南総里見八犬伝(006)

南總里見八犬傳卷之三 第五回
東都 曲亭主人 編次
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瀧田たきたしろせめ貞行さだゆき妻立つまたて戸五郎とごらうふ」「金まり八郎」「里見よしさね」「堀内貞行」「妻立戸五郎」

良將策りやうせうはかりごと退しりぞけ衆兵仁しゆへいじん
靈鴿書いへはとしよつたへ逆賊頭ぎやくぞくかうべおく

山下柵左衞門尉定包やましたさくざゑもんのぜうさだかねは、麻呂安西まろあんさいつかはしたる、その使者瀧田たきたたちかへりて、「彼輩かのともがら忽卒あからさまに、歸降きごうのよしをいはざれども、いたく怕害おそれて候ひし。遠からずしてもろともに、みづから詣來まうきて罪を勸解わび麾下きかしよくせんこと疑ひなし。その爲體ていたらく箇樣々々かやう〳〵如此々々しか〴〵に候ひき」、となきことまである如く、ことばを飾り、首尾精細しゆびつばらかに、あくまでこびつげしかば、定包ます〳〵こゝろおごり、をもて日に續遊興つぐゆうきやうに、士卒しそつうらみをかへりみず、ある玉梓たまつさてくるまを共にして、後園おくにはの花にたはむれ、あるあまたの美女をあつめて、高樓たかどのに月をもてあそび、きのふは酒池しゆち牛飮ぎういんし、けふは肉林にくりん飽餐ほうさんす。一人いちにんかくの如くなれば、老黨ろうどうも又淫酒いんしゆふけりて、むさぼれどもあくことなく、ついやせどもつくるをしらず。王莽わうまう宇內くにのうちを制する日、祿山ろくさん唐祚たうのまつりかたむくるとき、天日私てんじつわたくしに照らすに似たれど、逆臣はながくめいをうけず。定包がほろびんこと、かならず久しからじとて、こゝろあるは目をそはだて爪彈つまはぢきをするもの多かりけり。
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南総里見八犬伝(009)

南總里見八犬傳卷之四第八回
東都 曲亭主人 編次
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行者ぎやうじや岩窟いはむろ翁伏姬おきなふせひめさう
瀧田たきた近邨きんそん狸雛狗たぬきいぬのこやしな


金碗かなまり八郞孝吉たかよしが、にはかに自殺したりける、こゝろざしをしらざるものは、「かれ死なでもの事なるに、功ありて賞を辭し、可惜あたら命をうしなひし、こは全く玉梓たまつさに、のゝしられしをはぢたるならん」、と難ずるものもありとなん。それにはあらでいにしへの、かしこき人のことに、男子寡欲なんしくわよくなれば、百害を退しりぞけ、婦人にねたみなければ、百拙ひやくせつおほふといへり。まいて道德仁義をや。されば義實よしさねの德、ならずして、鄰國りんこくの武士景慕けいぼしつ、よしみを通じ婚緣こんいんを、もとむるも又多かりける。そが中に、上總國椎津かつさのくにしひつの城主、萬里谷入道靜蓮まりやのにうどうじやうれんが息そくぢよ五十子いさらご呼做よびなせるは、けんにしてかほよきよし、義實ほのかに傳へきゝて、すなはちこれをめとりつゝ、一女一男いちぢよいちなんうまし給ふ。その第一女は嘉吉かきつ二年、夏のすゑに生れ給ふ。時、三伏さんぶくの時節をひやうして、伏姬ふせひめとぞなつけらる。二郞じらうはそのつぐの、年のをはりにまうけ給ひつ、二郞太郞じろたらうとぞ稱せらる。のちに父の箕裘ききうつぎ安房守義成あはのかみよしなりといふ。稻村いなむらに在城して、武威ぶゐます〳〵さかんなりき。しかるに伏姬は、襁褓むつきうちよりたぐひなく、彼竹節かのたけのようちより生れし、少女をとめもかくやと思ふばかりに、肌膚はだへたまのごとくとほりて、產毛うぶげはながくうなぢにかゝれり。三十二さうひとつとしてくかけたる處なかりしかば、おん父母ちゝはゝ慈愛いつくしみ、尋よのつねにいやまして、かしつきの女房にようぼうを、此彼夥俸これかれあまたつけ給ふ。さりけれども伏姬は、となく、日となくむつかりて、はや三歲になり給へど、物をいはず、えみもせず、うちなき給ふのみなれば、父母ちゝはゝ心くるしくおぼして、三年以來醫療みとせこのかたいりやうを盡し、高僧驗者げんざ加持祈禱かぢきとう、これかれとものし給へども、たえしるしはなかりけり。
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南総里見八犬伝(012)

