日本人と漢詩(022)

◎絶海中津


少し、室町時代までさかのぼって…京都五山と呼ばれた寺院在籍の僧侶が中心となった「五山文学」。といっても現在まで「伝統」と受け継がれているかといえばそうでもない。いろいろ原因はあろうが、「新・日本古典文学体系」での入矢義高さんの解説によれば、当時の日本の禅宗にあった、一家相伝主義(丸山真男流にいえば「蛸壺文化」)の影響で、それぞれの僧侶・詩人にあったはみ出た詩的感覚が、削ぎ落とされたことに求められるだろう。その中では、絶海中津(1334-1405)には、感性鋭く、佳品が多い。ネットに掲載されていた七言絶句を一首…
綠陰
綠樹林中淨似秋 綠樹の林中  淨《きよ》きこと秋に似て,
更憐翠鎖水邊樓 更に憐れむ 翠《みどり》 鎖《と》ざす  水邊の樓
乘涼踏破蒼苔色 涼《りゃう》に乘《じょう》じて 踏破《たふ は》 す  蒼苔《さうたい》の色
撩亂袈裟上小舟 撩亂《れうらん》たる袈裟《けさ》  小舟に上《の》ぼる
晩春から初夏での風景であろうか、解説や語訳は以下を参照のこと。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/jpn385.htm
写真は、絶海中津ゆかりの、京都・相国寺。子ども時代に何度か、祖父に連れてもらった記憶がある。

日本人と漢詩(021)

◎毛有慶(亀川盛棟)


日本人であるかどうかは微妙ですが、「琉球処分」により琉球王朝が消滅しようとしていた時代、彼は、清国に救援を求めに渡ったが、琉球に帰ったところ、投獄されたとあります。
「日日王城を瞻望《せんぼう》し、悲歎《ひたん》に勝《た》えず、偶《たま》たま書す」 毛有慶(亀川盛棟)(1861-1893)
城古《ふ》りて転《うた》た蒼茫たり
城荒れて草木長ず
龍楼《りゅうろう》龍《たつ》既に脱し
鳳闕《ほうけつ》鳳《おおとり》猶お翔《と》ぶ
本《もと》簫笙《しょうしょう》の殿《でん》を以て
変じて剣戟《けんげき》の倉《くら》と成す
一朝《いっちょう》一《ひと》たび首を翹《あ》げ
愁断《しゅうだん》す 九廻《きゅうかい》の腸
首里城での詩歌管弦の御殿も、今や武器庫となっていると嘆くところは、現在の沖縄基地の重圧につながるように感じます。
最近、Youtube のじゅんちゃんの哲学チャンネルで、関西学院大学の冨田先生との対談を聴きました。富田先生は、丸山真男を援用しながら、日本の近代から現代にかけては、「他者」をきちんと対象化しながら、対峙してこなかった弊害について述べられていました。それは、実際の対話も欠落していたし、自己の内側でも、なおさらそうであったとしています。琉球に根付いた文化は、狭い意味での「日本」にとって他者であることを、彼の漢詩は示してくれます。(本場中国の漢詩では、いくたびの亡国の際に、その感情表現が昂ぶることが多いように思われます。)
彼の漢詩は、以下の琉球大学アーカイブで読むことはできますので、ゆっくり読んでみたいと思っています。
https://core.ac.uk/download/pdf/59152852.pdf
写真は、焼失前の首里城です。
参考】
・石川忠久「日本人の漢詩」琉球の詩人たちより

日本人と漢詩(020)

◎頼山陽と江馬細香


文化十年(1813年)暮に山陽は細香の住む美濃を跡にして、翌年新春に梨影という女性を娶ります。大垣を去るにあたって
「重ねて細香女史に留別す」
宿雪《しゅくせつ》漫々《まんまん》として謝家《しゃけ》を隔《へだ》す
離情《りじょう》述《の》べんと欲《ほっ》して 路程《ろてい》賒《はる》かなり
重ねて道藴《どううん》に逢ふ 何処《いづこ》に期《き》せん
洛水《らくすい》春風《しゅんぷう》 柳花《りゅうか》を起《おこ》す
とまた京都で逢うことを期待している一方で
蘇水《そすい》遙々《ようよう》 海に入りて流る
櫓声《ろせい》雁語《がんご》 郷愁を帯ぶ
独り天涯《てんがい》に在りて 年暮れんと欲す
一篷《いっぽう》の風雪 濃州《のうしゅう》を下る
と傷心の胸裡も述べます。
翌年春2月半ばに細香と再会、嵐山に花見遊山し、
山色稍《やゝ》暝《くろう》して 花《はな》尚《》お明《あき》らかなり
綺羅《きら》人散じて 各々城に帰る
渓亭《けいてい》に独り 吟詩の伴《とも》有り
共に春燈《しゅんとう》を剪《き》 水声《すいせい》を聞く
暮《く》れて帰《かえ》る 旧《むかし》を話し 歩み遅々たり
鬢《びん》に挿す 桜花 白一枝
濃国《のうこく》に 相逢《あいあ》ふ 昨日の如し
記す 君が雪を衝《つ》きて 吾を訪《おとず》れし時
江馬家蔵「山陽先生真蹟詩巻」よりとあるので、細香に直接贈ったのでしょう。
でも、『山陽詩鈔』では、次のように七絶に改作
「武景文細香と同じく嵐山に遊び旗亭に宿す」
山色稍《やゝ》暝《くろう》して 花《はな》尚《》お明《あき》らかなり
綺羅《きら》路を分ちて 各々城に帰る
詩人故《ことさら》に人後に落ちんと擬《ほっ》す
燭を呼んで 渓亭《けいてい》に 水声《すいせい》を聴く
といろいろ経緯を巡って憶測を呼ぶようになったのです。
写真は、京都・嵐山(Wikicommon より)
参考】
・門玲子「江馬細香」

