◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(04) 第二幕 第三場~第四場
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リヤ王:第二幕 第三場
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第二幕
第三場 荒れた岡の一部。(前と同じ城内としてあるテキストもある。)
父の勘氣を蒙ったエドガーが出る。他國へ放浪しようとしても、警戒が嚴しいので、 餘儀なく躊躇してゐる體である。
エドガ
布令が出て手が廻ってゐるといふことを聞いたが、幸ひに樹の洞にかくれて追手をばまぬかれた。 どの港も閉され、どこ一箇所非常な警戒で以て俺を捕へようとしてゐない處はない。 のがれられるだけは命を助かるために、 貧窮が嘗て人間をして獸も同樣の墮落の極に到らしめた其時の姿も 是程ではと思ふやうな最もあさましい姿をも取らうと思ふ。 顏は汚いもので塗りたて、腰には古ゲットを卷き、頭髮はもぢゃ~にもつれさせ、 赤裸々で以て風雨雷電にも身を曝さう。さういふ先例は、此國のベドラムの乞食共だ、 彼奴等は、わめき聲をあげて、麻痺れて無感覺になってゐる素肌の腕へ、針だの、 木串だの、釘だの、迷迭香の刺だのを突きたて、怖ろしげな樣子を見せて、 呪ったり祷ったりして、下賤の農家から、あはれな小ぽけな村から、羊小舎から、磨粉屋から、 無理やりに布施を貰ふ。なさけないタリーゴッド!なさけないトム(なぞと呼んであるく)! が、まだしもあれは人だ。此エドガーは人でなしだ。
エドガー入る。
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リヤ王:第二幕 第四場
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第二幕
第四場 同じ處。
リヤが阿呆役と一紳士とを從へてグロースターの居城内の中庭へ現はれる。 そこにはケントが足枷を掛けられたまゝ眠ってゐる。
リヤ
さう急に邸を出た上に、使ひの者を返してよこさぬといふは不思議ぢゃ。
紳士
わたくしが傳聞りました所によりますれば、 つい前夜までは他所へお出張の思ひ立ちは無かったらしうございます。
ケント目を覺して、足枷に掛かったまゝで、王と挨拶する。
ケント
王さま、ごきげんよう!
リヤ
やッ?……汝はそんな辱めを受けてゐながら、娯樂とでも思ふてをるか?
ケント
どういたしまして。
阿呆
はゝゝゝゝ!えらい脚絆を穿いてゐらァ。馬は頭で縛り、犬や熊は首ッ玉で縛り、猿は腰で縛り、 人間は脚で縛る。とかく脚が働き過ぎると、あゝした木の股引を穿かされる。
リヤ
汝の役柄をも辧へをらんで、そんな待遇をしたのは誰れぢゃ?
ケント
お二方でございます、お婿さまとお令孃で。
リヤ
いゝや、そんな筈は無い。
ケント
いゝえ、さうなんでございますよ。
リヤ
うんにゃ、さうぢゃない。
ケント
いゝえ、さうなんで。
リヤ
うんにゃ~、そんなことはせん。
ケント
いゝえ、しました。
リヤ
ヂューピターも照覽あれ、せん!
ケント
ヂューピターも照覽あれ、しました!
