南総里見八犬伝(004)

南總里見八犬傳卷之二 第三回
東都 曲亭主人 編次
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景連信時暗かげつらのぶときあんに義實よしさねを阻こばむ
氏元貞行厄うぢもとさだゆきやくに館山たてやまに從したがふ

 卻說安西三郞大夫景連かくてあんざいざぶらうたいふかげつらは、近習きんじゆのものゝ吿つぐるを聞きゝて、結城ゆふきの落人里見義實おちうどさとみよしさね、主從三人しゆうじゆうみたり水行ふなぢより、こゝに來きたれる縡ことの趣おもむき、大おほかたは猜すいしながら、後難こうなんはかりかたければ、速すみやかには回答いらへせず、麻呂信時まろのりぷときを見かへりて、「如此々々しかしかの事ことになん。何なにかと思ひ給ふやらん」、と問とふを信時聞きゝあへず、「里見は名ある源氏げんじなれども、こゝには緣えんも好よしみもなし。無二むにの持氏もちうぢがたなれば、結城氏朝ゆふきのうぢともに荷擔かたらはれ、籠城三年ろうぜうみとせに及ぶものから、京鐮倉きやうかまくらを敵てきに受うけては、命いのちを豫かねてなきものと、思ふべき事なるに、落城らくぜうの日に及およぴて、親の擊うたるゝをも見かへらず、阿容々々おめおめと迯にげかくれ、こゝらわたりへ流浪さそらひたる、とるよしもなき白徒しれものに、なでふ對面たいめんし給ふべき。とく追退おひしりぞけ給ひね」、と爪彈つまはじきをして說諭ときさとせば、景連且しばらく頭かうべを傾かたむけ、「某それがしもさは思へども、用もちふべきよしなきにあらず。彼等かれらは三年みとせ籠城して、戰たゝかひには熟なれたるもの也。義實年としなほわかしといふとも、數萬すまんの敵軍てきぐんを殺脫きりぬけずは、いかにしてこゝまで來くべき。召入よぴいれて對面し、その剛臆ごうおくを試みて、使ふべきものならば、定包さだかねを討一方うついつほうの、大將たいせうを得たりとせん欤か。又また使ふべきものならずは、追退おひしりぞくるまでもなし。立地たちところに刺殺さしころして、後のちの禍わざはひを禳はらひなん。この議ぎはいかに」、と密語さゝやけば、信時しば〳〵うち點頭うなつき、「微妙いみじくはかり給ひにけり。某それがしも對面すべきに、准備ようゐし給へ」、といそがせば、景連猛にはかに老黨ろうどうを召よぴよして、箇樣々々かやうかやうと說示ときしめし、武藝力量兼備ぶげいりきりやうかねそなはつたる、壯士等ますらをらに謀はかりことを傳つたへさせ、只管ひたすらにいそがし立たつれば、信時も又、倶ぐしたる、家臣等かしんらを召よびのぼして、その縡ことのこゝろを得させ、あるじ景連もろ共ともに、客房きやくのまにぞ出いでたりける。その縡ことの爲體ていたらく、をさ〳〵武ぶを張はり、威ゐをかゞやかして、安西が家臣廿人、麻呂が從者ともひと十餘人、僉みないかめしき打扮いでたちして、二帶ふたかはに居ゐながれつゝ、飾立かざりたてたる數張すちやうの弓弦ゆつるは、壁かべに畫ゑがける瀑布たきの如ごとく、掛かけわたしたる鎗薙刀やりなぎなたは、春の外山とやまの霞かすみに似たり。廊ほそどのには幕まくを垂たれて、身甲はらまきしたる力士りきし、十人あまり、「すは」といはゞ走り出いで、かの主從しゆうしゆうを生拘いけとらんとて、おの〳〵手獵索てぐすを引ひきてをり。

