南総里見八犬伝(002)

 今回から、今を去る20年前に、「ちまえの館」さんが、アップされたものを、基本的に底本とし、コードを UNICODE に変換、できるだけ、漢字を表現できるようにし、漢字を旧字体に統一しました。UNICODE 表になく、どうしても字形が見つからない場合は、「〓」で表示しています。あらためて「ちまえの館」さんのご尽力に敬意を表します。

南總里見八犬傳卷之一第一回

東都;曲亭主人;編次

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ

(例》季基《すゑもと》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号

(例)持氏|父子《ふし》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)

濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〓:UNICODE 表にない漢字、[]内に漢字の部分を示したところもあり

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季基《すゑもと》訓《をしえ》を遺《のこ》して節《せつ》に死《し》す
白龍《はくりう》雲《くも》を挾《さしばさ》みて南《みなみ》に歸《おもむ》く

 京都《きやうと》の將軍《せうぐん》、鐮倉《かまくら》の副將《ふくせう》、武威《ぶゐ》衰《おとろ》へて偏執《へんしう》し、世は戰國《せんこく》となりし比《ころ》、難《なん》を東海《とうかい》の濱《ほとり》に避《さけ》て、土地《とち》を闢《ひら》き、基業《もとゐ》を興《おこ》し、子孫十世《しそんじゅっせ》に及ぶまで、房總《あわかづさ》の國主《こくしゆ》たる、里見治部《さとみぢぶの》大夫《たいふ》義實朝臣《よしざねあそん》の、事蹟《じせき》をつら/\考《かんがふ》るに、淸和《せいわ》の皇別《みすゑ》、源氏《げんじ》の嫡流《ちやくりう》、鎭守府《ちんじゆふ》將軍《せうぐん》八幡太郞《はちまんたろう》、義家朝臣《よしいへあそん》、十一世《じういつせ》、|里見《さとみ》治部《ぢぶの》少輔《せういう》源季基《みなもとのすゑもと》ぬしの嫡男《ちやくなん》也。時に鐮倉の持氏卿《もちうぢけう》、自立《じりう》の志頻《こゝろざししきり》にして、執權憲實《しつけんのりさね》の諫《いさめ》を用ひず、忽地《たちまち》嫡庶《ちやくしよ》の義《ぎ》をわすれて、室町將軍《むろまちせうぐん》義敎公《よしのりこう》と、確執《くわくしつ》に及びしかば、京軍《きやうぐん》猛《にはか》によせ來《きた》りて、憲實に力を勠《あは》し、且《かつ》戰ひ且進《かつすゝん》で、持氏|父子《ふし》を、鐮倉なる、報國寺《ほうこくじ》に押籠《おしこめ》つゝ、詰腹《つめはら》を切《きら》せけり。是《これ》はこれ、後花園天皇《ごはなぞのてんわう》の永享《ゑいきやう》十一年、二月十日のことになん。かくて持氏の嫡男|義成《よしなり》は、父とゝもに自害《じがい》して、屍《かばね》を鐮倉に留《とゞ》むといへども、二男《じなん》春王《はるわう》、三男《さんなん》安王《やすわう》とまうせし公達《きんだち》は、辛《から》く敵軍の圍《かこみ》を脫《のが》れて、下總《しもふさ》へ落《おち》給ふを、結城氏朝迎《ゆふきのうぢともむかへ》とりて、主君《しゆくん》と仰《あほ》ぎ奉《たてまつ》り、京都の武命《ぶめい》に從はず、管領《くわんれい》(淸方持朝《きよかたもちとも》)の大軍《たいぐん》をも屑《ものゝかす》とせず。されば義に仗《よつ》て死をだも辭《ぢ》せざる、里見季基《さとみすゑもと》を首《はじめ》として、凡《およそ》持氏|恩顧《おんこ》の武士《ぶし》、招《まねか》ざれどもはせ集《あつま》りて、結城《ゆふき》の城《しろ》を守りしかば、大軍に圍《かこま》れながら、一トたびも不覺《ふかく》を取らず、永享十一年の春の比《ころ》より、嘉吉元年《かきつぐわんねん》の四月まで、籠城三年《ろうぜうみとせ》に及ぶものから、外《ほか》に援《たすけ》の兵《つわもの》なければ、糧《かて》も矢種《やだね》も竭果《つきはて》つ、「今ははや脫《のが》るゝ途《みち》なし。只《たゞ》もろともに死ねや」とて、結城の一族《いちぞく》、里見の主《しゆう》從《じゆう》、城戶推《きどおし》ひらきて血戰《けつせん》し、込入《こみい》る敵をうち靡《なび》けて、衆皆《みなみな》討死《うちしに》する程《ほど》に、その城|竟《つひ》に陷《おちい》りて、兩公達《ふたりのきんだち》は生拘《いけど》られ、美濃《みの》の垂井《たるゐ》にて害《がい》せらる。俗《よ》にいふ結城合戰《ゆふきかつせん》とはこれ也。

 かゝりし程に、季基《すゑもと》の嫡男《ちやくなん》、里見治部大夫義實《さとみぢぶのたいふよしさね》ぬし、このときは又太郞《またたらう》御曹司《おんぞうし》と呼《よば》れつゝ、年なほ廿《はたち》に滿《みた》ざれ共、武勇智略《ぶゆうちりやく》は父祖《ふそ》にもまして、その才文道《さえふみのみち》にも長《たけ》たり。三年《みとせ》以來《このかた》父と共に、籠城《ろうぜう》の艱苦《かんく》を厭《いと》はず、この日も諸軍《しよぐん》に先《さき》たちて、敵十四五|騎斬《ききつ》て落《おと》し、なほよき敵と引組《ひきくん》で、討死《うちしに》せんとて進みしを、父の季基|遙《はるか》に見て、遽《いそがは》しく呼びとゞめ、「やをれ義實、勇士《ゆうし》は元《かうベ》を喪《うしな》ふことを忘れず。けふを限りと思ふこと、理《ことわ》りあるに似たれども、父子《ふし》もろ共《とも》に討死《うちしに》せば、先祖《せんそ》へ不孝これに過《すぎ》ず。京鐮倉を敵とし受《うけ》て、貳《ふた》ごゝろを存《ぞん》ずることなく、勢竭《いきほひつ》き、力窮《ちからきわま》り、落城《らくぜう》のけふに至りて、父は節義《せつぎ》の爲《ため》に死し、子は又《また》親の爲に脫《のが》れて、一命《いちめい》をたもつとも、何《なに》かは羞《はづ》る事《こと》あらん。速《すみやか》に殺脫《きりぬけ》て、時節《じせつ》を俟《まち》て家《いへ》を興《おこ》せ。とく/\落《おち》よ」、といそがせば、義實は聞《きゝ》あへず、鞍坪《くらつぼ》に頭《かうべ》を低《さげ》、「うけ給はり候ひぬ。しかはあれど、親の必死を外《よそ》に見て、|阿容々々《おめ/\》と脫《のが》るゝことは、三才の小兒《せうに》も要《えう》せじ。況弓箭《いはんやゆみや》の家に生れて、某《それがし》こゝに十九|歲《さい》、文武《ぶんぶ》の道にわけ入りて、順逆邪正《じゆんぎやくじやせう》、古人《こじん》の得失《とくしつ》、大槪《おほかた》はこれをしれり。只冥土黃泉《ただめいどくわうせん》のおん供《とも》とこそ思ひ奉れ。死《しす》べき處《ところ》に得死《えしな》ずして、笑ひを招《まね》き、名を汚《けが》し、先祖《せんそ》を辱《はづか》しめ奉らんことは、願《ねがは》しからず候」、と答《こたふ》る辭勇《ことばいさま》しき、㒵《かほ》つく/\とうちまもる、父は頻《しきり》に嘆息《たんそく》し、「義實|微妙《いみじく》申たり。さりながら、圓頂黑衣《ゑんちやうこくえ》に容《さま》を更《かえ》、出家沙門《しゆつけしやもん》になれといはゞ、親の敎《をしえ》に悖《もと》りもせめ、時節を俟《まち》て家を興《おこ》せ、といふを推辭《いなむ》は不孝也。しらずや足利持氏《あしかゞもちうぢ》ぬしは、譜代相傳《ふだいさうでん》の主君にあらず。抑《そもそも》わが祖は一族たる、新田義貞朝臣《につたよしさだあそん》に從ひて、元弘建武《げんこうけんむ》に戰功《せんこう》あり。しかりしより新田の餘類《よるい》、南朝《なんちやう》の忠臣《ちうしん》たれども、明德《めいとく》三年の冬のはじめに、南帝入洛《なんていじゆらく》まし/\て、憑《たの》む樹下《このもと》雨|漏《も》りしより、こゝろならずも鐮倉なる、足利家の招きに隨《したが》ひ給ひし、亡父《ぼうふ》は(里見|大炊介元義《おおゐのすけもとよし》)滿兼主《みつかねぬし》(持氏の父)に出仕《しゆつし》し、われは持氏ぬしにつかへて、今|幼若《ようくん》の爲に死す。志《こゝろざし》は致《いた》したり。これらの理義《りぎ》を辨《わきま》へずは、只《たゞ》死するをのみ武士といはんや。學問《がくもん》も又そのかひなし。かくまでいふを用ひずは、親とな思ひそ、子にあらず」、と辭《ことば》せわしく敦圉《いきまき》給へば、義實|道理《どおり》に責《せめ》られて、思はす馬の鬣《たてかみ》へ、落《おと》す淚《なみだ》は道芝《みちしば》に、結ぶがごとき本《もと》の露《つゆ》、末《すゑ》の雫《しづく》と親と子が、後《おく》れ先《さき》たつ生死《いきしに》の、海よりあらき鯨波《とき》の聲、こなたへ進む敵軍を、季基《すゑもと》佶《きつ》と見かヘりて、「時移りてはかなはじ」、と思ふことさへ豫《かね》てより、こゝろ得《え》させし譜代《ふだい》の老黨《ろうだう》、杉倉木曾介氏元《すぎくらきそのすけうぢもと》、堀內藏人貞行等《ほりうちくらんどさだゆきら》に、注目《めくはせ》をしてければ、兩人齊一《りやうにんひとしく》身を起し、「俺們《われわれ》おん供つかまつらん誘《いざ》給へ」、といひあへず、木曾介は義實《よしさね》の馬の轡《くつわづら》を牽《ひき》めぐらし、藏人はその馬の、尻《しり》を拍《うつ》て逐走《おひはし》らせ、西を投《さし》てぞ落てゆく。むかし彼《かの》楠公《くすのき》が、櫻井《さくらゐ》の驛《うまやぢ》より、その子|正行《まさつら》を返したる、こゝろはおなじ忠魂《ちうこん》義膽《ぎたん》、斯《かう》ありけんと想像《おもひや》り、殘《のこ》り留《とゞま》る兵士等《つわものら》は、愀然《しうぜん》として列居《なみゐ》たり

