テキストの快楽(009)その2・読書ざんまいよせい(064)

◎ グリーンブラット「暴君」ーシェイクスピアの政治学(01)


 まず、本書の問題提起から…

 一五九〇年代初頭に劇作をはじめてからそのキャリアを終えるまで、シェイクスピアは、 どうにも納得のいかないい問題に取り組んできた。
――なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうなどということがありえるのか?

 シェイクスピアの作品には、様々な「暴君」が登場するが、イギリス王朝のプランタジネット王朝やランカスター王朝などの王の歴史劇は、いずれまとめて書くが、本書での引用について、面白く感じただけに一言。「ヘンリ六世」で、王に反乱をしかけた、ジャック・ケイド(王ではないが、その素性や行動から、充分、「暴君」たるに値する人物であった。)の言葉されるセリフ
“make England great again!”(ふたたびイギリスを偉大に!)
は、調べたかぎりでは、シェイクスピアのどの戯曲にもでてこない。本の出版年に初当選した、某国のトップは、シェイクスピア(ないしジャック・ケイド)を気取ったかと思ったが、逆に、著者が現代の暴君に引きずられた、ないし「筆のすさび」なのかもしれない。某大統領が、シェイクスピアを引用するなんで、ちょっと考えられないし、それとも、その時代の僭主希望者の、それを示唆する伝承があったのだろうか?

 結論として…

リーダーに対して人はつい皮肉な見方をしてしまったり、そうしたり—ダーを信頼するお人よしの大衆に絶望しがちだったりすることをシェイクスピアは承知していた。リーダーはしばしば体面に傷があって堕落しており、群衆はしばしば愚かで、感謝を知らず、デマゴーグに翻弄されやすく、実際の利益がどこにあるのか理解するのが遅い。最も卑しい連中の最も残酷な動機が勝利を収めるように思える時代もある(時に長く続くかもしれない)。しかし、シェイクスピアは、暴君とその手下どもは、結局は倒れると信じている。自分自身の邪悪さゆえに挫折するし、抑圧されても決して消えはしない人々の人間的精神によって倒されるのだ。皆がまともさを回復する最良のチャンスは、普通の市民の政治活動にあると、シェイクスピアは考える。暴君を支持するように叫べと強要されてもじっと黙っている人々や、囚人に拷問を加える邪悪な主人を止めようとする召し使い、経済的な正義を求める餓えた市民をシェイクスピアは見逃さない。
「人民がいなくて、何が街だ?」

 十分納得されるソリューション(解決法)である。

なお、本書に関連し、坪内逍遥訳「リア王」「マクベス」「ジュリアス・シーザー」などを投稿予定である。

参考
Wikipedia から
ヘンリー6世_(イングランド王)
シェイクスピア「ヘンリー六世 第2部」
ジャック・ケイド

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