後退りの記(004)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎アレクサンドル・デュマ「王妃マルゴ」
◎萩尾望都「王妃マルゴ」

アンリ・ドュ・ナヴァール(後のアンリ四世)は、1572年、人生の大きな転換点を迎えることは、前回に述べた。時の王母カトリーヌ・メレディスの娘、マルゴリットと結婚したことは、その一つであった。王族の婚姻はご多分に漏れず、政略や思惑の上にあっていることは例外ではあり得ない。実の母を毒殺したとのうわさもあるカトリーヌの縁者など常識では考えられない。しかし、そうしたことをのり越えて、アンリにとっては案外慧眼であったのかもしれない。のちのち、マルグリット王妃は、彼にとっては、結果的にはキーパーソンになる要素があるからだ。
アンリにとって、マルゴは幼いころに知り合ったかもしれないが、決して愛愛の相手ではないし、マルゴにしてもカトリック派の首領、ギーズ公との関係が深かったかもしれないが、同様である。その後のアンリも愛妾には事欠かなかったようだ。
第一巻だけだが、萩尾望都の少女漫画を久しぶりに読んだ(ないし眺めた)が、少女時代のマルゴの描写が興味を引いた。周囲に信仰が少しだけ異なるだけで、簡単に人を殺める風潮に、きっぱりと「私は人を殺さない」の決意するところなど、彼女のその後の人生を形作る元になったのだろう。母のカトリーヌとは違う気質のようだ。
デュマも二人の結婚直前から小説を起こしている。その二人の会話
「承知しましたわ」彼女はいった。
「政治的同盟、誠実で忠実な同盟を?」アンリはたずねた。
「誠実で忠実な同盟を」マルゴは答えた。

「ありがとう、マルグリット。…あなたの愛を手に入れるのは無理にしても、友情は欠けていない。あなたを当てにしています。あなたもわたしを当てにしください。」

ナヴァール王はかすかに笑いながらつけ加えた。「わたしは、恋愛の貞節よりも、政治の忠実さを必要としているのです」
本邦の同時代の夫婦で言えば、織田信長と濃姫に比することができようか。

日本人と漢詩(075)

◎一海知義と中国留学生

本箱が、本の重みで一部棚が落ちてしまった。仕方なく新調することにして、並べていた書物を取り出したが、パラパラめくり、中には熱中し、読み返しの連続で、なかなか作業が進行しない。漢詩を中心とした時折の随想を集めた著書で、7年前に物故の、一海知義先生の本があったので、結局読みふけってしまった一本の一つである。そのなかに、「『文革』を批判した漢詩」という一節があった。
思えば、1989年の第二次天安門事件から、やがて34年が経とうとしている。その弾圧の首謀者の一人、李鵬(Wikipedia)も亡くなってしまった。天安門事件の2年後、1991年3月20日、「人民日報」海外版にアメリカ留学生の、李鵬を諷する漢詩が投稿された。さすがに「人民日報」もその寓意は理解できなかったようだ。
ちょうど今の時期、中国では全人代が開催されている。前回だったかの会議の直前には、当方は中国滞在中であったが、会議の始まる前に、なかば強制的に中国から追い払われ、予定を切り上げ、日本に帰国した。今回もそうした強権発動があったことだろう。そして天安門事件などなかったように、習体制の賛美に終始することだろう。

東風拂面催桃李 東風(はるかぜ)面《おもて》を払いて桃李を催《うながせ》ば
鷂鷹舒翅展程 鷂鷹(とんび)《ようとう》翅《はね》を舒《のべ》て鵬程を展ず(鵬とおなじように遠くまで飛ぼうとする)
玉盤照海熱涙 玉盤(白玉の大皿のような月)を照せば熱涙下《くだ》り
遊子登思故城 遊子(たびびとである私は)台に登りて故城(故郷の町)を思う
休負生報國志 負《そむ》く休《な》かれ平生国に報いんとする志に
育我勝萬金 人民の我を育《はぐ》くむこと万金に勝《まさ》れり
起急追振華夏 憤起急追して華夏(祖国中国)を振《ふる》わさんも
且待神洲遍地春 且《しばら》く待たん神洲(中国)の地に遍《あまね》きの春を

