テキストの快楽(008)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(06)


     

 ドゥブローヴィノで馬車が備へた。それで前進する。トムスクまであと四十五露里といふ所で、 今度はトム河が氾濫して牧地も道も水浸しだから、先へは行けないと言ふ。また舟で渡らなければならない。そこでも、クラースヌィ・ヤール のときと同じ目に逢った。舟は向ふ岸へ行ってゐるが、 かう風が强く波が高くては、とても戾っては來られない。……仕方がない、待たう。
 朝になると雪が降りだして、二寸以上も積った(それが五月十四日である)。ひる頃からは雨になって、すっかり雪を洗ひ流した。夕方、太陽が沈むころ岸に出て、こちらの岸へ漕ぎ渡って來る舟が水流と鬪ふ有樣を眺めてゐると、霙まじりの雨に變った。……そのとき、雪や寒氣とまるで合はない現象が起った。私ははつきりと雷鳴を聞いたのである。敝者たちは十字を切って、これで暖かになるといふ。
 舟は大きい。先づ八九十貫からの郵便物を積み、 それから私の荷物を積んで、濡れた筵ですっかり覆ふ。……郵便夫は背の高い老人で、梱の上に腰をかける。私は自分のトランクに腰をおろす。私の足もとには、雀斑だらけの小さな兵隊が席を占める。外套は搾るばかり、 軍帽から襟頸へ水が流れる。
 「神よ、祝福あれ。さあ綱を解け!」
 柳の叢林のほとりを流れに沿うて下る。今しがた十分ほど前に馬が二頭溺れ、荷車の上にゐた男の子だけは柳の藪につかまつてやっと助かった、と橈子たちが話してゐる。
 「漕げ、漕げ、みんな話はあとでも出來るぞお」と、舵取がいふ 、「頑張れよう。」
 川を掠めて、雷雨の前によくある早風はやてが颯々と吹く。……裸かの柳が水面に糜いてざわめく、忽ち川は暗くなり、不規則な波が立ちはじめた。……
 「みんな、藪の中へ向けろよう。風さやり過すだ」と楫取が靜かに言ふ。
 舳は柳の藪の方を向いた。が橈子の一人がそのとき、荒れ模樣になると夜通し藪の中にゐなければならなくなる、それでも矢張り溺れるのは同じことだから、先へ進まうぢやないかと言ひ出した。多數決できめることになって、 やはり先へ進むことにする。……川はますます暗くなる。烈しい風と雨が橫なぐりに吹きつナる。岸はまだまだ遠く、萬ーの場合には縋りつける筈の柳の藪は、後へ遠ざかつて行く ……長い生涯に色んな目に逢つて來た郵便夫は、默り込んで、凍りついたやうに身動きもしない。橈子たちも默ってゐる。……小さな兵隊の頸筋が、 見る見る紫色に變る。私の胸は重くなる。もし舟が顚覆したらと、 そればかり考へる。……先づ第ーに半外套を脫がう。それから上衣を、それから……。
 だが、岸が次第に近くなつて、橈子にも元氣が出てきた。沈んだ胸も次第に輕くなる。岸まであと三間半の上はないと分ると、 急にはればれして、もうこんな事を考へる。
 「さてさて臆病者は有難いものだ。ほんのちょつぴりした事で、これほど陽氣になれる。」

[注記]底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた。

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