テキストの快楽(015)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(007)


  第三節 とみなが・ちゅうき(富永仲基)

    一 彼の生涯

 ヨーロッパで近世の唯物論が盛んにおこったのは、商人階級およびこの階級のひごによる人たちの間から学問が伸び、いきいきとした思想が出はじめてからである。いわゆるブルジョアジーの擡頭からである。日本でもこれと同じことがいえるのである。商人社会がまず成立した大阪から、唯物論への道を用意した思想家が多く出たのは自然のなりゆきである。江戸時代では、皇室を尊崇する風のあつい学者が京都に、幕府の学問に忠実であろうとした学者たちが江戸に、そしてどこにも尊崇の対象や権威のありどころをもたなかった学者たちが大阪に現われたのも、また自然である。
 私たちのとみながちゅうきは大阪に生れ大阪で成長した。江戸時代の日本の学問の歴史からいって江戸時代の中ごろまででは、大阪に生れた青少年たちは、学問する便利があったはずはなかった。大阪という都会が商人社会を形成するようになったのは、だいたい元禄いごである。大阪に学問の風がおこり、就学にも便利になったのは、懐徳堂かいとくどうというひとつの学堂ができてからといってよいであろう。そのはじめは享保九年(一七二四)の頃であった。この学堂のじっさいの世話をした学者はみやけ・せきあん(三宅石庵)という朱子学の系統の人だった。もっともしかし、この学堂は朱子学だけではなく、いわゆる陸王の学の系統でもあった。いずれにしても、三宅は大阪という商人社会が生み出さねばならないような思想家の性格の人ではなかった。この学堂の敷地や建物の配慮からはじめて、その創立の経営までをうけもった人が、五人ほどいた。仲基の父の芳春はそのなかのひとりであった。芳春の家は代々醤油醸造を家業としていたということであって、彼はかなりの分限者ぶげんしゃ(財産もち)であった。だから、仲基はブルジョア社会に成長したのである。でも彼の学問の出発には、父の教養はもとより石庵の学問の影響があったわけである。
 仲基の生涯はまだくわしくは知られていないが、正徳五年(一七一五年)の生れである。このことは仲基研究者たち(日本生命保険会社のあるところ)であるといわれている。幼い時の名は幾三郎、一般に通っていた名は三郎兵衛であった。芳春の三番目の子だった。
 さて、彼の生涯のことで知っておきたいのは、右の学堂での研究の模様、彼の学問の成長のありさま、家庭事情、生涯の職業、社会的活動、著述などである。ところで懐徳堂での研究の様子は殆んどわかっていない。彼が学堂に入ったのは、一七二七年頃であるが、一七三〇年(享保十五年)の頃にはもうすばらしい著述ができていたことがわかっている。というのは、その著述の名まえは『説蔽せつへい』というのであるが、この本は伝わっていないし、またその内容を誰かが書いてくれた本ものこっていないからである。しかし幸いなことに、仲基の著述で今日のこっている『翁の文』のなかにこの本の内容が推定できる箇所がある。もっともしかし『説蔽』にどんなことが主張されてあったかは、つぎの事件が物語っている。それは『説蔽』を公けにしたことが、懐徳堂の石庵の怒りに触れて、仲基は破門されたということである。それほどの事件をひきおこした彼のこの労作は、彼のとしが十六才よりものちのものではなかったのを考えると、彼の才能は驚くべきものであったとおもわれる。私の解釈では、彼は儒学思想の歴史的批判をこの『説蔽』で企てたものとおもわれる。そは前述の『翁の文』の第十一節がその手がかりになる。中国で孔子以後いくつかの学派学統が出ているが、それぞれがその時代時代に立って前行するものを批判するところに意義があるものであって、どの一派、どの一統も権威をもつ性質のものではない、という主張が『説蔽』の骨子だったらしい。このような仲基の学説は当時のいかなる儒学者からも許容されるはずはなかった。彼の学問の眼は、儒者や老荘のあらゆる学説を、イデオロギーと見てとるところまで澄んでいたのであるとせねばならない。このような見識は当時の伝統のどの学問からも流出し得ないものであって、仲基の社会的環境、その生活諸条件がもとで、彼の思索のなかで、いつか結成へとすすんだ新しい思想だとせねばならない。「蔽」を説くのではなくて、「説の蔽」を明らかにするというのが、書名のもとであったと考えられる。
 つぎに、彼の家庭事情であるが、富裕のなかで家庭の平和を享有するようには、できていなかった。この事情は彼の思想を一層せんえいにしたことであったろう。父の芳春のなくなったあとは、同じ家に住むことがたえられないまでに、家庭不和はこうじていたらしい。母とともに、同母弟妹を連れて分家し、独立した。年若い仲基は町儒者として一家を支えねばならなかったものと察しられる。それにもかかわらず、不幸にも仲基は病弱だった。社会的活動といわれ得るほどのことは、ついになかった。というのは、一七四六年(延享三年)八月に、三十二歳でなくなったからである。彼の著述であるが、それについては、つぎの(二)および(三)で述べてみたい。
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テキストの快楽(014)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(006)

第一編明治以前

第一章への補 東洋の学問

 第一篇の第一章の諸節のなかに出てくる思想家たちを、私たちが歴史的に理解するためには、この人たちがそのなかにいた日本の学問、ひいては東洋の学問の本質をとらえておくことが、何よりも必要である。そのため、私はかつて発表したことのある同名の題の論文に多少の筆を加えて、ここに「補」として収めておきたい。

           

 いっぱんに歴史がほんとうに明らかにされるのは、歴史への眼が現代の眼であることによって、おこなわれるのである。学問の歴史があきらかにされるにおいても同じことである。だから歴史では、いつでも現代の眼がととのうことが、何よりも大切である。唯物論の歴史においては、なおさらである。私たちの現代の眼で科学(ここでは科学という言い方と学問という言い方を区別しないことにする)を見ると、いちばん大切なものが三つ眼につく。ひとつは人民大衆である。もうひとつは自然である。最後のひとつは人や自然のことを知る知識がみな確かなことである。この三つのどれか一つ欠けていても、それはもはや現代における真の学問でないことになる。原子物理学が現代の学問だとすると、この三つの要件を完全に充足させつつ進んでいるはずである。もし、そうでなく、たとえば人民大衆という要件がひとつ欠けていると(というのは、大衆に触れさせない、大衆に秘密になっている、つまり大衆の生活と幸福が考えられていないという意味である)、その学問のある国家はやがて必ず蹉跌し、その国での学問はくずれてゆくに違いない。(そういう実例は今日ないのではない。)現在では科学はまさしくそういうところまでもうきている。これは変質的といっていいほどな学問のすばらしい発展である。私たちの現代の学問の眼は、以上のことを見てとっている。
 さて、学問の歴史を見る眼でみるとして、東洋の学問はどういう学問であったのだろう。これは東洋の学問を根本的に考えてみるにおいて、ぜひ必要なことである。まず人民大衆のことはどうなっていたか。学問と自然はどういう関係であったか。知識の確実性はどう考えられていたか。私たちは最初に中国の古代の学問から問題にしていくことにしよう。えきは当時の科学だった。老子や荘子の学問も、ちゃんと歴史的な役割をもった科学だった。孔子や孟子のそれも同様だった。これらの古代の学問は、あの三つの条件(人民と自然と知識の確実さ)をどういうように具えていたか。私たちはここで、あるひとつの便利な道をえらぶことにしたい。というのは、中国古代の学問にじかにぶつかってゆかないで、それを日本人が受けとったところで中国古代の学問を見るというやりかたをえらぶことにすれば、かねてもって、近世の日本人の学問観も同時にわかるからである。したがって、私たちがこの本でとりあつかっている人たちの学問思想の性質も、浮きあがって眼につくことになると思う。
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テキストの快楽(013)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(005)

        第一編 明治以前

  第一章 唯物論への道を準備した人々

  第四節 みうら・ばいえん(三浦梅園)