第一句の最後の文字から斜め上にたどり、第八句をそのまま読むと、
李鵬、台より下《くだ》れば、民の憤《いきどお》りを平らげん、
且《しばら》く待たん神洲の地に遍《あまね》きの春を。

なお、Wikipedia 掲載の詩とは若干の異同がある。

汚職の噂も絶えない李鵬が内閣、大臣をやめれば、民衆の怒りもしずまり、春の訪れも期待できるだろう。それまでは、忍耐がつづくかもしれないが…

天安門事件で、旗を振りながら素手で戦車に立ち向かった一人の若者がいた。彼を想いながら、上記の漢詩に倣って、短歌を一つ。

いはざり
はたにおり
かぜには
とわ()つたゑかし
づつにむかひて

「『文革』は本質的にはまだ決着がついていません。しかしほんとうにそこから脱却する日は必ず来るでしょう。中国人民の批判精神と楽天性、私はそこに信頼をおき、期待しています。」(一海知義)
写真は、事件以前の天安門(1988年 Wikipediaより)
【参考】
一海知義「詩魔ー二十世紀の人間と漢詩」 藤原書店
 

後退りの記(003)

◎堀田善衛「ラ・ロシュフコー公爵傳説」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

「われわれの美徳は,ほとんどの場合,偽装した悪徳に過ぎない。」人口に膾炙したこの句は、高校時代山仲間だったN君の口癖だった。ある意味、温厚だったモンテーニュの口調とはひと味ちがう感触に驚いたものだった。それがラ・ロシュフコー「箴言と考察」という本を知るきっかけだった。

1572年は、フランスにとって多事多難な年であった。アンリ四世(当時皇太子)の母が、ナバラ王国女王ジャンヌ・ダルブレ(Wikipedia)が、息子のマルグリット(マルゴ)王妃との結婚式に列席するため、パリに赴く途中で急死した。ライバル・カトリーヌ・ド・メディシス(Wikipedia)が、毒殺したとの噂が絶えなかった。母の遺言を結婚式に向かうアンリに託したのが、フランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)であると、ハインリッヒ・マンは書く。三世は、「箴言と考察」の著者の曽祖父にあたる。その後、サン・バルテルミの虐殺(Wikipedia)という大悲劇が起こった。その結果、その頃は、プロテスタントだったフランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)は、パリの路上で殺されてしまったのである。その後は、当代の六世に到るまで、ラ・ロシュフコー家にとって苦難の日々だったのである。フランス絶対王政の確立の契機となったフロンドの乱(Wikipedia)では、当代は瀕死の重傷を負うが、それは後の話となるので、機会があれば言及するだろう。

日本人と漢詩(074)

◎成島柳北


仏蘭西《フランス》がらみの話題である。

成島柳北(1837-1884)は、幕末から明治にかけての人、当初は幕臣にて、荻生徂徠からの系譜で儒官であった。遊蕩にも精をだしたらしく、「柳橋新誌」なる戯作も著した。森繁久彌も時代を下っての縁者らしい。(Wikipedia)その柳北は、維新後、「東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)、共に欧米を巡る。」その時にパリとベルサイユを訪れたときの詩。

