日本人と漢詩(069)

◎江南先生と「六朝詩選俗訓」
普 無名氏・子夜歌十六首より
郞爲傍人取 郎 傍人に取られ
負儂非一事 儂《われ》に負くとこ一事に非ず
攤門不安橫 門を攤《たん》して横を安《ささ》ず
無復相關意 復《ま》た相ひ関する意無し

こちの人は よそのひとにとられた
わしを袖にさつしやること 一《イ》ちどや二どのことではなひ
門の戸をたてよせて くはんぬき《閂》をさゝぬ
もふしめくゝりするきもなひ

⚪関は、門にかけては関鎖とて門うぃしめること、人事にかけては関渉とてかゝりあふこと、又関束とて身帯などのしめくゝりすること、此《コ》詩関する意も無しと云《イツ》て、門戸をしめる心もなきと、かけかまふ意もなしと秀句せるなり。⚪又門を明離《アケハナ》しに横木《くわんぬき》をも安《さゝ》ずに置て何時皈《(帰)》られずとも郎の勝手次第にて置たがよひ。門を関《しめ》る意も無ひ、郎がことに相関《かまふ》意もなひ。郎が放埒を関束《しめくゝ》る意も、身帯家内の事に関鎖《しめくゝり》する意も無いと云。

三句、四句が若干、意味が取れない。門にカギをかける、かけないなどもうどうでもよいことなのか、カギをかけないとは、男に未練がまだ残っているのか、それとも両方の意味なのか?お判りいただければご教示願いたい。

もう一首、やや艶っぽい詩を紹介する。

擥枕北窻臥 枕を攬《とり》て北窓に臥す
郎來就儂嬉 郎来り儂《われ》に就《つ》きて嬉《き》す
小喜多唐突 小喜 多く唐突
相憐能幾時 相憐む 能《よ》く幾時《いくとき》ぞ

まくらをひきよせ なんどにねてゐれば
わしによりそいて ちわをする
ちとうれしいと思へば つかふどなことばかり
しつぽりとすることは よふどれあらふ

なんど:主に家の女性の居所。
ちわ:痴話喧嘩の「ちわ」
つかうど:不愛想。原文の「唐突」は、「つっかかる」くらいの意味。結構、多義的にも解釈できる。

「訳者」の江南先生は、本名は田中応清(1728-1780)、医学と漢学を学び、後者は荻生徂徠の流れを汲む。徂徠の主張は唐時代、それも盛唐の詩を模範とするもので、江南先生が、唐以前の南朝時代の詩、それも艶っぽい題材を選んだのはその後の「江戸情緒」の先触れとして興味深い。晩年は、京都、大阪で医術を生業として、本書を出版、岡山で客死した。

「東洋文庫」の解説で、一首が紹介されていた。
https://japanknowledge.com/articles/blogtoyo/entry.html?entryid=139

【参考文献】「六朝詩選俗訓」江南先生訓訳 都留春雄・釜谷武志校注

日本人と漢詩(068)

◎宋希璟と「老松堂日本行録」

少し、日本人と漢詩という括り方とは離れる。
「老松堂日本行録」は、1420年、室町時代に李徴朝鮮王朝使節として来日した宋希璟(송희경 1378-1446)の著作。足利義満の子、義持の時代、1429年、正式な使節団が朝鮮から派遣される以前のこと、前年には対馬(長崎県)を攻めた応永の外寇が起こっているから、政情はまだ不安定だったことだろう。その中で、往復9ヶ月をかけての、朝鮮・漢陽↔日本・京都の見聞記を序をつけての漢詩の体裁でまとめたのが本書である。その中では当時の日本での大衆の生活をなかなか鋭い観察眼で詩にまとめており、興味深い。おいおいその部分は紹介するが、まずは漢陽を出発するときの巻頭の七言絶句から。

