日本人と漢詩(050)

◎文楽(人形浄瑠璃)と白楽天

 先日、文楽(人形浄瑠璃)を観た(聴いた)。演目は、夏祭浪花鑑《なつまつりなにわかがみ》。「浪花の俠気の男たちとその妻たちの物語」。題名のように夏向きの趣向で、泥場といわれる最後に近い五反目の殺人現場での修羅場が人形ならではの見せ場である。
Wikipedia → https://w.wiki/3fyn
 ところで、文楽の舞台での襖には、漢詩が掲げられていることがあり、ちょっとした「小道具」である(写真)。「仮名手本忠臣蔵」山科閑居の段には、白楽天の「折剣頭」が書かれており、まがった釣針は、高師直(吉良上野介)に贈賄した側、折れた刃は、塩冶判官(浅野内匠頭)を指し、放蕩に耽る大星由良之助(大石内蔵助)の内心での「忠義」が示唆される。
折劍頭 折れたる剣の頭 白居易
拾得折劍頭  折れたる剣の頭《さき》を拾い得たり
不知折之由  折れたる由《いわれ》は知らず
一握靑蛇尾   一握りの青き蛇の尾か
數寸碧峰頭  数寸なる碧の峰の頭《いただき》か
疑是斬鯨鯢  疑うらくは是れ鯨鯢《けいげい》を斬りしならん
不然刺蛟虯  然らずは蛟虯《こうきゅう》を刺せしか
缺落泥土中  泥土の中に欠け落ち
委棄無人收  委ね棄てられて収《ひろ》う人無し
我有鄙介性  我は鄙《いや》しく介《かたくな》なる性有りて
好剛不好柔  剛《かた》きものを好めど柔きものを好まず
勿輕直折劍  直きゆえに折れたる剣を軽んずる勿かれ
猶勝曲全鉤  曲がりつつ全き鉤《つりばり》には猶お勝りなんものを
白楽天は自負とおり、硬骨漢でもあったようだ。
解説は、 https://www.eg-gm.jp/e_guide/yowa/yowa_01_2014.html を参照のこと、図も同サイトからの転載。

日本人と漢詩(049)

◎堀辰雄と杜甫


秋興(その五)
その頃の長安はといへば、
蓬萊山に來たかとおもふやうな立派な宮殿が、
終南山に相對して、燦爛として居った。
承露盤といふ、恐ろしい高い仙人の形をし た銅像が、
 空に聳え立ち、
西のかた、瑤池には西王母が下り給ひ、
又、東からは紫氣が棚引いてきて、
函谷關に充ち滿ちて居った……
そんな壯麗な有樣だった。
自分も、またちかぢかと、天子の龍顏拜したことが
 あった。
そのときは雉の尾でつくった扇をひらいたやうに
 雲がおのづからひらいて、
太陽の光がさあつとさしてきたかのやうだった。……
だが、いまはかかる江のほとりに臥して、
はや秋も暮れんとしてゐるのに驚いてゐる。
誰あつて、かゝる身が、
昔、朝廷に列してゐた者であることを知つてゐようや。
秋興(その六)
いまわが身のある瞿塘峽口も
又、昔ありし長安の曲江のほとりも、
秋は殆どかはらない。
遠く所は隔ててゐるけれども……
その曲江のほとりの花萼樓や芙蓉苑では
臣下のものを集められて御遊があつたが、
いつか世が亂れだして、
そのあたりまで邊地の愁が入りだした。
昔は珠の簾や刺繡をした柱の間を黃鵠が飛びかい、
錦の纜や象牙の檣をした舟が水鳥を驚かせて
 飛び立たせてゐた。
それらの歌舞の地はいまは跡方もなく、
可憐に堪へない。
おもへば、長安は、漢の頃からの都であつたものを。
「秋興八首」の原文、訓読、語釈などは
https://toshihiroide.wordpress.com/…/%E6%9D%9C%E7%94…/
を参考のこと
 藤村の「小諸なる古城のほとり」は、この杜甫「秋興」から趣きを受け継いでいるような気がする。
参考)
「堀辰雄ー杜甫詩ノオト」
図も同書より転載

日本人と漢詩(048)

◎江馬細香、佐藤春夫と薛涛(旧字では濤)