巴里雜詠 巴里雑詠(四首のうち二首)
一.
十載夢飛巴里城 十載《じつさい》 夢は飛ぶ 巴里城《パリじよう》
城中今日試閑行 城中 今日《こんにち》 閑行《かんこう》を試《こころ》む
畫樓涵影淪渏水 画楼《がろう》影を涵《ひた》す 淪渏《りんい》の水
士女如花簇晚晴 士女《しじよ》 花の如く晩晴に簇《むら》がる
閑行:のんびり歩くこと。
淪渏:さざ波。
二.
五洲富在一城中 五洲《ごしゆう》の富 一城の中《うち》に在《あ》り
石叟陶公比屋同 石叟《せきそう》 陶公《とうこう》 比屋《ひおく》同じ
南海珊瑚北山玉 南海の珊瑚《さんご》 北山の玉《たま》
廛廛排列衒奇工 廛廛《みせみせ》 排列《はいれつ》して 奇工《きこう》を衒《てら》う
五洲:全世界。
石叟:晋の石崇。富裕の人。
陶公:中国・春秋時代、越王勾践に仕えた范蠡《はんれい》。のちに斉に移り、巨万の富を築いた。
比屋:どの家も。

烏児塞宮 烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》

想曾鳳輦幾回過 想《おも》う 曾《かつ》て鳳輦《ほうれん》幾回《いくかい》か過《よぎ》り
来与淑姫長晤歌 来《きたり》て淑姫《しゅくき》と長く晤歌《ごか》せしを
錦帳依然人未見 錦帳《きんちよう》依然たるも 人見《み》えず
玻璃窻外夕陽多 玻璃《はり》窓外《そうがい》 夕陽《せきよう》多し

烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》:バロア朝時代のルーブル宮からブルボン朝のルイ十四世(アンリ四世の孫)から王宮はパリ郊外のベルサイユに移された。
鳳輦:フランス歴代の王や皇帝の馬車。
淑姫:貞淑で美しい婦人
晤歌:一緒に歌う。詩経陳風「東門之池」「彼の美なる淑姫、与《とも》に晤歌すべし」
依然:昔のまま。

成島柳北は、他の多くの官僚・知識人と同様に、福沢諭吉のいうごとく、江戸時代から明治にかけて「二世を生きた」ことは間違いない。でも、成島は、福沢のように、近代的な自己を持つことはついにできなかった。(もちろん、後年の福沢が唱えた「侵略主義」的主張を是とはしないが…)成島がパリを訪れた、1872年といえば、前年、パリコミューンが樹立されたが、約半年で崩壊させられ、徹底的な弾圧の嵐が吹き荒れていた直後であるが、彼の詩情では一顧だにされない。かろうじて、ヴェルサイユ宮から見た夕陽が、普仏戦争、パリコミューンを経た大仏帝国の落日を象徴するとも言えるだろう。

写真は、Wikipedia から
【参考文献】江戸詩人選集第十巻 成島柳北 大沼沈山 岩波書店

後退りの記(002)

◎シラー「悲劇 マリア・ストゥアルト」 岩波文庫
◎ツヴァイク「メリー・スチュアート」 みすず書房

前回、ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」がらみで言えば、王母カトリーヌ・ド・メディシスの長男にして、夭折したフランソワ2世(François II de France, 1544年1月19日 – 1560年12月5日)と結婚したのが、後のスコットランド女王・メアリー・シュチュアート。彼女のその後の人生は、様々な小説、伝記、脚本、映画などでの題材を提供した。最期の数日間を緊迫するセリフで描いたのが、シラーの戯曲。そのクライマックスとも言える、政敵エリザベス女王との直接対決のシーン。

マリア:…---姉上!この全島国に代えても、いや、大洋に囲まれたすべての国を呉れるといわれても、私は今のこのあなたのような、そんな態度であなたの前に立ちたくはありません!
エリーザベット:とうとうあなたもご自分の敗北を承認なさったのね。策略もこれで尽きたのですか。もはや刺客も、来ようとしてはいませんか。この上、冒険者があなたのために悲しい騎士の努めを敢えてつくすことはないのですか。ーーーそうとも、もうお終いですよ、マリア様。

女王の寵臣で、メアリーとまんざらの中でもなかったレスター卿の思慕の思いが復活し、助命活動に傾きかけたところの、直前の裏切りなど必ずしも史実には忠実ではないだろう。ただ、レスター卿のマリアの最期を見届ける段での、彼の嘆きは、充分にドラマティックである。