 さる程ほどに、里見冠者義實さとみのくわんしやよしさねは、外面とのかたに立在たゝずむこと、既すでに半晌はんときあまりにして、「こなたへ」、と召入よびいられ、ゆくこといまだ一室ひとまに過すぎず、衝立ついたての紙盾ふすまの蔭かげより、縹綞はなだの麻あさの上下かみしもしたる、壯士ますらを四人立見たちあらはれ、「誘いざ給へ、俺們案內われわれしるべつかまつらん』、といひあへず、前後あとさきに立たちながら、半弓はんきうに箭やを㓨つがひて、きり〳〵と彎ひきしぼれば、些後すこしくおくれて從ふたる、杉倉堀內これを見て、「吐嗟あなや」、とばかりもろ共に、走りすゝまんとする程に、又おなじほとりより、皂小袖くろきこそでに玉襷掛たまたすきかけて、袴はかまの股丈もゝたち高く取とりたる、夥兵くみこ六人ン走出はしりいでて、短鎗てやりの尖頭突揃ほさきつきそろへ、先なるは皆背みなあとざまに、あるきながらぞ送り去ゆく。しかれども義實は、騷さわぎたる氣色けしきなく、「こはもの〳〵しき款待もてなしかな。三年以來みとせこのかた結城ゆふきにて、敵の矢面やおもてに立たちし日もあり。鎗下やりしたを潛脫くゞりぬけしは、いく遍たびといふことをしらねど、海より外ほかに物もなき、こゝには卻波風騷かへつてなみかぜさわがず、良賎無異りやうせんぶゐを樂たのしむ、と聞きゝしには似ぬものかな」、とひとりごつ主しゆうの後方あとべなる、老黨ろうだうも立たちとゞまり、「治おさまるときにも亂らんを忘れず、小敵せうてきと見て侮あなどらずと、兵書ひやうしよに本文ほんもんありといふとも、三人みたりに過すぎぎる主從しゆうじゆうへ、鏃やじりのかぶらの羹あつものに、弓弦ゆつるの索麪むぎなは、異ことなる饗應きやうわう、あるじの刀袮とのの手料理てれうりを、亦復賞味またまたせうみつかまつらん。誘案內いざしるべを」、といそがして、送られてゆく主從は、はやその席に臨のぞみしかば、壯士等ますらをらは弓を伏ふせ、鎗やりを引提ひさげて東西とうさいなる、帷幕いばくの內に入りにけり。
 當下そのとき里見義實は、景連信時を遙はるかに見て、些すこしも媚こぶる氣色けしきなく、賓座まろうどのざに着つきて、腰なる扇あふぎを右手めてに置おき、「結城ゆうきの敗將はいせう、里見又太郞義實、亡父ぼうふ治部少輔季基ぢぶのせうゆうすゑもとが遺言ゆひげんによって、辛からく敵軍の圍みを脫まぬかれ、漂泊ひやうはくしてこゝに來きたれり。かゝれば蜑あまが笘屋とまや*にも、はかなき今の身を寓よせて、華洛みやこはさら也、鐮倉なる、管領くわんれいにも從したがはざる、この安國やすくにの民としならば、こよなき幸さいはひなるべし、と思ひし事はきのふにて、聞くに異ことなる巷談街說こうだんがいせつ、義に仗よつて一臂いつひのちからを、竭つくす事もあらんかとて、思はずも虎威こゐを犯おかして、見參げんざんを乞こひ候ひしに、敗軍はいぐんの將せう也とて嫌きらはれず、對面を許し給へば、胸中きゃうちうを盡すに足れり。供したるは亡父ぼうふが愛臣あいしん、杉倉木曾介氏元人すぎくらきそのすけうぢもと、堀內藏人貞行ほりうちくらんどさだゆきになん。おんめを給はり候へ」、と慇懃いんぎんに名吿なのりつゝ、徐しづやかに見かへり給へば、氏元貞行もろ共に、軈やがて頭かうベを低さげたりける。しかれども景連は、思ひしよりなほ義實の、年のわかきに侮あなどりて、うち見たるのみ禮れいを返かへさず。