日本人と漢詩(079)

◎高村薫と杜甫、劉長卿、張謂

以前のサーバにあったのだが、その不調で閲覧できない状態になっていたので、改めて稿を起こすことにする。
この本を読んだのが、何年か前に、中国からチベットへ行ったときだった。たしか飛行機の中のような気がする。
ハードボイルドの中の漢詩という取り合わせに興味を惹かれるとともに、中国が近づくにつれ、小説世界の中に入り込んだような錯覚だった。おまけに、ラサで格安の岩塩を買ったのが、北京での手荷物検査に反応し、官憲が飛んできてリュックを開けるよう求められた。中国語で「这就是岩盐」と言おうとしたが、とっさのことで口にできず、「It’s rock salt !」と叫び、ようやく事なきを得た。ヤクの運び屋と間違えられたのかもしれない。とまれ、作中の漢詩は、高村にとって、この小説の叙情的な支えになっているようだ。

小説の大部分は、大阪市の西側、中小の工場がひしめいていた地帯である。子ども時代に、京都から大阪に越してきたが、まず驚いたのは、京都と全く趣が違う十三付近の賑わいであった。それでも、高校時代は時には十三まで「遠征」もしたが、その先となると、まるで異世界のように感じられたものだ。その中で、主人公は、工場経営のかたわら、チャカ(拳銃)の修理補修に勤しんでいたのである。

小説では、数首の漢詩の全体ないし数句が引用され、まず杜甫の詩について軽く触れられる。いづれも「唐詩選」に収録されている。杜甫の五言古詩の全文を示すと、

杜甫 春帰
苔径臨江竹 苔径 江に臨む竹
茅簷覆地花 茅簷 地を覆う花
別来頻甲子 別来 頻りに甲子
帰到忽春華 帰り到れば 忽ち春華
倚杖看孤石 杖に倚りて 孤石を看
傾壷就浅沙 壷を傾けて 浅沙に就く
遠鴎浮水静 遠鴎は 水に浮かんで静かに
軽燕受風斜 軽燕は 風を受けて斜めなり
世路雖多梗 世路 梗(ふさが)るること多しと雖も
吾生亦有涯 吾が生も 亦た涯り有り
此身醒復酔 此の身 醒めて復た酔う
乗興即為家 興に乗じて 即ち家と為さん

語釈は、Web 漢文大系 参照のこと

杜甫の心の片隅には「世路 梗(ふさが)るること多しと雖も吾が生も 亦た涯り有り」との思いもあるが、季節が春だけに、自然描写を背景に、成都の草堂にふたたび帰還した喜びを素直に現す杜甫らしい佳詩である。

次の杜甫「返照」は省略する。「ガラスの迷宮」などのサイトを参照のこと。

次は、作者も変わって、主人公が謎の殺し屋、李歐を大阪市大正区で密航船に見送るシーンで、写真に書き付けた詩だ。

重送裴郞中貶吉州 重《かさ》ねて裴郎中《はいろうちゅう》の吉州《きっしゅう》に貶《へん》せらるるを送《おく》る 劉長卿
猿啼客散暮江頭 猿《さる》は啼《な》き 客《かく》は散《さん》ず 暮江《ぼこう》の頭《ほとり》
人自傷心水自流 人《ひと》は自《おのずか》ら傷心《しょうしん》 水《みず》は自《おのずか》ら流《なが》る
同作逐臣君更遠 同《おな》じく逐臣《ちくしん》と作《な》りて君《きみ》は更《さら》に遠《とお》く
靑山萬里一孤舟 青山《せいざん》 萬里《ばんり》 一孤舟《いちこしゅう》

語釈、訳文は詩詞世界を参照のこと。青山《せいざん》 萬里《ばんり》 一孤舟《いちこしゅう》とは、李歐が岸壁を離れ、逃亡の船で出航するのと、また李歐自体の人生とも重なるようだ。