レスター:(ただ一人居残って)俺はまだ生きている!この上にも生きておらねばならぬのだ!…俺は何たる損失をしたのだ。何という立派な真珠を投げ棄てたのだ。何という天福を取逃がしたことだ。ーーーあの方は死んでゆく、浄められた精霊として。ところが俺には呪われた者の絶望が残っているのみだ。…

あまり知られていないが、ロベルト・シューマンに、晩年に「女王メアリー・スチュアートの詩」として歌曲集が残っている。その中から、Youtube 収録の「祈り」。また、「あそびの音楽館」には、メアリー・スチュアート女王の詩 作品135 (Gedichte der Königin Maria Stuart, Op.135)全曲のMidi版と訳詞が載っている。彼女自身の詩に曲をつけたものだが、短調主体で物悲しく、それが彼女の人生だったのだろう。

岩波文庫のカバーにある、メリー・スチュアートは、16歳のころ、フランス王妃時代の肖像画である。(ツヴァイク「メリー・スチュアート」による、ツヴァイク曰く「それらを見るひとは、失望もしないが、あの讃歌的感激のとりこになりきることもない。そこに見られるのは、光り輝く美しさではなく、むしろ、きりっとした美しさである。」

日本人と漢詩(073)

◎宋希璟と「老松堂日本行録」(続き)

 

朝鮮半島から、対馬、九州、瀬戸内海の港に停泊しながら、現在の西宮に上陸、のちは「西国街道」をたどって京都に向かった。西国街道は、江戸時代に京から瀬戸内海への通路として整備され、「忠臣蔵=赤穂浪士」の登場人物、萱野三平の屋敷跡もこの街道沿いにあった。(Wikipedia https://w.wiki/6N9Q)室町時代にも、京へのショートカットとして利用されたようだ。
さて、使節の宋希璟は、そんなに社会的関心が強いほうではない。それでも西宮に上陸後、すぐに、食糧難民に出くわした。漢詩自体が伝統的に社会的関心が濃厚だった伝統ゆえか、彼の役人としての「経世救民」の心情のためか、次の一首を詠んでいる。
二十日發兵庫向王所路中雜詠二首 (四月)二十日兵庫を発して王所に向う路中の雑詠 二首
過利時老美夜店 利時老美夜店を過ぐ
處〃神堂處〃僧 処〃の神堂処〃の僧
人多遊手少畦丁 人に遊手多畦丁少なし
雖云耕鏧無餘事 耕鏧に余事なし云うと雖も
每聽飢民乞食聲 毎《つね》に聴く飢民の食を乞うる声
日本人多又多飢人又多殘疾處〃道邊合坐逢行人卽乞錢 日本は人多し。また飢人多く、また殘疾多し。処々の道辺に合坐し、行人に逢えば即ち錢を乞う。

語注】利時老美夜:にしのみや、摂津国西宮
畦丁:農民

宿盛加臥店用前韻 盛加臥店に宿す 前韻を用う
良人男女半爲僧 良人の男女は半ばは僧と為る
誰是公家役使丁 誰か是れ公家《こうけ》役使の丁ならん
未見賓來支對者 未だ賓《ひん》来りて支対する者を見ず
唯聞處〃誦經聲 唯聞くは処々に経を誦《よ》む声

語注】盛加臥:摂津国瀬川、西国街道の宿駅、現在の箕面市瀬川、瀬川神社のある所だろう
公家:朝廷。国家

貧窮の結果、仏門に入るものが多く、出迎えもなく、僧侶の読経の声がむなしく響く、といった所か?
小学校低学年の頃は、箕面市の隣、池田市石橋井口堂に住み、北豊島小学校にかよっており、瀬川神社のあたりまでが遊びのテリトリーだった記憶がある。