信時はあるじをまたで、眼まなこを瞠みはり、聲をふり立たて、「われは麻呂小五郞まろのこごらうなり。聊御別議いさゝかべつぎあるをもて、けふ平館ひらだてより來たりしかひに、この席上せきせうに連つらなるのみ。さて口さかしき小冠者こくわしやかな。わが安房あはは小國せうこくなれども、東南の盡處はてにして、三面すべて海なれば、室町殿むろまちどのの武命ぶめいを受うけず、兩管領りやうくわんれいにも從したがはねど、鄰國りんこくの强敵ごうてきも、敢境あへてさかひを犯おかすことなし。さればとて、われはさら也安西あんさいぬしに、絕たえて由緣ゆかりもなき和郞わろが、京鐮倉を敵に受うけて、身のおくところなきまゝに、乳臭ちのかも失うせぬ觜はしを鳴らして、利害りがいを說とかんと思ふは嗚呼をこ也。人の落魄おちめを憐あはれむこと、慈眼視衆生佛ぢげんじしゆぜうほとけのごとく、草芥あくたもくたを容いるゝこと、無量福壽海むりやうふくじゆかいに似たり共、誰たれか罪人つみひとをこゝに留とゞめて、その崇たゝりを招くべき。寔まことに無益むやくの對面ならん」、とあざみ詈のゝしる頤おとがひを、かき拊なでつゝうち笑へば、義實莞然につことうち咲えみて、「しか宣のたまふはその名聞えし、麻呂ぬしに候欤か*。麻呂安西東條とうでふは、當國たうこくの舊家きうかたり。勇悍武略ゆうかんぶりやくさもこそ、と思ふは似ぬものかな。可惜あたらしきことながら、親にて候季基すゑもとは、生涯只せうがいたゞ義の一字を守りて、ながくはたもち難かたかるべしと、思ふ結城ゆふきへ盾籠たてこもり、京鐮倉の大軍を、三年みとせが間あはひ防ぎとゞめて、死に臨のぞめども悔くやしとせざりき。某それがし親には及およばねども、敵をおそれて迯にげもせず、命を惜をしみて走りもせず。亡父ぼうふの遺言已ゆいげんやむことを得ず、只命運たゞめいうんを天に任まかして、時を俟またんと思ふのみ。鐮倉の持氏卿もちうぢけう、初はじめ世さかりなりし時、安房上總あはかつさいへばさら也、八州はつしうの武士一人ひとりとして、心を傾かたむけ、腰を折かゞめ、出仕しゆつしせざるもなかりしに、持氏滅亡めつぼうし給ひては、幼君ようくんのおん爲ために、家を忘れ身を捨すてて、氏朝うぢともにちからを勠あはし、結城に籠城ろうぜうしたるは稀まれ也。勢利いきほひに屬人心つくひとこゝろ、憑たのもしげなきものなれば、こゝにも麻呂ぬし、安西ぬし、持氏卿の恩義おんぎを思はで、兩管領の崇たゝりをおそれ、某それがしを容いれじとならば、袖そでを拂ふて退まかりなん。現げに管領は威權いきほひ高し。國々くにくにの武士隨從つきしたがひぬ。おそれ給ふはさることなれども、などて主從三人しゆうしゆうみたりに過すぎざる、義實をいたくおそれて、器械拿うちものもつたる壯士等ますらをらに誘引いざなはせ、當處たうしよは安泰無異あんたいぶゐ也、と口にはいへど用心嚴しく、席上せきせうに弓箭ゆみやを掛かけ、劍戟けんげきの鞘さやを外はづし、剩帷幕あまつさへいばくの內うちに、夥あまたの力士りきしをかくし給ふは、いかにぞや」、と詰なじられて、信時忽地たちまち顏うち赧あかめ、安西に目を注くはすれば、景連思はず大息おほいきつき、「いはるゝ所至極しごくせり。弓箭ゆみやは武士の翼つばさなり、劍戟けんげきは爪牙ぞうげに等しく、身を護まもるをもて坐臥ざくわにも放さず。和殿わどのを威おどす爲ならんや。