日本人と漢詩(018)

◎木村蒹葭堂と葛子琴
贈世粛木詞伯 葛子琴 五言排律
酤酒市中隠 酒を酤《う》る 市中の隠《いん》
傳芳天下聞 芳《ほまれ》を伝へて 天下に聞《きこ》ゆ
泰平須賣剣 泰平《たいへい》 須《すべから》く剣を売るべく
志氣欲凌雲 志気《しき》 雲を凌《そそ》がんと欲す
名豈楊生達 名は豈《あ》に 楊生《ようせい》の達《すす》むるならんや
財非卓氏分 財は卓氏の分《わ》くるに非《あら》ず
世粉稱病客 世粉《せふん》 病客《びょうきゃく》と称《しょう》し
家事託文君 家事《かじ》 文君《ぶんくん》に託《たく》す
四壁自圖画 四壁《しへき》 自《おのづ》から図画《とが》
五車富典墳 五車《ごしゃ》 典墳《てんふん》に富《と》む
染毫銕橋柱 毫《ふで》を染《そ》む 銕橋《いきょう》の柱
滌器白州濆 器《うつわ》を滌《あら》ふ 白州の濆《ほとり》
堂掲蒹葭字 堂に掲《かか》ぐ 蒹葭《けんか》の字《じ》
侶追鷗鷺群 侶《とも》は追《お》ふ 鷗鷺《おうろ》の群《むれ》
洞庭春不盡 洞庭《どうてい》 春は盡《つ》きず
數使我曹醺 数《しばしば》 我が曹《そう》をして醺《よわ》しめたり
江戸時代18世紀後半、蒹葭堂をして、サロンたらしめたのは、三つの条件があったと思う。一つには、主人の収集を価値とする生い立ち、二つには、大坂商人の「エートス」ともいうべきまめな性格で、毎日の来訪者を丹念に書き留めており、現在は、その「蒹葭堂日記」として残っている。日記を調べると、堂を訪れた文人は、広く日本全国に及んでいると言う。三つ目は、実際、蒹葭堂を会場にして、詩の集いなどのミーティングが、毎月定例化されたことだ。その詩会は、当初蒹葭堂が会場になったが、毎月、お店が会場になるというのも商売に差支えもあったのだろう、やがてその場所を移し、明和二年(1765)、「混沌詩社」の結成へと発展していった。その中での中心メンバーが、作者の葛子琴(Wikipedia)である。
葛子琴は、元文4年(1739年)生まれとあるから、木村蒹葭堂より、三つ年少だが、ほぼ同時代に生を受けたとみて良い。大坂玉江橋北詰に屋敷があった生粋の浪速人、しかも代々医を家業としていた(同業者!)。このことは、大坂生まれの漢詩人というのは、寡聞にして他にいないので、そのたぐいまれな詩才は、もっと知られてもよいと思う。45年という比較的短い生涯であったが、詩会を通じての知り合いだったが晩年は、蒹葭堂に出入りしたと「日記」にはあるという。詩は、その蒹葭堂讃である。詩の背景として、前漢の時代、その文名をはせた司馬相如(Wikipedia http://is.gd/IjZ7Io)に蒹葭堂を模している。司馬相如は、不遇の時代、酒屋を営んで、糊口をしのいでいた。しかも、駆け落ち同然で結ばれた卓文君という妻が、なかなかのやり手で、司馬相如が漢の武帝に見出されるまでは、内助の功を発揮した。司馬相如は若い頃は剣の達人だったというエピソードは、木村蒹葭堂の祖先が、大坂夏の陣で活躍した後藤又兵衛というから、それに重ねあわせたのかもしれない。しかし、「ボロは着てても心は錦」、志気の極めて軒高なことを司馬相如に例える。次は、蒹葭堂のユニークなところ、楊生のような推薦者がいたわけではなく、細君の実家からの援助があったわけでもない。ただ、元来「蒲柳の質」で、家事は妻(と妾―江戸時代は、妻妾同居が当たり前だったんだろう)に任していた。その結果、汗牛充棟、三典五墳の一大コレクションが出来上がった。銕橋(くろがねばし)は、今はもう埋め立てられてしまった、堀江川にかかる橋、蒹葭堂のあった北堀江と南堀江の境だろう。6月始めに、この近くにある保育所健診に行くので、このあたりの地理的関係を確かめておこう。(後注:http://www.yuki-room.com/horie.html によると北堀江と南堀江の境の道路から一つ南の筋にかかっていたらしい。)清人から送られた蒹葭堂の書斎に掲げられた扁額に触れ、その縁語で、堂に集う文人たちを鷗鷺に例え、そこにいると名勝地洞庭湖にも比すべき別天地、その春の情は尽きることなく、美酒に酔う心持ちであると述べ、讃詩の結びとしている。
*参考文献:水田紀久「水の中央にあり―木村蒹葭堂研究」(岩波書店)
写真は、明治末年に発刊された「漢籍国字解全書」詩疏図解・淵景山述(安永年間の人とあるので、ほぼわが主人と同時代である。)で、「蒹葭」の図が載っている。こんな本で四書五経を学んだという意味でスキャンした。