後退りの記(001)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

(右図は、本の表紙、左図は、Google Map でのアンリ四世像案内図)
「『人類は後退《あとじさ》りして未来へ入ってゆく』というヴァレリーの言い古された言葉が、私の脳裡に深く刻まれている。我々には未来は見えないが、過去ならば、見る眼がある限り見える筈である。後退りしながら未来へ進む我々の足を導き、愚劣なことを繰返さないようにしてくれるのも過去への反省である。…
自分自身に巣喰う痴愚と狂気を知り、それの蠢動を警戒する人々ならば、この大作が遺された幾多の教訓と慰安とを秘めていることを悟るだろう。」(渡辺一夫 本書推薦の辞より)

そこで、ヴァレリー先生や渡辺一夫先生の言葉に見習って今まで読みさしの本(それも今では結構古びた蔵書)の中から、比較的大部な本からの覚書をつくることにした。

もう、十数年前だったろうか、そういえば、セーヌ川に架かるボンヌフ橋のたもとに騎士の銅像があったのを覚えている。その時は、人物の名前や由来などは知らなかったが、この本に接して、その正体が判明した。時代は、日本で言えば、織豊時代から江戸時代にようやくかかる頃、フランスでのブルボン王朝の始祖、アンリ四世を主人公とし、彼にかかわる様々な人物の人間模様である。作者のハインリッヒ・マン(1871-1950)は、トーマス・マンの兄、1933年、ナチスの迫害により亡命、本書は1935年に発表されている。

アンリ四世は、スペインとの国境、ピレネー山脈に麓にあったナバール王国の王子、女王であり、熱烈なプロテスタントであった母ジャンヌ、フランス国王母で、メディチ家出身で策謀好きのカテリーナとの丁々発止の関わりから物語は展開する。

日本人と漢詩(072)

◎柏木如亭
少し如亭の話題を続ける。

還京城寓所 京城の寓所《ぐうしょ》に還《かえ》る
京寓還來便當家 京寓《きやうぐう》還《かへ》り来《きた》つて便《すなは》ち家に当つ
嵐山鴨水舊生涯 嵐山鴨水の旧生涯《きゅうしょうがい》
老夫不是求官者 老夫《ろうふ》 是《こ》れ官を求《もとむ》る者にあらず
祇愛平安城外花 祇《た》だ愛す 平安城外《へいあんじょうがい》の花

【語釈】
當家:家の用事
舊生涯:宋・文天祥『桃源県』「山水は旧生涯」
老夫:宋・劉過『東林寺に題す』「老夫は官職を愛せざるが為に、狂名を買い得て世間に満つ」
求官:宋・蘇軾『千乗・千能両姪の郷に還るを送る」「生を治《おさ》めて富を求めず、書を読みて官を求めず」
祇:『助語審象』「祇ハ、ヤハリ其所ヲハナレズシテ始終ソレニナリユク意ナリ」以上の意なら助辞としての「祇」の使い方は抜群である。

如亭は、1807年(文化4年)と、1818年(文化15年)に京の都で居住していたらしい。そして、西日本各地を巡歴、「持病の水腫が悪化し、文政2年(1819年)7月10日に京都で没した。」(Wikipedia 「柏木如亭」の項)以上の七言絶句は、無官で花を愛する身の京暮らしの趣きを語る。また「詩本草」では、その京都の食べ物についても綴る。

京名品
平安萬世帝都。城中熱閙、市井誼譁、無物不有、無事不有、不必待言。其名園花卉、城外風景、餘之七載留滯尙未能言詳。獨于飮膳粗識一二。此可以言已。夫祇園田樂豆腐、加茂閉甕菜、北山松蕈、東寺芋魁、錦巷肉糕、桂川香魚、兒童亦知其佳。(以下略)

京の名品
平安は万世の帝都なり。城中の熱閙《ねつだう》、市井の誼譁《けんくわ》、物として有らざる無く、事として有らざる無きは、必ずしも言を待たず。その名園の花卉《くわき》、城外の風景、余の七載の留滞すら尚ほ未だ詳を言ふこと能はず。独り飲膳において粗《ほ》ぼ一二を識る。此以て言ふ可きのみ。それ祇園の田楽豆腐・加茂の閉甕《ミズキ》菜・北山の松蕈《まつたけ》・東寺の芋魁《いもがしら》・錦巷の肉糕《カマボコ》・桂川香魚《アユ》は児童も亦たその佳なるを知る。