是月十五日受命発京路上即事
特報綸音出漢陽
馬頭佳到柳初黄
此去忩(怱の異字)々人識未
好伝王語奏明光

是《こ》の月十五日命を受けて京を発する路上の即事《そくじ》
特に綸音《りんおん》を報じて漢陽を出ず
馬頭の佳到 柳初《はじ》めて黄なり
此《ここ》を去る怱々《そうそう》にして人識《し》ること未《いま》だし
好し王語を伝えて明光《めいこう》に奏せん

語釈
馬頭の佳到 馬上から見える佳い景色
柳初めて黄なり 李白「宮中行楽詩」柳の色は黄金の嫩《やわら》かに、梨の花は白雪の香《か》んばし
明光 朝鮮の宮廷を指すが、漢武亭の建てた宮殿に由来する 杜甫「壮遊」賦を奏して明光に入りぬ

とまずはこれからの旅路を見通して、その抱負を語る。

考えて見るに、日本と朝鮮半島の交流・外交関係は、直接に歴代中国王朝とのやりとりの中での間接的な折衝はあったにせよ、古代を除いてはそんなに緊密ではなかったようだ。その例外的な事象が、室町時代と江戸時代(途中、「文禄・慶長の役」という日本の侵略を挟む)に起こった。室町時代は、宋希璟の来日を先駆けとして、室町時代では、1429年以降3回、豊臣時代でも2回、江戸時代では計14回に上っている。(Wikipedia 朝鮮通信使)室町時代は、通信使への返礼として、禅僧を朝鮮に派遣したという。江戸時代は、そうした返礼はなかったところには、徳川政権のある種の「狡猾さ」があったのかもしれない。西洋世界にも明るかった新井白石ですら、朝鮮との関係を「朝衡」と「上から目線」でみていたのも象徴的である。もっとも対馬藩と縁が深かった雨森芳州(Wikipedia)は、通信使と対等な詩の応酬をしているのを見ると、関係はずいぶん成熟しているとも言える。
いずれにしても近代になってからの不幸な関係を考えれば、室町~江戸にかけての交流でくみ取れる教訓が存在していることは間違いない。

【参考文献】
・宋希璟「老松堂日本行録」 村井章介校注 岩波文庫
・三橋広夫「これならわかる 韓国・朝鮮の歴史」 大月書店
図は左「首全(李氏朝鮮首都漢陽[現在のソウル])全図 wikipedia より 右宋希璟の漢陽⇔京都での行程図

日本人と漢詩(067)

◎幸徳秋水と安重根
以前は、診療時間と重ならなかったため、「管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会」の例会に何度か顔を出していたが、今は定期的に送ってくる機関紙に目を通すだけの付き合いである。昨今のコロナ禍では、なかなか例会もままならぬとのこと、残念な事だ。
2022年3月号の機関紙に、「大逆事件と朝鮮ー幸徳秋水と安重根」との題で、神戸学生青年センター理事長飛田雄一氏の一文が掲載され、安重根に触れた秋水の四言詩が載っていた。1910年3月26日に、伊藤博文を暗殺した安重根は処刑されたが、秋水の詩は、彼の死を心から悼んのだろう。(図は、その投稿の一部)

 

舎生取義 生を舎て義を取り
殺身成仁 身を殺して仁をなす
安君一挙 安君の一挙
天地皆振 天地みな震う
秋水題

ちなみに以下はその年、1910年6月、大逆事件発覚後、獄中での漢詩である
辭世
區區成敗且休論 区区たる 成敗 且《しばら》く論ずるを休《や》めよ
千古唯應意氣存 千古 唯《ただ》応《まさ》に 意気に存すべし
如是而生如是死 是《か》くの如《ごと》くして 生き 是《か》くの如《ごと》く死す
罪人又覺布衣尊 罪人 又た覚ゆ 布衣《ふい》の尊きを
語釈は以下を参照
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/jpn211.htm
以上の経緯は、一松書院のブログ-金虎門事件(3)宋学先と安重根の絵葉書に詳しく述べられており、興味深い。

