テキストの快楽(009)その2・読書ざんまいよせい(064)

◎ グリーンブラット「暴君」ーシェイクスピアの政治学(01)


 まず、本書の問題提起から…

 一五九〇年代初頭に劇作をはじめてからそのキャリアを終えるまで、シェイクスピアは、 どうにも納得のいかないい問題に取り組んできた。
――なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうなどということがありえるのか?

 シェイクスピアの作品には、様々な「暴君」が登場するが、イギリス王朝のプランタジネット王朝やランカスター王朝などの王の歴史劇は、いずれまとめて書くが、本書での引用について、面白く感じただけに一言。「ヘンリ六世」で、王に反乱をしかけた、ジャック・ケイド(王ではないが、その素性や行動から、充分、「暴君」たるに値する人物であった。)の言葉されるセリフ
“make England great again!”(ふたたびイギリスを偉大に!)
は、調べたかぎりでは、シェイクスピアのどの戯曲にもでてこない。本の出版年に初当選した、某国のトップは、シェイクスピア(ないしジャック・ケイド)を気取ったかと思ったが、逆に、著者が現代の暴君に引きずられた、ないし「筆のすさび」なのかもしれない。某大統領が、シェイクスピアを引用するなんで、ちょっと考えられないし、それとも、その時代の僭主希望者の、それを示唆する伝承があったのだろうか?

 結論として…

リーダーに対して人はつい皮肉な見方をしてしまったり、そうしたり—ダーを信頼するお人よしの大衆に絶望しがちだったりすることをシェイクスピアは承知していた。リーダーはしばしば体面に傷があって堕落しており、群衆はしばしば愚かで、感謝を知らず、デマゴーグに翻弄されやすく、実際の利益がどこにあるのか理解するのが遅い。最も卑しい連中の最も残酷な動機が勝利を収めるように思える時代もある(時に長く続くかもしれない)。しかし、シェイクスピアは、暴君とその手下どもは、結局は倒れると信じている。自分自身の邪悪さゆえに挫折するし、抑圧されても決して消えはしない人々の人間的精神によって倒されるのだ。皆がまともさを回復する最良のチャンスは、普通の市民の政治活動にあると、シェイクスピアは考える。暴君を支持するように叫べと強要されてもじっと黙っている人々や、囚人に拷問を加える邪悪な主人を止めようとする召し使い、経済的な正義を求める餓えた市民をシェイクスピアは見逃さない。
「人民がいなくて、何が街だ?」

 十分納得されるソリューション(解決法)である。

なお、本書に関連し、坪内逍遥訳「リア王」「マクベス」「ジュリアス・シーザー」などを投稿予定である。

参考
Wikipedia から
ヘンリー6世_(イングランド王)
シェイクスピア「ヘンリー六世 第2部」
ジャック・ケイド

テキストの快楽(009)その1

◎ ツルゲーネフ作 神西清訳「散文詩」(01)


 岩波文庫には、神西清と池田健太郎訳の「散文詩」が収められています。このうち神西清訳の部分だけを収録します。神西清が、1933年・29歳のとき、初版「散文詩」を出版、晩年にうち11編を改訳されたものです。池田健太郎氏の注は、適時、「引用」しました。

   い な か

夏は七月*、おわりの日。身をめぐる千里、ロシアの国――生みの里。
空はながす、いちめんの青。雲がひときれ、うかぶともなく、消えるともなく。風はなく、汗ばむ心地。大気は、しぼりたての乳さながら!
雲雀ひばりはさえずり、鳩は胸をはってククとなき、燕は音もなく、つばさをかえす。馬は鼻をならして飼葉をはみ、犬はほえもせず、尾をふりながら立っている。
草いきれ、煙のにおい、――こころもちタールのにおい、ほんのすこしかわのにおいも。大麻たいまはもう今がさかりで、重たい、しかし快い香りをはなつ。
深く入りこんだ、なだらかな谷あい。両がわには、根もとの裂けた頭でっかちの柳が、なん列もならんでいる。谷あいを小川がながれ、その底にはさざれ石が、澄んださざなみごしに、ふるえている。はるかかなた、天と地の尽きるあたり、青々と一すじの大川。
谷にそって、その片がわには、小ぎれいな納屋なやや、戸をしめきった小屋がならび、別の片がわには、松丸太を組んだ板ぶきの農家が五つ六つ。どの屋根にも、むく鳥の巣箱のついた高いさお。どの家も入口のうえに、切金きりがね細工の小馬の棟かざりが、たてがみをびんと立てている。でこぽこの窓ガラスは、七色なないろに照りかえる。よろい戸には、花をさした花瓶の絵が、塗りたくってある。どの農家の前にも、きちんとしたべンチが一つ、行儀よくおいてある。風をふせぐ土手のうえには、小猫がまりのように丸まって、日にける耳を立てている。たかい敷居のなかは、涼しそうに影った土間どま
わたしは谷のいちぱんはずれに、ふわりと馬衣をしいて寝そべっている。ぐるりいちめん、刈りとったばかりの、気疲れするほど香りのたかい^草の山また山。さすがに目のく農家の主人たちは、乾草を家のまえにまき散らした。――もうすこし天日にほしてから、納屋へしまうとしよう。その上で寝たら、さぞいい寝心地だろうて!
子どものちぢれ毛あたまが、どの乾草の山からも、のぞいている。とさかを立てたにわとりは、乾草をかきわけて、小ばえや、かぶと虫をあさり、鼻づらの白い小犬は、もつれた草のなかでじゃれている。
ちぢれた亜麻いろ髪をした若昔たちは、さっぱりしたルバシ力に、帯を低めにしめ、ふちどりのある重そうな長靴をはいて、馬をはずした荷車に胸でよりかかりながら、へらず口をたたきあっては、歯をむいて笑う。
近くの窓から、丸顔の若い女がそとをのぞいて、若者たちの高ばなしにとも、乾草やまのなかの子供たちにともっかず、声をたてて笑う。
もうひとりの若い女は、たくましい両腕で、ぬれそぼった大つるべを、井戸から引っぱりあげている。……つるべは、綱のさきでふるえ、揺れ、きらめく長いしずくを、はふり落す。
わたしの前には、年とった農家の主婦が立っている。格子じまの、ま新しい毛織りのスカー卜に、おろしたての百姓靴をはいている。
大粒の、がらんどうのガラス玉を、あさ黒いやせた首に三重みえにまきつけ、白毛しらがあたまは、赤い水玉を散らした黄いろいブラトークで包んでいる。そのプラトークは、光のうせた目のうえまで垂れかかる。
が、老いしぼんだ目は、愛想よくほほえんでいる。しわだらけの顔も、みくずれている。
そろそろ七十に手のとどきそうなばあさんなのに若いころはさぞ美人だったろうと、しのばせるものがある!
右の手の日にやけた指をひろげて、ばあさんは、穴倉から出してきたばかりの、上皮もそのままの冷めたい牛乳のつぼをにぎっている。壺のはだいちめん、ガラス玉のように露をむすんでいる。左の手のひらに、ばあさんは、まだほかほかのパンの大きなひときれをのせて、わたしにすすめる。――「あがりなさいませ、これも身の養いですで。旅のだんな!」
おんどりが、いきなり高い声をあげて、ばたぱたと羽ばたきした。それにこたえて、小屋のなかの小牛が、もうと気ながにないた。
「やあ、すばらしいカラス麦だぞ!」と、わたしの馭者ぎょしゃの声がする。
ああ、気ままなロシアのいなかの、満足と、安らかさ、ありあまる豊かさよ!その静けさ、その恵みよ!
思えば、帝京ツアリ・グラードの聖ソフィヤ寺院のドームの上の十字架**をはじめ、われわれ都会の人間があくせくすることすべて、なんの役に立つというのだろうか?
                  II.1878

【注】
* 異本に「六月」
** クリミア戦争など「東方問題」に対する世人への風刺

テキストの快楽(008)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(06)


     

 ドゥブローヴィノで馬車が備へた。それで前進する。トムスクまであと四十五露里といふ所で、 今度はトム河が氾濫して牧地も道も水浸しだから、先へは行けないと言ふ。また舟で渡らなければならない。そこでも、クラースヌィ・ヤール のときと同じ目に逢った。舟は向ふ岸へ行ってゐるが、 かう風が强く波が高くては、とても戾っては來られない。……仕方がない、待たう。
 朝になると雪が降りだして、二寸以上も積った(それが五月十四日である)。ひる頃からは雨になって、すっかり雪を洗ひ流した。夕方、太陽が沈むころ岸に出て、こちらの岸へ漕ぎ渡って來る舟が水流と鬪ふ有樣を眺めてゐると、霙まじりの雨に變った。……そのとき、雪や寒氣とまるで合はない現象が起った。私ははつきりと雷鳴を聞いたのである。敝者たちは十字を切って、これで暖かになるといふ。
 舟は大きい。先づ八九十貫からの郵便物を積み、 それから私の荷物を積んで、濡れた筵ですっかり覆ふ。……郵便夫は背の高い老人で、梱の上に腰をかける。私は自分のトランクに腰をおろす。私の足もとには、雀斑だらけの小さな兵隊が席を占める。外套は搾るばかり、 軍帽から襟頸へ水が流れる。
 「神よ、祝福あれ。さあ綱を解け!」
 柳の叢林のほとりを流れに沿うて下る。今しがた十分ほど前に馬が二頭溺れ、荷車の上にゐた男の子だけは柳の藪につかまつてやっと助かった、と橈子たちが話してゐる。
 「漕げ、漕げ、みんな話はあとでも出來るぞお」と、舵取がいふ 、「頑張れよう。」
 川を掠めて、雷雨の前によくある早風はやてが颯々と吹く。……裸かの柳が水面に糜いてざわめく、忽ち川は暗くなり、不規則な波が立ちはじめた。……
 「みんな、藪の中へ向けろよう。風さやり過すだ」と楫取が靜かに言ふ。
 舳は柳の藪の方を向いた。が橈子の一人がそのとき、荒れ模樣になると夜通し藪の中にゐなければならなくなる、それでも矢張り溺れるのは同じことだから、先へ進まうぢやないかと言ひ出した。多數決できめることになって、 やはり先へ進むことにする。……川はますます暗くなる。烈しい風と雨が橫なぐりに吹きつナる。岸はまだまだ遠く、萬ーの場合には縋りつける筈の柳の藪は、後へ遠ざかつて行く ……長い生涯に色んな目に逢つて來た郵便夫は、默り込んで、凍りついたやうに身動きもしない。橈子たちも默ってゐる。……小さな兵隊の頸筋が、 見る見る紫色に變る。私の胸は重くなる。もし舟が顚覆したらと、 そればかり考へる。……先づ第ーに半外套を脫がう。それから上衣を、それから……。
 だが、岸が次第に近くなつて、橈子にも元氣が出てきた。沈んだ胸も次第に輕くなる。岸まであと三間半の上はないと分ると、 急にはればれして、もうこんな事を考へる。
 「さてさて臆病者は有難いものだ。ほんのちょつぴりした事で、これほど陽氣になれる。」

[注記]底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた。

テキストの快楽(008)その2

◎ 槇村浩「日本詩歌史」(その3)

第二章 日本原始共産制時代の詩歌
詩学方法論の一例と日本語の特殊性――本来平和的な共産詩人の進歩的戦争に対する反省と苦悶――盛期第一期、狩猟的農業時代。女性による白鳥の歌の第一曲――盛期第二期、牧畜的農業時代。移民戦争の英雄酋長による白鳥の歌の第二曲――盛期第三期、社会主義的農業時代。原始的女性織工による白鳥の歌の第三曲――原始共産制時代没落の諸表象