南總里見八犬傳第二輯卷之一第十一回・序など
東都 曲亭主人 編次
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【外題】
里見八犬傳 第二輯 巻一
【見返】
文化丁丑孟春刊行
曲亭馬琴著 柳川重信畫
有圖八犬傳第弐輯
山青堂藏刻

【序】書き下し

八犬士傳第二輯自序[玄同]

稗官新奇之談。嘗作者ノ胸臆ニ含畜ス。初種々ノ因果ヲ攷索シテ。一モ獲ルコト無スハ。則茫乎トシテ心之適スル所ヲ知ラズ。譬ハ扁舟ヲ泛テ以蒼海ヲ濟ル如シ。既ニシテ意ヲ得ルトキ。則栩々然トシテ獨自ラ樂ム。人之未視ザル所ヲ見。人之未知ラザル所ヲ識ル。而シテ治亂得失。敢載セザルコト莫ク。世態情致。敢冩サザルコト莫シ。排纂稍久シテ。卒ニ册ヲ成ス。猶彼ノ舶人。漂泊數千里。一海嶋ニ至テ。不死之人ニ邂逅シ。仙ヲ學ヒ貨ヲ得テ。歸リ來テ之ヲ人間ニ告ルカゴトキ也。然トモ乗槎桃源ノ故事ノ如キ。衆人之ヲ信セズ。當時以浪説ト為。唯好事ノ者之ヲ喜フ。敢其虚實ヲ問ハズ。傳テ數百年ニ迨スハ。則文人詩客之ヲ風詠ス。後人亦復吟哦シテ而シテ疑ズ。嗚乎書ハ也者寔ニ信ス可ズ。而シテ信與不信ト之有リ。國史ノ筆ヲ絶シ自リ。小説野乗出ツ。啻五車而己ナラズ。屋下ニ屋ヲ加フ。今ニ當テ最モ盛也ト爲。而シテ其言詼諧。甘キコト飴蜜ノ如シ。是ヲ以讀者終日ニシテ而足ラズ。燭ヲ秉テ猶飽コト無シ。然トモ於其好ム者ニ益アルコト幾ント稀ナリ矣。又夫ノ煙草能人ヲ醉シムレトモ。竟ニ飲食藥餌ニ充ルコト無キ者與以異ナルコト無シ也。嗚呼書ハ也者寔ニ信ス可ズ。而シテ信ト不信與之有リ。信言美ナラズ。以後學ヲ警ム可シ。美言信ナラズ。以婦幼ヲ娯シム可シ。儻シ正史ニ由テ以稗史ヲ評スレハ。乃圓器方底而己。俗子ト雖固ニ其合難ヲ知ル。苟モ史與合ザル者。誰カ能ク之ヲ信セン。既ニ已ニ信セズ。猶且之ヲ讀ム。好ト雖亦何ソ咎ン。予カ毎歳著ス所ノ小説。皆此意ヲ以ス。頃コロ八犬士傳嗣次ス。刻成ルニ及テ。書賈復タ序辭ヲ於其編ニ乞フ。因テ此事ヲ述テ以責ヲ塞クト云フ。

文化十三年丙子仲秋閏月望。毫ヲ於著作堂ノ南牕木樨花蔭

簑笠陳人觧識

[震坎解][乾坤一草亭]

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読書ざんまいよせい(067)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(002)

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一 番作と蟇六

 伏姫ふせひめが富山に神去かんさり給ひてから十何年になる。武州大塚(今の小石川の大塚)に犬塚番作いぬづかばんさくといふ浪士があつた。もとは大塚の里を知行ちぎやうして大塚を名乘つた管領くわんれい持氏もちうぢ家人けにんであつたが、結城ゆふきの亂に加はつて暫らく踪跡をくらました間に犬塚と姓を改め、持氏の子の成氏なりうぢが再び管領となつてから放浪中にめとつた妻をれて何年振かで舊采地へ戻つて来た。

 然るに番作父子が忠義の爲めに家を明けた不在中、留守居した姉の亀篠かめざさは物竪い父や弟には似ない淫奔女いたづらもので、さぬ仲の義理の母と、二人ふたり棲で誰憚たれはゞかる者も無いので勝手氣儘に男狂ひをし、擧句あげくはては母が病氣でひとの足りないのをかこつけに破落戸ならずものの蟇六を引摺込ひきずりこみ、母が眼をつぶつたのを好い幸ひにズル〳〵ベッタリの夫婦となつた。成氏が管領家くわんれいけとなつて舊臣を召出されると聞くとひき六は俄に大塚姓を名乘って、番作の所在不明を奇貨として先代の忠義を申立てゝ相續を願出た。近所合壁爪彈きんじよがつぺきつまはぢきせぬ者はない破落戸ならずものが先代の忠義の餘徳で村長むらおさを命ぜられ、八町四反を宛行あておこなはれ帯刀も許されて、成上り者の大きな顏をして威張返つてゐた。
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読書ざんまいよせい(065)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(001)

