南総里見八犬伝(023)

南總里見八犬傳第三輯卷之一第二十二回
東都 曲亭主人 編次
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濱路竊はまぢひそか親族しんぞくいた
糠助病ぬかすけやみ其子そのこおも

【挿絵説明】「豐嶋としま一族いちぞく管領家くわんれいけ三將さんせう池袋いけふくろたゝかふ」「煉馬平左衞門倍盛」「植杉刑部」「千葉ノ介より胤」
岩波文庫「南総里見八犬伝」(二)より

 再說大塚蟇六さてもおほつかひきろくは、信乃しのむかへとりてより、女房にようばう龜篠共侶かめさゝもろともに、いと愛々あい〳〵しく管待もてなすものから、只外聞たゞぐわいぶんを飾るのみ、こゝろにやいばぐ事多かり。そをいかにぞとたづぬれば、蟇六既に里人等さとひとらあざむきて、番作田ばんさくた橫領わうれうし、これはしも信乃が爲に、一毫いちがうも用ひざれども、いまだ村雨むらさめ大刀たちとらず。「これを手に入れてのち彼少年かのせうねん結果おしかたつけん。さるときは寶刀みたちによりて、わが身いよ〳〵發跡なりいづべく、又濱路には佳壻招よきむことりて、わが身ます〳〵老樂おいらくなるべし。しかはあれども、おもふに信乃が面魂つらたましひ凡庸よのつねわらべならぬに、はやりて事を爲損しそんぜば、毛をふききずを求め、はて原價もとねにしかたからん。只眞たゞまめやか款待もてなして、由斷ゆだんさするにますことなし」、と腹裡はらのうち深念しあんしつ、龜篠にのみ機密をつげて、斯謀かうはかるにぞありける。かゝれば信乃があやうきこと、石の下に生成うみな雞卵たまごたきゝ巢籠すこも雛禽ひなとりことならねども、親の先見遺訓せんけんいくんあり、くはうるに才器勇悍さいきゆうかん牛若うしわかをもあざむくべく、正行まさつらにもおとらざる、稀有けうの少年なりければ、そのぜうをよく知りて、片晌かたときも心をゆるさず、舊宅もとのいへにありし日より、伯母をばの宿所に移りし日より、くだん寶刀みたちは腰に離さず、るときはかたへにとりき、すときはまくらによせて、まもる事等閑なほざりならねば、偸ぬすひとひまあることなし。主客しゆかくいきほひかくの如くにして、一とせあまり送りつゝ、奸智かんちたけたる蟇六なれども、「なまじいに手をかけて、見咎みとがめられなば年來としごろ日ごろ、心盡こゝろつくしもあはきえて、わがうへならん」、とあやぶ*む程に、ぬすむこゝろの稍懈やゝおこたりて、今茲ことし又思ふやう、「村雨むらさめ大刀たち、手にいるとも、信乃が安穩あんおんでこゝにをらば、それを管領家くわんれいけまゐらするによしなし。よしや彼寶刀かのみたち、今わがものにならずとも、ぬしも物もこゝにあり。わが物にあらずとも、わがいへにあるなれば、つひにはわがものとなるべし。只管ひたすらこゝろはやればこそ、その謀施はかりことほどこしかたく、よろづ不便ふべんにして、なか〳〵にあやうし。女兒むすめ濱路は尙稚なほをさなきに、今よりして十年待とゝせまつとも、そのことの遲きにあらず。遠くはかれば長く利あり。短慮たんりよは功をなしかたし」、とやうやくに思ひかへしつ、龜篠かめさゝにも、そのこゝろを得させて、しばらぬすむの手をおさめ、たゞをり〳〵額藏がくざうに、信乃が意中ゐちうさぐらすれども、これはた便りを得たるにもあらず。さればまた、額藏は、くだんの事を、主夫婦あるじふうふとはるゝごとに、うヘには信乃をそしれども、害になるべき事をばいはず、そのとはれし事、こたへしよしを、ひそかつげざることのなければ、信乃はます〳〵由斷ゆだんせず、これもうへには伯母をばを慕ひて、小厮こものにひとしく使つかはれけり。
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読書ざんまいよせい(079)

南總里見八犬伝 第四 荒芽山の巻
滝澤(曲亭)馬琴・内田魯庵抄訳(004)
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図は、里見八犬伝の内 義僕額蔵(「文化遺産オンライン」サイトから)

