日本人と漢詩(004)

◎浦上玉堂


衰老《すいろう》の身は 宜《よろ》しく数寄《すき》に甘んずべし
那《な》んぞ論ぜん 挙世《きょせい》わが癡《ち》を笑うを
春来《しゅんらい》 いささか清忙《せいぼう》の事あり
唯《た》だ是《これ》 花開き花落つる時
先程の投稿が消えてしまった(泣)。気を取り直して、再投稿。さて、鷗外から遡り、江戸時代へ向かうのだが、別に当てがあるわけではない。手始めに手元にあった本から、わかりやすい詩だったので…したがって、語釈はあえて必要あるまい。Wikipedia(http://is.gd/emSW9A)にあるので、詳述は避けるが、浦上玉堂(1745〜1820)、岡山藩の支藩、鴨方藩の能吏であった。ところが、50才を期に「思うところ」あって、リタイア、それまで趣味であった、七弦琴、絵画、詩文などを生業として、会津、江戸、大坂、京都をと「放浪」した。時代が時代だけに、致仕→脱藩→出奔というライフイベントは、彼にとって一生涯の「負い目」だったのかもしれない。
詩は、「玉堂詩集前集」に収められおり、彼の人生の転機の時期の作であろうか?承句の「世間では、私のことを随分とタワケと噂しているようだが、気にしない、気にしない」は、何か「トラウマ」を引きづっているようにも思え、彼独特のこだわりに聞こえる。しかし、ここは、転句、結句の「春が来て花の評判を聞く楽しさ」を玉堂の清々しさとして信じたい。
ブルーノ・タウトは彼をして「日本のゴッホ」と称したらしいが、なるほど、それまでの山水画と違い、デフォルメされた表現技法は、彼の「内面」を語っているような印象である。画像は、「国宝 凍雲篩雪図」。その他、Google 検索すると、彼の絵が「展覧」されており、見ているだけで楽しくなる。ぜひ、実物も見たいものだ。
久保三千雄「浦上玉堂伝」より(ISBN-13: 978-4104119011 Amazon http://is.gd/YT6nIk)

日本人と漢詩(003)

森鷗外(続々)
詠伯林婦人七絶句 其一 試衣娘子(Probrimamsella)
試衣娘子艷如花 試衣の娘子《ぢやうし》 艶《つや》あるは花の如《ごと》し
時樣粧成豈厭奢 時様《じやう》に粧《よそほひ》ひ成して 豈《あ》に奢《おごれ》るに厭《あ》くや
自道妃嬪非有種 自《みづか》ら道《い》ふ「妃嬪《ひひん》 種《しゆ》あるに非ず
平生不上碧燈車 平生は碧灯車《へきとうしや》に上《のぼ》らざるのみ」
【語義私注】
試衣娘子
ファッションモデル
時樣
最新流行の衣装、化粧
粧成
めかし込む、「鴎外歴史文学集」第十二巻(以後「歴文12」と略)では、注釈者の古田島洋介氏は、「粧」を動詞、「成」は「〜しとげる」との意であると述べる。これで、よく分かった。
妃嬪非有種
やんごとない姫君も、わたしらと同じ人間よ!
碧燈車
よく分からない、「歴文12」では、南斉国の姫君が乗った馬車に拠るとあるが、鷗外君はベルリンで、青いランプがぶらさがる馬車を見たのかも。
 以下、「脱線」ついでに、もう一回鷗外で戯文風に…
 吾輩は、ドクトルOガイである。懲りもせずに、吾輩の現みの世の姿、森鴎外君の漢詩を披露していきたいと考えている。
 鷗外君は、明治17年(1884年)から明治21年(1888年)まで、衛生学研究のためドイツ留学したのは、承知しておられるだろうな。しかし、最後の年、1888年には、鉄血宰相ビスマルクとも面会して、名探偵として事件を解決したことまではご存知あるまい。ただし、それは、推理小説での上のことじゃが…(海渡 英祐「伯林‐1888年」)
 ベルリン到着後、何事も几帳面な性分なので、鷗外君は丹念に日記をつけた。名づけてずばり「独逸日記」。また、留学中に体験したこもごもを「舞姫などの作品として書き上げたから、帰らぬ青春という創作上の原点でもあったのだろう。「独逸日記」の中に、ベルリンのご婦人の生態を写し出した漢詩、「詠伯林婦人七絶句」という連作がある。こういう方面は、ほんとにまめであるのお。写真は、廿壱世紀のパリコレならぬベルコレ試衣展示会の模様、電子網独逸大使館頁から拝借した(笑)。

日本人と漢詩(002)