リヤ
彼等はそんなことは決して能うせん。能うしもせねば、しようとも思はん。 承知でかやうな暴戻を働くは、人殺しよりも惡いことぢゃ。どういふ譯で、如何なる罪があって、 予の使者たる其方に對し、かやうな待遇を蒙らすに至ったか、すみやかに説明せい。
ケント
殿さま、私がお邸へ參りまして、あなた樣の御書面をお二方にお渡し申しました途端に、 膝を突いて御挨拶をしてまだ起ち上りもしませんうちに、汗で湯氣の立ってゐる馬で以て、 一人の使者が息を切ってやって參って、其主人のゴナリルさまの口上を喘ぎ~述べまして、 間に私が居るにも關はず、書面を差出しますと、お二人がそれを直ぐに讀んで、 そこで俄かに御家來衆を呼び輯めて、忽ちお馬にめされました。 私には、後から來い、いづれ其中に返辭を遣はすとおっしゃいまして、冷淡なお待遇、 それから此處で私の邪魔をしをりました其使ひの者に出逢ひましたが、其奴は、 つい此間あなた樣に對し無禮を働いた彼の野郎なんでしたから、分別よりは癇癪の方が先きに立って、 つい引ッこぬきました。すると、彼奴、大きな臆病聲を出しゃァがって邸中の者を呼び立てましたのです。 お婿さまも、令孃さまも、私の所行は此位ゐ恥ィかゝせて相當だといふお見立でございます。
阿呆
冬はまだ去ッちまはないなァ、雁がそッちへ飛ぶやうぢゃァ。
(節をつけて)親父襤褸著りゃ子は皆な盲目、
親父が財布持ちゃ子は皆な孝行。
運の女神は名うての賣女だ、
錢の無いのにゃ目もくれぬ。
だけれど、お前は、女兒さんのお庇で、 年中かンねン(艱難)にゃ不自由しないや。
リヤ
(煩悶して)おゝ、癪が、此胸先きへ!ヒステリカ・パッショー(癪)め、下れ、汝、 沸き上る心の惱み、汝の居處は下ぢゃわい!……我女は何處にゐる?
ケント
グロースターさまと御一しょに此お邸に。
リヤ
從いて來るな。こゝに待って居れ。
リヤ入る。
紳士
今承はった事の外には何も不都合をせなかったのですか?
ケント
何もしません。……王さまは、如何して斯うお侶少なでお渡りになりました?
阿呆
そんな事を問ねた罪で足枷に掛けられりゃァ當然なんだがなァ。
ケント
阿呆どん、何故?
阿呆
蟻の許へ往って教はって來な。冬は働かんものだよ。鼻を案内者にしなけりゃァ、 盲人でない以上、目をば案内者にするね。鼻がありゃ二十人が二十人まで、臭くなりかゝってるものは嗅ぎ附けらァな。 大きな車の輪が山から轉げ落ちる時分にゃ、つかまってゐないこッた。手を離さないと、 首の骨が折れッちまはァ。だがね、登る時にゃつかまってゝ、引ッ張り上げて貰ふことさ。 おい、聰明な人が一段善いことを教へたら、今俺が教へたことは返してくれ。 こりゃ惡黨にだけ守って貰ひたいや、阿呆が教へたんだからなァ。
(節をつけて)慾を目的のお家來衆は、
表面ばかりのお侶でござる、
雨が降りだしゃお先きへ御免、
後におぬしは濡鼠。
おれは殘ります、阿呆は後に、
早う逃げるは聰明者。
逃げりゃ阿呆も惡黨なれど、
阿呆は惡黨ぢゃござんない。
ケント
阿呆どん、お前何處でそれを教はった?
阿呆
阿呆め、足枷臺なんぞぢゃ教はらないぞ!
リヤ又出る。グロースター從いて出る。
リヤ
おれに面會を辭る?二人とも病氣ぢゃ?何ぢゃ、疲勞してゐる? 終夜旅行ひたしましたから?全くの口實ぢゃ、叛き悖らうとする徴候ぢゃ。 もッと良い返答を聞いて參れ。
グロー
御前、御存じの如く、公爵は、あゝいふ一徹な、火のやうなお性質でござりますから、 お言ひ出しなされたことは、いッかなお退きになりません。
リヤ
おのれ!何を馬鹿な!ちゝ畜生!何ぢゃ、火のやうな!性質が何とした! やい、グロースター、こりゃやい、グロースター、俺がコーンヲール公爵夫婦に面談したいのぢゃ。
グロー
御前、その通りに言上仕りましたのでござります。
リヤ
言上仕った、彼奴らにに?やい、其方は予を存じてをるか?