日本人と漢詩(066)

◎一海知義、拝倫《バイロン》と蘇曼殊(付き 莫差特《モーツアルト》と陸游)
蘇曼殊という日本人を母とした、日本で言えば明治期の詩人がいます。(Wikipedia の項)その詩人の詩を一海知義さんは、ある著書中で「私のモーツアルト」という項目で紹介しています。モーツアルトと聞いて浮かび上がるのは、以下の詩だそうです。

題拝倫集 拝倫集《バイロンしゅう》に題す

秋風海上已黄昏 秋風の海上 已《すで》に黄昏
獨向遺編弔拜倫 独《ひと》り遺編に向かって拝倫《ばいろん》を弔う
詞客飄篷君豫我 詞客 飄篷《ひょうほう》 君と我と
可能異域爲招魂 能《よ》く異域にて為《ため》に招魂すべきや


原田憲雄訳(「中国名詩選」より)
あきかぜの海辺は もう たそがれです
のこされた集にむかって バイロンよ あなたをとぶらおう
きみも わたしも あてどなくさまよう詩人
異国でのこの魂《たま》まつり あなたはお受けくださいますか

なかなか蘇曼殊はロマン溢れた詩人のようです。彼自身の数奇な運命とそんな心情だったからこそ、バイロンにアフィニティを感じたのかもしれません。ちなみに、一海知義さん、「中国古典詩」の中には、モーツアルトを思わせる詩はなく、また、お気に入りのモーツアルトはピアノ協奏曲ニ短調 K466だそうです。当方は、陸游の心ならずも別離させられた元妻のの女性に再会したときの詩が、ピアノ協奏曲第23番第2楽章をふと連想されました。
写真は、蘇曼殊(Wikipedia から)
【参考】一海知義著「読書人慢語」(新評論刊)より

日本人と漢詩(065)

◎空海(弘法大師)
空海 後夜聞佛法僧鳥
閑林獨坐草堂曉
三寶之聲聞一鳥
一鳥有聲人有心
聲心雲水倶了了

読み下し文、語釈は上記リンクを参照のこと。空海の漢詩では有名な作品らしいが、どうも取ってつけたような味わいで、正直なところ詩趣は薄い。それより、
靑陽一照御苑中 青陽一たび照らす御苑の中
梅蕊先衆發春風 梅蕊《ばいずい》衆に先んじて春風に発《ひら》く
春風一起馨香遠 春風一たび起こりて馨香《けいこう》遠《あまね》し
華萼相暉照天宮 華萼《かがく》相暉《あいかがや》きて天宮を照らす

春の太陽が御苑のなかを御苑の中をひとたび照らせば
梅のつぼみも何よりも先に春風とともに花ひらく
春風がひとたび吹けば
花の香りは遠くへとどき
花も萼《がく》も輝き合って、天宮を照らす

字の繰り返しが鼻に突き、詩の背景も「貴人」の感覚の域をでないが、まだ「宗教臭」は薄く、自然な感じがする。

空海は、今の世にも生き仏となり、高野山では三度の飯を給仕しているらしい。そこでの掛け声は…
ーなにか、くうかい?
ー今日は、スパゲッティでカルボナーラが食べたいなあ!
と空海は言ったか言わなかったとか。(お後がよろしいようで!)
【参考】
阿部龍樹「空海の詩」

写真は、高野山壇上伽藍。(Wikipedia より 663highland – 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8349450による)

サーバー再構築覚書(008)ーNFS(ネットファイルシステム)の構築

設定ファイルなど、クラッシュ時に必要不可欠のファイルを外付けHDにコピーし、復旧をスムーズにするため、各サーバーの日々のバックアップが必要です。そのファイル操作を簡便にするため、NFS を構築しました。
・外付けHDは、十分な容量を確保するとともに、MS-Windows や、MacOS のファイルシステムではなく、Linux の ext4 でフォーマットしておきます。