 季基は落《おち》てゆく、わが子を霎時目送《しばしみおく》りつ、「今はしも心やすし。さらば最期《さいご》をいそがん」とて、鑣《たづな》かい繰《く》り、馬騎《うまのり》かへして、十|騎《き》に足らぬ殘兵《ざんへい》を、鶴翼《くわくよく》に備《そなへ》つゝ、群《むらが》り來《き》つる大軍へ、會釋《ゑしやく》もなく突《つい》て入《い》る。勇將《ゆうせう》の下《しも》に弱卒《じやくそつ》なければ、主《しゆう》も家隸《けらい》も二|騎《き》三騎、敵を擊《うた》ざるものはなく、願ふ所は義實を、後《うしろ》やすく落《おと》さん、と思ふ外《ほか》又|他事《たじ》なければ、目にあまる大軍を、一足《ひとあし》も進《すゝま》せず、躬方《みかた》の死骸《しがい》を踏踰《ふみこえ》て、引組《ひきくん》では刺《さし》ちがへ、おなじ枕《まくら》に臥《ふす》ほどに、大將《たいせう》季基はいふもさらなり、八騎の從卒一人《じゆうそつひとり》も殘らず、僉亂軍《みならんぐん》の中《うち》に擊《うた》れて、鮮血《ちしほ》は野逕《やけい》の草葉《くさば》を染《そめ》、躯《むくろ》は彼此《をちこち》に算《さん》を紊《みだ》して、馬蹄《ばでい》の塵《ちり》に埋《うづむ》といへども、その名は朽《くち》ず、華洛《みやこ》まで、立《たち》のぼりたる丈夫《ますらを》の、最《いと》もはげしき最期《さいご》也。

 さる程に、里見冠者義實《さとみのくわんじやよしさね》は、杉倉堀內に導《みちびか》れて、十|町《ちやう》あまり落延《おちのぴ》つ、「さるにても嚴君《ちゝきみ》は、いかになり果《はて》給ひけん。おぼつかなし」、といくそたび、馬の足掻《あがき》を駐《とゞ》めつゝ、見かへる方《かた》は鬨《とき》の聲、矢叫《やさけぴ》の音囂《こゑかしま》しく、はや落城《らくぜう》とおぼしくて、猛火《みやうくわ》の光|天《てん》を焦《こが》せば、「吐嗟《あなや》」とばかり叫《さけ》びあへず、そがまゝ靮《たづな》ひきしぼりて、騎《のり》かへさんとしたりしかば、兩個《ふたり》の老黨《ろうだう》左右より、轡《くつわ》に携《すがり》て動《うごか》せず、「こは物體《もったい》なし。今更《いまさら》に、ものにや狂ひ給ふらん。大殿《おほとの》の敎訓を、何《なに》とか聞召《きこしめし》たるぞ。今|落《おと》さるゝ城に還《かへり》て、可惜《あたら》おん身を喪《うしなひ》給はゞ、古歌《こか》にも詠《よめ》る夏蟲《なつむし》の、火むしよりなほ果敢《はか》なき所爲《わざ》なり。夫大信《それたいしん》は信ならず、大孝《たいこう》は孝なき如《ごと》し、と古人《こじん》の金言《きんげん》日來《ひごろ》より、口順《くちすさみ》給ふには似げなし。凡《およそ》貴《たか》きも賤《いやし》きも、忠孝《ちうこう》の道は一條《ひとすぢ》なるに、迷ひ給ふはいかにぞや。こなたへ來ませ」、と牽駒《ひくこま》の、こゝろも狂ふ孝《こう》子《し》の哀傷《あいしやう》、頻《しき》りに焦燥《いらだつ》聲もはげしく、「放《はな》せ貞行、禁《とむ》るな氏元。伱達《なんたち》が諫言《かんげん》は、親の御《み》こゝろなるべけれど、今これをしも忍《しの》びなば、われ人の子といはれんや。放せ/\」、と鞭《むち》を揚《あげ》て、打《うて》どあふれど玉匣《たまくしげ》、ふたり等《ひと》しき忠臣《ちうしん》の、拳《こぶし》は金石《きんせき》、些《ちつと》も緩《ゆる》めず、鞭《うた》るゝ隨《まゝ》に牽《ひい》てゆく、馬壇《うまで》、鞍懸《くらかけ》、柳坂《やなぎさか》、けふりは後《あと》に遠離《とほざか》る、火退林《ひのきばやし》のほとりにて、勝誇《かちほこつ》たる鐮倉|勢《ぜい》、二十騎あまり追蒐來《おつかけき》つ、「遖武者態《あつはれむしやぶり》、逸足《にげあし》はやし。緋威《ひおどし》の鎧《よろひ》着て、五枚冑《ごまいかぶと》の鍬形《くわがた》の、閒《あはひ》に輝《かゞや》く白銀《しろかね》もて、中黑《なかぐろ》の紋挫《もんうつ》たるを、大將《たいせう》と見るは僻目欤《ひがめか》。蓬《きたな》し返せ」、と呼《よぴ》かけたり。義實は些《ちつと》も擬議《ぎき》せず、「あながまや雜兵《ざふひやう》ばら。敵をおそれて走るにあらねば、返すに難《かた》きことあらんや」とて、馬をきりゝと立《たて》なほし、大刀《たち》拔翳《ぬきかざし》て進み給ふ。大將を擊《うた》せじとて、杉倉堀內|推竝《おしならん》で、敵《かたき》の矢面《やおもて》に立塞《たちふさが》り、鎗《やり》を捻《ひねつ》て突崩《つきくづ》す。義實は亦老黨《またろうたう》を、擊《うた》せじとて馬を馳《はせ》よせ、前後《ぜんご》を爭ふ主從《しゆうじゆう》三騎、大勢《たいせい》の眞中《まんなか》へ、十文字《じうもんじ》に蒐通《かけとほつ》て、軈《やが》て巴字《はのじ》にとつて返し、鶴翼《くわくよく》に連《つらなつ》て、更に魚鱗《ぎよりん》にうち遶《めぐ》り、西に當り、東に靡《なび》け、北を擊《うつ》ては、南に走《はしら》せ、馬の足を立《たて》させず。三略《さんりやく》の傳《でん》、八陣《はちゞん》の法《はう》、共に知《しつ》たる道なれば、目今《たゞいま》前にあるかとすれば、忽然《こつぜん》として後《しりへ》にあり、奮擊突戰《ふんげきとつせん》祕術《ひじゆつ》を竭《つく》す、千變萬化《せんぺんばんくわ》の大刀風《たちかぜ》に、さしもの大勢亂騷《たいせいみだれさわ》ぎて、むら/\はつと引退《ひきしりぞ》く。敵|退《しりぞ》けば杉倉|等《ら》は、主《しゆう》を諫《いさめ》て徐々《しづしづ》と、落《おつ》るを更《さら》に跟《つけ》て來る、端武者《はむしや》は遠箭《とほや》に射《い》て落《おと》し、追ひつかへしつ林原《しもとはら》、三里《さんり》が程を送られて、終《つひ》には落《おつ》る夕日の迹《あと》に、十六日の月|圓《まどか》なり。

 こゝより追來《おひく》る敵なければ、主從《しゆうじゆう》不思議《ふしぎ》に虎口《こゝう》を脫《のが》れて、その夜《よ》は白屋《くさのや》に宿《やど》りを投《もと》め、旦立《あさだち》の置土產《おきみやげ》に、馬物具《うまものゝぐ》をあるじにとらせて、姿を窶《やつ》し、笠《かさ》をふかくし、東西《とうさい》すべて敵地なれども、聊志《いさゝかこゝろざ》すかたなきにあらねば、相摸路《さがみぢ》へ走りつゝ、第三日《だいみつか》にして三浦《みうら》なる、矢取《やとり》の入江に着《つき》給ふ。固《もと》より裹《つゝ》む糧《かて》もなく、盤纏乏《ろようとも》しき落人《おちうど》と、なりも果《はて》たる主從は、いといたう餓疲《うへつか》れて、松が根に尻をかけ、遙《はるか》に後《おく》れし堀內藏人貞行《ほりうちくらんどさだゆき》を俟着《まちつげ》て、安房《あは》の州《くに》へ渡さんとて、轍《わだち》の鮒《ふな》の息吻《いきつき》あへず、見わたす方《かた》は目も迥《はる》に、入江に續く靑海原《あをうなはら》、波しづかにして白鴎《はくおう》眠《ねふ》る、比《ころ》は卯月《うづき》の夏霞《なつがすみ》、挽遺《ひきのこ》したる鋸山《のこぎりやま》、彼《あれ》かとばかり指《ゆぴさ》せば、こゝにも鑿《のみ》もて穿《うがち》なし、刀《かたな》して削《けづ》るがごとき、靑壁峙《せいへきそはたち》て見るめ危《あやう》き、長汀曲浦《ちやうていきよくほ》の旅の路《みち》、心を碎《くだ》くならひなるに、雨を含《ふくめ》る漁村《ぎよそん》の柳《やなぎ》、夕《ゆふベ》を送る遠寺《ゑんじ》の鐘《かね》、いとゞ哀《あは》れを催《もよは》すものから、かくてあるべき身にしあらねば、頻《しきり》に津《わたり》をいそげども、舩一艘《ふねいつそう》もなかりけり。