一 庚申塚の亂闘

 犬塚犬飼犬田の三犬士が市川から六里の舟路を宮戸川へ遡つて神宮かには河原へ着き、この川中で寶刀を摺換へられた徃時を語り合ひながら行くと、

『大塚の荘官許しやうくわんとこの若檀那!』

 と呼留められた。見ると河原で綱舟貸しを渡世とする矠平やすへいといふ老人で、

荘官許しやうくわんとこでも飛んだ事でござつた。この騷動の最中。ドコへござらしやつた?』

『市川へ五六日遊びに行つて今戻つたところだが、變つた大事でも有つたかい?』

『そんなら何にも知んなさらねエか。變つた事にも何も大變な大騷動が持ち上りやした。まアわしの小屋へござらつしやい!』

 と、それから三人を自分の家へ連れて行き、信乃が旅立ちした翌る晩、蟇六夫婦が陣代簸上宮六ひがみきゆうろく属役軍木ぬるで五倍二に斬殺された事、濱路が左母二郎に誘拐されて圓塚山で殺され、追跡者の破落戸ならずものの三太郎も左母二郎も亦何者かに殺された事、大塚では宮六五倍二が蟇六夫婦を殺して立退たちのかうとしたところへ丁度額藏が歸つて来て、即時に宮六を一刀に斬棄てゝ仇を報じて自訴して出たのを、逃出した卑怯者の五倍二や宮六の弟の社平は鷺を烏と言瞞いいくるめた抗告をして額藏を主殺しとしゐひ、己れらは殺害の最中偶然行合はした側杖の災難だと偽證してマンマと額藏に殺人を塗りつけ、新陣代と腹を合はして忠義の額藏を近々處刑するといふ顛末を逐一物語つた。

 且陣代屋敷は圓塚山の殺傷をも額藏に背負はして餘類が有らうといふ見込で、こゝらあたりまでも捕吏を廻らしてあるから各〻方、別して犬塚氏は用心して大塚近くには立寄り給ふと、矠平やすへいは更に言足いひたして、幸ひ上州に由縁ゆかりの老婆があれば、と遠方ではあるが手紙を附けるから暫らく山家に忍ばれては如何にとねんご慫慂すゝめた。

 信乃を初め三人は他事無き矠平の親切を身にみて深く喜び、追ては好意に縋ることもあらうが、兎も角も大塚の容子を探り旁〻、先祖の墓参もしたいからと、矠平が頻りに危ぶんで留めるを數度あまたたび謝しつゝ暇乞ひして別れた。暫らくは三人とも思ひも掛けない意外の凶變に人事の測るべからざるを痛感し、有餘る愛を胸に湛へて無言であつた、取別けて信乃は平生快からざる間とは云へ肉親の伯母ではあり、濱路は兎角に伯母夫婦に距てられたとは云へ互に心で許し合つた言號いひなづけである、十數年来同じ屋根の下に起臥おきふししたものゝ非業の横死を耳にしてつぶつて聞かざるまねしてはゐられなかつた。伯母夫婦は多年積悪の報つた自業自得で是非もなく、濱路の薄命は不便ふびんの極みであるが前世の宿業として斷念あきらめられない事も無い。たゞ額藏の不慮の災殃わざはひ總角あげまきからの友達ではあり、前世の宿縁ある義兄弟ではあるし、強慾無慈悲の伯父伯母をも一飯の恩を徳として即時に仇を報じてくれた義理もある。義に勇んで暴言汚吏をらしたのが賊名をせられて刑架に上せられようとするを何でふ袖手傍觀しつしゆばうくわんしてゐられよう。

『犬飼氏、犬田氏』と信乃は声を潛めて二人に向ひ、

『それがしは踏ふみとゞまつて額藏をすくはうと思ふ。貴公きこうらは一先づ行徳へ歸り給へ。』

『犬塚氏、足下そこは妙な分け距てをし給ふナ。』とニ人は満然むつとして声を揃へ、

『マダ對面こそしないが、額藏は足下そこの為めにも義兄弟なら我々にも亦義兄弟。足下そこにんの手で拯はずとも我々兩人もちからさう。』と云つた。

 こゝで三人心を合はせて額藏を拯ひ出さうと相談したが、萬事の支度をする為めドコかに足溜あしだまりめねばならなかつた。犬塚は市川を立つ時から歸るツモリは無かつたので、陣代屋敷のお尋ね者となつてるを聞いては猶更大塚へは踏込めなかつた。かねてから目星を附けて置いたは、信乃が生れてからの守本尊まもりほんぞんと仰いだ瀧の川の辨才天のほこらで、先づ寺へ行って住持に會ひ、首尾よく祈願を名として岩窟いはやのほこらの参籠の許諾ゆるしを得たので、こゝを根城ねじろとして三人代る〳〵に――信乃はおもて看識みしられてるから夜陰に――大塚の里に行つては其處此處そここゝで風聞を探つた。正しく矠平やすへいの話の通りで、里人さとびと平生ひごろこゝろよからざる蟇六夫婦の非命を小氣味よく思つてゐるが、五倍ニ社平らの卑劣をも憎んで額藏の不連を氣の毒がつてゐた。が、新陣代の丁田よぼろた町之進まちのしんも宮六に劣らぬ佞奸邪智の小人で、同氣相求める五倍二社平らと心をはしてるから迂闊うつかり額藏を辯護かばひ立てする蔭言かげごとでも耳に入つたら、んだ連累まきぞへ喰はないものでも無いと里人は皆恐れてゐた。傷ましいのは、毎日身の毛の戰立よだつ拷問に掛けられてるさうで、服罪してもしなくても遠からぬうち處刑しおきになるといふ風説であつた。

