テキストの快楽(014)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(09)

 もし道中の景色が諸君にとってどうでもよい事でないならロシヤを出てシべリヤに旅行する人は、 ウラルから工ニセイ河までの間ずっと退屈し通すに違ひない。寒い平原、曲がりくねつ白樺、 溜り水の沼、ところどころに湖、 五月の雪、そしてオビ河の諸友流の荒涼とした淋しい岸。――これが、 最初の二干露里が記憶に殘すものの全部である。他國人に崇られ、わが國の亡命者に尊ばれ、遠からずシべリヤ詩人にとつて無盡藏の金坑ともならう自然、比類ない雄大な美しい自然は、 やつとエニセイに始まる。
 かう言ふとくヴォルガの熱心な讚美者たちに對して非禮に當るかも知れないが、私は生れて以來エニセイほど壯大な河を見たことがない。ヴォル力を小意氣で內氣て憂ひを含んだ美人に普へればエ二セイはそのカと靑春の遣り場に困つた力强獰猛な勇士であらう。人々はヴォルガに對するとき、最初は奔放に振舞ふけれど、遂には歌謠と呼はれる呻吟に終る。明るい金色の希望は、ヴォルガにあってはやがて一種の無力感に――ロシヤのペシミズムに變ずる。エニセイにあっては先づ呻吟に始まる代りに私逹が夢にも見たことのない奔放さに達する。少くとも私だけは、 宏大なエニセイの岸邉に立つて荒びた北氷洋めがけて奔る凄まじい水の疾さとカとに貪るやうに見入りながらさう考へた。エニセイにとってその兩岸は狹苦しのだ。高くない浪のうねりが互ひに追ひ合ひ、押し合ひへし合ひ、螺旋狀渦を卷く有様を見てゐると、この强力男がまだ岸を崩さず‘底を穿ち通さずにゐるのが不思議に思はれて來る。こちら岸には、シベリヤを通じて一番立派な美しい町クラスノヤ—ルスクが立ち、對岸にはさながらコーカサスを思はせて煙りわたる、夢幻的な山獄が連なる。私は佇立して心に思った――今にどんなに完全な聰明な剛毅な生活がこの兩岸を輝かすことであらうか。私はシビリャコフ*を羨んだ。私の讀んだところでは、 彼はエニセイの河口に達するため遥々ペテルブルクから汽船で北氷洋へ乘り出したのだ。私はまた、大學がクラスノヤ—ルスクではなく、卜ムスクに開かれたのを殘念に思った。さまざまな想念が湧いて來て、それが皆エニセイの河波のやうに押し合ひ縫れ合つた。そして私は幸福だった。……
 エ二セイを越えると間もなく、有名な密林帶タイガーがはじまる。これに關しては色々と宜傳も記述もされて來たが、そのため反つて實際とは遠い姿を期待してゐた。最初はどうやら多少の幻滅感をさへ抱く。松、 落葉松、樅、白樺から成る變哲もない森が、道の兩側に間斷なく續いてゐる。五抱へとある木は一本もなく、見上げると眼まひのするやうな喬木もない。モスクヴァのソコーリニキイ*の森に生えてゐる樹に此べて、 少しも大木といふ感じはしない。密林帶には鳥の啼聲もなく、そこの植物には匂ひがないといふ話だった。で、さう覺悟してゐたが、密林帶を行くあひだ絕えず小鳥の歌が聞え、蟲の嗚聲がした。太陽に溫められた針葉は、强い樹脂やにの臭ひで空氣を滿たし、道傍の草原や林の緣は淡靑や薔薇色や黄色の花々に掩はれて、これも眼を愉しませるだけではなかつた。大密林の記述者たちは春來て見たのではなくて、明らかに夏の觀察なのであらう。夏ならばロシヤの森にすら 、鳥は啼かずす花も匂はない。
 密林帶の迫力と魅力は、亭々と聳える巨木にあるのでもなく、底知れぬ靜寂にあるのでもない。渡鳥でもなければ恐らく見透せまい、その涯しなさにあるのだのだ。はじめの一晝夜は氣にも留.めない。二日目、三日目になると段々驚いて來る。四日目、五日目になると、この地上の怪物の胎內からは、何時になっても脫け出せまいといふやうな氣がしだす。森に蔽はれた高い丘に登って、東のかた道の行手を眺める。見えるのはすぐ眼下の森林、その先に第三の丘、かうして限りがない。一晝夜の後また石に登つて見渡すと、 又しても同じ眺めだ。……道の行方には、 とにかくアンガラ河がありイルクーツクがある筈と心得てゐる。だが道の兩側に南と北へ連なつてゐる森林の向ふには何があるのか、 この森林の深さは何百露里あるのかは、 密林帶タイガー生れの馭者も農夫も知らない。彼等の空想は私達に比べて一層大膽である。その彼等ですら密林帶の奧行を輕々に決めようとはせず、 私達の質間に答へて「りはなしでさ」と言ふ。彼等の知ってゐるのは、冬になると密林帶を越えて遙か北の方から、何とかいふ人間が馴鹿に乘ってパンを買ひに來ることだけだ。が、 この人達が何者なのか、何處から來るのかは、 老人も知らない。
 見ると松林の傍を、 樺皮の袋と銅を背負つた脫走人がよたよた步いて行く。彼の悪行も苦難も彼自身も、この巨大な密林に比べるとき、何と小さくつまらぬものに見えることだ。よし彼がこの森林のなかで消えて無くなったとしても、蚊が死んだも帀然何の意外さも何の畏怖も感じられまい。人口が稠密にならず‘密林帶の威力を征服しえぬあひだは、 此處ほどに「人は萬物の靈長」といふ文句が力無く洞ろに響く場所は、何處にもあるまい。今シベリヤ街道に沿って住む人間が皆寄って、密林を取拂はうと申し合はせて斧や火を持ち出した所で、 海*を焼かうとした四十雀の話の二の舞を演じるに過ぎないだらう。時には山火事で森が五露里も燒けることカある。が、全軆としてみれば焼跡は殆ど氣附かぬ程度で、しかも二三十年もすると焼けた埸所には前よりー層密に茂った若森が生える。或る學者が東岸地方に滯在中ほんの粗忽から森の中で火を失した。一瞬にして見渡す限りの綠の森は炎に包まれた。この異常な光景に戰慄した學者は、自分を「怖るべき災禍の因」と呼んでゐる。しかし巨大な密林帶にとって、 高々數十露里が何だらう。今日ではきっと、その火事の跡は人迹の及ばぬ森になって、 熊が安んじて橫行しなし大松鶏おおらいてうが飛んでゐるに違ひない。その學者の爲業は、 彼を怯え上らせた怖るべき災禍どころか、 反つて大きな功績を大自然の中に印したのだ。密林帶では 、人間音通の尺度は役に立たない。
 また密林帶は、どれだけの祕密を藏してゐることだらう。樹々の間に傍道や小徑がこつそり忍び入り、喑い森の奧に消える。何處へ行くのだらう。秘密の酒造場へか、 地方警視も評議員もその名を曾て聞いたこともない村へか、それとも放浪者仲間がひそかに見附けた金坑へか? この謎めいた小徑からは、 何といふ無分別な、唆かすやうな自由の氣が吹いて來ることだ。
 馭者の話では、密林には熊や狼や大鹿、黑貂や野生の羊が棲むといふ。沿道の百姓たちは、 仕事の暇には幾週間も林の中で獣獵をして暮らすさうだ。この土地の狩獵術は至極簡單だ。つまり鐵砲から弹丸が出れば儲け物だし、 不發たったら潔く熊に喰はれろである。ある獵師が、 自分の鐵砲は五度續けて引いても駄目で、飛びだすのはやつと六度目からだと零してゐた。この珍寶を提げて、 刀も逆茂木もなしで獵に行くのは、危險千萬なことである。輸入した銃は粗悪でしかも高價住だ。だから街道沿ひの町村で、銃の製作までする殿治屋を見掛けるのは珍しくない。一般に鍛冶屋は多藝多才なものだが、 他の才人の群のなかに姿を沒する懼れのない密林帶では、殊にそれが日立つのである。必要があって或る鍛治屋と僅かのあひだ接近する機會を持ったが、馭者が彼を推薦した言葉はかうであった。――「そのお、大名人なんで。鐵砲まで作りますだ。」その馭者の口調や顏附は、私達が有名な藝術家に就いて話す時の樣子に彷彿たるものがあった。實は私の旅行馬車が毀れたので、修繕の必要があったのだ。馭者の紹介で宿場にやって來たのは痩せた蒼白い男で、その神經質な動作といひ、义あらゆる兆候に徵しても、才人凡つ大洒飮みに違ひなかつた。興味のない病氣を扱ふのが退屈でならぬ名開業醫のやうに、彼はこの族行馬車にちらつと横目を吳れて簡單明瞭な診新を下すと、ちよつと默想し、 私には物も言はず物臭ささうに路上を漫步してから、振返って馭者にかう言った。――
 「どうしたね! ひとつ鍛治場まで引つ張って來て貰ひましよ。」
 馬車の修繕には四人の大工か彼の手傳ひをした。彼はさも厭々らしい怠慢な働き振りを示した。鐵の方で彼の意に反して色んな形を取るかの樣でもあった。彼は屢屢煙草をふかし、何の必要もないのに鐵屑の堆のなかをがさがさやり、私が急いで吳れと言ふと天を仰いだ。藝術家も歌や朗讀をせがまれると、やはりかうした様子を見せるのである。時たま、まるで媚態の一種か,それとも私や大工達の度膽を拔かうとしてか、高々と槌を振りかぶって火の子を八方に散らし、 一撃の下に複雜極まる難問を解決する。鐵砧かなしきも碎けよ、 大地も震動せよとばかりに打ち下ろした粗大なー撃で、 輕い一枚の鐵板は、蚤からも文句が附くまいほどの申分ない形になる。手間賃に彼は五ル—ブル半受取った。その内五ル—ブルは自分が取つて、半ル—ブルを四人の大工に分けてやつた。彼等は禮を言って馬車を宿場まで引いて歸った。恐らく内心には、己れの價値を主張し傍若無人に振舞ふ才人(それは密林帶でも都會でも變りはない――)を羨みながら。

* シビリャコフ(アレクサンドル、一八四九――?)シベリヤの社会事業家。シべリヤ大學の開設に巨資を捧げ、探檢隊の後援をなすなど貢獻が大きい。彼がシベリヤの航海路の發見に協力したのは一八七五・七六年のことである。弟二コライも同じくシベリヤの恩人として知られる。
* ソコーリニキイの森 モスクヴ北郊にある有名な遊園地。
* 海を燒かうとした四十雀の話 四十雀が海を燒いて見せるぞと大言壮語したので、海神の都に恐慌を起して、鳥獸や獵師まで見物に集まったが、勿論泡ひとつ立たなかつた話。クルィロフ『四十雀』と題する寓話詩に基く。

テキストの快楽(014)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(006)

第一編明治以前

第一章への補 東洋の学問

 第一篇の第一章の諸節のなかに出てくる思想家たちを、私たちが歴史的に理解するためには、この人たちがそのなかにいた日本の学問、ひいては東洋の学問の本質をとらえておくことが、何よりも必要である。そのため、私はかつて発表したことのある同名の題の論文に多少の筆を加えて、ここに「補」として収めておきたい。

           

 いっぱんに歴史がほんとうに明らかにされるのは、歴史への眼が現代の眼であることによって、おこなわれるのである。学問の歴史があきらかにされるにおいても同じことである。だから歴史では、いつでも現代の眼がととのうことが、何よりも大切である。唯物論の歴史においては、なおさらである。私たちの現代の眼で科学(ここでは科学という言い方と学問という言い方を区別しないことにする)を見ると、いちばん大切なものが三つ眼につく。ひとつは人民大衆である。もうひとつは自然である。最後のひとつは人や自然のことを知る知識がみな確かなことである。この三つのどれか一つ欠けていても、それはもはや現代における真の学問でないことになる。原子物理学が現代の学問だとすると、この三つの要件を完全に充足させつつ進んでいるはずである。もし、そうでなく、たとえば人民大衆という要件がひとつ欠けていると(というのは、大衆に触れさせない、大衆に秘密になっている、つまり大衆の生活と幸福が考えられていないという意味である)、その学問のある国家はやがて必ず蹉跌し、その国での学問はくずれてゆくに違いない。(そういう実例は今日ないのではない。)現在では科学はまさしくそういうところまでもうきている。これは変質的といっていいほどな学問のすばらしい発展である。私たちの現代の学問の眼は、以上のことを見てとっている。
 さて、学問の歴史を見る眼でみるとして、東洋の学問はどういう学問であったのだろう。これは東洋の学問を根本的に考えてみるにおいて、ぜひ必要なことである。まず人民大衆のことはどうなっていたか。学問と自然はどういう関係であったか。知識の確実性はどう考えられていたか。私たちは最初に中国の古代の学問から問題にしていくことにしよう。えきは当時の科学だった。老子や荘子の学問も、ちゃんと歴史的な役割をもった科学だった。孔子や孟子のそれも同様だった。これらの古代の学問は、あの三つの条件(人民と自然と知識の確実さ)をどういうように具えていたか。私たちはここで、あるひとつの便利な道をえらぶことにしたい。というのは、中国古代の学問にじかにぶつかってゆかないで、それを日本人が受けとったところで中国古代の学問を見るというやりかたをえらぶことにすれば、かねてもって、近世の日本人の学問観も同時にわかるからである。したがって、私たちがこの本でとりあつかっている人たちの学問思想の性質も、浮きあがって眼につくことになると思う。
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テキストの快楽(014)その1