日本人と漢詩(017)

◎木村蒹葭堂、テレサ・テンと詩経

蒹葭《けんか》篇 詩経国風 秦風
兼葭蒼蒼   兼葭蒼蒼たり
白露為霜   白露霜と為る
所謂伊人   所謂伊《こ》の人
在水一方   水の一方に在り
溯洄從之   溯洄して之に從はんとすれば
道阻且長   道阻にして且つ長し
溯游從之   溯游して之に從はんとすれば
宛在水中央  宛として水の中央に在り
兼葭萋萋   兼葭萋萋たり
白露未晞   白露未だ晞《かは》かず
所謂伊人   所謂伊の人
在水之湄   水の湄《きし》に在り
溯洄從之   溯洄して之に從はんとすれば
道阻且躋   道阻にして且つ躋《のぼ》る
溯游從之   溯游して之に從はんとすれば
宛在水中心  宛として水の中心に在り
兼葭采采   兼葭采采たり
白露未已   白露未だ已まず
所謂伊人   所謂伊の人
在水之畔   水の畔に在り
溯洄從之   溯洄して之に從はんとすれば
道阻且右   道阻にして且つ右す
溯游從之   溯游して之に從はんとすれば
宛在水中沚  宛として水の中沚に在り
まず、この詩の現代中国語バージョン、鄧麗君 (テレサ・テン)「 在水一方」。こちらは、もう立派な艶歌である。Youtubeでは→https://youtu.be/xrI__4dqYhI

語釈 兼葭:植物、ヨシやアシ 蒼蒼:あおあお 白露為霜:旧暦9月頃の気候 伊人:「愛しい人」だろう 溯洄:さかのぼる 溯游:流れに沿って下る 宛在水中央:手が届きそうで届かない

語釈の続きと訳文は、愛の物語―詩経の新解釈を参照。

再び、木村蒹葭堂の話題へ戻る。河上肇については、機会があればということで…今回は、蒹葭堂の由来となった詩から。ある時、庭の井戸より芦の根が出てきたのを喜び、「蒹葭(アシとヨシ)堂」と名付けたとあるが、その大坂の地らしいエピソードで思い浮かべた詩経の一編にちなんだ要素のほうが強いのではないか。詩経(Wikipedia http://is.gd/4465RJ)は、中国最古の詩集、紀元前6世紀頃、孔子が編纂したと言われている。国風は、そのうち、各地の民謡、秦風とあるから、今の陜西地方で唄われた歌。従来、詩経は、道徳的、政治的解釈が主流だったが、朱子に至って「近代的」解釈がされるようになり、男女間の愛情を扱った詩もあると主張した。その朱子ですら、この詩はよく分からないといっているそうだが、会うことがままならぬ恋人の事を歌ったものとするのが、自然であろう。

日本人と漢詩(016)