グロー
無論、存じてをりまする。
リヤ
國王がコーンヲールに會談せんとするのぢゃ。慈父が其女と會談せんとするのぢゃ、 奉公を命ずるのぢゃ。其方は此儀を二人の者に言上仕ったか? ちゝ畜生?何ぢゃ?一徹ぢゃ?火のやうな?其火のやうな熱い公爵とやらに申して來い、王が…… いや、先づ待て。……全く不快なのかも知れん。 健康な時には能う務められる職分も病氣の爲には怠るものぢゃ。 肉體に壓迫を蒙るといふと、肉と共に心も患まざるを得ないやうになる。…… まゝ、耐へよう。いはゞ、病人の發作同樣の事であるのを、おのれの我儘な心は、 それを健康な者の所爲のやうに見ようとする。……
ふと又ケントに目をつける。
おのれ~!何科あって彼れをかやうな目に逢はせをった?これで見ると、 公爵夫婦の此處へ來たのは謀計に相違ない。……予の家來を渡せ。 公爵夫婦に申せ、俺が面會したいといふと、只今直ぐに。出て參って拜承はれ、 參らんければ、此方、寢所口へ參って、太鼓で睡眠を叩き破るぞと申せ。
グロー
どうかしてお仲の和ぐやういたしたいものでござる。
と言ひ~グロースター入る。
リヤ
おゝ、此心、此さしこんで來る心!下れ!
阿呆
たんと心をお叱りよ、小父たん、魚饅頭を製へるとて、 生きた鰻を饂飩粉の中へ入れた下婢どんのやうに。熱いから飛び出さうとすると、 下婢どん、鰻の頭を菜箸で叩いてよ、「引ッ込みな、不作法な奴だよ、引ッ退みな!」ッて。 氣の毒だらうッて、枯草にバター附けて馬に與れたのは、其下婢どんの阿兄だッさ。
グロースターが案内して、コーンヲール、リーガン、及び從者ら出る。
リヤ
(やっと機嫌を直して)お早うござるの。
コーン
御機嫌よろしう!
コーンヲールが何事か從者にさゝやく。と從者一二人が立ちかゝりて、ケントを足枷臺から下す。
リガン
(王に)お目にかゝってお嬉しう存じます。
リヤ
リーガンよ、さうもあらう。さうなうてはならん筈ぢゃ。もしも嬉しう思ふてくれんやうであれば、 墓の中のそなたの母を不品行を働いた女と見做して離縁せうと思ふてゐた。……
此中ケントの放免されたのに目を附け
おゝ、免されたか?その事は又別の時に。……(リーガンの手を取って)リーガンや、 姉は不可い奴ぢゃ。おゝ、リーガン、姉めは角鷹のやうに殘忍な、不孝な、 鋭い爪で、これ、此處を貫きをった!胸が一ぱいになって言はれん。リーガンよ、 迚もそなたは眞實にはすまい、姉めが、それは~、酷いとも、何とも…… おゝ、リーガン!
王はリーガンの胸に顏をあてゝ泣く。
リガン
(冷かに)まァ、あなた、お靜かになさいまし。わたしは、 姉上の眞價が貴下によくお解りになってゐないのだらうと存じます、 姉上が義務をお盡しなさらんといふよりは。
リヤ
えッ、それはまた如何して?
リガン
わたくしには、姉上が聊かたりとも義務を怠りなさるやうなことがあらうとは思はれません。 もしも、或ひは、あなたの御近侍衆の亂暴を御譴責なすったかも知れませんが、それは多分、 姉上の越度にはならんやうな立派な目的にもとづいた正當な理由があることだらうと存じます。
リヤ
あの姉の不孝者めが!
リガン
おゝ、あなたはお齡を取っていらっしゃる、もう御壽命も行き止りになってゐるのです。 あなたの事をあなた御自身よりも善う辧へてゐる人逹に、さういふ人に何事も任して、 貴下はおとなしうしていらっしゃるのがよいのです。ですから、どうぞ、 姉上のお邸へお歸りなさいまし、さうして、わたしが惡かったとおっしゃい。
リヤ
彼女に詫びろといふのか?見い、これが家長たる者に似あふか?