◎ バイロン 土井晩翆訳 チャイルド・ハロルドの巡禮

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チャイルド・ハロルドの巡禮:目次

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土井晩翆 (1871-1952) 譯,バイロン(Lord Byron, 1788-1824) 著 「チャイルド・ハロルドの巡禮 (Childe Harold’s Pilgrimage(1812-1818))」。
底本:チャイルド・ハロルドの巡禮 (英米名著叢書),新月社,昭和二十四年四月五日印刷,昭和二十四年四月十日發行。
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チャイルド・ハロルドの巡禮

バイロン 著

土井晩翆 譯

目次

* はしがき
* マシュー・アーノルドの論集中より
* 第一卷及第二卷の序
* アイアンシイに
* 第一卷
* 第二卷
* 第三卷
* 第四卷
* 註釋

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チャイルド・ハロルドの巡禮:はしがき

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はしがき

黄金の筆を捨ててグリイス獨立戰爭に參加したバイロンが雄圖なかばにミソロンギノ露と消えて後正に一二四年である。 こゝに彼の一代の傑作長篇『チャイルド・ハロルドの巡禮』の全部を日本の韻文に譯して此大詩人に對する記念となし得たのは私の光榮とする處である。

猛虎の如く『初めの跳梁を誤れば呟きて籔に退く』とは詩作に就いてバイロンの僞らぬ告白であらう。 隨つて精神彫琢の功を缺くこともあるが、洪水の如く、猛火の如く、颱風の如き、一氣呵成の天才の筆、雄健に壯大に魂麗に、 マコーレイの評の如く『英國の國語と共にのみ亡ぶべき金玉の佳什が甚だ多い』。 — 此等の作をわが拙劣な日本韻文の瓦礫に變じたのは私の慚愧に堪へぬ處である。

本書は四卷から成り、著作の原序に曰ふ通り、ハロルドといふ假設の主人公に託して、著者が漫遊し視察した諸邦 — 大一卷はポルトガルとスペイン、第二卷がグリイスと其附近、第三卷はベルギイ、ライン地方及びスイス、 第四卷はイタリア — 此等の風土、人情、傳記、逸話等を敍し、其間に著者の感情思想を點綴したもので、 必ずしも首尾一貫の構想があるのでは無い、獨立した幾十篇の詩歌を集めたものと見ても差支は無い。

前の二卷は一八一二年に刊行されて一朝忽ちバイロンの詩名を九天の高さに揚げたもの、第三卷は一八一六年、 第四卷は一八一八年、いづれも『自ら流竄の』バイロンが英國をとこしへに去つた後の作で、 此後二卷は前二卷より遙かに遠く傑出し、バイロンの名聲を英文學史上に不朽たらしめたものである。

時代の好尚と流行に應じて詩人の聲價は常に變化するが『チャイルド・ハロルドの巡禮』は英詩界の傑作として、 常に青年の愛誦として、 百年の盛名を失はぬ。高等英文學の教科書として全世界に今日尤も廣く採用さるゝ長篇の英詩は恐らく本當であらう。 我國にも東亰高等師範學校の故岡倉教授が邦文の註譯を加へて刊行せしめたものがある。

バイロンは革命時代の潮流の中に生れた。

彼の生るる(一七八八)五年前アメリカの植民地は獨立して合衆國を建設した。 彼が生れて一年後フランス革命は端を開いた。彼は青春の曙に於て、 舊來の制度信仰習慣が『道理の法廷』の前に喚び出され、 一朝忽ち顛覆さるるを見た。彼は一般の革命的感情が自由、民生、道理、 革命の語をして到るところ人口に膾炙せしむるを見た。 ワーヅワースが山川の間に自然と默會しつゝある際、コレリヂが超自然界を夢みつゝある際、 キーツが美の女神を崇拜しつゝある際、彼はシェリイと共に革命の使徒として人界の狂瀾怒濤を凌いだ。 『チャイルド・ハロルドの巡禮』は自由と民政に對する熱烈奔放の貢獻である。

大ゲーテが驚嘆したバイロン、全歐洲の文壇を風靡したバイロン( — プシキン、ミケイヰチ、ラマルテン、 ユーゴー、ミュッセイ、ハイネ等第一流の名はこれを證明する)、 今日なほ全大陸がシェークスピアにつぐ英國最大の詩人と稱するバイロン、 — 極東の我々は彼の一二四年祭の今日に當りて彼の傑作に一瞥を投ずるを惜むだらうか。

  一九四八年十二月

土井晩翆

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チャイルド・ハロルドの巡禮:マシュー・アーノルドの論集中より

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マシュー・アーノルドの論集中より

わが見るところ此世紀の英國詩人中バイロンとワーヅワースは實際の作品に於て優秀で卓越で正に光榮の雙星である。一千九百年の暦が飜る時、わが國民が正に終り去れる世紀中の詩的光榮を追想する時、其時到らば英國にとりて第一流の名は此兩者である。

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チャイルド・ハロルドの巡禮:第一卷及第二卷の序

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第一卷及第二卷の序

此詩は大概その描寫を試むる其場其場で書き下され、アルバニアに於て先づ初められたものである。 スペインとポルトガルの關する部分は此國々に於ける著者の觀察から作られた。 敍述の正當を確かむるため斯く陳ぶることは必要であらう。描かんと試みた場所はスペイン、 ポルトガル、エパイラス、アカルナニア及グリイスで、現在の本詩はそこで止る、 著者が進んでアイオニア及びフリヂアを過ぎ、 東邦の首府へと讀者を導くや否やは本詩に對する世間の歡迎如何に因て決せらるるであらう。 此第一第二卷は只の試筆に過ぎぬ。

本篇に纒まりを附くるため(いつも左樣とは曰ひ得ぬが)一個の假の人物が設けられた。 此假作人物チャイルド・ハロルドとは著作たる餘が或る實際の人物を指したものとの疑を招くかも知れぬとわが敬服する友逹は忠告してくれた。 此の疑は斷然斥けねばならぬ、ハロルドは全く想像の所作で其目的は前述の通である。些々たる若干の — しかも單に局所的な — 場所に於てかゝる疑の根據があるかも知れぬ、しかし大體に於ては一つもかゝるものがない。

チャイルド・ヲータース、チャイルド・チルダース等の如く、 チャイルドといふ稱號は餘が採用した韻文法に適當するものとして使用されたことは殆ど曰ふ迄もないことである。 第一卷の初めにある「別れの曲」はスコット氏が刊行した「邊境曲」の中、「マクスヱル卿の別の曲」から暗示を得た。

スペインを題目として發刊された種々の詩とイベリヤ半島(スペイン及ポルトガル)を説いた本詩の第一部との間には、 聊かの類似があるかも知れぬが全く偶然に外ならなぬ。一二の終の章を除けば本詩の全部は東邦に於て書かれたのである。

「スペンサアの詩節スタンザ」は、最も成功した詩人中の一人の説に據ると、 あらゆる種類の敍述に適する。ベッティ博士は曰ふ『遠からぬ前、餘はスペンサアの詩節と詩體で一詩を初めた、 而してこゝに餘は諧謔或は悲壯、敍述或は感傷、温柔或は諷刺等、 氣分の向くに隨つてあらゆる傾向をほしいまゝに現はさうと思ふ。 若し餘が誤らぬなら餘が採用した韻律法は以上の種類の詩を等しく容るゝからである』かゝる大家により、 又イタリヤ詩人の最高なるものの例により、我説を確められて、餘は本詩に於て同種の試をなすことに對し、 何等辨解の必要を認めぬ、若し我が詩が不成功なら、其缺點は我が作爲の上に係るので、決してアリオスト、 トムソン及びベッティの作により是認された意匠に依るのではないと信ずる。

一八一二年二月

ロンドンに於て

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チャイルド・ハロルドの巡禮:アイアンシイに

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アイアンシイに

  *アイアンシイに

1.
女性の艷美類なしと早く曰はれしさとながら
わが先つ頃漂浪の旅をたどりし**邦々に、
或は獨り夢にのみ眺め得たりと吐息する
人の心に示されし其幻影のただなかに、
君に似し者あらざりき、うつつにも又思ひにも。
君を一たび仰ぎ見て、光かゞやき移りゆく
その美の力描くべく我空しくも試みじ —
君を見しことなきものに我言わがこと何の效あらむ?
君を眺めし者にとり何等の言葉あり得べき?

*オックスフォード伯の第二女シャーロット・ハーレイ十一歳の少女
**スペインとトルコ

2.
あゝ願くは今のまゝ君とこしへにあり得んを、
其青春の約束にふさはぬことに無からんを。
姿いみじく、其心清うして且つ暖かに、
獨り翼を缺くばかり*「愛」の地上の姿なり、
「希望」の思ふ處より更に優りて無垢の影!
心をこめて其若さ養ひめづる母君は
斯く刻々に照りまさる君に確かに認め得ん
未來の年の空染むる其虹霓こうけいのきらめきを、
その天上の色の前、あらゆる悲哀消え去らむ。

*キュピト、「愛の神」

3.
あゝ西歐の年わかき*仙女よ!すでにわが齡
君の齡にたくらべて倍數ふるぞ我に善き、
わが愛なき目ゆるかずに君の姿を眺め得ん、
その熟し行く艷麗を心安けく望み得ん。
行末遠きうつろひを見ざらん我の運もよし、
猶さちなるは若き心傷まん時に我ののみ
逃れん辛き運命を、 — 續きて來る讚美者よ
君が目來す運命を — 彼らの讚美さりながら
「愛」の甘美を極めたる時にも惱纒ふべし。

*原語ペリ、ペルシヤ語にて「精」の意

4.
羚羊れいやうの目の如くして或は晴やかに勇しく
あるは美しくはにかみて、見廻す時に心奪ひ、
見つむる處眩ましむる君の其まみ願くは
この集の上一瞥を投げよ、しかしてわが作に
その微笑を惜まざれ、 — *たゞ友のみに非らば
そは我が胸のいたづらにあこがれ慕ふものならむ。
親しき少女、願くは之を與へよ、問ふ勿れ
何等の故にうらわかき人にわが歌捧ぐると、
ひとつ類なき百合の花、許せ花環に加ふるを。

*友人以上に愛を抱くならば其微笑にあこがるは空し

5.
このわが歌に結ばれし君の名正に此*たぐひ、
世々のやさしき人の目が、此ハロルドの詩の上を
永く射る時、其中に初に見られ、いやはてに
忘らるる名ぞこゝにいつくアイアンシイの名なるべき。
われの現世の生閉ぢて此過ぎ去れる慇懃の
禮辭は君の艷麗を讚ぜし彼の**豎琴の
かたへに君の美はしき指をいざなひ導かば、
そは思ひづるわが靈の願ふ至上の幸たらむ、
***「希望」の請に優れども、劣るを「友情」求めんや?

*百合の花の清さ
**琴を彈ず、即此詩卷を讀む
***望みて得がたかるべけれど友情として其以下は求めず

【注記】
ネットでのリソースは、osawa さん(更新日: 2003/02/16)によるものを使用し、UTF8化した、なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた。
編集日時: 2025/10/07

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テキストの快楽(013)その3

◎生田譯:ハイネ詩集


図は、Wikipedia から。

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生田春月(1892-1930年)譯の「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)。
底本:ハイネ詩集(新潮文庫,第三十五編),新潮社出版,昭和八年五月十八日印刷,昭和八年五月廿八日發行,昭和十年三月二十日廿四版。
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ハイネ詩集

ハイネ 原著

生田春月 譯

目次

* 序
* 若い悲み
* 「夢の繪」から(三章)
* 小唄(二十七章)
* 抒情插曲(六十九章)
* 歸郷(百章)
* ハルツ旅行から
* 山の牧歌
* 牧童
* 北海
* 海邊の夜
* 宣言
* 船室の夜
* 凪ぎ
* 破船者
* フヨニツクス鳥
* 船暈
* 新しい春(四十四章)
* 巴里竹枝 その他
* セラフイイヌ
* アンジエリク
* デイアヌ
* オルタンス
* クラリツス
* ジョラントとマリイと
* ジェンニイ
* エンマ
* キテイ
* フリイデリイケ
* カタリナ
* 他國で
* 悲劇
* 小唄
* 何處に?
* 後年の詩から
* 女
* 祕密
* ロマンツエロから
* アスラ
* 世相
* かしこい星
* 最後の詩集から
* エピロオグ

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ハイネ詩集中普通廣く讀まれるのは『歌の本ブツフ・デル・リイデル』と『新詩集ノイエ・ゲデイヒテ』とである。 この譯本も右の二卷を主とし、これに後年の『ロマンツェロ』『最後の詩集レツツテ・ゲデイヒテ』中の作を加へて、 總計三百有一篇、ハイネの才能のあらゆる方面を示すために十分の注意を彿つたつもりである。 ハイネ愛好者の滿足を買ふを得ば幸ひである。