湖中對酒行 張謂
夜坐不厭湖上月 夜坐《やざ》厭《いと》わず 湖上《こじょう》の月
晝行不厭湖上山 昼行《ちゅうこう》厭わず 湖上の山
心中萬事如等閑 心中《しんちゅう》の万事 等閑《とうかん》のごとし
濁醪數斗應不惜 濁醪《だくろう》数斗《すうと》 応《まさ》に惜まざるべし
主人有黍萬餘石 主人黍《きび》あり 万余石《ばんよこく》
即今相對不盡歡 即今《そっこん》相対《あいたい》して歓《かん》を尽くさずんば
別後相思復何益 別後《べつご》相思《あいおも》うも復た何の益《えき》かあらん
茱萸灣頭歸路賖 茱萸《しゅゆ》湾頭《わんとう》 帰路《きろ》賖《はる》かなり
願君且宿黄公家 願がわくは君且《しばら》く宿《しゅく》せよ 黄公《こうこう》の家
風光若此人不醉 風光《ふうこう》此《か》くの若《ごと》くして人酔わずんば
參差辜負東園花 参差《しんし》として東園《とうえん》の花に辜負《こふ》せん

語釈などは、Web 漢文大系 を参照のこと。

ちょっと、大阪べんの訳もある。

昔、京都の祖母が、父に向かって、「夜道に日は暮れんよってに!」と大阪に帰ろうとするのを引き止めて酒を勧めていたのをふと思い出した。

小説は、思わぬ悲劇のあと、「ユートピア」の入り口で幕を閉じるが、今となっては、意外と現実感は薄く、もうひとりのヒーロー、李歐の印象も、イマイチとも思う。年月のすぎるというのも、こういうことを言うのだろう。

画像は、Wikipedia 劉長卿 より。

参考]
以前の文章
日本人と漢詩(027)
高村薫「李毆」
 阪大にほど近い千里丘陵のアパートから小説は始まり、やがて舞台は大陸へと広がるが、その内容を紹介するのが本筋ではない。ハードボイルド的なタッチの中で、ところどころ、漢詩が挿入されているのが、とても印象的で、「乾いた叙情」ともいうべきだろう。最初は、タイトルだけで、杜甫の「春歸」。白文で示すと
苔徑臨江竹,茅簷覆地花。別來頻甲子,倏忽又春華。
倚杖看孤石,傾壺就淺沙。遠鷗浮水靜,輕燕受風斜。
世路雖多梗,吾生亦有涯。此身醒複醉,乘興即為家。
全唐詩(巻228) https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%A8%E5%94%90%E8%A9%A9/%E5%8D%B7228#.E6.98.A5.E6.AD.B8
語釈と読み下し文は、Web漢文大系参照
https://kanbun.info/syubu/toushisen144.html
張謂と劉長卿の詩は、ブログ内部のリンク参照のこと。
劉長卿の詩の白文は、
猿啼客散暮江頭、人自傷心水自流。
同作逐臣君更遠、青山萬里一孤舟。
読み終えたのは、初めて中国に足を踏み入れた時で、成都の杜甫草堂を訪れたのはその翌年だった。

日本人と漢詩(076)

◎武田泰淳と杜甫

先日亡くなった大江健三郎の師ともいうべきフランス文学者・渡辺一夫にとってのラブレー、機会があれば紹介予定の「下谷叢話」( 青空文庫)を書いた永井荷風にとっての江戸後期文化、今回の武田泰淳にとっての司馬遷を始めとする中国文学(戦時中、殺戮の歴史というべき、中国通史「資治通鑑」を読み終えた中井正一も付け加えてもいいかもしれない。)は、彼らにとっては時代の風潮に対する抵抗の拠り所になった。彼らの時代とはまた違う困難な現代を生きる私たちにとって、そのよすがが何であるかをふと考えたくなる。
さて、武田泰淳には、戦後、数年を経て短編「詩をめぐる風景」が発表された
そのエピグラフにはこうある。

ー円き荷《はす》は小さき葉を浮かべ
細き麦は軽き花を落すー杜甫

詩の全体は、以下の通りで、五言律詩の頷聯《がんれん》である。

爲農 農と為る
錦裡煙塵外 錦里《きんり》煙塵《えんじん》の外
江村八九家 江村《こうそん》八九家
圓荷浮小葉 円荷《えんか》小葉浮かび
細麥落輕花 細麦《さいばく》軽花落つ
卜宅從茲老 宅を卜《ぼく》して茲これ従り老いん
爲農去國賒 農と為って国を去ること賒《はる》かなり
遠慚勾漏令 遠く勾漏《こうろう》の令に慚《は》ず
不得問丹砂 丹砂を問うことを得ず

