読書ざんまいよせい(024)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(007)


編者注】対ウクライナ侵略戦争の激戦地、マリウポリは、チェーホフの生誕地、タガンロフのすぐ隣地だとわかる。一刻も早く、戦争状態が止むことを切に望む。

 吃り吃り馬鹿げたことを喋る男と、毎日食卓を共にするのは堪らない。

 まるまると肥った、いかにも美味そうな女を見て。――こりゃあ女じゃない、満月だ!

 御面相から判じると、胴着の下にどうやら鰓でもついていそうな女。

 笑劇のために。――Kapiton《カピトーン》 Ivanych《イヴアーヌイチ》 Chirij《チリイ》*.
*腫物の意。

 税額査定員と内国消費税吏が、訊かれもしないのに自分の地位を弁明して言う――「面白い仕事ですよ。やることは山ほどあるし、何しろ生きた仕事ですからね。」

 彼女は二十のころZを恋していたが、二十四のときNに嫁いだ。恋愛ではなく、見込みをつけての結婚だった。つまりNを善良で聡明で考えのしっかりした男と思ったのである。N夫婦の仲は円満で、羨望の的になる。まったく彼等の生活は坦々と順調に流れて行く。彼女は満足で、恋愛の話が出ると、夫婦生活に必要なのは恋愛でも情熱でもなく、親しみなつく心だという意見をはく。ところが、不図した拍子に心の琴線が奏ではじめて、胸のなかのあらゆる思いが、春の氷のように一時にひらいた。彼女はZのことや、彼への自分の恋を思い出した。そして、自分の生活はほろびてしまった、もう取返しはつかない、自分は不仕合せな女だと、身も世もあらず思い悶えた。それもやがて忘れた。一年の後、また同じ発作に襲われる。新年を迎えて、「新しい御幸福を」と人に言われたとき、本当に新しい幸福が欲しくなった。

 Zが医者のところへ行く。医者は診察して心臓が悪いという。Zは急に生活法を一変して、強心剤《ストロファンチン》を用い、病気の話ばかりする。で、町じゅうの人が彼の心臓の悪いことを知ってしまう。かかりつけの医者たちもやはり、心臓が悪いと言う。彼は結婚もせず、素人芝居にも出ず、酒も断ち、息をころしてそっと歩く。十一年たってモスクヴァへ出て、大学の先生に見て貰う。その先生は心臓はまったく健全だという。Zは喜ぶ。が、早寝と静かな歩調に慣れてしまった今では正常の生活に戻ることは出来ない。それに病気の話をしないと今では退屈でならない。医者たちを怨むだけで、ほかにどうしようもなかった。

 女は芸術に魅せられるのではない。芸術の取巻き連の立てる騒音に魅せられるのだ。

 劇評家Nは女優Xの情人である。彼女の祝儀興行。脚本も駄作なら演技も拙劣だが、Nはいやでも褒めなければならぬ。彼は手短かに書く、「脚本も花形女優もともに大成功。委細は明日。」最後の二語を書いて彼はほっと息をついた。翌日Xのところへ行く。女は扉をあけ、キスと抱擁を許してから、意地わるな顔をしていう、「委細は明日!」

 Zがキスロヴォックか何処かの温泉場で、二十二歳の娘と一夜の縁をむすんだ。貧しい実意のある娘なので可哀相になって、約束の金のほかに二十五ルーブルを用箪笥の上に置いて、善根を施したあとのいい気持でその家を出た。そのうちにまた行って見ると、例の二十五ルーブルで買い込んだ贅沢な灰皿と毛皮帽子が目についた。娘はというと、またしても腹をすかして、こけた頬をしている。

 Nは地所を抵当に貴族銀行から四分の利息で金を借りる。その金を、やはり地所を抵当に一割二分の利息を取って貸す。

 貴族だと? やっぱり醜悪な形体と、肉体的不浄と、痰と、歯の抜けた老年と、嫌悪すべき死と――町人女も同じことさ。

 Nは記念撮影のときは必ず一同よりも前に立ち、祝辞には一ばん上に署名し、記念式ではイの一番に演説をする。「ほう、スープですな! ほう、揚菓子ですな!」と、しょっちゅう驚いてばかりいる。

