後退りの記(013)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎渡辺一夫「戦国明暗二人妃 Ⅱ世間噺。マルゴ公妃」(中公文庫)
◎アレクサンドル・デュマ「王妃マルゴ(上、下)」

アンリ四世にとって、大事なキーパーソンの一人が、マルゴ王妃であり、「バルテルミーの虐殺」の際には、アンリ四世を影になり日向になり援助したのは、以前に簡単に触れた。マルゴなかりせば、アンリも虐殺の渦に巻き込まれていたにちがいない。しかし、皮肉なことに、その後は、二人の運命が決定的に分かれたのだ。アンリは、紆余曲折はあったにしろ、国王に登り詰め、マルゴは長い放浪生活を余儀なくされる。ようやく、二人が再会したのは、1584年、バルテルミーから12年後、アンリとの離婚を条件にされ、パリに戻ったのは、1605年で21年後、1605年のことであった。1610年には、アンリ四世の暗殺、その5年後には、マルゴは62才で長逝した。渡辺一夫氏は、十数人にもなるマルゴの生涯に渡る愛人の一覧表を掲げるが、その多くは、殺害されるなど、安寧な人生をおくった男性はいなかった。こうしたことが、マルゴに対しては「色情狂《ナンフォマニ-》」との世評の根拠になったのだろう。しかし、それは、「英雄色を好みすぎる」アンリ四世とて同じことである。渡辺氏も論告に対してマルゴの弁論を試みている。離婚後、アンリは、イタリア・メディチ家の血筋をひくマリー・ド・メディシスと結婚、ルイ十三世の父となり、ブルボン王朝の始祖となった。マルゴの母、カトリーヌ・ド・メディシスは、その頃は亡くなっていたが、草葉の陰で、「してやったり」とほくそ笑んでいたかもしれない。

「『こんなにはかないものでなかったら、こんな甘美なものはないのだが」と、マルゴ公妃は書いている。この虚無感が、…一生涯、何かを追い求めさせていたものだったかもしれない。そして、一切の崩壊と消滅とが、徐々にまた確実に行われる以上、…それを敏感に感じ取っていたのかもしれず、それ故に、いずれ虚無に帰する自分、しかし、まだ生きている自分の存在証明を探り続けていたとは言えまいか?…華やかなるべきその生涯は暗く嶮《けわ》しかったし、充たされて安らかなるべきその肉体は悶え通し、円満具足たるべきその心は許されないものを求め続けていたことだけは確かであろう…」

と渡辺氏は、その「情状酌量請願文」を最終弁論として閉じる。一言付け加えるなら、スコットランド女王・メリー・スチュアートにも当てはまり、ともに文才があっただけに、時代に翻弄されながら、その生涯をなかば「ロマン」として、自ら描くことでは、マルゴと好一対をなすであろう。

これまで、アンリ四世の周辺人物の話題に、多くを割いてきたが、ここらあたりで、「アンリ四世の青春」に戻り、モンテーニュとの本格的な邂逅などを含めて続けてゆきたいと思っている。

図は、「戦国明暗二人妃」から。

後退りの記(012)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎アンドレ・ジッド 渡辺一夫訳「モンテーニュ論」(岩波文庫)
◎堀田善衛「ミシェル 城館の人 第一部 争乱の時代」

少し、おさらいすると、モンテーニュは、1533年、ボルドー近郊のモンテーニュ城に生まれた。フマニスト・エラスムスが亡くなったのが、1536年だから、その生涯を引き継ぐ形になっている。ルターの『95ヶ条の論題』でのカトリックへの糾弾の始まった1517年の16年後のことである。幼少期から少年期にかけての、父親の「ラテン語しごき」をへて、へ入学する。

「真に 我が子の自由な教育を願望する父兄は、学院、 特に宗教家の経営する学院などに入れるべきではない。(エラスムス)」

かどうかは分からないが、当時の学校はともすれば、

「(教師)がこういう人たち(生徒) が、自分こそ人間中の第一流の人物だと思っていられるような幻を授けてやっているのですよ。」(同じくエラスムス)