彼が列挙した京の食べ物のうち、当方が口にしたのはそのすべてではない。松茸はもちろん、香魚、田楽豆腐なども記憶にない。法事の帰りにお決まりの「芋棒」の里いもとタラの煮つけ、正月に食べる錦市場の「カマボコ」くらいか?その中では「ミズキ=すぐき」は。今でもなじみであり、京独特の漬物らしい。すこし発酵した後の味わいは独特のものがあるが、子ども時代は全く受け付けなかった。大阪出身の父にも口に合わず、大根や茄子の「あっさり漬け」ないし「ぬか漬け」(京都では「どぼ漬け」と称していた。)のほうが好みであったようだ。それに「つけもんなんか、子どもの食べるもんやない」と口癖だった。せいぜい、ほのかに甘い「千枚漬け」の1枚か2枚、ご飯の後でつまんだものだった。

【参考文献】
・柏木如亭詩集 2 東洋文庫
・「詩本草」 岩波文庫

日本人と漢詩(071)

◎柏木如亭と洪駒父《こうくふ》
前回の続きで、不滅の中国四大美人、西施のミルクに例えられた、ふぐの話題。

「聯珠詩格」は、元の時代に出来上がった唐宋詩のアンソロジーだが、本場中国では逸亡したが、日本では、盛唐詩偏重の詩風が収まってきた江戸時代後期に本格的に復刻された。前回、登場した柏木如亭はその中から抜粋して、「訳注聯珠詩格」を享和元年(1801年)に出版した。宋・洪駒父の詩はその中には収められていないが、原著には目を通していたことだろう。

西施乳
蔞蒿短短荻芽肥 蔞蒿《ろうこう》短短《たんたん》として荻芽《てきが》肥《こ》ゆ
正是河豚欲上時  正に是れ河豚《かとん》上《のぼ》らんと欲《ほっ》する時
甘美遠勝西子乳 甘美 遠く西子が乳に勝《まさ》れり
吳王當日未曾知 呉王 当日 未だ曽《かつ》て知らず

蔞蒿:よもぎ、はこべ
荻芽:萩の若芽、竹の子に似ている
西子:西施のこと、平仄の関係で子とした
河豚の種類が違う中国では、食べ頃の旬が春とされたようだ。ヨモギが茂り、萩の芽がつく春に河をフグがさかのぼる春、西施のミルクに勝るとも劣らない。呉王の夫差は毒があるのも知らないで、西施に耽溺したので、自身の滅亡を知る由もなかった。

河豚 柏木如亭 「詩本草」より(続き)
關東賞以冬月。餘所以有雪園蘿菔自甘美、不待春洲生萩芽之句。(中略)至周紫芝平生所缺惟一死、可更杯中論鏌鎁、可謂先得吾心者矣。
関東、賞するに冬月を以てす。余が「雪園の蘿菔《らふく》自《おの》づから甘美。春洲《しゅんしゅう》萩芽《てきが》を生ずるを待たず」の句有る所以《ゆえん》なり。(中略)周紫芝《しゅうしし》が「平生《へいぜい》欠く所惟《た》だ一死。更に杯中鏌鎁《ばくや》を論ず可けんや」といふに至つては、先づ吾が心を得る者と謂ひつ可し。

蘿菔:大根のこと。当時の河フグの調理法として、みそ味で大根と一緒に煮た鍋物だっとらしい。
周紫芝:宋の詩人。如亭は彼を含む宋時代の絶句のアンソロジー「宋詩清絶」を出版した。
鏌鎁:春秋時代、呉の刀工の名で彼が鋳造した刀剣。

