日本人と漢詩(087)

中島棕隠

独断ではあるが、京都人は、大坂や江戸とはひと味違い、揶揄とまでは言わないが、自らを客観視する姿勢があったようだ。もっとも、昨今は、「みやこびと」のプライドもいくぶん薄くなっているが…ところで、わが中島棕隠にこんな狂詩がある。

江戶者嘲京 江戸者《えどもの》京を嘲《あざわら》う
木高水淸食物稀 木は高く水は清くして食物《くいもの》稀《まれ》なり
人人飾表內證晞 人々は表を飾りて内証は晞《かわ》く
牛糞路連大津滑 牛糞の路《みち》大津に連《つらな》って滑《なめらか》に
茶粥音向叡山飛 茶粥《ちゃがゆ》の音は叡山に向かって飛ぶ
算盤出合無立引 算盤《そろばん》出合い立引《たてひき》無く
筋壁連中假權威 筋壁連中《きんかべれんちゅう》は権威《けんい》を仮る
女雖奇麗立小便 女 奇麗《きれい》なりと雖《いえど》も 立小便《たちしょんべん》
替物茄子怕數違 替《か》え物の茄子《なすび》数の違《たがわ》んことを怕《おそ》る

棕隠は、文化二年(1805年)から同十一年(1814年)まで江戸に暮らし、その「江戸っ子」の視点で、京都人を少々突き放して評している。語釈や訳文の詳細はほぼ不要と思われるが、「京都の食物《くいもの》、おいしいもの、あらしまへん」、「内証は懐具合、立引は「勉強しときまっさ」、筋壁連中は、塀の向こうのおえらいさん、替物茄子は、農家の下肥え集めの際に交換する野菜の量をめぐる駆け引き、棕隠の「都繁盛記」に微に入り細に入り詳しい。「粋なねーちゃん、たちしょんべん」という寅さんの口上はここから来たのかな?

鴨東四時雑詞より
酣飮何知迫曉天 酣飲《かんいん》何ぞ知らん 暁天に迫るを
粉香脂膩和衾眠 粉香脂膩《ふんこうしじ》衾《しとね》に和して眠る
遊郞畢竟偎花蝶 遊郎《ゆうろう》畢竟《ひっきょう》花に偎《よ》する蝶
抵得芳心非偶然 芳心に抵《いたり》得るは偶然に非らず

夜を徹して飲み続けて、化粧濃厚な妓と同衾、わては、花に身を寄す、てふてふどすえ。花蕊に引き寄せされるのは、たまたまじゃないわいのお。実は、棕隠は、自作の詩に対して、無類の自註や解説好きで、ここでも委細を極めているが、あえて省略。要するに、高い前金を払わずに、雑魚寝をうまく利用しロハでその妓と首尾を遂げようとのことである。

棕隠は、もともと儒家の家柄、その実家とかえってプレッシャーになり、江戸に一定期間逃避するなど、ボヘミアン的な生活を送った。帰京後は、詩家としての名声もあがり、放蕩の経験豊かなせいか、このような「きわどい」「竹枝詞」を作るようになった。

もう一首、京都の風情の一つ、「大文字の送り火」を題材にした七絶。

士女蘭盆送鬼時 士女《しじょ》蘭盆《らんぼん》鬼《き》を送る時
相携薄夜傍前涯 相い携《たずさ》えて薄夜《はくや》前涯《ぜんさい》に傍《そ》う
且觀如意峰頭火 且《しばら》く観る 如意峰頭《にょいほうとう》の火の
大字畫雲收焰遲 大字《だいじ》雲を画《かく》して 焰《ほのお》を収《おさ》むること遅きを

男女連れ添ってお盆の最終イベントに、鴨の河原にでかける。まずは大文字山の「大」の字が雲間に照り、ゆっくりと消えるまで眺めやる。
子ども時代は、近くの醒泉小学校の屋上が開放され、「大文字焼き」(俗称、正式には送り火)を見ていた思い出が残っている。

京都で、詩集や、江戸の寺門静軒の「江戸繁盛記」の対抗して「都繁盛記」も出版、名声が高まったが、元号が天保に入り、天下はにわかに忙しくなってきた。天保の大飢饉を皮切りに、1837年 大塩平八郎の乱、1839年 蛮社の獄と続く騒乱へと続き、棕隠も、なかなかまっとうな見解を詩で表現するが、それは、またの機会に…
写真は、鴨川河原(Wikipedia より)と大文字の送り火
参考】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」(岩波書店)
・中村真一郎「江戸漢詩」

日本人と漢詩(086)