    一 梅園の生涯

みうらばいえんという人はどんな人であったのであろう。梅園の人生観といったものをうかがえる書物の一つに『梅園叢書』という板本になった本がある。それの上巻の初に「詩を説いて道に志す人にさとす」という一節がある。そこのところで梅園はこう言っている。「身のけがれを露にぬるる如く、よくよく道のあるべきところをもとめん、欲をとどめては、誠に君子の人なるべし」。梅園という人物は、右の句(詩経)の解釈に出ているように、酒食や好色や好楽やの欲のためにうける「身の汚れ」「露にぬれる」というように言い表わしている。そのように清純であることは、梅園の倫理であって、また彼の好尚であった。彼の生涯の動き方をみると、どこをとってみても、そういう人物であろうとして努力した人だったことが知られる。
 さて、これは明治時代になってのことであるが、唯物論者とは欲望のけがらわしさをすべて身につけている畜生同様のものともくせられたことがあった。かりそめにも、そのような評価をうけたことのある唯物論者の世界観なり思想なりへの準備をすすめた人として、私は梅園を評論しようとするのであるから、或る人たちにとっては奇妙にひびくことであろうとおもわれる。私はそれが奇妙でないことをあきらかにせねばならない。
 梅園は享保八年(一七二三年)に生れ寛政元年(一七八九年)になくなっている<註(1)>。だから一八世紀の人である。ヨーロッパでも一八世紀は、一九世紀が科学の世紀であるのに対して産業技術がととのい且つ発展した時期である。日本の一八世紀は徳川三百年の中間のところを占めていて、学者たちが学問の自由を享有できたうえに産業技術も少しずつととのい始めた世紀である。彼が生れたころは、学問や産業をすすめてくれた吉宗がもう政権についていた。荻生徂徠のような大器が晩成しつつあったときだった。彼がなくなって間もなく、日本の北辺で国の防衛ということがやかましくなりはじめ、知力のある青年たちでオランダ文化に浸透しでゆくものが多くなったために、やがて偏狭な祖国主義が唱えられはじめたり、外国渡来の科学者(シーボルト)にスパイ嫌疑がかかったりする暗い時代が待ちかまえていた。そういう時代にさしかかる頃には、梅園はもうこの世を去っていた。だから、梅園は比較的に学問しやすい良い時代を生きたといえる。彼はのびのびと彼の学問を発展させることができ、世界観思想を十分にのばすことができた。学問なり思想の世界を自由な哲学者として経歴したことに、じつにそのところに、彼が唯物論思想が成立するのと同じ方向へとすすむ道がひらけつつあったのである。
 私はこの節の終りに梅園の『玄語げんご』を中心とする彼の著述のことを書いておかねばならない。私はかつて彼の生家、富永村の旧宅を訪ね、一か月余滞在したときに、感ずるところ深くて、梅園にむかって語るかたちで小文を書いたことがある。それをここに引用しようとおもう。<註(2)>
「日本人によって書かれた哲学書で何が最高峰にあるべべきかと聞かれますとき、私は躊躇なくあなたの主著のなかの主著、『玄語』を挙げます。あなたは『玄語』を二三年かかって二三度も根本的書き換えをなさいました。あなたは何という数多い書を書き換えせられたことでしょう。あなたが言われます二三度の換稿とは、根本的なものについてでした。部分的にあすこをここをと書き改められました草稿の数はいったいいくらあったのでしょう。今日あなたの『玄語』の原稿は六〇綴も残っています。あなたが『玄語』を書きはじめられましてからもう百八十何年にもなりますから、あなたの原稿はもう大部分散佚してしまったのでしょう。それでもしかし、あなたの子孫の方々ほど丁寧にあなたの原稿や手紙や蔵書や什器を保存せられた例は少いでしょう。これはあなたの哲学とあなたの人間的高さによるものでなくてはなりません。
 へーゲルは哲学書がほんとうに科学的なものであるためには七七度の推敲が重ねられねばならぬと言いました。そしてへーゲルにとってこれは理想であったことはいふまでもありません。へーゲルは自分の論理学を数度書き換えたのでした。私はあなたが、二三度換稿されてもまだ満足せられなかったことが、そして、あの例旨の終りの言葉が、強く私たちをつのを覚えます。『物大に事衆し。犬馬の歯、既に半百を過ぐ。鬢髪皤皤、之に加ふるに心胸の病を以てす。知らず、天之に年を仮し、将に其の業を卒へしめんとするか。将に其の志を奪はんとするか。是に於て感無きこと能はず。書して以て佗日を竣つ』
 あなたはいつの日にこの『玄語』が読まれ理解されるとお考えになっていたのでしょう。あなたは遠い「阿蘭陀」の文化に憧憬をよせられました。そのオランダをほぼ中心にしまして西洋の諸国の文化はあなたが亡くなられましてからほぼ一世紀くらいの間に更に長足の進歩をしました。そのなたが考えられましたような学問の世界が日本にも開けて来ました。日本の最高の学府としての東京帝国大学があなたの郷土、あなたの家の土蔵の中に、あなたの『玄語』が蔵せられていることを知って、借覧を申し出ました。それは明治三十二年でした。それでもしかし、あなたの『玄語』の哲学が理解され広く伝えられるということにならずにそれは終りました。そのうち明治四十五年にあなたの郷土の人たちはあなたのお徳を慕うのあまり、力をあわせ『梅園全集』を作りました。
 この数年になりまして、あなたの『玄語』を知ろうという学的要求が漸次高まって来ました。私もその要求を強くもっています一人なのです。あなたの学説は、これからの人たちがひきつけられて理解するような思想を、いっぱいにふくんで居ります。
 これからの人は学問の近代性を感受する力を具えて居ります。あなたは論理学として『玄語』をお書きになり、別に又『贅語ぜいご』をお書きになり、倫理学として『敢語かんご』をお書きになりました。この『梅園三語』を逆の順に言いますと、人倫の学としての『敢語』と、自然及び人間の学としての『贅語』と、人が自然及び人倫について思惟するその思想そのものの学としての『玄語』とを、お書きになりました。これはギリシア人がエティカとフィジカとロギカの学を整えましたこととほぼ相似ています。あなたは西洋哲学のいわゆる三部を整えられたことになります。そしてあなたは、『価原かげん』という著述を以て経済の学を展開されました。価の根源を衝かれました。あなたは物の根源を探らないではいられないかた方でした。天性のフィロゾォーフでいられました。尚又、あなたの詩学としての『詩轍してつ』というあなたの著述も、同様の根源性を示しています。あなたはあの時代の日本の学者の群をはるかにぬいて、右のような学問の『近代性』をはっきり示されました。私たちは驚嘆せずにはいられません」
 梅園の著述は『梅園全集』(上下二巻)に収めてある。略伝には三浦黄鶴のかいた『先府君攣山先生行状』がある。この『行状』は私の編著『三浦梅園集』(岩波文庫二二二九)に入っている。

  註(1)生れたのは八月二日で、なくなったのは三月十四日だった。今では大分県東国東郡西武蔵村であるが、当時は富永村とよばれた農村であった。
    (2) 『三浦梅園の哲学』八一一頁参照。

