南総里見八犬伝(024)

南總里見八犬傳第三輯卷之一第二十三回
東都 曲亭主人 編次

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【挿絵説明】「糠助ぬかすけ懺悔さんげ物語ものかたり窮客きうするたびゝと稚兒をさなこいだきてなげんとす」
岩波文庫「南総里見八犬伝」(二)から

犬塚いぬつか義遺託ぎゐたくうけひ
網乾あぼし謾歌曲そゞろにかきよく

 犬塚信乃戍孝いぬつかしのもりたかは、伯母夫大塚蟇六をばむこおほつかひきろくいへ移居うつりすまひしより、嫌忌けんきうちに日をわたり、年を送れば、里人さとひとなどには、親しくも物いはず。たゞ彼百姓糠助かのひやくせうぬかすけのみ、舊馴染ふるきなじみと、伯母も許して、信乃がゆゑに疑はず。その性愚直さがぐちよくなればなり。げにこの老人おきなは、信乃が爲に、言葉敵ことばかたきになるものならねど、おろかなる隨僞まゝいつはらず、よろづに實意まごゝろあるものなれば、信乃はその木ぼくとつの、じんにちかきを愛しつゝ、その門邊かどべよぎる日は、たちながら安否あんひを問ひ、はじめにかはらず交參まじらひけり。かゝりし程に、糠助が女房にようばうは、去歲こぞの秋身まかりつ。長き病著いたつきなりけるに、きはめ寒家まづしきくらしにあなれば、はて藥價くすりのしろ續かず。このとき信乃は糠助に、圓金一兩こばんいちりやう贈與おくりあたへて、藥料やくりやうたすけにしたり。しかれども、蟇六龜篠等ひきろくかめさゝらはこれをしらず。されば信乃が今にして、これらの貯祿たくはへあるよしは、父番作ばんさくのこせる也。番作貧まづしかりしかど、身まかりしのちに見れば、鎧櫃よろひびつの底に、圓金こばん十兩あり。「このかね三ッが一ッもて、わがほうむりの事にみてよ。そのひそかに腰につけて、身の爲また友の爲に、肝要かんえうの事あらば、用ひよ」、と書遺かきのこしたり。亦是後またこれのちのちまでを、おもひはかりし親の恩、いたゞかねも湯とわかん、淚と共に袖にかくして、龜篠等にはこれをつげず、「貯祿たくはへありや」、ととはれしとき、そのかね三兩をいだして、棺槨墓碑くわんくわくぼひの料としつ。又父の三十五日をひけるに、また一兩を伯母に遞與わたして、法筵酒食はうえんしゆしよくの料とせり。蟇六も龜篠も、これらの金にはをりて、「なほ有りや」、ととひしとき、「これのみ也」とこたへしかば、「さならん」、と思ひつゝ、そののちとはざりけり。「かくてこの七八年、伯母夫婦と同居すなれば、彼番作田かのばんさくたは名のみにて、わが爲にはえならず。われには舊衣ふるきをのみせて、不自由ならずといふ事なけれど、美味美服をねがはざれば、親の遣財いざいを減らすことなし。しかれどもかの糠助は、わが犬、與四郞よしらうが事につきて、うれひともにせし日もありけり。その艱難かんなんを救はずは、我只彼われたゞかれそむく也」、とこゝろひとつに思ひとりて、ひそかに金をおくりしかば、糠助夫婦は、感淚かんるいとゞめあへず、只管ひたすら信乃を伏拜ふしおがみて、その信義を賞嘆し、藥劑くすりもとめて用ひしかども、定業じやうごうなればにや、その妻はなくなりにき。

