本職こぼれはなし(006)


・夫婦連れで、コロナワクチン接種にやってきたFさん。
私-家の中で、偉いもん順で、注射しますね。どちらですか?
夫君ーそりゃもちろん、連れ合いですわ。いつも、感謝してます。
妻君-ちゃいます。この人です。いつも、頼りにしてます。
私-どっちやねん?家に帰ったら、揉めなや!毎日、今日言うたことをおたがいに言い合いなさい!
・時間が限られるので、問診は、「今日の体調は?」「以前ワクチンをして具合悪くなったか?」の二点に絞っている。ちょっと耳の遠いTさんに後の質問をすると、「へえ、なんにもあらしまへん」「Tさん、日頃の行いがええさかいにやで」とのリスポンスにも聞こえない様子だったが、顔付きが笑みを浮かべたので、満更でもなかったようだ。
写真は、コロナワクチン問診票とワクチンアンプルと注射器、。

日本人と漢詩(103)

◎河上肇と陸游と一海知義

先日、劇団きづがわの「貧乏物語(井上ひさし作)」を観てきた。戦争中に、彼なりに「非転向」を貫いた、マルクス主義経済学者・河上肇が獄中にあり、その留守家庭を守る五人の女性たちの「対話劇」である。

獄中などで、河上肇が傾倒した陸游の詩に

文能換骨余無法 文能《よ》く骨を換《か》う 余《ほか》に法なし
学但窮源自不疑 学んで但《た》だ源を窮《きわ》め 自《みずか》ら疑わざるなり
歯豁頭童方悟此 歯はぬけ頭《かみ》うすくして 方《はじ》めて此を悟る
乃翁見事可憐遅 乃翁《われ》の事を見ること 遅きを憐れむべし

また、河上肇の「注釈」として、

「骨とは、…基本的な人格である。文は学問…どういう法か…徹底的に…窮めつくして、もはや他人が何と云おうと、どんな目に逢おうと、絶対に揺ぐことのない確信を得ること、…放翁はこう云う、…私の年来の主張と符合する…」

「すべての学者は文学士なり。大いなる学理は詩の如し」
と書く。彼の志が、周囲の人々にどう浸透したのか、河上肇の妻・ひで役を演じた、和田さん等の熱演でよく伝わった。しかし、より多く観客と共感する点では、もう一工夫も二工夫も必要ではなかろうか。上演会場の制約もあってのことだが、舞台全体もあまりにも「リアリズム」すぎて、装置の書割など、もう少し現代にシフトするつもりで、もっとデフォルメでもよかったのでは、と思う。衣装も「和服」主体ではなく、普通の洋装で、河上肇の肖像も、照明的な効果で、劇の進行に合わせて、だんだんシルエット的に大ききなるとか?また、「引用」される芝居が、ゴーリキーの「どん底」(決して古臭くなったわけではないが)ではなく、唐十郎の「腰巻お仙」とまではいかないが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」あたりでもいいのでは?そのほうがより「異化効果」があるかもしれない、いっそのこと、井上ひさしの戯曲の枠組みが、初めから決まっているなら、もう少し「崩して」もいいのではないか?彼の劇も、時代に合わせて書きあらためる時期になったのか、とふとそんな気もした。

河上肇の出獄後の詩から

天猶活此翁
昭和十三年十月二十日、第五十九回の誕辰を迎へて、五年前の今月今日を想ふ。この日、余初めて小菅刑務所に収容さる。当時雨降りて風強く、薄き囚衣を纏ひし余は、寒さに震えながら、手錠をかけ護送車に載りて、小菅に近き荒川を渡りたり。当時の光景今なほ忘れ難し。乃ち一詩を賦して友人堀江君に贈る。詩中奇書といふは、エドガー・スノウの支那に関する新著のことなり。今日もまた当年の如く雨ふれども、さして寒からず。朝、草花を買ひ来りて書斎におく。夕、家人余がために赤飯をたいてくれる
秋風就縛度荒川  秋風縛に就いて荒川を度りしは、
寒雨蕭々五載前  寒雨蕭々たりし五載の前なり。
如今把得奇書坐  如今奇書を把り得て坐せば、
盡日魂飛萬里天  尽日魂は飛ぶ万里の天。

青空文庫・河上肇「閉戸閑詠」

改めての注釈になるが、奇書とは、エドガー・スノウの「中国の赤い星」を指す。「奇書」の表現は、「三国志」「水滸伝」などの四大奇書の類ではなく、彼独特の韜晦だと、一海知義さんは言う。ちなみに河上肇は、アグネス・スメドレー「中国は抵抗する」にも涙したそうである。