・以下、「サーバーワールド」からの図解を改変。

+----------------------+               |               +----------------------+
| [    NFS Server    ] |XXX.XXX.XXX.210|YYY.YYY.YYY.212| [    NFS Client    ] |
|   nishinari.or.jp    +---------------+---------------+   yyy.nishinari.or.jp|
|                      |                               |                      |
+----------------------+                               +----------------------+

・NFS サーバーの設定

# apt -y install nfs-kernel-server

# jed /etc/idmapd.conf
# 6行目:コメント解除して自ドメイン名に変更
Domain = nishinari.or.jp

外付けHDは、USB接続すると、Ubuntu側で、自動認識し、/media/zzzz/1….. にマウントします。

# jed /etc/exports
# 最終行にマウント設定を記述
# 例として [/media/zzzz/1..... ] を NFS 共有に設定
/media/zzzz/1..... xxx.xxx.xxx.208/28(rw,no_root_squash)


# systemctl restart nfs-server

・NFS クライエントの設定

# apt -y install nfs-common


vi /etc/idmapd.conf
# 6行目:コメント解除しドメイン名変更
Domain = nishinari.or.jp

マウントするには、

mount -t nfs nishinari.or.jp:/media/zzzz/1..... /mnt

起動時から、自動的にマウントするには

# jed /etc/fstab
# 最終行に追記:マウントするホームディレクトリをNFSサーバーのものに変更
nishinari.or.jp:/media/zzzz/1..... /mnt nfs defaults 0 0

確認するには

# df -hT
Filesystem Type Size Used Avail Use% Mounted on
tmpfs tmpfs 1.6G 1.7M 1.6G 1% /run
/dev/sda3 ext4 xxxG 20G xxxG xx% /
...
nishinari.or.jp:/media/zzzz/1..... nfs4 x.xT XXG x.xT xx% /mnt

実際には、/mnt/nfs にNFS(「共有フォルダー」が準備されています。

# ls -l /mnt/nfs/
合計 20
...
drwxr-xr-x 6 root root 4096 11月 28 14:05 takeru
...
drwxr-xr-x 3 root root 4096 12月 27 23:24 zephyr

日本人と漢詩(064)

◎蠣崎波響

蠣崎波響(1764~1826)は、蝦夷地・松前藩第12代藩主松前資廣《すけひろ》の五男、家老職のとき、松前藩転封の憂き目に会い、蝦夷地への復帰に努力した。独特のアイヌ画など絵画にも堪能し、またその頃の詩人などとも広く交友があった。(Wikipedia) 彼の漢詩より、歳暮から正月にかけての詩を数首。画像は「梅花十詠」の表紙。並大抵の労苦ではなかったはずだが、淡々とわが生を振り返る佳詩である。

戊寅歳暮 七絶
書帙堆中心事虚 書帙(しょちつ)うずたかきうち 心事 むなし
官忙老却逐居諸 官忙 老却して 居諸を逐う
今年亦是已経過 今年もまたこれ已に経過す
五十何能読五車 五十にして 何ぞよく五車を読まん

うずたかく積んだ書物のなかで心中はむなしく感じる
公務多忙でめっきり老いてしまいいたづらに月日をおいかけるだけ
今年もまたすでに過ぎてしまった
五十歳にしてどうして五台の車に積んだような書物が読むことができようか

注:戊寅 文政元年(1818年)波響55才 居諸 詩経に「日居月諸」(日よ月よ)とある

歳晩即時 七律

三百六旬如奔輪 三百六旬 奔輪の如く
閑中忙裏忽移巡 閑中忙裏 忽ちまち移り巡る
光陰難逐磨針業 光陰 逐いがたし 磨針の業
活計何愁鋤鏟貧 活計 何ぞ愁えん 鋤鏟の貧
泉脈未通前筧凍 泉脈は未だ通ぜず 前筧(ぜんけん) 凍れるに
梅唇先放半枝春 梅唇は先に放して 半枝の春
不知得得老期近 得々たる老期の近きを知らず
歳歳待花与鳥均 歳々 花を待つこと鳥と均(ひと)し