 しかるに今茲七月ことしふつきころより、糠助亦時疫またときのけにて、うち臥せしより頭揚まくらあがらず。流行病はやりやまひ傳染うつるおそれて、人おほかたはよりつかず。しかるも信乃はしのび〳〵に、糠助が宿所にいゆきて、湯液くすりせんじ、食事しよくじすゝめ、又わがいとまなき時は、額藏がくざうにこゝろ得さして、ひそかにこれをつかはしつゝ、とらする日もありけるに、今その病危やまひあやうし、と龜篠がつげしかば、信乃はとるものとりあへず、いそがはしくいゆきて見るに、邪熱じやねつやうやくいりて、とり亂したる事はなけれど、そのおとろへは日にましたり。さて枕方まくらべひざを進めて、「心地こゝちはいかに、糠助阿爺おぢ。信乃が來て候は」、といふに臥しつゝ熟視つらつらみて、おきなほらんとするにかなはず、いと苦しげにうちしはぶき、「犬塚ぬし、よくぞ來ませし。年來としころ日ごろねんごろに、愛憐被あはれみかけて給はりし、むくひもせずわかれになりぬ。某今茲それがしことしは六十一歲、女房にはおくれたり。貯祿たくはへもなく、氏族うからもなければ、うしろやすきに似たれども、心かゝりがたゞひとつ」、といひあへずさしふさぐ、つかえいきをとゞむれば、信乃は手ばやく湯液くすりあたゝめ、只管ひたすらすゝめしかば、糠助咽喉ぬかすけのんどうるほして、「心かゝりは、ありとしも、人にはつげざる、わが子の事のみ。某原それがしもと安房國あはのくに洲崎すさきのほとりの土民どみんなり。耕作こうさく漁獵すなとりとに、ともかくもして世を渡るに、長祿ちやうろく三年十月下旬、先妻に男兒出生をのこゞいできて、玄吉げんきちと名つけたり。いとすくよかに見えたるに、母は產後のまゝ肥立ひたゝず、に乏しかりければ、ちごさへ脾疳ひかんやまひつきて、母の看病、その子の介抱かいほう、耕作網引あびきよそにして、はやふたとせになりしかば、物おほかたは售殫うりつくし、あまつさへ女房は、つひにむなしくなりにけり。あとに殘るは借錢しやくせんと、この年はつかに二歲の稚兒をさなこ、わが身ひとつにははぐゝみかたし。いかで養ふ人もがな、と庶幾こひねがへども貰乳もらひちもて、からそだつ稚兒をさなこなれば、瘦髐やせさらばひて餓鬼がきの如し。養育錢やういくしろを贈らでは、もらはんといふ人のなければ、せんすべつきたる出來できこゝろ、洲崎の浦はれいとて、役行者えんのぎやうじやいはむろあれば、殺生禁斷せつせうきんだんせられたり。このゆゑに、介鱗其處うろくずそこあつまりて、網代あじろなき生洲いけすに似たり。ひそかあみおろすならば、一ひとよさにして數貫すくわんぜにを、ることやすし、と思ひしかば、いつはりて稚兒をさなこを、霎時鄰家しばしとなりあづけつゝ、烏夜やみまぎれて彼禁斷所かのきんだんしよへ、舟漕入ふねこぎいれて曳鯛ひくたひは、たびかさならねど人にしられて、忽地たちまちとらへられ、國守こくしゆちやうひかれにけり。のがるべきみちのなければ、柴漬ふしつけつみさだめられ、しばら獄舍ひとやつながれしに、折もよくその秋は、國守里見殿さとみとのおくざま五十子いさらごうへまたおん愛女伏姬まなむすめふせひめうへの、三回忌に當らせ給へば、俄頃にはか大赦たいしやおこなはれて、吾儕わなみも死罪をなだめられ、やがて追放せらるゝ日、迺守すなはちかみのおん慈悲により、村長むらをさあづけられたる、小兒しやうに玄吉を、返し下されたりければ、鄙言ことわぎにいふ難有迷惑ありがためいわくやむことを得ず稚兒をさなこを、おひつ、いだきつ安房をおはれ、上總かつさよぎりて下しもふさなる、行德ぎやうとこまで來つるみち艱難かんなん乞食熟こしきなれねば親も子も、餓勞うへつかれてせんすべしらず。役行者えんのぎやうじやをしませ給ふ、介鱗うろくずすなとりし、冥めうばつはなほかくてものがれず、みちたふれて死恥しにはぢを、さらさんより親子共侶もろとも、身をなぐるこそますらめ、と思決おもひさだめて名もしらぬ、橋の櫛干らんかんに足をふみかけ、跳沒おどりいらんとしつる折、武家の飛脚ひきやくとおぼしき人、くだんの橋を渡りかゝりて、いそがはしくいだとゞめ、推引居おしひきすえねんごろに、緣故ことのもととはれしかば、懺悔さんげの爲に恥を忍びて、一五一十いちぶしゞうつぐるになん、その人、きゝてふかくあはれみ、『原來さてはなんぢもとよりの惡人にはあらざりけり。われは鐮倉殿かまくらとの足利成氏あしかゝなりうぢをいふ)の御內みうちにて、小祿卑職せうろくひしよくのものなれども、聊慈善いさゝかぢぜんの志願あり。その故は、とし四十よそぢに餘るまで、子はもちながら子こそだてなし。されば年來としころ、夫婦心をひとつにして、神佛しんぶつを祈念したてまつり、又身にかなふべき事は、人の艱苫かんくすくはん、と心に誓ふも久しくなりぬ。しかるに汝はことにして、一子ひとりこをもてあまし、親子ほと〳〵しなんとせり。人さま〳〵の浮世うきよ也。らばその子をわれに得させよ。ともかくもしてやしなはん』、とよにたのもしくいはれしかば、その時のかたじけなさ、息絕いきたはしくてまはらぬ舌には、說盡ときつくさずとも察し給へ。