 愈〻七月二日には磔刑はりつけになると聞込んだのはそれから間もなくで、三士は刑場へ亂入して額藏を救ひ出す用意に掛つた。其の前夜、三人打連れて住持を庫裡に尋ね、愈〻今晩は満願成就であるから明日あすは早朝出發すると暇乞ひして参籠中の食料と布施物を寄進した。其晩はユツクリ熟睡して、朝になると草鞋脚半わらぢきやはんの身軽な扮装いでたちで、豫て準備よういした王子權現へ奉納の弓矢と竹槍を各自めい〳〵脇狭んで白々しら〳〵けに庚申塚の刑場を指して出發した。
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南総里見八犬伝(021)

南總里見八犬傳第二輯卷之五第二十回
東都 曲亭主人 編次
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一雙いつそう玉兒義ぎよくじぎむす
三尺さんしやく童子どうじこゝろさしのぶ

七歳しちさい小児せうに客路たびぢはゝうしなふ」「犬川衞二が妻」「荘之助」

 信乃しのは庭に人ありて、呼禁よびとゞむるその聲を、聞くといへどもちつと擬議ぎきせず、はやつきたてん、とやいばあぐるに、筋縮すぢつま腕癱麻かひなしびれて、死をすみやかにすることかなはず。「こはくちをし」、といくたびか、しなん〳〵、とするほどに、眞先まつさきに進むものは、是則これすなはち別人ならず、さきにも來つる糠助ぬかすけなり。「吐あなや」とばかり、騷ぐものから、白刃しらはにやおそれけん、うしろのかたへ立遶たちめぐりて、矢庭やにはに信乃を抱禁いだきとむれば、前なるは蟇六龜篠ひきろくかめさゝ、左右よりかひなとりて、いさゝかうごかせず、「まづこのやいばはなてよ」、といへども信乃は手をゆるめず、「おんおもてみしれども、名吿なのりもあはざる伯母君御夫婦、なにとして來ませしぞや」、といはれて龜篠酸鼻なみだぐみ、「心つよき親に似て、そなたもさはいふにやあらん。黃童わらはべなれどもさかしげ也。みづからよくわきまへ給へ。わらははもとより女子をなこの身として、おとゝが所帶をうばへるにあらず。父もおとゝ討死うちしにせし、と風の便りに聞えしころ、せめては親のあとたてん、と思ふばかりに蟇六どのを、むことりつゝさいはひに、庄園せうゑんを給はりて、村長むらおささへになり登りし、夫にとがはなきぞとよ。しかるにおとゝ存命ながらへて、故鄕こけうにかへれど、足蹙あしなへたり。つとめたへざる身を見かへらで、吾儕わなみ夫婦をいといたう、憎みてぜつせし事は、おのが心のひがみにこそ。强顏つれなおとゝと思へども、腐欄くさりてもおよびはきられず。此度こだみ御敎書破卻みきやうしよはきやく越度おちど、いかで親子をすくはん、と心を盡す甲斐かひもなく、番作ははや自殺して、そなたも共にと、衝箚つきつめしは、をさなこゝろに似げなき短慮。しぬるに及ばず。この末を、且聞まづきゝてよ」、といさむれば、蟇六瞼ひきろくまぶたをしばたゝき、「番作が生いきのうちに、わが本來の赤心まこゝろを、しらせざりしは殘念也。せめてその子を養ひとりて、女兒濱路むすめはまぢめあはせなば、先祖の血絡ちすぢ斷絕せず、世にも人にも憎にくまれし、わが身はうしろやすかりなん。やをれ信乃よく聞けかし。御敎書の事、大かたならぬ、越度をちど也とはいひながら、原畜生もとちくせう所爲わざにして、犬はさら也そのぬしたる、番作が命をおとせば、一切つや〳〵後難あるべからず。たとひその子どもらに、おんとがめありといふとも、われまたよろしく申ときなん。さきに糠助が走り來て、|如此々しか〳〵つげしかば、もとより義絕の親族たりとも、自殺のへんきゝながら、なほ讐敵あたかたきの思ひをせんや、と來て見たればこそはからずも、汝が必死をとゞめたれ。はやくやいばをおさめよ」、と言葉をつくせば、糠ぬかすけ共侶もろともいさめけり。
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南総里見八犬伝(020)