日本人と漢詩(018)

◎市河寛斎


あまり昨今の時勢とは関係ないかもしれませんが、再開します。通し番号は、前回の続きです。では、徒然なるままに、気が向いたら…
先日、下記の映画を観ました。 
大コメ騒動
大正年間に起こった富山魚津から始まった、米騒動を扱ったものです。主人公の井上真央さんのやや抑えた演技が光っていました。江戸時代に同じ富山を流れる神通川の水害があり、市河寛斎(1749-1820)でその後の貧窮を扱っています。
岩波文庫 「江戸漢詩選」(下)より
「窮婦の嘆き」
路《みち》に小羽邨《こばむら》に過ぎる。九月十二日、神通《じんづう》の岸崩《くず》るること数百歩、農民の家を壊す。

神通川の頭《ほとり》 岸の崩るる辺《あたり》
響きは平地に及び 良田を陥《おと》す
拆勢《たくせい》 横さまに入る 民人の宅《いえ》
屋は傾き 壁は壊れ 殆んど顚《たお》れんと欲す
門に農婦の子を抱きて哭《こく》する有り
自ら陳《の》ぶ 夫壻《ふせい》は本《も》と薄福
山田《さんでん》の贏余《えいよ》 菜《さい》と蔬《そ》と
父子《ふし》六箇《ろっこ》の腹を満たさず
前年の水旱《すいかん》に田は荒蕪《こうぶ》し
歳の終りに猶《な》ほ未《いま》だ輸《ゆ》せざるの租《そ》あり
計《けい》尽《つ》き 仮貸《かたい》して牛犢《ぎゅうとく》を買ひ
塩を鬻《ひさ》いで遠く度《わた》る 飛山《ひざん》の途《みち》
飛山《ひざん》の石路《せきろ》 二百里
大は刃《やいば》を蹈《ふ》むが如《ごと》く 小は歯の如し
但《た》だ人の労《つか》るるのみならず 牛も亦《ま》た労れ
官租《かんそ》未《いま》だ輸《ゆ》せざるに 牛先《ま》づ死す
官租 仮貸《かたい》 一身に負《お》ひ
怨訴《えんそ》して天に号《さけ》べど 陳ぶるに処《ところ》無し
其《そ》れ淵《ふち》に投《とう》ずる予《よ》りは 寧《むし》ろ自ら売らんと
奴《ど》と為《な》り 家を離れて 已に幾春《いくしゅん》
妾《われ》は孤独と為りて空室を守り
児子《じし》は背に在《あ》り 女《むすめ》は膝を遶《めぐ》る
昼は人の傭《やとわれ》と為り 夜は纑《あさ》を辟《つむ》ぐ
光陰《こういん》空《むな》しく度《わた》る 一日日《いちにちにち》
何ぞ計《はか》らんや 天変《てんぺん》又た我に帰し
一夜 此の顚覆《てんぷく》の禍《わざわい》に覯《あ》はんとは
児《じ》は号《さけ》び女《むすめ》は泣いて 妾《わ》が身に纏《まつ》はる
嗟《ああ》 是れ何の因《いん》ぞ 又た何の果《か》ぞ
吾《わ》が壻《おっと》 平生《へいぜい》 悪を作《な》さず
妾《われ》も亦《ま》た艱苦《かんく》して耕穫《こうかく》を助《たす》く
身の死するは何ぞ厭《いと》はん 女児を奈《いか》んせんと
語《ご》畢《おわ》りて 双涙《そうるい》 糸絡《しらく》の如し
一行《いっこう》の聴《き》く者 皆な傷愁《しょうしゅう》し
為《ため》に喩辞《ゆじ》を作《な》して沈憂《ちんゆう》を慰《なぐさ》む
悠悠《ゆうゆう》たる蒼天《そうてん》 爾《なんじ》の為ならざるも
明明《めいめい》たる皇天《こうてん》 爾 尤《とが》むること勿《なか》れ
天高くして 人語《じんご》響《ひび》き易《やす》からず
中に冥吏《めいり》の忠儻《ちゅうとう》ならざる有るも
恃《たの》む所は 皇天 生生《せいせい》を好む
豈《あ》に雨露《うろ》の枯壌《こじょう》を湿《うるお》すこと無《な》からんやと
日本人の漢詩は、中国の伝統と違い、一部の優れた例外(菅原道真公くらいか)を除きこうした社会的視野をもった題材は極めて少ないと思います。また、比較的平明な言葉遣いで、余計な訳文は不要だとおもいますが…大意を示すと
神通川辺の水害、田畑、家屋に及んだ。被災者の農婦の言、
「もともとの貧乏暮らし、家族の食事にも事欠く始末、また年貢も納めるのもむつかしい。
 夫は、飛騨の国に、塩の行商の途中で、牽いていた牛が死ぬ始末、年貢と借金を背負う始末。少しの足しにと夫は他家に稼ぎにいったのも何年か前。
 私は、子どもの面倒を見ながら、人に傭われ、夜も夜なべ仕事にあけくれたところに今度の水害。家も転覆する始末、夫婦とも悪いことはした覚えはないのに、何の因果でしょうか、子どもたちをどうすれば…」と目に涙に皆ももらい泣き、なんとか慰めの言葉をかけた。
「神様をうらむじゃないよ、民の声が天がたかければ届かないこともあるだろう、また神の側近には不忠、不誠実な輩もおるだろう。(このあたり、現実に当時の役人の実態の反映でしょうね。)天の神は、人々、万物が生き生きと暮らすことを望まれているはず、きっとそのうちに恩恵もあるだろうよ。(まさか作者は本気では信じておるまい。)
米騒動だってしかり、映画を観てはじめて地下水脈として受け継がれる庶民の思いを感じました。