江馬細香は薛濤の詩を読んでいたようだ。その詩集より
・燈下読名媛詩歸 灯下に名媛詩帰を読む
靜夜沈沈著枕遲 静夜沈沈として枕に著くこと遅し
挑燈閑讀列媛詞 灯を挑《かかげ》て閑《しず》かに読む列媛の詞
才人薄命何如此 才人の薄命何ぞ此の如き
多半空閨恨外詩 多半《たはん》は空閨外《がい》を恨むの詩
[語釈]
名媛詩歸:中国古代から明までの女流詩人詩集。名媛は才色兼備。恨外:夫をうらむ。
・夏日偶作《かじつぐうさく》
永日如年晝漏遲 永日《えいじつ》年《とし》の如く 昼漏《ちゅうろう》遅し
霏微細雨熟梅時 霏微《ひび》たる細雨 熟梅の時
午窗眠足深閨靜 午窓《ごそう》眠り足りて 深閨《しんけい》静かなり
臨得香奩四艷詩 臨《のぞ》み得たり 香奩《こうえん》四艶《しえん》の詩
[語釈]
昼漏:昼間の時間、漏は水時計、細香の実家は裕福だったようなので、ひょっとするとゼンマイ仕掛けの時計だったかもしれない。霏微:細やかに降りしきるさま。閨:婦人部屋。香奩:化粧箱、転じて女流の意。四艶:唐の魚玄機、薛濤、宋の李淸照あたりだろうか?もうひとりは誰なのか?興味の湧くところである。
薛濤の夏の詩から
蝉 蝉《せみ》
露滌淸音遠 露滌《ろじょう》清音《せいおん》遠《とお》ざかり
風吹故葉齊 風吹いて故葉《こよう》斉《ひと》し
聲聲似相接 声声《せいせい》相接《あいせつ》するが似《ごと》きも
各在一枝棲 各《おのおの》一枝《いっし》に在りて棲《す》む
佐藤春夫の訳
せぜのせせらぎかそけくて
枯葉《かれは》とよしも風わたり
音《ね》はもろ声にひびきども
みなおちこちに各自《おのがじじ》
参考)日本における薛濤詩の受容 https://www.nishogakusha-u.ac.jp/…/07kanbun-01yokota.pdf
江馬細香詩集「湘夢遺稿」上(図・「細香筆 白描竹」も同書より)
魚玄機 薛濤(漢詩大系15)

日本人と漢詩(047)

◎佐藤春夫と魚玄機、薛涛


 女流詩人の話題は続く。また先日とりあげた佐藤春夫の「車塵集」からの紹介。唐代の名媛詩人の双璧では、魚玄機と薛涛であろう。薛涛のほうが時代は先行し、中唐の頃、魚玄機は晩唐の詩人に属する。江戸時代以降、日本でも広く読まれ、江馬細香あたりにも影響を与えた、とある。
音に啼く鳥 薛涛   
檻草結同心 ま垣の草をゆひ結び
将以遺知音 なさけ知る人にしるべせむ
春愁正断絶 春のうれひのきはまりて
春鳥復哀吟 春の鳥こそ音にも啼け
秋ふかくして 魚玄機
自嘆多情是足愁 わかきなやみに得も堪えで
況当風月満庭秋 わがなかなかに頼むかな
洞房偏与更声近 今はた秋もふけまさる
夜夜燈前欲白頭 夜ごとの閨に白みゆく髪
春のをとめ 薛涛
風花日将老 しづ心なく散る花に
佳期猶渺渺 なげきぞながきわが袂
不結同心人 情をつくす君をなみ
空結同心草 つむや愁ひのつくづくし
図は、薛涛の画像
横田むつみ「日本における薛濤詩の受容」から( https://www.nishogakusha-u.ac.jp/…/07kanbun-01yokota.pdf )
佐藤春夫の訳は、https://blog.goo.ne.jp/bonito_1929/e/2332b67d7487115138d0b07991acc539
から

日本人と漢詩(046)