 詩の解釈の方法論の一例として、次のようなものがある。
 「あっぱれ*、あな面白、あな楽し、あなさやけ、おけ!」
 これは日本の詩の内で最も美くしいもの、一つである。これだけ短い句の中に、これだけ原始共産社会の自由と野性を素朴に表現したものがあるだろうか。こうした小供の純真さは、長い間われわれに返ってこなかったのだ。
*はじめ「あわれ」と書き、のち「あっぱれ」にかえる
 あらゆる階級と身分の人々が同一の詩を口ずさむ時、彼等はおの/\の立場にしたがって異った解釈をするとはいえ、それはなを近似性を発音の中に秘めている。同じ時代の人々にとって、アクセントが変り、句読が断続された頃には、文字がこれらの詩の永久的な楔として、そして文字を知っているものゝみに通用する一方的な意義をもって現われてくる。
 文字のない思想の海面に次第にもり上った結晶物が凝結して文明の珊瑚礁を築く頃には、財産の海面にも共産社会を荒らすほどの父家長財産の珊瑚礁がもり上がっていた。しかも日本字の形成は、これほど複雑に分裂した社会と財産とをうつし出した字は世界に類例がないだろうと言われるほどで、しかつめらしい中国字の輸入から始まった。だから文字の秘密を握っている少数の貴族は、発音を少しも違えずに、意味をすっかり書きかえるとゆう見事な芸当をやってのけた。古語拾遺*には、この歌はこう記されてある。
 阿波礼、阿那於茂志呂、阿那多能志、阿那佐夜憩、飫憩
 これには更に挿話がつき、その字面を辿って、たんねんにその当時の意義を再現すればこうなる。
 波のごとそこはかとなく過ぎゆくものに、哀愁の楽しさをもって挨拶しよう
 日やけのせぬ真白な顔をふり立てるのは、何と殻物を茂らせる方法ではあるまいか
 多くの志が達するとは何と楽しいではないか
 この夜、竹葉の音を聞きながら一休みしよう
 自分をして粟飯を盛る葉と葉のさやぎの中に休憩せしめよ
    *岩波文庫黄三五— 一に収められている

 意義の転換期にいつも見られるように、本来かんたんなこの歌は、こんなにも複雑に捻じ曲げられている。「あはれ」の三字の中に含まれた快楽から出発して、悲喜こもごもの意味に変り、やがて全く哀愁に帰してしまうまでの三段階――あらゆる言語と社会の上層建築の表現に共通した三段階は、日本語の中で最も代表的なものの一つである。「おもしろい」愉快さは、耕作せぬ貴族の顔の白さであり、働かずに茂った穀物を手に入れることである。「おけ!」とゆう楽しい食事の休憩は、休憩そのものよりむしろ食器そのものの方え問題の重心を持ってきたために、食器と食器との葉ずれから、食料分配のずれ合いまで転化されている。文明はこの名詩の原始的な意義と一しょに、ー切の財産と人民の原始的な意義まで葬ってしまった。邪魔っけな私有財産の珊瑚礁が、文字の珊瑚礁を征伏して、詩を再び人民のものとし、この時代の失われた自由と純真さを再生産するまでに、どれだけ多くの年代が経過したことだろう。

 記録をたどってたどりうる日本原始共産制時代は、三期に分れる。それは背后に数十万年の乏しい、だが決して貧しくない生活の記録を背負っている。貧乏はいつの世でも、断じて欠乏ではない。
この期間に、詩がいかにして幼稚な形から発達してきたかは、文書の上には何等残されていない。暗黒な、だが健全な歴史の日本海が、すっかり一切の消息をのみこんでしまった。南北からこの列島に押しよせてきた人類の潮が、高麗半島渡来の原始文明を、主として出雲と日向を中心にして開展させ、やがて大和え向って、主流を押し流そうとした時代に、芸術もこの狭い島々の割合に広い社会の上で花を咲かせたのだ。
 芸術は平和を愛する。いかに食糧問題上やむをえなかったとはいえ、種族と種族との間の戦いは、決して快いものではなかった。一種族の間では、共同の利益とほとんど全員によって開かれた裁判会議が、あらゆるいさかいを調停した。そして出雲、日向、瀬戸内海と九州沿海で最もよく痕跡を残したように、言語の似かよった近隣種族の間では、同盟会議が共産主義の協力の翼をはった。だがそれ以上は、しつような言語が食糧と共同戦線をはって、協同社会の限界を形造った。この隙間を埋めつ、戦い進むことは種族の義務であり、これを歌いぬくことは共産詩人の義務だった。だが彼等はこの協同の限界に、鋭く芸術の限界を見た。
 戦いの結果、結婚か殺戮かヾ、彼等の融合の道として残されていた。共産主義は原始的にも、全か無かを欲する。現在の共産主義の上では世界的にわけもなく統一できるにかゝわらず、自由な社会と自由な社会との間の異民族の平和協定が、こうした物質欠乏とゆう古代的限界性があったばかりにどんなに障えられたことだろう。この時代に剣をとって戦うことは、各種族同盟の宇宙間での正義だった。だが詩人は敏感に、こうした戦争さえ不合理であったことを感じなかったろうか。だからこそてきめんに、残された歌の種類の中では、極端なジンゴイスト*でない限り、誰が見ても明瞭なように、戦いの歌は芸術的には最も拙劣だつた。(大和平定の際の軍歌を見よ)*
*侵略主義者、軍国主義者
*『古事記』中つ巻、歌謡番号ーー―一五
 だが愛欲の歌は何と美くしいことだろう。それは種族と種族が共産主義の翼を共にはるための、協商の美くしいカン<ママ>フラージュだった。個人的な恋愛は財産が個別化されぬ内は不可能だったから。しかし原始共産制時代に任意の恋愛が存在しなかったと主張するブルジョア民主主義的俗説家の亜流どもは、(こんな考えをもっているものは、知らず知らずの内に最后の革命の問題を混同するほどブルジョア民主主義が骨の髄にしみついている。)日本の古詩の前に死している。愛欲の集団は、この交流不便な時代に、弓矢を手にして、渡り鳥のように百何十里を旅行しては、愉快な原始的結婚式を挙行した。財産の独占性に愛欲の独占性が伴うかぎり、たしかに不合理はあった。だが愛欲は戦争にくらべて、いつの場合にもはるかに平和的である。そして真実な意味で平和的であるかぎり、芸術の豊かな揺籃だった。
 日本列島の上で数十万年を経過したところの原始共産制社会最后の約六百年は、社会的時弋に相応して、詩も三期に分れる。

 (第一期)雑草としての穀草が、半定住しはじめた種族の所有物として取り入れられはじめた狩猟的農業時代。穀草の自然からの分離は、土器の土からの分離に相応する。詩は種族同盟の開花期としての、生産と愛欲の美くしい連契の最盛期を形造る。
 古事記には次の対歌*がある。
*上つ巻四大国主の神の条

 (八千矛神)――八千矛の、神の命は、八島國、妻ぎかねて、遠々し、高志(こし)の国に、さかし女を、有りと聞かして、くわし女を、有りと聞こして、さよばいに、在り立たし、婚いに、在り通わせ、太刀が緒も未だ解かずて、おすいをも、未だ解かねば、乙女の 鳴すや板戸を、押そうらい、吾が立たせれば、引こずらい、吾が立たせらば、青山に、ぬえ*は呼き、野つ鳥、雉はとよむ、庭つ鳥、かけは鳴く、うれたくも、鳴くなる鳥か この鳥も、打ち病めこせね、いしたうや、天馳使あまはせづかい、事の、語り言も、こをば
 (沼河姫)――八千矛の、神の命、ぬえくさの、にしあれば、吾が心、浦渚の鳥ぞ、今こそは、千鳥にあらめ、後は、平和にあらんを、命は、な死せたまいそ、いしたうや、天馳使、事の、語り言も、こをば
 青山に、日が隠らば、野羽玉(ぬばたま)の、夜は出でなん、朝日の、笑み栄え来て、拷綱(たくづの)の、白き(ただむき)沫雪(あわゆき)の、わかやる胸を、そ叩き、叩きまながり、真玉手、玉手差しまき、股長(ももなが)に、宿さんを、あやに、な恋いきこし、八千矛の、神の命、事の、語り言も、こをば
*鵺は鳥の名。トラツグミの別名

 八千矛の神とは、おきまりの八の氏族の原数でわりきれた全種族のかなり大きな人数だったらしい。沼河姫とは、沼河地方の種族の象徴だったろう。問題は性的な男性が女性に結婚を申しこんだのではなく、すぐれた文化の種族がおくれた文化の種族と結婚によって融合したことにあった。性別に関しては、古来プロレタリアートの出現するまで、どんな意味でも(哲学的にも、芸術的にも、性欲的にも)ありのまゝの男と女として区別されたことはなかったのだから。特に名に武器の矛がなのられていながら、記述に武力的な分子が少しもないのは、どんなに原始社会では、問題が平和にはこんだかを証明している。戦いの結果は、こゝでは最も好都合にはこんでいる。
 前の呼びかけの歌では、鵼*と雉と鶏とは、生産の矛盾から激発された敗北の卜—テムだった。狩猟時代のこれらは、山と野と家の代表的な鳥類として、まだ山野に重心を置いたがんこな自然に近い生産の部分と、家内財産にくづおれた部分とを現わしていた。いま女性は、しば/\変形する水辺の千鳥である。それは流れのように空中に浮動する。そしてもっと固定的なものについて、死の予期をもって結婚する。生産の流れの中で流動するものにとって、固定は死である。しかし固定が新らしい流動の起点となる限りにおいて、この二つのもの、結婚による接合は、縦にも横にも必然的である。だが悲しいことには、原始共産制の進行は、科学共産制の進行と逆に、一つ一つの歴史のコマが、社会の空虚さを一つ一つえぐって行くのだ。
*鵼は鶴に同じ
 それは崩壊する原始共産制に対する白鳥の歌*の最初の曲だった。だが穀物が前面に表われるまでは、それはまだ「死の平和」であるだろう。
*白鳥の歌。『古事記』中の巻五、景行天皇・成務天皇の条に白鳥の陵の記事がある

 (第二期)広汎な有益植物としての穀草が、もっと固定的に定住しはじめた種族の所有物として自然から抽象しうる限度に応じて、集約的にされた牧畜的農業時代。もっと物資に富んだ地域では牧畜生産を生産にまで拡大しえたのだが、日本では穀草そのものが牧草的形態として、種族民そのものが全体としての平等な家畜化えの経路を、まだこの時代には直接破綻の局面を見せぬほどの共産的平和さをもってたどっていた。序に、女系が男系に漸次変遷して行ったのもこの時代だった。
 穀物の発達がこうした新段階を示したのは、大和の種族たちが新らしい団結を築いてから、十代の酋長を経過した後だった。四道酋長*や日本武尊や息長帯姫命*を中心とする四方えの移民戦争、歴代の事業として示されている灌漑事業の発展は、農業が生産の前面に押し出されるまでの偉大な準備期の基盤となった。それは大陸文明との接触によって、急速に七代の酋長を経過した後、第三期え突入した。
*四道将軍。崇神天皇十年、教化のため四人の人物を北陸・東海・西道・丹波に派遣。『日本書紀』巻五
*おきながたらしひめのみこと。神功皇后の名
 白鳥の歌は、女性によってヾはなく、移民戦争の英雄*によって代表された。社会的発展による共産主義の翼の拡大は、同時に鉱物と畜産に乏しい日本原始の共産主義の最后の限界線え、ます/\強く迫って行く不安を製造せざるをえなかった。少数の権力者の恣意による戦いでなかったばかりに、生産の矛盾による悲劇は、軍事酋長自身がほとんど双肩に負わねばならなかった。詩と神話は、こうした形で種族の白鳥の歌を奏でた。日本武尊は、ノボス(煩悩の野)で土地の个所々々に失われた太刀を求めながら、青垣山のた、なづく美くしい倭を讃える国思歌を歌いつゝ斃れた。
*倭建の命