但たゞし案內しるべせしものどもに、器械うちものを拿もたせし事、力士をかくし置おくことは、景連露つゆばかりもこれをしらず。什麼汝等そもなんぢらは何なにの爲に、正まさなき事をしたるぞや。とく罷出まかでよ」、と追退おひしりぞけ、飾立かざりたてたる鎗長刀やりなぎなたは、屏風ぴやうぶをもつてかくさせけり。すべての准備齟齬ようゐくひちがひて、興けうの醒さむるのみなれば、安西麻呂が家臣等は、遠侍とほさむらひへ出いづるもあり、屏風の背うしろに退しりぞきて、汗あせを拭ぬぐふも多かりける。
 かゝりけれども信時は、こりずまに膝ひざをすゝめて、義實にうち對むかひ、「今示しめさるゝ縡ことの趣おもむき、その據よりどころあるに似たれど、敵をおそれず、命を惜をしまず、後運こううんを天に任まかして、時を俟またんと思ふぞならば、坂東ばんどうには源氏げんじ多かり、なほ身のよるべあるべきに、一國の主ぬしにもあらず、好よしみは元來絕もとよりたえてなき、安西氏うぢを憑たのまんとて、舩ふねをよせしはこゝろ得えがたし。餓うへたるものは食しよくを擇えらまず、迫おはるゝものは路みちを擇えらまず。敵をおそれ、命いのちを惜をしみて、迯迷にげまよはずは、いかにして、恥はぢかゞやかしてこゝまで來くべき。かひなき身の非を飾らずに、しかならば如此しかなりと、明々地あからさまに吿つげてこそ、憐愍あはれみも一卜しほならめ。この席上せきせうに連つらなるかひに、とり持もちしてまゐらせん。明々地あからさまに吿つげ給へ。明々地あからさまにはいはれずや」、と再三ふたゝびみたびくり返すを、聞きくに得堪えたへず貞行は、氏元が袂たもとを引ひきて、もろ共に進み出いで、「心を師として人をはかれば、打うつ槌つちもあたらぬ事あり。いと憚はゞかりあることながら、麻呂大人うしの椎量すいりやうは、雜兵仂武者ざふひやうはむしやのうへにこそ。源氏にはさる大將なし。抑そもそも義實命を惜をしみ、敵に迫おはれて途どを失うしなひ、思はず當國に來つるにあらず。偏ひとへに先蹤せんせうを追へば也。昔源賴朝卿みなもとのよりともけう、石橋山いしばしやまの軍いくさ敗れて、安房あはへ赴おもむき給ひしとき、和君わぎみの先祖信俊せんぞのぶとしぬし、安西の先祖景盛かげもりぬし、東條とうでふぬしもろ共に、第一番に隨從つきしたがひ、無二の志こゝろざしをあらはせしかば、賴朝これに先を追おはして、上總かつさへうち越こえ給ふ程に、廣常常胤來迎ひろつねつねたねきたりむかへて、忽地たちまち大軍になりにければ、更に鐮倉に基もとゐを占しめて、遂つひに平家へいけを滅ほろぼし給ひき。里見もおなじ源氏嫡流げんじのちゃくりう、八幡殿はちまんどのの御末みすゑなり。かゝる吉例きちれいあるものを、あまりに無下むげにおとしめ給ふが、傍かたはらいたく候へば、しれたることをまうすのみ。過言くわごんはゆるし給ひね」、と返かへす辭ことはも智も勇も、一對一致いつゝいいつちの兩老黨りやうろうどうに、說伏ときふせられて信時は、怒りに逼せまりて、ものも得えいはず。義實は氣色けしきを見て、忽地たちまちに聲を激はげまし、「貞行氏元不禮ぶれいなせそ。われいかばかりの德ありて、賴朝に比たぐへんや。そは漫そゞろ也、嗚呼をこ也」、と叱しかり懲こらして追退おひしりぞけ、勸解わびず寬なだむる客ぶりに、信時は眼まなこを瞋いからし、手を叉こまぬきて物いはず。