もう一つ、一海知義「読書人漫語」の背表紙に、「渡頭」という陸游の自筆詩が載っていたので紹介。

蒼檜丹楓古渡頭  蒼き檜 丹(あか)き楓 古き渡頭(わたしば)
小橋橫處系孤舟 小橋 横たわる処に孤舟を繋ぐ
范寬只恐今猶在 范寛 只だ恐る 今猶お在りて
寫出山陰一片秋 山陰一片の秋を写し出だせりと

昔の絵に、陸游の詩が溶け込む、または、詩の背景に、昔の絵が浮かび出るような印象の、今の季節にふさわしい詩である。語釈などは略、Youtubeに、
「渡頭」陸游自書詩を読む という、書と詩の丁寧な解説があるので、参考のこち

参考】
一海知義「読書人漫語」(新評論)

日本人と漢詩(102)

◎小田実と沆姜(강항 カン・ハン)

小田実の「民岩太閤記」は、なかなかに読み応えのある小説である。本邦作家の「文禄・慶長の朝鮮侵略戦争」は、数多あるかもしれないが、そのほとんどが武将クラスの活動をあつかったそれで、この小説のように日本の一庶民をヒーローやヒロインを描いた小説はすくないのではないか?ただ、難点と言えば、小説が書かれた20世紀には「カシラが평양に住むクニ」には多少とも憧憬の念はあったかもしれないが、今世紀に至っては彼の体制はすっかり変わってしまったので、挿入された時事問題の「論評」の部分は今では鼻に衝く感もないではない。
有馬温泉在の百姓の兄と妹、トン坊とミン坊、ひょんなことから、「文禄・慶長の役」に駆り出され、半島に渡海、様々な日本人、明国人、高麗人と付き合いながら、数奇な運命をたどる。小説半ばより、二人の目指す志は微妙に食い違いはじめ、地理的にも離れ離れになってしまう。兄のトン坊は、「天下人」になる野心が抑えきれず、片やミン坊は、現地の人たちへの共感を育んでゆく。そして、そして、その結末は、すこしもの悲しい締めになっている。
結局、ミン坊の夢見た理想は何だったのか?彼女により添えなかったトン坊の嘆きの果てにあったのは何だったのか?そんな二人の思いの一環を、小説では、沆姜の漢詩で表現している。

滄海茫茫月欲沈 滄海は茫茫《ぼうぼう》として 月沈《しず》まんと欲す
淚和涼露濕羅衿 涙は涼露に和して 羅衿《らきん》を湿《うるお》す
盈盈一水相思恨 盈盈《えいえい》たる一水 相思の恨《うら》み
牛女應知此夜心 牛女 まさに知るべし 此の夜の心を

小説の中の訳文
滄海《そうかい》は茫として果てしなき月は沈まんとし
涙は冷露とともにうすぎぬの衿を濡らし
いたずらにひろがる海にあい思うの恨み
わぎもこよまさに知るべしこの夜のわが心を

沆姜は、慶長の役の際、藤堂高虎の軍に捕らえられ、捕囚として日本に連れて来られ、三年間にわたり日本で抑留された。(Wikipedia より)捕らえされた時、娘と息子の二人を失ったと言う。さぞかし、トン坊やミン坊と思いを一つにしたことだろう。そして、今になってなお続く侵略的ジェノサイドに対して、いかなる感慨を持ったことだろう。

沆姜の詩をもう二首、小説と彼の著書「看羊録」から。

半世經營土一杯 半世の経営 土一杯《いちぼう》
十層金殿謾崔嵬 十層の金殿 謾《いたずら》に崔嵬《さいき》たり
彈丸亦落他人手 弾丸も亦《また》他人の手に落つ
何事靑丘捲土來 何事ぞ 青丘に捲土《けんど》して来つるとは

そんなどえらい人がやったどえらいことも、ただの土くれ一杯にすぎず
死んだところに金殿玉楼をたてたところで、ただたかだかとむなしくそびえるだけ。
小さな弾丸のごときちっぽけな土地も他人の手に移る。
このていたらくで、何んでまた、青い丘のわが高麗の地に来るか。