 當下《そのとき》杉倉木曾介氏元《すぎくらきそのすけうぢもと》は、苫屋《とまや》の門《かど》に乾魚《ひを》とり納《い》るゝ、白水郞《あ ま》が子どもをさし招き、「喃髫髦等《なううなゐら》にもの問《とは》ん。前面《むかひ》へわたす舟はなきや。熟《なれ》ぬ浦曲《うらわ》に流浪《さそら》ひて、いとゞしく餓《うへ》たるに、われはともあれこの君へ、物あらば進《まゐ》らしね」、と他事《たじ》なくいへば、そが中に、年十四五なる惡太郞《あくたらう》、赤熊《しやぐま》に似たる額髮《ひたゐがみ》、潮風《しほかぜ》に吹黑《ふきくろま》れし、顏に垂《た》るゝを掻《かき》も揚《あげ》ず、揉《ねぢ》斷《き》るごとき靑涕《あをはな》を、啜《すヽ》り籠《こめ》つゝすゝみ出《いで》、「癡《しれ》たることをいふ人かな。打《うち》つゞく合戰《かつせん》に、舩《ふね》は過半借《おほかたかり》とられて、漁獵《すなどる》だにも物足らぬに、誰《たれ》かは前面《むかひ》へ人をわたさん。されば又この浦に、汲《く》む鹽《しほ》よりもからき世は、わが腹《はら》ひとつ肥《こや》しかぬるに、馴《なれ》もえしらぬ人の飢《うへ》を、救《すく》ふべき糧《かて》はなし。堪《たへ》がたきまで脾撓《ひだゆ》くは、これを食《くら》へ」、とあざみ誇《ほこつ》て、塊《つちくれ》を掻取《かいとり》つゝ、投《なげ》かけんとする程に、氏元はやく身をひらけば、塊《つちくれ》は衝《つ》と飛越《とぴこえ》て、松が根に尻をかけたる、義實《よしざね》の胸前《むなさき》へ、閃《ひらめ》き來《く》れば自若《じじやく》として、左のかたへ身を反《そ》らし、右手《めて》にぞこれを受《うけ》給ふ。現憎《げににく》むべき爲體《ていたらく》に、氏元は霎時《しばし》も得堪《えたへ》ず、眼《まなこ》を睜《みは》り、聲をふり立《たて》、「こは嗚乎《をこ》なる癖者《くせもの》かな。旅なればこそ汝等《なんぢら》に、一碗《いちわん》の飯《いひ》を乞《こひ》もすれ、糧《かて》なくはなしといふとも、辭《ことば》に物は沒《いる》まじきに、無禮《なめげ》なる所行《わざ》も限りあり。いでその頤斬砍《おとがいきりさき》て、思ひしらせん」、と敦圉《いきまき》つゝ、刀の鞆《つか》に手を掛《かけ》て、走り擊《うた》んとしたりしかば、義實急に召禁《よぴとゞ》め、「木曾介|大人氣《おとなげ》なし。麒驥《きき》も老《おい》ては駑馬《どば》に劣《おと》り、鸞鳳《らんほう》も窮《きう》すれば、蟻蜋《ぎらう》の爲に苦《くるし》めらる。昨《きのふ》はきのふ、今《けふ》はけふ、よるべなき身を忘れし欤《か》。彼等《かれら》は敵手《あいて》に足らぬもの也。つら/\ものを案《あん》するに、土《つち》はこれ國の基《もと》也。われ今|安房《あは》へ渡るに及びて、天その國を給ふの兆《きざし》欤《か》。彼を無禮《なめげ》也と見るときは、憎むに堪《たへ》たり。これを吉祥《よきさが》とするときは、歡《よろこ》ぶべき事ならずや。晉《しん》の文公《ぶんこう》が五鹿《ごろく》(曹國《そうのくに》の地名也)の故事《ふること》、よく今日《こんにち》のことに似たり。賀《が》すべし/\、とみづから祝《しゆく》して、塊《つちくれ》を三度戴《みたぴいたゞ》き、そがまゝ懷《ふところ》へ挾《おさめ》給へば、氏元もやゝ曉《さとり》て、刀の鞆《つか》に掛《かけ》し手と、共に怒りを解《とき》おさめ、そのゆくすゑは憑《たのも》しき、主君を壽《ことぷ》き奉れば、白水郞《あ ま》が子どもは掌《て》を拍《うち》て、いよ/\あざみ笑ひけり。