◎河上肇と王維


輞川《もうせん》に歸りての作 王維
谷口 疎鐘《そしょう》動き
漁樵《ぎょしょう》 稍《ようや》く稀《まれ》ならんと欲す
悠然《ゆうぜん》たり 遠山の暮
獨り白雲に向って歸る
菱《ひし》の實は弱くして定《さだま》り難く
楊花《ようか》は輕くして飛び易やすし
東皐《とうこう》 春草の色
惆悵《ちゅうちょう》して柴扉《さいひ》を掩《おお》う
もう、一回か二回、河上肇の話題にお付き合いください。2007年7月1日の旧文を若干改変しました。
彼は、獄中で、白楽天や蘇東坡など中国の詩人に親しんだらしく、とりわけ陸放翁に心酔し、後に詩の注釈書——放翁鑑賞(その六その七 )を書いたことは、一海先生もあちこちで書かれています。また、王維(王右丞)の詩にも心引かれ、妻宛の書簡(1934年11月20日付け)に
「最近に差し入れてもらった王右丞集は非常に結構です。「悠然たる遠山の暮、独り白雲に向うて帰る」と云つたような佳句に出会つて、飽くことを知らず口吟しながら、寝に就くと、やがて詩を夢に見ます。不愉快な夢を見るのと違つて実に気持が善いです。 」
とあります。
王維らしく、対句になるべき所に「佳句」が決まっている律詩です。人の世の煩いに例えた、菱の実や楊花という足元に見る春の景色も、人事を超越したとも言うべき、遠い山に懸かる白雲という大きな舞台にあればこそ、何か物悲しく惆悵とした感情を抱く、獄中での河上肇はそんな気分をこの詩から受け止めたのでしょうか。この他の詩にも、王維の詩には、「決め所」があるように思います。
「寒食汜上の作」
落花寂寂として山に啼く鳥
揚柳青青として水を渡る人
「積雨輞川荘の作」
漠獏《ばくばく》たる水田 白鷺《はくろ》飛《と》び
陰陰《いんいん》たる夏木 黄鸝《こうり》囀《さえ》ずる
「終南の別業」
行きて水の窮まる処に到り
坐して雲の起る時を看る
後の二例は、同時代の詩人から「剽窃」したとの非難があったそうですが、そんな評判を吹き消すくらい、不思議と律詩全体にうまくはめ込まれています。そんな「佳句」に出会って、自作の漢詩の対句へのインスピレーションが湧き、獄中でのつかの間の安らぎにせよ、心地良い夢をみたことでしょう。
・参考 「王維詩集」(岩波文庫)
画像は、王維画(とされる)「輞川圖」(視覚素養学習網より)

日本人と漢詩(015)

◎一海知義と河上肇


辛未春日偶成 閉戸閑人
対鏡似田夫 鏡に対すれば田夫に似たり
形容枯槁眼眵昏 形容枯槁《ここう》 眼は眵昏《しこん》
眉宇纔存積憤痕 眉宇《びう》 纔《わず》かに存す 積憤《せきふん》の痕《あと》
心如老馬雖知路 心は老馬の如く 路を知ると雖《いえど》も
身似病蛙不耐奔 身は病蛙《びょうあ》に似て 奔《はし》るに耐《た》えず
今回は、木村蒹葭堂の話題から離れる。というのは、18日付の赤旗文化欄に経済学者・河上肇の紹介記事が、一海知義氏の執筆で掲載(漢詩閑談その2)されていたからだ。いつも、赤旗記事を丁寧にスキャンしておられるFB友のYさんの投稿にも見当たらないので、当方で用意した。
明治以来の日本の漢詩では、夏目漱石と河上肇が双璧だと思う。その内容の深みが他を圧倒するからだ。また、記事にあるように、「詩は志を云う」点では、河上肇をおいて他にないのではではないか。
一海知義氏は、河上肇も傾倒した中国・宋の詩人・陸游の詩を、一首づつ解説している「一海知義の漢詩道場」(岩波書店刊)のコラム欄で、河上肇の詩を、「揮毫」した色紙(河上肇のデリケートな内面が現れているような筆跡である。)とともに紹介し、漢詩を読む際の幾つかのハードルについて書いておられる。そのうちの一つが字句の意味である。上に挙げた漢詩について言えば、「形容」は姿かたち。枯槁は、枯れしなびる。眵昏は、目やにがたまってよく見えぬ。眉宇は眉と眉の間。後半二句は、別のハードル、中国古典からの「典故」が待ち構える。老馬は道を知っているがゆえに遭難した旅人を救うことができるという「韓非子」からの「引用」があると一海氏は説く。もっとも、肝心なのはこの詩の時代背景である。赤旗記事にあるように、河上肇が漢詩作法を覚えたのは、獄中の独学とある。しかし実際にはその詩作が多くなるのは、1937年(昭和12年)に出獄の後のこと。辛未春日偶成は、辛未とは、1941年(昭和16年)の作。出獄後、特高警察の監視のもと(監視下に漢詩を作るというのは、下手なダジャレだが…いずれにしても、特高も言葉の意味は理解の範囲外だったのだろう。)ひっそりと暮らしていた河上肇にとっても、否が応にでも、戦争の足音は聞こえてくる。たとえ、故事来歴を知らなくても、「積憤」という漢語に彼の込めた思いは深く、悲しい。