景連は肩搖ゆるがして、堪たへぬがごとく冷笑あざわらひ、「あなわが佛尊ほとけたふとしとて、いへば亦またいはるゝものかな。里見の從者ともぴとよく聞きけかし。賴朝の父義朝よしともは、十五个國かこくの節度使せつどしたり。もし朝敵ちやうてきとならざりせば、淸盛きよもりもすべなからん欤か。かゝれば彼卿かのけう、流人るにんたれ共、一トたび義兵を起すに及びて、舊恩きうおんを思ふ坂東武士ばんどうぶし、招まねかざれども屬從つきしたがひぬ。里見氏うぢはこれと異こと也、そのはじめ太郞義成たらうよししげ、賴朝卿けうに仕つかへしより、釆地一鄕れうぶんひとさとの外ほかに過すぎず、手勢僅てせいはつかに百騎に足らず。中葉なかころは宮方みやかたにて、彼此をちこちに世をしのびあへず、鐮倉へ降參こうさんして、本領安堵ほんれうあんどしたれども、それ將はたしばしが間あはひにて、今見る所は落人おちうど也。主しゆうすら口を鉗つぐめるに、汝等何なんぢらなにの議論ぎろんあらん。志こゝろざしを改めて、景連に仕へなば、さばかりの事あるべきに、身のほど〳〵をしらずや」、と飽あくまであざみ誇ほこれども、氏元も貞行も、主しゆうのこゝろを汲くみかねて、再びこれと爭はず。
 義實はうち微笑ほゝえみ、「安西ぬし寔まことにしか也。しかれども、人の口には戶も立たてられず。某それがしこの地に來て聞くに、何處いつこもおなじ巷ちまたの風聲ふうぶん、民の誹謗そしりは止やむときなけれど、家臣は主君の耳を塞ふさぎて、吿つげもせず諫いさめも得えせぬは、甚はなはだしき不忠ふちうならずや。氏元貞行思おもひかけなく、夥あまたの祿ろくを賜たまふとも、不忠の人と肩を比ならべ、耳の聾しいたる主君には、仕ふることを願はじ」、といはれて景連氣色けしきを變かえ、「そは何事なにことをか譏そしりたる。巷ちまたの風聞ふうぷんいかにぞや」、と問とへば扇あふぎを膝ひざに突立つきたて、「いまだ曉さとり給はずや。これは主人のうへのみならず、麻呂ぬしも又しかなり。神餘じんよ、安西あんさい、麻呂まろの三家さんかは、舊交尤淺きうこうもつともからず、手足しゆそくのごとく相佐あいたすけて、當國たうこく久しく無異ぶゐなりしに、神餘が嬖臣へいしん山下定包さだかね、奸計かんけいをもて主しゆうを害そこな*ひ、忽地二郡たちまちにぐんを橫領わうれうし、推おして國主こくしゆと稱すれども、神餘が爲にこれを討うたず、阿容々々おめおめと下風かふうに立たちて、共に濁にごりを受うけ給へば、民の誹謗そしりも宜むべならずや。某それがしこの事を申シ入れて、用もちひらるゝこともあらば、犬馬けんばの勞を竭つくさん、と思ひしはそらだのめにて、出陣しゆつぢんの准備ようゐも見えず、絕たえてその議に及およばれねば、寸志すんしを演のぶるよしもなし。わが主從しゆうじゆうの剛臆ごうおくのみ、只管批評ひたすらひゝやうせらるれ共、神餘が爲に定包を、討うたざるは勇もなく、義もなき武士は憑たのもしからず。今はしも是これまで也。罷出まかりいでん」、といひあへず、席を去たゝんとし給へば、景連急かげつらきうに呼よぴとゞめ、「方寸ほうすんを吿つげざれば、さおもはるゝも理ことわり也。今霎時坐いましばしざし給へ」、ととゞむる右手めてへ立遶たちめぐる、信時は些ちつとも擬議ぎきせず、「しらずや義實、けふわがこゝに來たりしは、をさ〳〵軍議ぐんぎの爲なれど、謀はかりことは密なるをよしとす。