地獄であひし佛、と思へば更に一議に及ばず、そがいふまゝに承引うけひきて、たゞ感淚を推拭おしぬぐへば、彼人かのひとかさねて、『われは殿のおん飛脚にて、安房あはの里見へおもむきたる、かへさなればわたくしに、稚兒をさなこたづさへかたし。このわたりには定宿じやうやどあり。いへあるじに相譚かたらふて、しばらくその子を預けおき、鐮倉へたちかへりて、をんなにもよしをつげ、日ならずしてむかへとるべし。見るにその子は焦悴やつれたれども、武藏むさしなる神奈川かながはには、小兒五疳せうにごかん妙藥めうやくあり。これを用ひば效驗こうげんあらん。既に親子とならんには、われ等閒なほざり字育はぐゝまんや。けふよりうしろやすく思ふて、こゝろさすかたあらば、とくおもむきね』、とさとしつゝ、路費ろようにせよとて、懷中くわいちうなる、方金二顆ぶばんふたつとりいだし、晝餉ひるけりやう、腰につけたる、割籠わりこと共にたびしかば、辭するによしなく受納うけおさめ、重々かさね〴〵の恩義をしやして、玄吉げんきちすかしこしらへ、遞與わたせばやをらいだきとりて、舊來もときしかたへ立戾るを、つく〴〵と見送りたる、よろこはしくも悲しくて、これなん親子一生涯のわかれなれども、養親やしおやの、名をも得問えとはず、われも名なのらず。こゝにはじめて恩愛の、重荷をばおろしても、つき名殘なごり葛飾かつしかの、行德濱ぎやうとこはまより便舩びんせんして、江戶えどわたりに赴きつ、聊相識いさゝかあひしる人あれば、この大塚おほつかに流れ來て、農家に奉公する程に、その冬和君わきみは生れ給へり。かくてつぐの年、この家の先住せんぢうなる、籾七もみしちといふもの身まかりて、後家ごけ入夫いりうともとむるとて、ある人に媒妁なかたちせられ、その名迹めうせきつぎたれども、一舛瓢いつせうふくべいつでも一舛いつせう、年中未進みしんはたられて、水のみあへぬ瘦百姓やせひやくせう、人には嗚呼をこ白物しれもの、とおとしめられても腹たゝず、故鄕こけうかもせしわざはひは、ひんぬすみとがなれば、心をせめむさぼらず、たゞ正直をむねとして、朝な〳〵に手を合せ、小角せうかくさまへ罪障ざいせうを、勸解わび奉るも十八年、その每月つきごと會日ゑにちには、鹽鰯しほいはしでもはしにはかけず、其精進そのせうしん年夥としあまた、送るは誰爲たがため、玄吉は、つゝがなく生育おひたてかし、人なみなみの人になれ、と願ふものから去歲こぞ身まかりし、妻にもつげざるわが子のうへを、今臨終しにきは口走くちはしり、和君わきみつぐるは凡庸よのつねならぬ、信義をかねてしればなり。かくいへばとて、風を追ひ、影をとるよりなほ果敢はかなき、わが子のうへをしるにもあらねど、鐮倉の前管領家さきのくわんれいけ(持氏成氏をさしてしかいふ)は、番作ばんさくぬしの主しゆうすぢならずや。されば亦成氏朝臣またなりうぢあそんは、兩管領、山內顯定やまのうちあきさだぬし、扇谷定正あふぎがやつさだまさぬしと不和にして、鐮倉のおん住ひかなはせ給はず、許こがの城に移らせ玉ひ、其處そこをもおはれて近ころは、千葉ちばの城にまします、と世の風聞ふうぶんに傳へきけり。しからばわが子玄吉も、その養親やしおやも役に從ひ、下總千葉しもふさちばにあらんずらん。和君わきみもし許我殿こがとの(成氏をいふ)へ、參り玉ふ事ありて、その便宜びんぎをもて玄吉を、ることあらばこれらのよしを、しのびやかに傳へてたべ。わが子はまことの親あるよしを、しらでをらば是非もなし。ほのかに傳へ聞く事あらば、すこしは心にかゝるべし。よしや目今環會たゞいまめぐりあふとも、親子かたみ面忘おもわすれして、名なのるよすがはあらざめれど、かれは生れながらにして、右の頬尖ほゝさきあざありて、形牡丹ぼたんの花に似たり。又かれが生れたるしちには、ことほぎの爲、わがつりせし、たひ庖丁ほうちやうしたりしに、うをの腹に玉ありて、文字もんじのごときもの見えたり。とり產婦さんふよませしに、『これまこととかしんの字に似たるやう也』といへり。よりてかれ臍帶ほそのをもろ共、護身嚢まもりふくろに納めつゝ、『長祿ちやうろくねん、十月廿日誕生たんせうす。安房あは住民ぢうみん糠助ぬかすけ一子いつし玄吉げんきち初毛臍帶うぶけほそのをならび感得祕藏かんとくひさうたま』、と母が手づからしるしつけたる、國字ひらかなにしてくぎをれの、曲りなりにも讀めつべし。渠物情かれものこゝろを知るころまで、失はずは今なほあらん。これらを證据せうこにし給ひてよ。まぎれあるべくもあらずかし。さてもやくなき事にこそ、傍痛かたはらいたく思はれけめ。今朝けさまでは舌强したこはりて、これ程には物いはれざりしに、今和君わきみおもてを見て、心地淸々こゝちすがすがしくおぼゆるも、燈將ともしひまさきえんとして、光をますたぐひなるべし。末遙すゑはるかなる弱冠わかうどにをはすれば、つとめ發跡なりいで給へかし」、といひつゝしきりに落淚す。いにしへけんしやことに、鳥のまさしなんとするとき、そのなくことかなしく、人のまさしなんとするとき、そのいふことよしといへり。糠助ぬかすけ今般いまはことばも、生つねにはいたたちまさりて、あはれかしこく聞えたり。

