読書ざんまいよせい(045)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」

第二章 私達の鄰人と私の最初の學校(続き)

 獨逸の移往者達は離れたー集團をなしてゐた。彼等の中には實際に富裕な人もゐた。彼等は他の者達よりはずつと强固な基礎をもつてゐた。彼等の家族關係は緊密であつて、彼等の息子は稀に都會へ敎育に出されてゐたが、娘達は慣習的に野良で働いてゐた。彼等の家は煉瓦で建てられ、綠や赤に塗つた鐵の屋根をもつてゐた。馬は賤けがよく、彼等の馬具は丈夫であつた。彼等のばねのある二輪馬車は『ドイツ馬車』と呼ばれた。獨逸人の中で私達の所に最も近い鄰人はイヷン・イヷノヴヰツチ・ドルンで、素足に粗末な靴をはき、日に燒けて毛の伸びた顏と灰色の髮をもつた、肥つた、活氣のある男であつた。彼はいつも、蹄が大地に雷のやうに響く黑い種馬に引かせた、立派なピカ/\塗立てた馬車を乘廻してゐた。そこにはかうしたドルン型が何人もゐたのだ。
 彼等の上に、羊王であり、草土帶の『カン二ツトヴエルスタン』でおるフアルツ・フアインの像が聲へ立つてゐた。
 この地方を馬車で走つてゐると、人は羊の大群の中を通り拔けるであらう。『この羊は誰のですか』と誰かゞ訊ねる。『フアルツ・フアインのだ。』君は途中で乾草を析んだ馬車に出會ふ。あの乾草は誰のだらう。『フアルツ・フアインのだ。』毛皮のピッミツトが柢で飛ばしてゐる。あれはフアルツ・フアインの支配人だ。駱駝の一群が突然咆え出して諸君を驚かす。駱駝をもつてゐるのはフアルツ・フアインだけだ。ファルツ・ファインはアメリカから種馬を、スヰスから牡牛を輸入した。
 當時フアインでなしに單にフアルツと呼ばれたこの一族の創始者は、オルデンブルグ侯爵の領地の羊飼であつた。オルデンブルグは緬羊飼育のために莫大な金を政府から下げ渡された。この侯爵はおよそ百萬からの借財を造つたが、何んにもしなかつた。フアルツはその所冇物を買つて、侯爵としてではなく、羊飼として管理した。彼の羊群は彼の牧場や彼の仕事と同樣に增大した。彼の娘はフアインと呼ばれた羊の飼育者と結婚した。かくて二人の牧場の王家は今日の如く合體した。フアルツ・フアインの名は、動いてゐるー萬の羊の足音の如く、無數の羊の聲の鳴聲の如く、長い牧羊杖を肩にした草原の羊飼者の呼笛の如く、澤山の牧羊犬の叫聲の如く響き渡つた。この草原そのものが、炎熱の夏にも、酷寒の冬にも、この名前を呼吸しのだ。
 私の生涯の最初の五ケ年は旣に過去つた。私は經驗を加へて行つた。人生は發明に滿溢れてゐる。そして殆ど分らない程の小さな一角においても、恰かも世界的舞臺において見るやうに勤勉に、その發明の組合せをつくり出してゐる。出來事は私の前に次から次へと輻輳する。
 或勞働少女が野良で蛇に咬まれて伴れて來られた。その少女は悲しさうに泣いてゐる。彼等は彼女の腫れた足を膝の上でしつかりと繃帶し、それを酸敗したミルクの桶の中に浸した。少女は病院へ入れられるためにボブリネツツへつれ去られた。彼女はそこから歸つて再び働く。彼女の咬まれた足は汚くよごれてずた/\になつた長靴下を穿いてゐる。だから勞働者達は、彼女を『貴婦人』としか呼ばないであらう。
 野性の豚が、自分に食物をくれてゐた男の額や、肩や、腕を咬んだ。それは豚の全群を改良するためにもつて來られた、稀らしい、巨大な野性の豚であつた。嚙まれた男は死ぬる程驚かされて、子供のやうに唤めいてゐた。彼もまた病院へ伴れて行かれた。
 二人の若い勞働者が、殼物の束を積んだ馬車の道に立つて、互に投熊手を投合つてゐた。私はその有樣に見とれてゐた。彼等の中の一人が投熊手をもつて呻きながら側らに倒れた。
 これらの凡ては或るひと夏の閒に起つたことである。そして夏と云へば、何にも事件が起らないで終つたことはない。
 或秋の夜のこと、水車場の木造の上家の全體が池の中へ滑り込んだ。栈はずつと以前から腐つてゐて、板の壁は暴風のために帆のやうに奪ひ去られてゐた。動力や、磨石や、粗目挽臼や、風袋分離器が、廢墟中に嚴然と立つてゐる。板の下から無數の水車小舍鼠が、時々飛出して來る。