日本人と漢詩(014)

◎木村蒹葭堂と祗園南海

白屋靑燈獨夜情 白屋青燈、独夜の情
樽中有酒誰共傾 樽中、酒あり、誰と共にか傾けん
寒花十月無人見 寒花十月、人を見るなく
黃葉滿山聽鹿行 黄葉満山、鹿の行くを聴くのみ
「私たちの主人公、小字《おさなな》木村太吉郎が生まれたのは、元文元年(1736)、11月28日、大坂北堀江瓶橋北詰の酒造屋の一室であった。」とするのは、先日の投稿した史跡になるのだろうか?
中村真一郎氏は、その伝を執筆動機からはじめて、主人公の出生に及んでゆく。そこで、わが蒹葭堂が、少年時代から勤しんだ書画などの勉学から説く。大阪市の記念碑には、絵とともに漢詩の師匠筋にあたるのが、片山北海、柳沢淇園などの名を挙げる。更に中村氏は、淇園の先輩であり、同じ流派であった祗園南海らの詩や絵の中国直輸入ぶりに、逆に純粋なインターナショナルな精神を感じるという。
祗園南海(Wikipedia)は、わが蒹葭堂と15年くらい生涯が重なる詩人、文人。なかなか起伏に富む生涯であったようだ。中村氏が引用する詩は、その謫居中の詩。ひとり住むあばら屋に花は咲けども酒の相手もいない、紅葉の山に鹿の鳴く声のみがうつろに響く、とする七言絶句は、単に「唐詩選」からの模倣ではなく、ずいぶん率直な詩だと感じる。
「…十八世紀大坂の一少年太吉郎の胸を騒がせたのも(世界主義という)同じ衝動であり、やがてこの衝動は『蒹葭堂』という国際博物館の実現にまで、その夢が膨らんで行くことになる。

 それは日本にとっては、十六世紀後半の切支丹伝来時の、短い国際化に次ぐ本格的な、世界に向っての窓の開かれた、又、世界の水平線上に日本の影の現れはじめた時代なのである。

 そうした世界的雰囲気のなかで、ブルジョアジーの支配する都市、大坂の一隅に、世界を視野においた博物学のディレッタントが成長して行くのである。」(同)
これからも、「春風が(ガラス越しにも)伝わ」(芥川龍之介)ってくるようなわがディレッタントに則しながら、また時には離れ、時空も超えて、ゆっくり、ゆったりと書き綴ってゆくとする。
なお、大阪市の記念碑がある所は、正確には蒹葭堂跡ではないらしい。その石碑より100mほど西に入った所が、生家のようである。(Google map

【参考】中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』(新潮社)

日本人と漢詩(013)

◎皆川淇園、芥川龍之介と木村蒹葭堂


採蓮曲 皆川淇園
別渚《べっしょ》 風少《すく》なくして 花 乱れ開《ひら》く
船を移《うつ》し 槳《しょう》を揺《うご》かして 独り徘徊《はいかい》す
偶《たまたま》 葉底《ようてい》 軽波《けいは》の動《うご》くに因って
知る是《こ》れ 人の相逐《あふお》ひ来《きた》る有《あ》るを
江戸時代の大坂の「文化遺産」で誇れるものが三つはある。一つは、人形浄瑠璃、二つには、懐徳堂(Wikipedia http://is.gd/DynQwM)、商人が設立した学問所である。加藤周一の「三題噺」の一題に登場する富永仲基はこの学問所の門人であった。三つ目に、木村蒹葭堂が開いたサロンがあげられるのではないか。明治や戦争中を経ていづれの「文化遺産」もその「保存・継承」は決してたやすいことではなかった。橋下大阪市長の自分の好き嫌いだけでの文楽助成打ち切りや、懐徳堂保存会長に、日本郵政公社第一代総裁だった西川善文氏が座っていることなどは、また別の話題ではある。
ところで、東京人は、めったに大阪をほめない。逆もまた真実であろう。しかし、東京人龍之介は、「僻見」の「四題噺」の一題に、木村蒹葭堂のサロンを誉めちぎる。巽斎の生涯に「如何に落莫たる人生を享楽するかを知つてゐた」として深い共感を寄せている。その収集物には、「クレオパトラの金髪」も混じっていたに違いないと龍之介特有のウィットまで付け加える。そうした思いを継ぐ形で「江戸文化人の共和国」を一冊の書物として作り上げたのは中村真一郎氏。その遺稿となった「木村蒹葭堂のサロン」がそれである。大部の本から、抜き出したらきりはないが、本日は、蒹葭堂が京都に訪ねた皆川淇園 Wikipediaの詩を、遇《たまたま》NHKカルチャーラジオ「漢詩を読む」で流れていたので…
真一郎先生は、淇園を「清濁併せ呑む」と、NHK解説者宇野直人先生は、「なかなか幅の広い人格」と論評する。
ま、他愛もない詩と言えばそれまでだが、一応解説すると、採蓮曲は、楽府という日本でいう小唄に比べられるか、そのお題。「お客さんとの接待に飽きてか、別の船に移って舵を動かして一人で蓮の花が愛でていると、風がないのに葉が浮いた水面にさざ波が...さては、私を追いかけてきたのかしら」位の意味だろうか?
これはこれは、淇園先生、隅に置けないですな。祇園で相当浮名を流さないとここまでは書けないだろうな(笑)。
写真は、谷文晁作の木村蒹葭堂肖像画、Wikipedia より