はじめて面おもてを見る和主わぬしに、かろ〳〵しく何をか吿つげん。俺們われわれが勇ありや、なしやをみづからしらんとならば、まづこの刃やいはに問とへかし」、と敦圉いきまきながら反そりうちかへす、刀の鞆つかに手を掛かくれば、さらでも由斷ゆだんせざりける、氏元も貞行も、主しゆうのほとりに衝つと寄よりて八方はつほうへ眼まなこを配くばれば、麻呂が從者ともびとこれを見て、握にぎる拳こぶしを捺さすりあへず、頻しきりに膝ひざを進めたり。そのときあるじ景連は、慌忙あはてふためき橫ざまに、信時を抱いだき禁とゞめ、耳に口をさし著つけて、何事なにごとやらん說諭ときさとし、軈やがて左右を見かへりて、頤おとがひをもてしらすれば、安西が近臣等ら、麻呂が從者ともひともろ共に、遽いそがはしく立たちかゝりて、次の房まへ伴ともなひぬ。かゝりけれども義實は、扇あふぎの鹿目かなめ走らしながら、うち見たるのみ爭あらそはず、席上せきせうます〳〵失興しらけにけり。
 當下そのとき安西景連は、舊もとの處にかへりをり、「義實何なにとか思ひ給ふ。一言いちごんの下もとに死を爭ふは、武士ものゝふの風俗ならひなれども、麻呂氏うぢは戲たはふれ也。こゝろになかけられそ。しかれども、時と勢いきほひをしるものは、堪忍たへしのぶをもて危あやうからず。かくはしば〳〵試みたるに、和殿わとのは寔まことにその人なるべし。よしや結城ゆうきの守將しゆせうなりとも、今この浦に流浪さそらひて、わが一陣いちゞんに走加はせくはゝり、彼かの定包を討うたんとならば、わが軍令ぐんれいに背そむきかたけん。士卒しそつと共に忠ちうを抽ぬきんで、戰場せんぢやうに大功あらば、恩賞おんせうの沙汰さたなからんや。素性すぜうに誇り、才さえを憑たのみ、わが手に屬つくを愧はづるとならば、これ軍令に背くもの也。さでは決して用ひがたし。和殿一己わどのいつこのちからをもて、彼賊かのぞくをうち滅ほろぼし、瀧田たきたの城を取りねかし。二郡のぬしにならるゝとも、露つゆばかりも憾うらみなし。かゝればゆくも留とゞまるも、只たゞこの一議にあらんのみ。心を定めて回答いらへをせよ」、と辭ことばもこゝに更あらたまる、難義なんぎとしれど些すこしもいなまず、「繋つながぬ舟ふねとなりしより、よるべの岸こそ身のぬしなれ。こゝに庇覆みかげを蒙かうむりて、用もちひらるゝことあらば、何事なにことを嫌きらふべき。うらなく仰あふせ候へ」、といはれて景連うち點頭うなつき、「しからば事のはじめ也。努々違背ゆめゆめいはいあるべからず。わが家いへの嘉例かれいとして、出陣しゆつぢんの首途かどいでに、軍神いくさがみを祭ることあり。その胙ひもろぎには大きなる、鯉魚こひを備そなふることになん。わが爲に鈎はりをおろして、この鯉こひを釣つりもてかへらば、よき敵と組擊くみうちして、頸くびを得たるに同おなじかるべし。こゝろ得たりや」、と說示ときしめせば、義實固辭いなむけしきなく、「承うけたまはり候ひぬ」、と應いらへてやがて立たゝんとせし、主しゆうの後方あとべに侍はペりたる、氏元貞行は左右より、その袂たもとを引ひきとゞめて、兩人齊一ひとしく進み出いで、「安西公あんさいこうへ申ス也。嘉例とは宣のたまへども、竿さをを斜なゝめにして舟に睡ねふり、鈎はりを下おろして魚うをを捕とる、その智は漁夫ぎよふにますものなし。これらは武士のせざる所、義實には似げなき技わざ也。