◎原采蘋、諸田玲子と李白


 NHK-FM 青春アドベンチャー「女だてら」は、昨日最終回となり、采蘋の宿願も大団円となった。原作では、その後日談もあり、李白と彼女の詩も紹介されている。だが、彼女の恋は、必ずしも成就成らず、ほろ苦い結末となっている。
別内赴徴三首 其三 内に別れて徴に赴く 三首  其の三 李白
翡翠為樓金作梯 翡翠《ひすい》楼と為《な》し 金梯《てい》と作すとも
誰人獨宿倚門啼 誰人《だれひと》か独宿して 門に倚《よ》りて啼《な》く
夜泣寒燈連曉月 夜泣きて寒燈《かんとう》 暁月《ぎょうげつ》に連なり
行行淚盡楚關西 行行《こうこう》涙は尽く 楚関《そかん》の西
 楚の西とあるので、嘆きの対象は蜀の国に居る人物との別れを詠ったものだろうか?采蘋は、郷里秋月藩を思っての仮託であろうか?
語釈と訳は
http://blog.livedoor.jp/kanbuniink…/archives/66702055.html
を参照のこと
別後聴雨 別後雨を聴く 原采蘋
雨蕭々兮四簷鳴 雨は蕭々として 四簷鳴く
燈耿々兮夢不成 燈は耿々として 夢成らず
身在天涯別知己 身は天涯にありて 知己と別る
千廻百転難為情 千廻百転 情と為しがたし
袖辺香残人更遠 袖辺香残り 人は更に遠く
不知何処聴斯声  知らず 何処に この声を聴かん
「愛しい人は 何処でこの雨の音を聴いているのか。天涯孤独の身 に雨音はもの寂しくしみいり、 未練はいつまでたっても消えそう にない……。」
 私事にわたるが、この間、漱石の胃潰瘍の話題も挿み、検診での胃のレントゲンから始まり、胃カメラの結果から内視鏡的切除まで、結構疾風怒濤の日々だった。結果は、ドラマのようなわけにはいたらかもしれないが、小団円くらいかもしれない。でも、入院中の傍らに采蘋が居たことは多とすべきだろう。
 図は、王運煕・李宝均「李白」(日中出版)から

日本人と漢詩(038)

◎中島敦、土岐善麿と高啓


 今回は、すこし、堀辰雄から離れて、中島敦(彼は漢詩の実作もあるし、小説「山月記」に漢詩の引用があり、 https://ameblo.jp/meijishoin/entry-12125333711.html )その訳は、堀辰雄の杜甫訳とは、いささか違った趣があるようだ。
 高啓は、明初の詩人、中国の詩人の刑死は、遠く中国・南北朝の時代にはあったようだが、時代が下ると流石に少なくなくなる。しかし、高啓は、友人に連座して非業の最期を遂げた。ここでは、同じような主題の詩を、中島敦訳と土岐善麿訳をそれぞれに一首づつ。
・高啓作
宵の雨   はや霽《あが》りしか
悟桐《きり》の葉に 月影ほのか
窓あかり   書《ふみ》読む声は
さし並《な》みの 隣家《となり》の童《わらべ》
ふるさとに 待つ児もなくて
草枕    旅に病む身は
小夜ふけの 幼き声に
心傷《こころやぶ》れ 未だも いねず
・臥病夜聞鄰兒讀書 高啓
月淡梧桐雨後天 月は淡く梧桐《ごとう》 雨後の天
咿唔聲在北窗前 咿唔《いご》(書を読む)の声 北窓の前《さき》にあり
誰知鄰館無兒客 誰《たれ》か知らん 隣館《りんかん》児なきの客
病裏聽來轉不眠 病裏《びょうり》聴き来《きたり》転《うたた》眠らず
・妻のことば 高啓
夫《せ》ありと 誰《たれ》かいう
われ棄《すて》てて みまかりましぬ
誰《たれ》かいう 子《こ》なしと
生《い》き写《うつ》し かこい女《め》の子《こ》ぞ
子《こ》は書《ふみ》読《よ》み われは麻《あさ》ない
寝屋《ねや》さびし 夜夜《よよ》の朝鳥《あさどり》
子《こ》は名《な》を得《え》 吾《わ》はとつがねば
かくり世《よ》に 安《やす》らえ わが夫《せ》や
張節婦詞 高啓
誰言妾有夫
中路棄妾身先殂
誰言妾無子
側室生兒與夫似
兒讀書妾辟纑
空房夜夜聞啼鳥
兒能成名妾不嫁
良人瞑目黄泉下
参考)
・中島敦全集第1巻(ちくま文庫)
・土岐善麿「鶯の卵ー新釈中国詩選」
図は、一海知義編著「漢詩の散歩道」