◎松崎慊堂、林述斎、佐藤一斎と鳥居耀蔵

渡辺崋山を巡る人物は、次のような関係である。まず、百姓から身を興した儒学者・松崎慊堂は、崋山の友にして、師と言える人物だった。まず、その詩から…

夜市納涼 松崎慊堂
黃昏浴罷去迎風 黄昏《こうこん》、浴罷《や》みて去《ゆ》きて風を迎え
燈市徜徉西又東 灯市《とうし》に徜徉《しょうよう》して西また東
時節未秋秋已至 時節いまだ秋ならずして、秋すでに至り
滿街夜色賣蟲籠 満街の夜色、虫籠《むしかご》を売る

夕暮れ方、ふろ上がりの身には涼風がここちよい。明かりのともる夜市にそぞろ歩き。虫の鳴き声が、早くも秋の到来をつげるという「時節いまだ秋ならずして、秋すでに至り」という句がすてき。

和一齋墨田遊暑 一斎の墨田遊暑に和す 松崎慊堂
舐眠忽破涌弦歌 舐眠《だみん》忽《たちま》ち破れて弦歌《げんか》涌く
二國橋邊千頃波 二国橋辺、千頃《せんけい》の波
納涼舟似深秋葉 納涼の舟は、深秋の葉に似て
風處紛紛不勝多 風処紛々、多きに勝《たえ》ず

酔いの気分でのうたた寝が覚めたら、しゃみの音色が聞こえる、両国橋の川辺には、幾多の波が寄せる。見れば、涼みの船は、秋のもみじばに似て、風に揺れるばかり。

松崎慊堂は、蛮社の獄では、渡辺崋山の助命、釈放に尽力した。

慊堂のそのまた師匠筋で上司であったのが、昌平黌のトップであった、林述斎。

夏日 林述斎
半窗梧葉影交加 半窓の梧葉、影は交加《こうか》し
胡蝶夢醒西日斜 胡蝶、夢醒《さ》めて西日斜めなり
將起渾身無氣力 まさに起きんとし、渾身《こんしん》に気力なく
呼童目指濯盆花 童《わらわ》を呼びて目指《もく》し盆花に濯《そそが》しむ

半開きの窓からのアオギリの葉にさす影は、陽と交錯し、「胡蝶の夢」覚めたらもう夕方。起き上がろうとするが、どうも気力がわかない。従僕を呼び、目で花に水をやるよう、そっと合図する。「胡蝶の夢」は、荘子からの類推か?目指《もく》しという表現が、とても面白い。

谷口樵唱 林述斎
辭枝花作委泥花 枝を辞《じ》する枝、花は泥に委《ゆだ》ぬる花と作《な》り
絲雨隋風整復斜 糸雨《しう》風に随《したが》いて整《ととの》い復た斜めなり
索莫吟懷無所得 索莫《さくばく》として吟懐《ぎんかい》得るところなく
惟聽哈哈滿池蛙 ただ聴く、哈々《こうこう》満池《まんち》の蛙《かわず》

少しアンニュイ気分の詩。桜の花びらは枝から落ち、泥にまみれてゆく。細雨は、風に逆らうことなく、真っ直ぐに、はたまた斜めへと向きを変える。ここらあたりの表現が絶妙。なかなか、詩句が浮かんでこない中、池の蛙の鳴き声がかしましい。ちゃんと一首できてるじゃないかと、ツッコミどころ満載である。

松崎慊堂は、林述斎にも懇願するが、色よい返事はさっぱり。その陰で、述斎の三男(四男という説あり)、鳥居耀蔵の暗略があり、崋山の助命はかなわぬこととなった。中村真一郎は、林述斎は「根っからのエピキュリアン」と述べるが、生涯、正妻をめとらず、しかも子どもや孫が幾人もいたのだから、その意味はずいぶん多義的である。昌平黌では、「朱子学」がその学問の柱とされたが、建前と本音もずいぶん乖離したものである。

慊堂の隅田川遊びに、同行したのが佐藤一斎で、昌平黌では、慊堂の同輩。著書「言志四録」に、「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む。」との格言があり亡父が好んでおり、父の実直な生き様を反映していると思っている。長年連れ添った連れ合いに先立たれた悲しみの時の「悼亡詩」

愛日楼詩 佐藤一斎
屈伸臂項物全非 臂項《ひこう》を屈伸するに、物全て非なり
一去孤鸞不復歸 ひとたび去りて、孤鸞《こらん》また帰らず
八載相從都是夢 八載、あい従うも都《すべて》これ夢
遺箱忍看嫁時衣 遺箱看るに忍《しの》びんや、嫁の時の衣《ころも》

ひとり寝の床で四肢を曲げ伸ばしするも、すべては幻。ひとたび去って、霊鳥といえども、長年連れ添っても夢のまた夢、帰ってこない。嫁入りに持参した着物を、躊躇しながらそっと見てみる。

