日本人と漢詩(076)

◎武田泰淳と杜甫

先日亡くなった大江健三郎の師ともいうべきフランス文学者・渡辺一夫にとってのラブレー、機会があれば紹介予定の「下谷叢話」( 青空文庫)を書いた永井荷風にとっての江戸後期文化、今回の武田泰淳にとっての司馬遷を始めとする中国文学(戦時中、殺戮の歴史というべき、中国通史「資治通鑑」を読み終えた中井正一も付け加えてもいいかもしれない。)は、彼らにとっては時代の風潮に対する抵抗の拠り所になった。彼らの時代とはまた違う困難な現代を生きる私たちにとって、そのよすがが何であるかをふと考えたくなる。
さて、武田泰淳には、戦後、数年を経て短編「詩をめぐる風景」が発表された
そのエピグラフにはこうある。

ー円き荷《はす》は小さき葉を浮かべ
細き麦は軽き花を落すー杜甫

詩の全体は、以下の通りで、五言律詩の頷聯《がんれん》である。

爲農 農と為る
錦裡煙塵外 錦里《きんり》煙塵《えんじん》の外
江村八九家 江村《こうそん》八九家
圓荷浮小葉 円荷《えんか》小葉浮かび
細麥落輕花 細麦《さいばく》軽花落つ
卜宅從茲老 宅を卜《ぼく》して茲これ従り老いん
爲農去國賒 農と為って国を去ること賒《はる》かなり
遠慚勾漏令 遠く勾漏《こうろう》の令に慚《は》ず
不得問丹砂 丹砂を問うことを得ず

語釈、訳文は、杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会
古代文化研究所:第2室などを参照。

『杜甫にとって安住の地であった、蜀成都の草堂も彼にとって安住ばかりはできなかったようだ。『杜甫の奴僕たちにとっては草堂は宿命のようなものである。……奴僕たちは他の世界を知らない」として、外の世界に開かれない宿命をもった奴僕に対し、杜甫は外界を求めてさまよう宿命にあった。「草堂は永いこと杜甫の脳裏にえがかれた幸福の象徴であった。……自然にひたり、草木にうずもれて詩の世界をひろげるために、杜甫は草堂を求めていた」。杜甫は「草堂」という「混沌世界の中に占める自分の一点」を維持してこそ、「幸福の象徴を追い求めながら旅をつづける文学者の生き方」ができたのだと泰淳は描く。
そのような生き方を選ぶ理由を、泰淳は「詩をめぐる風景」という小説において次のように説明する。「安定できず安住できない自分というものが、自分の詩の不安ではあるが新鮮な泉になっている」、「次から次へあらわれてくる諸現象、そしてそれをむかえての自分のもろもろの精神状態のごく複雑な総合が自分の詩をささえている。……それ故、自分の外界が安定しないばかりでなく、自分の内心そのものが広い広いとりとめもない混沌世界であるように思われる。」泰淳が描いた杜甫は、戦乱によって引き起こされる内心の葛藤こそが詩を作る原動力であることを知り、安穏とした草堂生活に留まることができず、「家」を捨て、「漂泊の生涯」を送る詩人であった。』

王俊文 中国戦地の風景を見つめる「喪家の狗」―武田泰淳の日中戦争体験と「風景」の創出― より

逆に、彼はそうした心情を素直に吐露することで、成都の自然(この詩では、円き荷と細き麦)とうまく重ね合わせたくみに詩情を詠いあげているように思われる。「農と為る」は為りきれない彼の吐露をのぞかせる詩題であろう。それにしても、小説では、農奴である阿火と阿桂の若きカップルの結末が哀れである。

成都の草堂は、チベット・ラサからの帰り道、成都に宿泊、そのついでにたっぷり一日訪れたことがある。もちろん、杜甫の時代の草堂とは大違いで、大規模に整備もされ、効率よく杜甫の生涯を辿ること可能だが、散策の道には人も少なく、彼の真情に少し触れることができた。

【参考】
・武田泰淳「中国小説集 第二巻」新潮社(写真)

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