と、当時の教育の悪循環も非難する。

モンテーニュの父親も、その特訓から後、息子の教育についていろいろ迷ったことだろう。プロテスタントに傾いていたマルグリート・ド・ナヴァール公妃とも関係が深い、ボルドーのギュイエンヌ学院に入学させた。そこでは、「詰め込み」もあったが、学風は概してリベラルなものであり、ミシェル少年の勉学もローマ古典文学を手がかりに、カトリック的スコラ神学主義とは違う、異教徒的なものであったと堀田善衛は指摘する。ある意味、昨今の時の政権による Académie japonaise への政治的介入よりも自由だったかもしれない。13才で学院を卒業する頃には、(ちょうどボルドーで暴動騒ぎがあったが)

もっとも 軽蔑してはならない階級は、…最下層に立たされている人々のそれであると思う。… 私 は いつも 百姓 たちの行状や言葉が、われわれの哲学者たちのそれよりも、真の哲学の 教えにかなっていると思う。〔 庶民の方がかえって賢明である。必要な程度に知っているからである。〕

という、まっとうな見解は持ち得たのである。

フランスの文学者・小説家にアンドレ・ジードがいる。彼はモンテーニュについていくつか、小評論を書いている。戦前に渡辺一夫訳で出たものだ。そのせいだけではないが、少し難解で意味がなかなかとりにくいきらいもある。その評論で「エセー」を引きながら、晩年、モンテーニュは、「もし余が再びこの人生を繰り返さねばならぬとしたら、余のして来た通りの生活を再びしたいものである。余は過去を悔まず、未来を恐れもしないから」と書いているという。モンテーニュのこうした非宗教的態度は、死ぬまで持っていたようだ。
いずれにしても、アンリ四世との本格的な邂逅があるのは、もう少し後の話である。

後退りの記(011)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎ツヴァイク「メリー・スチュアート」
◎シェイクスピア「マクベス」(岩波文庫など)

1572年、メリーは、すでに廃位の上、イングランドへ移送され、幽閉の身であった。バルテルミーの虐殺を、そこで聞いて、どう感じたのかは定かではない。もはや「ことは終わり」

ああ、わたしはなにであり、わたしのいのちはなんの役にたとうか
わたしは魂のゆけた肉体にすぎない
むなしい影であり、不幸の申し子であり
なりゆくさきは、生きながらの死よりほかはない…

と諦念の呟きだけであった。そう事は終わったのだ、フランスからスコットランドへ移り、王位を手に入れたが、その地の醸し出す独特の土壌の上に、二人の男性を愛し、やがて憎み、破滅へと追いやった。

シェイクスピアは、そのスコットランドを舞台に、悲劇「マクベス」を書いた。

Fair is foul, and foul is fair:
Hover through the fog and filthy air.
きれいはきたない、きたないはきれい。
霧と濁れる空気の中を飛んでいけ!
「マクベス」冒頭場面

メリーにとって、王位につくといった Fair なことも、たとえ、直接手をくださなくても、foul なことも、表裏一体だった。最初の夫(彼女にとっては、フランソア二世が亡くなり、Widow になっているので、二番目であるが)ダーンリの殺害には、

If it were done when ‘tis done, then ‘twere well
It were done quickly: if the assassination
Could trammel up the consequence, and catch
With his surcease success; that but this blow
Might be the be-all and the end-all here,
もし、やってしまってそれですべて決着がつくのなら、
今すぐやったほういいだろう、
もし、暗殺で一切のけりがつくなら、
それで王座につけるのなら、
この世のこの一撃で、一切合財の始末がつくわけだ
「マクベス」第1幕第7場

と、独白したのかもしれない。

Methought I heard a voice cry ‘Sleep no more!35
Macbeth does murder sleep’, the innocent sleep,
Sleep that knits up the ravell’d sleave of care,
The death of each day’s life, sore labour’s bath,
Balm of hurt minds, great nature’s second course,
Chief nourisher in life’s feast,–
「もはや眠るな、マクベスは眠りを殺した」
と叫ぶ声を聞いた気がする、無垢の眠り、
気苦労のもつれた糸をほぐして編むのが眠り、
眠りは、日々の生活のなかの死、労働の痛みを癒す入浴、
傷ついた心の軟膏(なんこう)、自然から賜ったご馳走、
人生の饗宴の主たる栄養源だ。「マクベス」第2幕第2場

三度めのボズウェル伯との電撃結婚もつかの間、伯の反乱の末、メリーは退位を余儀なくされ、イングランドで亡命、その後は処刑まで幽閉の身の上となる。「もはや眠るな、メリーは眠りを殺した」のである。
いくらシェイクスピアが、スコットランドの悲劇に触発されたとはいえ、未来から過去へ逆に操作されたように、数十年後に書かれた「マクベス」の筋書き通りに、メリーは行動したようにも思えるのが、なんとも不思議である。

