◎雨森芳洲
江戸幕府が確立した後、秀吉の朝鮮侵略で途絶えていた、(李氏)朝鮮との外交関係が復活する。復活後に、日朝関係を真に友好的なものに確立したのが、雨森芳洲(1668-1755)である。芳洲は、現在の滋賀県伊香郡高月町(今は長浜市に編入)出身、戦国時代、浅井氏の輩下で、主君を滅ぼした、秀吉をとことん嫌っていた。父の代になり、医業を生業にするようになり、父を嗣ぎ、当初は医学(その頃は東洋医学)を学んだが、師から「医者というものは、数多くの失敗を重ねて(もっと率直に言えば、患者を死なせて)大成するものだ」と言われ、以後、儒学者としての道を歩んだという。このあたり、彼の人格形成を考えるうえで興味深い。儒者としては、木下順庵年門下に入り、同門の先輩に新井白石(1657-1725)がいる。また、荻生徂徠(1666‐1728)と同時代人である。
江戸時代前期の日本は、それまでの「無視ないし敵対関係」にあった、中国や朝鮮の近隣国との関わりが大きくなったことである。「鎖国」状態から想像される以上に思いの外、幕府は善隣外交に力を入れていたようだ。朝鮮との関わりでは対馬藩が大きな位置を占め、その要職に登り詰めた、雨森芳洲は、多くの江戸期文人とは違った立ち位置だったのだろう。特に白石とは、木門一家の逸材の二人であったが、生来の気質やその学習環境の違いは大きかったようだ。白石は、我も相当以上で、朝鮮通信使との交渉でも、江戸幕府一辺倒であったが、芳洲は、もうすこし広い視点、東アジア全体を見渡す視点をいくばくなりともは持っていたようだ。それが、中国語やハングルをも習熟した所以であろう。通信使の朱子学に忠実な「事大主義」(朝鮮側にしたら、秀吉の朝鮮侵略の甚大な被害も昨日のことではなかろう。)にも柔軟に対応できたことに繋がる。そんな芳洲が白石の出世を聞き、読んだ詩。(以後、読み下し文は略、簡単な訳文を附ける。)1710年、芳洲42歳、白石53歳の時の作。
寄贈新井勘解由在西京
星軺聞説駐京陽 星のように輝くあなたは京都にあり
彩節錦袍跨驌驦 美しい服で駿馬に騎り
古寺花深登白閣 花深い古寺で閣に登り
綺筳酒緑倚黃堂 酒宴を立派な部屋で開き
跡尋禹穴詩篇富 禹穴(中国の伝説の禹帝の住んだという洞穴、杜甫「送孔巢父謝病歸遊江東兼呈李白」(Web 漢文大系が典拠だろう。)を訪ね詩をたくさん書いて
栄擬畿門姓字香 名を全国にとどろかせている
慾識邊城客思多 私は辺境の地で憂いばかりで
黒貂半敞鬂爲霜 黒貂の服もなかばやぶれ、白髪模様。
白石の身と比べて心労多忙な日々を、ともすれば嘆かざるをえなかった芳洲は、その後、数回の朝鮮通信使との接待という大役を果たした後は、54歳の時、ようやく「隠居」の身となる。享保の通信使(1719年)の一員、申維翰(신유한)は、別れに臨んで、
今夕有情來送我 今夜、心づくしに見送ってくれるあなたに
此生無計更逢君 この世ではもう二度と会えますまい
と詠み、芳洲は涙したとある。
その後も対馬藩の醜悪な内情や対外交渉にも関与せざるをえなかったようが、最晩年には畿内に帰ること能わず、88歳の長寿で終焉の地となった対馬で次のような詩を書き残した。
曲崎峯月
木落楓衰海面寛 木の葉が落ち、楓も散り、海原が広く感じる
素娥粧出暮雲端 月の女神は化粧して雲の端っこにたたずむ
清輝含露桂花冷 清い光は露を含んで桂の花を照らし
送與詩人褰箔看 詩人と一緒にすだれをかかげて見やっている
何か典拠の詩があるようだが、未検。教えを乞う。今までの儒学(朱子学)を吹っ切ったような艶やかで、しかもどこか清冽な作である。
芳洲の外交戦略の要諦「欺かず争わず」とする「誠信」の精神は、長年の試行錯誤を重ね努力を経て作られたものである。
「朝鮮人のみだりに言葉にあらはし申さず候は、前後をふまへたる知慮の深さにて。おろかなるとは申されまじく候。」
「とにかく義理を正し申さず押付け置き候て相済み候と存じ候は、後来の害を招き申すべき事に候。」
少なくとも言えることは、同時代の白石の「偏見」とは自由な立場であるが、現在を含めて、半島外交が芳洲の理想とほど遠いことは、あまりにも明らかであろう。ともあれ、遅きに失したが、当方は、芳洲の顰みにならって、ハングルの学習を再開しよう。
参考】
・上垣外憲一「雨森芳洲」(中公新書)
・田井友季子「対馬物語」(光言社)