日本人と漢詩(012)

◎芥川龍之介と孫子瀟

郷書《きょうしょ》遙《はるか》に憶《おも》ふ、路漫々《まんまん》
幽悶《ゆうもん》聊《いささ》か憑《たの》む、鵲語《じゃくご》の寛《かん》なるを
今夜合歡《ごうかん》花底《かてい》の月
小庭《しょうてい》の兒女《じじょ》長安《ちょうあん》を話す

やぶちゃんの電子テキスト(http://yab.o.oo7.jp/kabu.html)から
1921年の4ヶ月にわたる芥川龍之介の中国旅行で得たものは大きいと思う。また、芥川作品の各国語への翻訳のうち、民族差別的な要素を指摘されがちな評価であった「支那游記」のその中国語訳が出るくらいだから、再評価の機運があるのだろう。(関口安義氏は、その急先鋒の一人。)「支那游記」は、上海游記、江南游記、長江游記、北京日記抄、雑信一束と続く一連の中国紀行文で、Blog 鬼火(http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/)に掲載されている。各々の巻で差別的な表現のニュアンスの違いもあるが、今読み返すと、まず、日本文化の底に流れる中国文明への憧憬を感じる。それに比べて、龍之介がつぶさに見た植民地化した中国の過酷な体験と、さらにその中国に「野望」を隠さない日本の現実が、二重にも三重にもだぶって描かれているとも取れる。西湖で蘇小小の土饅頭の墓を見てきただけではないようだ。漱石とは時代が違うし、谷崎潤一郎や佐藤春夫とも、気質が違う、芥川独自のとらえ方があると言えるだろう。関口安義氏は、旅行後の作品でも「桃太郎」「将軍」「湖南の扇」など、新たな社会批判的な小説に生かされていると言う。
今、ちくま文庫版全集第7巻をみてみると旅行の1年前1920年1月執筆に「漢文漢詩の面白味」という短文がある。
原文は、やぶちゃんの電子テキスト(縦書版)を見ていただきたい。
やや控えめながら、彼の「趣味」を超えた中国古典文学への素直な思いを感じる。ただ残念なことに、この短文で紹介される中国の詩人は、あまりおなじみではなく、孫子瀟(清)も語注に簡単に触れられるのみなので掲載しておく。鵲語はカササギの鳴き声。合歡花底月は、ねむの木に咲く花のもとに照る月という意味か?龍之介ではないが、なぜかノスタルジックな中にものんびりした感じである。
ところで、同じ文庫に「僻見」という人物評論が収録されている。1924年発表というから、彼の「晩年」である。その中で、木村蒹葭堂(巽斎)が取り上げられている。これはこれで江戸時代の文化的サロンとして興味深いのだが、紹介は次回以降ということで…
写真は、再掲だが、昨年のさるアニバーサリーにさる人に贈ったエバーグリーンというねむの木の一種。

日本人と漢詩(011)