 信乃は彼玄吉かのげんきちが、あざの事玉の事、わが身に思ひあはせつゝ、大かたならず感嘆し、「阿爺おぢよ、こゝろ得たり。けふはじめてしるおん身が素生すせうあやまち*て改めたる、年來としころ深信精進しんしんせじみ、人およばざる事になん。加旃子息しかのみならずしそくのうへに、われと暗合あんがうする事あり。過世すくせちぎりとおぼゆれば、まだ見ぬいろねのこゝちぞする。折をば、下總しもふさおもむきて、その宿所をたづねんに、養父の姓名をしらずといふとも、證据せうこくさ〴〵分明ふんめうなれば、環會めぐりあはざることはあらじ。これらのことをねんとせで、しば〳〵湯劑くすりを用ひ給へ。も來て看病せまほしけれど、親類に寄宿きしゆくすなれば、思ふにまかせぬ事多かり。さばれ一卜たびうけひたる、ことば金石變改きんせきへんかいなし。こゝろやすく思ひ給へ」、といらへつゝなほさま〳〵に、いたはり慰めたりければ、糠助はたなそこを、うちあはして拜むのみ、哀情あいぜう胸にふたがりてや、またいふ事もなかりけり。

 かくてはや、黃昏たそがれになりにければ、信乃は行燈あんどんに火を點し、再び劑湯くすりすゝめなどしつ、わかれつげて宿所にかへり、その夜額藏よがくざうにのみ、糠助が遺言ゆいげんのよしを物かたり、玄吉があざの事、玉の事をつげにければ、額藏きゝて驚嘆し、「これ必吾黨かならずわがたうの人ならん事疑ひなし。この身がまゝになるならば、今にも其處そこおもむきて、見まほしくこそ候へ」、と密語さゝやきあへず立別たちわかれ、詰朝あけのあさとくおきて、糠助をとはんとせしに、その近鄰きんりん莊客詣來ひやくせうまうきて、糠助はこの曉に、身まかりたるよしをつげにければ、信乃はことさらに、これをいたみて、しば〳〵蟇六ひきろくに說ときすゝめ、永樂錢ゑいらくせん七百文貸與かしあたへて、その道場どうじやうひつぎを送らせ、日子歷ひがらへて、その家をうるときに、くだんの七百文を返しいれさせ、殘れるぜにと、最褊いさゝかなる田たはたは、かの道場へ寄進して、糠助夫婦、そが代々だい〳〵の、香花かふげの料にしたりけり。この事莊官せうくわん蟇六がはからひて、その鄰人りんじん指揮さしづしたれど、まことは信乃が蟇六に、說勸ときすゝめたるよしを、たれいふとはなくみな知りて、「この人莊官たらんには、慈善にしてしも伸育のだつる、われらが爲の父母ふぼなるべし。とく代り給へかし」、といはざるものはなかりけり。