    二 條理学
 唯物論へのみちを準備した人たちとして、私はえっけん、そらい、ちゅうきの三人をあげたのであるが、梅園はこのなかの益軒と徂徠について彼の著述のなかで語っている。それのみでなく、梅園はこの二人を尊敬し、その影響をうけていたということができる。益軒の実学的な傾向、徂徠の中国古典への傾倒、この二つの精神は梅園において継承されているということができる。梅園の学問思想にはその先行者がなく、また後継者がないとしばしばいわれているが、それは益軒と徂徠にあるような学問のゆき方を梅園が科学的方法でもって発展させた点にあるのである。その点では、あとにもさきにも彼に匹敵するものがないといっていい。
 では、梅園の科学的方法とはどういうものをさすのであるか、これを明らかにすることが何よりも大切である。
 私たちは序説の三、四のところで、東洋では唯物論思想がそだたなかった理由を考えてみた。ほんとうは科学思想が発展しなかったことが問題なので、その問いが解ければ唯物論思想の成長しなかったわけもわかる、ということを私はのべた。理由をいえぱ議論はいくらでも出てくるが、要点をつかんでいうなら、東洋の学問思想が根ていにおいて「空」の思想、「無」の思想で貫かれていることにある。それがもとで発てんしているいろいろの、科学的でない思想がある。このことから題にしていかぬと、梅園の学問思想はあきらかにならない。それには益軒や徂徠をもう一度考えてみたい。
 さて、益軒はずいぶん博学であったし、庶民のためになる知識を提供した。けれども、日本でなぜ実学的傾向はそだたないかを反省はしなかったし、そのようなことを思索することに長じていたとはいえない。彼の『大疑録』は貴重な問題の提出であったが、解決ではなかった。益軒は産業や学術をすすめる役にたったが、彼が『大疑録』でのべているような哲学的な知識や思索とのれんかんは明らかにしていない。たくさんな物や知識をならべたことはならべたが、それの統一的見渡しはなかった。早くいえぱ、益軒では技術の学も、博物の学も、論理の学も、何ひとつととのってはいないのである。もちろん、それらの学問のれんらくなど考えられたことはなかった。ということは、日本に哲学がまだなかったということである。博物学的な物しりはだんだんふえた。そういうのを見てとって、梅園は「庶物の品類いまだ条理に合せず」といった。日本の学問はどれもみな科学的方法にかけて整理されていないものばかりだった。
 徂徠にしても、益軒と同じことがいえる。徂徠は、学とは何であり理論とは何であり、実践とは何であるかを明示してくれ、歴史や社会の意味について教えてくれはしたが、博学の力にまかせてそれらについての知識をくりひろげてみただけで、それらのものを思索的に深く汎理論的にはんりろんてき明瞭にしはしなかった。つまり、「物」たる文辞を論じても、ひとびとになっとくゆくように認識論的に論理学的に分析してみせはしなかった。そういうわけで、益軒にしても、徂徠にしても、東洋の学問のなかのほのぐらい点、洞穴的な神秘的なものへの反省をすることはなかった。梅園はこういうことをいっている、「空と曰ひ無と曰うふ、局を舎ててこまを譚する、妄に非ずして何ぞ」と。その土台となっているものをいわないで どうするのだと、いわば観念論的だんぎだけでは、何もわからないではないか、と従来の日本の、また東洋の学問註(2)のゆき方を批判したのである。
 以上のような、とっくにできていなければならぬ学問上の、また思想上の課題が、梅園の時代では、ようやく気づかれはじめた。しかし、気づかれただけで、少しも手はつけられていなかった。こうした課題を解く重荷が梅園のうえにふりかかっていた。梅園の主著『玄語』が難解なのは、こうしたところに理由があると考えられる。
 江戸時代のほとんどすべての儒者たちは、仏教のほうの学者思想家たちと同じように、東洋の学問の特長や欠点を知らなかった。ということは、それぞれ自分の立場でしか相手がわからなかった(その点では富永仲基は稀な存在だった)。そういうふうでは、科学思想が発展しようもない。したがって、そういう思想の道筋のうえでは唯物論思想がそだつはずもなかった。儒教と仏教との両方の考え方を批判的に理解することができるのでなければ、日本に学問のほんとうの道はひらけない。この道が梅園においてひらけはじめたのである。梅園が仏教と儒教とに加えた批判をここでのべる余裕がないから、東洋の学問にゆきわたっている把えどころのない茫洋たる性格を彼が批判したのを、ここに少しばかり紹介してみることにしたい。
 彼はヨーロッパの近代哲学の父といわれるデカルトがしたように、どんなに広い世界をおもってみても、その世界はひろがっているものそうでないものとに分けて考える。たとえていえば前者は物体で後者は精神だというように、または前者は空間で後者は時間だというようにである。ただし、デカルトとちがうのは塞がっているもの塞がっていないものとは固定的にきまってしまっているのでなくて、弁証法(「反観」)的にみられているので、かなり難解になっている。「露」と「没」、「立」と「活」、「物」と「人」、「塞」と「通」、といったようないくつもの対立概念がもうけられていて、それらの概念のつかい方はまことに細かくて思索的である。彼の思索の一つをあげてみるとこんなのがある。
「仏教では恒河沙ごうがしゃの世界ということをいう。いかにもことごとしく沢山あるように思われるけれども、恒河のすな沙の内にすでに恒河沙の世界をそなえているのであるから、天地は恒河沙をいくつかさねてもこれで天地ということにならない。これがつまり二の立場である。それを二の立場というのは、天地はかように紛紛として、又擾擾じょうじょうとして物が沢山あるように見えるけれども、実はかたちあるものがひとつ、かたちのないものがひとつ、これより外には何も物というものは存在しない。そのかたちのあるものを物といい、かたちのないものを気というのである。かたちのないものはいうまでもなく眼に入らないし手にわらないから、昔の人も誤解して、空である無であると考えてしまったのである。もちろん、地がレアル(「実」)であるに反して天はそのサブスタンス(「軆」)がきょであり、地のマテリアル(「実質」)であるに反して、天はマテリアルでないから、天は実質的でない。「実質なき」ところの虚のサブスタンスを「虚体」であるものと解釈するのはよいであろうけれども、そう解釈しないで、どこまでも虚無である、虚空であるととっては、たいへん間違いである。もし、その指示されているものが(すなわち天が)真の空無であるなら、太陽や月や星がそこにあるということはできない。そうすれば、われも物も存在するところがないことになろう。太陽も月も星もすべてその内にあり、物も我もすでにその内に遊動しているとすれば、そこに虚であるが軆があるとせねばならない。すでにあるのにもかかわらず、それを指して無というのは、それは間違ったことでなくてはならない。<註(3)>」
 またつぎのような批判もしている。「仏教では成住壊空じょうじゅうえくうなどということを言っている。空から漸次に天地ができあがり、終には壊れてゆき、無になる。それが空劫に帰するといわれているのである。次にそこから天地ができあがり又空無となってゆくというのである。邵康節などは混沌開闢の説に自分で幾分の考えを加えて天はひらけ、地は丑に、人は寅にひらける、そして丙のに天は閉じられ、戊の会で地が閉じられ、亥で人が閉じられるといったような、それぞれ勝手な杜撰な説をたてているが、みな条理を知らないので、自然〔天〕と人間〔人〕とをごっちゃにする妄説だといわねばならない<註(4)>。」
 梅園はオランダ語を多少は勉強したが、それによって直接にヨーロッパの学術を吸収はし得なかった。中国でできた天文書は大いによんだ。しかし哲学の本はなにひとつ中国にもまだきていなかったから、その影響をうけることはなかった。彼は一方で天文学や地学や数学やの知識をもとにし、他方では中国や仏教の古典を批判的によんで、そのうえで無類の思索力をもって考えていった。右の引用文にあるように、彼は「条理」ということを学問の生命と考えた。彼において条理とは法則のことである。自然と社会とのうちなる諸法則、それが条理である。けれども、それのみでなものにしている。彼はこういっている。「このゆへに条理の理は、古人の説ける理もその内に候へども、〔それとこれとは〕死活のへだたりある事に候」と。
 彼は「条理学」という呼び名を用いなかった。彼の弟子の矢野弘は明らかに梅園の学説を条理学と呼んだ。矢野は条理学のことを「自然(「天」)と社会(「人」)のぜんたいを見るための規矩準縄である」と理解した。聡明で、そして若くして死んだ弟子の矢野の理解としてうけとると、なお興味がある。

 註(1) 『玄語』天冊の「活部」参照。
   (2) これについては、第一章への補の「東洋の学問」をとくに参照のこと。
   (3) 三枝の著述『三浦梅園の哲学』一三七頁を参照。
   (4) 前掲書一四八頁参照。

    三 反観合一の論理
 私たちは第一節の「かいばらえっけん」のところで、彼はそらいとちがって庶民との交渉が多かったということを知った。梅園となると、もっと庶民との接触が密だった。
 (一)の「梅園の生涯」のところでのべたように、彼はむしろ農民のなかにいた。読書と思索は彼の日課の大部分を占めていたが、その余のひまはほとんど彼が愛する富永村(この村のことを彼は「寒郷」とか「寒村」といった)の人たちとの接触にあてられていたと思われる。みんなと相談して救荒(凶年で不作のため困った人たちをたすけること)事業として無尽なるものをはじめて、経営したり、郷社を美しくしたり、貧困の弟子を表彰したり、村の子弟を教えたりしたことが、いろいろの記録にのこっている。「一村のうちは、よき事あればうちよりて喜び、悪しき事あればうちよりて悲しむ」ことは、彼の生涯変らなかった社会生活の精神だった。
 さて、そういった梅園の生活の庶民性から、彼を唯物論への道を準備した人としてみることがひき出されるであろうか。それはできない。梅園は農民たちとともに生きたのみでなく、彼の世界観の根底には、人民大衆の生活を安心させることがほんとうの文化だという信念のゆるがぬものがあった。「道(文化)は衆を安んずるより大いなるはなく」といったのは彼である。しかし、そうではあるが、彼のこのような生活の実践から、彼が日本の唯物論思想への方向づけに役立ったとはいえない。士・農・工・商という身分的な社会秩序を固くまもっていた梅園としては、学問の方法は厳しく、青年の教育は規律正しく、村人むらびととの交わりは律儀で慈悲深かった。こうした人生観においては、ゆるぎなきものが彼のうちにできていた。彼の哲学とても、けっきょくは、ここにその地盤がなくてはならぬものだった。
 梅園の哲学は、彼の主著である『玄語げんご』のなかにまとまっているのであるが、彼は文字どおりの「形而上学者メタフィジカ―」ではない。スピノザやライプニッツのような哲学者ではなくて、むしろカントのように、認識論思想が特長をなしている。彼には論理的にさぐりもとめたものがあった。そのものは「げん」といったらよいものだった。「玄」は彼にとっては弁証法的にでなくては、とらえられないし、言い表わせぬものだった。彼がそれに考えついたのは、形而上的に古哲の用語をあやつり廻すことによってできたのではなかった。私の解釈では、二十才ぜんごからそれに没頭していた天文学や和算の研究がもとだったのではないかとおもう。その天文学はもうヨーロッパのそれの影響の十分あるものだった。とにかく、自然観察と思索とがもとだったということがいえる。彼は天球儀をもつくったし、素朴な顕微鏡もつくって、つかったのだった。そういう研究がもととなって、さきの「条理」の学ができたのだった。条理の学とはたんに自然や社会の法則性の学のことにとどまらないで、弁証法の論理であった。
 彼はこう説明している、「自然[「天地」]を洞察する道は外でもなく条理である。条理の真の方法[「条理の訣」]は、反のうちに合一を観ることであって、心の執するところを捨て、徴標を正しいところにとること[「反観合一。捨心之所執。依徴於正」]に外ならない。心の執するところを捨てるとは、習気しゅうきを離れることである。徴標を正しいところにとるとはどういうことであるか。見たところ徴標のようであるが、じつは徴標でないところのものがある。たとえば、太陽や月はたしかに西にゆくという徴標を人はつかむのであるが、実は東にゆくのである。……自然の道は陰陽であって、陰陽の実体[「体」]は戦いであって相反している。反するからそのために一に合するのである。これがすなわち自然の成立するところなのである<註>。
  一八世紀いごヨーロッパにおいて科学の精神といわれたものが、とにかく右の梅園の意見のうちに出ている。そして、そのうえになお弁証法の論理を見出すことができる。彼は「反観合一」については『玄語』のなかでくわしくのべている。彼は自然弁証法の提説者といってよい。「反観合一」につけての叙述は『玄語』の序論(「例旨」)にかいているが、反観合一の考えの実際はほとんど全巻にゆきわたっている。
 へーゲルはディアレクティークを明らかにするために、同一ということ、同等ということ、区別ということ、反対ということ、差別ということ、対立ということ、矛盾ということ、これらを順にのべて試みているが、梅園は、「対」には「反」というのと、「比」というのと、「互」というのと、「汎」というのと、「偶」というのがある、という具合にして、説明している。ディアレクティークの論理学が、少くともそのような学問が、ひとつもなかった日本の思想文化史のなかに、反観合一の説を見出すことは奇異な思いすらするほどである。
 レーニンはへーゲルの『論理の科学』の内容を批評したとき、「へーゲルは唯物論の黎明である」といった。これはレーニンがへーゲルのディアレクティークの思想のてってい性を高くかったためであった。論理の科学の伝統のなかった日本で、梅園の論理思想はヘーゲルのように組織的であることができなかったことを考えたうえで、私たちはこう言いたい。梅園は条理の学をはっきりさせることをして、学問や理論のすすむべき方向を示してくれた。この方向のなかに唯物論思想が発展したのだ、ということを。その範囲において、私たちは梅園を唯物論への道を準備したひとびとのうちに加えるのである。日本の思想史の特殊な事情を考えてである。