「十層」は、小説では「十眉」となっているが、東洋文庫版により訂正。

萬臆千愁若蜜房 万臆の千愁 蜜房の若《ごと》く
年纔三十鬢如霜 年纔《わず》か三十にして 鬢は霜の如《ごと》し
豈縁鶏肋消魂骨 豈《あ》に鶏肋に縁《よ》りて 魂骨を消さんや
端龍眼阻爲渺茫 端《もっぱ》ら竜眼に阻《はばま》れて渺茫たり
平日讀書名義重 平日に読書するも名義重く
後來観史是非長 後来史を観るも是非長し
浮生不是遼東鶴 浮生は遼東の鶴を是《ぜ》とせず
等死須看海上羊 等死須《すべから》く海上の羊を看るべし
[訳文および注釈]
胸に蟠(わだかま)るばかりのこの愁いは、蜂の巣の蜜のように溢れ出て
年は三十でもう白髪まじり
どうして、鳥の肋骨のようなつまらないような、魂の骨を忽(ゆるが)せにすることができようか?
天子さまの眼でなかなか見通しもきかない
書を読むのも名分と正義を思うとほとほとつらく
将来の歴史に、事の是非の論議も長く続くだろう
はかない人生は遼東の鶴の故事(千年の時間を経て、丁令威という仙人が鶴に乗って空に登り、若者が矢をいかけたのを見て世を嘆いたとある)をよしとはしないだろう
死に値する我が身ながら、蘇武の故事(漢の時代、匈奴に捉えられていた蘇武は、十九年間砂漠で羊を飼らされていたが、敵に屈服しなかった)に見習って、この海の向こうで、羊を飼ってゆこう。

付け加えると、「看羊録」は、前述。「民岩」とは「民岩之可畏如此矣(民岩の畏《おそ》るべきは此のごとしや、元々「書経」の「用顧畏于民碞」からの用例)、結局、秀吉は「民岩」に敗れ去り、沆姜は、虜囚が解けて朝鮮へ帰国後は、二度と仕官の道は選ばなかったという。

その頃、本邦では、「関ヶ原」直前、遠く異国フランスでは、アンリ四世が、「三人のアンリ」の戦いを制して即位し、宗教的寛容を一応認めた、ナントの勅令発布の時期に当たる。どうする家康!どうするアンリ四世!

右図は、文禄の役『釜山鎮殉節図』(Wikipedia より)、左図は、「看羊録」東洋文庫表紙。

参考】
桂島宣弘「姜沆と藤原惺窩――十七世紀の日韓相互認識」
・沆姜「看羊録」(平凡社・東洋文庫)

本職こぼれはなし(005)

コロナ(COVID19)のトリアージと言っても、コロナ感染症、インフルエンザ感染症だけではなく、それこそ「ふるい分け」しなければならない方が受診される。先日も、31才の成人障がい者で受診された方がいた。幼少期に脳腫瘍の手術、現在に至るまで、コロナ(COVID19)のトリアージと言っても、コロナ感染症、インフルエンザ感染症だけではなく、それこそ「ふるい分け」しなければならない方が受診される。先日も、31才の成人障がい者で受診された方がいた。幼少期に脳腫瘍の手術、現在に至るまで、ほぼ全面介助の状態。発熱となんとなく日ごろの様子と違うので受診、コロナPCR:陰性、インフルエンザ迅速検査:陰性、酸素飽和度(SpO2)がわずかに低下、血液検査とレントゲンを撮ったところ、白血球増多、炎症反応が陽性、レントゲンにて右肺に全体に拡がる像を認めた。入院適応だが、さあそれからが大変。数件の病院に問い合わせるも断れた。N病院呼吸器内科へ貴院で手術を受けた旨の紹介状を書くも満床とのことで入院できないとの返事。診療所の待合室で待機していただくこと数時間、最後の手段で救急車を要請、救急隊へ入院先をあたってもらうことにした。車が出た後の連絡によると、入院先は、断られたN病院の小児科に決まったとのこと。こんなことになるなら、一番先に小児科を当たるべきだったと悔やむことしきり。到着後には、酸素飽和度(SpO2)がさらに大きく低下、CRPも上昇していたとのこと。本当に家に帰していたらどうなったか、薄氷を踏むおもいだった。 小児科時代から診て、成人となった障がい者はこのように、小児科と成人緒科の「谷間」になることも多くみられる。連続して診療できるような体制が切に望まれる。。発熱となんとなく日ごろの様子と違うので受診、コロナPCR:陰性、インフルエンザ迅速検査:陰性、酸素飽和度(SpO2)がわずかに低下、血液検査とレントゲンを撮ったところ、白血球増多、炎症反応が陽性、レントゲンにて右肺や全体に拡がる像を認めた。入院適応だが、さあそれからが大変。数件の病院に問い合わせるも断れた。N病院呼吸器内科へ貴院で手術を受けた旨の紹介状を書くも満床とのことで入院できないとの返事。診療所の待合室で待機していただくこと数時間、最後の手段で救急車を要請、救急隊へ入院先をあたってもらうことにした。車が出た後の連絡によると、入院先は、断られたN病院の小児科に決まったとのこと。こんなことになるなら、一番先に小児科を当たるべきだったと悔やむことしきり。到着後には、酸素飽和度(SpO2)がさらに大きく低下、CRPも急上昇していたとのこと。本当に家に帰していたらどうなったか、薄氷を踏むおもいだった。