佐藤一斎は、蛮社の獄では、崋山などの助命活動に熱心ではなかったと「偽君子」との世評を得た。「文は人なり」と簡単には言わないが、こうした詩を改めてみていると、まだ明らかにされない、複雑な事情もあったのかもしれない。

一方、弾圧者だった 鳥居耀蔵は、天保の改革後、幽囚の身になるが、幕府崩壊後は、釈放され東京に戻り、そこで生涯を終えた。その時の詩、

「東京」
交市通商競つて狂の如し
誰か知らん胡虜深望あるを
後五十年すべからく見得べし
神州恐らくはこれ夷郷とならん

(現代語訳)
人々の行き交いも商業も狂ったように競っている。
誰が知るだろう、過去の罪人(耀蔵)の考えを。
五十年後の未来を予想できるならば
日本はおそらく野蛮人の国となっているだろう。

(ともにWikipediaより)

幕臣であった栗本鋤雲の評は、
「刑場の犬は死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。鳥居のような人物とは刑場の犬のようなものである」
となかなか手厳しいが、こんな「詩」を見ると、まあ、そんな人物だったのだろう。「俺の言うことを聞いていたら、こうはならなかったのだろう」というのが、最晩年の口癖だったらしい。いつの時代も、今日《こんにち》でも、こういうやから、いるよね。いずれにしても、佞人という評価は免れないだろう。
参考】
・中村真一郎「江戸漢詩」
・杉浦明平「椿園記・妖怪譚」(講談社)

後退りの記(012)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎アンドレ・ジッド 渡辺一夫訳「モンテーニュ論」(岩波文庫)
◎堀田善衛「ミシェル 城館の人 第一部 争乱の時代」

少し、おさらいすると、モンテーニュは、1533年、ボルドー近郊のモンテーニュ城に生まれた。フマニスト・エラスムスが亡くなったのが、1536年だから、その生涯を引き継ぐ形になっている。ルターの『95ヶ条の論題』でのカトリックへの糾弾の始まった1517年の16年後のことである。幼少期から少年期にかけての、父親の「ラテン語しごき」をへて、へ入学する。

「真に 我が子の自由な教育を願望する父兄は、学院、 特に宗教家の経営する学院などに入れるべきではない。(エラスムス)」

かどうかは分からないが、当時の学校はともすれば、

「(教師)がこういう人たち(生徒) が、自分こそ人間中の第一流の人物だと思っていられるような幻を授けてやっているのですよ。」(同じくエラスムス)

と、当時の教育の悪循環も非難する。

モンテーニュの父親も、その特訓から後、息子の教育についていろいろ迷ったことだろう。プロテスタントに傾いていたマルグリート・ド・ナヴァール公妃とも関係が深い、ボルドーのギュイエンヌ学院に入学させた。そこでは、「詰め込み」もあったが、学風は概してリベラルなものであり、ミシェル少年の勉学もローマ古典文学を手がかりに、カトリック的スコラ神学主義とは違う、異教徒的なものであったと堀田善衛は指摘する。ある意味、昨今の時の政権による Académie japonaise への政治的介入よりも自由だったかもしれない。13才で学院を卒業する頃には、(ちょうどボルドーで暴動騒ぎがあったが)

もっとも 軽蔑してはならない階級は、…最下層に立たされている人々のそれであると思う。… 私 は いつも 百姓 たちの行状や言葉が、われわれの哲学者たちのそれよりも、真の哲学の 教えにかなっていると思う。〔 庶民の方がかえって賢明である。必要な程度に知っているからである。〕

という、まっとうな見解は持ち得たのである。

フランスの文学者・小説家にアンドレ・ジードがいる。彼はモンテーニュについていくつか、小評論を書いている。戦前に渡辺一夫訳で出たものだ。そのせいだけではないが、少し難解で意味がなかなかとりにくいきらいもある。その評論で「エセー」を引きながら、晩年、モンテーニュは、「もし余が再びこの人生を繰り返さねばならぬとしたら、余のして来た通りの生活を再びしたいものである。余は過去を悔まず、未来を恐れもしないから」と書いているという。モンテーニュのこうした非宗教的態度は、死ぬまで持っていたようだ。
いずれにしても、アンリ四世との本格的な邂逅があるのは、もう少し後の話である。

日本人と漢詩(085)

◎柏木如亭と白居易

江戸時代は、漢詩の表現法などが大きな変遷を遂げた時期だった。中期までの、いささや大言壮語に堕した「格調派」から、後期ともなると、日常茶飯事を含む細やかな心の動きを描出する「性霊派」へと変わってきた。柏木如亭もその潮流の一人で、その訳詩集「訳注聯珠詩格」では、白楽天の詩も、ちょっとした日常詩である。