 私はよく水を運ぶ人について、こつそりとモルモツト狩りに野良へ行つた。誰かゞ早すぎもせず晚すぎもしない正確さで、穴の中へ水を注ぎ、棒切れを手に持つて、その出口に艷のない濡れた毛をした鼠に似た鼻が出て來るのを待つた。年取つたモルモツトは、自分のお臀で穴をふさいで永い閒抵抗した。然し二杯目のバケツの水は奴等を降參せしめて、自ら死に飛出して來た。一人がこの死んだ動物の足を切つて、それを紐に通した——ゼムストフオ*はモルモツト一匹についてーコベツクで買つたのだ。役所では尻尾を見せろと云ふのが常だつたので、賢い奴が一匹の動物の皮で、十二の尻尾を作ることを發明した。そこでゼムストフオでは今度は、足を見せろと云ふやうになつたのだ。私はぶ濡れになつて、埃をいつぱいかぶつて歸つた。家ではかうした冒險は少しも襃められなかつた。彼等は私を食堂の長椅子の上に坐らせて、盲目エディブスとアンティゴーネの話を引合ひに出した。
 *地方管區の行政を擔任する、選擧による農村組織脸でおる。—英記者

 或日母と私とが最寄りの町のボブリネツツから橇に乘つて歸つてゐた。雪に目を眩まされ、橇に搖られて、私は居睡りしてゐた。橇が曲り角で顚覆して、私は俯向きに投り出された。毛布と秣が私を窒息させようとした。私は母の心配して叫ぶ聲を聞いたが、それに答をすることが出來なかつた。新しく雇つた、大きな、頭髮の赤い、若者の馭者が、毛布を引張り上げて、私を見つけ出した。私達は再び座席に歸つて歸路を急いだ。然し私は、惡寒が背骨の所を上つたり下つたりすると云つて、訴へ始めた。『惡寒?』毛の赤い馭者は、顏を私へ向けて、しつかりした白い齒を見せながら訊ねた。私は彼の口元を見詰めながら答へた。『さう、お前は惡寒を知つてるの?』馭者は笑つた。『何んでもありませんよ。』それからもう一言『もうすぐ着きますから。』と云つて、淺い粟毛の馬を驅立てた。
 翌晚のこと、その馭者が栗毛の馬と一緖に消失せてしまつた。所有地は大騷ぎになつた。兄の指揮する一隊が忽ち編成せられた。彼はムツツに鞍を置いて、泥棒をひどいめに合せてやると誓つた。『まづ奴を捕へなくちやいけないぞ。』と父は陰鬱さうに注意した。二日振りに一隊は歸つて來た。兄は馬泥棒の捕へられなかつたことを霧にかこつけた。白い館の色男の愉快な男ーーそれが馬泥棒だ!
 私は熱に侵されて轉げ廻つた。自分の腕や足や頭が邪魔になつた。それらは腫上つて壁や天井に壓しつけられるやうだつた。そしてそれは內部から跳出すのであるからこの障害から逃れようがなかつた。私の體は燃えるやうで、喉が刺すやうに痛んだ。母が私を覗き込んで、その次に父が覗いた。彼等は心配さうに目交せして、喉に膏藥を貼ることにした。『私はリヨヴァがヂフテリアにかゝつたのではないかと心配するんですが?』と母が云つた。
『ヂフテリアだつたら、もう疾つくに吊臺に乘せられてゐますよ。』とイヴン・ワシリエヴヰツチが答へた。
 私は漠然と、妹のロゾチカがさうであつたやうに、死を意味する吊臺に橫つてゐるところを考えへて見た。然し私は彼等が私のことを話してゐるのだとは、信することが出來なかつた。だから彼等の話を落ちついて聞いてゐた。最後に私をポブリネツツに伴れて行くことに話が定まつた。私の母は熱心な正敎徒であつたわけではないのだが、安息日に町へ行かうとはしなかつた。イヴン・ワシリエヴヰツチが私を伴れて行つた。私達は元私の家の召使であつて、ボブリツツで結婚してゐる小さなタチヤナの家に泊まつた。彼女には子供がなかつた。だから傳染の危險がなかつた。醫師のサチユノウスキイは私の喉を調べ、體溫を計り、お定りのやうに、まだ早過ぎてよく分りませんねと確言した。タチヤナは私にビール壜をくれたが、その壜の中には小さな棒切れや、板切れで造つた、立派な小さい敎會が出來てゐた。私の足や腕は、私を困らすことを止めた。私は恢復した。これは何時頃起つたことだらう? 私の生涯の新しい時代の始まるより餘り以前ではなかつた。