 不題こゝにまた管領家くわんれいけ退糧人らうにんに、網乾左母二郞あぼしさもじらうといふ壯佼わかうどありけり。近きころまで、扇谷修理大夫定正あふぎがやつしゆりのたいふさだまさつかへ扈從こせうたり。便佞利口べんねいりこうのものなれば、一トたびは寵用ちやうようせられて、人をそこなふこと多かり。よりて、傍輩はうばい强訴ごうそせられて、忽たちまちにその非義發覺ひぎあらはれ、やがて追放せられけり。そが父母ちゝはゝさきに世をり、いまだ妻子やからもあらざれば、遠緣とほえんのものをよるべに、大塚おほつかさと流浪さそらひ來つ、糠助が舊宅きうたく購得あがなひもとめて、かたのごとくひざいれたり。さればこの左母二郞は、今茲ことし二十五歲にして、面色素いろしろく、眉目秀まゆひいでて、ひなにはまれなる美男なり。手迹しゆせき大師樣だいしやうと見えて、草書拙はしりかきつたなからず。加旃しかのみならず遊藝ゆうげいは、今樣いまやう艷曲ざれうた細腰鼓こつゞみ一節切ひとよきりなンど、習ひうかめずといふことなし。犬塚番作いぬつかばんさく身まかりしのち、里に手跡しゆせき師匠しせうなければ、左母二郞は、每日ひごとに、手習子てらこあつめ生活なりはひとし、又には、歌舞かぶ今樣いまやうをしゆるに、うきたるわざを好むもの、都もひなさはなれば、手迹しゆせきにまして遊藝の、弟子をしえご日々に聚來つどひきつ、打囃うちはやし舞ふ程に、是首ここ少女をとめ、彼かしこ孀婦やもめと、あだなる名さへたつもあれど、龜篠かめさゝはわかき時より、そゞろに好むわざなれば、左母二郞が事としいへば、をさ〳〵をつと執成とりなすにより、かれいきどほるものありといへども、蟇六ひきろくは聞かぬふりして、つひに網乾をおはざりけり。

