南総里見八犬伝(004)

南總里見八犬傳卷之二 第三回
東都 曲亭主人 編次
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景連信時暗かげつらのぶときあん義實よしさねこば
氏元貞行厄うぢもとさだゆきやく館山たてやましたが

卻說安西三郞大夫景連かくてあんざいざぶらうたいふかげつらは、近習きんじゆのものゝつぐるをきゝて、結城ゆふき落人里見義實おちうどさとみよしさね主從三人しゆうじゆうみたり水行ふなぢより、こゝにきたれることおもむきおほかたはすいしながら、後難こうなんはかりかたければ、すみやかには回答いらへせず、麻呂信時まろのりぷときを見かへりて、「如此々々しかしかことになん。なにかと思ひ給ふやらん」、ととふを信時きゝあへず、「里見は名ある源氏げんじなれども、こゝにはえんよしみもなし。無二むに持氏もちうぢがたなれば、結城氏朝ゆふきのうぢとも荷擔かたらはれ、籠城三年ろうぜうみとせに及ぶものから、京鐮倉きやうかまくらてきうけては、いのちかねてなきものと、思ふべき事なるに、落城らくぜうの日におよぴて、親のうたるゝをも見かへらず、阿容々々おめおめにげかくれ、こゝらわたりへ流浪さそらひたる、とるよしもなき白徒しれものに、なでふ對面たいめんし給ふべき。とく追退おひしりぞけ給ひね」、と爪彈つまはじきをして說諭ときさとせば、景連しばらかうべかたむけ、「それがしもさは思へども、もちふべきよしなきにあらず。彼等かれら三年みとせ籠城して、たゝかひにはなれたるもの也。義實としなほわかしといふとも、數萬すまん敵軍てきぐん殺脫きりぬけずは、いかにしてこゝまでべき。召入よぴいれて對面し、その剛臆ごうおくを試みて、使ふべきものならば、定包さだかねを討一方うついつほうの、大將たいせうを得たりとせんまた使ふべきものならずは、追退おひしりぞくるまでもなし。立地たちところ刺殺さしころして、のちわざはひはらひなん。このはいかに」、と密語さゝやけば、信時しば〳〵うち點頭うなつき、「微妙いみじくはかり給ひにけり。それがしも對面すべきに、准備ようゐし給へ」、といそがせば、景連にはか老黨ろうどうよぴよして、箇樣々々かやうかやう說示ときしめし、武藝力量兼備ぶげいりきりやうかねそなはつたる、壯士等ますらをらはかりことつたへさせ、只管ひたすらにいそがしたつれば、信時も又、したる、家臣等かしんらよびのぼして、そのことのこゝろを得させ、あるじ景連もろともに、客房きやくのまにぞいでたりける。そのこと爲體ていたらく、をさ〳〵り、をかゞやかして、安西が家臣廿人、麻呂が從者ともひと十餘人、みないかめしき打扮いでたちして、二帶ふたかはながれつゝ、飾立かざりたてたる數張すちやう弓弦ゆつるは、かべゑがけ瀑布たきごとく、かけわたしたる鎗薙刀やりなぎなたは、春の外山とやまかすみに似たり。ほそどのにはまくたれて、身甲はらまきしたる力士りきし、十人あまり、「すは」といはゞ走りいで、かの主從しゆうしゆう生拘いけとらんとて、おの〳〵手獵索てぐすひきてをり。

