読書ざんまいよせい(064)

◎ グリーンブラット「暴君」ーシェイクスピアの政治学(02)

 「リア王」は、シェイクスピア最長の戯曲、それだけ脚本に込める思いもあったのだろう。また、他の戯曲とひと味もふた味も違って見える。筋も相当に複雑だ。道化のセリフなど、まともでない登場人物が、まともなことを言う、というブレヒトの唱える、「異化効果」につながる手法がみられる。

 リチャード三世もマクベスも、邪魔になる正統な王を殺すことによって権力の座に就いた犯罪者である。しかし、シェイクスピアは、もっとじわじわと進行する問題にも興味を覚えた。最初は正統な支配者であったのに、精神的不安定さのために暴君のように振る舞い出す人たちが惹き起こす問題だ。…そのまわりには思慮深い顧問官や味方や、健全な自衛本能をもって国家を慮る人々もいるだろうが、そうした人たちが狂気ゆえの専制政治に対抗するのは極めてむずかしい。予期していなかったことだし、これまでの長きに亘る忠誠や信頼ゆえに、王に唯々諾々と従う癖がついているからだ。
…引退を決意した王は、宮廷人たちを集めて、その「決意」を明らかにする。王国を三分割して、王への追従を言う能力に応じて娘たちに分け与えるというのである。
むすめどもよ、今や、予は、支配をも、所領をも、 國事に關する心勞をも、悉く脱ぎ棄てゝしまはうと存ずるによって、聞かしてくれ、 其方そなた逹のうちで、誰れが最も深くわしを愛してをるかを。 眞に孝行の徳ある者に最大の恩惠を輿へようと思ふから。」
坪内逍遥譯より(第一幕第一場四六〜五一行)

以上、グリーンブラット「暴君」より(一部改変)
 一般的な世評では、リア王の高齢による認知症状がテーマで、その後のドラマツルギーが展開したとされるが、少し違うような気もする。一言では言えないが、おのれを含めた権力というか「暴君」に振り回された王の末路と捉えられるのではないか?
 疎外された末娘のコーディリアの哀れみだけが強調され、のちの時代には、ハッピーエンドに改変された脚本もあったようだ。私は、コーディリアの「反撃」の名目がなにかチグハグだった気がしてならない。ないものねだりかもしれないが、彼女の旗印は、「善政であったリアの治世に戻す」という「最小限綱領」を掲げるべきだったのだ。それに賛同するあらゆる旧家臣を結集させるべきだったのだ。昨今の世で言えば、「消費税率を下げる、企業団体献金を止める」という最小限の政治目標で「選挙管理内閣」を作るべきだったのだ。「最大限綱領」を持ち出して、みすみすそのチャンスをのがし、茶番劇にもならない猿芝居を演じた輩には次の言葉が似つかわしいかもしれない。
 Edmund Burke(エドマンド・バーク)曰く

When bad men combine, the good must associate, else they will fall one by one, an unpitied sacrifice in a contemptible struggle.
悪人どもが結託するときには、善人たちは結びつかねばならぬ。でなければ卑劣な争いの中で、一人ずつ哀れみを受けることのない生贄となることだろう。

Facebook での一知人の引用である。
 こんな世の中で、「リア王」を上演するのはどんな演出になるのだろうか?実際に観にはいけないが、大竹しのぶがリア王を演じる民芸の演目などは楽しみである。

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