メリーの先例は、各国にとっても「「レジサイド」(王殺し)」に対して、ずいぶん閾値が低くなった。イギリスでは、メリーの孫、チャールズ一世、フランスでは、ルイ十六世、やがてロシアでは、ニコライ二世とつながるのは、のちの時代の話である。

彼女なりの懸命さで生きている間の様々な出来事は、あまりにも抱えるのが難しかったのだろうし、伝えられていることも、全てではないかもしれないが、これで、メリー・スチュアートの話は、ひとまず幕を閉じることにする。さらば!

後退りの記(010)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎渡辺一夫「戦国明暗二人妃 Ⅰ 巷説・逆臣と公妃」(中公文庫)
◎「エプタメロンーナヴァール王妃の七日物語」(ちくま文庫)
◎堀田善衞 「ミシェル 城館の人 第一部」

今回は、二代ほど前の人物に遡ることにする。アンリ四世は、気質の面では、プロテスタント信仰に厳格であった母のナバラ女王ジャンヌ・ダルブレではなく、むしろ祖母のそれを受け継いだようだ。その祖母、マルグリット・ド・ナヴァール Wikipediaをめぐる人間関係も相当に複雑であったらしい。話題にしたいのは、四人の人物である。まず、マルグリッド、彼女は、フランソア一世 Wikipediaの姉であった。その母である、ルイーズ・ド・サヴォワ Wikipedia、一時期は、マルグリッドと相思相愛であった、シャルル3世 (ブルボン公) Wikipedia、マルグリッドに横恋慕するボニヴェ大提督 Wikipedia 英語版との人物配置である。愛憎関係は、これにとどまらず、ルイーズ・ド・サヴォワは、寵臣として、ボニヴェを重んじる一方、年齢の差をこえて、ブルボン公に、思いを寄せるが、かなわぬとならば、「可愛さ余って憎さ百倍」で、公をフランス王朝を裏切らせ、神聖ローマ帝国カール五世 Wikipedia側に寝返させた。母親のルイーズは、後のシャルル九世の母、カテリーナ・ド・メレディスのポジションに似る、当時の政局の黒幕的存在だったことを始めとして、この四人の丁々発止はなかなかに面白いが、結末はあっけなく、ボニヴェは、1525年、フランソア一世が捕虜となった、パヴィアの戦い Wikipediaで戦死。ブルボン公は、その2年後、ローマ劫掠直前に、狙撃され落命した。これがその後のカール五世軍の劫掠の引き金になったらしい。

堀田善衛の文章に「日本の代議士が、ローマ帝国廃墟跡を見て、『イタリアの戦後復興はまだまだじゃのう』と言ったとか、言わなかったとか…」というのがあったと記憶する。、代議士の蒙昧は、ひとまず置くとして、永遠の都ローマは、近世に入り、廃墟と化すほどの軍隊の侵略をうけた。ローマ劫掠 Wikipedia(ローマごうりゃく、イタリア語: Sacco di Roma)古代にも、ローマ帝国滅亡時には、ローマ略奪(ローマりゃくだつ、イタリア語: Sack di Roma)もあったが、1527年の劫掠も、それに劣らぬ規模であったので、代議士のトンチンカンな「誤解」も生まれたのだろう。

同じ年、マルグリット・ド・ナヴァールは、ナバラ王エンリケ2世と再婚し、アンリ四世の母を生んだ。ブルボン公を一刻もはやく忘れたかった、心の葛藤があったのかもしれない。王位を継いだあとは、ラブレーなどフマニストを保護するその頃では、開明的な文化政策をとり、自らも、「デカメロン」に見習って、「エプタメロン」という艶笑的なコント集を、死ぬ直前まで綴っていた。この第四話で、人物名は別にしているが、ボニヴェに暴力的に襲われかけたことを語っている。よほど「根に持っていた」に違いない。

「エプタメロン」は、偽善的なカトリック僧を揶揄するのは、吝かではないが、一方、プロテスタント的なリゴリズムからも一歩引いているおおらかさがあるようだ。アンリ四世へは「隔世遺伝」したことが分かろう。モンテーニュの故郷、ボルドーからも、ナヴァラは、そう遠くない距離で、しかも、学んだ学校もフマニストの陣容の教師群だというから、モンテーニュへの思想的な影響があったのかもしれない。もっとも、この頃のモンテーニュは、日常生活でも、ラテン語以外の言葉は禁止されるという父親からとんでもない「英才教育」を受けていたのだが…