   註『多賀墨郷君にこたふる書』より。(『三浦梅園の哲学』一三二頁。)

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

テキストの快楽(012)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(004)


    三 東洋にはなぜ唯物論哲学がなかったのであるか

 これは大きな問題である。
 なぜ東洋には早くから自然科学が発展しなかったのであるか、なぜ東洋には西洋ほどに産業技術が発達しなかったのであるか、という問いと、もちろん連けいする問題である。しかし、それらの疑問よりも、なぜ東洋には唯物論は出て来なかったか、という疑問のほうが、よりいっそう根本的なのであり、要点をついているのである。なぜかというと、東洋でも、数学の知識では早くから発達したものがあったし、自然科学的知識らしいものにしてもなかったとはいえぬし、まして産業技術となれば、原始的なもの・発展可能でないもの(というのは、単純な耕作技術や漁撈技術は昔もたいいして変りはないから)に限られてはいたが、それにしても、とにかく産業技術は世界共通の或る線までに達していなかったのではない。生産の技術が根っからなかったのだったら東洋人はどんな文化をもつくりあげることはできなかったであろう。だから、産業技術がなかったとか、学術が発達することがなかったということは言えない。しかし、唯物論哲学があったということ、このことに限って、東洋にはそれはなかったとしか言えないのである。唯物論とは、人がなにものかに対してあげた抗議的なひとつの世界観である。東洋では、インドにも中国にも共通したヨーロッパとは別のひとつの世界観が発展していた。この世界観を語ることがこの節の目的なのである。その世界観に支配されている諸民族においては、唯物論を必要とはしないのである。必要としないというのは、東洋は唯物論をぜんぜん容れる余地がなかったという意味ではない。いいかえると、唯物論の思想を容れる余裕をもたないほどに唯物論に対する別の世界観でもって中がいっぱいふさがっていたのではない。一個の世界観が中を充実していたからではない。この点が大切なのである。東洋人は充実した世界観思想を、だから他の世界観をはじきのけるほどの世界観を、うちに懐いていたのではない。その反対なのである。東洋の世界観は、確立しているとか、充実しているとか、その余のものを、排斥するとか、そういったような性格のものではないのである。むしろ東洋の思想が確立、充実、排他、そういう性質のものであったならば、かえって唯物論思想をそのなかから誘い出し、発展させたことだったであろう。幸か不幸か、東洋思想はそういう性格のものではなかった。東洋思想はそれ自身すでに、はなはだ把えにくいものなのである。このように始末におえぬものが、じつに東洋の思想の大きな特長なのである。中江兆民は「主義の確立」<註1>という文章をのこしているが、そのなかでこういうことを言っている。「欧羅巴ようろっぱまさりて亜細亜あじあが劣るといふのはほかのでもない。欧のやつは思い切つた事をする、亜のやつは何分にも、のろ臭ひ」と言っている。兆民は、ヨーロッパ人たちは、言う行うことにおいて、確立をするが、東洋人はこれを避けることを、東洋人は「のろ臭ひ」という言い方で表現したのである。確立ということは、考える場合や、ものを言う場合では、定立ていりつ(thesis)という用語で言い表わされる。ゆるぎなくはっきり立てることが定立である。何々は何々であると、言い切ることである。言い切られたものは、客観的なものとなって自立するのである。定立は知識の出方でかたのであり、知識の約束である。定立ということがおこなわれなくては、数学もまともには発展しないし、科学も発達しない。ヨーロッパでは、経験にてらしては定立をつくり、経験にてらしてはまた定立をつくった。そうしてできたものが、ほかならぬ科学なのである。そのやり方は、近代までヨーロッパでは古代ギリシア以来めんめんと続いている。東洋では、定立は嫌われたのである。『老子』のなかの思想は、けっきょくは「不言の教を行う」(行不言教)ということに外ならない。はっきり言い切り、はっきり考えをきめることは、定立なのであるが、これを避けて定立のないままに大衆を導こうというのが、東洋の賢者のやり方であった。もちろん、一つの定立には、必ず形に陰影があるように、一の反定立(anti-thesis)がついてくる。この二つの定立の間を行こうとする東洋人は、定立を嫌い、定立ができたらそれをすぐ崩すことを、むしろ心がけたのである。弁証法論理があきらかにしているように、定立をすれば、すぐに反定立がもう出てきているから、一方の側面と他の側面とが同等の資格で浮びあがってくるのは当りまえである。さて、そうしたとき、どちらの側にもつかず、固執せず、同時に二つの側がはたらいていることに眼をつけようとするのが、東洋である。それで、「二際をほろぼすのが、菩薩ほんとうにもののわかったひとのやり方だ*註(2)」というのは仏教の精神だが、老荘の考えとまったく通ずる考え方であって、東洋的な考え方の特色である。ヨーロッパ人は、ひとつの定立にたとい他の定立がひっついて出てこようとかまわない。それを処理する次の定立を企てるのである。だから、いっこうに定立を避けようとしない。だから、はっきりした定立がいくつも累々とがなるようにできて、ひとまとまりになってくる。それがつまり科学の体系である。もし、考えをはっきりきめつけたり、言い切ったりすることが、悪いものを伴ってくるなら、さらにもうひとつの定立をもうけて、その悪さをとり去ろうとする、それはヨーロッパ的やり方である。二際を亡ぼさないで、それどころか、それを大切に生かして、ともに定立させて、二つの定立が争うのを争わせ、そのなかに現われ出るものを期待し、それをさらに定立させようとする。このように、ヨーロッパの学問では学問はつねに学的に技術的である。だから、発展がある。東洋では定立が生れるとすぐ崩すことに努めたから、も、もなくなるのである。弁証法が東洋にないことはなかったが、それが論理学として確立しなかったのは、このためである。
  ヨーロッパには、弁証法論理が成長し、とともに、唯物論が成長したことを、ひき離さないで考察することが大切である。
 インドでは冥想から数学が生れたが、それがヨーロッパのように成長しなかった。定立をやらないからである。定立をはっきりやれば、自然にそれを書きとめるはずである。書きとめないと、ほんらい葦のように弱い人聞においては定立は崩れて消えてなくなる。インド人は書きとめることを、すなわち、記録することをやらない民族だった。このことは、インド人に数学が本当に伸びなかったことと深い関係がある。書きとめて確立することをしなかったから、あれ以上数学が発達しなかったのである。エジプト人やバビロニア人たちは、数の知識や石や板や練りものに刻んででも、確立を貴んだ。定立のために手段を講じたのである。技術だったのである。東洋人は、できてくる定立のいわば灯をすぐに吹き消した。闇のなかにほんとうに明るいものを見ぬこうとしたのだといっていい。零を数としてとりあつかったのは、インド人である。ギリシア人は長さや面積のような量をとりあつかうことから数学を発達させたが、インド人は数そのものを発達させた。ヨーロッパ人は定木じょうぎとコンパスという手段をつかったが、東洋人はこうした手段を確立しなかった。おかくら・てんしん(岡倉天心)がそのなかで「アジアは一つだ」の思想をのべている『東洋の理想』のなかで、「地中海やバルト海の諸民族」のことを、「手段を探求することを好むところの諸民族」だと規定しているのは、たしかに当っている。天心はヨーロッパ人の先人たちが、手段を好むことに対して「アジア民族共通に」「広い愛の拡がり」ということをあげている。天心は彼のこの著述を英語でかいて、ロンドンで発行したから、やむなく愛という文字をつかっているが、「愛」などという定立は、ほんとうはアジア人はやらなかった。明治時代でも「愛」などというと、多くの人(常識人)はてれたのである。「愛」の定立には「憎」の他の定立がすぐ浮び出てくるのを、東洋人は嫌ったのである。「愛憎もと一体」などという言い方は、おそらくヨーロッパ人にはわかりやすい思想ではないであろう。キリスト教における、そして、一般にヨーロッパ人の生活史における「愛」は、仏教のなかでそれにちょうどあたる|ことばは、見出されないほどである。仏教では愛は「愛欲」「愛着」「愛恋」としかとられてない。『涅槃経ねはんきょう』をみると、『ほんとうにものがわかり、ものにこだわらない人は、愛を離れている」ということを言っているが、おそらく仏教の真意であろう。仏教ではむしろ近代人のラブは「愛染あいぜん」であるだろう。人格のできあがるのに妨げとなるものである。
 東洋人は、定立をしない、確立を避ける、というやり方を、自然に対してもやっている。自然界をば、どうしなくてもおのずから(自)なるようになってゆく(然)というように、東洋人はうけとっていた。無神論者のあんどう・しょうえき(安藤昌益)ですら、「自然」という字を「ひとりする」とよませている。ヨーロッパ人にとっては、自然界(natura)は生れ出る(nasci)ことから成り立っている。生れたものは、成長するであろうし、成長するものならば、成長して成長させることができる。「生れる」とは、最初から人間的な言い方である。東洋では、生れてこない自然、どうしなくてもそのとおりである自然、これが東洋人の自然(おのずからしかるもの)である。ひとりするものであっては、これに対して手段のほどこしようはないのではあるまいか。中国や日本では、自然界に対して人間が人間の力を加えて開拓することを、「開物かいぶつ」とか「開化かいか」とかいってきた。開物や開化を主張したことは、東洋の古典のなかのほんの一部に限られていた。『天工開物てんこうかいぶつ』(一七世紀)という中国の書物は、ヨーロッパの学問が中国に入ってからのちの著作である。自然界を開化することは東洋人の仕事ではなかった。中江兆民は、このことを鋭くとらえて巧みに言い表わした。彼の言い方によると、わが国では、「人民が開化し往くと謂うよりは、寧ろ開化其物の中へ人民を追い込む(註3)」というのである。知識の定立をしない東洋人においては、自然を定立のなかに置くことができない。そうだとすると、自然科学も産業技術も発達しようがないのである。では、東洋人にとっては開化は一切ないのであったか。ないのではなかった。あったのである。しかしいつからあるというようなものでなくて、はじめからあるのである。どこかで始まりようはないのである。開化そのものは時間を越え、空間を越えてあるものであった。老子が「万物はおのずから化しようとる」といった彼の形而上学は、日本では人民教化にさえ巧みにとり入れられている。日本では、「自然」を説く老荘はかえって実践的に利用された。価値をもった哲学としてではなく、この道教のいわば野放図のほうずの教えがかえって実践化されたのである。まことに不思議な国である。
 これでは唯物論は芽ばえることからが、日本、いや東洋では、むつかしかったといわなければならない。
 ヨーロッパでは唯物論のはじめをきかれると、ほとんどみな一致してギリシアのデモクリトスをあげる。デモクリトス(前・四六〇―三七〇年)は、周知のように、世界のすべてのものはアトム(原子)から成るという説をたてた自然哲学者として知られている。デモクリトスの書いたものは断片的にのこっているし、またギリシアのその後の哲学者たちがデモクリトスの説として言いのこしているものがあるので、デモクリトスの学説といっていいものは今日もつたわっている。知識や学問について彼が語ったものは、今日からみても光っている。それらのなかで特にめだっている彼の意見をまとめて、その科学的意義を要約してみると、こういうことができる。すなわち、