南總里見八犬傳(解題的梗概を含む)

滝澤(曲亭)馬琴・内田魯庵抄訳

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【テキスト中に現れる記号について】
:おどり字
(例)〳〵はおどり字濁点付きは〴〵と表記
以下は、上記注釈は省略する
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       小   引

一 八犬傳は全部を完成するに二十八年を費やしてをる。總冊百六巻。一篇の物語として此の如く長きは東西共に比倫を絶する。西欧小説中の最大長篇として推される猷豪ユーゴーの『哀史』も杜翁の『戰争與平和』も八犬傳に比べてはその雄を称する事は出來ない。随つて讀者としても全部を卒業するのは決して容易でないので、所謂八犬傳の愛讀者がそらんするは大抵、信乃濱路の情史乎、芳流閣上の争闘乎、房八の悲劇乎、荒芽山の活劇乎、部分的の物語に限られてをる。能く全部を通串してその半ばにだも達したものは甚だれである。明治の文学史に高名な博士中の博士ともいふべき某氏は、曾て八犬傳を八分通り通讀したのを誇りとして、八犬傳を全部卒業したものは恐らく一人も有るまいと、能く八分通りを讀破したのを以て讀書心旺盛を示すものとして暗に自負する處があった。八犬傳は特別の忍耐力を要するほどソンナ怠屈なものでは無いが、何しろ長いには大抵な者は根負けがしてしまふ。殊に馬琴時代とは思想上文章上の鑑質的態度や興味を根本から異にする今日の中年以下の讀者に取つては、八犬傳も大般若経も餘り大差は無いので、これが全部の通讀を望むのは草鞋脚半掛けの五十三次の行脚を強要するよりも困難である。八犬傳を覆印するに方つて編纂者が先づ解題的梗慨を添へんとする旨趣は此埋由からである。

一 が、編纂者から此依嘱を受けた時は梗慨を書く如きは何でも無いと思ってゐた。但し梗概を書くのは如何に名著でも餘り氣の利いた役目でも無いと思って躊躇もしたが.同時に又自分等に丁度相應した仕事だとも思って幾度か依違した後に應諾した。が、ざ着手して見ると屡〻案外な困難に逢着して梗慨を書くといふのは容易ならざる難事であるのを知つた。何しろ百六冊といふ大部の長物語を僅か三百枚や五百枚に切詰めて大體の輪郭を分明ならしめるといふはレンズを透かして縮写するやうなソンナ手輕なものでは無い。それに就いての困難咄は兎角に手前味噌や自画自讃に流れ勝ちだから之を措くが、梗概といふのも矢張創作の一つで、一口にいふと、自分のやうな創作の才の貧しいものがする仕事でない事を痛切に悟った。その才の短い為めの当然の結果として覆刻本の各冊毎にその一冊分の物語の全部の慨略を記述する豫定であったのが、豫定より多少頁を伸ばしても猶二分の一しか祖述出來無かつた。それでも何度か削ったり省いたりしてヤツトこさと之までに縮めて纏めたので、今更に自分の省筆の才の短いのを恥入つた。この比例を以てすると結局許された頁では全部の半分の梗慨しか書けないわけであるが、發行期日が迫ってゐるから第一冊目は是非無いとして何とかして最後の第三冊目までには、全部を纏めるツモリである。

一 馬琴の描寫が極めて細密に渉つて煩瑣を極めてるとは誰も云ふ處であるが、實際に當つて見ると豫想以上に煩冗を極めてゐる。発端を掻摘ままうとするには微細の點までも呑込んで置かねばならないが、三度も四度も反覆しなければ解らぬ個處は相應に多い。その精究の結果、馬琴ほどの細心の作家でも時としては矛盾したり撞着したり、時間が曖昧で、往〻多少相違したり、随分好い加減な與太を飛ばした個處が少からず有る。且脚色にも同じ構想を反覆したり無理な細工をしたり、且又強て自家獨特の因果律に萬事をあてはめようとする牽強があまり餘り煩はし過ぎるに堪へない。馬琴は自分の幼年から青年時代へ掛けての愛讀書で、その代表作は大抵通讀し、一度は馬琴論を書いて見ようと思ふ豫ての腹案もあったのが其後いつとなく興味が去つて了つたが、偶然この最大作の梗概を祖述するにあたつて、馬琴の著作の態度や慣用の作意が以前よりも一層明瞭に解つて再び馬琴諭の興味を沸湧して來た。馬琴の評傳といふやうな大袈裟なものはイツとも解らぬが將來に期するとして、八犬傳總括評乃至八犬傳偏痴氣論といふやうなものは若し頁が許されるなら第三冊目の梗概終結後に載せたいと思ふ。
十二月十五日
魯庵生識
八犬傳物語