小児科時代から診て、成人となった障がい者はこのように、小児科と成人緒科の「谷間」になることも多くみられる。連続して診療できるような体制が切に望まれる。

後退りの記(015)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎堀田善衛「城舘の人」
関根秀雄訳「モンテーニュ随想録」

前回は、アンリ四世とモンテーニュとの邂逅について触れたが、「アンリ四世の青春」訳者あとがきによれば、特に「サン・バルテルミの虐殺」以前のそれは、作者ハインリヒ・マン特有の、フィクション上の創作だそうだ。それにしても、よくできた創作であり、作品に奥深い味わいをもたらしている。彼らの実際の出会いは、モンテーニュの晩年になってかららしいが、その時二人は「十年来の知己を得た」思いだったに違いない。
ここでは、少し遡って、モンテーニュをめぐって「虐殺」前後までの歩みを振り返ってみる。

まず、堀田善衛は、モンテーニュは、「エセー」の中では。「虐殺」のことは一言も触れていない、と云う。ところが、「エセー」は、1572年、虐殺の年に第一稿が作られている。この事で、彼のスタンス、彼が語らないことで、おのずと語っていることが感じられるのは、当方だけであろうか?よくモンテーニュは「折衷主義」「現状肯定の保守派」とも評されるが、この「頑なさ」は、そうした評判とは相容れないことは確かであろう。

少し長くなるが、遡ること彼の勉学時代に、少し年上で無二の親友だったラ・ボエジーの言葉から…

「実際、すべての国々で、すべてのひとびとによって毎日なされていることは、ひとりの人間が十万ものひとびとを虐待し、彼等からその自由を奪っているということなのだ。これをもし目のあたりに見るのでなく、ただ語られるのを耳にするだけだったならば、誰がそれを信じようか。(中略)しかし、このただひとりの圧制者に対しては、それと戦う必要もなく、それを亡ぼす必要もない。その国が彼に対する隷従に同意しないだけで彼は自ら亡びるのだ。(中略)それ故、自分を食いものにされるにまかせ、またはむしろそうさせているのは民衆自身ということになる。隷従することをやめれば彼等はすぐそのような状態から解放されるのだろうから。民衆こそ自らを隷従させ、自らの咽喉をたち切り、奴隷であるか自由であるかの選択を行なってその自主独立を投げすて軛をつけ、自らに及ぶ害悪に同意を与え、またはむしろそれを追い求めているのだ。」

「あわれ悲惨なひとびとよ、分別のない民衆たちよ、自分たちの災厄を固執し、幸福に盲目である国民たちよ。諸君は諸君の面前でその収入のうち最も立派で明白な部分が、諸君から奪い去られてゆくままに放置している。(中略)そしてすべてのそのような損害、不幸、破壊は、数々の敵からではなくて、まさにひとりの敵、諸君が、それが今あるように大きく今あるように大きくしてしまっているその人間から来ているのだ。その人間のために諸君はあれほど勇敢に戦争に出かけて行き、その人間を偉大にするために、諸君は自分の身を死にさらすことを少しも拒まない。しかし、諸君をそれほどに支配しているその人間は、二つしか眼を持たず、二つしか手を持たず、一つしか身体を持たず、諸君の住む多数無数の都市の最もつまらない人間の持っているもの以外は持っていない。ただあるものは、諸君が自分たちを破壊するために、彼に与えている有利な地歩だけなのだ。」
「諸君は子供たちを養うが、それは彼が彼等に対してなし得る最良のこととして、彼等を自分の戦争へと連れ出し、殺戮の中へ送り込み、自分の貪慾の執行者、自分の復讐の実行者とするためなのだ。」
「獣すらも全然了解できないか、耐えられないほどの、かくも多くの卑劣な行為から、もし諸君がそう試みるならば諸君は脱出出来るのだ。それもそれから脱出しようと試みるのではなく、ただそうしようと望むだけでよい。もはや隷従するまいと決心したまえ。そうすればそれで諸君は自由なのだ。私は、諸君が彼を押したり揺らせたりするようにすればよいと言いたいのではない。ただ彼をもはや支えないようにしたまえ。そうすれば彼は、基礎をとりのけてしまった大きな巨大な人像のように、それ自身の重みによって崩れ、倒れ、砕けるのが見られるであろう。」