君きみはづかしめらるゝときは、臣しん死すとこそ古人こじんもいへ。只僕等たゞやつがれらが首かうべをもて、胙ひもろぎとなし給えかし、といはせも果はてず景連は、氏元等を佶きつと嫉視にらまへ、「彼奴甚無禮かやつはなはだぶれい也。義實は法度はつとをおそれて、既すでに承諾せうだくせし事を、化耳拔あだみゝぬかして何なにとか聞きゝたる。その家僕かぼくとして憚はゞかりなく、わが軍令ぐんれいを犯したる、罪尤輕もつともかろからず。彼牽出あれひきいだして斬きつて棄すてよ」、と烈はげしき怒りを物ともせず、氏元貞行ます〳〵進みて、說果ときはたさんとしたりしかば、義實これをいたく叱しかりて、間遙あはひはるかに退しりぞかせ、彼等が爲に賠語わび給へば、景連やうやく氣色けしきをおさめ、「しからば鯉こひを見るまでは、彼奴等かやつらを和殿わどのにあづけん。和殿手親釣てつからつりもて來こよ。それも三日に限るべし。等閑なほさりにして日を過すくさば、白物等しれものらがうへのみならず。こゝろ得てよ」、と他事たじもなく、いはるゝ每ごとに義實は、恭うやうやしく領諾れうだくし、「しからば旅宿りよしゆくへまからん」とて、うらみ㒵がほなる老黨ろうだうを、いそがし立たてて出いで給へば、次の房まに竊聞たちぎゝたる、麻呂小五郞信時は、綟子障子もじせうじを聞ひらかして、冷笑あざわらひつゝ且しばらく目送みおくり、あるじのほとりへ立寄たちよりて、「安西ぬしいと手ぬるし。などて里見が從者等ともびとらを、助けてかへし給ひたる。われは只管ひたすら義實を、擊果うちはたさんとしつれども、和殿が盾たてとなり給へば、綱裏もうりの魚うをを走らしたり」、と喞かごとがましく呟つぷやけば、景連聞きゝてうちほゝ笑えみ、「われも又はじめより、用意こゝろがまへはしたれども、義實は名家めいかの子なり、小冠者こくわじやなれども思慮才學しりよさいかく、凡庸よのつねのものにあらず。又從者等ともびとらが面魂つらたましひ、一人當千いちにんたうせんといふべき欤か。さるを漫そゞろに手を下くださば、こゝにも夥あまた人を殺さん。獸窮けものきうすれば必囓かならずかみ、鳥窮とりきうすれば必啄かならずつゝく。況勇將猛卒いはんやゆうせうもうそつなり。徒たゞ手を束つかねて刃やいばを受うけんや。窮鳥懷きうちやうふところに入いるときは、獵師れうしも捕らずといふなるに、今定包さだかねを討うたずして、怨うらみなき人を殺さば、民の誹謗そしりは日にまして、遂つひに大事だいじを成なしがたかるべし。さればとて義實を、この處へ留とゞめては、猛獸たけきけものを養ふごとく、早晚寤寐いつしかねさめ安からず。こゝをもて、首鼠しゆそ兩端りやうたんに言ことをよせて、彼かの主從が雅慢がまんを壓おさえ、祭祀まつりの贄にゑを求めしは、陷阱おとしあなを造るもの也。安房一國には鯉こひを生せうせず。是これその風土ふうどによるもの欤か。彼奴等かやつらこれをしらずして、淵ふちに立たち、瀨せに涉獵あさり、いたづらに日を過すぐし、手を空むなしうしてかへり來こば、軍法ぐんほうをもてこれを斬きらん。かくては殺すもその罪つみあり。わが私わたくしといふべからず。われ豈あに彼を助たすけんや」、と誇㒵ほこりがほに說示ときしめせば、信時は笑坪えつぼに入いつて、掌たなそこを丁ちやうと鼓うち、「謀得はかりえて極きはめて妙めう也。現憖げになまじいに擊走うちはしらし、義實瀧田たきたに赴おもむきて、定包に從はゞ、虎とらに翼つばさを添そふる也。さりとてこなたに用ひなば、庇ひさしを貸かして母家おもやを損そこなふ、悔くひなしとはいひがたし。留とゞめて後のちにこれを殺す、謀はかりことにますものなし。吁あゝ奇なるかな、妙めうなり」、と只管賞嘆ひたすらせうたんしたりける。