 時に磯山《いそやま》、雲|叢立《むらだち》て、海面俄頃《うみつらにはか》に晦《くろみ》わたり、磁石《ぢしやく》に塵《ちり》の吸《すは》るゝごとく、潮水頻《うしほしき》りに逆《さか》上《のぼ》り、風|颯《さと》おとす程こそあれ、雨は彼鞆岡《かのともおか》の篠《しの》より繁《しげ》く降《ふり》そゝぎ、電光《いなひかり》まなくして、雷《かみ》さへおどろ/\しく、落《おち》かゝるべく鳴撲《なりはため》けば、侲僮《わらはべ》どもは劇騷《あわてさわ》ぎて、苫屋々々《とまやとまや》に走入《はしりい》り、裡《うち》より鎖《とざ》して、敲《たゝ》けども開《あ》けず。かくてぞ義實主從は、笠《かさ》やどりせんよしのなければ、入江の松の下蔭《したかげ》に、笠《かさ》を翳《かざ》して立《たち》給ふ。さる程に、風雨ます/\烈《はげし》くて、或《あるひ》は晦《くら》く、或《あるひ》は明《あか》く、よせては碎《くだ》け、碎けては、立《たち》かへる浪《なみ》を包《つゝみ》て、廻翔《まひさが》る雲の中《うち》に、物こそあれ、と見る目〓[眷+見]《めまばゆ》く、忽然《こつぜん》として白龍《はくりう》顯《あらは》れ、光を放ち、波をまき立《たて》、南を投《さし》てぞ飛去《とびさり》ける。且《しばらく》して、雨|霽《はれ》、雲おさまり、日は沒《いり》ながら影はなほ、海に殘りて波をいろとり、梢《こずゑ》を傳《つた》ふ松の雫《しづく》、吹拂《ふきはら》ふ風に散る玉は、沙石《いさご》の中《うち》に輾沒《まろぴい》る。山は遠《とほう》して、翠《みどり》ふかく、巖《いはほ》は靑《あをう》して、いまだ乾《かは》かず。瞻望《ながめ》に倦《あか》ぬ絕景佳境《ぜつけいかきやう》も、身の憂《うき》ときはこゝろ止《とま》らず。氏元は義實の、衣《きぬ》の濕吹氣《しぶき》を拂ひなどして、後《おく》れたる貞行を、今か/\と俟《まつ》程に、義實|海面《うみつら》を指《ゆぴさ》して、「向《さき》に雨いと烈しくて、立騷《たちさわ》ぎたる浪の閒《あはひ》に、叢雲頻《むらくもしき》りに廻翔《まひさが》り、彼岩《あのいは》のほとりより、白龍《はくりう》の升《のぼ》りしを、木曾介は見ざりし歟《か》」、と問《とは》れて直《ひた》と足を跪《つまだて》、「龍《たつ》とは認め候はねど、あやしき物の股《もゝ》かとおぼしく、輝《てり》かゞやくこと鱗《うろこ》のごときを、僅《はつか》に見て候」、といへば義實《よしざね》うち點頭《うなづき》、「さればこそその事なれ。われはその尾と足のみ見たり。全身を見ざりしこと、憾《うら》むべく惜《をしむ》べし。夫龍《それたつ》は神物《かみつもの》也。變化固《へんくわもと》より彊《きわまり》なし。古人《いにしへのひと》いへることあり。龍《たつ》は立夏《りつか》の節《せつ》を俟《まち》て、分界《ぷんかい》して雨を行《やる》。これを名《なづ》けて分龍《ぶんりう》といふ。今は則《すなはち》その時也。夫龍《それたつ》の灵《れい》たるや、|昭々《せうせう》として迩《ちか》く顯《あらは》れ、|隱々《いんいん》として深く潛《ひそ》む。龍《たつ》は誠《まこと》に鱗蟲《うろくず》の長《おさ》也。かゝる故《ゆゑ》に、周公易《しうこうゑき》を繋《つな》ぐとき、龍《たつ》を聖人《せいじん》に比《たくらべ》たり。しかりといへども、龍《たつ》は欲《よく》あり、聖人の無欲《むよく》に及《しか》ず。こゝをもて、人|或《あるひ》はこれを豢《かひ》、或《あるひ》は御《のり》、あるひは屠《ほふ》る。今はその術|傳《つたふ》るものなし。又|佛說《ぷつせつ》に龍王經《りうわうきやう》あり。大凡《おほよそ》雨を祷《いの》るもの、必《かならず》まづこれを誦《よむ》。又|法華經《ほけきやう》の提婆品《だいばぼん》に、八歲《はつさい》の龍女《りうによ》、成佛《ぜうぶつ》の說あり。善巧《ぜんこう》方便《ほうぺん》也といふとも、祷《いのり》て驗《しるし》を得《う》るものあり。この故《ゆゑ》に、龍《たつ》を名つけて雨工《うこう》といふ。亦《また》これを雨師《うし》といふ。その形狀《かたち》を辨《べん》するときは、角《つの》は鹿《しか》に似て、頭《かうべ》は駝《うま》に似たり。眼《まなこ》は鬼に似て、項《うなぢ》は蛇《へみ》に似たり。腹《はら》は蜃《みづち》に似て、鱗《うろこ》は魚《うを》に似たり。その爪《つめ》は鷹《たか》の似《ごと》く、掌《たなそこ》は虎《とら》の似《ごと》く、その耳は牛に似たり。これを三停九似《さんちやうきうじ》といふ。又その含珠《たま》は頷《ほう》にあり。司聽《きく》ときは角《つの》を以《もつて》す。喉《のんど》の下《した》、長徑尺《わたりいつしやく》、こゝを逆鱗《げきりん》と名づけたり。物あつてこれに中《あた》れば、怒《いか》らずといふことなし。故《ゆゑ》に天子《てんし》の怒《いか》り給ふを、逆鱗とまうす也。雄龍《をたつ》の鳴《なく》ときは、上に風ふき、雌龍《めたつ》の鳴《なく》ときは下に風ふく。その聲|竹筒《ふえ》を吹《ふく》ごとく、その吟《ぎん》ずるとき、金鉢《こがねのはち》を戞《する》が如し。彼《かれ》は敢衆行《あへてつれたちゆ》かず、又|群處《むらがりをる》ことなし。合《がつ》するときは體《たい》をなし、散《さん》するときは章《せう》をなす。雲氣《うんき》に乘《じやう》じ、陰陽《いんよう》に養《やしなは》れ、或《ある》は明《あきらか》に、或《ある》は幽《かすか》なり。大《おほき》なるときは宇宙《うちう》に徜徉《せうよう》し、小《ちひさ》なるときは、拳石《けんせき》の中《うち》にも隱《かく》る。春分《しゆんぷん》には天に登り、秋分《しうぷん》には淵《ふち》に入《い》り、夏を迎《むかふ》れば、雲を凌《しのぎ》て鱗《うろこ》を奮《ふる》ふ。これその時を樂《たのしむ》也。冬としなれば泥《どろ》に淪《しづ》み、潛《ひそまり》蟠《わだかまつ》て、敢《あへて》出《いで》ず。これその害を避《さく》る也。龍《たつ》は尤《すぐれて》種類多し。飛龍《ひりやう》あり、應龍《おうりう》あり、蛟龍《こうりう》あり、先龍《せんりう》あり、黃龍《くわうりやう》あり、靑龍《せいりやう》あり、赤龍《しやくりう》あり、白龍あり、元龍《げんりやう》あり、黑龍《こくりやう》あり。白龍《はくりう》物を吐《はく》ときは、地に入《いり》て金《こかね》となり、紫龍《しりう》涎《よだれ》を垂《た》るゝときは、その色|透《とほり》て玉の如し。紫稍花《しせうくわ》は龍《たつ》の精《せい》也。蠻貊鬻《ばんはくひさい》で藥《くすり》に入《いる》る。鱗《うろこ》あるは蛟龍《みづち》なり。翼《つばさ》あるは應龍《おうりやう》也。角《つの》あるを〓[草冠+黽]龍《きんりう》といひ、又|叫龍《きうりやう》ともこれをいふ。角《つの》なきを〓[多+它]龍《たりやう》といひ、又これを璃龍《りりやう》といふ。又|蒼龍《さうりう》は七宿《しちしゆく》也。班龍《はんりう》は九色《くしき》なり。目百里《めにひやくり》の外《ほか》を見る、これを名《なづ》けて驪龍《りりやう》といひ、優樂自在《ゆうらくじざい》なるものを、福龍《ふくりやう》と名《なつ》けたり。自在《じざい》を得ざるは薄福龍《はくふくりやう》、害をなすはこれ惡龍《あくりやう》、人を殺すは毒龍《どくりやう》也。又|苦《くるしみ》て雨を行《やる》、是則垂龍《これすなはちすいりう》也。又|病龍《やむたつ》のふらせし雨は、その水|必《かならず》腥《なまぐさ》し。いまだ、升《せう》天《てん》せざるもの、易《ゑき》に所謂蟠龍《いはゆるはんりう》也。蜂龍は長四丈《たけよぢやう》、その色|靑黑《あをくくろう》して、赤帶《あかきよこすぢ》錦文《にしきのあや》の如し。火龍《くわりやう》は高《たかさ》七|尺《しやく》あり。その色は眞紅《しんく》にして、火焔炬《くわえんたきひ》を衆《あつむ》る如し。又|癡龍《ちりやう》あり。懶龍《だりやう》あり。龍《たつ》の性《さが》は淫《いん》にして、交《まじはら》ざる所なし。牛と交《まじは》れは、麒麟《きりん》を生み、豕《ゐのこ》に合へば象《ざう》を生み、馬と交《まじは》れば龍馬《りうめ》を生む。又九ツの子を生む說あり。第一子《だいゝちのこ》を蒲牢《ほろう》といふ。鳴《なく》ことを好むもの也。鐘《かね》の龍頭《りうづ》はこれを象《かたと》る。第二子《だいにのこ》を囚牛《しうぎう》といふ。音《なりもの》を好むもの也。琴鼓《ことつゞみ》の飾《かざり》にこれを付《つく》。第三子《だいさんのこ》を蚩物《せんぶつ》といふ。呑《のむ》ことを好むもの也。盃盞飮器《はいさんいんき》に、これを畫《ゑが》く。第四子《だいしのこ》を嘲風《ちやうふう》といふ。險《けはしき》を好むもの也。堂塔樓閣《だうだふろうかく》の瓦《かはら》、これを象《かたと》る。第五子《だいごのこ》を匝批《こうせい》といふ。殺《ころす》ことを好むもの也。大刀《たち》の飾《かざり》にこれを付《つく》。第六子《だいろくのこ》を屭屍《ふき》といふ。こは文《ふみ》を好むとなん。いにしへの龍篆《りうてん》、印材《いんざい》の杻《つまみ》、文章星《ぶんせうせい》の下に畫《ゑが》く、飛龍《ひりやう》の如き、みな是《これ》也。第七子《だいしちのこ》を狴犴《ひかん》といふ。訟《うつたへ》を好むもの也。第八子《だいはちのこ》を竣猊《しゆんげい》といふ。竣猊《しゆんげい》は乃獅子《すなはちしし》也。坐《ざ》することを好むものとぞ。倚子曲彔《いすきよくろく》に象《かたど》ることあり。第九子《だいくのこ》を霸下《はか》といふ。重《おもき》を負《おふ》を好《このむ》もの也。鼎《かなへ》の足、火爐《ひはち》の下《あし》、凡《およそ》物の枕とするもの、鬼面《きめん》のごときは則《すなはち》これなり。これらの外《ほか》に又《また》子あり。憲章《けんせう》は囚《とらはれ》を好み、饕餮《とうてつ》は水を好み、蟋蝪《しつとう》は腥《なまくさき》を好み、蠻蟾《ばんせん》は風雨《ふうう》を好み、螭虎《りこ》は文釆《あやのいろとり》を好み、金猊《きんげい》は烟《けふり》を好み、椒圖《しゆくと》は口を閉《とづ》るを好み、虭蛥《とうせつ》は險《けはしき》に立《たつ》を好み、鰲魚《ごうぎよ》は火を好み、金吾《きんぎよ》は睡《ねふら》ざるものとぞ。皆《みな》これ龍《たつ》の種類《しゆるい》なり。大《おほい》なるかな龍《たつ》の德《とく》。易《ゑき》にとつては乾《けんの》道《みち》也。物にとっては神聖《ひじり》なり。その種類の多《おほ》きこと、人に上智《せうち》と下愚《かぐ》とあり、天子匹夫《てんしひつふ》の如くなる欤《か》。龍《たつ》は威德《いとく》をもて、百獸《もゝのけもの》を伏《ふく》するもの也。天子も亦《また》威德をもて、百宦《ひやくはん》を率《ひきゐ》給ふ。故《ゆゑ》に天子に袞龍《こんりやう》の御衣《ぎよゐ》あり。天子のおん顏《かほ》を、龍顏《りうがん》と稱《たゝへ》、又おん形體《かたち》を龍體《りうたい》と唱《となへ》、怒《いか》らせ給ふを逆鱗《げきりん》といふ。みな是龍《これたつ》に象《かたと》る也。その德|枚擧《かぞへあぐ》べからず。今や白龍《はくりう》南に去《さる》。白きは源氏《げんじ》の服色《ふくしよく》也。南は則《すなはち》房總《あはかづさ》々々は皇國《みくに》の盡處《はて》也。われその尾《を》を見て頭《かうべ》を見ず。僅《はつか》に彼地《かのち》を領《れう》せんのみ。汝《なんぢ》は龍《たつ》の股《もゝ》を見たり。是《これ》わが股肱《こゝう》の臣たるべし。さは思はずや」、と正首《まめゃか》に、和漢《わかん》の書《しよ》を引《ひき》、古實《こじつ》を述《のべ》、わがゆくすゑの事さへに、思量《おもひはか》りし俊才叡智《しゆんさいえいち》に、氏元ふかく感佩《かんはい》し、「武辯《ぶべん》の家に生れても、匹夫《ひつふ》の勇《ゆう》に誇るは多く、兵書兵法《ひやうしよひやうほう》に通《つう》ずるすら、今の時には稀《まれ》なるに、なほうらわかきおん年にて、人も見ぬ書をいつのまに、讀《よみ》つくし給ひけん。さもなくておのづから、物に博《ひろ》くは天の作《なせ》る、君は寔《まこと》に良將《りやうせう》なり。今こそまうせ結城《ゆふき》にて、得死《えしな》ざりける氏元が、はじめの憾《うらみ》とうらうへなる、命めでたくけふにあふ、歡《よろこ》びこれにますものなし。斯《かう》ゆくすゑの憑《たのも》しきに、日は暮果《くれはて》て候とも、要《えう》なき入江に明《あか》さんや。安房《あは》へおん供つかまつらん。と思へども舩《ふね》はなし。天《そら》は晴《はれ》ても甲夜闇《よひやみ》に、月|待《まち》わぶる途《みち》の便《ぴん》なさ、こゝろ頻《しき》りに焦燥《いらたつ》のみ。せんすべなきは水行《ふなぢ》也。とは思はでや、後《おく》れたる、堀內貞行が今までも、まゐらざること甚不審《はなはたいぶかし》。富貴《ふうき》には他人も合《つど》ひ、まづしき時は妻子《やから》も離《はな》る。人の誠《まこと》に經《つね》なければ、渠《かれ》はや途《みち》より迯《にげ》たりけんおぼつかなく候」、といひつゝ眉根《まゆね》うちよすれば、義實《よしさね》莞尒《につこ》とうち笑《え》みて、「さな疑ひそ木曾介。老黨若黨《ろうだうわかたう》多かる中にて、彼《かれ》と汝《なんぢ》は人なみならぬ、志《こゝろざし》あればこそ、家尊大人擇《かぞのうしえらま》せ給ひて、吾儕《わなみ》に屬《つけ》させ給ふならずや。われも亦《また》貞行が人となりはよく知りつ。難に臨《のぞみ》て主《しゆう》を棄《すて》、迯《にげ》かくるゝものにあらず。今|霎時《しばし》こゝにて俟《また》ん。月も出《いづ》べき比《ころ》なるに」、と物に障《さわ》らぬ言《こと》の葉も、心の底もいと廣き、海より出《いづ》る十八日の、月おもしろき浦波《うらなみ》や、金《こかね》を集め玉《たま》を敷《しく》、龍宮城《たつのみやこ》もかくやらんとて、主從《しゆうじゆう》額《ひたゐ》に手を翳《かざ》し、思はずも木蔭《こかげ》をはなれて、波打際《なみうちきわ》へ寄《より》給ふ。