 一 金碗八郎孝吉

 今から五百年前、其處此處そここゝで戰ひの絶間なかつた時代の咄。房州は白濱から小湊こみなとへ行く長狹ながさ白箸河しらはしかはほとりつりをする主従らしい三人の武家があつた。こゝらで餘り見掛けない人品骨柄こつがらで、中にも中央の床几しやうぎに腰を卸して竿を垂れる一番年少としわかなのは武門の棟梁の氣品を備へた天晴貴人あつぱれきじん御曹子おんざうしと見受けた。

今日けふ三日みつか落武者おちむしやにもせよ源氏の嫡流たる里見の冠者がこひぴきれぬといふは、く〳〵武運に見放されたと見える。』

 と思はず溜息をいたのを微笑にまぎらして、

『敗軍の將は鯉まで對手あひてにせぬと見えて、何遍なんペん釣っても小鰕こえび雑魚ざこばかりぢや。』

『殿、止めさせ給へ』と老職らしい年老としふけたのが、『弓矢ゆみや持つ武將を釣師扱つりしあつかひして鯉を釣って來いといふさへ心得ぬに、此國でれるかれぬかわからぬものを三日みつかと限るといふは奇怪千萬な。君を迎へまつる誠意の無い安西あんさいの腹がきますわい、ノウ堀内氏ほりうちうぢ!』

如何いかにも杉倉殿すぎくらどのの云はれる通り。』

 と今一人いまひとりのがムシヤクシヤと、

不信ふしんの安西、麻呂まろらを頼んでイツまでおはすとも詮が無い。杉倉氏、上總かづさへおとも仕らうぢやござらぬか。』

『兩人ともはやまるまい。』

 と御曹子は左右を顧みて兩人の短慮を嗜たしなめ、

『石橋山に敗れて安房に渡った右幕下うぱくかの武運にあやかるツモリは無いが、結城を落ちるそも〳〵からと先づ安房に落ちついておもむろに再擧を図る決心であった。安西、麻呂の頼むに足らぬ心の底はえ透いてるが、上總へ落て誰を頼まうとする。所詮は時と勢ひをうしなつた義實、誰を頼むといふしかとした寄邊よるべが無いから暫らく界隈を放浪さすらつて安西、麻呂のせんやうを見る外は無い。』

 と静かに沈吟しあんしつゝ、

『鯉を釣るのは國を釣るのぢや。弓矢持ゆみやもつ手に竿さをにぎるも亦風流!』

 と莞爾につこと笑って武門の棟梁の襟度きんどを示しつ、再びいとを垂れる折しも、

里見さとみえて〳〵白帆走しらほはしらせ風もよし、安房あは水門みなとに寄る船は、なみに砕けずしほにも朽ちず、人もこそ引け、我も引かなん。』

 とみたる聲にてふし面白く繰返し〳〵歌ひ來れる乞兒かたゐがあつた。おもてくづ膿血うみちながれて臭氣堪へ難きに、主従三人は鼻を掩うて疾くけかしと思ふを憚りもなく近づいて、

『殿は何を釣らうとお思召す?』

 と義實の顏を覗込みつゝ、

最前さいぜんから見てをれば何がかゝつても直ぐ棄てゝしまはれるが、何を釣らうとお思召すのか?えッ、鯉を?はゝゝゝゝツ、安房には鯉はゐませんわい。』

 とから〳〵と笑つた。

なに、安房には鯉はゐないと申すか。』

 と杉倉氏元うじもとと堀内貞行さだゆききつとなつて双方一度に詰寄つた。

『安房には鯉はをりませぬ。』

 と乞兒かたゐめず臆せず平然として

『俗に鯉は十郡からの大國で無いと生じないと申しますが、あながうともきまりませぬ。風土に由るので國の大小にらない。奥羽は五十四郡の大國であるが、矢張鯉がをりませぬ。例へば里見の御曹司が上野かうづけに人となつても上野を知ろし召す事が出來なくて、この房州に流遇さすらつて膝を容れるの室が無いやうなものでござる。』

 と知る知らぬ乎 恐れも無く傍若無人にいひ放つたので、飛ぶ鳥にも氣を置く主従三人、思はず呆れて顏を見合はした。

『汝は一體何者ぢや?』

 と暫らくして義實は乞兒かたゐきつと睨まへた。

乞兒かたゐはハツと飛退とびすさつて大地に手を突き、

『さてはそれがしの推量にたがはず里見の御曹司おんざうしにおはしましたか。君をためし奉つた無禮はお許し下されて言上したい事もあれば、ざこなたへ成らせ給へ。』

 とさきへ立ちつつ、人の往來ゆききする路傍を離れたある山蔭へ主従を案内し、上座に義實を据ゑて遥かうしろ後退あとずさりして、改めてうや〳〵しく大地に額突ぬかづいた。

『それがしは 當國瀧田たきたの城主神餘長狹介光弘じんよながさのすけみつひろの家の子金碗八郎孝吉かなまりはちろうたかよしと申すものゝ成れの果でござります。君にも聞こし召されんが神餘じんよの家は――』