『歌の本』中最も主要なる『抒情插曲リリツシエス・インテルメツツオ』 (もと劇詩『ラトクリッフ』と『アルマンソル』の中間に插まれて出版せられたので此名がある) 『歸郷デイ・ハイムケエル』の二部門、 『新詩集ノイエ・ゲデイヒテ』卷頭なる『新しい春ノイエ・フリユリング』及び 『若い悲みユンケ・ライデン』中の『小唄リイデル』は全部譯出したから、 それ等の番號は原詩と全然同一である。そして原詩の番號による事の出來ないものに限り、 番號の打ち方を(その一)といふ風にして置いた。

譯語は全部口語を用ゐた。多少無理なところもあつた代り、或點ではかなり成功したかと思ふ。 譯し方は嚴密な直譯をしたり、また極めて意譯をしたりした。韻律上の用意のためである。 尚この譯はレクラム版の全集を底本とし傍らボンス・スタンダアド・ライブラリイの英譯を參照した。

一九一九年一月

譯 者

ハイネ詩集:若い悲み

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若い悲み(一八一七年 – 一八二一年)

「夢の繪」から

  その一

むかしわたしは夢みた、はげしい戀を
きれいな捲毛を、ミルテじゆを、木犀草を
苦い言葉の出て來る甘い唇を
悲しい歌の悲しい曲調メロデイ

その夢はとつくに破れて消え失せた
わたしの夢想はすつかり逃げ去つた!
そしてわたしがかつて熱い湯のやうに
やはらかな歌の中に注いだもののみが殘つてゐる

とり殘された歌よ!さあおまへも行くがよい
そしてとつくに消え去つた夢をたづね出し
もし見付けたらよろしくと言つてくれ —
はかない影にわたしははかない思ひをおくる

【注記】
ネットでのリソースは、osawa さん(更新日: 2003/04/24)によるものを使用し、UTF8化した、なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた。
編集日時: 2025/10/04
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テキストの快楽(013)その2

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(08)

     

 シべリヤ街道、 これは世界ぢゆうで一番大きな道だ。また一番單調な道かも知れぬ。チュメーンからトムスクまでは、それでもまだ我慢が出來る。と言っても決して役人のお蔭ではなく、この地力の自然的條件の賜物である。この邊は森林のない平原で、 朝降った雨も夕方には乾いてしまふ。若しまた五月の末になっても雪解がやまず、 街道が氷の小山で蔽はれてゐるやうなら、 勝手に野原を突切って廻り路も出來るわけである。トムスクから先は大密林と丘陵の連續だ。こつでは地面はなかなか乾かず、 廻り路などはしようと思つても出來ない。厭でも街道を行くことになる。そこでトムスクを過ぎると旅行者が急にロ喧しくなって、 不平帳にせつせと書き込むやうになるのだ。役人諸君も几帳面に彼等の不平を讀んで、 一々「詮議に及ばず」と書いて行く。書くなんて餘計な手間だ。支那の役人ならとつくに印判スタンプにしてゐるだらう。
 トムスクからイルク—ツクまで、 二人の中尉と軍醫が一人道伴れになった。中尉のの一人は步兵で、 毛むくじゃらな毛皮帽を被つてわる。もう一人は測量將校で總肩券アクセルバンド附けてゐる。宿場に着くたびに、 馬車ののろさと動搖とでくたくたになった上に泥だらけで、びしょ濡れで、 睡くてならぬ私達は、早速長椅子に轉がって不平を連發しだす。――「やれやれ、 何て汚ない何てひどい道だい。」すると驛の書記や各主がかう答へる。――
 「これ位はまだ何でもありませんよ。まあ見てゐて御覽なさい、コズーリカ越えはどんな工合だが。」
 トムスクから先は、宿場に着くたびにこのコズーリカで威かされる。書記たちは謎みたいな笑ひを浮べ、行き合ふ旅人は意地の悪い笑顏で、 かう言ふ ――「私は越して來ましたよ。今度は君の番ですね。」あまり威かされるので、化舞には神祕なコズーリカが嘴の長い綠色の眼をした。鳥になって、夢にまで現れて來ろ。コズーリカといふのは、チェルノレーチェンスカヤとコズーリカの兩驛間二十ニ露里の道を指すのだ(これはーノチンスクとクラスノヤールスク兩市の間に當る)。この怖ろしい場所の手前二三驛あたりから、旣に豫言者が出現しはじめる。行き合った一人は四度も顚覆したといふし、 もう一人は車の心棒を折ったと零すし、三人目は難しい顏をして物も言はない。道はいいかと訊いて見ると、かう答へる,「いやはや結構の何のって。」とりわけ私を見る人々の眼は、死者を悼む眼附に似てゐる。何故なら私の馬車は自腹を切って買った車だからだ。
 「きっと毀して、泥んこの中へはまりますよ」と、 溜息まじりに言って吳れる、「惡いことは言はない、 驛馬車になさい。」
 コズーリカに近づくにつれて、豫言者は次第に物凄くなる。程なくテェルノレーチェンスカヤ驛といふ邊で、道伴れの乘つた馬車か引繰り返つた。夜だった。兩中尉も軍醫も、 トランクや包みや碁石やヴァイオリンの函もろとも、泥んこめがけて飛んでしまつた。その夜中には今度は私の番だった。愈ヽチェルノレーチェンスカヤ驛といふ間際になって、 私の車の軸釘が曲ったと急に版片が言ひ出した。(これは車臺の前部と軸部とを結ぶ鐵のボルトだ。だからこれが曲ったり折れたりすると、車體は地面に腹這ひになってしまふ。)宿場で修繕がはじまる。むかつくほど大蒜にんにくや玉葱の臭ひをさせる馭者が五人掛りで、泥んこの車を横倒しにして、曲った軸釘を金槌で打ち出しはじめる。まだ何とかいふ橫木も割れてゐる、何やらの舌も她んでゐる、ナットが三本も飛んでゐるなどと、彼等は口々に吿げる。が私には何ひとつ分らない。また分りたくもない。……暗いし、寒いし、退屈だし、睡い。……
 宿場の部屋に簿暗いランプが燃えてゐる。石油と大蒜と玉葱の臭ひがする。長椅子の一つには毛皮帽の中尉が橫になつて眠ってゐる。もう一つの長椅子には何やら髯の長い男が坐つて、て、大儀さうに長靴を穿いてゐる。今しがた電信の修理に何處やらへ行けと命令を受けたのだが、睡いので出掛けたくないのである。總肩章の中尉と軍醫とは卓に向つて、重くなった頭を兩手に支へて居睡りしてゐる。毛皮帽の舟聲が聞え、外では金槌を打つ音がする。
 馭者の話聲も聞える。……かういふ宿場の話といふと、 街道ぢゆうを通じて話題は一つだ、 つまりその土地土地の役人の月旦と、道路の惡口とである。遞信關係の業務はシベリヤ街道に沿ひ謂はば君臨してゐるだけで、別に政治を布いてゐるわけではないのに、天の憎みを蒙ることが最も甚だしい。イルクーツクまでまだー千露里以上の道程を扣へながら、 すでに困憊し切ってゐる旅人の耳には、 宿場の物語は唯々凄まじく響く。何とかいふ地理學會の會貝が、細君を伴っての旅行中に二度も自分の馬草を毀し、とどのつまりは森の中で一夜を過ごさなければならなかった話、何とかいふ貴婦人があまり搖れが酷いため頭を割ってしまった話、何とかいふ收稅吏が十六時間も泥濘のなかに坐り績けて、たうとう百姓に二十五ルーブルやって引張り出して貰ひ、宿場まで送り屆けられた話、 自用の馬車は一臺として無事に驛まで行き通した例しがないといふ話。かういふ話がみんな、まるで不吉な鳥の啼聲のやうに胸に響き返るのである。
 さうした話から推すと、 最も苦勞の多いのは郵便であるらし.い。もし篤志な人があって、ペルミからイルクーツクに至るシベリヤ郵便の動きを丹念に追って、 その印象記を書きとめるなら、さだめし讀者の淚を誘ふやうな物語になるだらう。それは先づ、宗敎、敎化、商業、 秩序、金錢などをシベリヤに齎らすこれらの皮製のこりや叺の總てが、怠惰な汽船がいつも汽車との連絡に;..!にはいといふだけの理由で、空しく幾晝夜かをペルミに停滞するところから始まる。チュメーンからトムスクまでは、春も六月に入るまで、郵便も河川の凄まじい氾濫と這ひ出ることも出來ぬ泥濘と闘ふ。氾濫のお蔭で、ある宿場にー畫夜ちかく待たされたことがあった。郵便もやはり待つてゐた。重い邺便物を小舟に積み込んで、河や水浸しの牧地を渡す。その小舟が顚覆を免れるのは、シベリヤの郵便夫のため、その母親が恐らく熱い祈りを捧げてゐればこそである。さてトムスクからイルクーツクまでには、コズ—リカだのチェルノレーチェンスカヤだのといふ難所が數知れずあって、郵便馬車は十時間乃至二十時間づつも泥濘の中に立往生する。五月二十七日に或る宿場で聞いた話では、郵便物の重みでカチャ川の橋が落ちて、馬も郵便も危く沈んでしまふ所だつたといふ。こんなことは普通の事故で、シベリヤの郵便はもうとうに慣れつこになつてゐるのだ。イルクーツクを發って先へ進む途で、六晝夜の間もモスクヴァからの郵便に追ひ抜かれなかったことがある。つまり郵便が一週間以上も遲れてゐた譯で、まる一週間何かの事故に引き留められてゐたことになる。
 シベリヤの郵便夫は殉敎者だ。その負ふ十字架は重い。彼等は英雄だ。祖國が頑迷にも認めようとしない英雄だ。彼等ほどに勞働し自然と鬪ふ者は、他にはゐない。時には堪へられぬほどの苦勞も嘗める。しかも、 彼等が免職され解雇され罰金を課せられる度數は賞與を受ける度數に比して頗る頻繁だ。諸君は彼等の月給の額を知つてゐるだらうか。諸君は生涯に一度でも、 郵便夫が褒章を着けてゐるのを見たことカあるだらうか。「詮議に及ばす」と書く人達などより、 彼等はずっと有用かも知れぬ。だが見るがいい。彼等が諸君の前に出ると、どんなに怯えたち、どんなにおどおどしてゐるかを。……
 だが、やっと修繕が出來たと言って來た。これで先へ進める。
 「起き給へ」と、軍醫が毛皮帽を起す、「呪はれたコズ—リカなんか、 さっさと越してしまふのが一番だ。」
 「いや皆さん、 繪で見るほどに惡魔は怖くないと言ひましてね」と、 長髯の男が慰める、「なあに、コズーリカだって、他の宿場よりちつとも惡いことはありません。それにもし怖けりや二十二露里ぐらゐ步いたつて譯はありませんや。」
 「さう‘泥んこに陷りさへしなけりやね……」と、 書記が言ひ添へる。
 空が朝焼けけに染まりはじめる。寒い。立場たてばの構內を岀もせぬうちから、もう馭者が言ふ、 ――「何て道だね、やれやれ。」最初は村の中を行く。……車輪を沒するどろんこの泥道があるかと思ふと、 今度はからからな丘になる。かと思ふと粗朶や棧道を渡した卑濕地に出る。それもどろどろの糞を被ってゐるうへに、丸太が肋骨のやうに突き出て、渡るとき人間の魂は反轉し、馬車の前は摧ける。……
 だが村が盡きた。怖るべきコズ—リカに差し掛る。成る程ひどい道てはあるが、といつてマリインスクや例のチェルノレ—チェンスカヤあたりの道にくらべて、 別段惡いとも思へない。幅のひろい森の切通しかあってそれについて幅五間足らずの粘土と塵芥の堤が、ずつと續いてゐると想像して見給へ。これがつまり街道だ。この堤を横から眺めると、 樂器の蓋を外した胴みたいにオルガンの太い心棒が地上に突き出て見える。その兩側には溝がある。心棒の上には、深さ一尺以上もある辙の跡が何本も走り、またこれを橫切る夥しい轍がある。從って心棒全軆は一群の山脈狀を呈し、それなりにカズベック*もあればエリブルース*もある。山巔は乾いてゐて車輪に突き當るし、麓の方はまだ水をはねかす。よつぽど巧みな奇術師でもなければ、 この堤の上に馬車を平らに据ゑることは難しいだらう。先づ大抵、 馬車はまた慣れぬ諸君が「おい馭者 、引繰り返るぢやないか!」と、 思はす一分毎に怒鳴り出すやうな位置をとる。右側の車輪が二つとも深い轍に陷り込み左の車輪が山巔に突き立つかと思ふと、二つの車輪が泥濘にめり込み、第三の車輪は山巔に、第四は空に廻ってゐる。……馬車の位置が千變萬化するにつれて、諸君が頭を抱へたり横腹を抱へたり、四万八方へお辭儀をしたり舌を嚙んだりする傍では、トランクや箱が大騒動をして、互ひに重なり合つたり諸君の上に被さったりする。だが版者を見給へ。この輕業師は何と上手に馭者臺の上に坐ってゐることだ。
 もし誰かが私達を橫から眺めたら、 あれは馬車で行くのではない、氣が觸れたのだと言ふだらう。少し先の所で、 私達は堤から離れようと思ひ、 棧道を探しながら森の緣を辿った。だがそこにも轍があり、小山があり、肋骨があり、棧道がある。暫く行くと馭者は車を停めた。ちよつと考へてゐたが、やがて、さあ愈ヽ愚劣千萬なことをやりますぞと言ふやうな表情で力無く咳拂ひをすると、堤の方へ馬首を轉じていきなり溝へ乘り掛けた。物の爆ける音がする。前の車輪ががちやんと行き、次いで後の車輪もがちやんと行く。溝を越すのである。それから堤へ乘り上げるときも、 矢張りがちやがちやんと鳴る。馬から湯気が立つ。梶棒が裂ける。尻帯も頸圈も橫へずれてしまふ。……「ほうれ、大將」と、馭者は力一ぱい鞭を振りながら叫ぶ、「ほれさ、御兩人。ぼやぼやするなってば!」十步ほど馬車を引きずつたかと思ふと、馬は停つてしまふ。幾ら鞭をやらうが、喚かうが、今度は動かうともしない。仕方がない。また溝を乘り越えて堤を下りる。また抜道を探す。それからまた逡巡して、車を溝へ向ける。りがない。
 かうして乘って行くのは辛い。實に辛い。だが、 このみつともない痘痕あばただらけの地の帶、この黒痘痕が、ヨ— ロッパとシベリヤを繫ぐ殆ど唯一の動脈であるのを思ふ時、心は一層暗くなる。人々は一軆、 どの動脈を通ってシベリヤへ文明が流れ入ると言ふのか。如何にも、 彼等の喋々する所は實に多い。だがこれを若し、馭者なり郵便夫なり、それともヨーロッパ へ茶を送る荷車の列の傍で泥濘に膝まで潰かつて、びしよ濡れに泥を浴びてゐる農民なりが耳にしたとしたら、彼等のヨーロッパ及びその誠意に對する感槪は果してどんなものであらうか。
 序でに荷車の列を見て置き給へ。四十臺ほどの車が茶箱を積んで、 堤の上に續いてゐる。……。車輪は半ば轍の深みに隱れ、瘦馬が一齋に頸をのばす。……車の傍には運搬夫がついて行く。足を泥濘から引つこ抜いたり、 馬に力を借したりで、精も根もとつくに盡きてゐる。……列の一部が停ってしまった。どうしたのだ。一臺の車の輪が碎けたのだ。……いや、もう見ない方がいい。
 へとへとになった馭者や郵便夫や運搬夫や馬を、まだ嘲弄し足りないのか、誰やらの差圖で煉瓦の碎片かけらや石塊が道の兩側に盛り上げてある。これは、 間もなく道がもっと酷くなるぞといふことを、 瞬時も忘れさせぬためである。シベリヤ街道に沿ふ町や村には、道路修繕の名で月給を取る人間がゐるといふ。これが若し本當なら、どうそ修繕には及びませんと、月給を上げてやらなければなるまい。彼等の修繕に逢ふと道は益ヽ惡くなるばかりだから。百姓の話では、 コズーリカなどの道路修繕は次のやうにするのだといふ。六月の末から七月の初めにかけては、 この土地の「埃及のわざはひ*」として殼物につく蚊の盛んに發生する季節だが、 その頃になると人人を村から「驅り出し」て、指の間で擦り潰せる程からからな枯枝で、 乾いた轍や穴を埋めさせる。修理の仕苦は更か終るまで續く。すると雪が降って船醉ひを起させるほど搖リ上げ搖り下ろす世界無類の穴ぽこが、 道路一面に出來る。それから春の泥濘が來る。また修理が始まる。これが連年の行事である。
 トムスクの手術で或る評議貝と知合ひになって、 三二驛のあひだ一緖に行ったことがある。私達が、とあるユダヤ人の農家に坐って鱸のスープを食べてゐると百人頭がはいって來て、何處共處の道略がすつかり損じてゐるが‘そこの請負人が修理をしようともしないと、評議員に報告した。……
 「ここへ呼んで來い」と評議貝は命じた。
 暫くすると頭の毛のもぢやもぢやな小男の土百姓が、 顔を歪めて這人って來た評議員は威勢よく椅子を起つて、百姓めがけて突進した。……
 「この恥知らず奴。何だって道を修理せんのか」と彼は泣聲で呶鳴りはじめた。「道は通れん、 頸つ玉は折れる、 知事の報吿は飛ぶ、 何もかもこの俺の罪になる。ええ、この惡黨め。呪はれたこのへちゃむくれ奴。――それでいいと思ふか、ああん。何たる貴樣は穀潰しだ。明日はちゃんと通れるやうにして置け。明日引き返して來て、萬一まだ直ってゐなかつたら、 しやつ面ひん吳れるぞ。ちんばにして吳れるぞ。出て行け!」
 土百姓は眼をばちくりさせて、 汗だくになった。益ヽ歪んだ顏附をして、扉から消え失せた。評議員は卓子に歸って來ると、 坐るなりにやにや笑ってかう言った。――
 「左様、そりや勿論ペテルブルグやモスクヴァの後ぢや、 ここの女はお氣には召しますまい。だが、じっくりと捜して見れば、ここにだって娘はをりますで……」
 土百姓が明日までに間に合つたかどうか知りたいものだ。この短い間に一體何が出來るだらうか。シべリヤ街道にとって幸か不幸かは知らないが、評議員は長くその椅子にとどまらない。その交送は頻繁である。こんな話も聞いた。――ある新任の評議員が持場に着くや占や、百姓を驅り出して道の兩側に溝を掘らせた。その後を襲つた男がまた、前任者の奇行に負けまいと、百姓を驅り出して溝を埋めさせた。三人目は持場の道路に、.厚さ一尺餘の粘土を敷かせた。それから四人目、五人目、六人目、七人目も思ひ思ひに、せつせと蜜を蜂巢へ運んだ。……
 一年中を通じて道路は通行に適しない。春は泥海で、春は小山と穴と修理で、冬は陷し穴で。嘗てヴィーケリや、後れてはゴンチャローフの息の根をとめたと言はれる疾走は、今日では冬、雪の初路ででもなければ想像し得ぬところだ。現代の作家も、シベリヤを术ばす壯快さを書いてにゐる。だがこれは、苟もシベリヤに來て、よし空想でなりと疾走の壯快を味はないでは、 引つ込みがつかぬからである。……
 コズーリカが軸棒や車輪を毀さなくなる日を待つのは、空頼みも甚たしい。シベリヤの役人たちがその生涯に、道路が改善されるのを見たことがあらうか。この儘の方がお氣に召すらしい。ド平帳も通信記事も、シべリヤ族行者の批評も、修理に計上される金額と同様、道路には殆ど利目がない。……
 コズーリスカヤ驛に着いたときは、 もう日が高かった。道伴れには先へ行つて貰つて、 私は馬車の修繕に殘つた。