    1 原子と空間より外にはほんとうに存在するものはない。
    2 このことは永遠であって、変ることがない。
    3 存在するものは、ないと否定されることができない。
    4 すべてのものはきかいてきな運動である。
    5 何ものも偶然に生じるものではない、すべてのものはそれのもとから、しかも必然性でもって生じている。

 デモクリトスは、このようにはっきり言いきった。つまり、テーシスをもうけたのである。
 右の五つの考えはたいそう簡単なものであるが、これくらい科学の精神をいってしまっているものはないといってよいであろう。今日の自然科学が主張しようとする大切なものはみんないってしまっている、といっていい。(もっとも今日はデモクリトスのいったような、まったくの空の空間があるとは自然科学者はいわないけれども)。今から二千四百何十年まえにこんな意見をデモクリトスがいっただけではなく、後の学者たちが、ことにギリシアのアリストテレスやエピクロス、ローマのルクレティウスなどが、デモクリトスの学説をさらに発展させつつ、言いつたえたのである。近世では、フランシス・ベーコンいらいたくさんの哲学者、科学者たちがデモクリトス風の説をひきついだ。じつは、そうした学説が承認されて、あとあとへひきつがれたことが、ヨーロッパに自然科学の伝統が確立されたわけなのであるといえる。
 私たちがいま問題にしているマテリアリズムは、そういう自然科学の伝統のなかにあって、ぜんじ発展した思想にほかならぬのである。東洋にそういう伝統がなかった。東洋人はたとえばデモクリトスのように、定立をすることを拒んだ。もともとインドの知者たちもデモクリトスが提説したような、ひとつの学問的真理に思いつかぬのではなかったろう。インドの哲学者たちは、広大なる自然、複雑な社会、総じて宇宙ぜんたいのことは、テーシスをつくってみたところで、ほんとうに究極のものはつかめぬ、それでつかめぬならば、そのようなやり方はやめてしまって、なんでもひとつのこさずつかめるような宇宙大の智恵がほしいものだという、とてつもない、永遠といえば永遠、悠遠といえぱ悠遠な思想をもつようになった。それが割合にまとまって結実したのが、インドの仏教哲学の知恵(般若)の論である。このことは世界の仏教研究者たちの通説である。日本人が深い影響をうけた仏教が、みんなそろってそのような「高遠」の仏教だったというのではないが、日本の各宗の開宗者たちは、右のような仏教の智恵の論はのこりなく共通に理解したひとびとである、ということはできる。日本人には、一般に東洋人には、どこかたががはずれたようなところ、どこかで要領が得られるだろうから自然まかせだといったようなところがある。唯物論思想が生れなかったということは、また科学思想が生れなかったということである。

  註(1)『警世放言』(再版、明治三十五年)一八〇頁。
   (2) 竜樹の『中論』の序(中国の人僧叡のかいた文章である。彼の文章は「二際を沈さざるは菩薩のうれいなり」となっている)。
   (3) 前掲書一九八頁。