後退りの記(009)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎モンテーニュ「エセー」(岩波文庫その他)
◎堀田善衞 「ミシェル 城館の人 第一部」(集英社文庫)

モンテーニュ「エセー」は、昔読んだ時には、深くは感動しなかった。というのは、青年期の生意気のせいか、あまりにも「常識」の範囲をこえず、生ぬるいといった印象だったからだ。しかし、堀田善衞の著作など読んでいると、それはごく表面的なとらえ方であるとの思いが強くなった。

さて、バルテルミーの虐殺後、わがアンリ四世は、その余燼ともいえるラ・ロシェルをめぐる攻防で、ユグノー征伐の隊列に加わるよう強制される。ラ・ロシェル攻防戦は前回、メリメ「シャルル九世年代記」でも紹介した。その行軍の途中で、モンテスキューと邂逅する。小説から、少し長い引用をすると、

連れの人は、宗教戦争ほど宗教に無関係なものはないという意見だった。途方もないことばだが、…宗教戦争はその根を信仰に持っていないし、人間を敬虔にすることもない。一方の人にとって、宗教戦争は野心の口実であり、他方の人にとって、それはみずからを富ますための機会にすぎない。全く、宗教戦争で聖者の現われることはない。逆にそれは民衆と王国を弱らせる。民衆も王国も他国の欲望の餌食にされてしまうのだ。
誰の名も言われなかったのだ。…カテリーナ(時の王国母)も、息子のアンジュー(後のアンリ三世)も、プロテスタントたちの名も。それでも彼の言葉は他の何人にも言えぬほど不敵なものだった。この言葉に襲いかかったのは怒涛や嵐だけではない。ほとんどあらゆる人間が怒号をもってこの言葉をおしつぶすところだったろう。国王さえも声を大にして言いえぬことを、貴人とはいえなみの人間があえて口にしているのに、アンリはいたく驚いた。

少なくとも、モンテーニュは、バルテルミーの虐殺をつぶさに見て、その頃の、「寛容」の意味するところ、「仕方なく相手を許す」との考え方をギリギリ守りながら、一歩も二歩もそこらから推し進めようとしたことが分かる。その過程を「エセー」本文と堀田善衞「ミシェル 城館の人」で辿るようにしたい。

旧ソビエトの小説家・ヤセンスキーの「無関心な人々」という小説の、題辞に、

友を恐れるな、彼は君を裏切るだけだ。敵を恐れるな。彼は君を殺すだけだ。無関心な人々を恐れよ。彼らの沈黙の同意があればこそ、この世に無数の裏切りと殺戮が存在するのだ。

というのがある。でも少し違うような気もする。昨今の政治情勢に引きづられるわけではないが、無関心な人々の語られぬ思いに、耳を傾けよ、そこにこそ、われらのかすかな希望があるのだ。モンテーニュも、痛苦な経験を経た上で、きっとそうつぶやいたに違いない。

後退りの記(008)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎メリメ「シャルル九世年代記」(岩波文庫)

メリメ(Wikipedia)はいわずと知れた「カルメン」などのフランスの小説家。片方では、歴史家でもあったようだ。そんな彼に、バルテルミーの虐殺をテーマにした歴史小説ともいえる「シャルル九世年代記」がある。

閣下。あなたが八月二十四日の虐殺をご覧になつたら! もしあなたが血で真赤に染つたセーヌ河、雪解けあとの氷片よりも多くの死骸を運んだあの河をご覧でしたら、我等の敵に対してそんなご同情なさらないでせう。私は旧教徒は皆虐殺者だと思ひます

実際は、シャルル九世の登場は少ないが、メリメは、精神的に病んでいた(国王の重圧に耐えかねた、シャルル九世の一言が虐殺を惹起したと示唆する。小説では、肉親や友人の登場で物語が綴られる。その代表として、兄弟がカトリックとプロテスタントに分かれて戦った、ヂョルジュ大尉とベルナール・メルヂー、その恋愛の対象、ディアーヌ夫人、いづれも小説の上での架空人物であろうが、昨日まで、日常の普通の会話をしていただけに、その結末はあまりにも痛ましい。