 浩處《かゝるところ》に快舩一艘《はやふねいつそう》、水崎《みさき》のかたより漕出《こぎいで》たり。「こなたへもや」、と見る程に、はやきこと矢の如く、閒《あはひ》ちかくなるまゝに、舩《ふね》の中《うち》より聲たかく、〽《いおりてん》契《ちぎり》あれば、卯《う》の葉|葺《ふき》ける、濱屋《はまや》にも、龍《たつ》の宮媛《みやひめ》、かよひてしかな、と口實《くちすさ》む一首の古歌《こか》(仲正家集《なかまさかしゆう》)を、水主《かこ》は何《なに》とも聞《きゝ》しらでや、そがまゝに漕着《こぎつけ》しかば、件《くだん》の人は纜《ともつな》を、砂《いさこ》の中《うち》へ投《なけ》かけて、その身も閃《ひら》りと登《のほ》り立《たつ》を、と見れば堀內貞行《ほりうちさだゆき》。「こは/\いかに」、とこなたの主從、縡問㒵《こととひがほ》に先に立《たち》て、舊《もと》の樹下《このもと》に坐《ざ》を占《しむ》れば、貞行は松の下葉《したは》を、掻《かき》よせて小膝《こひざ》を著《つき》、「向《さき》に相模路《さがみぢ》へ入《い》りしより、渡海不便《とかいふぺん》に候よしを、仄《ほのか》に聞《きゝ》て候へば、捷徑《ちかみち》より先へ走《はしり》て、是首《ここ》彼首《かしこ》なる苫屋《とまや》にて、津《わたり》を求《もとむ》れども舩《ふね》を出《いだ》さず。ゆき/\て水崎《みさき》に赴《おもむ》き、漁舟《すなとりふね》を借得《かりえ》たれども、餓《うへ》させ給ふ事もやとて、飯《いひ》を炊《かしか》せ候|程《ほど》に、雷雨《らいう》烈しくなりしかば、思はず彼處《かしこ》に日を消《くら》し、かくの如く遲參《ちさん》せり。はじめよりこれらのよしを、申上候はねば、いぶかしくおぼし召《めし》けん」、といふを義實|聞《きゝ》あへず、「さればこそいはざる事|歟《か》。われはさらなり木曾介も、こゝらに舩《ふね》のありなしは、一切《つやつや》思ひかけざりき。もし藏人《くらんど》なかりせば、今宵《こよひ》いかでか安房《あは》へわたさん。寔《まこと》にこよなき才學《さいかく》なれ」、と只管嘆賞《ひたすらたんせう》し給へば、氏元は額《ひたゐ》を拊《なで》、「人の才《さえ》の長き短き、かくまで差別《けぢめ》あるもの歟《か》。やよ藏人ぬし、かゝる時には疑念《ぎねん》も發《おこ》りぬ。おのが心の淺瀨《あさせ》にまよへば、深き思慮ある和殿《わどの》を狹《さみ》して、今までわろくいひつる也」、と咲《えみ》つゝ吿《つぐ》れば、貞行は、腹を抱《かゝへ》てうち笑ふ。現二鞘《げにふたさや》の隔《へだて》なき、兵士《つわもの》の交《まじはり》は、かくこそあれ、と義實も、共に笑坪《えつぼ》に入《いり》給ふ。かくて又義實は、藏人貞行にうち對《むか》ひ、「われは前面《むかひ》へ渡りかねて、こゝに汝《なんぢ》を待《まつ》ほどに、塊《つちくれ》の賜《たまもの》あり。又|白龍《はくりう》の祥瑞《せうずい》あり。これらは舩《ふね》にて譚《かたらは》ん」、と宣《のたま》ふ聲を聞《きゝ》とりてや、水主《かこ》は手を抗《あげ》、さし招き、「月もよし、風もよし。とく/\舩《ふね》に乘給へ」、と促《うなが》す隨《まゝ》に主從|三人《みたり》、乘れば搖揚《ゆらめ》く棚《たな》なし小舟《をふね》、水主《かこ》は纜《ともづな》手繰《たぐり》よせて、取《とり》なほす棹《さを》のうたかたの、安房を望《さし》てぞ漕去《こぎさり》ぬ。

底本:ちえまの館(現在はアクセスできない)
初校正:2005年3月25日
今回の校正:2025年3月18日

南総里見八犬伝(001)

 しばらく更新が滞っていたが、テキスト中心の記事ゆえ、著作権の切れた著作のアップをボツボツ再開…

 南総里見八犬伝のテキストとして、「ふみくら」氏のサイトがある。残念ながら、第30回までであり、HTML 版はコードが、Shift-JIS である。そこで、「序文」類を、UNICODE に変換し、掲載する。

注】UNICODE に変換できない漢字は、「〓」で示し、[]内に、漢字を分解した。ルビなどは、青空文庫形式に準じた。


『南總里見八犬傳』第一回より「序文」など

【外題】
里見八犬傳 肇輯 巻一

【見返】
曲亭主人藁本\南總里見八犬士傳\柳川重信像\山青堂

【序】書き下し
八犬士傳序[噪野風秋]
初め里見氏の安房に興るや、徳誼以て衆を率ゐ、英略以て堅を摧く。二總を平呑して、之れを十世に傳へ、八州を威服して、良めて百將の冠たり。是の時に當て、勇臣八人有り。各犬を以て姓と爲す。因て之を八犬士と稱す。其れ賢虞舜の八元に如ずと雖ども、忠魂義膽、宜しく楠家の八臣と年を同して談ずべきなり。惜い哉筆に載する者當時に希し。唯だ坊間の軍記及び槇氏が『字考』、僅かに其姓名を識るに足る。今に至て其の顛末を見る由し無し。予嘗て之を憾む。敢て残珪を攻めんと欲す。是より常に舊記を畋獵して已まず。然ども猶考据有ること無し。一日低迷して寝を思ふ。〓[黒+犬+目]聴の際だ、客南總より來る有り。語次八犬士の事實に及ぶ。其の説軍記傳所の者と同からず。之を敲けば則ち曰く、「曾て里老の口碑に出たり。敢て請ふ主人之を識せ」予が曰「諾、吾れ將に異聞を廣ん」と。客喜て而して退く。予之を柴門の下りに送る。臥狗有り。門傍に在り。予忙として其の尾を踏めば、苦聲倏ち足下に發る。愕然として覺め來れば、則ち南柯の一夢なり。頭を回して四下を覽れば。茅茨客無く。柴門に狗吠無し。言《コヽニ》熟/\客談を思へば、夢寐と雖ども捨つべからず。且に之を録せんとす。既にして忘失半ばに過ぐ。之を何奈すること莫し。竊かに唐山の故事を取りて。撮合して以て之を綴る。源禮部が龍を辨ずるが如きは。王丹麓が『龍經』に根つく。靈鴿書を瀧城に傳るが如きは。張九齢の飛奴に擬す。伏姫八房に嫁するが如きは。高辛氏其の女を以て槃瓠に妻すに傚へり。其の他毛擧に遑あらず。數月にして五巻を草す。僅に其の濫觴を述て。未だ八士の列傳を創せず。然と雖ども書肆豪奪して諸を梨棗に登す。刻成て又其の書名を乞ふ。予漫然として敢て辭せず。即ち『八犬士傳』を以て之に命す。
文化十一年甲戌秋九月十九日。筆を著作堂下の紫鴛池に洗ぐ。
   簑笠陳人觧撰
  [曲亭馬琴著作堂之印][乾坤一草亭]