【注】
カズベック コ—カサスの高峯。氷のピラミッドをなし、高さ一萬六千五百呎。
エリブル—ス コーカサス主山脈め最高峯。東西の兩峯があって、ともに一萬八千呎を超える。
埃及の災 エホバが、十の災(血に化する水・蛙・蚤 蚋、獣疫、腫物、雷雹、蝗、暗黑、長子の死)をエジプトに降した說話。『出埃及記』第七章――第十二章。
ヴィーゲリ 『囘想錄』の著がある。(一七八七―一八五六)
ゴンチャローフ 『オブローモフ』の作者(一ハ一ニ―九一)が提督ブーチャチンの祕書として、海路遙々日本を訪問したのは一八五三年(嘉永六年)である。その翌年彼はシベリヤを橫斷して歸つた。

テキストの快楽(011)その3

◎シュテイフター作 小島貞介訳「湖畔の処女・水晶」


[編者注記]
 シュテイフター(1805-1868)(Wikipedia)は、オーストリアの作家。
 小島貞介(1907-1946)(Wikipedia)は、戦前のドイツ文学者。敗戦後シベリア抑留中に栄養失調により38歳で死去した。彼も戦争犠牲者の一人と言えよう。

シュテイフテル(Adalbert Stifter, 1805-1868年)著,小島貞介(1907-1946年)譯「湖畔の處女・水晶」。
底本:ロマンチック叢書7「湖畔の處女・水晶」,青磁社, 昭和二十三年一月二十一日印刷,昭和二十三年一月二十五日發行,昭和二十四年七月三十日再版發行。
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湖畔の處女・水晶

シュテイフテル 原著

小島貞介 譯

目次

* 湖畔の處女
* 一 森の城
* 二 森の移動
* 三 森の家
* 四 森の湖
* 五 森の草地
* 六 森の巖
* 七 森の廢墟
* 水晶
* あとがき
湖畔の處女・水晶:湖畔の處女・一 森の城

小國オーストリアの北境三十哩にも渡つて森林がその薄色の帶を西へと曵いてゐる。 それはタイア川の水源地に起つてボヘミアの國土がオーストリアとバヴァリアに境を接するあの境界結節點にまで及ぶ。 昔この地點に、礦物結晶結成の際の針状體樣に、巨大な尾根又尾根の一群が衝突して屈強な山巓を盛り上げた。 この山嶺は三つの國土から遙かの彼方にその水色の森をのぞかせ、波打つ丘陵地と水量豐かな溪流とを四方に送り出す。 巓はこの種の山形によく見る樣に山脈の走路を阻み、かうして山脈はここから北に折れて數日の行程に渡つて連つてゐる。

廢絶した入江にも似たこの森林彎曲の地點こそここに語らうとする物語の舞臺である。 親愛なる讀者を直接事件の人物に招ずる前に、 先づ彼等が生活し活躍した右の幽麗な森林彎曲地帶中の二つの地點を手短かに紹介してみることにする。 神々の惠みを得て彼の地をさまようたその日以來私の胸に宿るあの物狂ほしくも麗しい溪谷の風景をばせめて千が一だけ描き得ればと思ふのみえある。 私逹は逍遙の途次天がすべての人に必ず一度は而も多くは一つの相として贈る彼の二重の夢、 青春の夢と初戀の夢とを、かの地に於いて夢みた。 それは一日ひとひ幾千の心の中より一の心を選み出でて未來永劫に私逹の所有ものとし又唯一のもの最も麗しいものとして魂の底深く刻むものであり、 更にその心が逍遙さまようた山野を眼前に髣髴として永遠に消ゆる事のない花園とそてふかくも又あたたかい不可思議の想像の扉へと投げかけるものである。
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テキストの快楽(011)その2

◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(03)

リヤ王:第一幕 第三場 オルバニーの公爵館

ゴナリルと其家扶オズワルドが出る。王リヤは王位を婿二夫婦に讓って、自分は二百人の侍士を從へて、 最初に先づ長女ゴナリルのやしきに同棲することにし、毎日のやうに出獵し、 贅澤と我儘の限りを盡すので、不孝者のゴナリルは忽ち其本性を現はして、冷遇しはじめる。

ゴナリ
 ぢゃ、阿呆をしかったのが不埒だといって、吾邸うち侍士さむらひを御打擲なすったの?
オズワ
 はい、さやうでございます。
ゴナリ
 毎日毎晩わたしをば困らせてばッかり。始終何かしら怖ろしい惡いことをなさるので、 やしき中が引ッ繰返るやうな騷ぎです。もう忍耐がまんしますまい。 お附きの侍士さむらひどもは亂暴になるし、 御自身はまた些細な事をもとに口ぎたなくおっしゃるし。かりからお歸りになっても、 わたしァ御挨拶しますまい。病氣だとお言ひ。お前も、今までとは違ひ、 ずっと無奉公にしむけたがいゝよ。其責任はわたしが負ひますから。

奧にて角笛の聲が聞える。

オズワ
 お歸館かへりでございます。喇叭が聞えまする。
ゴナリ
 面倒がってわざとうッ棄っておくといふ樣子をしておいで、おまひも、他の者も。 如何どうしたのかと(不審がって)れおっしゃるやうにしたいの。 お氣に染まなけりゃ、妹の處へいらっしゃるがいゝのさ、彼女あれの心も、 壓制させちゃおかないといふ點だけは、わたしと一致してゐます。役に立たずの老爺ぢいさん! 一旦讓っておきながら、いつまでも權力を振廻さうとするんだもの! ほんとに耄けると赤兒あかんぼもどるんだから、 機嫌ばかり取ってると、増長して、しやうがない、時々叱りつけなくッちゃ不可いけません。 今言ひつけたことを忘れまいよ。
オズワ
 かしこまりました。
ゴナリ
 お附きの侍士さむらひ共に對しても、おまひがた一同、冷淡な顏をしてゐるがいゝ。 如何どんなことが出來しようと、かまひません。同僚へさう指圖なさい。 わたしはそれをしほにしようかと思ひます、是非、言ってのけるために。 妹へ直ぐに手紙をやって、わたしと同じ手段を取らせませう。食事の準備したくをしておゝき。

二人とも入る。

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テキストの快楽(013)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(005)

        第一編 明治以前

  第一章 唯物論への道を準備した人々

  第四節 みうら・ばいえん(三浦梅園)