聞亀児詠詩      亀児が詩を詠ずるを聞く    白楽天

憐渠已解弄詩草    憐れむ 渠《かれ》が已に詩草を弄することを解するを
揺膝支頤学二郎    膝を揺がし頤《あご》を支へて二郎を学ぶ
莫学二郎吟太苦    学ぶ莫れ 二郎が吟に太《はなは》だ苦しむを
年纔四十鬢如霜    年纔《わづ》かに四十 鬢《びん》 霜の如し

〈柏木如亭譯〉
憐《かあい》や渠《あれ》は已《いつか》詩草《し》を弄《つくること》を解《おぼ》えて
揺膝《びんぼゆすり》をしたり支頤《ほゝづゑをつい》たりして二郎《おれ》を学《まね》る
二郎《おれ》が吟《しをつくる》に太苦《なんぎす》るをば莫学《まねやる》な
年は纔《やうゝゝ》四十だが鬢《びん》は 如霜《まっしろになった》
以上、昭和レトロな赤坂の思い出から、語釈も同サイト参照のこと。
よりいっそうの現代語訳は、白楽天 舞夢訳を参照のこと。

訳文も、森川許六の三体詩訳の俳文調から抜け出し、現代の口語訳と変わらないところまで来ており、漢詩の日本語を使った解説の一つの到達点であろう。ずいぶん駆け足だったが、平安から室町、江戸時代にかけての訳文を通じての漢詩受容の話題は、ひとまずは、終わることにする。

実際の彼は、白楽天の詩で触れる「家庭の幸福」を知らない人生で、江戸、新潟から京都などへの放浪の詩人だった。追加として、如亭の晩年の詩作を一つ、どこか唐詩への回帰の趣きがある。
絶句
歸鴉閃閃沒煙霄 帰鴉閃閃 煙霄《えんしょう》に没す
但見漁舟趂晚潮 但だ見る 漁舟の晩潮を趁《お》うを
一傘相扶侵雨去 一傘あい扶《たす》けて 雨を侵し去《ゆ》く
黃昏獨上水東橋 黄昏に独い上る 水東の橋

簡単な注釈】
ねぐらに帰るカラスの群れが霞空へ消え、漁船も夕べの潮を追いかける。相合い傘でアベックが雨の中を寄り添って歩いている。その夕暮れの中に一人橋の上にたたずんでいる。
中村真一郎は「孤独な老人の感慨」と書くが、それでいて、どこかある種の温もりも感じる。

参考】
・柏木如亭「訳注聯珠詩格」(岩波文庫)
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波同時代ライブラリー)

後退りの記(011)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎ツヴァイク「メリー・スチュアート」
◎シェイクスピア「マクベス」(岩波文庫など)

1572年、メリーは、すでに廃位の上、イングランドへ移送され、幽閉の身であった。バルテルミーの虐殺を、そこで聞いて、どう感じたのかは定かではない。もはや「ことは終わり」

ああ、わたしはなにであり、わたしのいのちはなんの役にたとうか
わたしは魂のゆけた肉体にすぎない
むなしい影であり、不幸の申し子であり
なりゆくさきは、生きながらの死よりほかはない…

と諦念の呟きだけであった。そう事は終わったのだ、フランスからスコットランドへ移り、王位を手に入れたが、その地の醸し出す独特の土壌の上に、二人の男性を愛し、やがて憎み、破滅へと追いやった。

シェイクスピアは、そのスコットランドを舞台に、悲劇「マクベス」を書いた。

Fair is foul, and foul is fair:
Hover through the fog and filthy air.
きれいはきたない、きたないはきれい。
霧と濁れる空気の中を飛んでいけ!
「マクベス」冒頭場面

メリーにとって、王位につくといった Fair なことも、たとえ、直接手をくださなくても、foul なことも、表裏一体だった。最初の夫(彼女にとっては、フランソア二世が亡くなり、Widow になっているので、二番目であるが)ダーンリの殺害には、

If it were done when ‘tis done, then ‘twere well
It were done quickly: if the assassination
Could trammel up the consequence, and catch
With his surcease success; that but this blow
Might be the be-all and the end-all here,
もし、やってしまってそれですべて決着がつくのなら、
今すぐやったほういいだろう、
もし、暗殺で一切のけりがつくなら、
それで王座につけるのなら、
この世のこの一撃で、一切合財の始末がつくわけだ
「マクベス」第1幕第7場