日本人と漢詩(029)

◎夏目漱石と森鴎外


並び称される「文豪」だが、両人の漢詩の趣きには相当違いがあるようだ。特に晩年には両人のスタンスは大きなずれとなっている。漱石が、「修善寺の大患」で、大量吐血したあとの詩。
淋漓絳血腹中文 淋漓《りんり》たる絳血《こうけつ》(深紅の血) 腹中の文《ぶん》
嘔照黄昏漾綺紋 嘔いて黄昏を照らして 綺紋《きもん》を 漾《ただよ》わす
入夜空疑身是骨 夜に入りて空しく疑ふ 身は是れ骨かと
臥牀如石夢寒雲 臥牀 石の如く 寒雲を夢む
使われた詩語のうち、「腹中の文」というのが、キーワードの気がするが、逆に解りにくいというか、多義的に思える。まだ、描き足りない小説や彼の思いのように取れるし、「絳血」の末にたどり着いた彼の新境地のようにも思える。その後、明暗の執筆と同時に、「無題」と称する七言律詩の連作が続き、大岡信の言うように、「漱石は、…律詩の詩形の中で、まっすぐに彼自身の感慨を吐露し、自己自身を広漠たる詩の世界に解き放つことに成功した。」そしてその最後の漢詩は、「日本近代の詩の中で、最上級に列するものであった。」それが、後に「則天去私」という「教説」によって語られることはあったとしても、そうした解釈からも充分にはみ出ていると感じる。
http://yoshiro.tea-nifty.com/yoshi…/2012/08/post-6c15.html
他方、鷗外は少なくとも漢詩の分野では、過去の回想や儀礼的な贈答詩に終始した。
その中の「回頭」詩から二首
囘頭 森鴎外
囘頭湖海半生過 頭《こうべ》を回《めぐ》れせば湖海に半生過ぐ
老去何妨守舊窩 老い去って何ぞ妨げん旧窩を守る
替我豫章留好句 我に替《かは》つて豫章《よしょう》好句を留む
自知力小畏滄波 「自《みずか》ら力の小《せう》なるを知り滄波《そうは》を畏《おそ》る
豫章=宋の詩人・黄庭堅「小鴨」
その元は、唐の詩人・杜甫「舟前鵝児」「力 小にして滄波に困《くる》しむ」
題譯本舞姫 小池堅治囑
世間留綺語 世間に綺語《きご》を留《とど》め
海外詠佳人 海外に佳人を詠ず
奄忽吾今老 奄忽《えんこつ》吾今老いたり
囘頭一閧塵 頭《こうべ》を回《めぐ》らせば一閧《いっこう》塵
一閧塵=多くの馬がけたたましく走り去るあとの土ぼこり
以前の森鴎外の漢詩についての投稿

の持っていた「みずみずしい叙情性」と比較のこと
参考)
大岡信「詩歌における文明開化ー日本の古典詩歌4」
鷗外歴史文學集 第13巻
夏目漱石の漢詩 : 修善寺大患期を中心として(上篇) https://core.ac.uk/download/pdf/223201466.pdf
写真は鷗外の第二首目にある独語訳「舞姫」と漱石「倫敦塔」
追記)二日前に当方も、胃カメラの検査を受けた。生検が二箇所、さてどんな結果が帰ってくるだろうか?