南總里見八犬傳第二輯卷之五第十九回
東都 曲亭主人 編次
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龜篠奸計糠助かめさゝかんけいぬかすけすか
番作遠謀孤兒ばんさくゑんぼうみなしごたく


番作ばんさく遺訓いくんしてよるその村雨むらさめ太刀たちゆづる」「しの」「犬塚番作」「帶雨南离楚知春北入燕」「つるき大刀さやかに出る月のまへに/雲きれて行むら雨の空 玄同」

 卻說莊客糠助かくてひやくせうぬかすけは、なまじい信乃しのたすけて、犬を蟇六ひきろく背門せどに追入れ、計りし事は齟齬くひちがひて、犬を失ふのみならず、咎餘とばしりわが身に係らん、と思へばはやくにげかへりて、妻孥やから緣由ことのよしつげ、「もし庄官せうくわんより人來てとはば、らずと答へよ」、といひあへず、奧まりたる處に隱れて、衣引被きぬひきかつぎふして見つ、おきても心安からで、「いかに〳〵」と思ふ程に、果して蟇六ひきろくが小こもの來て、「糠助ぬかすけぬし宿所にありや。我內政わがうちがたよばせ給ふに、とく〳〵」といそがすを、しばしは「在らず」とあざむく物から、使つかひくしの齒をく如く、ふたゝたびに及びしかば、今はのがるゝ路もなし。「さはれ內うちがたよりとかいへば、そのことならじ」、と思へども、思ひかねつゝいでかぬるを、女房にいさめられ、小厮使こものづかひ引立ひきたてられて、やむことを得ず使とゝもに、蟇六が宿所へゆきけり。

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南総里見八犬伝(018)

南總里見八犬傳第二輯卷之四第十七回
東都 曲亭主人 編次
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「思ひくまの人はなか〳〵なきものをあはれに犬のぬしをしりぬる」「犬塚しの」「龜笹」「はま路」

妬忌ときたくましうして蟇六螟蛉ひきろくひとのこをやしなふ
孝心こうしんかたうして信乃曝布しのたきはらひ

 卻說犬塚番作かくていぬつかばんさくは、年來としごろの志願稍遂やゝとげて、男子既をのこゞすで出生しゆつせうし、母も子もいとすくよかに、產室撤うぶやおさむるころにぞなりぬ。「さてちごの名をなにとかよばん」、と女房手束にようばうたつかかたらへば、手束はしばら沈吟うちあんじ、「よに子育こそだてのなきものは、男兒をのこゞなればとし、の子には男名をとこなつけて、やしなひたつればつゝがなしとて、如此しかする人もまれにははべり。我夫婦わがふうふさちなくて、男兒三人擧をのこゞみたりまうけしかど、みな殤子みづこにてなくなりたるに、このたびも又男兒をのこゞなれば、一しほ心よはくなりて、想像おもひやりのみせられはべり。この子が十五にならんころまで、女子をなごにしてはぐゝまば、つゝがあらじと思ひ侍り。その心してなつけ給へ」、といへば番作うちほゝみ、「死生めいあり、名のとがならんや。ものいみ多き僻事ひがこと、いとうけがたき筋なれども、おん身が心やりにもならば、に從ふもわろきにあらず。古語に長きをしのといふ。和名妙わめうせう長竿ちやうかんを、しのめとよませし、則是すなはちこれなり。今も穗の長きすゝきを、しのすゝきといふぞかし。しげきすゝきとするは非ならん。わが子の命長かれ、とことほぎのこゝろもて、その名を信乃しのよぶべき。昔われ美濃路みのぢにて、不思議におん身と名吿なのりあひ、信濃路しなのぢにして夫婦となりぬ。しのとしなのとその聲近し。越鳥ゑつちやう南枝なんしすくひ、胡馬こば北風ほくふういばふといへり。たれかそのはじめを忘れん。わが子もし發迹なりいでて、受領じゆれふする事さへあらば、信濃の守護しゆごにもなれかし、と亦祝またことほぎのこゝろにかなへり。この名は甚麼いかに」、とまめたちて、とへ手束たつかきゝあへず、「そはいとめでたき名にはべり。富人とむひと五十日百日いかもゝか、と產室うぶややしなひのよろこびに、さけもり遊ぶ日も多かり。せめてこの子が名ひらきに、かまどの神に神酒獻みきたてまつり、手習子てらこ綿わた弟子をしえこに、ものくはせ給はずや」、といふに番作うち點頭うなづき、「われもかくこそ思ふなれ。とく〳〵」といそがせば、手束はちか媼等うばらやとひて、赤小豆飯あづきいひ芝雜魚しばざこしるなますといそがしく、目つらをつかみ料理して、里の總角等あげまきら召聚會よびつどへもりならべたる飯さへに、あからかしはの二荒膳にくわうぜんはしとりあぐる髻鬟等うなゐらが、顏は隱るゝ親碗おやわんに、子の久後ゆくすゑことぶきの饗應もてなしにみなあきたりて、ひざにこぼれし粒飯つぶいひを、ひらひもあへず、身を起し、よろこびをのべかへるもあり、人より先に草屨わらくつを、穿はか穿はかせじ、とかしましく、𥉉あはて〚目+條〛てかへるも多かりけり。
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南総里見八犬伝(017)