 さるほどに、里見冠者義實さとみのくわんしやよしさねは、外面とのかた立在たゝずむこと、すで半晌はんときあまりにして、「こなたへ」、と召入よびいられ、ゆくこといまだ一室ひとますぎず、衝立ついたて紙盾ふすまかげより、縹綞はなだあさ上下かみしもしたる、壯士ますらを四人立見たちあらはれ、「いざ給へ、俺們案內われわれしるべつかまつらん』、といひあへず、前後あとさきたちながら、半弓はんきうつがひて、きり〳〵とひきしぼれば、些後すこしくおくれて從ふたる、杉倉堀內これを見て、「吐嗟あなや」、とばかりもろ共に、走りすゝまんとする程に、又おなじほとりより、皂小袖くろきこそで玉襷掛たまたすきかけて、はかま股丈もゝたち高くとりたる、夥兵くみこ六人走出はしりいでて、短鎗てやり尖頭突揃ほさきつきそろへ、先なるは皆背みなあとざまに、あるきながらぞ送りゆく。しかれども義實は、さわぎたる氣色けしきなく、「こはもの〳〵しき款待もてなしかな。三年以來みとせこのかた結城ゆふきにて、敵の矢面やおもてたちし日もあり。鎗下やりした潛脫くゞりぬけしは、いくたびといふことをしらねど、海よりほかに物もなき、こゝには卻波風騷かへつてなみかぜさわがず、良賎無異りやうせんぶゐたのしむ、ときゝしには似ぬものかな」、とひとりごつしゆう後方あとべなる、老黨ろうだうたちとゞまり、「おさまるときにもらんを忘れず、小敵せうてきと見てあなどらずと、兵書ひやうしよ本文ほんもんありといふとも、三人みたりすぎぎる主從しゆうじゆうへ、やじりのかぶらのあつものに、弓弦ゆつる索麪むぎなはことなる饗應きやうわう、あるじの刀袮との手料理てれうりを、亦復賞味またまたせうみつかまつらん。誘案內いざしるべを」、といそがして、送られてゆく主從は、はやその席にのぞみしかば、壯士等ますらをらは弓をふせやり引提ひさげ東西とうさいなる、帷幕いばくの內に入りにけり。
當下そのとき里見義實は、景連信時をはるかに見て、すこしこぶ氣色けしきなく、賓座まろうどのざつきて、腰なるあふぎ右手めておき、「結城ゆうき敗將はいせう、里見又太郞義實、亡父ぼうふ治部少輔季基ぢぶのせうゆうすゑもと遺言ゆひげんによって、からく敵軍の圍みをまぬかれ、漂泊ひやうはくしてこゝにきたれり。かゝればあま笘屋とまや*にも、はかなき今の身をよせて、華洛みやこはさら也、鐮倉なる、管領くわんれいにもしたがはざる、この安國やすくにの民としならば、こよなきさいはひなるべし、と思ひし事はきのふにて、聞くにことなる巷談街說こうだんがいせつ、義によつ一臂いつひのちからを、つくす事もあらんかとて、思はずも虎威こゐおかして、見參げんざんこひ候ひしに、敗軍はいぐんせう也とてきらはれず、對面を許し給へば、胸中きゃうちうを盡すに足れり。供したるは亡父ぼうふ愛臣あいしん杉倉木曾介氏元人すぎくらきそのすけうぢもと堀內藏人貞行ほりうちくらんどさだゆきになん。おんめを給はり候へ」、と慇懃いんぎん名吿なのりつゝ、しづやかに見かへり給へば、氏元貞行もろ共に、やがかうベさげたりける。しかれども景連は、思ひしよりなほ義實の、年のわかきにあなどりて、うち見たるのみれいかへさず。信時はあるじをまたで、まなこみはり、聲をふりたて、「われは麻呂小五郞まろのこごらうなり。聊御別議いさゝかべつぎあるをもて、けふ平館ひらだてより來たりしかひに、この席上せきせうつらなるのみ。さて口さかしき小冠者こくわしやかな。わが安房あは小國せうこくなれども、東南の盡處はてにして、三面すべて海なれば、室町殿むろまちどの武命ぶめいうけず、兩管領りやうくわんれいにもしたがはねど、鄰國りんこく强敵ごうてきも、敢境あへてさかひおかすことなし。さればとて、われはさら也安西あんさいぬしに、たえ由緣ゆかりもなき和郞わろが、京鐮倉を敵にうけて、身のおくところなきまゝに、乳臭ちのかうせはしを鳴らして、利害りがいとかんと思ふは嗚呼をこ也。人の落魄おちめあはれむこと、慈眼視衆生佛ぢげんじしゆぜうほとけのごとく、草芥あくたもくたるゝこと、無量福壽海むりやうふくじゆかいに似たり共、たれ罪人つみひとをこゝにとゞめて、そのたゝりを招くべき。