自分の国を悪く言ふものぢやないよ。我我を包囲するこの軍隊の中には、君の言ふやうな悪人は少いよ。兵士は王の給料が欲しさに鋤鍬を捨てて来た百姓だし、貴族や中隊長は王に忠誠の誓ひをしたから已むを得ず戦つてゐるのさ、恐らくは彼等の方が正当で、我々は叛逆者さ

「寛容」(トレーランス)という言葉は、中世から近世にかけては、現代に比べ、やや低次元に使われていた、と読んだことがある。言葉が正確か自信がないが「仕方なく許す」とでも言おうか?もちろん、その傍らでエラスムスやラブレーなどフマニストが、この言葉に磨きをかけていったが…
医学・生物学の用語に「免疫学的寛容」というのがある。これは、生体内では、抗原と抗体は厳密に一対ではなく、自分とは違う異物には、かなり曖昧な関係があることを指す。片方では、この曖昧さから、免疫がからむいろんな病気が成り立つが、ギリギリのところで、ウィルスや細菌などから防御しているという絶妙のバランスが保たれている。
フランス宗教戦争においては、途中「寛容」が図られたことはあったが、そのバランスが短時間に崩れてしまった。現代に当てはめると、超大国の「悪」を許さないことには、やぶさかでないが、日常的な付き合いの中で、相手を「仕方なく許す」といった「寛容」を活かせる道はないのだろうかと、ふと夢想してみる。

後退りの記(007)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎ツヴァイク「メリー・スチュアート」
◎井上 究一郎訳「ロンサール詩集」(岩波文庫)

フランソア二世(在位1559 – 1560年)は、アンリ二世の后妃カトリーヌ・ド・メレディスの長子であったが、幼少時代より病弱で、即位前の1558年
にメリー・スチュアートと結婚するが、早くも彼女は Widow となる。その結婚時代、二人の出自や気質の大きな違いだろうか、カトリーヌとメリーは世に言う「嫁姑」の関係だったようだ。もっとも結婚自体が、フランスが、イギリスの王位継承権を頂こうというカトリーヌ側の打算的なものだったのだが…
そのフランス朝廷時代に、メリーは、フランス詩の改革にも意欲的だった詩人 ピエール・ロンサールと出会い、心を通わせたようだ。ロンサールは、以下のようなみずみずしいソネットやオードを得意としていた。Wikipedia では、他に二篇の詩の訳文が掲載されている。

カッサンドルへのソネット

あの褐色の二つの眼、私の生命の焔、
その稲妻は私に眼つぶしをくわせ、
私の青春の自由を捕え、
それを縛って獄舎に投じた。

私の理性はあなたのやさしい火に奪われた、
そんなにもあなたのすばらしい美にまなこくらみ、
誠をつらぬき通そうと、それ以来、
他のどんな眼も見たいとは思わなかった。

他のどんな暴君の拍車にも刺激を受けず、
他のどんな思想も頭に宿らず、
他のどんな偶像も私は心にあがめない。

私の手には他のどんな名もうまく書けない、
私の紙には何一つちりばめられない、
私の筆に描かれるあなたの美をほかにしては。
『恋愛集』(1552年)

フランソア二世を喪ったメリーの姿を見て、ロンサールは詠う。

ながく、こまやかな、うすい、紗の、
襞《ひだ》また襞とうり重なる
白い喪服は、お顔から腰まで、
覆いの役をつとめる。
この白衣は、風が小船にふきつけて、前へとすすませるおりの、
一枚の帆にも似てふくらむ。
御身は、このような服につつまれて、
かつてはその御手に王杖をにぎられたこの美しい国から、
ああ、悲しいかな!立ちさりたもう御身は、
うれいに沈み、御身の胸を
流れる涙のうるわしい水晶で濡らしつつ、
かなしげに、その名を水の美より借りた王宮の
広い御苑の長いこみちを
あゆまれていた。

それに対して、政治的な陰謀も駆使したが、詩人としての資質も多少なりともあったメリーの「応答」らしいものが、フランソア二世への追悼として残っている。

たえまなく私の心は
なきかたをいたむ。
ときおり、空のかなたに
私のめが向かうおり
あのかたのやさしいまなざしを
私は雲のなかにみとめる。
突如として私は水のなかに、あのかたの姿をみる。
墓のなかにおられるように。
私がやすらっていて
ふしどの上でまどろんでいるおりに、
私は、あのかたが私にふれるような気がする。
くるしみにつけ、やすらいにつけ、
つねにあのかたは私のかたわらにいる。