ラ・ボエジーは、むしろカソリックに近い立場を堅持した。その彼をして、こうしたプロテスト(抗議)を上げせしめたのは、フランス宗教戦争の悲惨さを前にして、止むに止まれぬ思いからであろう。再三に渡って述べるが、21世紀の現在の実状を訴えているわけではないが、自ずと重なって響くのは、悲しい現実だろう。

「虐殺」前は、カソリックとプロテスタントに政治的党派としてほぼ明確に別れていたが、その後はその色分けは、単純化されるどころか、政治的打算も重なって、プロテスタントめいたカソリック、またはその逆といったように混沌とも言える状況になってきた。モンテーニュは、心に期するものがあってか、シャルル九世、アンリ三世を中心とした王統派に近づきはするが、その親好は、プロテスタント寄りの知識人と結んでいた。そんな中で、アンリ四世との関わりはどうなっていくだろうか?次回は、1572年~1592年くらいの時期に触れたい。日本史で言えば、信長の台頭から、秀吉の朝鮮侵略くらいにあたる。

どうする、信長・秀吉・家康、どうする、三人のアンリたち、そしてモンテーニュ!

本職こぼれはなし(004)

定期診察にやってきたKさん、いつもの通り、やたらに話が長い。
「せんせー、この頃はな~」
病児保育を、ひ孫のTちゃんが利用しているのにかこつけて…
「ちょうどよかった、Kさん、Tちゃんな、熱は下がったが、『咽頭結膜熱』いうてな、もう2日くらい病児保育にあずけたほうがええで、そない、お母さん(Kさんの孫にあたる)に言付けしといて…」
「わかったわ」
「ところで、Kさんの困ってることは何やねん」
「そないなこと、もう忘れてしもたがな」

こうして、話題をそらすのも一策かもしれない。

乳児から幼児に、夏以来、少し下火にはなったが、アデノウイルス感染症(咽頭結膜熱)が流行っている。(図左は、10月26日現在の、大阪市における、流行状況(感染症サーベイランスでのまとめ、図右はアデノウイルスの電子顕微鏡写真 Wikipedia から)特有の咽頭初見と時に結膜炎を伴うので診断は比較的容易である。迅速検査もあるが、特異的な治療法がないので、最近は、コロナPCR、インフルエンザ迅速検査優先で、あまりしなくなった。有熱期間が、他の疾患より若干長いのと、血液検査で、炎症反応がウィルス疾患では例外的に高めにでることが特徴である。

日本人と漢詩(101)

◎高橋和巳と王士禛と鄭成功

雨森芳洲(1668~1755)が活躍した、17~18世紀の少し前は、東アジア、大きくは世界史的に見て、激動の時代だった。本邦では、戦国時代の乱世、中国では明王朝の衰微と清王朝の勃興、その迫間に位置するのが、我らが王士禛(1634~1711)である。その意味では、彼は「亡国の詩人」だが、これまでのこうした形容を負う幾多の詩人とは少々趣きが違うような気がする。一つには、明王朝滅亡時、彼は未だ十年の齡いしか重ねていたかったこと、もう一つは、幸いなことに、勃興した清王朝は、異民族とは言え、前王朝の到達点の大半を、無傷のまま、手に入ったことだ。世界史的に言えば、欧州を含め、十五世紀から十六世紀の「激変、戦乱」の時代から、比較的安定した統治機構が各国とも確立し、ほぼ現在に至るまでの「国家」のプロトタイプが出来上がってきたことにも関係している。
とまれ、
「価値ある人間のいとなみの総てがそうであるように、詩の美もまた、この世のなにびともまぬがれぬ様様な束縛や制限のうちにあって、しかし怠らず日日に精進する誠実な魂によってのみ築かれる。」
中国詩人選集第二集「王士禛」の解説は、高橋和巳らしい文で始まる。王士禛がデビューしたのは、今の季節にふさわしく「秋柳」四首。
そのうち、第一首(Wikipedia より)
秋來何處最銷魂 秋来 何れの処にか最も銷魂なる 秋になって最も人の哀愁をそそる柳はどこかといえば、
殘照西風白下門 残照 西風 白下の門 むろんそれは夕映えのなか秋風をうける白下の門だろう。
他日差池春燕影 他日 差池たり 春燕の影 先だっては飛び交うツバメが柳の糸に影を落としていたのに、
祇今憔悴晩煙痕 祇今 憔悴す 晩煙の痕 今では柳の糸も枯れ果てて夕もやがたなびくばかり。
愁生陌上黄驄曲 愁生ず 陌上 黄驄の曲 路傍に死んだ愛馬を悲しむ「黄驄の曲」を聴けば哀愁はかきたてられ、
夢遠江南烏夜村 夢は遠し 江南 烏夜の村 江南の村で夜中にカラスが鳴いたというのも今や遠い昔の夢である。
莫聽臨風三弄笛 聴く莫かれ 風に臨む三弄の笛 風に対して三度も吹き鳴らしたという笛の音など聴くものではない、
玉關哀怨總難論 玉関の哀怨 総て論じ難し ましてや柳のない玉門関で奏でる「折楊柳」の曲に至っては。