 倭は、国のまほろぎ、たゝなづく、青垣山、隠れる、倭し、美し*
*『古事記』中つ巻、歌謡番号三一

 故郷がこんなに美化された時、それは広大ないくつかの種族同盟の中で、特殊の故地としての最も原始的な種族同盟が、生産の前衛地として、くっきり組織されたことを証明する。崩れゆく自由を、常に過去の楽園として、この故郷を想像する習慣を人民に与えたし、またそれが中央集権の旗幟の萌芽として、おしたてられればおしたてられるほど、未来の楽園として、宗教的な楽土のさゝやかな要素をさえ培かったのだった。彼は憧れの故郷に到達せずに、白鳥となって昇天した。酋長をさきがけとして人民は心の故郷に帰れなくなった。妻たちと子供たちは、白鳥を^追いながら彼等の酋長の前に、葛にからまれたー本の田の稲幹*が立っているのを見た。白鳥の歌のこの部分は、原始共産制が最后の段階として原始社会主義え逆転する前夜の、悲痛な挽歌*だった。
*いながら。稲の茎
*『古事記』中つ巻歌謡番号三五〜三八
 (第三期)これはもはや穀草以上のものである。穀物が主食として生産の最重要部面に姿を現わした時代である。大雀命*が酋長に就任して以来、一本の稲幹は原始共産制最后のタブウとして、大風のように揺れはじめたのだ。
*大雀命 おおさざきのみこと。仁徳天皇
 大雀命は移民の旅をつヾけながら、瀬戸内海の航行に詩の断片を残した。それはうすっぺらにしきのされて、全面を覆った愛欲の稲幹の歌だった。全面的なために、表面白鳥の空虚さはなかった。だがその裏面は、血族集産制のいびつな発達に伴い、実にうすっぺらとなりつ、あるのを免れなかった。
 農業と幼稚な家内工業は緒についた。女性は静かに、原始織機をそなえた寝室に坐って配偶者の訪問を待っていた。
 わか背子の、くべき宵なり、さゝがにの、くものふるまい、今宵知るしも*
*『日本書紀』巻13 允恭天皇八年の条

 これはこうした女性のすべての歌—生産器具に次第に定着づけられようとする成年氏族えの候補者をひっくるめて、次代の半家族奴隸を準備したものらすべての歌だった。「さゝがに」は笹蟹と笹が嶺の二つを、「くも」は蜘蛛と雲の二つを意味する。それは生産用具としての卜—テムめいた鉄器の鉄であったと共に、古代の共産制度をひとつひとつ切断して行った金属器具だった。鉄器は日本では稀ながら、また稀だったヾけこの時代では特にこうした下からの連鎖の切断と、上からの連鎖の集約との役目を背負わされた。それは彼等の平和なる社会の、地平線のかなたから湧き起った、暗い「笹ケ嶺の雲の振舞」でもあった。
 農業の進展は、(かるの)酋長と衣通(そとおし)姫*との恋愛詩を境にして、国家の形成にまで生産を押し進めてきた。彼等は血族集産制の飽満期に常套的なタブウと、原始共産制没落の前奏曲としての氏族から家族えの財産の改編を意味する盟神探湯*を犯したゝめに、死にまで追放された。以前の第二期には、酋長夫婦は心の故郷に迫りながら追いつくことのできぬ空隙を、生と死を隔て、離別の白烏の歌を歌った。この第三期では、逆に心の故郷から離れながら追いつくことのできぬ空隙を前にして最後の山餅の歌が歌われた。
*『古事記』下つ巻三 允恭天皇の条
*くかたち。神明裁判の一つ
君が行き、け長くなりぬ、山釿やまたづの、迎えを行かん、待つには待たじ*
*『万葉集』九〇

 山釿*と呼ばれた建木は、後代では呂氏春秋にもあるように、封建的圧制権力の集中表現となった。この時代にはそれは共同の山釿であり、いわヾ上層下層建築を通じて宇宙の兄妹の系図が奴隸の夫婦の系図と入れ替ろうとする刹那の、原始共産制の破滅の歌を奏でる楽器だった。
*山祈 やまたづは、すいかずら科の落葉低木、にわとこの古名
 そして圧制の時代がきた。記紀はじめすべての文書は、一せいに歴史はじまって以来の日本の最大の暴君について、特筆大書している。惨殺、クーデタ—、侵略戦争、共同倉庫の京奪、女生と奴隸に対するはてしなき悪行—これが大悪天皇と呼ばれた雄略天皇の治世だった。四五六年、奴隸国家は強圧的に成立した。伊勢の采女は残虐な死刑を自ら贖おうとした時に、槻の歌を歌って命を乞うた。それは宮廷に生い茂った三重の枝から成る槻について語られていた。「上つ枝は、天を覆えり、中つ枝は、吾妻を覆えり、下つ枝は鄙を覆えり、上つ枝の、枝の末葉は、中つ枝に、落ち觸らばえ、中つ枝の、枝の末葉は、下つ枝に、落ち觸らばえ、下つ枝の、枝の末葉は、あり衣の、三重の子が、さがせる、瑞玉盃に、浮し脂、落ちなづさい、水こおろに、こおろに、是しも、あや
にかしこし、高光る、日の御子*」
*『古事記』下つ巻、五、雄略天皇の条

 それは統制せられ、その中に社会層の分化されたところの差別社会の肖像だった。天皇の盃が、その全貌を写していた。あの第三期の発端の代表的大雀命の結婚の際、三重の花橘の枝について歌われた結婚式の歌を想い起こしてみよ。
 いざ子ども、野蒜つみに、蒜つみに、わが行く道の 香ぐわし、花橘は、上つ枝は、鳥居枯らし、下つ枝は、人取り枯らし、三栗の中つ枝の、ほつもり、赤ら乙女を、いざさらば、好らしな*
*『古事記』中つ巻、七、応神天皇の条

 こゝでは、宗教の萌芽をなした古制と、浮揚した上層建築の「鳥」と、こうした矛盾がやゝ抽出しはじめたにかゝかわらず、共産制の埒内(らちない)にあったゝめに、まだ抽象化された下層建築としてしか現われていない「人間一般」との懸隔が作られているとはいえ、生活の保障をもつ「中つ枝」に自由の「赤ら乙女」はなおなお酋長の妻たるに適わしいものとして保存されていた。わづか一世紀あまりの間に、社会建築の三重構成は何と変化したことだろう。三重の調和は、大悪天皇に刃向った最后の民主酋長の歯型と共に、虐殺の墓に埋葬されてしまった。
 詩が全体として人民のものでなくなった時代の素描は、こうだった。この時代以后、俄然詩が宮廷化したこと、及び芸術的価値の急速な低落が、社会の転換に応じて、日本詩史に一時期を画したことは、何人にも疑う余地はない。蒙昧政策と弾圧政策は、人民をしてたヾ屈従の歌をしか歌わしめぬのだ。
 芸術は永久に社会自体から去ったかのようだった。こゝにはすでに和解しがたい、貴族と奴隸との芸術の対立があった。国民の大部分は、知らず/\の内に、大陸からの封建的影響の顕著な、早熟な父家長的半族奴制の中に落しこまれた。
 人類の小供は口笛を吹き、歪められた日本におさらばを告げた。「人は再び小供になることは出来ない。もしなったら馬鹿になるだろう。」欺かれた童心の再生産が、小供になろうとして誤って痴呆症になった大人の醜い姿を、詩の上で疑い深い芸術の本質としてさらけ出すことが、あらゆる社会的欺瞞と共に、この時から始まったのだ!

テキストの快楽(008)その1

◎第一線の総合病院の新しい小児科をめざして‐社会医学を包括する小児科学の実践‐今村雄一先生の業績

   ・今村雄一先生の略歴
ー九一七年(大正6・5・9) 島根県農村の開業医の長男に生れる(簸川郡多岐町大字口田儀)
ー九三九年 旧制松江高等学校卒
ー九四二年 京都帝国大学医学部医学科卒
  〃   附属医院副手
ー九四三年 松江赤十字病院小児科医員
一九四八年    〃    副医長
ー九四九年 田儀村営診療所長(父の開業を継ぎ移管)
ー九五一年 医療生鳥取診療所長(初代)
ー九五五年 耳原病院小児科医長
ー九六九年 耳原総合病院副院長
ー九八二年 退 職

   大衆団体歴

ー九四八年 新日本医師協会幹事
ー九五〇年〜五一年 (松江大衆診療所)松江勤労者健康管理協会副理事長
ー九ハー年〜八二年 大阪民医連理事(六八年〜七四年 大阪民医連会長)
一九六九年〜七四年 全日本民医連理事
一九七四年〜七八年 全日本民医連評議員会議長
ー九七二年 日本ベトナ厶友好協会(大阪)理事
一九七三年 大阪自治体問題研究所理事
ー九七一年 大阪保育運動連絡会理事
ー九七四年 ひまわり保育園理事長
ー九八〇年 保育研究所理事(東京)

   活動歴
ー九四一年 京大医学部結核研究会調査活動
 (四二年 治安維持法違反事件逮捕)
ー九四八年 ジフテリヤ注射禍被災者同盟
      松江赤十字病院労組組織
ー九五四年 山陰民医連創設に参加
ー九六〇年 ガランタミン注射 ポリオ闘争
ー九六七年四月 堺市長選挙に立候補
ー九七一年四月  〃
ー九七二年一一月 〃
一九七六年一一月 〃
ー九八〇年一ー月 〃

   ・せみの鳴く声 —わが幼き日—
         今村雄一
 暑い夏が来て、せみの鳴く声を聞くと、ふつと淋しいような気分になることがありました。戦地でも、旅行の途中でも経験しました。
 私は長男でした。次の弟は栄養失調と腸炎で二歳位でなくなり、次の妹は生後一ヵ月余りでなくなりました。そして私が五歳余りになった、夏のせみの鳴くある昼すぎ、四番目の子で三男の弟が、生まれました。一時間後に産後出血で母は二十八歳の若さでなくなりました。
 祖父も、父も医師でした。お手伝いさんが外で遊んでいた私を泣きながら横だきにして、母の所へ連れて行きました。郵便局長の伯父や、村長の所に嫁していた伯昌が枕もとで見守っていました。父が往診から帰ったのはず一っと後でした。
 母は母乳が出ないので私をはじめ二人の子どもは「ラクトーゲン」というオ—ストラリアの粉乳で育てられました。母を失った弟は隣村の農家にあずけられ、乳母の乳で育ちました。
 私は幼い時は、「手にゃわず」(手におえない子)と云うあだなで呼ばれました。気に入らないと、道路でもひっくり返って、要求を通そうとしました。母には通用せず、放って帰りました。悪いことをして、叱られ、はだしで裏の畑に逃げますと、母もはだしで追いかけてつかまえられました。倉に入れられて、戸を閉められました。中はまっ暗でした。小便が出ると云ってうそをついて出してもらつた事もありました。本当に倉の中で鼻血が出た事がありました。「狼少年」と一緒で仲々出してもらえませんでした。出してくれた祖母に、母は叱られました。
 たたかれても、倉に入れられても、私の「手にゃわず」は治りませんでした。又外から帰ると「おかさん」と母の膝にだきついたものです。母は裁縫しながら、遠くをぼんやり見ていた事をおぼえています。
 第二の母を迎えました。学校の先生をしていた人で、かわいがってくれて、私はなついていました。色々教えてくれ、悪いことをすると叱られ、弟も洋服だんすに入れられました。
 出雲の封建的な家庭では、継子いじめとして、数ヵ月後、里の祭りに行ったきり、父も好いていたようなのに、自分で「三下り半」を書いて、再び帰って来ませんでした。
 次の母は私が十歳の折来ました。学校も出ていない不幸な人でした。私は周りから云われた事もあり、本当になつきませんでした。
 戦争から帰った折、眼に涙を浮かべて喜んでくれました。私もー児の父となっていて、母の苦労も分かり、心も通うようになりました。父は八十歳でなくなり、母は二年後七十八歳でなくなりました。
 私は今、孫が三人居ります。もう三ヵ月すると五人に増えます。夏のせみの声を聞いても淋しくありません。そして二歳になる孫は私の幼い日のように、天王寺駅でひっくりかえって娘を困らせています。
       (ちいさいなかま No.76、一九七七年九月号)