 Zは来客が多いのに閉口した。そこでフランス女を傭い入れた。月給を出して、妾という触込みで住み込ませたのである。これが婦人連に衝動を与えて――誰も来なくなった。

 Zは葬儀屋の松明《たいまつ》担ぎをしている。理想主義者である。『葬儀屋で』。

 NとZとは温順しい、心の濃やかな親友同士だったが、連れだって人中へ出ると、すぐもうお互いに毒口を利きはじめる。――きまりが悪いのである。

 愚痴。――うちの息子のステパンは身体が弱いので、わざわざクリミヤの学校へ入れてやりました。するとあの子は葡萄の蔓《つる》でぶたれて、そのためお尻のへんに葡萄虫《フィロクセラ》が附きました。今じゃお医者様も手のつけようがありませんの。

 ミーチャとカーチャはお父さんから、石切場で岩山を爆発する話を聞いた。そこで怒り虫のお祖父さんを爆発して見たくなって、お父さんの書斎から火薬を一|露封度《フント》もち出した。それを壜一ぱいに詰め込んで、導火索《ひなわ》を引いて、昼寝をしているお祖父さんの肱掛椅子の下に装置した。ところが軍楽隊が通ったので、この計画は辛くも実行を妨げられた。

 眠りは玄妙不可思議なる自然の神秘にして、人間の凡ゆる力を心身ともに一新せしむ。(僧正ポルフィーリイ・ウスペンスキイ『わが生涯の書』)

 ある奥さんが、自分は人並外れた特別な体質の持主で、したがってその病気も特別なもので、とても普通の薬では間に合わないと思っている。自分の息子も世間なみの子ではないから、特別な育て方をしてやらなければならぬと思う。世間のしきたりを認めない訳ではないが、それは一般の人が守るべきもので、彼女にだけは当て嵌らないと考えている。自分だけは例外的な条件のもとに生きているからである。息子が大きくなったので、彼女は何か特別な嫁を捜してあるく。まわりの者が迷惑する。息子は出来損いだった。

 憐れむべき多難の芸術よ!「奥さん、ほら天童《ケルビム》を担いで来ましたよ!」(教会の旗*)。
*旗には天童の像がついている。それを洒落れて言った。

 自分が幽霊だと思って気が狂った人。夜更けになると歩き廻る。

 ラヴローフ型のセンチメンタルな男が、甘い感動にひたりながら、こんなことを頼む、「ブリャンスクの叔母さんに手紙をやって下さい。とても可愛い人ですよ……」

 納屋はいやな臭いがする。十年前に草刈人夫が寝泊りして以来、この臭いがついた。

 士官が診察して貰いに来る。お金が盆の上に載っている。患者がその盆から二十五ルーブル取って、それで払いをしたのを、医者は鏡の中でちゃんと見ている。

 ロシヤは官立の国だ。

 Zは陳腐なことばかり言う。「若熊のような敏捷さで。」また、「人の痛い所を。」……

 貯金局。そこに出ている役人は非常にいい男だが、貯金局を軽蔑して無用の長物だと思っている。――そのくせやっぱり勤めている。

 急進的な婦人。夜なかに十字を切る。内々《ないない》は色んな偏見で一ぱいで、人しれず迷信家である。幸福になるには夜なかに黒猫を煮るがいいと聞く。猫を盗んで、夜なかに煮ようと試みる。

 出版者の創業二十五年祝賀会。感涙、演説――「文芸基金として金十ルーブルを義捐つかまつり、その利子を貧苦に悩む作家に授与いたそうと存じます。但し授与規定の作成のため、特別委員会を指命致したく存じます。」

 彼はルパーシカ一枚で押通して、上衣を着ている人間を軽蔑した。そんな国粋主義は、ズボンで甘酒を製るのも同じだ。

 まるで患者が温浴をしたあとの牛乳で製ったようなアイスクリーム。

 見事な建築用材の森があった。林務官が任命された。――すると二年後には森はもうない。蚕の蛾が発生して。

 X曰く、「クヴァス*をやったら腹の中がコレラみたいな騒ぎを起しちまって。」
*ライ麦製の無色飲料。

 一作ずつ切り離して見ると光っているが、全体として見ると頼りない作家がある。一作一作には何の特異さもないが、全体として見ると頼もしく光っている作家もある。

 Nが女優の家の呼鈴を押す。おろおろして、動悸が打って、とうとう怖気づいて逃げだす。女中が開けて見ると誰もいない。彼はまたやって来て呼鈴を押す――が、やっぱり上り込む決心がつかない。挙句のはてに門番が出て来て彼をどやしつけた。

 おとなしい物静かな女教師が、内証で生徒をぶつ、体刑の利き目を信じていたから。

 N曰く、「犬ばかりじゃなく、馬までが吠えました。」

 Nが嫁を貰う。母親と妹は彼の妻に無数の欠点を見出して、とんだ嫁を貰ったと嘆く。三年か五年してやっと、彼女も自分たちの同類だと納得がゆく。

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