とリヤは膝まづいて、極皮肉な口吻で、ゴナリルに謝罪する擬態をする。
「我女よ。わしは齡を取ってゐます、老人は無用のもんぢゃ、斯う膝を突いてお願ひする、 どうぞ著物を下さい、寢床を、食物を。」
リガン
父上、お止しなさい。見ッともなうごいます。姉上のところへお歸りなさいまし。
リヤ
(起き上って)決して歸らん。姉めは俺の附きの者を半數に減らしをった上に、俺を睨みつけて、 蝮のやうな殘忍な毒舌を以て、これ、此胸を貫きをった。……天上に貯へおかれた有りとある懲罰よ、 恩を知らぬ彼奴の素頭に墮ちかゝれ!汝、人を害ふ毒風よ、 彼奴の若い骨々に浸み入って、不具者にしてくれい彼の不孝者を!
コーン
馬鹿なことを、もし~、馬鹿なことを!
リヤ
汝、迅速なる電光よ、眼を眩す汝の猛火を、 あの人を侮蔑みをる眼の中へ射込んでくれい!強烈なる日光の吸ひ上ぐる沼の毒氣よ、降り下って、 美しいを自慢の彼奴の面をめちゃ~にしてしまうてくれい!
リガン
おゝ、怖ろしい!その通りに私にもおっしゃるでせう、お腹が立てば。
リヤ
いゝや、リーガン、そなたは決して俺に呪はれるやうなことはない。 そなたは柔和しい性質ぢゃによって、酷い、荒々しいことはせん。 姉の目は猛うて火のやうぢゃが、そなたのは柔しい。 おれの娯樂をば吝んで、附きの者を減したり、がみ~と口返答をしたり、 約束の隱居料を切り縮めたり、つまり、おれの入って來んやうに閂を横たへるやうなことは、 そなたの持前には無いことぢゃ。そなたは子たる者の本分をよう知ってゐやる、自然と守らねばならぬ義務を、 親に對する禮儀を、恩に報ゆるの道を知ってゐやる。 そなたは此王國の半分を予がそなたがに遣ったことを忘れやせん。
リガン
父上さま、肝腎の御用の方を拜承はりませn。
リヤ
予の家來を足枷臺に掛けたのは誰れぢゃ?
此時、奧にてタケットが聞える。
コーン
あの喇叭は何ぢゃ?
リガン
あれはきッと姉上です。直に行くといふ書面でしたが、果して見えたのです。
オズワルド出る。
御主人が見えましたか?
リヤ
(オズワルドを睨んで)何時變るともはかられん女主人の恩寵を力に、 虎の威を我が物貌に見せびらかしあるく狐奴め!……退りをらう!
コーン
如何なさらうといふのです?
リヤ
俺の家來を足枷臺に掛けたのは誰れぢゃ?……リーガンよ、よもやそなたは知らんことであらう。 ……や、誰れぢゃ來たのは?
ゴナリルが出る。王それを見て
おゝ、天にまします神々、もし神々にして老人を憎みたまはずば、神明若し孝行を嘉したまはゞ、 これをば餘所事とばし思し召さるな。御使ひ神をお下しあって、何卒お身方下されい! ……(ゴナリルを睨んで)やい、おのれ、此鬚を見ても恥ぢをらんか?
此時、リーガンは姉を迎へて握手する。王はそれを見て
おゝ、リーガン、そなた、其奴の手を取るのか?
ゴナリ
手を取っては何故惡いのですか?わたくしが如何いふ不埒を致しました? 無分別や老耄が不埒と名附けることが、必しも總て不埒ぢゃァございません。
リヤ
おゝ、此胸!善う裂けんでゐる!まだ持ちこたへてをるか汝は? ……(コーンヲールに)如何して予の家來が足枷臺に掛けられたのぢゃ?
コーン
(傲然と)私が掛けさせました。此男は、もっと優待の度を減らしてもよい程の亂暴を働きましたので。
リヤ
お前さんが!え、お前さんが?