◎芥川龍之介と李賀と佐藤春夫


蘇小小の墓――(李賀)
 幽蘭露 如啼眼
 無物結同心
 煙花不堪剪
 草如茵 松如蓋
 風爲裳 水爲珮
 油壁車 夕相待
 冷翆燭 勞光彩
 西陵下 風吹雨
読み下し文は、Wikipedia 李賀の項(http://is.gd/PJaTwI)を参照。「ひとりよがりの漢詩紀行」(http://is.gd/e8hfPL)では、中国音(ピンイン)まで付けられている。
佐藤春夫は次のように訳す
幽蘭の露と
わが眼を泣き腫らし
何に願をわれは掛くべき
われ娼女《たはれめ》を誰《たれ》かは手生《ていけ》けの花と見ん
草を茵《しとね》とし
松は蓋《おほひ》となり
風は裳《もすそ》とみだれ
水は珮《おびたま》となる
油壁《いふへき》の車して
夕されば人を待つ
青白き鬼火のあかり
ひえびえとゆらめきひかり
西陵のあたり
風まじり雨振りしきり
また、「連想」を働かせることにする。とりあえずは「西湖」がキーワードになるだろうか。
以前読んだ、芥川龍之介の文章で、たしか「支那」紀行の一文、「江南游記」の中だったと記憶しているが、いかにも彼らしく、日本人ならちょっとは憧れる杭州郊外の西湖を「貶す」ところが印象的だった。有名な南朝の時代の名妓蘇小小の墓は「詩的でも何でもない土饅頭《どまんじゅう》だった。」そうだ(+_+)。これじゃあ、あまりにも蘇小小が可哀想なので、李賀の有名な詩と「古調自愛集」からの佐藤春夫の訳詩を小小、じゃなかった少々(^^;)付け加えた。原詩は、定律詩ではなく「詩余」の形。三言が基本だけに余計な説明がなく、どこかサンボリスム的でもある。というより「よこはま・たそがれ」的な体言止めの「演歌」というべきだろうか?
写真は、Wikipedia(http://is.gd/HHeKwY)からの李賀の肖像画。ちなみに、詩仙堂で見た利賀像は、あまりにもオジン臭かった。こちらのほうが「青春詩人」らしく格段にカッコよい。

日本人と漢詩(010)

◎私と蘇東坡


「連載」にあたり、連想ゲーム的に繋いできたが、近年の「脳力」の衰えからか、そううまく続く訳がない。また、浅学非才の故、手持ちの材料も少なくなったし、漢詩一首をひねる技量もあるべくもない。ここらで気分一新、以前あるブログに載せた以下の一文で、今回の投稿に換え、次回以降は趣を新たにする。
身内の結婚式で、乾杯の音頭とりをしました。晴れがましい席での挨拶は苦手で、いつも適当にして、後で不評を買うのですが、そうしたドジは許されないと脅されて、今回は、予め原稿をしたためました。
本日は、乾杯の音頭を仰せつかりましたが、その前に一言二言述べさていただくのをお許しください。実は、私こうした席の挨拶では、アドリブでは何を言い出すかわからないと家人から堅く戒められておりますので、今日は原稿を読ませて頂きます。
さて、新婦の思い出と申しますと…(略)…その子ども達も、一人、二人と一人前になり、家庭も持ち、…(略)…、感慨を新たにしているところです。
閑話休題《はなしはさておき》、実は、私、とある下町で町医者を生業《なりわい》としています。長年、子どもからお年寄りまで診るこうした稼業をしておりますと、姪や子ども達の成長に合わせて、診ている患者さんも大きくなり、診察に来ていた子どもも最近結婚、その生まれた子どもを診る時など、その若い夫婦に、つい身内を連想し、お説教じみた診療になりがちです。
また、更に年齢を経て、二人そろって仲良くデイケアに来られる高齢のご夫婦を見ているとこれはこれで燻し銀の光沢が感じられ、先日の結婚式に新婦のお父さんが、白楽天の「比翼の鳥、連理の枝」との詩句をいただきましたが、その思いをいっそう深くしている次第です。
その白楽天に対抗するわけではありませんが、時代は少し下がりまして、宋の時代の詩人、蘇東坡が、中国の有名な湖、西湖を詠った詩を紹介したいと思います。
水光瀲灔《れんえん》として晴れ方《ひとえ》に好く
山色空濛《くうもう》として雨も亦奇なり
若し西湖を把つて西子に比せば
淡粧濃抹総て相い宜《よろ》し
水の色はキラキラ光って、晴れればよい風景である
山の色は薄霞だが、雨の景色も格別である
薄化粧であれ、厚化粧であれ、越の美女、西施に比べてみても、西湖というのはどちらもすばらしい。
夫婦でも同じ事だと存じます。本日の華燭の典、濃抹《のうまつ》な、お二人も本当に素敵だし、いつまでも今日の日のことを忘れないとは思いますが、むしろ明日からは、淡粧《たんしょう》な普段着の生活が始まります。どうか、晴れの日はもちろんのこと、雨の日にも、お互い自由で闊達なご夫婦であり続け、明るいご家庭を築かれることを願って、わたくしの挨拶とさせて頂きます。乾杯!
詩の題名は、超有名な蘇東坡「湖上に飲す、初は晴れ後は雨ふる」。写真は、Wikipedia の西湖の項目(http://is.gd/0aR9ey)より。