    一 梅園の生涯

みうらばいえんという人はどんな人であったのであろう。梅園の人生観といったものをうかがえる書物の一つに『梅園叢書』という板本になった本がある。それの上巻の初に「詩を説いて道に志す人にさとす」という一節がある。そこのところで梅園はこう言っている。「身のけがれを露にぬるる如く、よくよく道のあるべきところをもとめん、欲をとどめては、誠に君子の人なるべし」。梅園という人物は、右の句(詩経)の解釈に出ているように、酒食や好色や好楽やの欲のためにうける「身の汚れ」「露にぬれる」というように言い表わしている。そのように清純であることは、梅園の倫理であって、また彼の好尚であった。彼の生涯の動き方をみると、どこをとってみても、そういう人物であろうとして努力した人だったことが知られる。
 さて、これは明治時代になってのことであるが、唯物論者とは欲望のけがらわしさをすべて身につけている畜生同様のものともくせられたことがあった。かりそめにも、そのような評価をうけたことのある唯物論者の世界観なり思想なりへの準備をすすめた人として、私は梅園を評論しようとするのであるから、或る人たちにとっては奇妙にひびくことであろうとおもわれる。私はそれが奇妙でないことをあきらかにせねばならない。
 梅園は享保八年(一七二三年)に生れ寛政元年(一七八九年)になくなっている<註(1)>。だから一八世紀の人である。ヨーロッパでも一八世紀は、一九世紀が科学の世紀であるのに対して産業技術がととのい且つ発展した時期である。日本の一八世紀は徳川三百年の中間のところを占めていて、学者たちが学問の自由を享有できたうえに産業技術も少しずつととのい始めた世紀である。彼が生れたころは、学問や産業をすすめてくれた吉宗がもう政権についていた。荻生徂徠のような大器が晩成しつつあったときだった。彼がなくなって間もなく、日本の北辺で国の防衛ということがやかましくなりはじめ、知力のある青年たちでオランダ文化に浸透しでゆくものが多くなったために、やがて偏狭な祖国主義が唱えられはじめたり、外国渡来の科学者(シーボルト)にスパイ嫌疑がかかったりする暗い時代が待ちかまえていた。そういう時代にさしかかる頃には、梅園はもうこの世を去っていた。だから、梅園は比較的に学問しやすい良い時代を生きたといえる。彼はのびのびと彼の学問を発展させることができ、世界観思想を十分にのばすことができた。学問なり思想の世界を自由な哲学者として経歴したことに、じつにそのところに、彼が唯物論思想が成立するのと同じ方向へとすすむ道がひらけつつあったのである。
 私はこの節の終りに梅園の『玄語げんご』を中心とする彼の著述のことを書いておかねばならない。私はかつて彼の生家、富永村の旧宅を訪ね、一か月余滞在したときに、感ずるところ深くて、梅園にむかって語るかたちで小文を書いたことがある。それをここに引用しようとおもう。<註(2)>
「日本人によって書かれた哲学書で何が最高峰にあるべべきかと聞かれますとき、私は躊躇なくあなたの主著のなかの主著、『玄語』を挙げます。あなたは『玄語』を二三年かかって二三度も根本的書き換えをなさいました。あなたは何という数多い書を書き換えせられたことでしょう。あなたが言われます二三度の換稿とは、根本的なものについてでした。部分的にあすこをここをと書き改められました草稿の数はいったいいくらあったのでしょう。今日あなたの『玄語』の原稿は六〇綴も残っています。あなたが『玄語』を書きはじめられましてからもう百八十何年にもなりますから、あなたの原稿はもう大部分散佚してしまったのでしょう。それでもしかし、あなたの子孫の方々ほど丁寧にあなたの原稿や手紙や蔵書や什器を保存せられた例は少いでしょう。これはあなたの哲学とあなたの人間的高さによるものでなくてはなりません。
 へーゲルは哲学書がほんとうに科学的なものであるためには七七度の推敲が重ねられねばならぬと言いました。そしてへーゲルにとってこれは理想であったことはいふまでもありません。へーゲルは自分の論理学を数度書き換えたのでした。私はあなたが、二三度換稿されてもまだ満足せられなかったことが、そして、あの例旨の終りの言葉が、強く私たちをつのを覚えます。『物大に事衆し。犬馬の歯、既に半百を過ぐ。鬢髪皤皤、之に加ふるに心胸の病を以てす。知らず、天之に年を仮し、将に其の業を卒へしめんとするか。将に其の志を奪はんとするか。是に於て感無きこと能はず。書して以て佗日を竣つ』
 あなたはいつの日にこの『玄語』が読まれ理解されるとお考えになっていたのでしょう。あなたは遠い「阿蘭陀」の文化に憧憬をよせられました。そのオランダをほぼ中心にしまして西洋の諸国の文化はあなたが亡くなられましてからほぼ一世紀くらいの間に更に長足の進歩をしました。そのなたが考えられましたような学問の世界が日本にも開けて来ました。日本の最高の学府としての東京帝国大学があなたの郷土、あなたの家の土蔵の中に、あなたの『玄語』が蔵せられていることを知って、借覧を申し出ました。それは明治三十二年でした。それでもしかし、あなたの『玄語』の哲学が理解され広く伝えられるということにならずにそれは終りました。そのうち明治四十五年にあなたの郷土の人たちはあなたのお徳を慕うのあまり、力をあわせ『梅園全集』を作りました。
 この数年になりまして、あなたの『玄語』を知ろうという学的要求が漸次高まって来ました。私もその要求を強くもっています一人なのです。あなたの学説は、これからの人たちがひきつけられて理解するような思想を、いっぱいにふくんで居ります。
 これからの人は学問の近代性を感受する力を具えて居ります。あなたは論理学として『玄語』をお書きになり、別に又『贅語ぜいご』をお書きになり、倫理学として『敢語かんご』をお書きになりました。この『梅園三語』を逆の順に言いますと、人倫の学としての『敢語』と、自然及び人間の学としての『贅語』と、人が自然及び人倫について思惟するその思想そのものの学としての『玄語』とを、お書きになりました。これはギリシア人がエティカとフィジカとロギカの学を整えましたこととほぼ相似ています。あなたは西洋哲学のいわゆる三部を整えられたことになります。そしてあなたは、『価原かげん』という著述を以て経済の学を展開されました。価の根源を衝かれました。あなたは物の根源を探らないではいられないかた方でした。天性のフィロゾォーフでいられました。尚又、あなたの詩学としての『詩轍してつ』というあなたの著述も、同様の根源性を示しています。あなたはあの時代の日本の学者の群をはるかにぬいて、右のような学問の『近代性』をはっきり示されました。私たちは驚嘆せずにはいられません」
 梅園の著述は『梅園全集』(上下二巻)に収めてある。略伝には三浦黄鶴のかいた『先府君攣山先生行状』がある。この『行状』は私の編著『三浦梅園集』(岩波文庫二二二九)に入っている。

  註(1)生れたのは八月二日で、なくなったのは三月十四日だった。今では大分県東国東郡西武蔵村であるが、当時は富永村とよばれた農村であった。
    (2) 『三浦梅園の哲学』八一一頁参照。

    二 條理学
 唯物論へのみちを準備した人たちとして、私はえっけん、そらい、ちゅうきの三人をあげたのであるが、梅園はこのなかの益軒と徂徠について彼の著述のなかで語っている。それのみでなく、梅園はこの二人を尊敬し、その影響をうけていたということができる。益軒の実学的な傾向、徂徠の中国古典への傾倒、この二つの精神は梅園において継承されているということができる。梅園の学問思想にはその先行者がなく、また後継者がないとしばしばいわれているが、それは益軒と徂徠にあるような学問のゆき方を梅園が科学的方法でもって発展させた点にあるのである。その点では、あとにもさきにも彼に匹敵するものがないといっていい。
 では、梅園の科学的方法とはどういうものをさすのであるか、これを明らかにすることが何よりも大切である。
 私たちは序説の三、四のところで、東洋では唯物論思想がそだたなかった理由を考えてみた。ほんとうは科学思想が発展しなかったことが問題なので、その問いが解ければ唯物論思想の成長しなかったわけもわかる、ということを私はのべた。理由をいえぱ議論はいくらでも出てくるが、要点をつかんでいうなら、東洋の学問思想が根ていにおいて「空」の思想、「無」の思想で貫かれていることにある。それがもとで発てんしているいろいろの、科学的でない思想がある。このことから題にしていかぬと、梅園の学問思想はあきらかにならない。それには益軒や徂徠をもう一度考えてみたい。
 さて、益軒はずいぶん博学であったし、庶民のためになる知識を提供した。けれども、日本でなぜ実学的傾向はそだたないかを反省はしなかったし、そのようなことを思索することに長じていたとはいえない。彼の『大疑録』は貴重な問題の提出であったが、解決ではなかった。益軒は産業や学術をすすめる役にたったが、彼が『大疑録』でのべているような哲学的な知識や思索とのれんかんは明らかにしていない。たくさんな物や知識をならべたことはならべたが、それの統一的見渡しはなかった。早くいえぱ、益軒では技術の学も、博物の学も、論理の学も、何ひとつととのってはいないのである。もちろん、それらの学問のれんらくなど考えられたことはなかった。ということは、日本に哲学がまだなかったということである。博物学的な物しりはだんだんふえた。そういうのを見てとって、梅園は「庶物の品類いまだ条理に合せず」といった。日本の学問はどれもみな科学的方法にかけて整理されていないものばかりだった。
 徂徠にしても、益軒と同じことがいえる。徂徠は、学とは何であり理論とは何であり、実践とは何であるかを明示してくれ、歴史や社会の意味について教えてくれはしたが、博学の力にまかせてそれらについての知識をくりひろげてみただけで、それらのものを思索的に深く汎理論的にはんりろんてき明瞭にしはしなかった。つまり、「物」たる文辞を論じても、ひとびとになっとくゆくように認識論的に論理学的に分析してみせはしなかった。そういうわけで、益軒にしても、徂徠にしても、東洋の学問のなかのほのぐらい点、洞穴的な神秘的なものへの反省をすることはなかった。梅園はこういうことをいっている、「空と曰ひ無と曰うふ、局を舎ててこまを譚する、妄に非ずして何ぞ」と。その土台となっているものをいわないで どうするのだと、いわば観念論的だんぎだけでは、何もわからないではないか、と従来の日本の、また東洋の学問註(2)のゆき方を批判したのである。
 以上のような、とっくにできていなければならぬ学問上の、また思想上の課題が、梅園の時代では、ようやく気づかれはじめた。しかし、気づかれただけで、少しも手はつけられていなかった。こうした課題を解く重荷が梅園のうえにふりかかっていた。梅園の主著『玄語』が難解なのは、こうしたところに理由があると考えられる。
 江戸時代のほとんどすべての儒者たちは、仏教のほうの学者思想家たちと同じように、東洋の学問の特長や欠点を知らなかった。ということは、それぞれ自分の立場でしか相手がわからなかった(その点では富永仲基は稀な存在だった)。そういうふうでは、科学思想が発展しようもない。したがって、そういう思想の道筋のうえでは唯物論思想がそだつはずもなかった。儒教と仏教との両方の考え方を批判的に理解することができるのでなければ、日本に学問のほんとうの道はひらけない。この道が梅園においてひらけはじめたのである。梅園が仏教と儒教とに加えた批判をここでのべる余裕がないから、東洋の学問にゆきわたっている把えどころのない茫洋たる性格を彼が批判したのを、ここに少しばかり紹介してみることにしたい。
 彼はヨーロッパの近代哲学の父といわれるデカルトがしたように、どんなに広い世界をおもってみても、その世界はひろがっているものそうでないものとに分けて考える。たとえていえば前者は物体で後者は精神だというように、または前者は空間で後者は時間だというようにである。ただし、デカルトとちがうのは塞がっているもの塞がっていないものとは固定的にきまってしまっているのでなくて、弁証法(「反観」)的にみられているので、かなり難解になっている。「露」と「没」、「立」と「活」、「物」と「人」、「塞」と「通」、といったようないくつもの対立概念がもうけられていて、それらの概念のつかい方はまことに細かくて思索的である。彼の思索の一つをあげてみるとこんなのがある。
「仏教では恒河沙ごうがしゃの世界ということをいう。いかにもことごとしく沢山あるように思われるけれども、恒河のすな沙の内にすでに恒河沙の世界をそなえているのであるから、天地は恒河沙をいくつかさねてもこれで天地ということにならない。これがつまり二の立場である。それを二の立場というのは、天地はかように紛紛として、又擾擾じょうじょうとして物が沢山あるように見えるけれども、実はかたちあるものがひとつ、かたちのないものがひとつ、これより外には何も物というものは存在しない。そのかたちのあるものを物といい、かたちのないものを気というのである。かたちのないものはいうまでもなく眼に入らないし手にわらないから、昔の人も誤解して、空である無であると考えてしまったのである。もちろん、地がレアル(「実」)であるに反して天はそのサブスタンス(「軆」)がきょであり、地のマテリアル(「実質」)であるに反して、天はマテリアルでないから、天は実質的でない。「実質なき」ところの虚のサブスタンスを「虚体」であるものと解釈するのはよいであろうけれども、そう解釈しないで、どこまでも虚無である、虚空であるととっては、たいへん間違いである。もし、その指示されているものが(すなわち天が)真の空無であるなら、太陽や月や星がそこにあるということはできない。そうすれば、われも物も存在するところがないことになろう。太陽も月も星もすべてその内にあり、物も我もすでにその内に遊動しているとすれば、そこに虚であるが軆があるとせねばならない。すでにあるのにもかかわらず、それを指して無というのは、それは間違ったことでなくてはならない。<註(3)>」
 またつぎのような批判もしている。「仏教では成住壊空じょうじゅうえくうなどということを言っている。空から漸次に天地ができあがり、終には壊れてゆき、無になる。それが空劫に帰するといわれているのである。次にそこから天地ができあがり又空無となってゆくというのである。邵康節などは混沌開闢の説に自分で幾分の考えを加えて天はひらけ、地は丑に、人は寅にひらける、そして丙のに天は閉じられ、戊の会で地が閉じられ、亥で人が閉じられるといったような、それぞれ勝手な杜撰な説をたてているが、みな条理を知らないので、自然〔天〕と人間〔人〕とをごっちゃにする妄説だといわねばならない<註(4)>。」
 梅園はオランダ語を多少は勉強したが、それによって直接にヨーロッパの学術を吸収はし得なかった。中国でできた天文書は大いによんだ。しかし哲学の本はなにひとつ中国にもまだきていなかったから、その影響をうけることはなかった。彼は一方で天文学や地学や数学やの知識をもとにし、他方では中国や仏教の古典を批判的によんで、そのうえで無類の思索力をもって考えていった。右の引用文にあるように、彼は「条理」ということを学問の生命と考えた。彼において条理とは法則のことである。自然と社会とのうちなる諸法則、それが条理である。けれども、それのみでなものにしている。彼はこういっている。「このゆへに条理の理は、古人の説ける理もその内に候へども、〔それとこれとは〕死活のへだたりある事に候」と。
 彼は「条理学」という呼び名を用いなかった。彼の弟子の矢野弘は明らかに梅園の学説を条理学と呼んだ。矢野は条理学のことを「自然(「天」)と社会(「人」)のぜんたいを見るための規矩準縄である」と理解した。聡明で、そして若くして死んだ弟子の矢野の理解としてうけとると、なお興味がある。