まこと無益むやくの對面ならん」、とあざみのゝしおとがひを、かきなでつゝうち笑へば、義實莞然につことうちえみて、「しかのたまふはその名聞えし、麻呂ぬしに候か*。麻呂安西東條とうでふは、當國たうこく舊家きうかたり。勇悍武略ゆうかんぶりやくさもこそ、と思ふは似ぬものかな。可惜あたらしきことながら、親にて候季基すゑもとは、生涯只せうがいたゞ義の一字を守りて、ながくはたもちかたかるべしと、思ふ結城ゆふき盾籠たてこもり、京鐮倉の大軍を、三年みとせあはひ防ぎとゞめて、死にのぞめどもくやしとせざりき。それがし親にはおよばねども、敵をおそれてにげもせず、命ををしみて走りもせず。亡父ぼうふ遺言已ゆいげんやむことを得ず、只命運たゞめいうんを天にまかして、時をまたんと思ふのみ。鐮倉の持氏卿もちうぢけうはじめ世さかりなりし時、安房上總あはかつさいへばさら也、八州はつしうの武士一人ひとりとして、心をかたむけ、腰をかゞめ出仕しゆつしせざるもなかりしに、持氏滅亡めつぼうし給ひては、幼君ようくんのおんために、家を忘れ身をすてて、氏朝うぢともにちからをあはし、結城に籠城ろうぜうしたるはまれ也。勢利いきほひ屬人心つくひとこゝろたのもしげなきものなれば、こゝにも麻呂ぬし、安西ぬし、持氏卿の恩義おんぎを思はで、兩管領のたゝりをおそれ、それがしいれじとならば、そでを拂ふて退まかりなん。げに管領は威權いきほひ高し。國々くにくにの武士隨從つきしたがひぬ。おそれ給ふはさることなれども、などて主從三人しゆうしゆうみたりすぎざる、義實をいたくおそれて、器械拿うちものもつたる壯士等ますらをら誘引いざなはせ、當處たうしよ安泰無異あんたいぶゐ也、と口にはいへど用心嚴しく、席上せきせう弓箭ゆみやかけ劍戟けんげきさやはづし、剩帷幕あまつさへいばくうちに、あまた力士りきしをかくし給ふは、いかにぞや」、となじられて、信時忽地たちまち顏うちあかめ、安西に目をくはすれば、景連思はず大息おほいきつき、「いはるゝ所至極しごくせり。弓箭ゆみやは武士のつばさなり、劍戟けんげき爪牙ぞうげに等しく、身をまもるをもて坐臥ざくわにも放さず。和殿わどのおどす爲ならんや。たゞ案內しるべせしものどもに、器械うちものもたせし事、力士をかくしおくことは、景連つゆばかりもこれをしらず。什麼汝等そもなんぢらなにの爲に、まさなき事をしたるぞや。とく罷出まかでよ」、と追退おひしりぞけ、飾立かざりたてたる鎗長刀やりなぎなたは、屏風ぴやうぶをもつてかくさせけり。すべての准備齟齬ようゐくひちがひて、けうさむるのみなれば、安西麻呂が家臣等は、遠侍とほさむらひいづるもあり、屏風のうしろ退しりぞきて、あせぬぐふも多かりける。
 かゝりけれども信時は、こりずまにひざをすゝめて、義實にうちむかひ、「今しめさるゝことおもむき、そのよりどころあるに似たれど、敵をおそれず、命ををしまず、後運こううんを天にまかして、時をまたんと思ふぞならば、坂東ばんどうには源氏げんじ多かり、なほ身のよるべあるべきに、一國のぬしにもあらず、よしみ元來絕もとよりたえてなき、安西うぢたのまんとて、ふねをよせしはこゝろがたし。うへたるものはしよくえらまず、おはるゝものはみちえらまず。敵をおそれ、いのちをしみて、迯迷にげまよはずは、いかにして、はぢかゞやかしてこゝまでべき。かひなき身の非を飾らずに、しかならば如此しかなりと、明々地あからさまつげてこそ、憐愍あはれみも一卜しほならめ。