注意】記事の転載はご遠慮ください。

テキストの快楽(007)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(05)


     

 何といふ氾濫だらう!コルイヴァニでは驛馬車が出ないと斷られた。オビ河畔の牧地が水浸しでとても行けないといふ。郵便までが差止めてあつて、特別の指圖を仰いでゐる所だといふ。
 驛の書記は、 私に次のやうな道を取れと勸めて吳れた。自前の馭者を傭って先づヴィユンとか云ふ所へ行く。それからクラースヌイ・ヤールへ行く。クラースヌイ・ヤールで小舟に乘って十二露里行くと、ドナブローヴィノに出る。そこなら驛馬車が出る筈だといふ。で、敎へられた通りにする。先づヴィユンへ行き、それからクラースヌイ・ヤールへ出る。……そこでアンドレイといふ百姓の家に連れて行かれる。彼は舟を持ってゐるのだ。
 「はあ舟かね、舟はあるでさ」とアンドレイが言ふ。彼は亜麻色の鬚を生やした、五十歲ほどの瘦せた百姓である。――「舟はあるでさ。今朝がた早く、議員さんとこの祕書の人をドゥブローヴィノへ乘せて行きましたが、追っつけ戾りましよ。ま、待つ間に茶なりと召上れ。」
 お茶を飲んで、 それから羽根蒲圍と枕の山に攀ぢ登る。……目が覺めるたびに舟のことを訊く。――まだ歸って來ない。寒くないやうにと、女房たちが座敷の煖爐を焚いて、序でに皆でパンを焼く。座敷の中が暑いほどになり、パンはすっかり燒け上ったが、舟はまだ歸らない。
 「とんだ野郎に漕がせてやりましただ」と,主が頭を振り振り歎息する、「まるで女みたいに愚圖な奴で、 風が怖くて船が出せんと見えます。まあ御覽なされ、吹くこともえらう吹きますわい。もう一杯茶なりと上りなされ。さぞ退屈でがせう。……」
 ぼろぼろの羅紗外套を着た跣足の馬鹿が一人、雨にぐしょ濡れになって、 薪や水桶を入口の檐下に引摺り込んでゐる。彼はひっきりなしに座敷の私の方を盜み見する。櫛を入れたこともなささうなもぢやもぢやの頭を覗かせて、何か早口に言ふかと思ふと、犢のやうにもうと唸ってまた隱れる。そのびしょ濡れの顔や瞬かぬ眼を眺め、 その聲を聞いてゐると、自分までが間もなく何か馬鹿なことでも言ひ出しさうな氣がする。
 晝過ぎになると亭主のところへ、とても背の高いひどく肥った百姓がやつて來た。幅のひろい頸筋はまるで牡牛のやうで、大きな握り拳をしてゐる。どうやら脂肪ぶとりのロシヤの酒場男に似てゐる。ピヨ —トル・ペトローヴィチと呼ばれるこの男は隣村の住人で、弟と一緒に五十頭の馬を持ってゐる。自前の馭者をしたり、宿場の卜ロイ力を請負ったり、百姓をしたり、家击の賣買をしたりしてゐるが、今日は商用でコルィヴァ二まで行くのだといふ。
 「旦那は,ロシヤからですか」と彼が私にきく。
 「左樣。」
 「一ぺんも行ったことがないでさ。この邊ぢやトムスクへ行つて來ただけでも、まるで世界じゆう廻って來でもしたやうな顏をしてゐまさ。新聞で見ると、 もうぢき此處まで鐵道が敷るそうですが。旦那、そりやー體どういふ工合のものですかね 機械が蒸氣で動く――ここまではよく分ります。たが、 假にまあ村を通ることになつたとすると、百姓家を壊したり人間を壓し潰したりはしませんかね。
 で說明してやると、謹聽しながら時々「へえ、そんなもんですか」といふ。話してゐるうちに、この脂肪ぶとりの男はトムスク へもイルクーツクへもイルビートへも行ったことがあり、女房持ちではなく、獨學で讀み書きを覺えたことが分った。トムスクへしか行ったことのない亭主に對しては一種鷹揚に構くて、厭々なかん聽いてやるのだといった風を見せる。何かお撮みなさいとか、ひとつ如何ですなどといはれると、「いやお構ひなく」と慇懃に答へる。
 亭主と客がお茶の卓に坐る。この家の嫁と見える若い女方が、お茶を盆にのせて出し恭ゝしくお辭儀をする。二人は茶碗を取って默つて飲む。傍の暖爐のほとりにサモヴァルが沸ってゐる。私はまた羽根蒲團と枕の山に攀ぢ登り、横になって本を讀む。それから下に降りて書く。長い長い時が過ぎる。が若い女房は相變らすお辭儀をして、 亭主と客は相變らずお茶を飮んでゐる。
 「ベ、バア」と、表の檐下で馬鹿が叫ぶ’。「 メ、マア!」
 だが舟は歸らない。外は暗くなり、座敷には牛蠟がともされる。ヒョートル・ペ眺め、 その聲を聞いてゐると、自分までが間もなく何か馬鹿なことでも言ひ出しさうな氣がする。
 晝過ぎになると亭主のところへ、とても背の高いひどく肥った百姓がやつて來た。幅のひろい頸筋はまるで牡牛のやうで、大きな握り拳をしてゐる。どうやら脂肪ぶとりのロシヤの酒場男に似てゐる。ピヨ —トル・ペトローヴィチと呼ばれるこの男は隣村の住人で、弟と一緒に五十頭の馬を持ってゐる。自前の馭者をしたり、宿場の卜ロイ力を請負ったり、百姓をしたり、家击の賣買をしたりしてゐるが、今日は商用でコルィヴァ二まで行くのだといふ。
 「旦那は,ロシヤからですか」と彼が私にきく。
 「左樣。」
 「一ぺんも行ったことがないでさ。この邊ぢやトムスクへ行つて來ただけでも、まるで世界じゆう廻って來でもしたやうな顏をしてゐまさ。新聞で見ると、 もうぢき此處まで鐵道が敷るそうですが。旦那、そりやー體どういふ工合のものですかね 機械が蒸氣で動く――ここまではよく分ります。たが、 假にまあ村を通ることになつたとすると、百姓家を壊したり人間を壓し潰したりはしませんかね。
 で說明してやると、謹聽しながら時々「へえ、そんなもんですか」といふ。話してゐるうちに、この脂肪ぶとりの男はトムスク へもイルクーツクへもイルビートへも行ったことがあり、女房持ちではなく、獨學で讀み書きを覺えたことが分った。トムスクへしか行ったことのない亭主に對しては一種鷹揚に構くて、厭々なかん聽いてやるのだといった風を見せる。何かお撮みなさいとか、ひとつ如何ですなどといはれると、「いやお構ひなく」と慇懃に答へる。
 亭主と客がお茶の卓に坐る。この家の嫁と見える若い女方が、お茶を盆にのせて出し恭ゝしくお辭儀をする。二人は茶碗を取って默つて飲む。傍の暖爐のほとりにサモヴァルが沸ってゐる。私はまた羽根蒲團と枕の山に攀ぢ登り、横になって本を讀む。それから下に降りて書く。長い長い時が過ぎる。が若い女房は相變らすお辭儀をして、 亭主と客は相變らずお茶を飮んでゐる。
 「ベ、バア」と、表の檐下で馬鹿が叫ぶ’。「 メ、マア!」
 だが舟は歸らない。外は暗くなり、座敷には牛蠟がともされる。ヒョートル・ペトロー ヴィチは、私が何用で何處へ行くのか、 戰爭は本當にあるのか、私のピストルは幾らするのかなどとしきりに訊いてゐたが、流石の彼ももう喋り疲れたらしい。
 默って食卓に頰杖をついて、何やら考へ込んでしまつた。蠟燭が燃えくづれてしんになつた。扉が音もなく開いて、馬鹿がはいって來て横に腰かけた。腕は肩まで裸かになってゐる。瘠せ細って、まるでステッキみたいな腕だ。腰をおろして蠟燭にじっと見入つた。
 「出てけ、出て行けつたら」と亭主が言ふ。
 「メ、マア」と彼は唸ると、腰を跼めて-表へ出て行った、「ベ、バア。」
 雨が窓硝子を打ってゐる。……亭主と容は鴨のス—ブを食べはじめた。二人とも食べたくはないのだが、 退屈凌ぎに食べてゐる。……それが濟むと若い女房か羽根蒲團や枕をゆかに敷く。亭主と客が着物をぬいで、並んで橫になる。
 何といふ退屈さだらう。氣を粉らさうと、 生れ故鄕のことを考へて見る。そこはもう春だ、冷たい雨が窓を打ちはらない。だがそのとき、灰色の沈滯した無為の生活が、意地惡く思ひ出されて來る。あすこでも矢張り蠟燭は崩れてしんになり、 人々が矢張,「メ、マア。ベ、バア……」と叫んでゐるやうに思はれる。引返す氣はしない。
 毛皮の半外套を自分で床に敷き、 橫になって枕許に蠟燭を立てる。ヒョ—トル・ペトローヴィチが首をもたげ.て、私の方を見てゐる。
 「旦那、私はかう思ふんですがね……」と彼は亭主に聞えぬやうに小聲でいふ、「シベリヤの人間は無學で不運な奴ら・たとね。半外套だの捺染更紗だの瀬戸’物だの釘だのと、ロシヤからはどんどん送って來るんですがね、奴等と來たらまるで能なしなんです。地面を耕すことと、自前馭者でもするほかには、 何一つしやしません。……魚ひとつ漁れないんですからね。退屈な人間どもですよ。まったく堪らないほど退屈な奴等でさ。奴等と一緖に暮らしてゐると、 際限なく、 肥って來ます。魂や智慧の足しになるものと來たら、 これつぱかりもありませんや 憐れ憫然たる次第ですよ。それでゐて一人一人を見るとみんな相當な人間で、氣立は柔しいし、盜みをするではなし、喧嘩を吹掛けるぢやなし、大して酒飮みでもありません。人間ぢやなくて、まあきんみたいな連中です。ところが見てゐると、世の中のためには何ひとっせず、 一文の値打もないくたばりやうをするんです。まるで蠅か、 さもなけりや蚊みたいなもので。一體何のために生きゐるのかつて、 ためしに訊いて御覽なさい。」
 「働いて食べて着てさへゐれば」と私が言ふ、「その上に何が要るかね。」
 「やっぱり人間てものは、どういふ必耍があって生きてるか知ってゐなけりなりますまい。ロシヤの人間はきっと知ってゐるでせう。」
 「いいや、知らずにゐる。」
 「そんな筈はない」と、ピョートル・ペトローヴィチは少し考へてから言った、「人間は馬ぢやありません。ざっと申せば、このシベリヤの土地には、『道』といふものがないのです。よしんば何かそんなものがあつたにしても、とうの昔に凍つてしまったのです。人間といふのは、 二の『道』を求めなければならないのです。私は金も勢力もある百姓です。評議員にも押しが利きます。ここにゐる亭を明日にも酷い目に逢はせることだつて出來ます。この男を私のところで牢死させ、 子供たちに乞食をさせることだつて出來ます。さうしたところで私には何の咎めもなくこの男こは可の保護も與へられますまい。つまり、『道』も知らずに生きてゐるからです。……私らが人間だといふことは 、お寺の出生簿に書いてあるだけです。ピョ—トルだ、 アンドレイだといって、その實は狼なんです。それとも神樣の眼から見たら。これは笑ひ事ではありません。 怖ろしい事です。ところがこの亭主は横になつて、額に三度十字を切ると、それでもういい氣でゐます。 甘い汁を吸って、小金を蓄め込んで、ひよつとしたらもう八百ぐらゐは蓄まってゐるでせうが、 まだ齷齪と新しい馬を買ひ足して、ー體それが何になるのか自分の心に訊いて見たことが一度だつてあるでせうか。あの世へ持つて行けはしませんからね。いや、よしんばそんな疑問を起して見たにしても、とても分るものですか。頭が空っぽなんで。」
 ピョートル・ペトローヴィチは長いこと喋つてゐた。……だがそれもやつと濟んだ もう白々と明けかけて、鷄の鳴く聲がする。
 「メ、マア」と馬鹿が唸る、「ベ、バア。」
 だが舟はまだ歸らない。