語釈、訳文は、杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会
古代文化研究所:第2室などを参照。

『杜甫にとって安住の地であった、蜀成都の草堂も彼にとって安住ばかりはできなかったようだ。『杜甫の奴僕たちにとっては草堂は宿命のようなものである。……奴僕たちは他の世界を知らない」として、外の世界に開かれない宿命をもった奴僕に対し、杜甫は外界を求めてさまよう宿命にあった。「草堂は永いこと杜甫の脳裏にえがかれた幸福の象徴であった。……自然にひたり、草木にうずもれて詩の世界をひろげるために、杜甫は草堂を求めていた」。杜甫は「草堂」という「混沌世界の中に占める自分の一点」を維持してこそ、「幸福の象徴を追い求めながら旅をつづける文学者の生き方」ができたのだと泰淳は描く。
そのような生き方を選ぶ理由を、泰淳は「詩をめぐる風景」という小説において次のように説明する。「安定できず安住できない自分というものが、自分の詩の不安ではあるが新鮮な泉になっている」、「次から次へあらわれてくる諸現象、そしてそれをむかえての自分のもろもろの精神状態のごく複雑な総合が自分の詩をささえている。……それ故、自分の外界が安定しないばかりでなく、自分の内心そのものが広い広いとりとめもない混沌世界であるように思われる。」泰淳が描いた杜甫は、戦乱によって引き起こされる内心の葛藤こそが詩を作る原動力であることを知り、安穏とした草堂生活に留まることができず、「家」を捨て、「漂泊の生涯」を送る詩人であった。』

王俊文 中国戦地の風景を見つめる「喪家の狗」―武田泰淳の日中戦争体験と「風景」の創出― より

逆に、彼はそうした心情を素直に吐露することで、成都の自然(この詩では、円き荷と細き麦)とうまく重ね合わせたくみに詩情を詠いあげているように思われる。「農と為る」は為りきれない彼の吐露をのぞかせる詩題であろう。それにしても、小説では、農奴である阿火と阿桂の若きカップルの結末が哀れである。

成都の草堂は、チベット・ラサからの帰り道、成都に宿泊、そのついでにたっぷり一日訪れたことがある。もちろん、杜甫の時代の草堂とは大違いで、大規模に整備もされ、効率よく杜甫の生涯を辿ること可能だが、散策の道には人も少なく、彼の真情に少し触れることができた。

【参考】
・武田泰淳「中国小説集 第二巻」新潮社(写真)

日本人と漢詩(049)

◎堀辰雄と杜甫


秋興(その五)
その頃の長安はといへば、
蓬萊山に來たかとおもふやうな立派な宮殿が、
終南山に相對して、燦爛として居った。
承露盤といふ、恐ろしい高い仙人の形をし た銅像が、
 空に聳え立ち、
西のかた、瑤池には西王母が下り給ひ、
又、東からは紫氣が棚引いてきて、
函谷關に充ち滿ちて居った……
そんな壯麗な有樣だった。
自分も、またちかぢかと、天子の龍顏拜したことが
 あった。
そのときは雉の尾でつくった扇をひらいたやうに
 雲がおのづからひらいて、
太陽の光がさあつとさしてきたかのやうだった。……
だが、いまはかかる江のほとりに臥して、
はや秋も暮れんとしてゐるのに驚いてゐる。
誰あつて、かゝる身が、
昔、朝廷に列してゐた者であることを知つてゐようや。
秋興(その六)
いまわが身のある瞿塘峽口も
又、昔ありし長安の曲江のほとりも、
秋は殆どかはらない。
遠く所は隔ててゐるけれども……
その曲江のほとりの花萼樓や芙蓉苑では
臣下のものを集められて御遊があつたが、
いつか世が亂れだして、
そのあたりまで邊地の愁が入りだした。
昔は珠の簾や刺繡をした柱の間を黃鵠が飛びかい、
錦の纜や象牙の檣をした舟が水鳥を驚かせて
 飛び立たせてゐた。
それらの歌舞の地はいまは跡方もなく、
可憐に堪へない。
おもへば、長安は、漢の頃からの都であつたものを。
「秋興八首」の原文、訓読、語釈などは
https://toshihiroide.wordpress.com/…/%E6%9D%9C%E7%94…/
を参考のこと
 藤村の「小諸なる古城のほとり」は、この杜甫「秋興」から趣きを受け継いでいるような気がする。
参考)
「堀辰雄ー杜甫詩ノオト」
図も同書より転載