うん〳〵かく〳〵と、義實主従も安房に渡ると直ぐうす〳〵小耳こみみに入れた神餘の家の動亂どうらん一伍一什いちぶしじふ事詳ことつまびらかに言上した。

 神餘は安西あんさい麻呂まろならんで安房四郡を分領した東條の末であつた長狹介光弘ながさのすけみつひろの代となつて東條瀧田たきたはして安房半國を領し、安西、麻呂を下風かふうに立たして威勢並ぶものも無かつたので、光弘は心おごつて日夜酒色に沈湎ちんめんした。嬖臣へいしん山下柵左衞門定包さくざえもんさだかね微賤よリ歷上へあがつた君の御恩ごおんを思はず傍若無人に振舞ひ、君の眼をぬすんで嬖妾玉梓へいそうたまずさと私通し、忠臣を遠ざけ侫人を手馴てなづけ、内外心を併はして思ふまゝ國政を掻亂し、民の怨府となつて家運日に傾き、數代連綿たる神餘の家も累卵よリも危くなつた。

金碗かなまりはもと神餘じんよの支わかれで代々老職の筆頭であつた孝吉は早く父母に別れマダ年少であつたので光弘の近習きんじゆに召れてゐたが、光弘が淫楽に耽つて奸臣時を得顏えがほ跋扈ばつこし君家の内外日に非なるを視るに忍びず、屡々しば〳〵苦諌したがれられないので、暫らく時を俟つの決心で一時退身した。斯くて五年の歳月を往方ゆくへ定めぬ旅路に暮して久方振ひさかたぶりに故郷の土を踏んだ時は光弘不慮ふりょ狂死わうしして奸臣定包さだかね國をも婢妾ひせうをもぬすんで瀧田たきたの城主としての威福をほしいままにしてゐた。

かねしたる事ではあるが、今更に胸のつぶれる思ひ。段々聞くと定包の好智にけたるかねおのれの横暴を憎んで機會を覘うものがあると聞くや、狩倉かりくらすすめて領内に触れさして刺客を釣り、其日の狩倉には姦計を用ひて君の乘馬を中途に斃れさしておのれの乘馬をうまとしてすゝめ、刺客のを欺いて己れの身代りに君を射留いとめさせ、意外の珍事に驚いたやうな顏をして直ちに刺客をかららして首をね、即座に君の仇を報たやうな忠臣顏をした。加之のみならず陰謀の張本人たる口を拭いて世子せいしの無いのを奇貨とし、一國一日も君無かるべからずと、暫らく國政をあづかるといふ名目でマンマと領主となつて玉梓たまづさを嫡室とし其他の婢妾をまで竊んだ。

 これから後、孝吉は身にうるしして乞兒かたゐに姿をへ、日毎に瀧田を徘徊して容子ようすを探り、或る時人目を避けて彼地此地あちらこちら放浪さすらつてるうちに不斗ふと耳に入つたのは里見冠者さとみのくわんじや義實が結城ゆふきの戰ひを遁れて安房へ渡つて來られたといふ噂であつた。所詮やせ浪人の赤手せきしゆで敵をうかゞうよりはこの名門のきみを仰いで義兵を揚げるにくは無いと、里見の御曹子の行衞を尋ねるうちに 、自箸河しらはしがはほとり邂逅であつた主従三人の武家は人品骨柄世の常ならず見受けたので、乞兒婆かたゐすがたの恐れもなく近づいて鯉に事寄せ口占くちうらを引いて見たので、

『貴いおかたとはで見奉つたが、』

 と金碗かなまりは感概に堪へないやうな顏をして、

『正しく里見の君におはしましたのは、先君亡靈の導き給ふところ…………』

 とちく一言上して逆賊討伐の義兵の旗揚げを勸めた。

 孤忠をあはれむ義心と、不忠不義にいきどほ侠骨けうこつと、天涯の孤客の鬱勃うつぼつたる雄心とで、義實は金碗の熱辯に耳を傾け、杉倉、堀内、金碗と環座くわんざして旗上けの謀議を凝らした。

 その晩金碗は義實主従を嚮導みちしるべして小湊へ行き、はかりごとを用ひて土民百五十名を糾合し、兵は神速しんそくを貴ぶ、即時に瀧田の支城東條へ押寄せ、敵の備へなきに乘じて一擧にしておとしいれた。降兵數百人、軍馬、兵器、糧餉りやうしやう山の如く捕獲して、勢ひに乘じて一氣に城を抜くべく瀧田へ押寄せた。沿道ふうを望んで集る野武士豪族千餘騎、軍容大いに振った。