テキストの快楽(007)その2

◎木村久夫遺書「きけわだつみのこえ」より


木 村 久 夫き む ら ひ さ お
  一九一八年(大正七)四月九日生。大阪府出身
  髙知髙等学校を経て、一九四二年(昭和十七)四月、京都帝国大学経済学部に入学
  ー九四二年十月一日入営
  ー九四六年五月二十三日、シンガポールのチャンギー刑務所にて戦犯刑死。陸軍上等兵。二十八歳

 死の数日前偶然にこの書*を手に入れた。死ぬまでにもう一度これを読んで死にこうと考えた。四、五年前私の書斎で一読した時のことを想い出しながら、「コンクリート」の寝台の上で遥かなる故郷、我がかたを想いながら、死の影を浴びながら。数日後には断頭台の露と消える身ではあるが、私の熱情はやはり学の道にあったことを最後にもう一度想い出すのである。
 この書に向っているとどこからともなくずる楽しさがある。明日は絞首台の露と消ゆるやも知れない身でありながら、尽きざる興味にきつけられて、本書の三回目の読書に取り掛る。昭和二十一年四月二十二日。
*田辺元『哲学通論』。

 私はこの書を充分に理解することが出来る。学問より離れて既に四年、その今日においてもなお難解をもって著名な本書を、 さしたる困難もなしに読み得る今の私の頭脳を我ながら有りがたく思うと共に、過去における私の学問生活の精進を振返って、楽しく味あるものと喜ぶのである。

 私の死こ当っての感想を断片的に書きつづってゆく。紙に書くことを許されない今の私にとっては、これに記すより他に方法はないのである。

 私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。年齢ねんれい三十に至らず、かつ、学なかばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。波瀾はらんの極めて多かった私の一生は、またもやたぐいまれなー波瀾の中に沈み消えて行く。我ながらー篇の小説を見るような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観ていかんが湧いて来た。大きな歴史の転換の下には、私のようなかげの犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである。

 日本は負けたのである。全世界の憤怒ふんぬと非難との真只中まっただなかに負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んで行くのである。これで世界人類気持が少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種をのこすことなのである。

 私は何ら死に値する悪をした事はない。悪をしたのは他の人々である。しかし今の場合弁解は成立しない。江戸のかたきを長崎でたれたのであるが、全世界から見れぱ彼らも私も同じく日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように见えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやというほど他国人にいて来た事であるから、あえて不服は言い得ないのである。彼らの眼にとまった私が不運とするより他、苦俏の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んで行ける。

 今度の事件においても、最も態度のいやししかったのは陸軍の将校連に多かった。これに比すれば海軍の将校連は遥かに立派であった。

 このたびの私の裁判においても、また判決後においても、私の身の潔白を証明すべく私は最善の努力をして来た。しかし私が余りにも日本国のために働きすぎたがため、身が潔白であってもせめは受けなければならなくなった。「ハワイ」で散った軍神も、今となっては世界の法を犯した罪人以外の何者でもなくなったと同様に、「ニコバル」島駐屯ちゅうとん軍のために敵の諜者ちょうじゃ〔スパイ。敵の通報者〕を発見した当時は、全軍の感謝と上官よりの讃辞を浴び、方面軍よりの感状〔戦功に対して上官から与えられる賞状〕を授与されようとまでいわれた私の行為も、一ケ月後起った日本降伏のためにたちまちにして結果は逆になった。その時には日本国にとっての大功が、価値判断の基準の変った今日においてはあだとなったのである。しかしこの日本降伏が全日本国民のために必須ひっすなる以上、私一個の犠牲のごときは忍ばねばならない。苦情をいうなら、敗戦と判っていながらこの戦を起した軍部に持って行くより仕方がない。しかしまた、更に考えを致せば、満州事変以来の軍部の行動を許して来た全日本国民にその遠い責任があることを知らねばならない。

 我が国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が、今の逆境が、将来の明るい日本のために大きな役割を果す果すであろう。それを見得ずして死ぬのは残念であるが、致し方がない。日本はあらゆる面において、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的の試練と発達とが足らなかった。万事に我が他より勝れたりと考えさせた我々の指導者、ただそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に責任があった。

 かつてのごとき、我に都合のしきもの、意にわぬものはすべて悪なりとして、ただ武力をもって排斥せんとした態度の行き着くべき結果は明白になった。今こそ凡ての武力腕力を捨てて、あらゆるものを正しく認識し、吟味し、価値判断する事が必要なのである。これが真の発展を我が国にきた所以ゆえんの道である。

 あらゆるものをその根底より再吟味する所に、日本国の再発展の余地がある。日本は凡ての面において混乱に陥るであろう。しかしそれでよいのだ。ドグマ的な凡ての思想が地に落ちた今後の日本は幸福である。「マルキシズム」もよし、自由主義もよし、凡てがその根本理論において究明せられ解決せられる日が来るであろう。日本の真の発展はそこから始まるであろう。凡ての物語が私の死後より始まるのは悲しいが、私にかわるもっともっと立派な頭の聡明そうめいな人が、これを見、かつ指導して行ってくれるであろう。何といっても日本は根柢から変革し、構成し直さなければならない。若き学徒の活躍を祈る。

孝子こうこに早く結婚させて下さい。私の死によって両親並びに妹が落胆はなはだしく、一家の衰亡に至らん事を最も恐れます。父母よ妹よ、どうか私の死に落胆せずに、ほがらかに平和に暮して下さい。

 我々罪人を看視しているのは、もと我軍に俘虜ふりょたりし「オランダ軍」の兵士である。かつて日本軍兵士より大変なひどい目にわされたとかで、我々に対するシッペイ返しは相当なものである。殴る蹴るなどは最もやさしい部類である。しかし我々日本人もこれ以上の事をやって来たのを思えば文句はいえない。ブツブツ文句をいっている者に陸軍の将校の多いのは、かつての自己の所行を棚に上げたもので、我々日本人さえもっともだとは思われない。一度も俘虜を扱った事のない、また一度もそんな行為をした事のない私が、かようなところで一様に扱われるのは全く残念ではあるが、しかし向うからすれば私も同じ日本人である。区別してくれという方が無理かも知れない。しかし天運なのは私は一度も殴られた事も蹴られた事もない。大変皆から好かれている。いる。我々の食事は朝、米粉の糊と夕方にかゆを食う二食で、一日中腹がペコペコで、ヤット歩けるくらいの精力しかない。しかし私は大変好かれているのか看視の兵隊がとても親切で、夜分こっそりと「パン」「ビスケット」煙草などを持って来てくれ、昨夜などは「サイダー」を一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。その物に対してよりも、その親切にである。その中の一人の兵士があるいは進駐軍として日本へ行くかも知れぬというので、今日私は私の手紙を添えて私の住所を知らせた。この兵士らは私のいわば無実の罪に非常に同情して親切にしてくれるのである。大局的には極めて反日的である彼らも、個々の人として接しているうちには、かように親切にしてくれる者も出て来るのである。やはり人間同士だと思う。

 この兵士はかつて我軍の俘虜となっていたのであるが、その間に日本の兵士より殴る、蹴る、焼くの虐待を受けた様子を語り、なぜ日本兵士にはあれほどの事が平気で出来るのか全く理解が出来ないといっていた。また彼には、日本婦人の社会的地位の低い事が理解出来ぬ事であるらしい。

 吸う一息の息、吐く一息の息、喰う一さじの飯、これらの一つ一つのすべてが今の私にとっている。我々の食事は朝、米粉の糊と夕方に粥を食う二食で、一日中腹がペコペコで、ヤット歩けるくらいの精力しかない。しかし私は大変好かれているのか看視の兵隊がとても親切で、夜分こっそりと「パン」「ビスケット」煙草などを持って来てくれ、昨夜などは「サイダー」を一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。その物に対してよりも、その親切にである。その中の一人の兵士があるいは進駐軍として日本へ行くかも知れぬというので、今日私は私の手紙を添えて私の住所を知らせた。この兵士らは私のいわば無実の罪に非常に同情して親切にしてくれるのである。大局的には極めて反日的である彼らも、個々の人として接しているうちには、かように親切にしてくれる者も出て来るのである。やはり人間同士だと思う。  この兵士はかつて我軍の俘虜となっていたのであるが、その間に日本の兵士より殴る、蹴る、焼くの虐待を受けた様子を語り、なぜ日本兵士にはあれほどの事が平気で出来るのか全く理解が出来ないといっていた。また彼には、日本婦人の社会的地位の低い事が理解出来ぬ事であるらしい。  吸う一息の息、吐く一息の息、喰う一さじの飯、これらの一つ一つの凡てが今の私にとっては現芝の触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く。やがて数日のうちには私へのお呼びも掛って来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚もなくやって来たこれらの事が味わえば味わうほど、このようにも痛切なる味を持っているものであるかと驚くばかりである。口に含んだー匙の飯が何とも言い得ない刺激しげきを舌に与え、溶けるがごとくのどから胃へと降りて行く触感を、目を閉じてジッと味わう時、この現世の千万無量の複雑なる内容が、すべてこの一つの感覚の中にこめられているように感ぜられる。泣きたくなる事がある。しかし涙さえ今の私には出る余裕はない。極限まで押しつめられた人間には何の立腹も悲観も涙もない。ただ与えられた瞬間瞬間を有難く、それあるがままに享受きょうじゅしてゆくのである。死の瞬間を考える時には、やはり恐しい不快な気分に押し包まれるが、その事はその瞬間が来るまで考えない事にする。そしてその瞬間が来た時は、すなわち死んでいる時だと考えれば、死などは案外にやさしいものなのではないかと自ら慰めるのである。
 私はこの書を数日前計らずも入手するを得た。偶然これを入手した私は、死までにもうー度これを読んで死にたいと考えた。数年前、私が未だ若き学徒の一人として社会科学の基本原理への慾求よっきゅうの盛んなりし時、その一助として、この田辺氏の名著を手にした事があった。
何分なにぶん有名なむずかしい本であったので、非常な労苦を排して読んだ事をおぼえている。そのある時は洛北白川の一書斎であったが、今は遥か故郷を離れた昭南しょうなんの、しかも監獄の冷い「コンクリート」の寝台の上である。生の幕を閉じる寸前この書を再び読み得たということは、私に最後の楽しみといこいと情熱とを与えてくれるものであった。数ケ年の非学究的生活の後に始めてこれを手にし一読するのであるが、何だかこの書の一字一字の中に昔の野心に燃えていた私の姿が見出されるようで、誠に懐しい感激に打ちふるえるのである。真の名著はいつどこにおいても、またいかなる状態の人間にも、然ゆるがごとき情熱と憩いとを与えてくれるものである。私はすべての目的慾求から離れて、 一息の下にこの書を一読した。そして更にもう一読した。何ともいえないすがすがしい気持であった私に取っては死の前の読経どきょうにも比すべき感を与えてくれた。かつてのごとき野心的な学究への情熱に燃えた快味ではなくて、あらゆる形容詞を超越した、 言葉では到底表わし得ないすがすがしい感を与えてくれたのである。私はこの本を私の書かれざる遺言書として、何となく私というものを象徴してくれる最適の記念物として後にのこす。私がこの書に書かれている哲理をすべて充分に理解したというのではない。むしろ私の理解した所はこの書の内容からは遥かに距離のあるものかも知れないが、私の言いたい事は、本書の著者田辺たなべ氏が本書を書かんとして筆をられたその気分が、私の一生を通じて求めていた気分であり、この書を遺書として、最もよく私を象徴してくれる遺品として遺そうと思わしめる所以の気分である、という事である。