 かくてその年の終りに、城主大石兵衞尉ぜうしゆおほいしひやうゑのぜう陣代ぢんだい簸上蛇太夫ひかみじやだいふといふもの身まかりつ。つぐの年五月さつきころ、蛇太夫が長男、簸上宮六ひかみきうろく亡父ぼうふ職祿しよくろくを賜りて、新陣代になりにければ、その屬役軍木五倍二したつかさぬるてごばいじ卒川奄八等いさかはいほはちらと共に、あまた若黨奴隸わかたうしもべて、彼此をちこち巡檢じゆんけんし、そのは、莊官蟇六許止宿がりししゆくしてけり。蟇六はかねてより、饗膳けうぜん准備てあてして、佞媚賄賂こびまいなはずといふことなく、勸盃けんはいすべて禮にすぎたり。折しも庚申こうしんなりければ、龜篠は夫にすゝめて、綱乾左母二郞をまねきよせ、庚申守こうしんまち假托かこつけて、歌曲の遊樂あそびを催すに、女兒自慢むすめじまんくせなれば、濱はまぢには殊更ことさらに、花手はでやかなる羅衣うすきぬきせて、わりなくそのむしろはべらせ、あるしやくらせ、又筑紫琴つくしことかなでさせ、左母二郞には、例の艷曲ざれうたうたはせつゝ、をさ〳〵きやうをそえにけり。濱路はかゝるむしろに侍りて、見もせぬ人々に、馴々なれ〳〵しく物をいひかけられ、あまさへ網乾とひぢを連ねて、おのがつたないとのしらべを、賓客達まれびとたちきかせん事、信乃が思はんことのをしくて、心裏恥うらはづかしき限りなれども、親には爭ふべくもあらず、こうじてはつかに一曲をかなつるに、陣代簸上宮六は、醉顏すいがんとろけて燈ともしびと、光をあらそへどもはぢず、まなこを細くして、濱路をかへり見、聲を太くして、その節奏しらべ譽興ほめきやうじ、あふざを短くとりて、ふしはやし、鼻下はなのしたを長くして、よだれの流るゝを覺えず。長短細大ちやうたんさいだいわれを忘れて、賑然がやがや*と笑ひたのしみ、「まこと今宵こよひの管もてなしは、美びしゆもいまだ美を盡さず、膳部ぜんぶもいまだ善を盡さず、唯令弱たゞむすめごの一曲のみ、げん又玄またげん玄賓僧都げんひんそうづも、聽聞ちやうもんせば墮落だらくせん。めう又妙まためう妙音天女めうおんてんぢよも、合奏せばばちなげん。吁有あらありがたの音樂や。おもしろの今の音樂や」、と訛聲合だみこゑあはしてうたふになん、濱路ははぢて、且腹かつはらたゝしさに、其處そこ得堪えたヘ散動どよみまぎれて、けぬるが如く退しりぞきけり。

 されば亦左母二郞またさもじらうは、管領家くわんれいけ退糧人らうにんなれども、宮六等は鐮倉へ、在番ざいばんせしものならざれば、かたみにこれをることなし。網乾あぼしはその性浮薄さがふはく也。かゝる遊興のむしろかさねし、嗚呼をこの浪わざをぎなりければ、虛きよベんをさ〳〵こびを呈して、さかづぎすゝむるにおもむきあり。又をり〳〵秀句しうくを吐きて笑ひを催し、宮六等を稱して殿とのといひ、檀那だんなとなへ、蟇ひきろく大人たいじんと稱し、龜篠かめさゝ奧方おくかたとし、給事きうじ奴脾ぬひ姉樣あねざまび、下男げなんをすべて先生せんせいといふ、稱呼繽紜德操せうこひんうんとくさうなき、これ兒輕薄けいはくじ習俗ならひなり。すべてかうやうのむしろには、聲色せいしよくたしまざる、老實者まめやかびとなるが如し。彼紂王かのちうわうが、比干ひかんをもて、不肖ふせうとし、又|儵忽しゆくこつが、混沌こんとんを、不具かたはと思ひし、これと同じ。かゝれば信乃しのはこの夜さり、ひとり子舍へや引籠ひきこもりて、燈下とうか兵書ひやうしよひもとくのみ、そのむしろらねども、蟇六もまたこれを問はず、もとより思ふよしあれば、陣代には信乃が事を、一句も披露ひろうせざりけり。かくて鷄鳴曉けいめいあかつきつぐる程に、稍盃盤やゝはいばんをとり納め、蟇六は、宮六等に、「かたじけなし」といやましやして、さら早飯あさいひすゝむるに、宿酒しゆくしゆいまださめざれば、おのおのよくもくらはず、なほ彼此をちこちめぐらんとて、三齊一立出ひとしくたちいづれば、暮六はいそがはしく、その從者ともひとにうちまじりて、村盡處むらはつれまで送りけり。

【挿絵説明】「艷曲ゑんきよくもよほして蟇六ひきろく權家けんか管待もてなす」「ひき六」「あぼし左母二郞」「いさ川庵八」「ひかみ宮六」「龜さゝ」「ぬるて五倍二」「はまぢ」
岩波文庫「南総里見八犬伝」(二)から