【序】原文
八犬士傳序[噪野風秋]
初里見氏之興於安房也。徳誼以率衆。英略以摧堅。平呑二總。傳之于十世。威服八州。良爲百將冠。當是時。有勇臣八人。各以犬爲姓。因稱之八犬士。雖其賢不如虞舜八元。忠魂義膽。宜與楠家八臣同年談也。惜哉載筆者希於當時。唯坊間軍記及槇氏字考。僅足識其姓名。至今無由見其顛末。予嘗憾之。敢欲攻残珪。自是常畋猟舊記不已。然猶無有考据。一日低迷思寝。〓[黒+犬+目]聴之際。有客自南總來。語次及八犬士事實。其説與軍記所傳者不同。敲之則曰。曽出于里老口碑。敢請主人識之。予曰諾。吾將廣異聞。客喜而退。予送之于柴門下。有臥狗。在門傍。予忙乎踏其尾。苦聲倏發于足下。愕然覺來。則南柯一夢也。回頭覽四下。茅茨無客。柴門無狗吠。言熟々思客談。雖夢寐不可捨。且録之。既而忘失過半。莫奈之何。竊取唐山故事。撮合以綴之。如源禮部辨龍。根于王丹麓龍経。如霊鴿傳書於瀧城。擬張九齢飛奴。如伏姫嫁八房。倣高辛氏以其女妻槃瓠。其他不遑毛擧。數月而草五巻。僅述其濫觴。未創八士列傳。雖然書肆豪奪登諸梨棗。刻成又乞其書名。予漫然不敢辞。即以八犬士傳命之。
文化十一年甲戌秋九月十九日。洗筆於著作堂下紫鴛池。
   簑笠陳人觧撰
  [曲亭馬琴著作堂之印][乾坤一草亭]

【再識】
世《よ》にいふ里見《さとみ》の八犬士《はつけんし》は、犬山《いぬやま》道節《どうせつ》〔乳名《をさなゝ》道松《みちまつ》〕、犬塚《いぬつか》信乃《しなの》〔乳名《をさなゝ》志之《しの》〕、犬坂《いぬさか》上毛《かふつけ》〔乳名《をさなゝ》毛野《けの》〕、犬飼《いぬかひ》見八《けんはち》〔乳名《をさなゝ》玄吉《げんきち》〕、犬川《いぬかは》荘佐《せうすけ》 、犬江《いぬえ》親兵衞《しんべゑ》〔乳名《をさなゝ》真平《しんへい》〕、犬村《いぬむら》大角《たいかく》〔乳名《をさなゝ》角太郎《かくたらう》〕、犬田《いぬた》〓吾《ぶんご》〔乳名《をさなゝ》小文吾《こぶんご》〕、則《すなはち》是《これ》なり。その名《な》軍記《ぐんき》に粗《ほゞ》見えて、本貫《ほんくわん》終始《じうし》を審《つばら》にせず。いと惜《をし》むべき事ならずや。よりて唐山《もろこし》高辛氏《こうしんし》の皇女《くわうによ》、槃瓠《はんこ》〔犬《いぬ》の名《な》也〕に嫁《か》したる故事《こじ》に做《なら》ふて、個《この》小説《せうせつ》を作設《つくりまうけ》、因《いん》を推《おし》、果《くわ》を説《とき》て、婦幼《ふよう》のねふりを覺《さま》すものなり。
肇輯《ぢやうしゆう》五巻《ごくわん》は、里見《さとみ》氏《うぢ》の、安房《あは》に起《おこ》れるよしを演《のぶ》。亦《また》是《これ》唐山《もろこし》演義《ゑんぎ》の書《しよ》、その趣《おもむき》に擬《ぎ》したれば、軍記《ぐんき》と大同《だいどう》小異《せうゐ》あり。且《かつ》狂言《きやうげん》綺語《きぎよ》をもてし、或《あるひ》は俗語《ぞくご》俚諺《りげん》をまじへ、いと嗚呼《をか》しげに綴《つゞ》れるは、固《もと》より翫物《もてあそびもの》なれば也。
この書《しよ》第八回《だいはつくわい》、堀内《ほりうち》蔵人《くらんと》貞行《さだゆき》が、犬懸《いぬかけ》の里《さと》に雛狗《こいぬ》を獲《え》たる條《くだり》より、第十回《だいしうくわい》、義実《よしさね》の息女《そくぢよ》伏姫《ふせひめ》が、冨山《とやま》の奥《おく》に入《い》る條《くだり》まで、これ全傳《ぜんでん》の發端《ほつたん》也。しかれども首尾《しゆび》具足《ぐそく》して、全體《ぜんたい》を闕《かく》ことなし。二輯《にしゆう》三輯《さんしゆう》に及《および》ては、八人《ン》おの/\列傳《れつでん》あり。來《こ》ん春《はる》毎《ごと》に嗣出《つぎいだ》して、全本《ぜんほん》となさんこと、両《りやう》三年《さんねん》の程《ほど》になん。
   簑笠陳人再識

【目録】
有像《ゑいり》南總《なんさう》里見《さとみ》八犬傳《はつけんでん》肇輯《ぢやうしゆう》總《さう》目録《もくろく》
  第一回《だいいつくわい》
季基《すゑもと》訓《をしえ》を遺《のこ》して節《せつ》に死《し》す 白龍《はくりう》雲《くも》を挾《さしはさ》んで南《みなみ》に歸《おもむ》く
  第二回
一箭《いつせん》を飛《とば》して侠者《けうしや》白馬《はくば》を誤《あやま》つ 兩郡《りやうぐん》を奪《うば》ふて賊臣《ぞくしん》朱門《しゆもん》に倚《よ》る
  第三回
景連《かげつら》信時《のぶとき》暗《ひそか》に義實《よしさね》を阻《こば》む 氏元《うぢもと》貞行《さだゆき》厄《やく》に舘山《たてやま》に從《したが》ふ
  第四回
小港《こみなと》に義實《よしさね》義《ぎ》を集《あつ》む 笆《かき》の内《うち》に孝吉《たかよし》讐《あた》を逐《お》ふ
  第五回
良將《りやうせう》策《はかりこと》を退《しりぞ》けて衆兵《しゆへい》仁《じん》を知《し》る 靈鴿《いへはと》書《しよ》を傳《つた》へて逆賊《ぎやくぞく》頭《かうべ》を贈《おく》る
  第六《だいろく》回《くわい》
倉廩《さうりん》を開《ひら》いて義實《よしさね》二郡《にぐん》を賑《にぎは》す 君命《くんめい》を奉《うけ給は》りて孝吉《たかよし》三賊《さんぞく》を誅《ちう》す
  第七回
景連《かげつら》奸計《かんけい》信時《のぶとき》を賣《う》る  孝吉《たかよし》節義《せつぎ》義実《よしさね》に辭《ぢ》す
  第八回
行者《ぎやうじや》の石窟《いはむろ》に翁《おきな》伏姫《ふせひめ》を相《さう》す  瀧田《たきた》の近邨《きんそん》に狸《たぬき》雛狗《いぬのこ》を養《やしな》ふ
  第九回
盟誓《ちかひ》を破《やぶ》つて景連《かげつら》兩城《りやうぜう》を圍《かこ》む  戲言《けげん》を信《しん》じて八房《やつふさ》首級《しゆきう》を獻《たてまつ》る
  第十回
禁《きん》を犯《おか》して孝徳《たかのり》一《いつ》婦人《ふじん》を喪《うしな》ふ  腹《はら》を裂《さ》きて伏姫《ふせひめ》八犬子《はつけんし》を走《はし》らす
 肇輯《ぢやうしゆう》題目《だいもく》通計《つうけい》一《いち》十《しう》回《くわい》完《まつたし》

【口絵】
浪中龍門に上り去ことを得て 歎ぜず江河歳月の深を

 里見《さとみ》治部《ぢぶの》大輔《たゆう》義實《よしさね》

碓子尓《からうすに》舂忍光八《つきおしてるや》
難波江乃《なにはえの》始垂母辛之《はたれもからし》河尓加久尓世波《かにかくによは》 著作堂

 金碗《かなまり》八郎《はちらう》孝吉《たかよし》

周公恐懼す流言の日
王莽謙恭す士に下る時
若し當年にして身便ち死せ使めば
今に至りて真偽誰知ること有らん
白居易讀史の詩

 山下《やました》柵《さく》左衞門尉《さゑもんのぜう》定包《さだかね》
 神餘《じんよ》長挾《ながさの》介《すけ》光弘《みつひろ》が嬖妾《おんなめ》玉梓《たまつさ》

何事をおもひけりともしられしな えみのうちにもかたなやはなき 衣笠内府

 安西《あんさい》三郎《さふらう》太夫《たいふ》景連《かけつら》
 麻呂《まろの》小五郎《こごらう》信時《のぶとき》
 堀内《ほりうち》藏人《くらんと》貞行《さたゆき》
 朴平《ぼくへい》
 無垢三《むくざう》
 杉倉《すきくら》木曽介《きそのすけ》氏元《うぢもと》