 私の死を聞いて、先生や学友の多くが愛惜あいせきしてくれるであろう。「きっと立派な学徒になったであろうに」と愛惜してくれるであろう。もし私が生きながらえても、平々凡々たる市井しせいの人として一生を送るとするならば、今このままここで死する方が私として幸福かも知れない。まだまだ世俗凡欲ぼんよくにはけがされ切っていない今の若い学究への純粋さを保つたままで一生を終る方が、あるいは美しくいさぎよいものであるかも知れない。私としては生きながらえて学究への旅路を続けて行きたいのは当然の事であるが、神の眼から見て、今運命の命ずるままに死する方が私には幸福なのであるかも知れない。私の学問が結局積読つんどく以上の幾歩も進んだものでないとして終るならば、今の潔いこの純粋な情熱が、一生の中、最も価値高きものであるかも知れない。

 私は生きるべく、私の身の潔白を証明すべくあらゆる手段を尽した。私の上級者たる将校連より法廷において真実の陳述をなすことを厳禁せられ、それがため、命令者たる上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の判決を下された。これは明らかに不合理である。私にとっては私の生きる事が、かかる将校連の生きる事よりも日本にとっては数倍有益なる事は明白と思われ、また事件そのものの実情としても、命令者なる将校連にめが行くべきは当然であり、また彼らが自分自身でこれを知るが故に私に事実の陳述を厳禁したのである。ここで生きる事は私には当然の権利で、日本国家のためにもなさねばならぬ事であり、かつ、最後の親孝行でもあると思って、判決のあった後ではあるが、私は英文の書面をもって事件の真相を暴露ばくろして訴えた。判決後の事であり、また上告のない裁判であるから、 私の真相暴露が果して取り上げられるか否かは知らないが、とにかく最後の努力は試みたのである。初め私の虚偽の陳述が日本人全体のためになるならばやむなしとして命令に従ったのであるが、結果は逆に我々被命者らにあだとなったので、真相を暴露した次第である。もしそれが収り上げられたならば、数人の大佐中佐、数人の尉官連が死刑を宣告されるかも知れないが、 それが真実である以上は当然であり、また彼らの死によってこの私が救われるとするならば、国家的見地から見て私の生きる方が数倍有益である事を確信したからである。美辞麗句びじれいくばかりで内容の全くない、彼らのいわゆる「精神的」なる言語をきながら、内実においては物慾、名誉慾、虚栄心以外の何ものでもなかった軍人たちが、過去においてして来たと同様の生活を将来において続けて行くとしても、国家に有益なる事は何らし得ないのは明白なりと確信するのである。日本の軍人中には偉い人もいたであろう。しかし私の見た軍人中には偉い人は余りいなかった。早い話が高等学校の教授ほどの人物すら将軍と呼ばれる人々の中にもいなかった。監獄において何々中将、何々大佐という人々に幾人も会い、共に生活して来たが、軍服を脱いだ赤裸せきらの彼らは、 その言動において実に見聞するに耐えないものであった。この程度の将軍をいただいいていたのでは、日本にいくら科学と物量があったとしても戦勝は到底望み得ないものであったと思われるほどである。ことに満州事変以来、更に南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追うを仕事とする商人よりも、もっと下劣な根性になり下っていたのである。彼らが常々大言壮語して言った「忠義」「犠牲的精神」はどこへやったか。終戦により外身を装う着物を取り除かれた彼らの肌は、実に見るに耐えないものだった。

 しかし国民はこれらの軍人を非難すろ前に、かかる軍人の存在を許容し、また養って来た事を知らねばならない。結局の責任は日本国民全体の知能程度の浅かった事にあるのである。知能程度の低い事は結局歴史の浅い事だ。二千六百余年の歴史があるというかも知れないが、内容の貧弱にして長いばかりが自慢にはならない。近世社会としての訓練と経験が足りなかったといっても、今ではもう非国民として軍部からおしかりを受けないであろう。
 私の学生時代の一見反逆的として見えた生活も、全くこの軍閥的傾向への無批判的追従に対する反撥に外ならなかったのである。

 私の軍隊生活において、将校連が例の通り大言壮語していた。私が婉曲えんきょくながらその思想に反対すると「お前は自由主義者だ」と一言の下にね付けられたものだ。軍人社会で見られた罪悪は、枚挙すれば限りがない。それらはすべて忘却しよう。彼らもやはり日本人なのであるから。しかし一つ言っておきたい事は彼らは全国民の前で腹を切る気持で謝罪し、余生を社会奉仕のために捧げなければならない事である。
 天皇の名を最も濫用らんよう、悪用したものも軍人であった。

 私が戦も終った今日に至って絞首台の露と消える事を、私の父母は私の不運として嘆くであろう。父母が落胆の余り途方に暮れられる事なきかを最も心配している。しかし思いめぐらせば、私はこれで随分武運が強かったのである。印度インド洋の最前線、敵の反抗の最も強烈であった間、これが最後だと自ら断念した事が幾度もあった。それでも私はかすきず一つ負わずして今日まで生き長らえ得たのである。私としては神がかくもよく私をここまで御加護して下さった事を感謝しているのである。私は自分の不運を嘆く事よりも、過去における神の厚き御加護を感謝して死んで行きたいと考えている。父母よ嘆くな、私が今日まで生き得たという事が幸福だったと考えて下さい。私もそう信じて死んで行きたい。

 今、計らずもつまらない「ニュース」を聞いた。戦争犯罪者に対する適用条項が削減せられて我々に相当な減刑があるだろうというのである。数日前番兵からこのたび新たに規則が変って、命令を受けてやった兵士の行動には何らの罪はない事になったとの「ニュース」を聞いたのと考え合わせて、何か淡い希望のようなものがき上った。しかしこれらの事は結果から見れば、死に至るまでのはかない波に過ぎないと思われるのである。私が特にこれを書いたのは、人間がいよいよ死に到るまでには、色々の精神的な葛藤をまき起して行くものである事を記し置かんがためである。人間というものは死を覚悟しながらも絶えず生への執着しゅうじゃくから離れ切れないものである。
 アンダマン〔ベンガル湾東部の諸島〕海軍部隊の主計長をしていた主計少佐内田実うちだみのる氏は実に立派な人である。氏は年齢三十そこそこで、東京商大を出た秀才である。多くの高官たちの大部分がこの一商大出の主計官に、人間的には遥かに及ばないのは何たる皮肉か。日本国全体の姿も案外これに類したものではないかと疑わざるを得ない。やはり読書し思索し自ら苦しんで来た者としからざる者とは、異なる所のあるのを痛感せしめられた。

 随分な御厄介やっかいを掛けた一津屋ひとつやの祖母様の苦労、幼な心にも私には強く刻み付けられていた。私が一人前になったら、まず第一にその御恩返しを是非ぜひせねばならないと私は常々それを大切な念願として深く心に抱いていた。しかし、今やその祖母様よりも早く立って行かねばならない。この大きな念願の一つを果し得ないのは私の心残りの大きなものの一つである。この私の意志は妹の孝子により是非実現されんことをねがう。今まで口には出さなかったが、この期に及んで特に一言する次第である。

 私の葬儀などは簡単にやって下さい。ほんの野辺のべ送りの程度で結構です。盛大はかえって私の気持に反します。墓石は祖母様の横に立てて下さい。私が子供の時、この新しい祖母様の石碑の次に立てられる新しい墓は果して誰の墓であろうと考えた事があるが、この私のそれが立つであろうとは想像もしなかった。そこからは遠く吹田すいたの広々とした景色が見えましたね。お盆の時、夜おまいりして、遠くの花壇でうち上げられる花火を遠望した事を思い出します。お墓前の柿の木のを今度帰ったら存分ってやりましょう。私の仏前及び墓前には、従来の供花よりも「ダリヤ」や「チューリップ」などのはなやかな洋花を供えて下さい。これは私の心を象徴するものであり、死後は殊に華やかに明るくやって行きたいと思います。美味おいしい洋菓子もどっさり供えて下さい。私の頭に残っている仏壇は余りにも静か過ぎた。私の仏前はもっと明るい華やかなものでありたい。仏道に反するかも知れないが、仏になる私の願う事だからよいでしょう。そして私一人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ私の誕生日である四月九日を仏前で祝って欲しいと思います。私は死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは、ただ、私の生れた日だけであって欲しいと思います。

 私の一生の中、最も記念さるべきは昭和十四年八月だ。それは私が四国の面河おもごたにで初めて社会科学の書を繙いた時であり、また同時に真に学問というものの厳粛さを感得し、一つの自覚した人間として出発した時であって、私の感激ある生はその時から始まったのである。

 この本を父母に渡すようお願いした人は上田うえだ大佐である。氏は「カーニコバル」〔ベンガル湾南東ニコバル諸島中の島〕の民政部長であって、私が二年にわたって厄介になった人である。他の凡ての将校が兵士など全く奴隸のごとく扱って顧みなかったのであるが、上田氏は全く私に親切であり、私の人格も充分尊重された。私は氏より一言の叱りをも受けた事はない。私は氏より兵士としてではなく一人の学生として取扱われた。もしも私が氏にめぐり合わなかったら、私の「ニコバル」における生活はもっと惨めなものであり、私は他の兵士が毎日やらされたような重労働により、恐らく病気で死んでいたであろうと思われる。私は氏のお蔭により「ニコバル」においては将校すらも及ばない優遇を受けたのである。これ全く氏のお蔭で氏以外の誰のためでもない。これは父母も感謝されてよい。そして法廷における氏の態度も実に立派であった。

 この一書を私の遺品の-っとして送る。シンガポール、チャンギー監獄において読了。
 死の直前とはいいながら、この本は言葉では表わし得ない楽しさと、静かではあるが真理への情熱とを与えてくれるものがあった。何だかすべての感情を超越して私の本性を再び揺り覚ましてくれるものであった。これがこの世における最後の本である。この本に接し得た事は、無味乾燥なりし私の生涯の最後に憩いと意義とを添えてくれるものであった。母よ泣くなかれ、私も泣かぬ。
 いよいよ私の刑が執行せられることになった。戦争が終り、戦火に死ななかった生命を、今ここで失うことは惜んでも余りあるが、大きな世界歴史の転換の下、国家のために死んでゆくのである。宜しく父母は私が敵弾に中って華々しく戦死を遂げたものと考えて諦めて下さい。

 私が刑を受けるに至った事件の詳細なる内容に付ては、福中英三ふくなかえいぞう大尉に聴いて下さい。ここで述べることは差控える。

 父母はその後お達者でありますか。孝ちゃんは達者か。孝ちゃんはもう二十二歳になるんですね。立派な娘さんになっているんでしょうが、一眼見られないのは残念です。早く結婚して私に代って家を継いで下さい。私のいない後、父母に孝養の尽せるのは貴女あなただけですから。

 私は随分なお世話を掛けて大きくして頂いて、いよいよ孝養も尽せるという時になってこの始末です。これは大きな運命で、私のような者一個人ではとてもいかんともし得ない事で、全くあきらめるよりほかないです。言えば愚痴は幾らでもあるのですが、総て無駄です。止しましょう。大きな爆弾に中って跡形もなく消え去ったのと同じです。

 こうして静かに死を待っていると、故郷の懐しい景色が次から次へと浮んで来ます。分家の桃畑から佐井寺さいでらの村を見下ろした、あの幼な時代の景色は、今もありありと浮んできます。たにさんの小父さんが下の池でよく魚を釣っていました。ピチピチとふなが糸にかかって上って来たのを、ありありと思い浮べます。