この席上せきせうつらなるかひに、とりもちしてまゐらせん。明々地あからさまつげ給へ。明々地あからさまにはいはれずや」、と再三ふたゝびみたびくり返すを、きく得堪えたへず貞行は、氏元がたもとひきて、もろ共に進みいで、「心を師として人をはかれば、うつつちもあたらぬ事あり。いとはゞかりあることながら、麻呂大人うし椎量すいりやうは、雜兵仂武者ざふひやうはむしやのうへにこそ。源氏にはさる大將なし。そもそも義實命ををしみ、敵におはれてうしなひ、思はず當國に來つるにあらず。ひとへ先蹤せんせうを追へば也。昔源賴朝卿みなもとのよりともけう石橋山いしばしやまいくさ敗れて、安房あはおもむき給ひしとき、和君わぎみ先祖信俊せんぞのぶとしぬし、安西の先祖景盛かげもりぬし、東條とうでふぬしもろ共に、第一番に隨從つきしたがひ、無二のこゝろざしをあらはせしかば、賴朝これに先をおはして、上總かつさへうちこえ給ふ程に、廣常常胤來迎ひろつねつねたねきたりむかへて、忽地たちまち大軍になりにければ、更に鐮倉にもとゐしめて、つひ平家へいけほろぼし給ひき。里見もおなじ源氏嫡流げんじのちゃくりう八幡殿はちまんどの御末みすゑなり。かゝる吉例きちれいあるものを、あまりに無下むげにおとしめ給ふが、かたはらいたく候へば、しれたることをまうすのみ。過言くわごんはゆるし給ひね」、とかへことはも智も勇も、一對一致いつゝいいつち兩老黨りやうろうどうに、說伏ときふせられて信時は、怒りにせまりて、ものもいはず。義實は氣色けしきを見て、忽地たちまちに聲をはげまし、「貞行氏元不禮ぶれいなせそ。われいかばかりの德ありて、賴朝にたぐへんや。そはそゞろ也、嗚呼をこ也」、としからして追退おひしりぞけ、勸解わびなだむる客ぶりに、信時はまなこいからし、手をこまぬきて物いはず。景連は肩ゆるがして、たへぬがごとく冷笑あざわらひ、「あなわが佛尊ほとけたふとしとて、いへばまたいはるゝものかな。里見の從者ともぴとよくきけかし。賴朝の父義朝よしともは、十五个國かこく節度使せつどしたり。もし朝敵ちやうてきとならざりせば、淸盛きよもりもすべなからん。かゝれば彼卿かのけう流人るにんたれ共、一トたび義兵を起すに及びて、舊恩きうおんを思ふ坂東武士ばんどうぶしまねかざれども屬從つきしたがひぬ。里見うぢはこれとこと也、そのはじめ太郞義成たらうよししげ、賴朝けうつかへしより、釆地一鄕れうぶんひとさとほかすぎず、手勢僅てせいはつかに百騎に足らず。中葉なかころ宮方みやかたにて、彼此をちこちに世をしのびあへず、鐮倉へ降參こうさんして、本領安堵ほんれうあんどしたれども、それはたしばしがあはひにて、今見る所は落人おちうど也。しゆうすら口をつぐめるに、汝等何なんぢらなに議論ぎろんあらん。こゝろざしを改めて、景連に仕へなば、さばかりの事あるべきに、身のほど〳〵をしらずや」、とあくまであざみほこれども、氏元も貞行も、しゆうのこゝろをくみかねて、再びこれと爭はず。
 義實はうち微笑ほゝえみ、「安西ぬしまことにしか也。しかれども、人の口には戶もたてられず。それがしこの地に來て聞くに、何處いつこもおなじちまた風聲ふうぶん、民の誹謗そしりやむときなけれど、家臣は主君の耳をふさぎて、つげもせずいさめせぬは、はなはだしき不忠ふちうならずや。氏元貞行おもひかけなく、あまた祿ろくたまふとも、不忠の人と肩をならべ、耳のしいたる主君には、仕ふることを願はじ」、といはれて景連氣色けしきかえ、「そは何事なにことをかそしりたる。ちまた風聞ふうぷんいかにぞや」、ととへあふぎひざ突立つきたて、「いまださとり給はずや。