と、独白したのかもしれない。

Methought I heard a voice cry ‘Sleep no more!35
Macbeth does murder sleep’, the innocent sleep,
Sleep that knits up the ravell’d sleave of care,
The death of each day’s life, sore labour’s bath,
Balm of hurt minds, great nature’s second course,
Chief nourisher in life’s feast,–
「もはや眠るな、マクベスは眠りを殺した」
と叫ぶ声を聞いた気がする、無垢の眠り、
気苦労のもつれた糸をほぐして編むのが眠り、
眠りは、日々の生活のなかの死、労働の痛みを癒す入浴、
傷ついた心の軟膏(なんこう)、自然から賜ったご馳走、
人生の饗宴の主たる栄養源だ。「マクベス」第2幕第2場

三度めのボズウェル伯との電撃結婚もつかの間、伯の反乱の末、メリーは退位を余儀なくされ、イングランドで亡命、その後は処刑まで幽閉の身の上となる。「もはや眠るな、メリーは眠りを殺した」のである。
いくらシェイクスピアが、スコットランドの悲劇に触発されたとはいえ、未来から過去へ逆に操作されたように、数十年後に書かれた「マクベス」の筋書き通りに、メリーは行動したようにも思えるのが、なんとも不思議である。

メリーの先例は、各国にとっても「「レジサイド」(王殺し)」に対して、ずいぶん閾値が低くなった。イギリスでは、メリーの孫、チャールズ一世、フランスでは、ルイ十六世、やがてロシアでは、ニコライ二世とつながるのは、のちの時代の話である。

彼女なりの懸命さで生きている間の様々な出来事は、あまりにも抱えるのが難しかったのだろうし、伝えられていることも、全てではないかもしれないが、これで、メリー・スチュアートの話は、ひとまず幕を閉じることにする。さらば!

日本人と漢詩(084)

◎妹背山婦女庭訓と藤原惺窩


先日、久しぶりに文楽を観て(聴いて)きた。演目は、「妹背山婦女庭訓(Wikipediaより)《いのせやまおんなていきん》」、近松半二などの合作、「本邦版ロメオとジュリエット」と称せらることも多く、確執ある二家の、若君と姫の悲恋物語である。近松門左衛門から下ること半世紀以上、人形浄瑠璃は、人情の機微を語ることのほかに、舞台演出上も大いに工夫を凝らしたものになっている。「婦女庭訓」の最大の見せ場、三段目、「妹山背山の段」では、二家の別荘を挟んで、中に吉野川が流れ、それを仲立ちにした、二人の掛け合いが見事である。上手が、ヒーロー久我之介の別荘、下手がヒロイン雛鳥の別荘、しかも浄瑠璃語りは、左右に分かれて、三味線のピッチも微妙に変えながら、男女の心根を憎いほどに、一人語りと唱和を繰り返す。これで、二回目の観賞となるが、最初は下手側、今回は上手側で、趣の違いも実感できた。当時の客もそのダイナミックな構成に堪能したことだろう。浪華での浄瑠璃文化は、ある意味ここで頂点を極めたように思われる。
今の時代、こうした文化を気軽に享受できるようになっているだろうか?ふとそんな気もしてきた。ここ十年来、文楽をめぐるさまざまな環境は変化を遂げた。ガサツとも言える勢力による文楽攻撃、コロナ禍もあった、それに輪をかけ、大阪を、単に猥雑な街に変えようとする愚策のなか、風格のある上演を望むばかりである。

妹山背山は、古くから歌枕とあるが、そこを題材とした漢詩は寡聞にして見当たらなかった。ネット上では、藤原定家十二世の孫の儒学者、藤原惺窩のやや月並みとも思える七絶を一首。

山居

靑山高聳白雲邊 青山 高く聳ゆ  白雲の辺
仄聽樵歌忘世縁 仄かに 樵歌を 聴きて  世縁を 忘る
意足不求絲竹樂 意 足りて 求めず  糸竹の楽しみを
幽禽睡熟碧巖前 幽禽 睡りは 熟す  碧巖の前

語釈、訳文は、「詩詞世界」を参照のこと。

もちろん、「妹背山婦女庭訓」での二家の別荘は、フィクションであり、廃墟であったとしても惺窩の時代に残っているはずもないが、隠遁の地には似つかわしい雰囲気であったのだろう。また、文楽では、悪役・敵役の蘇我入鹿は皇位を簒奪して、即位した後の話としているのが江戸時代の天皇観を垣間見ることができる。

参考】国立文楽劇場パンフレット(2023年4月)

日本人と漢詩(083)

◎渡辺崋山と杉浦明平

渡辺崋山( Wikipedia )は、愛知県知多半島にあった田原藩(小藩というより貧藩と言えるだろう)の家老。蛮社の獄で、高野長英らと、捕縛、崋山は切腹に追い詰められた。従来、絵画が有名だが、彼の漢詩が紹介されることは意外と少ない。たしか、杉浦明平の大部な小説「小説 渡辺崋山」では、上巻は、一首だけだったと思う。