日本人と漢詩(028)

◎絶海中津と明・洪武帝


彼が、入明時にときの皇帝・洪武帝との応酬の詩。
釈絶海
制に応じて三山《さんざん》を賦《ふ》す
熊野峰前 徐福の祠《ほこら》
満山の薬草 雨余《うよ》に肥ゆ
只今海上 波濤《はとう》穏《おだやか》なり
万里の好風 須《すべから》く早く帰るべし
明・洪武帝
御製 和を賜《たま》う
熊野峰は高し 血食《けっしょく》の祠
松根の琥珀《こはく》も也《ま》た応《まさ》に肥《こ》ゆべし
当年徐福 仙薬《せんやく》を求め
直《ただ》ちに如今《じょこん》に到って更《さら》に帰らず
 その頃の明では、日本というのは、徐福が流れ着いた東の国というのが共通認識であったようだ。
 日本の中世では、徐福到達の地、紀州南部から、補陀落信仰の機運が生まれ、幾人かの僧が渡海を試みた。Wikipedia(https://w.wiki/3TDi) 以前熊野の地を訪れた際、彼らの行跡に、とても興味深く感じた。写真は、その航海に使った船の模型。
 実は、徐福が紀州に着いたのは、往路であり、補陀落渡海は、徐福が中国に帰った復路をたどった見果てぬ航海だったのかもしれない。そうすると、絶海中津と洪武帝の詩の応酬も別の趣きを持ってくるだろう。
参考)石川忠久「日本人の漢詩ー風雅の過去へ」(大修館書店)

日本人と漢詩(026)

◎新井白石


政治権力の中枢にいた詩人といえば、まず菅公が挙げられようが、その後は長らく輩出していなかった。新井白石は、その政治家と漢詩人を兼ねていた稀有な例と言えるだろう。加藤周一は、その文学的質の高さを評価していた。白石自身は、「白石」を「王安石」に擬していたのは、吉川幸次郎氏の言うように、「新法」に批判的であったらしく、穿ち過ぎだろうが。藤沢周平の「市塵」では、主に後期の白石について描き、幾首かの漢詩を引くが、ここでは、不遇ともいえた青年期から壮年期の「陶情詩集」という、陶淵明にちなんだ叙情的なネーミングの集から3首。
新井白石
病中書懐 病中懐《おも》いを書す 七言律詩
春來患肺獨憑床 春來 肺を患《わずら》いて 獨《ひと》り床に憑《よ》る
靜裡飽暗書味長 靜裡《せいり》 飽暗《ほうあん》 書味の長きを
竹影揺金檐日轉 竹影 金を揺《ゆる》がして 檐日《えんじつ》轉じ
松花飜粉午風香 松花 粉を飜《ひるがえ》して 午風香る
輕陰林外聽鳩婦 輕陰 林外 鳩婦《きゅうふ》を聽き
困思枕頭夢蟻王 困思 枕頭 蟻王《ぎおう》を夢む
賴有茶功醒病骨 賴《さいわ》いに 茶功の病骨を醒《さ》ます有り
車聲煎作遶羊腸 車聲 煎《い》作《な》して 羊腸を遶《めぐ》る
大意)
春になっても肺のわずらいで臥床していたとき静かな周りに書見を堪能した
竹の影がきらめき日差しも移りゆき風に吹き上げられた松の花粉が香ばしい
暗い森から聞こえる鳩の鳴き声、夢の中では蟻国の王。
煎茶で体はシャキとして、また茶葉を煎る。
郊行 郊行 五言律詩
野濶殘山斷 野濶《ひろ》くして 殘山斷《た》え
天長積水浮 天長くして積水浮ぶ
麥黃難得犢 麥 黃にして 犢《こうし》得難く
江碧只知鷗 江 碧《みどり》にして 只だ鷗《かもめ》を知るのみ
林罅出幽寺 林《はやし》罅《すき》ありて 幽寺出《い》で
川廻蔵小舟 川廻《めぐり》て 小舟を蔵《ぞう》す
晚來何處笛 晚來 何《いずれ》の處《ところ》の笛なるぞ
數曲起前州 數曲 前州に起《おこ》る
(大意)
広い野に山並みと水平線。
麦秋なので同色の子牛を見極め難く、緑の川面で目につくのは白いかもめ。
林のすきまのむこうのひっそりしたお寺、川は湾曲し小舟もみえず。
日暮れときの笛の音はいずこから、中洲で何曲かが響いてくる。
小齋卽時 小齋卽時 七言律詩
小齋新破一封苔 小齋新たに破《やぶ》る 一封《いっぷう》の苔《こけ》
不厭野翁攜酒來 厭《いと》わず 野翁の酒を攜え來《きた》るを
挟冊兎園聊自得 冊を挟《さしばさ》む 兎園 聊《いささ》か自得し
畫圖麟閣本非材 圖を畫《えが》く 麟閣 本《もと》より非材
定巢梁燕啣泥過 巢を定《さだ》む 梁燕 泥を啣《ふく》んで過《よぎ》り
醸蜜山蜂抱蕊囘 蜜を醸《かも》す 山蜂 蕊《しべ》を抱いて囘《めぐ》る
却有散人功業在 却って散人の功業の在る有り
繞欄終日數花開 欄を繞《めぐ》りて 終日 花の開《さ》ける數《かぞ》う
(大意)
ささやかな書斎に酒の差し入れ、才なき身には月並みの読書、軒下にはツバメの巢、かたわらにミツバチも蜜つくりにいそしむ、欄干を行きつ戻りつ花の咲いているのを数えるのも意外な「ひまつぶし」。
語句のいちいちの典拠は省略するが、周囲の儒学者での傾向であった「盛唐偏重」というドグマからは、白石は比較的自由であり、多くは、唐も中唐以降、その後の宋詩を基にしている。また、藤沢周平には「市塵」という題名には、「詩人」という連想が働いたのかもしれない。
(補足)
不遇時代に、白石は俳諧にも親しんでいたようだ。その中から
「白炭やあさ霜きえて馬の骨」
灰となった炭を例えて「馬の骨」(その当時から、「どこの…」という言い回しがあったようだ。
「貧学やきらずの光窓の雪」
きらずは貧相なおかず、おからのこと
当時の心情が垣間見えて興味深い。
白石の第3首にちなんで、写真は、近くの駅の防犯カメラの上で巣食う燕、先日、親燕が巣を作ったと思いきや、もうひな燕が4羽、雁首を並べていた。
参照)一海知義・池澤一郎 「新井白石」 日本漢詩人選集5 研文出版