 が、瀧田は肯繁さすがに要害で。一時に容易に落つる氣色けしきなく、智略に秀づる義實も、老功手だれの杉倉、堀内も、瞻勇無双の金碗も攻めあぐんで策のほどこしやうも無かつたが、不斗ふと案じつきて反間苦肉はんかんくにく羽檄うげきを飛ばして城内の人心を動揺せしめた。奇策は誤またず、城内俄かに浮足となり、定包眤近じつきんの幕僚までが不安となつて終に陰謀を企て、突然定包の帳中てうちうに切込んで首を擧げ、これを幣物へいもつとして開城して義實の軍門に降つた。逆徒の一味は此の如くして亡びて、義實は目出度く瀧田へ入城して安房半國の領主となつた。
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南総里見八犬伝(005)

南総里見八犬伝巻之二第四回
東都 曲亭主人 編次
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白箸河しらはしがはつりして義実よしざね義士ぎしにあふ」「里見よしさね」「堀内貞行」「杉倉氏元」\「金碗かなまり孝吉たかよしよる里人さとひとをあつむ」「金まり八郎」

小湊こみなと義實義よしさねぎあつ
笆內かきのうち孝吉讐たかよしあたふ。

卻說義實主從かくてよしさねしゆうじゆうは、こゝの池、彼川かしこのかはと、ふちをたづね、たちて、みちよりみちに日をくらせば、白濱しらはま旅宿りよしゆくへかへらず、ゆき〳〵て長狹郡ながさのこふり自箸河しらはしかは涉獵あさるほどに、はや三日にぞなりにける。日數ひかずもけふを限りと思へば、こゝろしきり焦燥いらだつのみ、えものことにありながら、小鯽こふなに等しきこひだにも、はりにかゝるはたえてなし。千劒振神ちはやふるかみに、彥火々出見尊ひこほほでみのみことこそ、うせにしはりもとめつゝ、海龍宮わたつみに遊び給ひけれ。又浦嶋うらしまの子は堅魚釣かつをつり、鯛釣たひつりかねて七日まで、家にもずてあさりけん、ためしに今も引く絲の、みだれ苦しき主從は、思はずもおもてをあはして、齊一嗟嘆ひとしくさたんしたりけり。
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南総里見八犬伝(004)

南總里見八犬傳卷之二 第三回
東都 曲亭主人 編次
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景連信時暗かげつらのぶときあん義實よしさねこば
氏元貞行厄うぢもとさだゆきやく館山たてやましたが

卻說安西三郞大夫景連かくてあんざいざぶらうたいふかげつらは、近習きんじゆのものゝつぐるをきゝて、結城ゆふき落人里見義實おちうどさとみよしさね主從三人しゆうじゆうみたり水行ふなぢより、こゝにきたれることおもむきおほかたはすいしながら、後難こうなんはかりかたければ、すみやかには回答いらへせず、麻呂信時まろのりぷときを見かへりて、「如此々々しかしかことになん。なにかと思ひ給ふやらん」、ととふを信時きゝあへず、「里見は名ある源氏げんじなれども、こゝにはえんよしみもなし。無二むに持氏もちうぢがたなれば、結城氏朝ゆふきのうぢとも荷擔かたらはれ、籠城三年ろうぜうみとせに及ぶものから、京鐮倉きやうかまくらてきうけては、いのちかねてなきものと、思ふべき事なるに、落城らくぜうの日におよぴて、親のうたるゝをも見かへらず、阿容々々おめおめにげかくれ、こゝらわたりへ流浪さそらひたる、とるよしもなき白徒しれものに、なでふ對面たいめんし給ふべき。とく追退おひしりぞけ給ひね」、と爪彈つまはじきをして說諭ときさとせば、景連しばらかうべかたむけ、「それがしもさは思へども、もちふべきよしなきにあらず。彼等かれら三年みとせ籠城して、たゝかひにはなれたるもの也。義實としなほわかしといふとも、數萬すまん敵軍てきぐん殺脫きりぬけずは、いかにしてこゝまでべき。召入よぴいれて對面し、その剛臆ごうおくを試みて、使ふべきものならば、定包さだかねを討一方うついつほうの、大將たいせうを得たりとせんまた使ふべきものならずは、追退おひしりぞくるまでもなし。立地たちところ刺殺さしころして、のちわざはひはらひなん。このはいかに」、と密語さゝやけば、信時しば〳〵うち點頭うなつき、「微妙いみじくはかり給ひにけり。それがしも對面すべきに、准備ようゐし給へ」、といそがせば、景連にはか老黨ろうどうよぴよして、箇樣々々かやうかやう說示ときしめし、武藝力量兼備ぶげいりきりやうかねそなはつたる、壯士等ますらをらはかりことつたへさせ、只管ひたすらにいそがしたつれば、信時も又、したる、家臣等かしんらよびのぼして、そのことのこゝろを得させ、あるじ景連もろともに、客房きやくのまにぞいでたりける。そのこと爲體ていたらく、をさ〳〵り、をかゞやかして、安西が家臣廿人、麻呂が從者ともひと十餘人、みないかめしき打扮いでたちして、二帶ふたかはながれつゝ、飾立かざりたてたる數張すちやう弓弦ゆつるは、かべゑがけ瀑布たきごとく、かけわたしたる鎗薙刀やりなぎなたは、春の外山とやまかすみに似たり。ほそどのにはまくたれて、身甲はらまきしたる力士りきし、十人あまり、「すは」といはゞ走りいで、かの主從しゆうしゆう生拘いけとらんとて、おの〳〵手獵索てぐすひきてをり。
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南総里見八犬伝(003)