ここでは、まずは、その一首、27歳のおり、江戸在住での作と小説にはある。

中秋歩月
俗吏難與意 俗吏意を与《とも》にし難く
孤行却自憐 孤行却って自ら憐れむ
松林黒于墨 松林は墨より黒く
江水白於天 江水は天よりも白し
樓遠唯看燭 楼は遠く唯燭を看る
城高半帯雲 城は高く半ば雲を帯ぶ
不知今夜月 知らず今夜の月
偏照綺羅莚 偏《ひとえ》に綺羅《きら》の莚《むしろ》を照らすを

語釈】孤行:同僚と協調しない独自の生き方 樓遠唯看燭:将軍家斉の観月の宴 綺羅:その豪勢の様

小説では、華山のハラのうちを描く。為政者の金の使い方の理不尽さは現在も続く。

おれたちは腹をすかしておるのに、夜中まで飲み食い遊びほうけてけつかる腹が立ってならなかったんだ。…いまは日本中が飢えている。それなのに、大奥では依然として、毎日白砂糖千斤ずつ消費している。…そういう後宮のために消尽された無駄な費用をよそへ廻せば、四、五十万人と見込まれる今年の餓死者の大半は生きのびることができたのではなかろうか。

次に、晩年幽居での詩作を掲げる。

辛丑元旦二首
其一
萬甍烟裏海暾紅 万甍烟裏 海暾《かいとん》紅《くれない》なり
投刺飛轎西又東 刺を投じ轎を飛ばして 西又た東
滾々馬聲皆醉夢 滾々たる馬声 皆な酔夢
今朝眞箇迎春風 今朝真箇《まこと》に春風を迎う

語釈】辛丑:天保十二年(1841年) 海暾;海から昇る太陽 投刺飛轎西又東:人々のせわしい様 滾々馬聲皆醉夢:駆け抜ける馬の蹄の音も、酔っ払った後の夢の中

其二
四十九年官道樗 四十九年 官道樗《ちょ》なり
昨非不改愧衞蘧 昨非改めず 衛蘧《えいきょ》に愧《は》ず
天下難望只天樂 天下望み難きは只だ天楽
七十萱堂數架書 七十の萱堂《けんどう》 数架の書

語釈】官道樗:宮使いも樗(節が多く曲がりくねった木)で役に立たない。莊子に由来 衛蘧:春秋時代、衛の蘧伯玉は、齢五十にして、それまでの非を悟った 天樂:至高の楽しみ、萱堂(自らの母親)と數架の書をせめてもの楽しみにしたい

これらの詩を読むと、吹っ切れたというより、なにかそれまでの緊張感が抜けていった印象があり、自刃直前の華山の心情はいかばかりのものだったろうか?

付】Wikipeda 写真の詩を、訓読すると「石に倚って疎花痩せ、風を帯びて細葉長し。霊均の情夢遠く、遺珮沅湘に満つ」となる。霊均は、屈原の字だから、蘭を屈原に例えると同時に華山自らの自負であるだろう。天保十年(1839年)の「蘭竹双清」に添えたものだそうだ。

とまれ、蛮社の獄で犠牲になった、渡辺崋山や高野長英は、当時最高の知性であり、彼らが、非業の死を遂げたことは、日本の近代史でも、有数の悲劇であったことは論を俟たない。

【参考】
・入矢義高「日本文人詩選」(中公文庫)
・杉浦明平「小説 渡辺崋山」(上)(朝日新聞社)

後退りの記(010)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎渡辺一夫「戦国明暗二人妃 Ⅰ 巷説・逆臣と公妃」(中公文庫)
◎「エプタメロンーナヴァール王妃の七日物語」(ちくま文庫)
◎堀田善衞 「ミシェル 城館の人 第一部」

今回は、二代ほど前の人物に遡ることにする。アンリ四世は、気質の面では、プロテスタント信仰に厳格であった母のナバラ女王ジャンヌ・ダルブレではなく、むしろ祖母のそれを受け継いだようだ。その祖母、マルグリット・ド・ナヴァール Wikipediaをめぐる人間関係も相当に複雑であったらしい。話題にしたいのは、四人の人物である。まず、マルグリッド、彼女は、フランソア一世 Wikipediaの姉であった。その母である、ルイーズ・ド・サヴォワ Wikipedia、一時期は、マルグリッドと相思相愛であった、シャルル3世 (ブルボン公) Wikipedia、マルグリッドに横恋慕するボニヴェ大提督 Wikipedia 英語版との人物配置である。愛憎関係は、これにとどまらず、ルイーズ・ド・サヴォワは、寵臣として、ボニヴェを重んじる一方、年齢の差をこえて、ブルボン公に、思いを寄せるが、かなわぬとならば、「可愛さ余って憎さ百倍」で、公をフランス王朝を裏切らせ、神聖ローマ帝国カール五世 Wikipedia側に寝返させた。母親のルイーズは、後のシャルル九世の母、カテリーナ・ド・メレディスのポジションに似る、当時の政局の黒幕的存在だったことを始めとして、この四人の丁々発止はなかなかに面白いが、結末はあっけなく、ボニヴェは、1525年、フランソア一世が捕虜となった、パヴィアの戦い Wikipediaで戦死。ブルボン公は、その2年後、ローマ劫掠直前に、狙撃され落命した。これがその後のカール五世軍の劫掠の引き金になったらしい。