        四 どうして東洋では唯物論哲学がおこらなかったか
 東洋は、世界観とか哲学ということになると、はじめから難題を背負っていたようである。というのは、東洋人は思索することでは、わかりにくいものを最初から手にかけたが、ヨーロッパ人はわかりやすいものから手がけていったといえるからである。ヨーロッパのどの哲学史をみても、タレース(前・六世紀)がまず出てくる。この世界の本源は何か?  という問いに彼は答えてくれている。「水」だというのである。この水とはかめの水、小川の水、湖の水、そんな個々の水のことではなくて、およそ水といわれるもの、さらに湿気的なもの、さらに拡げて、胎生のもとなる精なる液、つまり世界のぜんぶにゆきわたっているもの(物)、これがタレースのいう「水」なのである。その要点は、精神的なものをさがしていっているのでないところにある。もちろん、タレースが出てのちまもなくアナクサゴラス(前・五世紀)のような哲学者が出て、やや精神的なものを世界の本源だとする説をたてはした、またやがては、ソクラテス、プラトンのごとき哲学者があって、精神の面を明らかにしてゆくようになったのであるが、それしてにも、哲学史のはじめはタレース的な問いではじまっているのである。かんたんなところからはじまっている。そしてソクラテスやプラトンにしても、物のことについては、技術や数学の考えを通じてつねに問題をすすめたのである。すじの通ることしか求めなかった。とにかく、「私」とか「精神」とか「作用」といったものから離れて、それとは別に客観的なもの(物)を問題にし、それについて何かはっきりした知識をもつようになっていたのである。ところが、それが東洋ではどうであろう。インドの哲学のはじまりは『吠陀リグヴェーダ』の哲学的讃歌だが、その最初のインド人の問いでは讃歌のなかでヨーロッパのように物には向けられない。おもしろいことに、インドの哲学的讃歌のなかでも「水」のことが出てくるには出てくるのであるが、それは物としてはとらえられていない。せっかくの「水」の考えが、「ゆうもなかった、もなかった、くうの世界もなかった。それをおおうてんもなかった」というような冥想的な問いと答えでもって、すっかりつつまれているのである。
 かようにして、古代のインド人は最初から困難な課題を背負っていたのである。インド人は水や火や地のことを考えてもいるが、だから物について考え、物をもとにして考えているかに思えるところが察しられないではないが、その水や火がまた精神的なものでもあるかのように考えられていた。だからヨーロッパ流にいうと、物活論はあったが唯物論はなかったと言える。ヨーロッパ人たちにおいては、考える態度がまったく東洋とちがっている。彼らにおいては、問いがもうけられ答えが得られ、そして知識ができるにしても、その知識はやがて仕事をしたり技術を練ったりすることに役立つように(ことごとく役立ちはしなかったが、役立ち得るようにそういうように)持っていっているのである。だから、「万物のもとは水である」といい切り、または「万物のもとは地水火風である」といい切り、あるいはまた「万物はみなつりあいという関けいからきている」(ピタゴラス)といい切ったりする。ひとつひとつ片づいていく。ことにこの第三の定立の如きは、後々まで技術的な知識にとってたいへん役にたった。なぜなら、ピタゴラスのつりあいとは数的かんけいのことだったから、数学の発展をうながした。ところが、インドではそうではなかった。手に負えないものに初めから手をつけたのである。したがって、定立はできはしない。いや、できないよりも先に、定立することは好まなかったのである。
 中国はインドとは世界観の出発がややちがう。むしろ出発はいいのである。『詩経』や『易経』のような古典からすでに、「物」「百物」「万物」というような言い方をしている。物を複数でもってとらえている。もちろん、その「物」とは水や土や、山や沢に限られているのでないので、そのなかには人間だって入っているので、その点すでに古代ギリシア人のやり方とはちがっている。いうまでもなく、近代人が「物質」とか「物体」とかいう場合の物の意味にけっして限定されてはいなかったことは、注意を要する。「物あり則あり」(『詩経』)というようなはなはだ学問的な言い方をしても、その「物」には人間(たみ)のこともふくまれていたのである。古代インド人の考え方との大きな相違がここに見出される。古代の中国では「物」の意味内容のうちには、たとい人間や精神も入れていたにしても、物という言い方をすることは、インド人とちがって、定立することを避けていないことである。それどころか人間がものを考えるときの法式(つまりカテゴリー)に対して、すでに鋭く反省をしていたのである。Kategorie というヨーロッパのことばに対し日本では「範疇」の語があてられていることは、周知のことである。それは中国古代の『書経』の「洪範九疇」の文字からとったことでもわかる。古代の中国人ははじめはこのようなすべり出しをしたのであったが、それにしてもしかし、古代ギリシア人やローマ人のような考え方はとらぬようになっていった。老荘的な違ったものだった。古代ギリシア人たちの場合では、自然は生じた物としての自然(physis)をさすのであった。中国ではそうでなかった。そこで私たちは、つぎの老子の言葉に注意してみることにしよう。「人間は大地の上にあるものにもとづいてきまりをつくった。その大地の上にあるものは、天にしたがってそのきまりができた。そのまた天のきまりのもとは道なんだ。さらにその道のきまりは自然なのだ。<註(1)>」。この一連の語でみると、発想においては、つまり地上のものに着眼されているところでは、人間の経験が卒直に出ていて、私たちは具合いいと思うのである。古代のギリシア人の発想と共通しているとおもえるのである。ところが、老子では、地上にあるもののきまりのところで、「水」とか、「湿なるもの」とかいうところへはゆかず、「天」なるものへゆき、さらに「どう」にゆき、とうとう「しぜん自然」なるものへと行ってしまっている。こうなれば、この「自然」はギリシア人の自然 physis ではない。ローマ人たちのつかった自然 natura だって physis と同じで、おのずと生れ出た物だという意味をもっている。老子では、自然ということは人間や人間のことばにつけていわれていることが多い。老子は「わざとつくらないことばが自然だ<註(1)>」というようなことをいったり、「こまかいことをきめつけないで、悠然としていて、ことばを大切にしていれば、どうしなくても事は成就するものだ。そうなれば、きっと百姓(人民)たちは、わが自然だととっているにちがいない。<註(3)>」というようなことをいっている。「自然」ということをいっても、ギリシア人やローマ人が自然といったものとは異ったものをさしたのである。中国のえき易では私たちに大いにのぞみをもたせるような出発をしている。易では天・沢・火・雷・風・水・山・地(八卦)のことをいっているのだか問いのきっかけになったのである。がしかし、かなしいことに、そこに一線を画すことはしなくて、観念的なもの、形而上的なものを考えることへと、ひきつづいて発展してしまっているのである。
 自然の解釈が形而上学的になるとともに、物といわれるものは形而上学的な意味のものとなっていった。そうなっていったのは、産業上の技術のあり方や、生産物の分配の仕方や、ひいては政治の仕方が、ヨーロッパの場合とちがっていたことと関係しあってできたのであるが、とにかく「自然」の考えにしても、「物」の考えにしても、ぜんじに形而上学的なものへと発展したのである。中国では宋代になると、仏教の思想が滲透してきていて、一層この傾向は強まった。いわゆる宋学(程朱学)の思想家たちになると、論をおこすやすぐに「天地」とか「万物」とかいったのであるけれど、万物といっても、地上のいろいろの物がはっきりと複数でもってつかまれているわけではなかった。たとえば、程明道(一〇三二―八五年)は「天地万物はその理の上からみると、独立しているものはなく、みなついをなしている。どれも自然にそうなっている」(皆自然而然)といったふうである。こうした形而上学は、中国では宋学が代表的だといわれている。この宋学のように抽象的な思索の仕方だけで済ませていたのでは、ヨーロッパに発展した自然学はもちろんのこと、自然の記述(自然誌)のような科学を発達させることはできなかったのは当然である。むしろ、そうした傾向を塞ぐのが宋学の特長ですらあった。日本の儒学もそのような系統でもって栄えていた以上、自然物につ一四、五世紀になると、学者たちは宋学(程朱学)の空疎な性質から離れてゆこうとするふうが起った。王陽明の思想はその実例のうちで著しいほうであろう。陽明はこんなことをいっている。「考えてみるに、物理は自分の心の外では求められない。自分の心より外に物理を求めても、物理があるわけではない。<註(4)>」「物理」といっても、ヨーロッパでいう意味のものにはとられないが、「物理」という語のつかい方は用語例があって、心のことだけをいうのとは、おのずから違っている。とにかく、空疎な思想でいっぱいだった。
 以上のようにして、東洋では「自然」とか「物理」とかのことばはあったけれど、その内容は空疎でしかなかった。空疎というのは、そういう概念(すなわち「自然」や「物理」の概念)をふたたび自然のじっさいの世界に戻して、そこでもう一度、検討することがぜんぜんできないという意味である。このことは人間たちの日常の生産の生活と、ああした考え(概念)とにれんかんがなかったことでもあるのである。虚空の考えはあっても、「空間」の概念はできてこない。したがって、真空の概念も気圧の概念も成長してこない。つまり、自然界のじっさいのものに戻してみることがなかったからである。こうしたことは、東洋に唯物論の出てこなかった大きな理由である。

 ;註(1)「人法地。地法天。天法道。道法自然」
   (2) 「希言自然」
   (3) 「悠兮。其貴言。功成事遂。百姓皆謂我自然」
   (4) (夫物理不外於吾心。外吾心而求物理。無物理矣)

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

テキストの快楽(011)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(003)