これは主人のうへのみならず、麻呂ぬしも又しかなり。神餘じんよ安西あんさい麻呂まろ三家さんかは、舊交尤淺きうこうもつともからず、手足しゆそくのごとく相佐あいたすけて、當國たうこく久しく無異ぶゐなりしに、神餘が嬖臣へいしん山下定包さだかね奸計かんけいをもてしゆうそこな*ひ、忽地二郡たちまちにぐん橫領わうれうし、おし國主こくしゆと稱すれども、神餘が爲にこれをうたず、阿容々々おめおめ下風かふうたちて、共ににごりうけ給へば、民の誹謗そしりむべならずや。それがしこの事を申入れて、もちひらるゝこともあらば、犬馬けんばの勞をつくさん、と思ひしはそらだのめにて、出陣しゆつぢん准備ようゐも見えず、たえてその議におよばれねば、寸志すんしのぶるよしもなし。わが主從しゆうじゆう剛臆ごうおくのみ、只管批評ひたすらひゝやうせらるれ共、神餘が爲に定包を、うたざるは勇もなく、義もなき武士はたのもしからず。今はしもこれまで也。罷出まかりいでん」、といひあへず、席をたゝんとし給へば、景連急かげつらきうよぴとゞめ、「方寸ほうすんつげざれば、さおもはるゝもことわり也。今霎時坐いましばしざし給へ」、ととゞむる右手めて立遶たちめぐる、信時はちつと擬議ぎきせず、「しらずや義實、けふわがこゝに來たりしは、をさ〳〵軍議ぐんぎの爲なれど、はかりことは密なるをよしとす。はじめておもてを見る和主わぬしに、かろ〳〵しく何をかつげん。俺們われわれが勇ありや、なしやをみづからしらんとならば、まづこのやいはとへかし」、と敦圉いきまきながらそりうちかへす、刀のつかに手をかくれば、さらでも由斷ゆだんせざりける、氏元も貞行も、しゆうのほとりにより八方はつほうまなこくばれば、麻呂が從者ともびとこれを見て、にぎこぶしさすりあへず、しきりにひざを進めたり。そのときあるじ景連は、慌忙あはてふためき橫ざまに、信時をいだとゞめ、耳に口をさしつけて、何事なにごとやらん說諭ときさとし、やがて左右を見かへりて、おとがひをもてしらすれば、安西が近臣、麻呂が從者ともひともろ共に、いそがはしくたちかゝりて、次のともなひぬ。かゝりけれども義實は、あふぎ鹿目かなめ走らしながら、うち見たるのみあらそはず、席上せきせうます〳〵失興しらけにけり。
當下そのとき安西景連は、もとの處にかへりをり、「義實なにとか思ひ給ふ。一言いちごんもとに死を爭ふは、武士ものゝふの風俗ならひなれども、麻呂うぢたはふれ也。こゝろになかけられそ。しかれども、時といきほひをしるものは、堪忍たへしのぶをもてあやうからず。かくはしば〳〵試みたるに、和殿わとのまことにその人なるべし。よしや結城ゆうき守將しゆせうなりとも、今この浦に流浪さそらひて、わが一陣いちゞん走加はせくはゝり、かの定包をうたんとならば、わが軍令ぐんれいそむきかたけん。士卒しそつと共にちうぬきんで戰場せんぢやうに大功あらば、恩賞おんせう沙汰さたなからんや。素性すぜうに誇り、さえたのみ、わが手につくはづるとならば、これ軍令に背くもの也。さでは決して用ひがたし。和殿一己わどのいつこのちからをもて、彼賊かのぞくをうちほろぼし、瀧田たきたの城を取りねかし。二郡のぬしにならるゝとも、つゆばかりもうらみなし。かゝればゆくもとゞまるも、たゞこの一議にあらんのみ。心を定めて回答いらへをせよ」、とことばもこゝにあらたまる、難義なんぎとしれどすこしもいなまず、「つながふねとなりしより、よるべの岸こそ身のぬしなれ。こゝに庇覆みかげかうむりて、もちひらるゝことあらば、何事なにこときらふべき。