堀田善衛の文章に「日本の代議士が、ローマ帝国廃墟跡を見て、『イタリアの戦後復興はまだまだじゃのう』と言ったとか、言わなかったとか…」というのがあったと記憶する。、代議士の蒙昧は、ひとまず置くとして、永遠の都ローマは、近世に入り、廃墟と化すほどの軍隊の侵略をうけた。ローマ劫掠 Wikipedia(ローマごうりゃく、イタリア語: Sacco di Roma)古代にも、ローマ帝国滅亡時には、ローマ略奪(ローマりゃくだつ、イタリア語: Sack di Roma)もあったが、1527年の劫掠も、それに劣らぬ規模であったので、代議士のトンチンカンな「誤解」も生まれたのだろう。

同じ年、マルグリット・ド・ナヴァールは、ナバラ王エンリケ2世と再婚し、アンリ四世の母を生んだ。ブルボン公を一刻もはやく忘れたかった、心の葛藤があったのかもしれない。王位を継いだあとは、ラブレーなどフマニストを保護するその頃では、開明的な文化政策をとり、自らも、「デカメロン」に見習って、「エプタメロン」という艶笑的なコント集を、死ぬ直前まで綴っていた。この第四話で、人物名は別にしているが、ボニヴェに暴力的に襲われかけたことを語っている。よほど「根に持っていた」に違いない。

「エプタメロン」は、偽善的なカトリック僧を揶揄するのは、吝かではないが、一方、プロテスタント的なリゴリズムからも一歩引いているおおらかさがあるようだ。アンリ四世へは「隔世遺伝」したことが分かろう。モンテーニュの故郷、ボルドーからも、ナヴァラは、そう遠くない距離で、しかも、学んだ学校もフマニストの陣容の教師群だというから、モンテーニュへの思想的な影響があったのかもしれない。もっとも、この頃のモンテーニュは、日常生活でも、ラテン語以外の言葉は禁止されるという父親からとんでもない「英才教育」を受けていたのだが…

日本人と漢詩(082)

◎藤原定家と白居易

日本での漢詩の「読み解き」を広く取れば、時代を遡ると「和漢朗詠集」あたりからだろう。この時代に引用される詩人は、白居易が一定割合を占め、鎌倉時代になっても定家晩年の作「拾遺愚草員外」の中では、「白氏文集」から題をとった句題和歌が百首ある。どの和歌も、さすが定家、よく熟されている。

氷とく人の心やかよふらむ風にまかする春の山みづ

府西池 白居易
柳無氣力枝先動 柳《やなぎ》に気力無くして 枝先《ま》ず動うごき
池有波紋冰盡開 池に波は紋《もん》有りて 氷《こおり》尽《ことごと》く開らく
今日不知誰計會 今日《こんにち》 知らず誰《たれ》か計会《けいかい》せる
春風春水一時來 春風《しゅんぷう》 春水《しゅんすい》 一時に来たる

語釈・訳文は、Web漢文大系を参照のこと。

白妙の梅咲山の谷風や雪げにさえぬ瀬々のしがらみ
此の里の向ひの村の垣ねより夕日をそむる玉のを柳

春至る   白居易

若爲南國春還至  若為《いかんせん》 南国 春還また至るを
爭向東樓日又長  争向《いかんせん》 東楼《とうろう》 日又長きを
白片落梅浮澗水  白片《はくへん》の落梅《らくばい》は澗水《かんすい》に浮うかぶ
黄梢新柳出城墻  黄梢《こうしょう》の新柳《しんりゅう》は城墻《せいしょう》より出でたり
閑拈蕉葉題詩詠  閑《しづか》に蕉葉《しょよう》を拈《と》り 詩を題して詠じ
悶取藤枝引酒嘗  悶《むすぼ》れて藤枝《とうし》を取り 酒を引きて嘗《たし》なむ
樂事漸無身漸老  楽事《らくじ》 漸《やや》く無くして 身漸《やや》老ゆ

