南總里見八犬傳卷之四第七回
東都 曲亭主人 編次
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「一子を遺して孝吉大義に死す」「杉倉氏元」「金まり八郎」「里見よしさね」「百姓一作」「上総の大介」「玉つさ怨霊」
景連奸計信時を賣る
孝吉節義義實に辭す
杉倉木曾介氏元が使者、蜑崎十郞輝武、東條よりはせ參りて、麻呂信時が首級を進らせたりければ、義實は大床子のほとりに出て、件の使者をちかく召せ、合戰の爲體を、みづから問せ給ひしかば、蜑崎十郞まうすやう、「兵粮乏しくまします事、氏元豫てこゝろにかゝれば、百姓們を催促して、運送せばやと思ふ程に、安西景連、麻呂信時、はや定包にかたらはれて、海陸の通路を塞ぎ、小荷駄を取らん、とわれを俟。縡の難義に及びしかば、氏元ます〳〵憂悶て、いたづらに日を過したり。しかるに景連、一夕竊に、家隸某甲をもて、氏元にいはするやう、『山下定包は、逆賊也。よしや蘇秦張儀をもて、百遍千遍相譚とも、承引べうは思はざりしに、信時にそゝのかされて、渠が爲に途を塞ぎ、良將勇士を苦めしは、われながら淺猿、と後悔臍を噬ものから、信時只管鏃を磨て、說ども思ひかへさねば、是も亦靴を隔て、癬を掻くに異ならず。猜事の情を量るに、信時は匹夫の勇士、利の爲に義を忘れて、貪れども飽ことなし。景連舊好を思ふ故に、一旦合體するといへども、もし悞を改ずは、狂人を追ふ不狂人、走るは共にひとしかるべし。所詮合體の念ひを飜し、まづ信時を擊果して、兵粮運送の路を開き、里見殿に力を勠して、賊首定包を討滅し、大義を舒んと思ふのみ。曩にはたま〳〵來臨せられし、里見ぬしを要とゞめず、あるじ態の禮儀なかりしは、彼信時が拒るゆゑなり。願ふは和殿、城を出て、短兵急に攻かゝれ。信時は野猪武者也、敵を見て思慮もなく、一陣に進んず。そのとき景連後陣より、さし挾てこれを擊ば、信時を手取にせん事、掌を返す如けん。狐疑して大事を悞給ふな。をさ〳〵回答を俟』といへり。しかれども氏元は、敵の謀にもや、と思ひしかば、佻々しく從はず、使者の往返度かさなりて、僞ならず聞えにければ、さは信時を擊んとて、安西に諜じ合せ、降み降ずみ五月雨の、黑白もわかぬ暗夜に、二百餘騎を引率し、枚を銜み、鑣を鉗め、麻呂信時が屯せる、濱荻の柵の前後より、犇々と推よせて、鬨を咄とつくり掛、無二無三に突て入る。敵よすべしとはおもひかけなき、麻呂の一陣劇騷ぎて、繋る馬に鞭を當、弦なき弓に箭をとり添、紊立たる癖なれば、只活路を求るのみ、防戰んとするものなし。そのとき信時聲を激し、『憑しげなきもの共かな。敵は正しく小勢也。推包で擊とらずや。落されて前原なる、安西に笑れな。擊よ進め』、と烈しく令して、眞先に馬乘出し、鎗りう〳〵とうち揮て、逼入る寄手を突倒す。その勢ひは正に是、群る羊の中に入る、猛虎の暴るゝに異ならず。士卒はこれに勵され、將後陣なる安西が、援來なんと思ひけん、逃んとしたる踵を旋らし、唬叫て戰へば、こゝろならずも躬方の先鋒、面外へ追かへされ、路のぬかりに足も得たゝず、辷り跌き引かねたり。當下杉倉氏元は、眼を瞪し、聲をふり立、『一旦破りし一二の柵を、追かへさるゝことやはある。名を惜み、恥をしるものは、われに續け』、といひあへず、白旄採て腰に插、鐙を鳴らし、馬を進めて、烏夜に晃く長刀を、水車の如く揮廻して、信時に擊て懸れば、笧の火光に佶と見て、『汝は氏元欤。よき敵也。其處な退そ』、と呼びかけて、鎗を捻て磤と突ば、發石と受てはねかへし、引ばつけ入り、すゝめば開き、一上一下と手を盡す。