ロンサールも、その後の激烈な宗教対立と無縁ではない。王母さまとは、カトリーヌのことだろう。

王母への論説詩[断片]

王母さま、自然のふところにフランス人と生まれた私、
その私が、来るべき諸世紀に、わがフランスを満たしている
この苦しみと極度の不幸とを語らなかったら、
それはなんという木石でございましょう。
フランスの生みの子らが、その親たる国をひっ捕らえ、
衣服を剥がし、野蛮にも死ぬほどにたたきのめした
このさまを、鉄のペンで鋼《はがね》の紙に書きしるし、
ひろく世界に後世に問おうとするのでございます。
[……]
こんにち、君がことごとく武器で満たし、
おびただしい数の甲冑を群がらせ、
略奪に燃えた貪婪《どんらん》の軍隊で満たしている土地、

もし君がこの国にいい子であるならば、
いまこそできるその養育の恩をかえし、
君の軍隊を撤し、ジュネーヴの湖に、
(呪うべきものとして)その武具を沈めよ。
装填した福音書をフランスに説くな。
硝煙で黒焦げのピストルをもつキリストを、
人の血で染む赤い大きな刀をひっさげ、
鉄兜をいだいたキリストを、フランスに説くな。
[……]
(『続当代惨禍論説詩』から 1562年)

ロンサールは、立場上、カトリック寄りだったのかもしれないが、そういうことを離れても、現在なお続く、宗教対立や人種差別などといった「共同幻想」を口実とした殺戮に対して、彼の心からの怒りが伝わって来る詩句である。バルテルミー以後、ロンサールの詩は、静かだが、どこか悲哀に満ちたものになる。

マリーの死を悼《いた》むソネット

五月、瑞枝《みずえ》に 初花の
若さをひらく ばら見れば、
暁《あけ》の涙にうるおいて
空もねたまん あざやかさ

愛と優雅を宿らせて、
庭も木立も香に匂う、
されどはげしき雨に、陽に、
病みてほろほろ散りゆかん。

花のならいか、あめつちの
讃えし若さ、君が美も、
灰となりたり、みまかりて。

涙と嘆き、乳と花、
ささぐる供物《くもつ》 受けよかし、
きみとこしえに ばらなれと。
『総合作品集』 1578年

当方「きみとこしえに ばらなれと」と言える状況にあこがれはするが、そうしたことはもう決してこないだろうな。死にあたり、ロンサールは次の語句を残したそうだ。

Adieu chers compaignons, adieu mes chers amis,
Je m’en vay premier vous preparer la place.
さようなら、親しい仲間、さようなら、なつかしい友らよ、
私は先に行って、君たちの席をもうける。

ロンサールの死後、2年でメリーは処刑される。その前には、彼女は、スコットランドにわたり、ロンサール前期詩の「優雅な」環境から離れ、シェイクスピア的世界ーマクベス的状況に直面することになるが、それは別の話題としていずれまた…

後退りの記(006)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎佐藤賢一「黒王妃」(集英社文庫)

1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺は、突如として起こったものではない。ルターの宗教改革の提唱以来、各国で新旧教徒の衝突が繰り返していたが、1562年のヴァシーの虐殺は、それが大量殺戮という結果を生み出し、より大きな形で、バルテルミへとつながってゆく。思えば、フランス王朝、特にヴァロア朝は、スペイン、イギリスと違い、両派に曖昧な立場を取り続けた。ヴァシーの虐殺後、プロテスタントでの信仰の自由を一部認めたアンボワーズ勅令も和解までは至らなかった。この頃から、両派の「仲介役」として、伸してきたのが、イタリアメディチ家出身で故フランソア二世の王妃だったカトリーヌ・ドゥ・メディシスである。
ここでは、この「仲介者」というのが曲者である。現在でも、某超大国が、侵略国にその仲立ちを持ちかけているが、侵略国に向かって侵略をやめよ!と言うのが一番になされなければならず、仲裁はその後の話である。現に、十六世紀のフランスでは、最初はためらっていた息子のシャルル九世が、当初、プロテスタントのコリニーを父とも慕っていたが、結局は、殺戮の銃口の引き金を引かせたのも、カトリーヌだと言われている。疑えば、アンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ四世)と娘のマルゴ王妃との縁組を用意し、その結婚式のために、パリにプロテスタント(ユグノー)を集めて殺戮の餌食にしたのも、彼女の意図だったかもしれない。もっともバルザックは、彼女に少々同情的のようだが…いずれにせよ、パリでの1572年8月24日の攻防は、その人物配置や役割など、きわめて現代的でもある。
日本では、1562年といえば、桶狭間の戦いの2年後、織田信長と徳川家康が手を結んだ時期、1572年は、家康は三方原に武田信玄の手ごわい軍勢が迫った時期だった。一方フランスでは、アンリ四世は、サン・バルテルミ以降、しばらく幽囚の身となり、カトリックへの改宗を強いられていた。