「楊柳」という古来からの題材に、さり気なく、春(はる)秋(あき)の対比を背景として、亡国の哀惜を一旦昇華させて詠った佳詩である。世にはやるのも頷ける。これぞ、まさしく歴史の「春秋」を表現(あらわ)した「神韻」の七律である。

頻歳 頻歳《ひんさい》
頻歳孫恩亂 頻歳《ひんさい》 孫恩の乱
帆檣壓海頭 帆檣《はんしょう》 海頭を圧す
傳烽連戍塁 伝烽《でんぽう》 戍塁《じゅるい》に連なり
野哭聚沙洲 野哭《やこく》 沙洲《さしゅう》に聚《あつま》る
司馬能靑野 司馬《しば》 能《よ》く青野《せいや》し
天呉漸隠流 天呉《てんご》 漸《ようや》く隠流《おんりゅう》す
江淮非異土 江淮《こうわい》 異土に非《あら》ず
飄泊汝何憂 飄泊《ひょうはく》し 汝《なんじ》何を憂《うれ》う

そこで、
[逐一の語釈は、略、大阪弁で意訳を試みた]

ちかごろはブッソウでんな、昔のソンはんのしでかしたどえらいことのまねしはって
うみべのすぐねきまで、白帆がたってまんがな。
けむりも兵隊はんのいやはるとこまで届いて
ソーレンもせんで、死んでいかはる人もいやはるし、
御国の大将はんは、はたけででけたもんを焼いたはるという噂や。
川の神さんもそれで、きーおさまって、流れものたりのたりやがな。
ここら辺の地面は、遠いかみよの昔から、わてらのもんだっせ。
鄭はん、あんたに土地を分けたげるという話や、ここら辺でてー打ったらええんとちがいまっか。
あんさんが亡くなったあと、リーペン(日本)という国のターポー(大坂)というとこで、ジョールリちゅう京劇にもにてはる人形つかはる芝居でえらいあんさんの評判でっせ。「トラは皮を残し、人は名を残す」というやおまへんか?それで満足できはらしまへんか?リーペンレン(日本人)のあんさんのおかんも、メードで、めえーに涙流してよろこんだはるで。
という意味がどうかは、保証の限りではない。また世界各地での昨今の緊迫した状況を直接には反映したものではない、と断っておく。

参考】
・高橋和巳 中国詩人選集第二集「王士禛」 岩波書店
・橋本循 漢詩大系23 「王漁洋」 集英社

本職こぼれはなし(003)

本職こぼれはなし(002)の補足である。

今年も、保育所健診の日々がやってきた。年長児(5-6才クラス)は、今回で健診がさいごの機会となる。そこで、なにかちょっとした企画をすることにしている。やや「セクハラ」気味だが「チュー」しようか、「ハグ」しようか、と提案しても、なかなか園児の賛同が得られない。そこで、この数年来、「自分の心臓の音を聞いてみようか?」というと、診察に使っていた聴診器を自分の耳にかけたがる。子どもの手をとり、心臓の上に当ててあげる。「聞こえたかな?」「ウン、ウン」そうだ、自分の「心(こころ)」を聴いてるんだ。もし、将来、この中から、医師になる子が出てきたら、そういうお医者さんになるんだよ」と、そっと願ってみる。
健診の診察表に、保護者の質問コーナーがある。そこに「将来、医師になるためには、今何をすればいいですか?」と書かれた方がおられた。「うーーん、困った、強いて言えば、仲間とうんと遊ぶことかな?」、こんな答えでよかったかな?
あと何回、こんな毎日が過ごせるだろうか?
写真は、ある日の保育所健診での年長さんの勢ぞろい。(一部加工した)と病児保育室での「聴診実習」の様子。

