければ、その屬役軍木五倍二したつかさぬるてごばいじ、卒川奄八等いさかはいほはちらと共に、夥あまたの若黨奴隸わかたうしもべを將いて、彼此をちこちを巡檢じゆんけんし、その夜よは、莊官蟇六許止宿がりししゆくしてけり。蟇六は豫かねてより、饗膳けうぜんの准備てあてして、佞媚賄賂こびまいなはずといふことなく、勸盃けんはいすべて禮に過すぎたり。折しも庚申こうしんなりければ、龜篠は夫に勸すゝめて、綱乾左母二郞を招まねきよせ、庚申守こうしんまちに假托かこつけて、歌曲の遊樂あそびを催すに、女兒自慢むすめじまんの癖くせなれば、濱路はまぢには殊更ことさらに、花手はでやかなる羅衣被うすきぬきせて、わりなくその席むしろに侍はべらせ、或あるは酌しやくを執とらせ、又筑紫琴つくしことを奏かなでさせ、左母二郞には、例の艷曲ざれうたを謌うたはせつゝ、をさ〳〵興きやうをそえにけり。濱路はかゝる席むしろに侍りて、見もせぬ人々に、馴々なれ〳〵しく物をいひかけられ、賸あまさへ網乾と臂ひぢを連ねて、おのが拙つたなき絃いとのしらべを、賓客達まれびとたちに聽きかせん事、信乃が思はんことのをしくて、心裏恥うらはづかしき限りなれども、親には爭ふべくもあらず、困こうじて纔はつかに一曲を奏かなつるに、陣代簸上宮六等らは、醉顏蕩すいがんとろけて燈燭ともしびと、光をあらそへども愧はぢず、眼まなこを細くして、濱路をかへり見、聲を太くして、その節奏しらべを譽興ほめきやうじ、扇あふざを短くとりて、節ふしを拍はやし、鼻下はなのしたを長くして、涎よだれの流るゝを覺えず。長短細大ちやうたんさいだい、我われを忘れて、賑然がやがや*と笑ひたのしみ、「眞まこと、今宵こよひの管待もてなしは、美酒びしゆもいまだ美を盡さず、膳部ぜんぶもいまだ善を盡さず、唯令弱たゞむすめごの一曲のみ、玄げんの又玄またげん、玄賓僧都げんひんそうづも、聽聞ちやうもんせば墮落だらくせん。妙めうの又妙まためう、妙音天女めうおんてんぢよも、合奏せば撥ばちを投なげん。吁有あらありがたの音樂や。おもしろの今の音樂や」、と訛聲合だみこゑあはして謠うたふになん、濱路は慚はぢて、且腹かつはらたゝしさに、其處そこに得堪えたヘず散動どよみに紛まぎれて、減けぬるが如く退しりぞきけり。

 されば亦左母二郞またさもじらうは、管領家くわんれいけの退糧人らうにんなれども、宮六等は鐮倉へ、在番ざいばんせしものならざれば、迭かたみにこれを識しることなし。網乾あぼしはその性浮薄さがふはく也。かゝる遊興の席むしろを累かさねし、嗚呼をこの浪子わざをぎなりければ、虛辯きよベんをさ〳〵媚こびを呈して、盃さかづぎを勸すゝむるに趣おもむきあり。又をり〳〵秀句しうくを吐きて笑ひを催し、宮六等を稱して殿とのといひ、檀那だんなと唱となへ、蟇六ひきろくを大人たいじんと稱し、龜篠かめさゝを奧方おくかたとし、給事きうじの奴脾ぬひを姉樣あねざまと喚よび、下男げなんをすべて先生せんせいといふ、稱呼繽紜德操せうこひんうんとくさうなき、是これ兒輕薄けいはくじの習俗ならひなり。すべてかうやうの席むしろには、聲色せいしよくを嗜たしまざる、老實者まめやかびとは愚ぐなるが如し。彼紂王かのちうわうが、比干ひかんをもて、不肖ふせうとし、又|儵忽しゆくこつが、混沌こんとんを、不具かたはと思ひし、これと同じ。かゝれば信乃しのはこの夜さり、ひとり子舍へやに引籠ひきこもりて、燈下とうかに兵書ひやうしよを繙ひもとくのみ、その席むしろに入いらねども、蟇六も亦またこれを問はず、故もとより思ふよしあれば、陣代には信乃が事を、一句も披露ひろうせざりけり。かくて鷄鳴曉けいめいあかつきを吿つぐる程に、稍盃盤やゝはいばんをとり納め、蟇六は、宮六等に、「忝かたじけなし」と敬いやまひ謝しやして、更さらに早飯あさいひを勸すゝむるに、宿酒しゆくしゆいまだ醒さめざれば、各おのおのよくも食くらはず、なほ彼此をちこちを巡めぐらんとて、三ン人齊一立出ひとしくたちいづれば、暮六は遽いそがはしく、その從者ともひとにうち雜まじりて、村盡處むらはつれまで送りけり。