こんなご時世だから(59)

ピーター・ブルック先生曰く
「私は唯一の真実というものを信じたことがない。ある時ある場合にだけ有用である、と信じている。時は移り、私たちは変わり、世界は変化する。それにつれて、目標が変わり、視点も変わる。もちろん、ある視点を生かすためには、それを全面的に信じ、貫徹しなければならない。とはいえ、生真面目になりすぎてもいけない。「死守せよ、だが、軽やかに手放せ」」
写真はピーター・ブルック氏

日本人と漢詩(番外編2)ーこんなご時世だから(11)

◎海音寺潮五郎と詩経


海音寺潮五郎先生曰く
詩経邶風 擊鼓
擊鼓其鏜、踊躍用兵。
土國城漕、我獨南行。
從孫子仲、平陳與宋。
不我以歸、憂心有忡。
爰居爰處、爰喪其馬。
于以求之、于林之下。
死生契闊、與子成說。
執子之手、與子偕老。
于嗟闊兮、不我活兮。
于嗟洵兮、不我信兮。
兵のうたえる
どろろん どろろん
太鼓がひびく
訓練ぢやア、訓練ぢやア
いくさするちゆて
國中(くにぢゆう)支度
皆かり出されて城ぶしん
都ぢや壁つき、在郷(ざいご)ぢや砦
おいらひとりは兵士に召され
南の國にしよぴかれる
將軍さんは孫子仲
陳と宋とを仲よくさせて
その勢(せい)合わせて、鄭征伐ぢやとよ
いつもどさるることぢややら
だんまりべえで言うてはくれぬ
兵隊どもの心配は
少しも上にはひびかぬわ
傷つき、病(いた)づき、兵隊共は
あちらこちらでころころ死んだ
賴る黑馬(あを)さえどこぞへ逃げた
おらもやんがて死ぬであろ
おらがむくろをさがすなら
どこぞ林の草の下
女房よ、女房
昔お前と約束したな
死のが、生きよが、會ほが、別りよが
心がはりはしまいぞと
おらはお前の手をにぎり
老いの末まで添ひとげようと
かたい約束、おぼえてゐよう
この身になっては、その約束も
はかなく消えてしまうたわ
今は夫婦といふも名ばかり
こげいに遠くひきはなされた
何しに歸つて添ひとげられよ
ほんによほんに
あれほどかたい約束が
あだとなつたがかなしやな
海音寺潮五郎訳
ちなみに偕老は、かいろうどうけつ【偕老同穴】 の元になった言葉( http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/37270/m0u/ )