南総里見八犬伝巻一第二回
東都 曲亭主人 編次
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落葉岡おちばがおか朴平ぼくへい無垢三むくざう光弘みつひろ近習きんじゆとたゝかふ」「山下定かね」「那古ノ七郎」「杣木ノぼく平」「洲さきのむく蔵」「天津ノ兵内」

一箭いつせんとばして侠者白馬けうしやはくばあやまつ
兩郡りやうぐんうばふて賊臣朱門ぞくしんしゆもんよる

安房あはもと總國ふさのくに南邊みなみのはてなり。上代あがれるよには上下かみしも分別わいだめなし。のちにわかちて、上總下總かつさしもふきなつけらる。土地擴漠ひろくしてくは多し。蠶飼こかひ便たよりあるをもて、ふさみつぎとしたりしかば、その國をもふさといひけり。かくてふさ南邊みなみのはてに、居民鮮をるたみすくなかりしかば、南海道阿波國なんかいどうあはのくはなる、民をこゝへうつし給ひて、やがて安房あばとぞよばせ給ひぬ。日本書紀景行紀やまとふみけいこうきに、所云淡いはゆるあは水門みなとこれ也。
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南総里見八犬伝(002)

南總里見八犬傳卷之一第一回
東都 曲亭主人 編次
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義実よしさね三浦みうら白龍はくりうる」「里見よしさね」「杉倉木曽之介氏元」「堀内蔵人貞行」

季基すゑもとをしえのこしてせつ
白龍はくりうくもさしばさみてみなみおもむ

京都きやうと將軍せうぐん鐮倉かまくら副將ふくせう武威ぶゐおとろへて偏執へんしうし、世は戰國せんこくとなりしころなん東海とうかいほとりさけて、土地とちひらき、基業もとゐおこし、子孫十世しそんじゅっせに及ぶまで、房總あわかづさ國主こくしゆたる、里見治部さとみぢぶの大夫たいふ義實朝臣よしざねあそんの、事蹟じせきをつら〳〵かんがふるに、淸和せいわ皇別みすゑ源氏げんじ嫡流ちやくりう鎭守府ちんじゆふ將軍せうぐん八幡太郞はちまんたろう義家朝臣よしいへあそん十一世じういつせ里見さとみ治部ぢぶの少輔せういう源季基みなもとのすゑもとぬしの嫡男ちやくなん也。時に鐮倉の持氏卿もちうぢけう自立じりう志頻こゝろざししきりにして、執權憲實しつけんのりさねいさめを用ひず、忽地たちまち嫡庶ちやくしよをわすれて、室町將軍むろまちせうぐん義敎公よしのりこうと、確執くわくしつに及びしかば、京軍きやうぐんにはかによせきたりて、憲實に力をあはし、かつ戰ひ且進かつすゝんで、持氏父子ふしを、鐮倉なる、報國寺ほうこくじ押籠おしこめつゝ、詰腹つめはらきらせけり。これはこれ、後花園天皇ごはなぞのてんわう永享ゑいきやう十一年、二月十日のことになん。かくて持氏の嫡男義成よしなりは、父とゝもに自害じがいして、かばねを鐮倉にとゞむといへども、二男じなん春王はるわう三男さんなん安王やすわうとまうせし公達きんだちは、からく敵軍のかこみのがれて、下總しもふさおち給ふを、結城氏朝迎ゆふきのうぢともむかへとりて、主君しゆくんあほたてまつり、京都の武命ぶめいに從はず、管領くわんれい淸方持朝きよかたもちとも)の大軍たいぐんをもものゝかすとせず。されば義によつて死をだもせざる、里見季基さとみすゑもとはじめとして、およそ持氏恩顧おんこ武士ぶしまねかざれどもはせあつまりて、結城ゆふきしろを守りしかば、大軍にかこまれながら、一たびも不覺ふかくを取らず、永享十一年の春のころより、嘉吉元年かきつぐわんねんの四月まで、籠城三年ろうぜうみとせに及ぶものから、ほかたすけの兵つわものなければ、かて矢種やだね竭果つきはてつ、「今ははやのがるゝみちなし。たゞもろともに死ねや」とて、結城の一族いちぞく、里見のしゆうじゆう城戶推きどおしひらきて血戰けつせんし、込入こみいる敵をうちなびけて、衆皆みなみな討死うちしにするほどに、その城つひおちいりて、兩公達ふたりのきんだち生拘いけどられ、美濃みの垂井たるゐにてがいせらる。にいふ結城合戰ゆふきかつせんとはこれ也。
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南総里見八犬伝(001)