深宮に飽食の獰を恣にし
毯に臥し氈に眠て慣れて驚かず
却て簾を捲く人に放出されて
宜男花下新晴に吠ゆ
元貢性之詩

 伏姫《ふせひめ》
 里見《さとみ》義實《よしさね》の愛犬《あいけん》八房《やつふさ》

正夢《まさゆめ》と置行《おきゆく》鹿《しか》や照射山《ともしやま》 東岡舎羅文

 金碗《かなまり》大輔《だいすけ》孝徳《たかのり》

「八犬子《はつけんし》髫歳白《あげまきのとき》地蔵《かくれあそび》之《の》圖《ず》」

平居恃むこと勿れ汝か青年なるを
此青年に趁て好く勉めよや旃
あげまきはあとだにたゆる庭もせに おのれ結べとしげる夏草 定家卿和歌

 犬山道松 犬飼玄吉 犬川荘助 犬田小文吾 犬坂毛野《けの》 犬村角太郎 犬江真平 犬塚信乃《しの》
 ヽ大《ちゆだい》和尚《おせう》

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曲亭家方賣剤畧目[乾坤一草亭]
○巻端半頁の餘帋あるをもて営生要緊の旨を録して恭しく四方の君子に告奉ること左の如し
家傳神女湯 一包百銅  こはこの作者が家傳の良方婦人諸病の神薬にしてわきて産前産後ちのみちに即功あり。
さるにより相傳五世に及て家に難産《なんざん》夭折《わかしに》の婦人あることなし。用ひやうはつばらにつゝみ紙にしるしつ。ちかき比はいよゝます/\その功《こう》抜群《ばつくん》自餘《じよ》の賣剤《ばいざい》にまされるよしにて求め給ふ君子少《すくな》からず。いと歡《よろこば》しきことになん。
つぎ虫の妙薬 一包六十四銅 半包三十二銅  婦人毎月つきやくになり給ふときつぎむしにいためらるゝに用ひて甚妙也。又産後におり物くだりかぬるによし。すべて月やく不順に功あり。
精製竒應丸 大包〔二百粒余入〕代弐朱 中包〔三十六りう入〕代一匁五分 小包〔十一粒入〕代五分 〔但五分より下小うり不仕候〕
世にきおふ丸夛しといへども製方等閑《なほさり》にしてやくしゆに極品をえらまざれは竒應丸の名ありといふともきおふ丸の功のうなし。こゝに製するところ薬種のあたひをいとはず分量《ぶんりやう》すべて法にしたがひ製法尤つゝしめり。是をよのつねの竒應丸にくらぶれはその功百倍《ばい》万倍也。
諸病針灸ほどこし療治 毎月七日 廾七日
是まで廾三日なりしを廾七日とす。朝四ッときより。所望の人々は入來せよ。いさゝかも謝物はうけ不申。こは孩児が宿願によりその師小坂先生出席点誌す。
右製藥弘所並に施療 江戸元飯田町中坂下南側四方みそ店向 瀧澤氏精製 [曲亭]
取次所 △大坂心齋橋筋唐物町南へ入 書林河内屋太介 △江戸芝神明前 書肆いつみや市兵衞
 ○招牌及報条能書必乾坤一草亭の印記あり此印なきは偽剤に係る

中井正一「土曜日」巻頭言(11)

◎正月の気分は遠い追憶に似ている  一九三七年一月五日

 一九三七年が全世界に一様に来ることは何でもないようだが、人間全体に一様の親しい感じがするものである。「元旦や昨日の鬼が礼に来る」といったように、年のはじめは対立感情がフトなくなる日である。
 一体お祭りとか騒動は人を結びつけるものである。東京震災のとき『ロンドン・タイムズ』は、「かかる災害にあって、人間は文明のヴェールがいかに薄いかを知る。日本は今やS・O・Sをかかげるべきである。全世界は直ちにこれを救いにいかねばならない」と書いた。米国からは食糧や毛布や靴や義援金を積んで軍艦が全速力をもってやってきた。
 そこには何の私心もありえようがないほどの咄嗟のことであった。これがあたりまえの人の心であり、これでさえあれば何の悲しみも怖れも、この三七年度にはないわけである。
 文明のヴェールはいつでも人間にとって薄いのだし、全世界の人間は、ただでさえ、そう楽に生きてはいないのである。東京震災のあの瞬間に全世界にあたえたショックのような気持ちが永くつづいてくれさえしたら、わが世は永遠の正月気分なのである。課長も社員も、やあおめでとうといったような正月気分でいられたらどんなにいいかと思わぬ人はあるまい。
 しかし、救いにきたその軍艦が東京震災くらいいつでも再現できることを、気づきはじめると、わが世の春も酔もさめる感じがする。
 文化というとむつかしいようだが、この正月気分のように、人間が瞬間ホッと本然の自分にたち帰った気持ちと行動を、いろいろ分析し守り育てることなのである。
 その本然の姿とは、それに帰ろう、それに帰ろうとしている人間の失った故郷である。歴史の幾千年もの過去は、その本然の姿の中に生きていたのに、いろいろの機構が、人間をそこから引き離し、追い出し、追放したのである。
 これに反して、人間ができたとか、しっかりしてきたということ、この素直な心を曲げて歪められた世界観で塗り固め、一つの疎外された世界観でガッチリ凝り固まる。そのことは口にはいわないが、実に淋しい影を人間に与えた。
 正月とかお祭りとか騒動、または物想うとき憩うとき、この凝り固まった殻を破って、それを溢れて、遠い遠い想い出と懐郷の気分が、平和と自由と協力の懐しさが込みあげてくるのである。抑えた真実がその姿を包みきれないのである。
 今年も、週末の何れの日をも、この真実を解放する憩いと想いとしようでないか。

編者注】図は、「土曜日」1937年1月号表紙

中井正一「土曜日」巻頭言(10)

◎真理は見ることよりも、支えることを求めている 一九三六年十二月五日

 ある人たちはあるいは世の中はもっと悪くなるかもしれないという。そのいろいろの理由をあげ、その必然を説いてくれる。
 そして若い人たちが無邪気に真理とし、欠乏を欠乏として主張するとき、そんなことは今の時勢では通らないし、無駄な努力だという。
 そして、いつかよい日が向こうから歩いてくるかのようにわずかな行動をも止め、また他の行動を批判し嘲笑する。
 世の中がもっと悪くなることを知っていることが、あたかも歴史の全部の知識であるかのごとく、弁証法の全部であるかのごとくである。果たしてそうであろうか。
 地図に描いた線のように、図式的に一つの点から他の点に歴史がその道を辿るものだろうか。辿るといって横から見ていていいはずのものだろうか。
 そうではない。
 一つの動きから他の動きに移るわずかな移動の、その動きのモトはなんであるか。それをもう一度考えなおさなければならない。
 生活の真実が、あらゆる無理な暴力に抵抗する。その抵抗の真実が、歴史のあらゆる動きのモトではないのか。
 世の中が悪くなれば、その無理な暴力にさらに抵抗する自然な力が、歴史そのものを動かしているのであって、善くするも、悪くするも、日常の小さな人々の正しさを支える主張の上にかかっているのである。
 人々の小さな欠乏が、その欠乏を自覚して正しくその主張を高めることによって、歴史と生活が、その方向を正しく変えてくるのである。
 真理は平常の小さな事の中にかくれているのであって、大げさなポーズや、知ったかぶりな図式の中にあるわけではない。
 どんな大きな声で演説してみても、旗と行列を何年繰り返してみても、何の英雄も一番簡単な肉の値段を一銭でも下げることはでぎなかったではないか。否、数字はその反対を黙って物語っている。
 真理と勝利は常に日常の生活の味方である。自分たちの小さな生活の周囲の、どんな小さな正しい批判も、どんなささやかなる行動も、それは歴史を一端より一端に移動せしめる巨大なる動きのモトとなりうるのである。
 歴史は横から見られるよりも、その中に入つて、それを支えることを求めている。男も女も諸君の一つ一つの小さな手が、手近な生活の批判と行動を手離さないことを、真理は今や切に求めている。

中井正一「土曜日」巻頭言(09)

◎秩序が万人のものとなる闘いそれが人間である ー九三六年十一月二十日

 ある哲学者は、自分の存在を、自分で否定できること、例えば自殺することができること、これが人間が存在それみずからよりも優れた自由をもっている証拠だという。
 それが、石やら、星やら、動物よりも、人間がすぐれている証拠だといおうとする。
 そのことはとんでもない間違いである。
 自分が自分で死ぬことは、人間の闘いとったみずからの秩序に、暴力を奮って、それを破壊して土とか、水とかの秩序に還すことである。
 それは決して、人間の誇りではない。
 人間の誇りは、死を賭して、破滅をも賭して、人間の秩序が万人のものとなる創造への厳かな闘いを挑むことの中にあるのである。ダダ的な単なる破滅への戯れ、似而非抑的な無への落着、「地の涯」的な虚無への感激、フランコ的な存在そのものへの火遊び、ただそれだけでは秩序へのいたずらなる暴力である。
 しかし、また行動のないただ秩序の認識、図式的な歴史の推移の見透しと見極めだけでは、それがいかに賢明であっても、それがいかに的確であっても、ただそれだけでは秩序のいたすらなる無力である。
 秩序の正しい認識の下に、しかも欠乏に差し出す嬰児の学のような、直截な無邪気をもって、命を賭けた秩序が万人のものとなる創造への闘い、この闘いの中に、一個の人問の意味のすべてが含まれているのである。
 新たなヒューマニズムは、命をかけていることの感じの中に在るのでもなく、また単なる合理の誇りでもない。
 合理が万人のものとなることに向かって、自由に向かって、存在そのものをかけている關い、この存在みずからの賭けられた存在、命をかけた命、この中にヒューマニズムの意味があるのである。
 しかもこの合理に向かって存在をかける闘いは、幾万年の人間の闘いの勝利を教えてくれた方法である。
 合理が万人のものとなることが、弓矢と武器を獲ることよりも、もっと近道であり、困雄でもある、最も急を要する大切なことであることを知らせてくれたのも、この闘いの幾万年の教訓である。
 私たちは週末の一日をこの幾十万年の人間の誇りを顧ることに皆そうではないか。

日本人と漢詩(116)

◎中井履軒と上田秋成、木村蒹葭堂

 中井履軒は、「懐徳堂」第四代学主・中井竹山の弟。上田秋成ともども、木村蒹葭堂と交流があった。秋成は、名うての悪口家で、竹山、履軒、ひいては、懐徳堂をことに、こき下ろしている。でも、「鶉図画賛」で漢詩と短歌のコラボをしているところを見ると、芸術上、学問上は、二人は共鳴するところがあったのだろう。

履軒幽人題「隱居放言」

悲哉秋一幅 悲しきかな秋一幅、
若聞薄暮聲 薄暮の声の聞くがごとし。
誰其鶉居者 誰か其れ鶉居する者、
獨知鶉之情 独り鶉の情を知らんや

「もの悲しいなあ、秋にふさわしい一幅の画を見ると、薄暮に鶉の鳴く声が聞こえるようだ。どうして鶉居(不常住)するものだけが、鶉の情を知っているだろうか、いや誰でもこの画を見ればその気持ちがわかるだろう」

 一方秋成の歌は、「むすぷよりあれのみまさるくさの庵をうづらのとことなしやはてなむ(ここにすみかとして構えて以来、荒れ放題のこの草の庵を、最後には鶉の住みかとしてしまうだろうか)