     二 なぜ日本では唯物論者が出てくることがむつかしかったか

 さて、誰が唯物論者であったかをきめることは、急がないほうがよい。それよりも、なぜ日本では唯物論者が出てくることが困難であったかを明らかにするほうが、たいせつである。この問いが解かれれば、唯物論者がほんとうはどんな人であるべきであるにせよ、とにかく、そういう人が出てくる余裕も機会も日本にはなかったことがわかる。そういうようにたずねてゆくことが、けっきょく日本における唯物論者のあり方を明らかにしてゆくことに、もっともかなうように思われる。
 唯物論者の出てくることのむつかしかった日本とは、どういう国であったか。ずっと旧いことはここでははぶくことにしょう。ヨーロッパでいうとルネサンスの直前のころに日本で書かれた、北畠親房ちかふさの『神皇正統記じんのうしょうとうき』(一三三九年)をとりあげることをしてみたい。この本に照らしてみて、日本はどういう国であったのか、それを考えてみることから始めよう。この書を批評して、歴史としては粗略、文明史としては一貫した理路を欠くというように考える人(たとえば山田孝雄)があるが、私はこの日本が近世においてどんな国でありはじめたかを知るには、じつに恰好の文献だとおもう。『日本開化小史』の著者田口卯吉はこの本の著者の着眼の鋭いことを称揚したことがあるが、私は田口説をとりたい。さて、この書は巻頭まず、「大日本おおやまとは神国なり」と規定する。「日神ひのかみがながくとうをつたえいる」という点で、異国に例がないと著者はいう。さらにすすんで、親房はこの国をば「君子不死の国」だといっている。不死の国とは、この国にすんでいる人間たちは、「天性柔順で、道をもって御し易い」という意味である。このように、親房が日本という国をつかんでみせていることは、それからまた、そうつかんでみられるようにイデオロギーが当時もその後もできていたことは、まず誤っていないと考えられる。この国はそういう教化を国民に植えつけたことを、親房はよく知っているのである。さらに重要なのは、それまで日本国内にあったいろいろの思想方向を一つに統一しようろん南朝のための募兵の志にあったかも知れぬが、それはそれでよい)。書き方をみると、彼として成功している。彼がこの本を書いたころは、いわゆる鎌倉仏教の宗祖たちはもうすでに一世紀も前にそれぞれ一宗をたてていたのだが、彼はそれらには触れなかった。「一宗に志ある人が、余の宗をそしり賎しむことは、大きな誤りである」といって、ひたすらに調和をはかっている。それどころか、いろいろの世界観人生観(仏教・儒教・道教)はもちろん、産業技術(彼はその例として「稼檣」や「紡績」や「工巧」などをあげている)や経済や文学や芸能などをあげて、それらがこぞって盛んになるのが「聖代」といわれるものだとして、文化の全体をとらえて、それをいわば国策にそわせようとしている。このように文化(「道」)のぜんたいをとらえて論述していることは、あとにもさきにもないことだった。とにかく、日本の「近世」がはじまるにさきがけて、早く親房が『神皇正統記』を書いたことは、歴史的にいって意義が大きい。これより後の多くの歴史家たちが、この本によっていわゆる「皇代記」を固めていったのである。「大日本帝国憲法」の発布の翌年に公判された『国史眼』にしても、天皇継統表はすべてこの本に拠っているのである。『神皇正統記』の著者が日本の国柄をつかんでみせたその歴史眼は、後の歴史家たちに大きな影響をあたえた。彼のあとに出た日本歴史家たちで統一をうたわない人はいないのである。江戸時代のなかごろの社会批評家の太宰春台は、彼の『封建論』(一七四五年)のなかで家康の「英武」をうたって、日本の「海内統一」を称揚しているし、幕末のすぐれた史論家としての伊達千広は、彼の『大勢三転考』のなかで、徳川幕府の政治のもとの「大小の国々必一つに和順」せる太平無事のさまを強調しているのである。水戸光圀や頼山陽のことはあげるまでもない。
 親房は、私たちの用語でいえぱ、文化のぜんたいをながめて考察している。政治・経済・産業はもちろんであるが、批評家としての文士(「坐して以て道を論ずるは文士の道なり」と彼はいっている)や算術や詩論や諸芸の人々のことすべてをあげておいて、人はその性来の器量がちがうのだから、その分にしたがうべきだという思想を示している。何につけても調和、何につけても統一、これが彼の論旨である。
 私たちにとって、もっとも重要なことはつぎのような思想である。すなわち、調和または統一の考えがたんに政治的なものでなくて、この著者が把えているように、その考え方は日本人の一つの世界観となっていることである。個人個人の性格や能力の相違についての見解が、底深い宿命的な形而上学に根をもっていることである。どんな人生観をもつ、どんな職業をもつ、どんなイデオロギーをもつかは、そのひと個人の生涯で完了しないのだ、という世界観的な思想を、彼のなかに私たちは見のがしてはならない。これは親房の思想であって、彼が日本民族のなかに見てとった、かなり仏教の影響からくる思想である。人は、このイデオロギーに共感するか、あのイデオロギーに共感するかの違いはあっても、そのこと自体は(どっちにつくか、どっちについたかどうかは)さほど重大のことでなくて、もっと大きいもっと広い関係において、それぞれの個人が役立っている、その立場というか、世界観というか、とにかく、その広大さについていうと、人がどの職業につき、どの階層につき、どの人生観をもつかは、それ自体だけで完結しているのではない。たがいに補い合っている。だから、うわべ<傍点>はちがっていていいというのである。彼はこういっている、「われはこの宗に帰し、人はかの宗に心ざす。ともに随分の益あるべし。これ今生一生の値遇にあらず」と。だから個人の生活は来世までのびている。七生の説は当然出ていいようになっているのである。
 ここに利益という思想が出ているが、これは見落すことができない。『神皇正統記』の著者は一方において、とてつもない広大な、人間の一生をそのなかに包んでいるような広大な世界をえがいている。このなかでは偉大な調和ができているという信念である。ところが他方において、そのように考えてゆくのが得だ、利益だという思想を、そこにひそませている。彼はこういっている。「政治家ともあるものは、あれこれの教えをみなとりいれ、また人民のほうもそれぞれの教養のあるものをすべて見落さぬようにすることだ。そうするほうが利益のあることを忘れてはいけない」(「国の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教を捨てず、機を漏らさずして、得益の広からん事を思ひ給ふべき也」)。以上のように、一方では形而上学的なものをもって全体をつつみ、まことに庶民にとって深遠なるものを示しておき、他方では実践上の利得ということでしぼっているのである。この混濁は日本的イデオロギーとして見落せないものである。いったい、このようなやり方がヨーロッパの世界観の歴史や宗教的思想史のなかに見出されるであろうか。これは親房の仏教思想からきていると思えるが、じつは、このようなゆき方やり方は、日本化した仏教の一つの特質なのであると私はみたい。インドや中国の仏教のあり方と日本のそれとの相違は、こうしたところにあらわれている。つまり、親房のいっていること、すなわち彼が日本の歴史のなかに見てとっていることは、すべて日本的特色であるという結論を下してよいであろう。このようにして、彼は日本は「君子不死の国」であると過去の歴史を見てとり、さらにそのように日本を規定したのである。そしてさらに、この国の人民は「天性柔順で、道をもって御し易い」ということを、あの著述でもって明らかにしたのである。私たちが今日いうところの「文化」は、日本の旧い、ことばでいうと「どう」くらいしか相当するものがないのであるが、仏道にしても、儒道にしても、神道にしても、その他、芸道げいどうにしても、人民を「御する」道具なのであった。人民のものとして人民のなかからできあがった文化だとは、いいにくいのである。外国から入ってくるどんな文化も、人民を「制御する」道具としてとり入れられたもののようである。
 このような文化の国においては、その国の人民のなかから人民の抗議の声としての唯物論は芽ばえてくることはむつかしく、唯物論者が出てくることは至難だったことは当然であった、といわねばならない。
 さて、ある国、ある民族のうちから唯物論者が出てくることの困難な理由は、以上の考察で十分なのでは決してない。それどころか、以上の日本的なものを、じつは世界観的に思想的に基礎づけていたものがあり、それはヨーロッパの学問思想がそのぜんぶの幅をもって日本に入ってくるまで、ずっと成長し、発展したものであった。それを私のぜんぶの幅をもって日本に入ってくるまで、ずっと成長し、発展したものであった。それを私は、つぎの第三節で「東洋にはなぜ唯物論哲学がなかったかのであるか」という題でのべてみたい。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

テキストの快楽(007)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(002)