リガン
父上、あなたは弱いんですから、弱さうにしていらっしゃい。もし、お戻りになって、 此月の末まで姉上と御一しょにお住ひになって、お附きを半數になさいましたなら、それから私共へいらっしゃいまし。 只今は邸を離れてをりますし、あなたをお款待申さうと存じましても、 それに必要な準備が何一つ出來ませんのです。
リヤ
姉の邸に戻れ?さうして五十人だけ減らせ?いゝや、戻らん、 戻る位ならば、誓って、俺は、屋根の下には居らん、雨風の憎しみと鬪って、狼や梟を友逹にして、 絶體絶命の身を斫るやうな苦しみを味うた方がましぢゃわい! 彼奴の處へ戻れ!彼奴の處へ戻る位ゐなら、あの血の氣の多いフランス王、 末女を化粧料も無しで伴れて去ったあのフランス王の椅子の前に膝を突いて、 青侍か何ぞのやうに、見すぼらしい露命を維ぐための捨扶持を乞ふた方がましぢゃわい。 彼奴の處へ戻れ?なぜ寧そ俺に勸告めん、(オズワルドを指さし) 此下郎めの奴隸になれ、馬になれと何故勸めん!
ゴナリ
そりゃあなたの御隨意です。
リヤ
(ゴナリルに)我女、どうぞ俺を狂人にさせてくれるな。おのしには最早厄介は掛けん。 さやうなら。もう二度とは逢ふまい、又と顏を見ることはすまい。……と言うても、おのしは、 切っても切れん俺の肉ぢゃ、値ぢゃ、實女ぢゃ、いや、肉といふよりも肉の中の惡い病ひ、 惡い奴ぢゃけれど、俺の有であると言はねばならん。おのしは、 俺の腐った血の生み出した腫物ぢゃ、惡い瘡ぢゃ、腫れ廣る癰疽ぢゃわい。 けれども俺はおのしを呪ふまい。おのしが恥辱を蒙らうと、蒙るまいと、それは天に打任して、 俺はそれを祈りはせん。雷におのしを撃ち殺せともいはん、 天で裁判をなさるヂョーヴ神におのしの惡事を告訴もせん。 改心の出來る時が來たら、改心せい、其うちとッくりと考へて、善人になれ。俺は耐へてくれる。 リーガンの許にゐればよいから、俺と百人のものとが。
リガン
さうお望み通りにゃなりませんわ。わたくしはまだお出にならうと預期してをりませんでしたし、 お迎へ申しますに適當な準備とても致してをりませんから。お聽き遊ばせな、あなた、 姉上の御意見を。そりゃあなたが我儘には相違ない、けれども思慮分別のある方であって見れば、 あなたの御老年といふ事を思って、忍耐して……尤も、 これは申さいでも姉上のよう御存じの事でございますけれど。
リヤ
そんあことを言うて、お前は當然ぢゃと思ふか?
リガン
はい、當然ですとも。え、五十人のお附きですって?結構ぢゃありませんの? 何の必要あって其以上が要ります?はい、又は五十人だけも何の爲に? そんなに大勢お抱へになっておくと、費用も危險も募らうぢゃありませんか? 一つ邸に、二種の命令の下に大勢の者がゐて、如何して和親が保たれます? それは困難なことで、殆ど不可能です。
ゴナリ
あなた、なぜ妹なり、私なりが家來と呼んでをります者をお使ひなすっては不可ませんのです?
リガン
なぜ不可ませんの、わなた?もし彼等に不行屆きがございませうなら、 わたくし共が屹と取締りまする。もし私共へお入りになりますやうなら…… どうやら入らっしゃりさうで危い……どうか二十五名だけに願ひます。 それ以上は御免を蒙ります。
リヤ
そちたちには、何もかも遣はしたのに……
リガン
ちょうど好い時に下さいましたの。
リヤ
のみならず、そなた逹を俺の後見とし、一切の權力を委任した其代りに、 百人だけは傍仕へへの武士を必ず附けておくといふ約束でったのに。 何、二十五人以上を伴れて來てはならん?リーガン、そなた然う言うたか、實際?
リガン
はい、もう一度申します。わたくしはそれ以上はお斷り申します。
リヤ
(驚き呆れて)猛惡な顏附も見よくなる、上手の猛惡な奴が出ると。 最上の猛惡でないだけが幾らかの取得ぢゃ。……(ゴナリルに)其方の許へ往かう。 そなたの五十人は二十五の倍ぢゃ。……すればそなたの愛は彼れのゝ倍ぢゃ。
ゴナリ
まァ、お聽きなさいまし。何の必要があります二十五人のお附きなんか? 十人だって、いゝえ、五人だって?もし御用があれば、 邸には其倍程の者がゐてお世話するぢゃありませんか?