うらなくあふせ候へ」、といはれて景連うち點頭うなつき、「しからば事のはじめ也。努々違背ゆめゆめいはいあるべからず。わがいへ嘉例かれいとして、出陣しゆつぢん首途かどいでに、軍神いくさがみを祭ることあり。そのひもろぎには大きなる、鯉魚こひそなふることになん。わが爲にはりをおろして、この鯉こひを釣つりもてかへらば、よき敵と組擊くみうちして、くびを得たるにおなじかるべし。こゝろ得たりや」、と說示ときしめせば、義實固辭いなむけしきなく、「うけたまはり候ひぬ」、といらへてやがて立たゝんとせし、主しゆう後方あとべはペりたる、氏元貞行は左右より、そのたもとひきとゞめて、兩人齊一ひとしく進みいで、「安西公あんさいこうへ申也。嘉例とはのたまへども、竿さをなゝめにして舟にねふり、はりおろしてうをる、その智は漁夫ぎよふにますものなし。これらは武士のせざる所、義實には似げなきわざ也。きみはづかしめらるゝときは、しん死すとこそ古人こじんもいへ。只僕等たゞやつがれらかうべをもて、ひもろぎとなし給えかし、といはせもはてず景連は、氏元等をきつ嫉視にらまへ、「彼奴甚無禮かやつはなはだぶれい也。義實は法度はつとをおそれて、すで承諾せうだくせし事を、化耳拔あだみゝぬかしてなにとかきゝたる。その家僕かぼくとしてはゞかりなく、わが軍令ぐんれいを犯したる、罪尤輕もつともかろからず。彼牽出あれひきいだしてきつすてよ」、とはげしき怒りを物ともせず、氏元貞行ます〳〵進みて、說果ときはたさんとしたりしかば、義實これをいたくしかりて、間遙あはひはるか退しりぞかせ、彼等が爲に賠語わび給へば、景連やうやく氣色けしきをおさめ、「しからばこひを見るまでは、彼奴等かやつら和殿わどのにあづけん。和殿手親釣てつからつりもてよ。それも三日に限るべし。等閑なほさりにして日をすくさば、白物等しれものらがうへのみならず。こゝろ得てよ」、と他事たじもなく、いはるゝごとに義實は、うやうやしく領諾れうだくし、「しからば旅宿りよしゆくへまからん」とて、うらみがほなる老黨ろうだうを、いそがしたていで給へば、次の竊聞たちぎゝたる、麻呂小五郞信時は、綟子障子もじせうじひらかして、冷笑あざわらひつゝしばら目送みおくり、あるじのほとりへ立寄たちよりて、「安西ぬしいと手ぬるし。などて里見が從者等ともびとらを、助けてかへし給ひたる。われは只管ひたすら義實を、擊果うちはたさんとしつれども、和殿がたてとなり給へば、綱裏もうりうをを走らしたり」、とかごとがましくつぷやけば、景連きゝてうちほゝみ、「われも又はじめより、用意こゝろがまへはしたれども、義實は名家めいかの子なり、小冠者こくわじやなれども思慮才學しりよさいかく凡庸よのつねのものにあらず。又從者等ともびとら面魂つらたましひ一人當千いちにんたうせんといふべき。さるをそゞろに手をくださば、こゝにもあまた人を殺さん。獸窮けものきうすれば必囓かならずかみ鳥窮とりきうすれば必啄かならずつゝく。況勇將猛卒いはんやゆうせうもうそつなり。たゞ手をつかねやいばうけんや。窮鳥懷きうちやうふところるときは、獵師れうしも捕らずといふなるに、今定包さだかねうたずして、うらみなき人を殺さば、民の誹謗そしりは日にまして、つひ大事だいじなしがたかるべし。さればとて義實を、この處へとゞめては、猛獸たけきけものを養ふごとく、早晚寤寐いつしかねさめ安からず。こゝをもて、首鼠しゆそ兩端りやうたんことをよせて、かの主從が雅慢がまんおさえ祭祀まつりにゑを求めしは、陷阱おとしあなを造るもの也。安房一國にはこひせうせず。