【挿絵説明】「艷曲ゑんきよくを催もよほして蟇六ひきろく權家けんかを管待もてなす」「ひき六」「あぼし左母二郞」「いさ川庵八」「ひかみ宮六」「龜さゝ」「ぬるて五倍二」「はまぢ」
岩波文庫「南総里見八犬伝」(二)から

 是これより先に龜篠は、日待月待ひまちつきまちの折に觸れて、網乾左母二郞を招きつゝ、艷曲ざれうたを聽く程に、左母二郞は早晚いつしかに、濱路を看みて思ひを焦こがし、人目の關をしのび〳〵に、言葉の露を結びかけて、淫みだりかはしき色を見せ、或あるは亦また、鳥の跡あとを媒妁なかたちにて、筆に物をぞいはせたる。いかなる事を書かきたりけん、濱路は手にだに觸れずして、いといたう罵辱のりはづかしめ、後のちには網乾が來る每ごとに、避さけて再び面おもてを對むかへず。現げに人の性さがばかり、習ひにもよらざりけり。さればこの少女をとめは、その心ざま親に似ず、行おこなひよろづに貞たゞしくて、信乃には親の口くちづから、豫かねて許せしよしあれども、それすらいまだ婚姻こんいんを、とり結むすばざる夫をとこなれば、迭かたみに親したしく物いはず。況まいて浮うきたる風流士みやびをに、名を立たてらるゝ事あらば、女子をなこの恥辱ちぢよくこのうへあらじ、とふかく念じてこれらの人を、引入れたる母親を、心つきなしと思ひけり。さるにより、簸上宮六ひかみきうろく等らが止宿ししゆくせし夜よ、二親おやがわりなくも、濱路を給仕に侍はべらして、左母二郞共侶もろともに、琴よ曲子こうたと晴はれがましく、酒宴の興をそえさせたる、いと朽くちをしく思ふものから、人の諫いさめを用ひざる、親の氣質に推辭いなみかたくて、こよなき羞はぢ也、と歎なげきつゝ、稍やゝ一曲を奏かなでし也。

 濱路はかくのごとくなれども、母龜篠かめさゝがこゝろは異ことなり。龜篠日來ひごろ思ふやう、「件くだんの網乾あぼし左母二郞は、鐮倉武士の浪人とか聞えて、いと愛めでたき美男なり。渠かれがいふよしを聞くに、鐮倉にありし日は、食祿五百貫を宛行あておこなはれ、しかも近習きんじゆの首かみに處をれば、殿とののおん寵おぼえ大かたならず、出頭しゆつとう第一なるをもて、傍輩はうばいふかく媢そねみて黨たうを樹たて、頻しきりに讒言ざんげんしたるにより、身の暇いとまを賜りしかども、原是もとこれ殿のおん志こゝろさしにはあらず。かゝれば近きに、召返めしかへさるべき御內意ごないいあり、この里の僑居わびすまひは、霎時しばしが程にあらんといへり。この人今は窶々やつ〳〵しくとも、その言ことのごとくならば、遠からずして歸參きさんせん。管領家くわんれいけの出頭人きりものを、吾女壻わがむこに招とらん事、その時には及びかたし。今より情なさけを被かけんには、彼のちの榮利ゑのりとなることあるべし。親の心を子はしらで、鈍おぞや濱路が只管ひたすらに、信乃を良人をつとと思ひとりてや、婚姻こんいんを待まちわびしげなる。曩さきにはちらと見つけし事あり。可惜女兒あたらむすめを可愛氣かわいけのなき、甥おひに一ト口態進ふるまふては、田蛭たひるに噬入くひいれらるゝが如く引放ひきはなすとき血で血を洗ふ、後々のち〳〵までも痛みにならん。此これに由よりて彼かれを推おせば、網乾が濱路に意こゝろありとも、後々のち〳〵の害にはならず。濱路が信乃に情ぜうを寓よせては、久後ゆくすゑさへに憑たのもしからず。又また利を捨すてて、男を取るとも、左母二郞は美男なり。手迹愛しゆせきめでたく遊藝ゆうげいさへ、何なに暗からず、音曲妙うたこゑめう也。これ粹中すいちうの粹すいなるもの、信乃と同日どうじつの論にはあらず。大年よきとししたる吾儕わなみでも、良人をつとがなくは思案も狂くるはん。かゝれば濱路に信乃が事を、思ひ絕きらする囮をとりには、綱乾にますものあらじ」、とおもひて、世の嘲あざけりをも、里人等さとひとらが憤いきどほりをも見かへらず、折に觸れ、事に托よせて、しば〳〵網乾あぼしを招きしかば、左母二郞さもじらうは懲こりずまに、且まづその親に副馴とりいりて、いかで濱路を手に入れん、と思ふこゝろの色見えて、要緊えうきんの事ある日にも、龜篠に招まねかるれば、使つかひとゝもにゆかざる事なく、途みちに蟇六ひきろくに逢あふ時は、雨中うちうといへども木屨ぼくりを脫はづし、斗米とべいの爲にあらずして、折かゞむる腰の低ければ、莊官夫婦は只顧ひたすらに、その佞眉こびらるゝを歡よろこびて、貳になきものにぞ思ひける。

南総里見八犬伝現代語訳サイト(第二十三回)

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