図は、左から「鶉図」画賛、上田秋成・自画自賛像、上田秋成和歌を副えた蒹葭堂画。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」(新潮社)
・大阪大学「懐徳堂って知ってはる」展覧会パンフ

中井正一「土曜日」巻頭言(08)

◎人間の最後への勝利への信頼が必要である ー九三六年十一月五日

 水がすき間があれば常に低いところに降りるように、自然は噓をついたことはない。
 人間はこの噓のない自然の現象に副って、みずからを処してゆ.くほかはないのである。そして、自然と闘い、人間みずからの生活を合理化してゆくこと、それが生きてゆくということである。生活みずからにも人間は噓はつけないのである。噓をついたところで、足下から、それははげてゆくのである。
 何故なら自然と人間との戦いは切実であって、噓を許さないし、噓をつけば人間は直ぐみずからを傷つけずにいないのである。
 噓はすぐ傷となってあらわれる。
 小さい傷なら、噓は噓をもって覆える。しかし、そのことによつて傷はそのロをより大きく開く。
 覆うべくもない傷口となって万人の前に横たわるのである。
 噓に対して闘うものは、言葉でなくして、最後は生活の事実である。
 万人の生活があらゆる噓を噓として示し、生活みずからの矛盾として現われた場合、真実はたとい何人の言葉をも、雄弁をも借りなかったとしても、みずから万人のものとなるのである。
 そのとき、人間はまともに自然に向かう戦いに参加することができるのである。そして、実に数百万年を勝ってきた人間の勝利の戦列に加わることができるのである。
 人間のなした過失が二千年つづいたといって、嘘を二千年いわれつづけたといって、地球を支えるアトラスのように、すべてを支えてきた人間たちは希望を失いはしない。
 人間の祖先の親しむべき人たちは数万年をどしやぶりの雨の中に、数十万年を氷河の中にみずからの生活を守りつづけてきたのである。そしてそれを正しく守りつづけたからこそ、ここに存在したのである。
 今ここに人間がいることは、希望を失い、自棄に堕ちるには余りにも切実であり、真実への闘いの結果なのである。
 結晶がその噓のない秩序を宇宙の前に誇るように、人間はその秩序を宇宙の前に築きあげつつあるのである。

編者注】
 嘘・虚偽が、特に「政治」や「ビジネス」の世界で、まかり通る世の中なれど、長いスパンでみると、「真実」が優ると信じる他ないのだろう。「噓に対して闘うものは、言葉でなくして、最後は生活の事実である。万人の生活があらゆる噓を噓として示し、生活みずからの矛盾として現われた場合、真実はたとい何人の言葉をも、雄弁をも借りなかったとしても、みずから万人のものとなるのである。」
 先日、医療生協の地域でのまとめ役だった、S さんが亡くなった。嘘のない人柄は誰からも好かれていた。十年以上まえになるだろうか、母の日を前に、カーネーションのギフト券を、「お母さんへのプレゼントに使いよし。」と進呈したことがあった。彼は、そのままその券を、母親に手渡したそうだ。「花を買ってから、それを渡すもんや!」と思ったが、彼らしい率直さの現れだったかもしれない。最晩年は、幾たびかは、意にそぐわないことも多かったと推測するが 彼の誠実な人生を思い、心から悼む。

 図は、「土曜日」の3度目の表紙。

木下杢太郎「百花譜百選」より(017)

◎46 ひゝらぎもくせい 柊木犀

昭和十八年十月廿二日
天平の仏像に関して稿を起す。Dematiaceae (注 黒色真菌)に属する病原菌に関する論文を閲す。小川太一郎氏の成層圏飛行の講演を聴く。

Wikipedia ヒイラギモクセイ

付】「市街を散歩する人の心持」「荒庭の観察者より」

“木下杢太郎「百花譜百選」より(017)” の続きを読む

日本人と漢詩(115)

◎中井竹山、履軒と木村蒹葭堂

 先日、大阪大学石橋キャンパスに、「懐徳堂開基300年展」を観てきた。興味深い点も多かったが、中でも、常設展示室における、中井履軒の人体解剖図であった。どことなく図式的な感じはするが「解体新書(ターヘル・アナトミア)」の一年前の図であるという。
 中井履軒は、懐徳堂第四代学主・中井竹山の弟。竹山、履軒は、実学的傾向を持っていたらしく、このあたり、大坂文化が、武家主導から町人が担い手になってゆく時代のエートスを体現した人物と言えよう。その後、懐徳堂は、異色の町人思想家、富永仲基や山片蟠桃らを輩出することになるが、それは別の話題である。
 竹山は、もちろん、木村蒹葭堂と交流があったが、なかなか面倒見のある人物であった。そのころ、まだ、貧学生であった頼山陽の父・頼春水の婚礼の仲人を勤めたらしい。その時の詩と推測される華燭引」三首。

そのー、
戶外初更迓綵輿 戸外ノ初更、綵輿ヲ迓《厶カ》へ
靑衣左右笑相扶 青衣左右、笑ツテ相ヒ扶《タス》ク。
雲屛暗處人如蟻 雲屛暗キ処、人、蟻ノ如ク、
細語新孃認得無 細語ノ新嬢、認メ得ルヤ無キヤ

中村真一郎の語釈「青衣は婢女、雲屛は雲を描いた屛風。花嫁は恥かしがって、薄暗い明りの下で、小声で囁いているので、居るのかいないのか判らない。」

その二、
絮帽深深掩玉顏 絮帽深々、玉顔ヲ掩《オホ》ヒ、
素裝宛似雪梅姿 素装、宛モ似ル、雪梅ノ姿。
蕭郞登席對無語 蕭郎、席二登リテ、対《ムカ》ヒテ語ナク、
侍女高擎仙島盤 侍女、高ク擎《カカ》グ、仙島盤

中村真一郎の語釈「花嫁は角隠しを深々とかぶって顔がほとんど見えないし、武骨な花婿も照れて、席に坐ったままひと言も口をきかない。そうして三三九度の盃がはじまる。」

その三、
畫燭雲屛夜未央 画燭、雲屛、夜イマダ央《ナカ》パナラズ、
再兒瞪坐引新嬢 侍児瞻坐シテ新嬢ヲ引ク。
傳酒翩翩雙峽蝶 酒ヲ伝フ、翩翩タル双峽蝶、
對越默默兩鴛鴛 筵二対シテ黙々タリ、両鴛焉

中村真一郎の語釈「披露宴の席上で花嫁花婿は黙って、周囲の花やいだ空気のなかに坐っている。貧しいながらも、大坂の街の結婚の宴の賑わいである。その中で恐らく見合いで一緒になったろう新婚の若い男女は、ただ黙然と夢見心地。」

 この、花も恥らう花嫁が、のちに、その息子を溺愛し、ノイローゼにさせてしまう、頼梅颸に変貌するとは、この時の、中井竹山は知るよしもないだろう。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」(新潮社)
・大阪大学「懐徳堂って知ってはる」展覧会パンフ

中井正一「土曜日」巻頭言(07)

◎集団は新たな言葉の姿を求めている ー九三六年十月二十日

 人間が四つの足から二本で立ち上ることを覚えるには数万年を要したのである。
 人間が言葉を覚えるにもまた数万年の歴史が絶えざる努力を要したのである。
「言う言葉」から「書く言葉」をもつようになるにも人問はどんなに苦労をしたことか。
 かくして、人間は、生きることを合理化し、動物としては、この宇宙的星辰の中に、唯一の、星の秩序を読み取ることのできる存在として生きつづけてきたのである。
 この存在の中に、存在のみずからの働きの中に、合理的なものを見出すことのできること、みずからの生活を合理化できること、これが、この数千万年を辿りきた人間の誇りである。
 人間が滅びることが、敢えて誇りとなるほどの、地球上の不思議な事実である。
 このことが「文化」ということなのである。人類は地殻の上において孤独であるのみではない。この無限である時間と、空間の上において、孤独である。
 この獲きたった合理的な営みを、わずかな人間たちの暴力の中に、争いの中に、破波に堕すには余りにも歩みきたった生活は苦しかったはずである。
 常に新しい文化を、新しいみずからの生活の合理を発見してゆくこと、これが生きているということにほかならない。
 言葉が、「書く言葉」から「印刷する言葉」を発見したとき、人々はそのもつ効果に驚きはしたが、それをみずからのものとしたとはいえない。
 その発見は、数百万人の人間が、数百万人の人間と、ともに話し合い、唄い合うことができることの発見であった。
 しかし、人々は、話し合いはしなかった。一般の新聞も今は一方的な説教と、売り出し的な叫びをあげるばかりで、人々の耳でもロでもない「真空管の言葉」もまたそうである。ますますそうである。
 今人々は集団において、建啞的である。
 この『土曜日』は、今新しく、すべての読者が執筆者となることで、先ず数千人の人々の耳となり、数千人の人々の口となることで新たな言葉の姿を求めている。
 数千の人々が数千の人々と話し合うことのできる、新たな話し声を発見しつつある。人間の発見しなければならないのは、機械と装置ではない。人間の新たな秩序への行動である。
 この『土曜日』の数千の人々の話し声は、やがて数万人の、数百万人の、数千万人の、お互いの話し声となることがどうしてないといえよう。何故ならわれわれは、集団的な言葉を獲つつある聾啞者であったからである。

編者より】
 〚土曜日』の多彩な執筆陣に、小説家加賀耿二がいた。治安維持法で検挙され、保釈された加賀(石川県)出身の小説家と言えば?(戦後、彼は日本共産党の代議士となって活躍する。)図は、1936年7月4日・創刊号に載った彼の小説である。

数千の人々が数千の人々と話し合うことのできる、新たな話し声を発見しつつある。(が、)人間の発見しなければならないのは、機械と装置ではない。人間の新たな秩序への行動である。

 昨今の、AI や SNS だけで容易に扇動される、世情を見ていると、戦前の話とは到底思われない。

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