これその風土ふうどによるもの彼奴等かやつらこれをしらずして、ふちたち涉獵あさり、いたづらに日をすぐし、手をむなしうしてかへりば、軍法ぐんほうをもてこれをきらん。かくては殺すもそのつみあり。わがわたくしといふべからず。われあに彼をたすけんや」、と誇㒵ほこりがほ說示ときしめせば、信時は笑坪えつぼいつて、たなそこちやううち、「謀得はかりえきはめめう也。現憖げになまじい擊走うちはしらし、義實瀧田たきたおもむきて、定包に從はゞ、とらつばさそふる也。さりとてこなたに用ひなば、ひさしかし母家おもやそこなふ、くひなしとはいひがたし。とゞめのちにこれを殺す、はかりことにますものなし。あゝ奇なるかな、めうなり」、と只管賞嘆ひたすらせうたんしたりける。

 かゝりし程に義實は、白濱しらはまなる旅宿りよしゆくへとて、あしはこぴをいそがし給へど、みちいとはるかなりければ、かへりもかで日はくれたり。そもそも安房の白濱しらはまは、朝夷郡あさひなこふりの內にして、和名鈔わめうせうにその名見えて、いともふりたるさとになん。瀧口村たきくちむらつゞくといふ。今は七浦なゝうらとなふるのみ、この濱邊の總名さうめうなり。里見うぢ舊趾ふるきあと、その寺などもこゝにあり。所謂いはゆる安房の七浦は、川下かはしも岩目いはめ小戶をと鹽浦しほうらはら乙濱おとのはま白間津是しらまつこれ也。
間話むだはなしはさておきつ。義實は、そのあけかたに、白濱へかへりつゝ、目睡まどろみもせで漁獵すなどりの、用意こゝろかまへをし給へば、氏元貞行よろこばず、「君なほさとり給はずや。信時は匹夫ひつふの勇者、景連はのうみ、さえそねみ甚僻はなはだひがめり。われを見ることあたのごとく、たのもしげなき人の爲に、こひをあさりてなににかはせん。はやく上總かつさおもむきて、その毒惡どくあくさけ給へ」、ともろ共にいさめしかば、義實かうべをうちふりて、「いな伱達なんたち異見いけんはたがへり。麻呂安西まろあんさいが人となり、利にはしたしく、義にうとかり。口とおこなひはうらうへにて、定包をおそるゝのみ、瀧田をうつのこゝろなし、としらざるにあらねども、こゝをさけ上總かづさへ赴き、彼處かしこも又如此しかならば、下總しもふさ敵地てきち也。そのとき何處いつこへ赴くべき。君子は時を得てたのしみ、時を失ふても亦樂またたのしむ。呂尙りよせうは世にいふ太公望是たいこうばうこれなり。齡七十よはひなゝそぢかたふくまで、よに人のしるものなし。渭濱いひんつりして文王ぶんわう値偶ちぐし、紂王ちうわう討滅うちほろぼして大功あり。齊國せいのくにほうぜられて、子孫數十世すじつせに傳へたり。太公望すらかくのごとし。われはときいきほひと、ふたつながら失ふもの也。つりする事をきらはんや。且鯉かつこひはめでたきうほ也。傳聞つたへきく安南龍門あんなんりうもんの鯉、瀑布たきさかのぼるときは、化してたつになるといへり。われ三浦みうらにて龍尾りうぴを見たり。今白濱しらはまへ來るに及びて、ひとこひつれといふ。前象後兆憑ぜんせうこうちやうたのもしからずや。えものあらばもたらして、景連がせんやうを、しばらく見んと思ふかし。あけなばいでん」、といそがし給へば、氏元も貞行も、その高論こうろん感服かんふくして、はりを求め、竿さををとゝのへ、割籠わりごを腰にくゝりつけて、主從三人みたり、名もしらぬ、ふちをたづねてゆく程に、森のからすこずゑをはなれて、はほの〴〵とあけにけり。

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