後退りの記(014)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎堀田善衛「城舘の人」

フランスの16世紀は、後進国とまでは言わないが、どちらかと言えば、ルネッサンスの中心だったイタリアに比して、後塵を拝していたのではないか。また、イデオロギー的にも、手法の是非はともかくとして、ドイツ、スイスなどの新教派の拡大に一歩遅れを取っていたのではなかろうか?例えば初期バロック音楽でも、イタリアなどと比べると、リュート音楽が「主流」で、野暮ったさは否めない。例をあげると、ゴーティエ一家というリュート作曲家一族がいる、その中で、エヌモン・ゴーティエの曲が Youtube にある。後のベルサイユを発信地にした典雅な音楽とは、かけ離れている。これはこれで、別種な素朴ともいうべき趣があるが…こうした社会環境は、これからのストーリーの背景にあったとも思われる。
さて、「バルテルミーの虐殺」を経たその16世紀末のフランス史では、三人のアンリが、その焦点になる。すなわち、アンリ二世(1551-1589)とカトリーヌ・メディシスの子、アンリ三世、カトリック同盟の首領ギーズ公アンリ(1550-1588)とわが主人公、アンリ四世(1553-1610)である。三人とも、最期は悲劇的な結末であったことは痛ましい限りである。
俗っぽいが、三人の関係を、ちょうど同時期の信長、秀吉、家康に比べる向きもあり、アンリ四世は家康に比すこともできようし、強いて言えばが、ギーズ公アンリは信長に、アンリ二世は秀吉に当てることも可能だが、相違点も多々あり、話が続かない。
ともかく、三人の確執は、後の話にひとまず置き、とりあえずは「虐殺」を辛うじて逃れたアンリ四世(アンリ・ナヴァール)に眼をやってみよう。プロテスタントからカトリックへ改宗というアリバイ的な立場を取った、アンリ・ナヴァールだが、ルーブル王宮での半ば幽閉生活には、毎日が心ここにあらずという生活が続くが、足かけ4年で、そこからの脱出に成功する。その逃避行の途中で、モンテーニュとの奇跡とも言うべき二度目の出会いがあった。そして、肝胆相照らす仲となる。これには、アンリ・ナヴァール側に「虐殺から監禁」という痛烈な体験が関係しているのであろう。年長のモンテーニュとしては、それまでも、いやというほど現実の過酷さを体験したことだろうが(機会があれば、これまでのモンテーニュの辿ってきた事柄に触れてみたい)、やっとアンリ・ナヴァールと同じ地平に立つことができた。さすがに、「エセー」には、アンリとの出会いについては書かれてはいないが、現実を凝視する眼がたしかな「エセー」からの引用。

「均衡のとれた中庸の人物を私は愛する。度をこえることは善においてもほとんどいとうべきものだ。」(「エセー 第1巻30章)
また、「エセー」では、ローマの文人の言葉も引く「何事においても熱中は禁物で、徳ですら過ぎれば狂となる。」(ホラーティウス「書簡」)
Omnia vitia in aperto eviora sunt. (アルユル欠陥ハアカラサマ二ナレバヨリカルイ」(セネカ 「エセー」(第2巻31章)

元来「中庸」は、ともすれば、中途半端な「日和見」的な立場と取られがちである。しかし、モンテーニュは醒めている。度を越した善は、ましてやその「強要」は、しばしば多大な損傷をもたらす。モンテーニュが経験したことが、そう語っている。
別に話を拡げるつもりはないが、現在、この時点で係争地で起こっている悲惨な状況を見よ!お互いの「善」「正義」の強要が、子どもや罪なき弱者の命を奪っている。あと幾年いや幾世紀、「度を越えた善、狂となった過ぎた徳」の応酬が続くのだろうか?アンリ四世とモンテーニュとの邂逅が、いくたび繰り返さなければならないのだろうか?
ここまで書いて、半世紀も前のことになるが、高校時代のワンゲル部の後輩が、「ジハードに征く」として、彼の地で生を終えたことを、ふと思い出した。