     ー 私たちの国には唯物論者がいたか

 日本には唯物論者がいたかどうか? いったい、日本には唯物論という思想の休系があったのかどうか? まずこの問いにこたえることから、この本をかきはじめたいと思う。
 ずばり言ってしまうなら、私たちの国には唯物論者はいなかった、日本には唯物論の体系といっていいような思想の体系はなかった、そう言えるのである。
 さて、このようにいってしまうと、ここに誰にとってもいろいろの疑間がむらがりおこるだろう。それらの疑問のうちでは、おそらくつぎの疑問がまず投げ出されることだろうし私たちの国には唯物論君はひとりもいなかったかと。ひとびとはさらにこうきくであろう。明治時代に中江兆民や幸徳秋水がいたではないか、大正・昭和の時代に河上肇や野呂栄太郎のような人がいたではないか。さらに、戸坂潤や永田広志のような人がいたではないか。人はきっとそうきくことであろう。そう、これらのひとびとは唯物論者と呼ばれているのである。そういえば江戸時代だっていないことはない。あんなに封建思想が強固で、ものを自巾に考えるすきさえもなかった時代に、かまだ・りゅうおう(鎌田柳泓)のような人がいて、人間が考えることは頭の中にある一種変った肉のしわざだというところまで主張したこともあるのだから、唯物論者はいなかったといってしまうと、とうぜん疑問がおこってくることだろう。だが、それにしても、私たちの国には唯物論者はいなかったという、さきの私の断定を私は改めないほうがよいと思う。もちろん、右にあげたようなひとびとをとらえて観念論者である(もっとも柳泓はここでしばらくあずかっておくけれども)とは、誰だって言いはしないし、私もそう考える何らの理由も持たない。それなら、右のひとびとは唯物論者であるか?問題はここからである。
 ことに明治・大正・昭和の時代のなかからあげられた右のひとびとが、唯物論者であると呼ばれるのは、社会主義者であったがために唯物論者だとせられがちなのであり、共産主義者であったがためにそうされていることが多いのである。必ずしもそこにまちがいがあるわけではない。しかし、社会主義者であること、共産主義者であることが、唯物論者たることをきめるたったひとつの基準なのではない。私たちはこのことを考えておきたい。ロシアには、十九世紀の施半にすでに社会主義者がいくらも出ていたが、その人たちがことごとく唯物論者であったのではなかった。フランスには十八世紀に、すでに幾人かの、はっきりした唯物論者かいたが、その人たちは社会主ス者であったから唯物論者であったのではない。今日でも、ことごとく現実に共産主義者であるとみずから考えている人が、あらゆる意味において唯物論者であると決定することはできない。
 唯物論には、それが唯物論であることの思想的な、世界観的な、いわば確乎たる特質があるのでなくてはならない。唯物論者はそうした世界観のシステムにつながっているのである。あたかも、めんめんとつらなる電送の太い線に結びついている碍子がいしのように、その電線に結びついている限りにおいて、個々の碍子は電流を確実につたえるものの一つなのである。今日でも、個々の唯物論者は、或る政治的組織に入ったから、そのとき唯物論者になったのではなくて、その政治的組織のなかにある世界観的な唯物論の太い線に結びついたから、「唯物論者」なのである。
 ヨーロッパでは、この線は小さいながら、古代ギリシアからはじまって、ぜんじ大きくなり、近代にいたっているのである。マルクス、エンゲルスは、この太い線をイデオロギーの歴史の発度のなかから見出した人たちなのである。マルクス、エンゲルスによってはじめてこの世界観の太い線が張られたのではなくて、これらのひとびとは、この線の現実的意味をはじめてみつけだし、これを深化し、強化したのである。
 この思想的な世界観的な線が、私たちの国にあったか、それともなかったか。もしあったとするならば、どういうあり方であったか、これが私たちの問題である。
 それは日本本にはなかったといいきれる。いや、日本のみでなく、もっとくわしくいうと、老荘的な、仏教的な、儒教的な思想、ことに仏教的な思想から深い影響をうけとっている東洋のすべての諸民族のなかには、あの太い世界観の線は通っていなかったのであるということができる。じつにこの意味において、私は私たちの国には唯物論はなかったというのであり、唯物論者はいなかったと主張するのである。唯物論者のあるなしについて、きびしくいえば、いちおう以上のようにいうことができる。
 もちろん今日となればちがうだろう。唯物論という思想システムの線は、ヨー ロッパの近代世界観が日本へ移植されるとともに、ことに政治的イデオロギーの移入とともに、近代日本に移されている。それがゆえにこそ、中江兆民や幸徳秋水が、とにかくに唯物論者であるといわれ、河上肇や野呂栄太郎が、戸坂潤や永田広志が弁証法的な唯物論者であったということができるのである。私たちにとって問題なのは、これらの人たちが、あの唯物論という世界観の太い線が全くなかった国のなかに住み、そうした国の言語をもちい、そうした国の庶民の生活の仕方にならい、この国の習俗のなかにひたり、その思想(河上ならば河上、戸坂ならば戸坂の思想)の他人への影響力を狭い範囲の或る日本人の間にのみもっていたことなのである。
 こうしたことが、考慮されないままで、すべて社会主義、マルクス主義に属していれば、なべてみな雎物論者であると言ってしまうことは、論を正しくすすめることにはならない。右にあげた中江兆民以下のひとびとが、その中でしばられて活動したあの社会的な諸条件のうちでも、その人の思想の他のひとびとへの影響力がいつまでも一定範囲にとどまりがちであったことは、唯物論者の存在にとって、重大な問題であると思うのである。私がかくいうのは、さきにあげた人々を唯物論者と呼びがたいとか、ほんとうの唯物論者と呼びたくないとか、そうしたことを言わんとしているためではないのである。むしろその反対なのである。これらの人たちは、唯物論の伝統の少しもなかったこの国において、多くの唯物論反対者にとりまかれて、いやそれどころか、じつに、ことごとくが観念論的な習俗のなかにあって、新しい世界観をかちとったことが、かえって、私たちにとつて切実に思われるのである。
 それにしても、はじめから、日本には唯物論があった、わが国には唯物論者がいたと、.女易にきめて、私たちの問題(日本における唯物論のあり方という問題)を、おしすすめることはできないのである。だから私は、はっきりと、私たちの国には過去において唯物論の思想体系はなかった、したがって唯物論者はいなかった、すくなくとも、いることが困難であったと、まず提言したいのである。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
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テキストの快楽(006)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(001)

          ま え が き

 日本人は、外国人から唯物主義だといわれたり、理想アイディアというものがわからない国民だと批評されたりした。その一例をいえば、チェンバレンやデニングなどであるが、日本人の性質のうちにはそう批評される点のあることは否定できない。さて、そうでありながら他方において、日本には唯物論の哲学といわれるほどのものはないといわれている。こうなってくると、まことに割りの合わない話である。
 ほんとうのところ、日本人は唯物論という思想はもたなかったのか。そういう思想組織がもてるようには、日本の思想丈化の成り立ちができていなかったのか。それとも、別の在り方をして、唯物論思想をもっていたのか。もしもっていたのなら、その思想はどういう形応でできていたのか。こうした問題はこれまで少しも明らかにされなかった。
 さて、それが明らかにされるには、何が唯物論かという問いが改めて投げ出されねばならないであろう。なぜなら、日本に唯物論があったにしても、ヨーロッパにおける在り方とはちがっているにちがいないから。いずれにしても、唯物論の概念が明瞭でなくては、問題は前へすすまない。
 いったい、マテリアリズムとは何をさすのであるか。
 心かそれとも物か、意識かそれとも物質か、こうした問いを押しつめていったら、マテリアリズムは、はっきりとわかるのであろうか。いよいよのところは精神しかないのだという見解、いや、けっきよくは物質しかないのだという見解、この二つが、昔と変らないまま、今日る繰りかえされている。
 私の考えでは、二つの見解のうちの前者は、頭のなかで<考え 傍点>をととのえ、紙のうえに文章をかき、人にものを教えることだけを仕事にしている人たちの場合において、真理とおもえるのであり、後者は、物を作ること、生産にいそしむことをしている人たち、および、それらの人たちの生活に共感できる人たちにとって、真理であり得る。私にはそのように思われる。
 してみると、双方の主張者のこうした論議だけでは、観念論が真理なのか唯物論が真理なのか、きまらない。唯物論と観念論の是非は、あのような、ただひとつのディメンションではきまらないのではあるまいか。物質の概念の究明のほとんどなかった過去の日本人の場合では、ことにそうなのではあるまいか。
 しかし、唯物論といわれる世界観が、どういうひとびとによって支持されているかがわかれば、そこから逆に、何が唯物論かが、かえって明らかになるのではあるまいか。
 観念論とは、その社会が泥沼のようであろうと風波さえたたねばよいと現状を甘受し、享有している人たちの世界観であるのではなかろうか。唯物論とは、それとは逆で、現状に決定的に疯議し、人間生活の在り方を、ほんらいのものにかえそうとする人たちの世界観ではあるまいか。
おまえは神の子であると教えようとする人がいると、いや私たちは神の子ではないと言い張る。おまえの存在は本質的には精神だと宣言しようとする人がいると、いや私たちの存在の本質は物質の運動であると言い張る。こういったように、人間存在の本質から出てくる抵抗、ことにその社会的な本質からくる抵抗、それの思想的表現、これがじつに唯物論であるのではあるまいか。
 私は、はじめから、このような唯物論の概念をたずさえて、日本人の生活の歴史のなかに入っていったのではなくて、世界観や学問観において傑出した過去の人物を評伝するうちに、以上のべたようなマテリアリズムに対する理解を、いっそう深くしたのである。
 私は、その理解をさらにととのえ、それを公けにするために、日本の唯物論者の現われかたを、つぎのような仕方に分けて、論評してみたのである。すなわち、「唯物論への道を準備した人々」、「唯物論に近づいた人々」、「ふたたびそれへの準備をはじめた人々」、「新しい時代(明治・大正・昭和)の唯物論者」の四つである。日本の思想文化史のように、ひだしわが多く、明暗の度の細かい思想の歴史のなかに、個々の唯物論者を見出すには、断定のゆきすぎをひかえることが大切なので、その点を考えて、試みた叙述方法なのである。
 この「まえがき」で言っていないこと、それはほかでもなく、個々の唯物論者たちの相互の歴史的つながりのことであるが、それを「むすび」のところで述べておいたから、それをも、さきに併せて読んでもらうことがのぞましい。
    ー九五六年六月下旬
           三 枝 博 音

参考】
Wikipedia 三枝博音
 三枝博音は、戦前、「唯物論研究会」に属し、様々な労作を執筆した。戦後も、そのスタンスは変わらなったが、「政治的党派」に与することなく、微妙な「距離感」を保っていたようだ。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
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