「どうする家康!」「どうするアンリ!」

後退りの記(005)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」晶文社
◎渡辺一夫「ある王公の話-アンリ四世」(「フランス・ルネッサンスの人々」(岩波文庫)所収)
◎渡辺一夫「寛容《トレランス》は自らを守るために不寛容《アントレランス》に対して不寛容になるべきか」(トーマス・マン「五つの証言」(中公文庫)所収


1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺に触れる前に、少し、渡辺一夫さんの発言を聞こう。渡辺さんは「フランス・ルネッサンスの人々」の中で、ルネッサンスから少し時代を下った、アンリ四世の話題を取り上げている。激烈な宗教対立のなか、よほど、印象深い人物だったのだろう。また、プロテスタントからカトリック、あるいはその逆の転向を選択したのも、ナントの勅令(Wikipedia)につながる「宗教的寛容」として、評価している。さらには、後年には国々の軋轢を抑制、調停する国際機関も構想していたという。カントの「永久平和論」に先立つこと200年も前のことである。彼の政治的思惑や実際的な行動を別にしても、きわめて現代的でもある。ハインリッヒ・マンの弟にあたるトーマス・マン「五つの証言」(渡辺訳)所収の評論では

秩序は、守らなければならず、秩序を紊す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきだろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。…既成秩序の維持に当る人々、…その秩序を紊す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を紊す人々の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。

上記の文章を引いたのは、昨今の状況に鑑みると、十分にアクチュアルだが、特定の個人を念頭に置いたものではないので、誤解なきよう…

渡辺一夫評論を補強する意味で、写真は、鷲田清一「折々のことば」(朝日新聞)(ツイート裕次郎より)

後退りの記(004)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎アレクサンドル・デュマ「王妃マルゴ」
◎萩尾望都「王妃マルゴ」

アンリ・ドュ・ナヴァール(後のアンリ四世)は、1572年、人生の大きな転換点を迎えることは、前回に述べた。時の王母カトリーヌ・メレディスの娘、マルゴリットと結婚したことは、その一つであった。王族の婚姻はご多分に漏れず、政略や思惑の上にあっていることは例外ではあり得ない。実の母を毒殺したとのうわさもあるカトリーヌの縁者など常識では考えられない。しかし、そうしたことをのり越えて、アンリにとっては案外慧眼であったのかもしれない。のちのち、マルグリット王妃は、彼にとっては、結果的にはキーパーソンになる要素があるからだ。
アンリにとって、マルゴは幼いころに知り合ったかもしれないが、決して愛愛の相手ではないし、マルゴにしてもカトリック派の首領、ギーズ公との関係が深かったかもしれないが、同様である。その後のアンリも愛妾には事欠かなかったようだ。
第一巻だけだが、萩尾望都の少女漫画を久しぶりに読んだ(ないし眺めた)が、少女時代のマルゴの描写が興味を引いた。周囲に信仰が少しだけ異なるだけで、簡単に人を殺める風潮に、きっぱりと「私は人を殺さない」の決意するところなど、彼女のその後の人生を形作る元になったのだろう。母のカトリーヌとは違う気質のようだ。
デュマも二人の結婚直前から小説を起こしている。その二人の会話
「承知しましたわ」彼女はいった。
「政治的同盟、誠実で忠実な同盟を?」アンリはたずねた。
「誠実で忠実な同盟を」マルゴは答えた。

「ありがとう、マルグリット。…あなたの愛を手に入れるのは無理にしても、友情は欠けていない。あなたを当てにしています。あなたもわたしを当てにしください。」

ナヴァール王はかすかに笑いながらつけ加えた。「わたしは、恋愛の貞節よりも、政治の忠実さを必要としているのです」
本邦の同時代の夫婦で言えば、織田信長と濃姫に比することができようか。