一年三百六十日は回る車輪のようで
暇でも忙しくてもあっという間に経ってしまう
あくせくとした日常の身を削るような用向きに時の流れが容赦なく過ぎてゆくが
鋤と鍬の農耕生活なら貧乏でも構わない
水の流れはまだ通じておらず庭先のかけいも凍ったままだが
梅の花がまず咲いて枝の半分だけが春になった
悠々自適の老後の生活が近いともしらず
年ごとに鳥と一緒になって花を待っている身である

除夜 二首
其一 五絶
歳酒迎賓酌 歳酒 賓を迎えて酌み
塵忙忘酔中 塵忙 酔中に忘る
五更春信動 五更 春信 動き
門外柳枝風 門外に 柳枝の風

年忘れの酒を来客と酌み交わすと
日頃の忙しいのも酔って忘れる
明け方には春の便りが届いたよう
門の外には柳の枝に吹く風の音

其二 七絶
椒酒避寒垂暁天 椒酒(しゅくしゅ) 寒を避けて 暁天になんなんとす
梅風馥郁遶窓前 梅風 馥郁(ふくいく)として 窓前をめぐる
残燈不滅猶明影 残燈はきえず 猶お明影あり
明影堂中遇一年 明影の堂中 一年にあう

寒さよけにお屠蘇を飲んで明け方になってきた
梅の香の風はふくいくとして 窓の前をめぐっている
昨年の残りの灯火は消えずになお明るく影を照らす
その光と影の部屋で新しい年に出会った

【参考】
・中村真一郎「蠣崎波響の生涯」
・高木 重俊「蛎崎波響漢詩全釈―梅痩柳眠村舎遺稿」

サーバー再構築覚書(007)ーちょっと寄り道

たまたま、余っていた、ノートパソコン(Toshiba 製 CPU i3 Memory 8G)に、lubuntu 21.10 をインストールしました。インストール自体は、特別に難しいところはなく、順調でした。それ以前の問題として、PC自体の電源コードもなく、別のノートPCの電源では、機械はなんとか立ち上がるのですが、電池への充電がうまくいかず、コード付きで使うほかないと諦めていましたが、専用の電源コード(2000円弱)をゲット、つないでみると時間はかかりましたが、なんとか充電でき、電池も2年間の眠りから覚めました 笑)以下の図は、lubuntu のインストール経過です。インストールの実際は省略しますが、VirtualBoxで再現しています。比較的軽いディストリビューションなので、これくらいのスペックでさくさく動いています。

(補足1)日本語入力について
$ sudo apt-get update
$ sudo apt-get install fcitx-mozc

で、半角/全角、カタカナ/ひらがな キーで入力可能
(補足2)Firefox、Thunderbird、LibreOffice などのメニューは日本語されないが、実用の範囲内。
(補足3)有線、無線LANともに可能なので、有線は、グローバルネットワーク(xxx.xxx.xxx.217)につなぐ。これで、複数のサーバー機のバックアップのバックアップくらいの役目は果たせそう…
・IP アドレスを、xxx.xxx.xxx.217 に固定する方法
# jed /etc/netplan/01-network-manager-all.yaml

network:
ethernets:
# ネットワークカードのDevice 名
YYYY0:
dhcp4: no
addresses: [xxx.xxx.xxx.217/28]
gateway4: xxx.xxx.xxx.209
nameservers:
addresses: [xxx.xxx.xxx.210,8.8.8.8]
dhcp6: no

設定を反映させる
# netplan apply
ネット接続を確認
....
2: YYYY0: mtu 1500 qdisc fq_codel state UP group default qlen 1000
....
inet xxx.xxx.xxx.217/28 brd xxx.xxx.xxx.223 scope global noprefixroute YYYY0
....