本職こぼれはなし(002)

「大阪保険医雑誌」から2024年新年号への投稿依頼が来た。お題は、「音」「音色」とある。少し、気が早いようだが、腹案らしきものがあったので、したためてみた。

【聴診器で「こころ」を聞く?】(最終稿)
 月並みではあるが、医者のシンボルといえば、頚にかけた聴診器であろう。医学史によると、聴診器が世にでてきたのは、思いのほか新しく、十九世紀初め、当初は、中をくりぬいた円筒形の木で、音を聴いていたようだ。やがて、十九世紀半ばには、耳に差し込む形の聴診器が発明され、現在の聴診器の原型となる。私の研修医時代は、オーベン(指導医)の先生方は、象牙製のそれを使っておられる方がわずかだがおられた。片方の耳栓がはずれても、平気な顔で診察されるのをみて、感心したりしたのも、思い出の一つである。実際に、象牙製を使わせてもらったが、片耳はおろか両耳でもさっぱり聴こえなかった。それ以来は、もっぱら、小児用の「リットマン」の聴診器を常用している。
 医学生時代、診断学に熱心な小児科の先生がいて、心肺音を録音したレコードを聞かせてもらった。大半は忘却のかなたになったが、その後、役立ったことが一つ、聴診からは離れるが、そのレコードに、子どもの「百日咳」の咳の様子-いわゆる「スタッカート・フステン」(音楽の符号のような連続的な咳)-があった。のちに三種混合ワクチンの事故で接種が一時中止となることがあり、百日咳がふたたび流行し始めた時、ある日の外来に、舌圧子で軽く咽頭を刺激すると、レコードの音と同じような咳をする子どもがやってきた。血液検査で、百日咳と診断治療することができ、事なきを得た。学生時代、講義聴講では熱心な方ではなかったが、印象に残る音は記憶の片隅に残るもので、その先生には改めて感服した。ほかには、今ではまるで旧式になったベビーバードという人工呼吸器―複雑な回路を見よう見まねで組み立てた-をつけた未熟児の片肺の呼吸音が突然聞こえなくなり、気胸と診断、外科部長の先生のサポートのもと、一番細いネラトンカテーテル挿入で脱気を試みて、山場を乗り切ったことや、複雑心奇形の児に、酸素飽和度を高めるため、人工的に心房中隔欠損を作成する治療方法(BAS バルーン心房中隔切開)をカテーテル下に試み、みるみるまにチアノーゼが改善した時は、「ばすっ」という音が聞こえた気がして、「なるほど、だからBAS(バス)と言うんだ」と妙に納得!など、音に関することは枚挙にいとまがない。
 こうした研修医時代の忙しさの中で、時には気分的に落ち込むこともあり、たまに映画でもと観たのが、黒澤明監督の、「酔いどれ天使」だったと思う。その中で、医師役の志村喬は、世の医者のアリバイ的な聴診を揶揄しながらも、相手のやくざ役、三船敏郎の胸を旧型の聴診器で聴診し、拇指と示指でまるを作り、「お前の胸には、これくらいの空洞があるぞ」と指摘していたシーンがあり、彼の五感の鋭さに、とうてい映画とは思えず、身震いした。CTもない時代にこんな診断ができるなんて、自らの無能とは関係なく、その医者の「神々しさ」には、新たな気持ちで憧れる思いだった。
 でも後日、気がついた。志村は三船に、実際の空洞を指摘しただけではなかった。表面はみえっぱりだが、それまでの阿漕な生活に嫌気がさしていたヤクザの「心の空洞」=「心の闇」をその聴診器で聞き分けていたのだ。
 今まで、聴診器で、志村医師なみに幾人を聴き得たかは、はなはだ心もとない。ましてや、この数年来のコロナ禍で、診察室でゆっくり聴診器を当てるのもままならないが、これからは、患者さんの「心(こころ)」まで聴き分けることができる医師でありたい、とは老医晩年に至った今の見果てぬ夢の一つである。

写真左は、Baby Bird 人工呼吸器(Bird 社カタログより)、私が使っていたのはもう少し前の機種でほとんど計器類もなく回路ももっと複雑だった。写真右は、黒澤明監督「酔いどれ天使」(聴診のシーン)(Youtube では、無料でスペイン語字幕付きで閲覧できる。)
「百日咳」の咳の様子は、城北病院作成の、Youtube 動画で聞くことができる。