引用された如亭の七言絶句

冬日食河豚。河豚至冬日雪飛始肥江戶人時以爲珍雜蘿菔而爲羹味最美矣
冬日河豚食ふ。河豚は冬日、雪の飛ぶに至つて始めて肥ゆ。江戸の人、時を以て珍と為し、蘿菔を雑へて、羹《あつもの》と為《な》す。味、最も美なり
天下無雙西子乳 天下無双《むそう》西子乳《せいしにゅう》
百錢買得入貧家 百銭 買ひ得て 貧家《ひんか》に入る
雪園蘿菔自甘美 雪園の蘿菔《らふく》自《おの》づから甘美
不待春洲生萩芽 春洲《しゅんしゅう》萩芽《てきが》を生ずるを待たず
梅堯臣詩春洲生萩芽春岸飛楊花河豚當是時貴不數魚蝦 梅堯臣《ばいぎょうしん》の詩に「春洲萩芽を生じ、春岸楊花を飛ばす。河豚是の時に当たり、貴《とうと》きこと魚蝦《ぎょか》を数《かぞ》へず
魚蝦:サカナとエビ
貧乏人の家でも、フグは天下に並びないものなので、ここぞと奮発して、手に入れる。甘みのある大根と一緒に煮こむと絶品で、梅堯臣の言うように、春になり、萩が芽吹くのを待っていられない。

図は、Wikipedia より。この絵によると西施は細身で、楊貴妃に比べるとやや淡泊な印象。だとすると河豚のあっさりした味わいを表しているかもしれない。しかし、その身には毒が内在しているので、くわばらくわばら…
【参考文献】
・揖斐高「江戸漢詩の情景」(岩波新書)
・柏木如亭「詩本草」(岩波文庫)
・同「訳注聯珠詩格」(岩波文庫)
・同「柏木如亭詩集 1」(平凡社 東洋文庫)

日本人と漢詩(070)

◎柳川星巖と柏木如亭

もう一回、やや艶っぽい話題をもう一つ。

先日、瀬戸内海縁の親戚から、大ぶりの牡蠣を贈られてきた。そのまま、電子レンジで加温し、食するにとても美味だった。江戸時代にも、牡蠣は美味しい食材として重宝され、例えとして唐・楊貴妃の乳汁と例えられたようだ。(太真は、楊貴妃が道教寺院に在籍していた時の呼称)ちなみに河豚の肉は、同じ中国美人の西施の乳汁とういう意味で、「西施乳」という艶称がついている。

柳川星巖「太真乳」 七言古詩(一部)
君不見開元天子全盛日
日日後宮事嬉春
太真玉乳飽禄児
餘汁入海化不泯

君見ずや 開元の天子 全盛の日
日日 後宮 嬉春《きしゅん》を事とす
太真《たいしん》の玉乳《ぎょくにゅう》 禄児《ろくじ》を飽《あ》かしむ
余汁《よじゅう》 海に入りて化して泯《ほろ》びず

開元:唐の全盛期であった、玄宗在位中の元号。
禄児:その玄宗に反旗を翻した安禄山。楊貴妃のお気に入りだった。

河豚 柏木如亭 「詩本草」より
河豚美而殺人。一名西施乳。又猶之江搖柱名西施舌蠣房名太眞乳。皆佳艷之稱也。
河豚《かとん》、美にして人を殺す。一に西施乳《せいしにゆう》と名づく。又た、猶《な》ほこれ江揺柱《かうえうちゆう》の西施舌《せいしぜつ》と名づけ、蠣房《れいぼう》の太真乳《たいしんにゆう》と名づくるがごとし。皆な佳艶の称なり。
以下は、「フグ=西施乳」として別項にて紹介予定。

こうした伝説によると、今も楊貴妃の乳は今も海に流れ込んでいるらしい。そうすると牡蠣に舌鼓を打ったのは、その余沢にあずかったとも言えるだろう。

【参考文献】
・揖斐高「江戸漢詩の情景」(岩波新書)
・柏木如亭「詩本草」(岩波文庫)
図は、上村松園「楊貴妃」 Wikipedia より