 次に思い出すのは何といっても高知こうちです。私の境遇的に思想的に最も波瀾はらんの多かった時代であったから、思い出も尽きないものがあります。新屋敷しんやしきの家、こうの森、高等学校、さかい町、猪野々いのの、思い出は走馬灯のごとく走り過ぎて行きます。
塩尻しおじり〔『塩尻公明。倫理学者。一九〇一―六九]、徳田、八波の三先生はどうしておられるであろう。私の事を聞けば、キット泣いて下さるであろう。随分私はお世話を掛けた。私が生きていたら思いは尽きない方々なのであるが、何の御恩返しも出来ずに遥かな異郷で死んで行くのは私の最も残念とする所である。せめて私がもう少しましな人間.になるまでの生命が欲しかった。私が出征する時に言いのこしたように私の蔵書は全部、塩尻先生の手を通じて高等学校に寄附して下さい。塩尻先生にどうかよろしくお伝えして下さい。先生より頂戴した御指導と御厚意とは、いつまでも忘れず死後までも持ち続けて行きたいと思っています。先生の著書『天分と愛情の問題』をこの地の遠隔なりしため、今日の死に至るまで、遂に一度も拝読し得なかった事はくれぐれも残念です。

すべての望みを失った人間の気持は実に不思議なものである。いかなる現世の言葉をもってしても表わし得ない。すでに現世より一歩超越したものである。死の恐しさも感じなくなった。

 降伏後の日本は随分と変ったことだろう。思想的にも政治経済機構的にも随分の試練と経験と変化とを受けるであろうが、そのいずれもが見応えのある一つ一つであるに相違ない。その中に私の時間と場所が見出されないのは誠に残念だ。しかし世界の歴史の動きは、もっともっと大きいのだ。私ごとき者の存在に一瞥いちべつもくれない。泰山鳴動たいざんめいどうして踏み殺された一匹のありにしか過ぎない。私のごとき例は幾多あるのである。戦火に散って行った幾多の軍神もそれだ。原子爆弾で消え去った人々もそれだ。かくのごときを全世界にわたって考えるとき、おのずから私の死もうなずかれよう。既に死んで行った人々のことを考えれば、今生きたいなどと考えるのは、その人たちに対してさえ済まないことだ。もし私が生きていれば、あるいは一人前の者となつて幾分かの仕事をするかも知れない。しかしまた、ただのつまらぬ凡人として一生を送るかも知れない。未だ花弁も見せず、つぼみのままで死んで行くのも一つのり方であったかも知れない。今はただ、神の命ずるままに死んで行くより他にないのである。

 この頃になつてようやく死ということが大して恐ろしいものではなくなつた。決して負け惜しみではない。病で死んで行く人でも、死の前になればこのような気分になるのではないかと思われる。でも時々ほんの数秒間、現世への執着がひよっこり頭を持ち上げるが、直ぐ消えてしまう。この分なら、大して見苦しい態度もなく死んで行けると思っている。何といっても、一生にこれ程大きい人間の試験はない。
 今では父母や妹の写真もないので、毎朝毎タ眼を閉じて、昔の顔を思い浮べては挨拶している。あなたたちもどうか眼を閉じて私の姿に挨拶を返して下さい。

 私の事については、今後次々に帰還する戦友たちが告げてくれましよう。何か便りのあるたびに、遠路ながら、戦友たちを訪問して、私の事を聴き取って下さい。私は何一つ不面目なることはしていない筈だ。死ぬ時もきっと立派に死んで行きます。私はよし立派な日本軍人の亀鑑きかんたらずとも、高等の教育を受けた日本人の一人として何ら恥ずる所のない行動をとって来たはずです。それなのにはからずも私に戦争犯罪者なる汚名を下された事が、孝子の縁談や家の将来に何かの支障を来しはせぬかと心配でなりません。「カーニコバル」に終戦まで駐屯ちゅうとんしていた人ならば、誰も皆、私の身の公明正大さを証明してくれます。どうか私を信じて安心して下さい。

 もしも人々のいうようにあの世というものがあるなら、死ねば祖父母にも戦死した学友たちにも会えることでしょう。それらの人々と現世の思い出話をすることも楽しみの一つとして行きましょう。また、人のいうように出来るものなら、あの世で蔭ながら父母や妹夫婦を見守っていましょう。常に悲しい記憶を呼び起させる私かも知れませんが、私のことも時々は思い出して下さい。そしてかえって日々の生活を元気づけるように考えを向けて下さい。

 私の命日は昭和二十一年五月二十三日なり。

 もう書くことはない。いよいよ死におもむく。皆様お元気で。さようなら。
  ー、大日本帝国に新しき繁栄あれかし。
  ー、皆々様お元気で。生前は御厄介になりました。
  ー、末期の水を上げて下さい。

    みんなみの露と消えゆくいのちもて朝がゆすする心かなしも
    朝かゆをすすりつつ思う故郷の父よ嘆くな母よ許せよ
    遠国とおくにに消ゆる生命のさびしさにまして嘆かる父母のこと
    友のゆく読経どきょうの声をききながらわれのゆく日を指折りて待つ
    指をかみ涙流して遥かなる父母に祈りぬさらばさらばと
    眼を閉じて母をしのべば幼な日のいとし面影消ゆる時なし
    音もなく我より去りしものなれど書きて偲びぬ明日という字を
    かすかにも風な吹き来そ沈みたる心のちりの立つぞ悲しき
    明日という日もなき命いだきつつ文よむ心つくることなし

  以下二首、処刑前夜の作
    おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかむ
風もぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でまし

―――――――――――――――――――――――――――――
 遺骨はとどかない。爪と遺髪とをもってそれに代える。
     処刑半時間前擱筆かくひつす。 木村久夫

【編者注】
 岩波文庫「きけ わだつみの声」収載の木村久夫遺書の全文である。ただし、注釈は一部を除き、割愛した。
大阪きづがわ医療福祉生協機関紙「みらい」2025年8月号搭載の記事。

テキストの快楽(007)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(002)

     ー 私たちの国には唯物論者がいたか

 日本には唯物論者がいたかどうか? いったい、日本には唯物論という思想の休系があったのかどうか? まずこの問いにこたえることから、この本をかきはじめたいと思う。
 ずばり言ってしまうなら、私たちの国には唯物論者はいなかった、日本には唯物論の体系といっていいような思想の体系はなかった、そう言えるのである。
 さて、このようにいってしまうと、ここに誰にとってもいろいろの疑間がむらがりおこるだろう。それらの疑問のうちでは、おそらくつぎの疑問がまず投げ出されることだろうし私たちの国には唯物論君はひとりもいなかったかと。ひとびとはさらにこうきくであろう。明治時代に中江兆民や幸徳秋水がいたではないか、大正・昭和の時代に河上肇や野呂栄太郎のような人がいたではないか。さらに、戸坂潤や永田広志のような人がいたではないか。人はきっとそうきくことであろう。そう、これらのひとびとは唯物論者と呼ばれているのである。そういえば江戸時代だっていないことはない。あんなに封建思想が強固で、ものを自巾に考えるすきさえもなかった時代に、かまだ・りゅうおう(鎌田柳泓)のような人がいて、人間が考えることは頭の中にある一種変った肉のしわざだというところまで主張したこともあるのだから、唯物論者はいなかったといってしまうと、とうぜん疑問がおこってくることだろう。だが、それにしても、私たちの国には唯物論者はいなかったという、さきの私の断定を私は改めないほうがよいと思う。もちろん、右にあげたようなひとびとをとらえて観念論者である(もっとも柳泓はここでしばらくあずかっておくけれども)とは、誰だって言いはしないし、私もそう考える何らの理由も持たない。それなら、右のひとびとは唯物論者であるか?問題はここからである。
 ことに明治・大正・昭和の時代のなかからあげられた右のひとびとが、唯物論者であると呼ばれるのは、社会主義者であったがために唯物論者だとせられがちなのであり、共産主義者であったがためにそうされていることが多いのである。必ずしもそこにまちがいがあるわけではない。しかし、社会主義者であること、共産主義者であることが、唯物論者たることをきめるたったひとつの基準なのではない。私たちはこのことを考えておきたい。ロシアには、十九世紀の施半にすでに社会主義者がいくらも出ていたが、その人たちがことごとく唯物論者であったのではなかった。フランスには十八世紀に、すでに幾人かの、はっきりした唯物論者かいたが、その人たちは社会主ス者であったから唯物論者であったのではない。今日でも、ことごとく現実に共産主義者であるとみずから考えている人が、あらゆる意味において唯物論者であると決定することはできない。
 唯物論には、それが唯物論であることの思想的な、世界観的な、いわば確乎たる特質があるのでなくてはならない。唯物論者はそうした世界観のシステムにつながっているのである。あたかも、めんめんとつらなる電送の太い線に結びついている碍子がいしのように、その電線に結びついている限りにおいて、個々の碍子は電流を確実につたえるものの一つなのである。今日でも、個々の唯物論者は、或る政治的組織に入ったから、そのとき唯物論者になったのではなくて、その政治的組織のなかにある世界観的な唯物論の太い線に結びついたから、「唯物論者」なのである。
 ヨーロッパでは、この線は小さいながら、古代ギリシアからはじまって、ぜんじ大きくなり、近代にいたっているのである。マルクス、エンゲルスは、この太い線をイデオロギーの歴史の発度のなかから見出した人たちなのである。マルクス、エンゲルスによってはじめてこの世界観の太い線が張られたのではなくて、これらのひとびとは、この線の現実的意味をはじめてみつけだし、これを深化し、強化したのである。
 この思想的な世界観的な線が、私たちの国にあったか、それともなかったか。もしあったとするならば、どういうあり方であったか、これが私たちの問題である。
 それは日本本にはなかったといいきれる。いや、日本のみでなく、もっとくわしくいうと、老荘的な、仏教的な、儒教的な思想、ことに仏教的な思想から深い影響をうけとっている東洋のすべての諸民族のなかには、あの太い世界観の線は通っていなかったのであるということができる。じつにこの意味において、私は私たちの国には唯物論はなかったというのであり、唯物論者はいなかったと主張するのである。唯物論者のあるなしについて、きびしくいえば、いちおう以上のようにいうことができる。
 もちろん今日となればちがうだろう。唯物論という思想システムの線は、ヨー ロッパの近代世界観が日本へ移植されるとともに、ことに政治的イデオロギーの移入とともに、近代日本に移されている。それがゆえにこそ、中江兆民や幸徳秋水が、とにかくに唯物論者であるといわれ、河上肇や野呂栄太郎が、戸坂潤や永田広志が弁証法的な唯物論者であったということができるのである。私たちにとって問題なのは、これらの人たちが、あの唯物論という世界観の太い線が全くなかった国のなかに住み、そうした国の言語をもちい、そうした国の庶民の生活の仕方にならい、この国の習俗のなかにひたり、その思想(河上ならば河上、戸坂ならば戸坂の思想)の他人への影響力を狭い範囲の或る日本人の間にのみもっていたことなのである。
 こうしたことが、考慮されないままで、すべて社会主義、マルクス主義に属していれば、なべてみな雎物論者であると言ってしまうことは、論を正しくすすめることにはならない。右にあげた中江兆民以下のひとびとが、その中でしばられて活動したあの社会的な諸条件のうちでも、その人の思想の他のひとびとへの影響力がいつまでも一定範囲にとどまりがちであったことは、唯物論者の存在にとって、重大な問題であると思うのである。私がかくいうのは、さきにあげた人々を唯物論者と呼びがたいとか、ほんとうの唯物論者と呼びたくないとか、そうしたことを言わんとしているためではないのである。むしろその反対なのである。これらの人たちは、唯物論の伝統の少しもなかったこの国において、多くの唯物論反対者にとりまかれて、いやそれどころか、じつに、ことごとくが観念論的な習俗のなかにあって、新しい世界観をかちとったことが、かえって、私たちにとつて切実に思われるのである。
 それにしても、はじめから、日本には唯物論があった、わが国には唯物論者がいたと、.女易にきめて、私たちの問題(日本における唯物論のあり方という問題)を、おしすすめることはできないのである。だから私は、はっきりと、私たちの国には過去において唯物論の思想体系はなかった、したがって唯物論者はいなかった、すくなくとも、いることが困難であったと、まず提言したいのである。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