日本人と漢詩(023)

◎菅原道真
また時代をさかのぼって、菅原道真(845-903)の生きていた平安時代へ。
讃岐への国司赴任の時の作。
中途送春    中途にて春を送る
春送客行客送春  春は客行《かくかう》を送り 客《たびびと》は春を送る
傷懐四十二年人  懐《こころ》を傷《いた》む 四十二年の人
思家涙落書斎旧  家を思はば涙落つ 書斎は旧《ふる》びたらんかと
在路愁生野草新  路に在らば愁ひ生ずれど 野草は新たなり
花為随時餘色尽  花は時に随ふ為《ため》に餘色尽き
鳥如知意晩啼頻  鳥は意《こころ》を知るが如くに 晩啼頻《しきり》なり
風光今日東帰去  風光 今日東に帰り去る
一両心情且附陳  一両の心情 且かつ附《ふ》し陳《の》べん
語釈と訳文は、
以下の杜甫の有名な漢詩「春望」に直接的な影響を受けたと、大岡信さんは川口久雄氏を引いて述べていますが、十分説得力があります。
國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す
讃岐滞在中には、社会性の強い作品を完成させます。このあたりも杜甫の直接的な影響なしには考えられないかもしれません。加藤周一氏は、「庶民の飢えと寒さをうたったのは、憶良の「貧窮問答」以後、平安時代を通じて、ただ道真の詩集があるだけ」と述べています。
寒早、十首のうち、その四。
何人寒気早  何《いづれ》の人にか 寒気早き
寒早夙孤人  寒は早し 夙《つと》に孤《こ》なる人
父母空聞耳  父母 空しく耳に聞く
調庸未免身  調庸《てうよう》 免《まぬ》かれざる身
葛衣冬服薄  葛衣《かつい》 冬服薄く
疏食日資貧  疏食《そし》 日資《につし》貧し
毎被風霜苦  風霜に苦しめらるる毎《ごと》に
思親夜夢頻  親を思ひ 夜に夢みること頻《しきり》なり
寒早十首の語釈・訳文は以下を参照のこと
写真は、道真を祀る京都市・北野天満宮拝殿(Wikipedia より)。生家からは、やや遠方だったのであまり記憶にない。受験前に連れ出されたかな?。近年では、娘と孫の居住地(上七軒)のすぐそばだったので、かすかな記憶が蘇ったかもしれません。
参考
大岡信「歌謡そして漢詩文」より「詩人・菅原道真」