 これより先に龜篠は、日待月待ひまちつきまちの折に觸れて、網乾左母二郞を招きつゝ、艷曲ざれうたを聽く程に、左母二郞は早晚いつしかに、濱路をて思ひをこがし、人目の關をしのび〳〵に、言葉の露を結びかけて、みだりかはしき色を見せ、あるまた、鳥のあと媒妁なかたちにて、筆に物をぞいはせたる。いかなる事をかきたりけん、濱路は手にだに觸れずして、いといたう罵辱のりはづかしめ、のちには網乾が來るごとに、さけて再びおもてむかへず。げに人のさがばかり、習ひにもよらざりけり。さればこの少女をとめは、その心ざま親に似ず、おこなひよろづにたゞしくて、信乃には親のくちづから、かねて許せしよしあれども、それすらいまだ婚姻こんいんを、とりむすばざるをとこなれば、かたみしたしく物いはず。まいうきたる風流士みやびをに、名をたてらるゝ事あらば、女子をなこの恥ちぢよくこのうへあらじ、とふかく念じてこれらの人を、引入れたる母親を、心つきなしと思ひけり。さるにより、簸上宮六ひかみきうろく止宿ししゆくせし、二おやがわりなくも、濱路を給仕にはべらして、左母二郞共侶もろともに、琴よ曲子こうたはれがましく、酒宴の興をそえさせたる、いとくちをしく思ふものから、人のいさめを用ひざる、親の氣質に推辭いなみかたくて、こよなきはぢ也、となげきつゝ、やゝ一曲をかなでし也。

 濱路はかくのごとくなれども、母龜篠かめさゝがこゝろはことなり。龜篠日來ひごろ思ふやう、「くだん網乾あぼし左母二郞は、鐮倉武士の浪人とか聞えて、いとめでたき美男なり。かれがいふよしを聞くに、鐮倉にありし日は、食祿五百貫を宛行あておこなはれ、しかも近習きんじゆかみれば、殿とののおんおぼえ大かたならず、出頭しゆつとう第一なるをもて、傍輩はうばいふかくそねみてたうたてしきり讒言ざんげんしたるにより、身のいとまを賜りしかども、原是もとこれ殿のおんこゝろさしにはあらず。かゝれば近きに、召返めしかへさるべき御內意ごないいあり、この里の僑居わびすまひは、霎時しばしが程にあらんといへり。この人今は窶々やつ〳〵しくとも、そのことのごとくならば、遠からずして歸參きさんせん。管領家くわんれいけ出頭人きりものを、吾女壻わがむことらん事、その時には及びかたし。今よりなさけかけんには、のち榮利ゑのりとなることあるべし。親の心を子はしらで、おぞや濱路が只管ひたすらに、信乃を良人をつとと思ひとりてや、婚こんいんまちわびしげなる。さきにはちらと見つけし事あり。可惜女あたらむすめ可愛氣かわいけのなき、おひに一態進ふるまふては、田蛭たひる噬入くひいれらるゝが如く引放ひきはなすとき血で血を洗ふ、後々のち〳〵までも痛みにならん。これよりかれせば、網乾が濱路にこゝろありとも、後々のち〳〵の害にはならず。濱路が信乃にぜうよせては、久後ゆくすゑさへにたのもしからず。また利をすてて、男を取るとも、左母二郞は美男なり。手迹愛しゆせきめでたく遊藝ゆうげいさへ、なに暗からず、音曲妙うたこゑめう也。これ粹中すいちうすいなるもの、信乃と同日どうじつの論にはあらず。大年よきとししたる吾儕わなみでも、良人をつとがなくは思案もくるはん。かゝれば濱路に信乃が事を、思ひきらするをとりには、綱乾にますものあらじ」、とおもひて、世のあざけりをも、里人等さとひとらいきどほりをも見かへらず、折に觸れ、事によせて、しば〳〵網乾あぼしを招きしかば、左母二郞さもじらうこりずまに、まづその親に副馴とりいりて、いかで濱路を手に入れん、と思ふこゝろの色見えて、要緊えうきんの事ある日にも、龜篠にまねかるれば、使つかひとゝもにゆかざる事なく、みち蟇六ひきろくふ時は、雨中うちうといへども木屨ぼくりはづし、斗米とべいの爲にあらずして、かゞむる腰の低ければ、莊官夫婦は只顧ひたすらに、その佞眉こびらるゝをよろこびて、なきものにぞ思ひける。

南総里見八犬伝現代語訳サイト(第二十三回)

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