テキストの快楽(006)その2

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(04)


 身を切るやうな寒い風が吹き出した。たうとう雨になって 、それが夜晝ぶつ通しに降りつづく。イルトィシ河までもう十八露里の所で、例の自前馭者から私を引繼いだフョードル・ハーヴロヴィチといふ百姓が、 これより先へは行けないと言ひ出した。豪雨のためイルトィシ河畔の牧地が、すっかり水浸しなのだといふ。昨日プストィンスコ工村からやって來たクジマも危く馬を溺れさせるところだった、待たなきゃならねえ。
 「何時まで待つのかね」と私が訊く。
 「そいつあ分らねえ。神樣にでも尋ねなされ。」
 百姓小屋へはいる。座敷には赤い上シャッを着た老人が坐ってゐて、苦しげに息をついては咳をする。ドーフル氏散をやると大分鎭まった。しかし彼は藥を信用しない。樂になったのは「辛抱してじっとしてゐた」お蔭だといふ。
 坐り込んで考へる。今夜はここに泊ったものかしら。だがこの老人は夜通し咳をするだらうし、恐らく南京蟲もゐるだらう。それに明日になったら、益ゝ水嵩が增さぬものでもあるまい。いやこれは、いっそ出發した方が利口だ。
 「やっぱり出掛けるとしよう、フヨードル・パーヴロヴィチ」と私は亭主に言ふ、「とても待つちやゐられないからな。」
 「そりゃ旦那の宣しいやうに」と彼は大人しく應じる、「水ん中で泊ることにならにゃいいが。」
 で、出發する。雨はただの降りやうではない。所謂土砂降りである。私の乘つてゐる旅行馬車には屋根がない。はじめの八露里ほどは泥濘の道を、それでもだくを踏ませて行つた。
 「こりやまあ、えらい天氣だ」と、フョードル・ハーヴロヴィチが言ふ、「本當をいふと長いこと河へは行って見ねえで、水出もどんなだか知らずにゐましただ。そこへもって來てクジマの奴が、ひどく威すもんで。いや何とか行き通せねえでもなささうだ。」
 だがそのとき、 一面の大きな湖が眼の前にひろがる。それは水につかつた牧地だ。風がその上をさまよひ嘆き、 大きなうねりを立てる。そこここに小島や、 まだ水に浸らぬ地面の帶が頭を出してゐる。道の方角は橋や沼地に渡した粗朶道でわづかに知られるが、それも皆ふやけて脹れ返り大抵は元の場所からずれてゐる。湖の遙か彼方には、 褐色の見るからに暗澹たるイルトィシの岸が連なり、 そのうへに灰色の雨雲が重く垂れてゐる。岸のところどころに斑ら雪が白い。
 湖にさしかかる。大して深くはなく、車輪も水に浸ること凡そ六寸に過ぎない。橋さへなかったら割合に樂に行けたかと思はれる。橋の手前では必らず馬車を降りて、 泥濘か水の中に立たされる。橋を渡るには、先づその上に打上げられてゐる板や木片を集めて、浮き上った端の下にはなければならぬ。馬は一匹づつ離して渡らせる。フョードル、ハーヴロヴィチが馬をはづす役で、 はづした馬をしっかり抑へてゐるのが私の役目である。冷たい泥だらけの手綱を握ってゐると、强情な馬が後戻りをしたがる。着物は風に剥がれさうだし、雨は痛いほどに顏を打つ。仕方がない、引返すか。――だがフョードル・パーヴロヴィチは默って何も言はない。私の方から言ひ出すのを待ってゐるらしい。私も默ってゐる。
 强襲で第一の術を陷れる それから第二の橋、第三の橋と。……ある所では泥濘に足をとられてすんでのことで轉ぶところだった。またある場所では馬が强情を張って動かなくなり、頭上を舞ふ野鴨や剛がそれを見て笑った。フョードル・ハーヴヴィチの顔附や、その悠々として迫らぬ動作や、また落着き拂った沈默振りから推すと、こんな目に逢ふのは初めてではないらしい。それどころかもっと酷い目に逢ふのも珍しいことではないらしく、出口のない泥濘や水浸しの道や冷たい雨などは、夙の昔に平氣になってゐると見える。彼の生活も並大抵ではないのだ。
 やっと小島に辿りつく。そこに屋根無しの小屋がある。びしょ濡れの糞の傍を、びしょ濡れの馬が二匹步いてゐる。フョードル・パーヴ口ヴィチの呼聲に應じて、小屋の中から鬚もぢやの百姓が手に枯枝を持って現はれ、道案內に立って吳れる。この男が枯枝で深い場所や地面を測りながら、默って先に立って行くあとから、私達もついて行く。彼が私達を導くのは、細長い地面の帶の上である。つまり、所謂「山背」づたひに行くのである。この山背を行きなされ。それが盡きたら左に折れそれから右に折れると、別の山背に出ます。これはずっと渡船場まで續いてゐますぢや、と言ふ。
 あたりにタ闇が迫って來る。野鴨も鷗も居なくなつた。鬚もぢやの百姓も、私達に道を敎へて置いて、 もうとうに歸ってしまった。第一の山背が尽き、また水の中に揉まれなから左に折れ、それから右に折れる。するとなるほど第二の山背に出る。これは河の岸まで續いてゐる。
 イルトィシは大きな河だ。もしエルマク*が氾濫のときこの河を渡ったのだったら、鏈帷子くさりかたびらは着てゐないでも溺れ死んだに違ひない。對岸は高い斷崖をなして、まるで不毛である。その向ふに谷が見える。フョードル・パーヴロヴィチの話では、私の目的地であるブストィンノエ村*に出る道は、この谷聞に泻って山を越えるのだといふ。こちらの岸はなだらかな斜面で、水面を拔くこと二尺あまりに過ぎない。やはり秃山で、風爾に曝されたその姿は見るからにせり辷りさうだ。濁った波のうねりが白い齒を剝き出して、さも憎らしげに捧を打つては直ぐ後へ退く。その有様は、打見たところ蟾蜍ひきがへるか大罪人の怨靈ぐらゐしか住むとも思はれぬこの醜いつるつるの岸に觸るのも汚らはしいといつた風である。イルトィシの河音はざわめくのではない。また吼えるのでもない。その底に沈んだ棺桶を、片端から叩いて行くやうな音を立てる。咒はれた印象だ。
 渡守の小屋へ乘りつける。小屋から出て來た一人が言ふ。――この荒れ模様ぢやとても渡れませんや。まあ明日の朝まで待ちなされ。
 で.そこに泊ることになる。夜通し私は聞く――船頭たちや馭者の鼾を、 窓をうつ雨の音を、風の唸りを、それから怒ったイルトィシが、 棺桶を叩いてゐる音を。……翌る朝早く岸に出る。雨は相變らず降ってゐるが、風は稍ゝ收まった。けれど渡船ではとても渡れない。少さな舟で渡ることになる。
 ここの渡船の仕事は、自作農の組合の手で營んでゐる。從って船頭の中には一人の流刑囚もなく、皆この土地の人間である。親切な善良な人間ばかりだつた。向ふ岸に渡って、馬の待ってゐる道へ出ようとつるつる辷る丘を攀ぢ登って一行く私の後から、彼等は口々に道中の無事と、健康と、それから成功とを祈って哭れた。……が、イルトィシは怒ってゐる。……

[注]
*エルマク ドン・コサックの首長。十六世紀後半寡兵を以てウラルを越えシベリヤに侵入して、イルトィシ河までの範圖を確立した。
*ストィンノエ村 「不毛の村」の義。

テキストの快楽(006)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(001)

          ま え が き

 日本人は、外国人から唯物主義だといわれたり、理想アイディアというものがわからない国民だと批評されたりした。その一例をいえば、チェンバレンやデニングなどであるが、日本人の性質のうちにはそう批評される点のあることは否定できない。さて、そうでありながら他方において、日本には唯物論の哲学といわれるほどのものはないといわれている。こうなってくると、まことに割りの合わない話である。
 ほんとうのところ、日本人は唯物論という思想はもたなかったのか。そういう思想組織がもてるようには、日本の思想丈化の成り立ちができていなかったのか。それとも、別の在り方をして、唯物論思想をもっていたのか。もしもっていたのなら、その思想はどういう形応でできていたのか。こうした問題はこれまで少しも明らかにされなかった。
 さて、それが明らかにされるには、何が唯物論かという問いが改めて投げ出されねばならないであろう。なぜなら、日本に唯物論があったにしても、ヨーロッパにおける在り方とはちがっているにちがいないから。いずれにしても、唯物論の概念が明瞭でなくては、問題は前へすすまない。
 いったい、マテリアリズムとは何をさすのであるか。
 心かそれとも物か、意識かそれとも物質か、こうした問いを押しつめていったら、マテリアリズムは、はっきりとわかるのであろうか。いよいよのところは精神しかないのだという見解、いや、けっきよくは物質しかないのだという見解、この二つが、昔と変らないまま、今日る繰りかえされている。
 私の考えでは、二つの見解のうちの前者は、頭のなかで<考え 傍点>をととのえ、紙のうえに文章をかき、人にものを教えることだけを仕事にしている人たちの場合において、真理とおもえるのであり、後者は、物を作ること、生産にいそしむことをしている人たち、および、それらの人たちの生活に共感できる人たちにとって、真理であり得る。私にはそのように思われる。
 してみると、双方の主張者のこうした論議だけでは、観念論が真理なのか唯物論が真理なのか、きまらない。唯物論と観念論の是非は、あのような、ただひとつのディメンションではきまらないのではあるまいか。物質の概念の究明のほとんどなかった過去の日本人の場合では、ことにそうなのではあるまいか。
 しかし、唯物論といわれる世界観が、どういうひとびとによって支持されているかがわかれば、そこから逆に、何が唯物論かが、かえって明らかになるのではあるまいか。
 観念論とは、その社会が泥沼のようであろうと風波さえたたねばよいと現状を甘受し、享有している人たちの世界観であるのではなかろうか。唯物論とは、それとは逆で、現状に決定的に疯議し、人間生活の在り方を、ほんらいのものにかえそうとする人たちの世界観ではあるまいか。
おまえは神の子であると教えようとする人がいると、いや私たちは神の子ではないと言い張る。おまえの存在は本質的には精神だと宣言しようとする人がいると、いや私たちの存在の本質は物質の運動であると言い張る。こういったように、人間存在の本質から出てくる抵抗、ことにその社会的な本質からくる抵抗、それの思想的表現、これがじつに唯物論であるのではあるまいか。
 私は、はじめから、このような唯物論の概念をたずさえて、日本人の生活の歴史のなかに入っていったのではなくて、世界観や学問観において傑出した過去の人物を評伝するうちに、以上のべたようなマテリアリズムに対する理解を、いっそう深くしたのである。
 私は、その理解をさらにととのえ、それを公けにするために、日本の唯物論者の現われかたを、つぎのような仕方に分けて、論評してみたのである。すなわち、「唯物論への道を準備した人々」、「唯物論に近づいた人々」、「ふたたびそれへの準備をはじめた人々」、「新しい時代(明治・大正・昭和)の唯物論者」の四つである。日本の思想文化史のように、ひだしわが多く、明暗の度の細かい思想の歴史のなかに、個々の唯物論者を見出すには、断定のゆきすぎをひかえることが大切なので、その点を考えて、試みた叙述方法なのである。
 この「まえがき」で言っていないこと、それはほかでもなく、個々の唯物論者たちの相互の歴史的つながりのことであるが、それを「むすび」のところで述べておいたから、それをも、さきに併せて読んでもらうことがのぞましい。
    ー九五六年六月下旬
           三 枝 博 音

参考】
Wikipedia 三枝博音
 三枝博音は、戦前、「唯物論研究会」に属し、様々な労作を執筆した。戦後も、そのスタンスは変わらなったが、「政治的党派」に与することなく、微妙な「距離感」を保っていたようだ。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。