サーバー再構築覚書(006)ーインフラ整備(03)

◎DNS 設定
ネット環境ーインフラ整備の大きな「肝」となるのが、DNS(Domain Name Server)である。まず、ネームサーバーのプログラム(デーモン)とユーティリティをインストールする。主に外に向けたサーバーであるので、公開IP番号⇔ドメイン名の「名前解決」を図る。ドメイン名は、nishinari.or.jp とnishinari.coop の二つ、それぞれ別のコンピュータに割り付ける。また、nishinari.or.jp はメールサーバーも兼ねるので、「正引き」と「逆引き」の名前解決とする。(そうしないと、セキュリティーの面で、メールされないサーバーがある。下図参照)


# apt -y install bind9 bind9utils

ここからが設定である。

# jed /etc/bind/named.conf


include "/etc/bind/named.conf.options";
include "/etc/bind/named.conf.local";
include "/etc/bind/named.conf.default-zones";
include "/etc/bind/named.conf.external-zones";


# jed /etc/bind/named.conf.options


options {
directory "/var/cache/bind";
dnssec-validation auto;
# IPV6 を利用しない場合は [any] を [none] に変更
listen-on-v6 { none; };
};

ここでは、nishinari.or.jp と nishinari.coop の2つのドメインを定義する。前者は、「逆引き」可能とし、まず、定義ファイルのファイル名を書く。

# jed named.conf.external-zones
# 自身のネットワークとドメイン名の定義を追記
zone "nishinari.or.jp" IN {
type master;
file "/etc/bind/nishinari.or.jp.zone";
allow-update { none; };
};
zone "nishinari.coop" IN {
type master;
file "/etc/bind/nishinari.coop.zone";
allow-update { none; };
};
zone "xxxh.xxx.xxx.210.in-addr.arpa" IN {
type master;
file "/etc/bind/xxxh.xxx.xxx.210.in-addr.arpa";
allow-update { none; };
};


nishinari.or.jp ドメインには、同一PCでの、違ったIP番号と、別PC(予備サーバー)での、IP番号を定義する。
# jed nishinari.or.jp.zone
@ IN SOA komachi.nishinari.or.jp. (
2021101001
10800
3600
604800
86400 )
;
IN NS xxx.nishinari.or.jp.
IN MX 10 mail.nishinari.or.jp.
;
; the role of servers (1)
;
mail.nishinari.or.jp. IN A xxx.xxx.xxx.210
;
; the female name of servers (1)
;
komachi.nishinari.or.jp. IN A xxx.xxx.xxx.210
ns.nishinari.or.jp. IN A xxx.xxx.xxx.210
nishinari.or.jp. IN A xxx.xxx.xxx.210
www.nishinari.or.jp. IN A xxx.xxx.xxx.211
blog.nishinari.or.jp. IN A xxx.xxx.xxx.211
jirou.nishinari.or.jp. IN A xxx.xxx.xxx.212
; miscellous name of servers
*.nishinari.or.jp. IN CNAME mail.nishinari.or.jp.

xxx.xxx.xxx.210~213 は、逆引きの定義も行う。

# jed xxxh.xxx.xxx.210.in-addr.arpa
@ IN SOA komachi.nishinari.or.jp. (
2021101004
10800
3600
604800
86400 )
;
IN NS komachi.nishinari.or.jp.
IN MX 10 mail.nishinari.or.jp.
;
;
;
210 IN PTR komachi.nishinari.or.jp.
211 IN PTR www.nishinari.or.jp.
212 IN PTR jirou.nishinari.or.jp.
213 IN PTR takeru.nishinari.coop.


# jed nishinari.coop.zone
@ IN SOA xxx.nishinari.coop. (
2021101001 ; Serial
10800 ; Refresh
3600 ; Retry
604800 ; Expire
86400 ) ; Minimum
;
IN NS xxx.nishinari.or.jp.
;
www.nishinari.coop. IN A xxx.xxx.xxx.213
nishinari.coop. IN A xxx.xxx.101.213
matsubokkuri.nishinari.coop. IN CNAME nishinari.coop.