 註(1) 『玄語』天冊の「活部」参照。
   (2) これについては、第一章への補の「東洋の学問」をとくに参照のこと。
   (3) 三枝の著述『三浦梅園の哲学』一三七頁を参照。
   (4) 前掲書一四八頁参照。

    三 反観合一の論理
 私たちは第一節の「かいばらえっけん」のところで、彼はそらいとちがって庶民との交渉が多かったということを知った。梅園となると、もっと庶民との接触が密だった。
 (一)の「梅園の生涯」のところでのべたように、彼はむしろ農民のなかにいた。読書と思索は彼の日課の大部分を占めていたが、その余のひまはほとんど彼が愛する富永村(この村のことを彼は「寒郷」とか「寒村」といった)の人たちとの接触にあてられていたと思われる。みんなと相談して救荒(凶年で不作のため困った人たちをたすけること)事業として無尽なるものをはじめて、経営したり、郷社を美しくしたり、貧困の弟子を表彰したり、村の子弟を教えたりしたことが、いろいろの記録にのこっている。「一村のうちは、よき事あればうちよりて喜び、悪しき事あればうちよりて悲しむ」ことは、彼の生涯変らなかった社会生活の精神だった。
 さて、そういった梅園の生活の庶民性から、彼を唯物論への道を準備した人としてみることがひき出されるであろうか。それはできない。梅園は農民たちとともに生きたのみでなく、彼の世界観の根底には、人民大衆の生活を安心させることがほんとうの文化だという信念のゆるがぬものがあった。「道(文化)は衆を安んずるより大いなるはなく」といったのは彼である。しかし、そうではあるが、彼のこのような生活の実践から、彼が日本の唯物論思想への方向づけに役立ったとはいえない。士・農・工・商という身分的な社会秩序を固くまもっていた梅園としては、学問の方法は厳しく、青年の教育は規律正しく、村人むらびととの交わりは律儀で慈悲深かった。こうした人生観においては、ゆるぎなきものが彼のうちにできていた。彼の哲学とても、けっきょくは、ここにその地盤がなくてはならぬものだった。
 梅園の哲学は、彼の主著である『玄語げんご』のなかにまとまっているのであるが、彼は文字どおりの「形而上学者メタフィジカ―」ではない。スピノザやライプニッツのような哲学者ではなくて、むしろカントのように、認識論思想が特長をなしている。彼には論理的にさぐりもとめたものがあった。そのものは「げん」といったらよいものだった。「玄」は彼にとっては弁証法的にでなくては、とらえられないし、言い表わせぬものだった。彼がそれに考えついたのは、形而上的に古哲の用語をあやつり廻すことによってできたのではなかった。私の解釈では、二十才ぜんごからそれに没頭していた天文学や和算の研究がもとだったのではないかとおもう。その天文学はもうヨーロッパのそれの影響の十分あるものだった。とにかく、自然観察と思索とがもとだったということがいえる。彼は天球儀をもつくったし、素朴な顕微鏡もつくって、つかったのだった。そういう研究がもととなって、さきの「条理」の学ができたのだった。条理の学とはたんに自然や社会の法則性の学のことにとどまらないで、弁証法の論理であった。
 彼はこう説明している、「自然[「天地」]を洞察する道は外でもなく条理である。条理の真の方法[「条理の訣」]は、反のうちに合一を観ることであって、心の執するところを捨て、徴標を正しいところにとること[「反観合一。捨心之所執。依徴於正」]に外ならない。心の執するところを捨てるとは、習気しゅうきを離れることである。徴標を正しいところにとるとはどういうことであるか。見たところ徴標のようであるが、じつは徴標でないところのものがある。たとえば、太陽や月はたしかに西にゆくという徴標を人はつかむのであるが、実は東にゆくのである。……自然の道は陰陽であって、陰陽の実体[「体」]は戦いであって相反している。反するからそのために一に合するのである。これがすなわち自然の成立するところなのである<註>。
  一八世紀いごヨーロッパにおいて科学の精神といわれたものが、とにかく右の梅園の意見のうちに出ている。そして、そのうえになお弁証法の論理を見出すことができる。彼は「反観合一」については『玄語』のなかでくわしくのべている。彼は自然弁証法の提説者といってよい。「反観合一」につけての叙述は『玄語』の序論(「例旨」)にかいているが、反観合一の考えの実際はほとんど全巻にゆきわたっている。
 へーゲルはディアレクティークを明らかにするために、同一ということ、同等ということ、区別ということ、反対ということ、差別ということ、対立ということ、矛盾ということ、これらを順にのべて試みているが、梅園は、「対」には「反」というのと、「比」というのと、「互」というのと、「汎」というのと、「偶」というのがある、という具合にして、説明している。ディアレクティークの論理学が、少くともそのような学問が、ひとつもなかった日本の思想文化史のなかに、反観合一の説を見出すことは奇異な思いすらするほどである。
 レーニンはへーゲルの『論理の科学』の内容を批評したとき、「へーゲルは唯物論の黎明である」といった。これはレーニンがへーゲルのディアレクティークの思想のてってい性を高くかったためであった。論理の科学の伝統のなかった日本で、梅園の論理思想はヘーゲルのように組織的であることができなかったことを考えたうえで、私たちはこう言いたい。梅園は条理の学をはっきりさせることをして、学問や理論のすすむべき方向を示してくれた。この方向のなかに唯物論思想が発展したのだ、ということを。その範囲において、私たちは梅園を唯物論への道を準備したひとびとのうちに加えるのである。日本の思想史の特殊な事情を考えてである。

   註『多賀墨郷君にこたふる書』より。(『三浦梅園の哲学』一三二頁。)

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

テキストの快楽(012)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(004)