南總里見八犬傳第二輯卷之三第十六回
東都 曲亭主人 編次
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山院さんいん宿しゆくして番作ばんさく手束たつかうたがふ」「菴主蚊牛」「たつか」「大塚番作」

白刃はくじんもと鸞鳳良緣らんほうりやうえんむす
天女てんによやしろ夫妻一子ふさいいつしいの

 卻說大塚番作かくておほつかばんさくは、淺痍あさでなれども一晝夜いちちうやあまたみちを來にければ、疲勞つかれとともにそのきず痛みて、通宵よもすがらいもねられず、まくらにかよふ松の聲、溪澗たにかはの音さわがしく、ぬるとはなしに目睡まどろみけん、紙門隔ふすまこしにうちかたらふ、聲するに驚覺おどろきさめ、枕をそばたて熟聽つら〳〵きけば、およつけたる男の聲也。「されば菴主あんしゆはかへりけん。渠何事かれなにことをいふにかあらん」、と耳をすまして聞く程に、忽地女子たちまちをなこ泣聲なきこゑして、「そはきゝわきなし、むじんなり。衆生濟度しゆぜうさいどは佛のをしえ、よしそれまでにおよばずとも、心をけが破戒はかいの罪、法ころもはぢやいばもて、ころさんとはなさけなし」、といふはまさしく宿貸やどかして、われをとゞめし女をなこなり。「原來菴主さてはあんしゆは破戒の惡僧あくそうかはよ少女をとめを妻にして、彼奴かやつゑば旅人りよじんをとゞめ、ひそかに殺して物をとる、山賊さんぞくきわまれり。たま〳〵君父くんふうらみかへし、恥をきよめ、危難をのがれて、こゝまで來つるに阿容々々おめ〳〵と、われ山賊の手にしなんや。さきにすれば人をせいす。こなたよりうついでみなころしにすべけれ」、と思ひさだめてちつとさわがず、ひそかおきて帶引締ひきしめ、刀を腰に、かゝぐりかゝぐり、紙門ふすまのほとりへしのびよりて、開闔たてつけ間準ひずみより、ことやう闕窺かいまみるに、その年四十あまりの惡僧、手に一挺いつてう菜刀なかたなをふりあげて、女子をなこむかひておどしつすかしつ、いふことさだかに聞えね共、われをうたんず面魂つらたましひ女子をなこはこれをとゞめあへず、かみふりみだしてよゝとなく。害心既に顯然げんぜんたる、爲體ていたらくに番作は、いさゝかも疑はず、紙門ふすまちやうひらきて、庖湢くりやのかたへ跳出おどりいで、「山賊われを殺さん。われまづなんぢを殺すべし」、とのゝしりあへずとびかゝれば、惡僧おはきにうち驚き、もつたるやいばひらめかして、きらんとするこぶしの下を、くゞぬけつゝ足をとばして、腰眼ゐのめのあたりをはたる。蹴られて前へひよろ〳〵と、五六步いつあしむあし走りいだして、やうやくに踏駐ふみとゞまり、ふりかへつてつきかくるを、右へ流し、左へ、すべらし、數回あまたゝびかけ、なやまして、疲勞つかるゝ處をつけ入りて、つひやいはをうち落せば、惡僧いよ〳〵こゝろあはてて、にげんとすれば、番作は、莱刀なかたな手ばやくとりあげて、「賊僧天罰思ひしれ」、とのゝしる聲ともろともに、あびせかけたる刃の電光いなつま脊條せすぢをふかくつんざいたり。灸所きうしよ痛痍いたでに、霎時しばし得堪えたへず、惡僧は「あつ」と叫びて、たふるゝ胸膈むなさき、とゞめの刀尖きつさきさしつらぬきて引拔ひきぬく莱刀、血をふりたらして、刃をぬぐひ、𥉉あはて〚目+條〛まどひにげも得ず、伏沈ふししづみたる女子をなこむかひて、まなこいからし聲をふりたて、「なんぢ甲夜よひいひめぐみて、一碗いちわんの恩あるに似たり。又賊僧がかへり來て、われを殺さんとするをとゞめし、こは側隱そくいんの心なれども、この賊僧が妻となりて、これまでいくその人を殺せし、これまたしるべからず。さればのがれぬ天のせめすみやか首伏はくでうして、やいばうけよ。いかにぞや」、ととはれてはつかかうべあげ、「その疑ひは情由わけしらぬ、おん身が心のまよひにこそ。わらははもとよりるものならず」、といはせもあへず冷笑あざわらひ、「淺くもことを左右によせて、時を移して小賊等こぬすびとらが、かへるをまちてをとこのために、うらみかへさんと思ふなんぢ胸中きやうちう、われかばかりの倆伎たくみのらんや。つげずはこれもていはせん」、と打晃うちひらめか菜刀なかたなの光と共にとび退しりぞき、「やよまち給へ、いふことあり」、といへ共ゆるさいかり刀尖きつさき何處いづこまでもと夤緣つけまはす、刃頭はさきたてもなよ竹の、雪にをれなん風情ふぜいにて、右手めてのばし、左手ゆんでつき片膝立かたひざたてて身をらし、うしろざまに迯遶にげめぐるを、番作はなほのがさじ、とうてばひらき、拂へば沈み、たゝんとすればいだゞきの上にひらめく氷のやいばのがれかた手をふところへ、さし入るゝひまもなく、きら*んと進む目前まなさきへ、とりいだす一通つきつけて、「これ見て疑ひはらし給へ。きゝわきなや」、と兩の手に、引延ひきのばしたる命毛いのちげの、ふでに示せしその身の素姓すせう、番作とくすかし見て、思はず刃をとり直し、「こゝろ得かたき書狀しよでう名印ないん梵妻賊婦ぼんさいぞくふ艷書欤ゑんじよか、と思ふには似ず勇士の遺書かきおき。やうこそあらめ、その情由わけ語れ」、と身をひらかし、刃を席薦たゝみ突立つきたてて、膝折敷ひざをりしき目守まもりてをり。
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南総里見八犬伝(016)