クライエントとして、Macbookからの名前解決(dig)は以下の通り。

oosato-no-MacBook-Air:~ mitsu$ dig mail.nishinari.or.jp


; <<>> DiG 9.10.6 <<>> mail.nishinari.or.jp
;; global options: +cmd
;; Got answer:
;; ->>HEADER<<- opcode: QUERY, status: NOERROR, id: 63333
;; flags: qr rd ra; QUERY: 1, ANSWER: 1, AUTHORITY: 0, ADDITIONAL: 1

;; OPT PSEUDOSECTION:
; EDNS: version: 0, flags:; udp: 512
;; QUESTION SECTION:
;mail.nishinari.or.jp. IN A

;; ANSWER SECTION:
mail.nishinari.or.jp. 21600 IN A xxx.xxx.xxx.210

;; Query time: 17 msec
;; SERVER: 8.8.8.8#53(8.8.8.8)
;; WHEN: Wed Dec 08 08:33:46 JST 2021
;; MSG SIZE rcvd: 65

日本人と漢詩(063)

◎西村真琴、豊中市と魯迅
魯迅のこの詩への題記に
「西村博士、上海戦後に喪家の鳩を得、持ち帰りて之を養う。初めは亦相安んずるも、終に化し去る。塔を建てて以て蔵《おさ》め、且つ題詠を徴《もと》む。率《にわか》に一律を成し、聊《いささ》か遐情《かじょう》(はるかな心)に答うと爾《しか》云《い》う。一九三三年六月二十一日、魯迅」とある。
題三義塔  三義塔に題す
奔霆飛熛殲人子
敗井頽垣剩餓鳩
偶値大心離火宅
終遺高塔念瀛洲
精禽夢覺仍啣石
闘士誠堅共抗流
度盡劫波兄弟在
相逢一笑泯恩仇
読み下し文は、写真右参照のこと
西村真琴は、戦後すぐに豊中市会議員(議長)を勤めた。その後公民館館長を歴任、戦時中は、上海事変のさなか、中国滞在中に、傷ついた鳩を日本に持ち帰ったが、1933年3月、その鳩は死に、豊中市穂積の自宅に埋葬、三義塔と名付け、題詠を依頼し、魯迅が詠んだ七律。
奔霆《ほんてい》は飛行機の爆撃、飛熛《ひひょう》は砲弾が飛び交う様、敗井・頽垣《はいせい・たいえん》くずれ落ちた家の垣。大心は大悲の心、火宅は燃え盛る家で、高塔とともに仏教用語。大心は大悲心、火宅は日に包まれた家。瀛洲は日本の「美称」。
(以下略)
現在ある豊中市の碑には、こうした悲惨さについては触れられていない。以下のブログにあるように、歴史を捨象したところに、「日中友好」など生まれようがないと思うのは私だけだろうか?
ブログ「Arisanのノートー大事なことが抜けている」

ちなみに、西村真琴氏(Wikipedia)は、水戸黄門役で名を馳せた俳優・西村晃氏の父君。

日本軍の飛行機の爆弾や銃火が中國人民を殺傷し井戸や垣をやぶり崩して町を荒廃させ、一羽の餓えた鳩をのこした。
たまたまその鳩が西村真琴博士の大慈悲心にあって火に包まれた家を離れたがとうとう死んで三義塚をのこし日本を(一つの気高い心の故に)記念している。
死んだ鳩は眠りから覚めて、かの古伝説に言う精衛の如く、日中間をへだてる東海を小石をくわえて埋めんとし、私と貴方(日中両国人民)は誠心かたく時流に抗して闘う。
今は日中両国のへだたりははるかに遠いが長い年月を苦難して渡り尽くせば、日中両國の大衆はもとより兄弟である。その時逢ってニッコリすれば深いうらみも滅び去るだろう。

一九三三、六、二十一魯迅