◎森鷗外(続)

當年(とうねん)の向背(こうはい) 群臣を駭(おどろ)かし
末路(まつろ)の凄愴(せいそう) 鬼神を泣かしむ
功業 千秋 且(しばら)く問ふを休(や)めよ
多情 偏(ひと)へに是(こ)れ 詩を愛するの人なればなり
路易(ルートヴィヒ)二世
前回の詩に続いての詠唱。同じく、ルートビッヒ2世を扱ったものだが、より王に肩入れしたものになっている。起句は、在位当時の「国際」情勢を反映。1866年の普墺戦争(http://is.gd/9WADHU)では、最初、バイエルンは、オーストリア側についたが、ルートビッヒルートビッヒは、途中から、プロシアに味方する。このことで家臣と重大な対立があったことを指す。老獪ビスマルクにあっては、「詩を愛する人」で芸術家肌だったルートビッヒなどは「赤子の手をひねる」よりも御しやすい相手だったんだろう。
前回、触れたヴィスコンティの映画は、世紀末的、耽美的なタッチだと記憶しているが、映画に出てくる、これまたルートビッヒが愛好ンしたワーグナーの音楽が私には生理的にあわないらしく、途中で筋も分からなくなってしまった。
それはともかく、鷗外には、ルートビッヒの侍医で一緒に溺死したフォン・グッデンを讃える詩や後期の漢詩も捨てがたいものがあるが、機会があればと云うことに…
写真は、シュタルンベルク湖のパノラマ、wikimedia(http://is.gd/CJalJI) にあったので拝借。FBでは、大きいサイズはアップロードできず、はっきりしないが、水面の向こうにアルプスが見える。
鴎外歴史文学集〈第12巻〉漢詩(上) (ISBN:978-4000923323)より

日本人と漢詩(001)

◎森鷗外

望斷鵠山城外雲 望断《ぼうだん》す 鵠山《こくさん》 城外の雲
詞人何事淚紛粉 詞人 何事ぞ 涙 紛粉《ふんぷん》たるは
艙窓多少綺羅客 艙窓《さうさう》 多少の綺羅《きら》の客《かく》
不憶波間葬故君 憶《おも》はず 波間《はかん》に故君を葬るを

[簡単な語注]望斷:見えなくなるまで見送る 詞人:鷗外自身 紛粉:多い 艙窓:船の中央部の船室の窓 綺羅:豪華な衣装 不憶:覚えていない 故君:亡きルードヴィッヒ二世

別に古今東西の漢詩に精通しているわけではありませんが、あちこちの所蔵本から、漢詩(日本人が作った漢詩に限定しようと思いましたが、どうやら広く本場のそれにも触れそうなので「の」→「と」しました)を抜書きしてゆきます。語釈や訳文は苦手なので、気が向いたら付けることにします。基本的には、(白文と)読み下し文だけです。できれば、江戸時代を中心としたいのですが、あちこちの時代に彷徨するかもしれません。早速、「脱線」ですが、同業(文学者という意味ではありません 笑)の大先輩に敬意を表して、森鷗外から…
彼の漢詩は漱石のそれに比して「評価」されていません。漢詩に込めた内容など漱石のほうがずっと上でしょう。しかし、なかなか捨てがたいものもあります。彼のドイツ留学時代(1884〜1888)に詠んだ一連の詩群などそうです。ここは、その留学中に衝撃を受け、後に「うたかたの記」(http://www.aozora.jp/misc/cards/000129/card694.html)のバックグラウンドになった、バイエルン王ルートビッヒ2世(http://is.gd/iU4xoW ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ルートビッヒ/神々の黄昏」でも有名ですね)の溺死したシュタルンベルク湖に、事件の数ヶ月後に船を泛べた時の詩。
湖の名、Starnberg は、ムクドリ(鵠)の山という意。着飾った船の乗客と、ついこのあいだの国王の死との対比の中で詞人・鷗外は感じることがあったのでしょう。写真は Wikipedia から(シュタルンベルク湖のルートヴィヒ二世に因む十字架)
【参考】鴎外歴史文学集〈第12巻〉漢詩(上) (岩波書店 ISBN:978-4000923323)より

私の「百花譜百選」より(002)

Facebook 「北海道の写真を送ってください!!!」2011年5月 から

 2011年5月、氷雪の羊蹄山から降ってきた時には、麓の半月湖畔には、エゾエンゴサクが、紫色の花をつけていました。画像は、その花と、翌年の年賀状。(陸游の詩は、「陳伯予見過喜予強健戯作」を参照)

Wikipedia エゾエンゴサク