リガン
何の必要があります一人だって?
リヤ
えゝ、必要を論じるな。見るかげもない乞食さへも、其貧窮の極に在って、尚ほ何か餘計なものを持ってゐる。 自然が必要とする以上を人間に許し與へん時には、人の生と獸類と擇ぶ所が無いわい。 其方は貴婦人ぢゃ、もし只暖かくさへしてゐれば、それで貴婦人の服裝が足るものなら、 自然は決して其方が今著てゐるやうな、そんあ綺羅びやかなものを必要とはせんわい。 それは暖を取る用には立たん。併し、まこと必要といふは……おゝ、天の神々よ、 吾等に忍耐を賜りませ、吾等に必要な忍耐を!これ、御覽ぜよ、神々、 齡も積り悲しみも積って、見るも哀れな此あさましい老人をば。 これなる女兒共を父に叛かしめられまするは、尊神がたの御意でござるか? よしさうであるにせい、いつまでも此奴らの爲すがまゝになってゐるほどに、 それほどに手前をば玩弄になされて下さるな。 男らしい怒りを起させて下され、女の武噐の涙なんぞに此男子の生面を汚させて下されますな!……
王男泣きに泣く。
うんにゃ、おのれ、不幸不倫の賊婦め、今に爲返しをしてくれる、怖ろしいことをしてくれる ……全世界が……どんな事かまだ解らんが、世界中を怖れ戰かすやうな事をしてくれる。 おのれらは俺が泣くだらうと思ひをらうが、いゝや、俺は泣かぬわい。 泣きたうてならぬけれども、おのれ、泣く位ゐならば、此心臟をば千萬片に引裂ってくれうわい!……
阿呆の肩にもたれかゝって
おゝ、阿呆よ、俺ァ狂人になりさうぢゃ!
とグロースター、ケント、阿呆らが王を介抱して入る。遠雷が聞える。すさまじい風の聲が聞える。
コーン
奧へ往かう。あらしになりさうだ。
リガン
此邸は狹いから、老翁と家來とでは迚も入りきりゃァしない。
ゴナリ
みんな御自分がわるいのさ。求めて安樂をお棄てなさるんだから、自業自得で、辛い目も見なさらんけりゃならん。
リガン
父上だけなら歡迎しますけれど、お附きは一人だって困りますもの。
ゴナリ
わたしもさう思ってゐます。……グロースターどのは何處へ往きました?
コーン
老翁に尾いていったが……あ、戻って來た。
グロースター出る。
グロー
王は大へんなお腹立ちでございます。
コーン
どこへいらっしゃらうといふんだね?
グロー
馬を~とおっしゃいますが、どちらへおこしやら、わかりません。
コーン
うッちゃっておくがいゝ。好きこのんでなさるこった。
ゴナリ
あなた、強ひて止めないがようございます。
夜になりかける。電光、雷鳴。風が激しくなる。
グロー
あゝ!夜にはなる、烈しい風が怖ろしう吹き荒れる。 こゝいら數哩の間は殆ど叢さへもない。
リガン
おゝ、頑固な我儘な人には自業自得の苦痛が、きッと良い教師になります。 門口を閉めておしまひ。父上には亂暴な武士共が附いてゐるから、 どんな好い加減のことをお耳に入れて、何をお教唆め申すか、知れたものでない。 思慮があれば、是非警誡せねばなりません。
コーン
(グロースターに)門口の締りをなさい。ひどい晩だ。 いかにも、リーガンのおいひの通りだ。あらしを避けよう。あッちへ。
皆々入る。風雨、雷電。
坪内逍遙(1859-1935)譯のシェークスピヤ(1564-1616)作「リヤ王」です。
底本:昭和九年十月廿五日印刷、昭和九年十一月五日發行の中央公論社、新修シェークスピヤ全集第三十卷。
【ネットでの底本】
osawa さん、投稿(更新日: 2003/02/16)
2025年10月23日 一部訂正(底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた、また一部文字は UTF8 に変換できなかった。)にてアップ。