語釈・訳文は、雁の玉梓 ―やまとうたblog―を参照のこと。

思ふとちむれこし春も昔にて旅寝の山に花や散らむ

曲江憶元九

春来無伴閑遊少 春来《しゆんらい》伴《とも》無くして閑遊《かんゆう》少なく
行楽三分減二分 行楽三分《さんぶん》二分《にぶん》を減ず
何況今朝杏園裏 何《なん》ぞ況《いわ》んや今朝《こんちょう》杏園《きょうえん》の裏《うち》
閑人逢尽不逢君 閑人《かんじん》逢い尽くせども君に逢はず

語釈・訳文は、『拾遺愚草全釈』参考資料 漢詩を参照のこと。

釘貫亨氏の「日本語の発音はどう変わってきたか」(中公新書)を興味深く読んだ。それによると、藤原定家は、なかなかの理論家だったらしく、和歌や「源氏物語」など仮名+漢字表記を分かりやすく、しかもバランスがよいように、工夫をこらしたようだ。(私事ながら、釘貫氏は、わが連れ合いの従兄弟にあたる。)

この著書にそって、当時の読みを、下段に提示すると、

咲きぬ也夜の間の風に誘はれて梅より匂ふ春の花園
さきぬなりよのまのかぜにさそふぁれてうめよりにふぉふふぁるのふぁなぞの

 春風  白居易
春風先発苑中梅  春風 先に発《ひら》く 苑中の梅
桜杏桃梨次第開  桜 杏 桃 梨 次第に開く
薺花楡莢深村裏  薺花《せいか》 楡莢《ゆきょう》 深村の裏《うち》
亦道春風為我来  亦《ま》た道《い》う 春風 我が為に来たると

語釈・訳文は、沈思翰藻を参照のこと。

その後、平板になった現代より、より抑揚のある発音であり、和歌の朗詠もなかなかにドラマティックだったように思う。

【参考】浅野春江「定家と白氏文集」(教育出版センター)

後退りの記(009)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎モンテーニュ「エセー」(岩波文庫その他)
◎堀田善衞 「ミシェル 城館の人 第一部」(集英社文庫)

モンテーニュ「エセー」は、昔読んだ時には、深くは感動しなかった。というのは、青年期の生意気のせいか、あまりにも「常識」の範囲をこえず、生ぬるいといった印象だったからだ。しかし、堀田善衞の著作など読んでいると、それはごく表面的なとらえ方であるとの思いが強くなった。

さて、バルテルミーの虐殺後、わがアンリ四世は、その余燼ともいえるラ・ロシェルをめぐる攻防で、ユグノー征伐の隊列に加わるよう強制される。ラ・ロシェル攻防戦は前回、メリメ「シャルル九世年代記」でも紹介した。その行軍の途中で、モンテスキューと邂逅する。小説から、少し長い引用をすると、

連れの人は、宗教戦争ほど宗教に無関係なものはないという意見だった。途方もないことばだが、…宗教戦争はその根を信仰に持っていないし、人間を敬虔にすることもない。一方の人にとって、宗教戦争は野心の口実であり、他方の人にとって、それはみずからを富ますための機会にすぎない。全く、宗教戦争で聖者の現われることはない。逆にそれは民衆と王国を弱らせる。民衆も王国も他国の欲望の餌食にされてしまうのだ。
誰の名も言われなかったのだ。…カテリーナ(時の王国母)も、息子のアンジュー(後のアンリ三世)も、プロテスタントたちの名も。それでも彼の言葉は他の何人にも言えぬほど不敵なものだった。この言葉に襲いかかったのは怒涛や嵐だけではない。ほとんどあらゆる人間が怒号をもってこの言葉をおしつぶすところだったろう。国王さえも声を大にして言いえぬことを、貴人とはいえなみの人間があえて口にしているのに、アンリはいたく驚いた。

少なくとも、モンテーニュは、バルテルミーの虐殺をつぶさに見て、その頃の、「寛容」の意味するところ、「仕方なく相手を許す」との考え方をギリギリ守りながら、一歩も二歩もそこらから推し進めようとしたことが分かる。その過程を「エセー」本文と堀田善衞「ミシェル 城館の人」で辿るようにしたい。

旧ソビエトの小説家・ヤセンスキーの「無関心な人々」という小説の、題辞に、

友を恐れるな、彼は君を裏切るだけだ。敵を恐れるな。彼は君を殺すだけだ。無関心な人々を恐れよ。彼らの沈黙の同意があればこそ、この世に無数の裏切りと殺戮が存在するのだ。

というのがある。でも少し違うような気もする。昨今の政治情勢に引きづられるわけではないが、無関心な人々の語られぬ思いに、耳を傾けよ、そこにこそ、われらのかすかな希望があるのだ。モンテーニュも、痛苦な経験を経た上で、きっとそうつぶやいたに違いない。