1月20日のオフ

*今日は、チータさんとミノリンの引き揚げの日、途中、西本願寺にお参り、「お宮参り」とする。(写真)
*今日のメディア逍遥
Nelson Textbook of Pediatrics(写真はその大部な書籍の表紙)
予防接種のスライドを作る必要があったので、久しぶりにNelson をひもとく必要があった。便利になったもので、書籍を購入すると、そのWebテキスト版にもログインすることができる。お陰で、アメリカで実施しているワクチンの一覧など図表の画像でゲットできた。ついでに、Chapter 1 Overview of Pediatrics での格調高い冒頭の文に心惹かれた。
「Children are the world’s most important resource. Pediatrics is the sole discipline concerned with all aspects of the well-being of infants, children, and adolescents, including their health; their physical, mental, and psychologic growth and development; and their opportunity to achieve full potential as adults. Pediatricians must be concerned not only with particular organ systems and biologic processes, but also with environmental and social influences, which have a major impact on the physical, emotional, and mental health and social well-being of children and their families.」
(子どもは、世界のもっとも重要な資源である。小児科学は、身体的、精神的、心理的な成長発達を包括する健康と、成人としての全面的な可能性の達成を保障するために、乳幼児、児童、思春期の幸福な状態に関わりを一手に引き受ける学問である。小児科医は…)
Pediatriciansでつくづくよかったと思うのは、少し大げさかな?

本職こぼれはなし(008)

12月14日の診察室
*12月も中旬となると、年内の受診が最後という患者さんが多くなる。いつも、診察の最後に「しばかれる」Nさん。今日は、テディベア(?)のトレーナーー(写真)。「年に似合わず、可愛いね!」と言ったら、案の定、しばかれた(笑)。「年に似合わずの部分、削除!」と言い直すと、思わずニッコリ。Nさん、良い年末年始でありますようにね。
*今日のメディア逍遥

Michel Blavet のフルート曲集。二つのフルートの、なんとも言えない優雅な絡み。

11月25日のオフ

*昨日の『住吉市民病院の存続と地域医療を考える交流集会』で、発言を求められたが、急なことで、メッセージとしてはあまりにも拙劣の極み。次のように言えばよかったとまたもや後悔している。
「小児を長年診てきた身にとって、今回の住吉市民病院の統合は、とても憂慮しています。それは、地域の医療機関の願いと著しくかけ離れていると言わざるを得ません。私たちは、別に難しいことを要望しているわけでは決してありません。日常診療の中で、それをサポートする第二次医療機関が地域に不可欠と思っているだけです。メッセージを寄せられた開業医の先生は、内科での『診断能力』には定評がありますが、それと同様に、こと小児科に関しては、一定の質以上の診療を心がけていると自負しております。だからこそ、例えば、肺炎で安静が必要な時、また、下痢で脱水になっている時に、診療所での治療には全力をあげていますが、それでも自己完結できない場合には、どうしても『後方病院』が必要なのです。さらに言えば、腸重積や川崎病など小児特有の疾患などは、第二次医療機関の存在が、直接子どもの生命に関わるほど大事になってきます。治療が困難な特殊な疾患に対応する第三次的な高度医療機関の重要性は否定はしませんが、以上述べた診療の内容はしっかりした第二次医療機関があってこそ『効率的』な医療ができるのでしょう。大阪市南部には、この十年来で、不採算になりがちな小児科病棟が、あちこちで閉鎖されました。住吉市民病院の存続で、それにストップをかけ、安心して子育てできる街になるよう、みなさんとともに頑張りたいと思いますので、よろしくお願いします。」
*連休から、チータさん滞在。三十数年前、長男と体を使って遊んだことを思い出し、調子に乗り、同じようにしたら、腰がすっかり痛くなった(笑)。写真は、チータさんが昔のピンクレディーの写真を見て、ポーズ。
*今日のメディア逍遥

そこで、ピンクレディー「サウスポー」など如何。

日本人と漢詩ー番外編(1)

◎一海知義と河上肇、姚合
 2012年9月28日付けの赤旗文化欄、一海知義先生の漢詩閑談(写真)は、以前の河上肇からの連想で「貧乏神」物語。学生時代の初舞台が「貧乏神」(作者失念!)という芝居の「馬鹿殿様」役だった。貧乏神は、実は庶民の味方で、「水呑み百姓」に「殿様」に反抗をしかける、その殿様の「馬鹿さ加減」をたたいたところで現実は何も変わらない、といったテーマと筋だったと思うが、現代でも示唆的である。ともあれ、紹介の漢詩からもあるように、貧乏神というと、どこか、憎んでも憎みきれないユーモアがあるようだ。