 しばらく更新が滞っていたが、テキスト中心の記事ゆえ、著作権の切れた著作のアップをボツボツ再開…今更、「勧善懲悪」の「八犬伝」ではあるまいにと思ったが、HTML の ruby タグに興味を持ち、テキスト処理での正規表現からの《》→ ruby タグへの変換とエディタでの実装がまあまあうまくいったので…全百八十回、いつまでかかるのやら…焦らずに…

 南総里見八犬伝のテキストとして、「ふみくら」氏のサイトがある。残念ながら、第30回までであり、HTML 版はコードが、Shift-JIS である。そこで、「序文」類を、UNICODE に変換し、掲載する。
 また 本文の第2回目以降は、今を去る20年前(校正:2005年3月25日とある)に、「ちまえの館」さんが、アップされたものを、基本的に底本とし、随時岩波文庫版(新字表記)および、国立国会図書館アーカイブを参考とした。図は,多くは岩波文庫版から掲載した。
 底本などの漢字を旧字体に統一した。
 ルビは、ruby タグを用いた。
 〳〵:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)、濁点付きの二倍の踊り字は「〴〵」とした。ブラウザの種類によっては、連続したように見えたり、二行にわたって表示されたりする。
 UNICODE 表にない漢字は、ネコのおやつサイト(南総里見八犬伝翻刻)の文字データを利用した。それでもない時は、自作などで、画像にて作成した。
 編者からの注は、最小限にとどめ、上記外字など、〚〛で示した。

 あらためて、「ふみくら」さん、「ちまえの館」さん、「ネコのおやつ」さんのご尽力に敬意を表す。

 以上、各回ごとの注記は基本的には省略する。


『南總里見八犬傳』第一回より「序文」など

【外題】
里見八犬傳 肇輯 巻一

【見返】
曲亭主人藁本\南總里見八犬士傳\柳川重信像\山青堂

【序】書き下し
八犬士傳序[噪野風秋]
初め里見氏の安房に興るや、徳誼以て衆を率ゐ、英略以て堅を摧く。二總を平呑して、之れを十世に傳へ、八州を威服して、良めて百將の冠たり。是の時に當て、勇臣八人有り。各犬を以て姓と爲す。因て之を八犬士と稱す。其れ賢虞舜の八元に如ずと雖ども、忠魂義膽、宜しく楠家の八臣と年を同して談ずべきなり。惜い哉筆に載する者當時に希し。唯だ坊間の軍記及び槇氏が『字考』、僅かに其姓名を識るに足る。今に至て其の顛末を見る由し無し。予嘗て之を憾む。敢て残珪を攻めんと欲す。是より常に舊記を畋獵して已まず。然ども猶考据有ること無し。一日低迷して寝を思ふ。䁿聴の際だ、客南總より來る有り。語次八犬士の事實に及ぶ。其の説軍記傳所の者と同からず。之を敲けば則ち曰く、「曾て里老の口碑に出たり。敢て請ふ主人之を識せ」予が曰「諾、吾れ將に異聞を廣ん」と。客喜て而して退く。予之を柴門の下りに送る。臥狗有り。門傍に在り。予忙として其の尾を踏めば、苦聲倏ち足下に發る。愕然として覺め來れば、則ち南柯の一夢なり。頭を回して四下を覽れば。茅茨客無く。柴門に狗吠無し。コヽニ熟〳〵客談を思へば、夢寐と雖ども捨つべからず。且に之を録せんとす。既にして忘失半ばに過ぐ。之を何奈すること莫し。竊かに唐山の故事を取りて。撮合して以て之を綴る。源禮部が龍を辨ずるが如きは。王丹麓が『龍經』に根つく。靈鴿書を瀧城に傳るが如きは。張九齢の飛奴に擬す。伏姫八房に嫁するが如きは。高辛氏其の女を以て槃瓠に妻すに傚へり。其の他毛擧に遑あらず。數月にして五巻を草す。僅に其の濫觴を述て。未だ八士の列傳を創せず。然と雖ども書肆豪奪して諸を梨棗に登す。刻成て又其の書名を乞ふ。予漫然として敢て辭せず。即ち『八犬士傳』を以て之に命す。
文化十一年甲戌秋九月十九日。筆を著作堂下の紫鴛池に洗ぐ。
   簑笠陳人觧撰
  [曲亭馬琴著作堂之印][乾坤一草亭]
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