    三 東洋にはなぜ唯物論哲学がなかったのであるか

 これは大きな問題である。
 なぜ東洋には早くから自然科学が発展しなかったのであるか、なぜ東洋には西洋ほどに産業技術が発達しなかったのであるか、という問いと、もちろん連けいする問題である。しかし、それらの疑問よりも、なぜ東洋には唯物論は出て来なかったか、という疑問のほうが、よりいっそう根本的なのであり、要点をついているのである。なぜかというと、東洋でも、数学の知識では早くから発達したものがあったし、自然科学的知識らしいものにしてもなかったとはいえぬし、まして産業技術となれば、原始的なもの・発展可能でないもの(というのは、単純な耕作技術や漁撈技術は昔もたいいして変りはないから)に限られてはいたが、それにしても、とにかく産業技術は世界共通の或る線までに達していなかったのではない。生産の技術が根っからなかったのだったら東洋人はどんな文化をもつくりあげることはできなかったであろう。だから、産業技術がなかったとか、学術が発達することがなかったということは言えない。しかし、唯物論哲学があったということ、このことに限って、東洋にはそれはなかったとしか言えないのである。唯物論とは、人がなにものかに対してあげた抗議的なひとつの世界観である。東洋では、インドにも中国にも共通したヨーロッパとは別のひとつの世界観が発展していた。この世界観を語ることがこの節の目的なのである。その世界観に支配されている諸民族においては、唯物論を必要とはしないのである。必要としないというのは、東洋は唯物論をぜんぜん容れる余地がなかったという意味ではない。いいかえると、唯物論の思想を容れる余裕をもたないほどに唯物論に対する別の世界観でもって中がいっぱいふさがっていたのではない。一個の世界観が中を充実していたからではない。この点が大切なのである。東洋人は充実した世界観思想を、だから他の世界観をはじきのけるほどの世界観を、うちに懐いていたのではない。その反対なのである。東洋の世界観は、確立しているとか、充実しているとか、その余のものを、排斥するとか、そういったような性格のものではないのである。むしろ東洋の思想が確立、充実、排他、そういう性質のものであったならば、かえって唯物論思想をそのなかから誘い出し、発展させたことだったであろう。幸か不幸か、東洋思想はそういう性格のものではなかった。東洋思想はそれ自身すでに、はなはだ把えにくいものなのである。このように始末におえぬものが、じつに東洋の思想の大きな特長なのである。中江兆民は「主義の確立」<註1>という文章をのこしているが、そのなかでこういうことを言っている。「欧羅巴ようろっぱまさりて亜細亜あじあが劣るといふのはほかのでもない。欧のやつは思い切つた事をする、亜のやつは何分にも、のろ臭ひ」と言っている。兆民は、ヨーロッパ人たちは、言う行うことにおいて、確立をするが、東洋人はこれを避けることを、東洋人は「のろ臭ひ」という言い方で表現したのである。確立ということは、考える場合や、ものを言う場合では、定立ていりつ(thesis)という用語で言い表わされる。ゆるぎなくはっきり立てることが定立である。何々は何々であると、言い切ることである。言い切られたものは、客観的なものとなって自立するのである。定立は知識の出方でかたのであり、知識の約束である。定立ということがおこなわれなくては、数学もまともには発展しないし、科学も発達しない。ヨーロッパでは、経験にてらしては定立をつくり、経験にてらしてはまた定立をつくった。そうしてできたものが、ほかならぬ科学なのである。そのやり方は、近代までヨーロッパでは古代ギリシア以来めんめんと続いている。東洋では、定立は嫌われたのである。『老子』のなかの思想は、けっきょくは「不言の教を行う」(行不言教)ということに外ならない。はっきり言い切り、はっきり考えをきめることは、定立なのであるが、これを避けて定立のないままに大衆を導こうというのが、東洋の賢者のやり方であった。もちろん、一つの定立には、必ず形に陰影があるように、一の反定立(anti-thesis)がついてくる。この二つの定立の間を行こうとする東洋人は、定立を嫌い、定立ができたらそれをすぐ崩すことを、むしろ心がけたのである。弁証法論理があきらかにしているように、定立をすれば、すぐに反定立がもう出てきているから、一方の側面と他の側面とが同等の資格で浮びあがってくるのは当りまえである。さて、そうしたとき、どちらの側にもつかず、固執せず、同時に二つの側がはたらいていることに眼をつけようとするのが、東洋である。それで、「二際をほろぼすのが、菩薩ほんとうにもののわかったひとのやり方だ*註(2)」というのは仏教の精神だが、老荘の考えとまったく通ずる考え方であって、東洋的な考え方の特色である。ヨーロッパ人は、ひとつの定立にたとい他の定立がひっついて出てこようとかまわない。それを処理する次の定立を企てるのである。だから、いっこうに定立を避けようとしない。だから、はっきりした定立がいくつも累々とがなるようにできて、ひとまとまりになってくる。それがつまり科学の体系である。もし、考えをはっきりきめつけたり、言い切ったりすることが、悪いものを伴ってくるなら、さらにもうひとつの定立をもうけて、その悪さをとり去ろうとする、それはヨーロッパ的やり方である。二際を亡ぼさないで、それどころか、それを大切に生かして、ともに定立させて、二つの定立が争うのを争わせ、そのなかに現われ出るものを期待し、それをさらに定立させようとする。このように、ヨーロッパの学問では学問はつねに学的に技術的である。だから、発展がある。東洋では定立が生れるとすぐ崩すことに努めたから、も、もなくなるのである。弁証法が東洋にないことはなかったが、それが論理学として確立しなかったのは、このためである。
  ヨーロッパには、弁証法論理が成長し、とともに、唯物論が成長したことを、ひき離さないで考察することが大切である。
 インドでは冥想から数学が生れたが、それがヨーロッパのように成長しなかった。定立をやらないからである。定立をはっきりやれば、自然にそれを書きとめるはずである。書きとめないと、ほんらい葦のように弱い人聞においては定立は崩れて消えてなくなる。インド人は書きとめることを、すなわち、記録することをやらない民族だった。このことは、インド人に数学が本当に伸びなかったことと深い関係がある。書きとめて確立することをしなかったから、あれ以上数学が発達しなかったのである。エジプト人やバビロニア人たちは、数の知識や石や板や練りものに刻んででも、確立を貴んだ。定立のために手段を講じたのである。技術だったのである。東洋人は、できてくる定立のいわば灯をすぐに吹き消した。闇のなかにほんとうに明るいものを見ぬこうとしたのだといっていい。零を数としてとりあつかったのは、インド人である。ギリシア人は長さや面積のような量をとりあつかうことから数学を発達させたが、インド人は数そのものを発達させた。ヨーロッパ人は定木じょうぎとコンパスという手段をつかったが、東洋人はこうした手段を確立しなかった。おかくら・てんしん(岡倉天心)がそのなかで「アジアは一つだ」の思想をのべている『東洋の理想』のなかで、「地中海やバルト海の諸民族」のことを、「手段を探求することを好むところの諸民族」だと規定しているのは、たしかに当っている。天心はヨーロッパ人の先人たちが、手段を好むことに対して「アジア民族共通に」「広い愛の拡がり」ということをあげている。天心は彼のこの著述を英語でかいて、ロンドンで発行したから、やむなく愛という文字をつかっているが、「愛」などという定立は、ほんとうはアジア人はやらなかった。明治時代でも「愛」などというと、多くの人(常識人)はてれたのである。「愛」の定立には「憎」の他の定立がすぐ浮び出てくるのを、東洋人は嫌ったのである。「愛憎もと一体」などという言い方は、おそらくヨーロッパ人にはわかりやすい思想ではないであろう。キリスト教における、そして、一般にヨーロッパ人の生活史における「愛」は、仏教のなかでそれにちょうどあたる|ことばは、見出されないほどである。仏教では愛は「愛欲」「愛着」「愛恋」としかとられてない。『涅槃経ねはんきょう』をみると、『ほんとうにものがわかり、ものにこだわらない人は、愛を離れている」ということを言っているが、おそらく仏教の真意であろう。仏教ではむしろ近代人のラブは「愛染あいぜん」であるだろう。人格のできあがるのに妨げとなるものである。
 東洋人は、定立をしない、確立を避ける、というやり方を、自然に対してもやっている。自然界をば、どうしなくてもおのずから(自)なるようになってゆく(然)というように、東洋人はうけとっていた。無神論者のあんどう・しょうえき(安藤昌益)ですら、「自然」という字を「ひとりする」とよませている。ヨーロッパ人にとっては、自然界(natura)は生れ出る(nasci)ことから成り立っている。生れたものは、成長するであろうし、成長するものならば、成長して成長させることができる。「生れる」とは、最初から人間的な言い方である。東洋では、生れてこない自然、どうしなくてもそのとおりである自然、これが東洋人の自然(おのずからしかるもの)である。ひとりするものであっては、これに対して手段のほどこしようはないのではあるまいか。中国や日本では、自然界に対して人間が人間の力を加えて開拓することを、「開物かいぶつ」とか「開化かいか」とかいってきた。開物や開化を主張したことは、東洋の古典のなかのほんの一部に限られていた。『天工開物てんこうかいぶつ』(一七世紀)という中国の書物は、ヨーロッパの学問が中国に入ってからのちの著作である。自然界を開化することは東洋人の仕事ではなかった。中江兆民は、このことを鋭くとらえて巧みに言い表わした。彼の言い方によると、わが国では、「人民が開化し往くと謂うよりは、寧ろ開化其物の中へ人民を追い込む(註3)」というのである。知識の定立をしない東洋人においては、自然を定立のなかに置くことができない。そうだとすると、自然科学も産業技術も発達しようがないのである。では、東洋人にとっては開化は一切ないのであったか。ないのではなかった。あったのである。しかしいつからあるというようなものでなくて、はじめからあるのである。どこかで始まりようはないのである。開化そのものは時間を越え、空間を越えてあるものであった。老子が「万物はおのずから化しようとる」といった彼の形而上学は、日本では人民教化にさえ巧みにとり入れられている。日本では、「自然」を説く老荘はかえって実践的に利用された。価値をもった哲学としてではなく、この道教のいわば野放図のほうずの教えがかえって実践化されたのである。まことに不思議な国である。
 これでは唯物論は芽ばえることからが、日本、いや東洋では、むつかしかったといわなければならない。
 ヨーロッパでは唯物論のはじめをきかれると、ほとんどみな一致してギリシアのデモクリトスをあげる。デモクリトス(前・四六〇―三七〇年)は、周知のように、世界のすべてのものはアトム(原子)から成るという説をたてた自然哲学者として知られている。デモクリトスの書いたものは断片的にのこっているし、またギリシアのその後の哲学者たちがデモクリトスの説として言いのこしているものがあるので、デモクリトスの学説といっていいものは今日もつたわっている。知識や学問について彼が語ったものは、今日からみても光っている。それらのなかで特にめだっている彼の意見をまとめて、その科学的意義を要約してみると、こういうことができる。すなわち、

    1 原子と空間より外にはほんとうに存在するものはない。
    2 このことは永遠であって、変ることがない。
    3 存在するものは、ないと否定されることができない。
    4 すべてのものはきかいてきな運動である。
    5 何ものも偶然に生じるものではない、すべてのものはそれのもとから、しかも必然性でもって生じている。

 デモクリトスは、このようにはっきり言いきった。つまり、テーシスをもうけたのである。
 右の五つの考えはたいそう簡単なものであるが、これくらい科学の精神をいってしまっているものはないといってよいであろう。今日の自然科学が主張しようとする大切なものはみんないってしまっている、といっていい。(もっとも今日はデモクリトスのいったような、まったくの空の空間があるとは自然科学者はいわないけれども)。今から二千四百何十年まえにこんな意見をデモクリトスがいっただけではなく、後の学者たちが、ことにギリシアのアリストテレスやエピクロス、ローマのルクレティウスなどが、デモクリトスの学説をさらに発展させつつ、言いつたえたのである。近世では、フランシス・ベーコンいらいたくさんの哲学者、科学者たちがデモクリトス風の説をひきついだ。じつは、そうした学説が承認されて、あとあとへひきつがれたことが、ヨーロッパに自然科学の伝統が確立されたわけなのであるといえる。
 私たちがいま問題にしているマテリアリズムは、そういう自然科学の伝統のなかにあって、ぜんじ発展した思想にほかならぬのである。東洋にそういう伝統がなかった。東洋人はたとえばデモクリトスのように、定立をすることを拒んだ。もともとインドの知者たちもデモクリトスが提説したような、ひとつの学問的真理に思いつかぬのではなかったろう。インドの哲学者たちは、広大なる自然、複雑な社会、総じて宇宙ぜんたいのことは、テーシスをつくってみたところで、ほんとうに究極のものはつかめぬ、それでつかめぬならば、そのようなやり方はやめてしまって、なんでもひとつのこさずつかめるような宇宙大の智恵がほしいものだという、とてつもない、永遠といえば永遠、悠遠といえぱ悠遠な思想をもつようになった。それが割合にまとまって結実したのが、インドの仏教哲学の知恵(般若)の論である。このことは世界の仏教研究者たちの通説である。日本人が深い影響をうけた仏教が、みんなそろってそのような「高遠」の仏教だったというのではないが、日本の各宗の開宗者たちは、右のような仏教の智恵の論はのこりなく共通に理解したひとびとである、ということはできる。日本人には、一般に東洋人には、どこかたががはずれたようなところ、どこかで要領が得られるだろうから自然まかせだといったようなところがある。唯物論思想が生れなかったということは、また科学思想が生れなかったということである。

  註(1)『警世放言』(再版、明治三十五年)一八〇頁。
   (2) 竜樹の『中論』の序(中国の人僧叡のかいた文章である。彼の文章は「二際を沈さざるは菩薩のうれいなり」となっている)。
   (3) 前掲書一九八頁。

        四 どうして東洋では唯物論哲学がおこらなかったか
 東洋は、世界観とか哲学ということになると、はじめから難題を背負っていたようである。というのは、東洋人は思索することでは、わかりにくいものを最初から手にかけたが、ヨーロッパ人はわかりやすいものから手がけていったといえるからである。ヨーロッパのどの哲学史をみても、タレース(前・六世紀)がまず出てくる。この世界の本源は何か?  という問いに彼は答えてくれている。「水」だというのである。この水とはかめの水、小川の水、湖の水、そんな個々の水のことではなくて、およそ水といわれるもの、さらに湿気的なもの、さらに拡げて、胎生のもとなる精なる液、つまり世界のぜんぶにゆきわたっているもの(物)、これがタレースのいう「水」なのである。その要点は、精神的なものをさがしていっているのでないところにある。もちろん、タレースが出てのちまもなくアナクサゴラス(前・五世紀)のような哲学者が出て、やや精神的なものを世界の本源だとする説をたてはした、またやがては、ソクラテス、プラトンのごとき哲学者があって、精神の面を明らかにしてゆくようになったのであるが、それしてにも、哲学史のはじめはタレース的な問いではじまっているのである。かんたんなところからはじまっている。そしてソクラテスやプラトンにしても、物のことについては、技術や数学の考えを通じてつねに問題をすすめたのである。すじの通ることしか求めなかった。とにかく、「私」とか「精神」とか「作用」といったものから離れて、それとは別に客観的なもの(物)を問題にし、それについて何かはっきりした知識をもつようになっていたのである。ところが、それが東洋ではどうであろう。インドの哲学のはじまりは『吠陀リグヴェーダ』の哲学的讃歌だが、その最初のインド人の問いでは讃歌のなかでヨーロッパのように物には向けられない。おもしろいことに、インドの哲学的讃歌のなかでも「水」のことが出てくるには出てくるのであるが、それは物としてはとらえられていない。せっかくの「水」の考えが、「ゆうもなかった、もなかった、くうの世界もなかった。それをおおうてんもなかった」というような冥想的な問いと答えでもって、すっかりつつまれているのである。
 かようにして、古代のインド人は最初から困難な課題を背負っていたのである。インド人は水や火や地のことを考えてもいるが、だから物について考え、物をもとにして考えているかに思えるところが察しられないではないが、その水や火がまた精神的なものでもあるかのように考えられていた。だからヨーロッパ流にいうと、物活論はあったが唯物論はなかったと言える。ヨーロッパ人たちにおいては、考える態度がまったく東洋とちがっている。彼らにおいては、問いがもうけられ答えが得られ、そして知識ができるにしても、その知識はやがて仕事をしたり技術を練ったりすることに役立つように(ことごとく役立ちはしなかったが、役立ち得るようにそういうように)持っていっているのである。だから、「万物のもとは水である」といい切り、または「万物のもとは地水火風である」といい切り、あるいはまた「万物はみなつりあいという関けいからきている」(ピタゴラス)といい切ったりする。ひとつひとつ片づいていく。ことにこの第三の定立の如きは、後々まで技術的な知識にとってたいへん役にたった。なぜなら、ピタゴラスのつりあいとは数的かんけいのことだったから、数学の発展をうながした。ところが、インドではそうではなかった。手に負えないものに初めから手をつけたのである。したがって、定立はできはしない。いや、できないよりも先に、定立することは好まなかったのである。
 中国はインドとは世界観の出発がややちがう。むしろ出発はいいのである。『詩経』や『易経』のような古典からすでに、「物」「百物」「万物」というような言い方をしている。物を複数でもってとらえている。もちろん、その「物」とは水や土や、山や沢に限られているのでないので、そのなかには人間だって入っているので、その点すでに古代ギリシア人のやり方とはちがっている。いうまでもなく、近代人が「物質」とか「物体」とかいう場合の物の意味にけっして限定されてはいなかったことは、注意を要する。「物あり則あり」(『詩経』)というようなはなはだ学問的な言い方をしても、その「物」には人間(たみ)のこともふくまれていたのである。古代インド人の考え方との大きな相違がここに見出される。古代の中国では「物」の意味内容のうちには、たとい人間や精神も入れていたにしても、物という言い方をすることは、インド人とちがって、定立することを避けていないことである。それどころか人間がものを考えるときの法式(つまりカテゴリー)に対して、すでに鋭く反省をしていたのである。Kategorie というヨーロッパのことばに対し日本では「範疇」の語があてられていることは、周知のことである。それは中国古代の『書経』の「洪範九疇」の文字からとったことでもわかる。古代の中国人ははじめはこのようなすべり出しをしたのであったが、それにしてもしかし、古代ギリシア人やローマ人のような考え方はとらぬようになっていった。老荘的な違ったものだった。古代ギリシア人たちの場合では、自然は生じた物としての自然(physis)をさすのであった。中国ではそうでなかった。そこで私たちは、つぎの老子の言葉に注意してみることにしよう。「人間は大地の上にあるものにもとづいてきまりをつくった。その大地の上にあるものは、天にしたがってそのきまりができた。そのまた天のきまりのもとは道なんだ。さらにその道のきまりは自然なのだ。<註(1)>」。この一連の語でみると、発想においては、つまり地上のものに着眼されているところでは、人間の経験が卒直に出ていて、私たちは具合いいと思うのである。古代のギリシア人の発想と共通しているとおもえるのである。ところが、老子では、地上にあるもののきまりのところで、「水」とか、「湿なるもの」とかいうところへはゆかず、「天」なるものへゆき、さらに「どう」にゆき、とうとう「しぜん自然」なるものへと行ってしまっている。こうなれば、この「自然」はギリシア人の自然 physis ではない。ローマ人たちのつかった自然 natura だって physis と同じで、おのずと生れ出た物だという意味をもっている。老子では、自然ということは人間や人間のことばにつけていわれていることが多い。老子は「わざとつくらないことばが自然だ<註(1)>」というようなことをいったり、「こまかいことをきめつけないで、悠然としていて、ことばを大切にしていれば、どうしなくても事は成就するものだ。そうなれば、きっと百姓(人民)たちは、わが自然だととっているにちがいない。<註(3)>」というようなことをいっている。「自然」ということをいっても、ギリシア人やローマ人が自然といったものとは異ったものをさしたのである。中国のえき易では私たちに大いにのぞみをもたせるような出発をしている。易では天・沢・火・雷・風・水・山・地(八卦)のことをいっているのだか問いのきっかけになったのである。がしかし、かなしいことに、そこに一線を画すことはしなくて、観念的なもの、形而上的なものを考えることへと、ひきつづいて発展してしまっているのである。
 自然の解釈が形而上学的になるとともに、物といわれるものは形而上学的な意味のものとなっていった。そうなっていったのは、産業上の技術のあり方や、生産物の分配の仕方や、ひいては政治の仕方が、ヨーロッパの場合とちがっていたことと関係しあってできたのであるが、とにかく「自然」の考えにしても、「物」の考えにしても、ぜんじに形而上学的なものへと発展したのである。中国では宋代になると、仏教の思想が滲透してきていて、一層この傾向は強まった。いわゆる宋学(程朱学)の思想家たちになると、論をおこすやすぐに「天地」とか「万物」とかいったのであるけれど、万物といっても、地上のいろいろの物がはっきりと複数でもってつかまれているわけではなかった。たとえば、程明道(一〇三二―八五年)は「天地万物はその理の上からみると、独立しているものはなく、みなついをなしている。どれも自然にそうなっている」(皆自然而然)といったふうである。こうした形而上学は、中国では宋学が代表的だといわれている。この宋学のように抽象的な思索の仕方だけで済ませていたのでは、ヨーロッパに発展した自然学はもちろんのこと、自然の記述(自然誌)のような科学を発達させることはできなかったのは当然である。むしろ、そうした傾向を塞ぐのが宋学の特長ですらあった。日本の儒学もそのような系統でもって栄えていた以上、自然物につ一四、五世紀になると、学者たちは宋学(程朱学)の空疎な性質から離れてゆこうとするふうが起った。王陽明の思想はその実例のうちで著しいほうであろう。陽明はこんなことをいっている。「考えてみるに、物理は自分の心の外では求められない。自分の心より外に物理を求めても、物理があるわけではない。<註(4)>」「物理」といっても、ヨーロッパでいう意味のものにはとられないが、「物理」という語のつかい方は用語例があって、心のことだけをいうのとは、おのずから違っている。とにかく、空疎な思想でいっぱいだった。
 以上のようにして、東洋では「自然」とか「物理」とかのことばはあったけれど、その内容は空疎でしかなかった。空疎というのは、そういう概念(すなわち「自然」や「物理」の概念)をふたたび自然のじっさいの世界に戻して、そこでもう一度、検討することがぜんぜんできないという意味である。このことは人間たちの日常の生産の生活と、ああした考え(概念)とにれんかんがなかったことでもあるのである。虚空の考えはあっても、「空間」の概念はできてこない。したがって、真空の概念も気圧の概念も成長してこない。つまり、自然界のじっさいのものに戻してみることがなかったからである。こうしたことは、東洋に唯物論の出てこなかった大きな理由である。