大將かくのごとくなれば、躬方も敵も遊兵なく、相助るに暇なければ、氏元と信時は、人を雜ず戰ふ程に、信時焦燥て突出す、鎗の尖頭を氏元は、左手へ丁と拂除、おつと唬て、向上る所を、長刀の柄を拿延て、內兜へ突入れて、むかふざまに衝落せば、さしもの信時灸所の痛手に、得堪ず鎗を手にもちながら、馬より摚と滾落る、音に臣等は見かへりて、飛がごとくに走よせて、その頸取て候」、と言葉せわしく聞えあぐれば、義實つく〳〵とうち聞て、「氏元がその夜の軍功、賞するに堪たれども、計略足ざりけり。景連猛に心裏反りて、信時を擊する事、その故なくはあるべからず。夫兩雄は竝立ず。信時景連相與に、われを擊とも早に捷ずは、必變を生ずべし。然るを氏元ゆくりなく、安西にそゝのかされて、信時を擊とりしは、躬方の爲に利はなくて、景連が爲になりなん。彼安西は何とかしつる」、と問せ給へば蜑崎十郞、「さン候景連は、その夜さり躬方の爲に、征箭一條も射出さず、いつの程にか前原なる、柵を退きて候」、と答まうせば、義實は、扇をもつて膝を鼓、「しかれば既に景連が、奸計は著れたり。わが瀧田を攻しとき、勝敗測かたしといへども、定包は天神地祇も憎せ給ひて、人のゆるさぬ逆賊なり、一旦その利あるに似たるも、始終全からじとは、景連は思ひけん。定包竟に滅亡し、義實その地を有に及びて、信時は安西が翼になるべきものならず。只大ばやりに勇めるのみ、與に無謀の軍をせば、脆く負なんことをおそれて、陽には義實と合體して、氏元に信時を擊せ、景連はその虛に乘じて、平館を攻落し、朝夷郡を合せ領して、牛角の勢ひを張らんとす。鼓し扇は外るゝとも、わが推量は違はじ」、とその脾肝を指すくごとく、いと精細に宣ふ折、氏元が再度の注進、某乙をとこはせ參りつ、「信時既に擊れしかば、殘兵頻に紊れ騷ぎて、逃るを直と追捨て、氏元は軍兵を、纏めて軈て東條へ、歸陣して候ひしに、豈おもはんや景連は、はや前原を退きて、平館の城を乘取り、麻呂が采地朝夷一郡、みなおのが物とせり。狗骨をりて、鷹に捉せし、氏元は勞して功なし。おん勢をさし向給はゞ、先鋒を奉りて、朝夷一郡いへばさらなり、景連が根城を屠りて、この憤を散すべし。このよしまうし給へ」とて、孝吉貞行等に書簡を寄せたり。金碗も堀內も、こゝに至りてその君の、聰察叡智に感伏し、「はやく景連を討給へ」、と頻りに勸め奉れば、義實頭をうち掉て、「否安西は討べからず。われ定包を滅せしは、ひとり榮利を思ふにあらず、民の塗炭を救ん爲也。さは衆人のちからによりて、長狹平郡の主となる、こよなき己が幸ならずや。景連梟雄たりといふ共、定包が類にあらず。その底意はとまれかくまれ、志をわれに寄せ、木曾介氏元が、信時を擊に及びて、渠いちはやく平館なる、城を拔しを媢しとて、軍を起し、地を爭ひ、蠻觸の境に迷ひて、人を殺し民を損ふ、そはわがせざる所也。景連奸計行れて、平館を取るといへども、なほ嗛らで攻來るならば、一時に雌雄を決すべし。さもなくは境を戍りて、こゝより手出しすべからず。僉この旨をこゝろ得よ」、と叮嚀に喩し給へば、孝吉貞行は、さらにもいはず、左右に侍る近習輩、蜑崎等もろ共に、感佩せざるものもなく、「いにしへの聖賢も、此うへややはある」、と只顧稱贊したりける。かくて義實は、手づから氏元に書を給はりて、渠を賞、渠を喩して、安西を討ことを禁め、「人の物を取らんとて、わが手許を忘るゝな。鄙語にいふ、飽ことしらぬ、鷹は爪の裂るかし。籠城の外、他事、あるべからず」、と警て、蜑崎十郞等を還し給ひつ。
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