南總里見八犬傳第二輯卷之三第十五回
東都 曲亭主人 編次
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うらみむくひて番作ばんさく君父くんふ首級くびをかくす」「大塚番作」「にしごり頓二」「牡蛎崎小二郎」

金蓮寺きんれんじ番作讐ばんさくあた
拈華庵ねんげあん手束客たつかたびゝととゞ

前卷既に說訖ときをはる、伏姬富山ふせひめとやまりにしころは、十六さいのときにして、長祿元年ちやうろくぐわんねんの秋なるべし。又金碗入道かなまりにうどうヽ大坊ちゆだいぼうは、嘉吉元年かきつぐわんねんの秋、父孝吉ちゝたかよしが自殺せしとき、既に五歲になりければ、長祿二年富山にて、伏姬自殺のうれひかゝり、にはか出家入道しゆつけにうどうして、雲水うんすいまかしつゝ、斗藪行脚とそうあんぎや首途かどいでせし、このとき廿二歲になりぬ。伏姬は年はつかに、十七にて身まかりたまへば、ヽ大坊はかの姬より、その年才とし五ッの兄なりけり。かくて長祿は三年にして、寬正くわんせうにあらたまり、又六年にして、文正ぶんせうと改元せらる。さはれ元年のみにして、又應仁おふにんと改めらる。これもはづかに二年にして、文明ぶんめいと改元ありけり。應仁の內亂治りて、戎馬じうばひつめあとはらひ、名のみなりけるはなみやこは、もと春邊はるべたちかへり、稍長閑やゝのどやかになりぬるも、このころの事なれば、(文明五年春三月、宗全病そうぜんやみみまかり。五月に至りて勝元も亦病またやみみまかりにき。こゝにおいてそのの合戰、征せずしてやみにけり。これを應仁の兵亂ひやうらんといふ)この年號のみ長久とこしなへに、十八年まで續きけり。こゝに年序ねんじよかゞなふれば、伏姬の事ありて、ヽ大が行脚あんぎや啓行かしまたちせし、前卷長祿二年より、今文明の季年すゑいたりて、無慮すべて二十餘年に及べり。このあはひ犬塚信乃いめづかしのが、未生みせう已前いぜんの事をのぶ。この卷亦復またまた嘉吉におこりて、文明のころに至れり。

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南総里見八犬伝(015)

南總里見八犬傳第二輯卷之二第十四回
東都 曲亭主人 編次
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使女つかひめ急訟はやうちよるみづわたす」「堀内貞行」