日本人と漢詩(009)

◎石川丈山(続々々)と大窪詩仏


丈山先生の詩仙堂に題を寄す 先生歿して百五十年
朱門《しゅもん》の興廃《こうはい》 一枰棋《いちへいき》
草堂 期《とき》を尽《つく》くす無《な》きに似ず
百五十年 昨日《さくじつ》の如《ごと》し
光風《こうふう》霽月《さいげつ》 旧《もと》の書帷《しょい》
加藤周一の「三題噺」を読み返した。丈山先生の詩仙堂に題を寄す 先生歿して百五十年
朱門《しゅもん》の興廃《こうはい》 一枰棋《いちへいき》
草堂 期《とき》を尽《つく》くす無《な》きに似ず
百五十年 昨日《さくじつ》の如《ごと》し
光風《こうふう》霽月《さいげつ》 旧《もと》の書帷《しょい》
加藤周一の「三題噺」を読み返した。一休や富永仲基の「噺」の方が書評に触れられることが多いが、丈山の「亡霊」らしい老人と著者らしい私との対話で構成されるこの「噺」も面白い。
「どれほど偉大な歴史的事業も、晩年の丈山にとっては、懶性蕭散に任じた詩仙堂の春の一日に若かなかったろう。その一日を犠牲にすれば、歴史を変える事業に参画できたかもしれない。しかしその一日こそかけ換えのないものであった。」
最後に加藤周一は、丈山から150年を経た江戸時代後期の詩人大窪詩仏の上記の七絶を引く。
「一五〇年を三〇〇年とすれば、これはまた私の感懐でもあるだろう。ただ私の謭劣非才、遠く詩仏に及ばず、詩仙堂に遊んで一首の七絶も得ることもできないだけである。」
加藤周一ですらこうならば、詩仏の名さえわきまえない後学の徒である当方など赤面の至りである。栄華盛衰は、一瞬の勝負事。草堂にも容赦なく年月の推移が加わってゆく。朱門は、富貴な家。枰棋は、将棋盤、碁盤。長い年月も昨日の夢。晴れた昼間の風と夜の月は書斎のとばりに吹き付け降り注ぐ。
*大窪詩仏(Wikipedia http://is.gd/ihzDnw)
写真は、その Wikipedia での詩仏の真蹟。彼は能筆家でもあったようだ。
一休や富永仲基の「噺」の方が書評に触れられることが多いが、丈山の「亡霊」らしい老人と著者らしい私との対話で構成されるこの「噺」も面白い。
「どれほど偉大な歴史的事業も、晩年の丈山にとっては、懶性蕭散に任じた詩仙堂の春の一日に若かなかったろう。その一日を犠牲にすれば、歴史を変える事業に参画できたかもしれない。しかしその一日こそかけ換えのないものであった。」
最後に加藤周一は、丈山から150年を経た江戸時代後期の詩人大窪詩仏の上記の七絶を引く。
「一五〇年を三〇〇年とすれば、これはまた私の感懐でもあるだろう。ただ私の謭劣非才、遠く詩仏に及ばず、詩仙堂に遊んで一首の七絶も得ることもできないだけである。」
加藤周一ですらこうならば、詩仏の名さえわきまえない後学の徒である当方など赤面の至りである。栄華盛衰は、一瞬の勝負事。草堂にも容赦なく年月の推移が加わってゆく。朱門は、富貴な家。枰棋は、将棋盤、碁盤。長い年月も昨日の夢。晴れた昼間の風と夜の月は書斎のとばりに吹き付け降り注ぐ。