 かゝりし程に義實は、白濱しらはまなる旅宿りよしゆくへとて、步あしの運はこぴをいそがし給へど、途みちいと遙はるかなりければ、かへりも著つかで日は暮くれたり。抑そもそも安房の白濱しらはまは、朝夷郡あさひなこふりの內にして、和名鈔わめうせうにその名見えて、いとも舊ふりたる鄕さとになん。瀧口村たきくちむらに接つゞくといふ。今は七浦なゝうらと唱となふるのみ、この濱邊の總名さうめうなり。里見氏うぢの舊趾ふるきあと、その寺などもこゝにあり。所謂いはゆる安房の七浦は、川下かはしも、岩目いはめ、小戶をと、鹽浦しほうら、原はら、乙濱おとのはま、白間津是しらまつこれ也。
 間話むだはなしはさておきつ。義實は、その曉あけかたに、白濱へかへりつゝ、目睡まどろみもせで漁獵すなどりの、用意こゝろかまへをし給へば、氏元貞行歡よろこばず、「君なほ曉さとり給はずや。信時は匹夫ひつふの勇者、景連は能のうを忌いみ、才さえを 媢そねみて甚僻はなはだひがめり。我われを見ること仇あたのごとく、憑たのもしげなき人の爲に、鯉こひをあさりて何なににかはせん。はやく上總かつさへ赴おもむきて、その毒惡どくあくを避さけ給へ」、ともろ共に諫いさめしかば、義實頭かうべをうち掉ふりて、「否いな、伱達なんたちが異見いけんはたがへり。麻呂安西まろあんさいが人となり、利には親したしく、義に疎うとかり。口と行おこなひはうらうへにて、定包をおそるゝのみ、瀧田を討うつのこゝろなし、としらざるにあらねども、こゝを避さけて上總かづさへ赴き、彼處かしこも又如此しかならば、下總しもふさは敵地てきち也。そのとき何處いつこへ赴くべき。君子は時を得て樂たのしみ、時を失ふても亦樂またたのしむ。呂尙りよせうは世にいふ太公望是たいこうばうこれなり。齡七十よはひなゝそぢに傾かたふくまで、よに人のしるものなし。渭濱いひんに釣つりして文王ぶんわうに値偶ちぐし、紂王ちうわうを討滅うちほろぼして大功あり。齊國せいのくにに封ほうぜられて、子孫數十世すじつせに傳へたり。太公望すらかくのごとし。われは時ときと勢いきほひと、兩ふたつながら失ふもの也。釣つりする事を嫌きらはんや。且鯉かつこひはめでたき魚うほ也。傳聞つたへきく、安南龍門あんなんりうもんの鯉、瀑布たきに泝さかのぼるときは、化して龍たつになるといへり。われ三浦みうらにて龍尾りうぴを見たり。今白濱しらはまへ來るに及びて、人ひと又鯉こひを釣つれといふ。前象後兆憑ぜんせうこうちやうたのもしからずや。獲えものあらば齎もたらして、景連がせんやうを、姑しばらく見んと思ふかし。曉あけなば出いでん」、といそがし給へば、氏元も貞行も、その高論こうろんに感服かんふくして、釣はりを求め、竿さををとゝのへ、割籠わりごを腰に括くゝり著つけて、主從三人みたり、名もしらぬ、淵ふちをたづねてゆく程に、森の烏からすも梢こずゑをはなれて、天よはほの〴〵と明あけにけり。

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