のりものとばして使女溪澗つかひめたにかはわたす
しやくならしてヽ大記總ちゆだいずゞたまたづぬ

 かたはらに侍りたる、貞行等さだゆきら伏姬ふせひめの自殺をとゞめあへなくも、插頭かざしの花をちらせしごとく、遺感いかんやるかたなかりけり。そがなか孝德たかのりは、男子をのこにもます姬君ひめきみ末期まつごの一句にはげまされて、身をおくところなかりけん、亡骸なきからのほとりにおちたる、血刀ちかたなを手はやく取て、ふたゝび腹を切らんとす。そのとき義實よしさね聲をふりたて、「やをれ大輔狼狽だいすけうろたへたる。その身に大罪だいざいありながら、君命くんめいまたずして、自害せんとは奇怪きくわいなり。伏姬一旦甦生そせいしたれば、つみ一等いつとうなだむるとも、この山に入るものは、かうベはねんとおきてしものを、法度はつとまげておのがまに〳〵、腹切ることをゆるさんや。觀念せよ」、と進みよりて、やいば引提ひきさげ立給へば、「願ふところ」、と孝德は、なほりて合掌がつせうし、うなぢのばす程もなく、上にきらめく刃の稻妻いなつまちやううつたる大刀風たちかぜに、思ひかけなく孝德が髻弗もとゞりふつ載捨きりすて給へば、「これは」、と見かへる罪人つみひとも、いさめかねたる貞行も、驚き思ふ仁君じんくんの、恩義にいとゞかしこまる。義實は氷なす、やいばをやをら𩋡さやおさめて、たゝえる淚をふり拂ひ、「見よや藏人くらんど、わが手つから、罪人つみひとを刑罰せり。法度はつとは君の制する所、君又これを破るといふ、古人こじん金言宜きんげんむべなるかな。われもし民ともろともに、けふこの山に登りなば、大輔だいすけとがなかるべし。かうべかえたるもとゞりは、かれ亡父ぼうふへ寸志なり。かれをさなき時よりして、名を大輔と喚做よびなせしは、大國輔佐たいこくほさの臣たれ、とその久後ゆくすゑしゆくせしに、わが官職つかさもやうやく進みて、治部大輔ぢぶのたいふ大輔だいすけと、その國訓よみこゑことなれ共、文字もんじはかはらぬ主從同名しゆう〴〵どうめい、かゝるゆゑにやしゆうのうへに、あるべきたゝりを身にうけけん、可惜あたらしき壯佼わかうどが、よに埋木うもれきとならん事、かへす〳〵も不便ふびん也。親八郞は大功あり。大輔も忠なきにあらず。その親といひ、その子といひ、勳功くんこうあれども賞をず、その死に臨み、その罪に、陷るに及びては、主尙しゆうすら救ふによしなき事、わが子にまして哀傷あいしやうの淚はこゝにとゞめかたし。やよ大輔よ、孝德よ。わがこのこゝろをよくも知らば、亡親なきおやの爲、ひめが爲に、いのちをたもち、身を愛し、ほとけにつかへ苦行くぎやうして、高僧知識の名をあげよ。こゝろ得たりや」、と叮嚀ねんころに、さとし給へば孝德たかのりは、かたじけなさにはふりおつる、淚にむせび地にふして、いらへかねつゝ聲をむ。ことわりなれば貞行は、はなうちかみて進みいで、「今にはじめぬ君の仁心じんしん、姬うへの御最期ごさいごには、かごとがましき事もなく、家臣のうへをかくまでに、聞えさせ給ふ事、大輔和殿わとのが身にとりては、一郡いちぐんの守護、萬貫まんぐわんの、祿ろくにもまして滿足ならん」、といはれてやうやくかうべもたげ、「某寔それがしまこと不肖ふせうなれども、如是畜生によぜちくせうだも菩ぼだいれり。今より日本廻國につほんくわいこくして、灵山灵社れいさんれいしやを巡禮し、伏姬君ふせひめきみ後世ごせとふらひ、わが君御父子ごふしの武運を祈らん。姬うへの落命も、又それがし祝髮しゆくはつも、みな八房の犬ゆゑなれば、犬といふ字を二ッにき、犬にも及ばぬ大輔が、大の一字をそがまゝに、ヽ大ちゆだい法名仕ほうめうつかまつらん」、と申上れば義實朝臣よしさねあそん、「あはれいしくも申シたり。くだんの犬は全身みのうちに、黑白八こくびやくやつ斑毛ぶちあれば、八房と名つけしが、今さら思へば八房の、二字は則一戶八方すなはちひとりのしかばねはつはうに至るの義なり。加旃しかのみならず伏姬が自殺の今果いまは痍口きずくちより、一道の白氣はくきたなびき仁義八行じんぎはつこう文字顯もんじあらはれたる、百八の珠閃たまひらめのぼり、文もじなき珠は地におちて、その餘のやつ光明ひかりをはなち、八方へ散亂さんらんして、つひに跡なくなりし事、其所以そのゆゑなくはあるベからず。後々のちのちに至りなば、思ひあはする事もやあらん。菩提ぼだい首途かどで餞別はなむけには、たゞこの珠數ずゞにますものあらじ。努祕藏ゆめひさうせよ入道にうどう」、とさとしてやがたびければ、孝德は手にうけて、再三ふたゝびみたびうちいたゞき、「こはありかたき君のたまもの、今より諸國を編歷へんれきして、飛去とびさりたるやつたまおちたる所をたづねもとめ、はじめのごとくつなぎとめんに、一百八いつひやくはちかず滿みたずは、又當國たうごくたちかへりて、見參げんざんり候はじ。年をるとも音耗おとづれなくは、たびよりたびに野ざらしの、からうへたる犬の腹を、こやしにけりと思召おぼしめされよ。これまこと今生こんぜうのおんわかれに候べし」、と思ひきつてぞ申ける。
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読書ざんまいよせい(075)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(003)