 ;註(1)「人法地。地法天。天法道。道法自然」
   (2) 「希言自然」
   (3) 「悠兮。其貴言。功成事遂。百姓皆謂我自然」
   (4) (夫物理不外於吾心。外吾心而求物理。無物理矣)

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
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テキストの快楽(011)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(003)


     二 なぜ日本では唯物論者が出てくることがむつかしかったか

 さて、誰が唯物論者であったかをきめることは、急がないほうがよい。それよりも、なぜ日本では唯物論者が出てくることが困難であったかを明らかにするほうが、たいせつである。この問いが解かれれば、唯物論者がほんとうはどんな人であるべきであるにせよ、とにかく、そういう人が出てくる余裕も機会も日本にはなかったことがわかる。そういうようにたずねてゆくことが、けっきょく日本における唯物論者のあり方を明らかにしてゆくことに、もっともかなうように思われる。
 唯物論者の出てくることのむつかしかった日本とは、どういう国であったか。ずっと旧いことはここでははぶくことにしょう。ヨーロッパでいうとルネサンスの直前のころに日本で書かれた、北畠親房ちかふさの『神皇正統記じんのうしょうとうき』(一三三九年)をとりあげることをしてみたい。この本に照らしてみて、日本はどういう国であったのか、それを考えてみることから始めよう。この書を批評して、歴史としては粗略、文明史としては一貫した理路を欠くというように考える人(たとえば山田孝雄)があるが、私はこの日本が近世においてどんな国でありはじめたかを知るには、じつに恰好の文献だとおもう。『日本開化小史』の著者田口卯吉はこの本の著者の着眼の鋭いことを称揚したことがあるが、私は田口説をとりたい。さて、この書は巻頭まず、「大日本おおやまとは神国なり」と規定する。「日神ひのかみがながくとうをつたえいる」という点で、異国に例がないと著者はいう。さらにすすんで、親房はこの国をば「君子不死の国」だといっている。不死の国とは、この国にすんでいる人間たちは、「天性柔順で、道をもって御し易い」という意味である。このように、親房が日本という国をつかんでみせていることは、それからまた、そうつかんでみられるようにイデオロギーが当時もその後もできていたことは、まず誤っていないと考えられる。この国はそういう教化を国民に植えつけたことを、親房はよく知っているのである。さらに重要なのは、それまで日本国内にあったいろいろの思想方向を一つに統一しようろん南朝のための募兵の志にあったかも知れぬが、それはそれでよい)。書き方をみると、彼として成功している。彼がこの本を書いたころは、いわゆる鎌倉仏教の宗祖たちはもうすでに一世紀も前にそれぞれ一宗をたてていたのだが、彼はそれらには触れなかった。「一宗に志ある人が、余の宗をそしり賎しむことは、大きな誤りである」といって、ひたすらに調和をはかっている。それどころか、いろいろの世界観人生観(仏教・儒教・道教)はもちろん、産業技術(彼はその例として「稼檣」や「紡績」や「工巧」などをあげている)や経済や文学や芸能などをあげて、それらがこぞって盛んになるのが「聖代」といわれるものだとして、文化の全体をとらえて、それをいわば国策にそわせようとしている。このように文化(「道」)のぜんたいをとらえて論述していることは、あとにもさきにもないことだった。とにかく、日本の「近世」がはじまるにさきがけて、早く親房が『神皇正統記』を書いたことは、歴史的にいって意義が大きい。これより後の多くの歴史家たちが、この本によっていわゆる「皇代記」を固めていったのである。「大日本帝国憲法」の発布の翌年に公判された『国史眼』にしても、天皇継統表はすべてこの本に拠っているのである。『神皇正統記』の著者が日本の国柄をつかんでみせたその歴史眼は、後の歴史家たちに大きな影響をあたえた。彼のあとに出た日本歴史家たちで統一をうたわない人はいないのである。江戸時代のなかごろの社会批評家の太宰春台は、彼の『封建論』(一七四五年)のなかで家康の「英武」をうたって、日本の「海内統一」を称揚しているし、幕末のすぐれた史論家としての伊達千広は、彼の『大勢三転考』のなかで、徳川幕府の政治のもとの「大小の国々必一つに和順」せる太平無事のさまを強調しているのである。水戸光圀や頼山陽のことはあげるまでもない。
 親房は、私たちの用語でいえぱ、文化のぜんたいをながめて考察している。政治・経済・産業はもちろんであるが、批評家としての文士(「坐して以て道を論ずるは文士の道なり」と彼はいっている)や算術や詩論や諸芸の人々のことすべてをあげておいて、人はその性来の器量がちがうのだから、その分にしたがうべきだという思想を示している。何につけても調和、何につけても統一、これが彼の論旨である。
 私たちにとって、もっとも重要なことはつぎのような思想である。すなわち、調和または統一の考えがたんに政治的なものでなくて、この著者が把えているように、その考え方は日本人の一つの世界観となっていることである。個人個人の性格や能力の相違についての見解が、底深い宿命的な形而上学に根をもっていることである。どんな人生観をもつ、どんな職業をもつ、どんなイデオロギーをもつかは、そのひと個人の生涯で完了しないのだ、という世界観的な思想を、彼のなかに私たちは見のがしてはならない。これは親房の思想であって、彼が日本民族のなかに見てとった、かなり仏教の影響からくる思想である。人は、このイデオロギーに共感するか、あのイデオロギーに共感するかの違いはあっても、そのこと自体は(どっちにつくか、どっちについたかどうかは)さほど重大のことでなくて、もっと大きいもっと広い関係において、それぞれの個人が役立っている、その立場というか、世界観というか、とにかく、その広大さについていうと、人がどの職業につき、どの階層につき、どの人生観をもつかは、それ自体だけで完結しているのではない。たがいに補い合っている。だから、うわべ<傍点>はちがっていていいというのである。彼はこういっている、「われはこの宗に帰し、人はかの宗に心ざす。ともに随分の益あるべし。これ今生一生の値遇にあらず」と。だから個人の生活は来世までのびている。七生の説は当然出ていいようになっているのである。
 ここに利益という思想が出ているが、これは見落すことができない。『神皇正統記』の著者は一方において、とてつもない広大な、人間の一生をそのなかに包んでいるような広大な世界をえがいている。このなかでは偉大な調和ができているという信念である。ところが他方において、そのように考えてゆくのが得だ、利益だという思想を、そこにひそませている。彼はこういっている。「政治家ともあるものは、あれこれの教えをみなとりいれ、また人民のほうもそれぞれの教養のあるものをすべて見落さぬようにすることだ。そうするほうが利益のあることを忘れてはいけない」(「国の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教を捨てず、機を漏らさずして、得益の広からん事を思ひ給ふべき也」)。以上のように、一方では形而上学的なものをもって全体をつつみ、まことに庶民にとって深遠なるものを示しておき、他方では実践上の利得ということでしぼっているのである。この混濁は日本的イデオロギーとして見落せないものである。いったい、このようなやり方がヨーロッパの世界観の歴史や宗教的思想史のなかに見出されるであろうか。これは親房の仏教思想からきていると思えるが、じつは、このようなゆき方やり方は、日本化した仏教の一つの特質なのであると私はみたい。インドや中国の仏教のあり方と日本のそれとの相違は、こうしたところにあらわれている。つまり、親房のいっていること、すなわち彼が日本の歴史のなかに見てとっていることは、すべて日本的特色であるという結論を下してよいであろう。このようにして、彼は日本は「君子不死の国」であると過去の歴史を見てとり、さらにそのように日本を規定したのである。そしてさらに、この国の人民は「天性柔順で、道をもって御し易い」ということを、あの著述でもって明らかにしたのである。私たちが今日いうところの「文化」は、日本の旧い、ことばでいうと「どう」くらいしか相当するものがないのであるが、仏道にしても、儒道にしても、神道にしても、その他、芸道げいどうにしても、人民を「御する」道具なのであった。人民のものとして人民のなかからできあがった文化だとは、いいにくいのである。外国から入ってくるどんな文化も、人民を「制御する」道具としてとり入れられたもののようである。
 このような文化の国においては、その国の人民のなかから人民の抗議の声としての唯物論は芽ばえてくることはむつかしく、唯物論者が出てくることは至難だったことは当然であった、といわねばならない。
 さて、ある国、ある民族のうちから唯物論者が出てくることの困難な理由は、以上の考察で十分なのでは決してない。それどころか、以上の日本的なものを、じつは世界観的に思想的に基礎づけていたものがあり、それはヨーロッパの学問思想がそのぜんぶの幅をもって日本に入ってくるまで、ずっと成長し、発展したものであった。それを私のぜんぶの幅をもって日本に入ってくるまで、ずっと成長し、発展したものであった。それを私は、つぎの第三節で「東洋にはなぜ唯物論哲学がなかったかのであるか」という題でのべてみたい。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。