南總里見八犬傳 第三 古那屋の卷
瀧澤(曲亭)馬琴・內田魯庵抄譯
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 古那屋文五兵衞

 こゝに行德ぎやうとく入江橋いりえばし橋詰はしづめに古那屋といふ旅籠屋はたごやがあつた。主人の文五兵衞といふは先年つま先立さきだたれた今年ことし五十五六の男鰥をとこやもめであつた。信乃しのの鄕里の幼馴染をさななじみの糠助(第二輯參照)が國を追はれて母親の無い孩兒みどりごを脊負ひて旅につかれつゝ、詮方せんかた盡きて入水の覺悟をしたのはこの入江橋の上、(第三輯卷二參照)で、通りがかりの犬飼見兵衞いぬかひけんぺゑに助けられ、方金はうきん二顆を惠まれて足手纏あしでまとひの子を引取つて貰つたのを見兵衞と知合しりあひの緣で預かつたのは古那屋こなやであった。女房が產をしたばかりて、乳があまってゐたので同じ乳房を含ませたが、このアワヤ父と共に餓ゑるか水に溺れようとした孩兒みどりごのちの芳流閣の勇士犬飼見八であつた。
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南総里見八犬伝(014)

南總里見八犬傳第二輯卷之二第十三回
東都 曲亭主人 編次
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【外題】
里見八犬傳なんさうさとみはつけんでん第二輯だいにしゆう巻之二

【本文】
南總里見八犬傳なんさうさとみはつけんでん第二輯(だいにしゆう巻之二
東都 曲亭主人編次


妙經めうきやう功徳くどく煩惱ぼんなう雲霧うんむひらく」「金まり大すけ」「玉つさ」「神変大菩薩」

尺素ふみのこし因果いんぐわみづからうつたふ
雲霧うんむはらつ妖孽あやしみはじめてやむ

 伏姬ふせひめは思ひかけなく、奇しきわらべ說諭ときさとされて、無明むめう眠覺ねむりさめながら、夢かとぞおもふあととめぬ、人の言葉のあやしきに、なほ疑ひははれなき、淚の雨に敷妙しきたへの、そでは物かははらわたを、しぼるばかりにむせかへり、なげしづませ給ひけり。しかはあれども心操こゝろばえ、人なみ〳〵にたちまさる、日來雄ひころをしき姬うへなれば、うちさわぐ胸をおししづめ、顏にかゝれる黑髮くろかみを、かきあげて目をぬぐひ、「うたてやな前世さきつよに、造りし罪は秤成はかりなす、おもさかろさはしらねども、つひにこの身にむくて、かくまで物を思はする、人のうらみのしうねさよ。遮莫さもあらばあれ親のうへに、かゝるたゝりおひにき、ときゝてはのちのそののちの世まで、捺落ならくの底に沈むとも、くやしと思ふべうもあらず。たゞはづかしく悲しきは、親の爲、又人の爲に、きたなき心もたなくに、なにたねなる畜生ちくせうの、その氣をうけやつの子を、身に宿やどしなばいかにせん。そもこの山に入りにし日より、つるの林のしげきをわき、わしたかねの高きをあふぐ、一念不退讀經いちねんふたいどきやうほかは、よに他事あだしごとなきものから、佛もこゝに救ひ給はず、神さへ助け給はずて、有身みこもれる事じつならば、よしや臥房ふしどを共にせずとも、それいひとか證据あかしはなし。わがうへのみかは親のはぢこゝのつの世をかゆるとも、つひきよむる時しあらで、只畜生たゞちくせうの妻といはれん。いきての恥辱、死してのうらみ、たとふるに物あるべしや。かうとは兎の毛の末におく、つゆばかりだもしらずして、さきに瀧田にをりしとき、犬を殺してもろともに、得死えしなざるこそくやしけれ。しすべきをりはありながら、しにおくれしも業因欤ごういんか。されば善巧方便ぜんこうほうべんとて、ときおかせ給ふなる、佛のふみにもありがたき、因果いんぐわといふもあまりあり。よしやこの子のうまるゝゆゑに、親同胞おやはらからさちありて、家のさかえをませばとて、こよなき恥にやはかえん。悲しきかな」、と聲たてて、かたへの人にものいふごとく、思ひこつてはなか〳〵に、さかしき心も亂れつゝ、忍ぶにたへ繁薄しのすゝき尾花をばなが下にふし給ふ。

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