 その新時代はかうして來たのだ。自惚屋で子供達の敎育を幾週閒も放つて置いたアブラム叔父さんが、氣嫌のいゝ時に私を呼びつけて『行き詰らないやうに、速座に今年は何年であるか云つて御覽』と訊ねた。『えゝ知らない?  一八八五年ぢやないか!何回もくり返して覺えておいで、も一度訊くから。』私はこの質問の意味を理解することが出來なかつた。『さう、一八八五年です。』と從兄弟のだんまり屋のオルガは云つた。『そしてその次ぎは一八八六年です。』私はこれが信ぜられなかつた。時閒に名前のあることが承認されるならば、それならーハハ五年は、永久に、卽ち非常に長く長く、家の礎石の大きな石のやうに、水車小舍のやうに、或ひは現實の私自身のやうに、存在する筈である。オルガの妹のベテイヤは誰を信じていゝか知らなかつた。私達三人はみんな、新しい年が來ると云ふ思想に故障を感じた。恰度誰かゞ、扉を開けて、色々な聲が高く響いてゐる、眞暗な、空つぽの都屋の中へ伴れて行かれた時の樣に。最後に私が降參しなければならなかつた。誰でもがオルガに贊成する。だから一八八五年は私の意識の中に於て最初に名前をつけられた年になつたのだ。それは、私の形體のない、前史的な、渾沌たる時代に終末を吿げしめた。いまから後は私は年代を知つてゐる。その時私は六歲であつた。それは凶作、恐慌の年であり、ロシアに於ける竝初の大きな勞働者の騷亂の年であつた。然し乍ら、私を强く刺戟したこの年の名前は不可解なものであつた。私は承知が出來ないで、時と數との隱れたる關係を推測しようと努力した。一連の年月が經過した。それは初めはゆつくりと、それから段々と急速になつた。然し一八八五年はそれらの年次の巾に恰も年長者の如く、ー門の首領の如くに聳え立つてゐた。それは時代を標示した。
 これに續く事件が起つた。私は或時私の家の荷馬車の馭車臺に登つて、私の父を待つてゐる閒に、手綱を引張つた。若い馬は飛出して、家や、納屋や、庭やを飛越へ、路のない貯良を橫切つてデムボウスキイの所有地に向つて突進した。背後には叫び聲が起り、行く手には濠があつた。馬は猛り狂つた。殆ど馬車を顚覆させようとした。濠のごく尖端にある歪みで、馬はそこに根が生えたやうに突立つた。私の背後からは馭者が走つて來、その後には二三人の勞働者と、私の父とが續いた。私の母は泣聲を立てゝゐるし、姉は手を握り締めてゐた。母は私が彼女の方へ飛んで行つてるにも拘らず、金切り聲を立てゝゐた。父が死人のやうに蒼ざめて、私に無茶苦茶な平打ちを喰はせたことも書いて置くべきであらう。甚だあり得べからさることのやうに見えるが、私は叱られたことさへなかつたのだ。
 私が父と一緖に、エリザヴエートグラードへの小旅行をやつたのも同じ年であつたに相違ない。私達は夜明けに出發してゆつくりと步いた。ポブリネツツで馬に水飼ひした。私建は夜に入つてヴシイヴアヤ*に到着した。私達は品を保つてそれをシユヴイヴアヤと呼んでゐた。私達はその邊の郊外に盜賊が出ることを聞かされたので、そこで日の出を待つた。後年世界のどの一つの都も、パリも、ニユー・ヨークも、舖道や、綠色の屋根や、バルコ二ーや、商店や巡査や、赤い輕氣球やをもつたエリザヴエートグラードが當時私に與へたやうなそんな印象を與へはしなかつた。數時間の間私の目は大きく見開らかれ、私は文明の相貌に氣を奪はれた。
*ロシア語で、これは「不潔」を意昧する。ー—英譯者
 一年の後私は學課を始めた。或て大急ぎで顏を洗つた後で————ヤノウカでは人々はいつも大急ぎで顏を洗ふのだ————私は新しい日と、何よりもお茶に牛乳とバターケーキのついた朝食とに目を,やりながら、食堂に這入つて行つた。私は母が、瘠せた、和やかに笑つてゐる卑屈さうな男の見知らぬ人と一緖にゐるのに氣がついた。母とその見知らぬ人とは、私が彼等の會話の主人公であつたことを明かにするかのやうに、私を眺めた。
『握手をしなさいリヨヴア。お前の先生に御目にかゝるのだよ。』と母が云つた。私は多少恐れながらも、いくらかの興味を以つて先生を眺めた。その先生は私に、どの先生でもその兩親の前では未來の生徒にするやうに、溫和かに挨拶をした。母は私の行くまへに事務的手筈を立派に終つてゐた。それ故、先生は居留地の彼の學校で、私にロシア語で數學と、ヘブリユウ原語で舊譯聖書とを敎へるために、澤山の金と、澤山の麥粉の袋とを取つたのである。けれども母は少しもさうしたことを爲し終ひてゐなかつたものだから、敎授の範圍などはむしろ漠然としたまゝであつた。私は自分の茶にミルクを入れて、ちび/\と啜りながら、私の運命に於ける今後の變化を味ふやうな氣がした。
 その次の日曜日に父は私をその殖民地に伴れて行つて、ラシエル叔母さんと一緖に住はせた。と同時に私達は彼女の所へ、小麥粉や、大麥の粉や、稗や、蕎麥の入つた遮產物の荷物を持つて行つた。
 グロモクレイからヤノウカへの距離は四ヴエルストであつた。居留地を貫通して狹い谷が走つてゐた。その一方はユダヤ人の居留地であり、他の側は獨逸人の居剧地であつた。この二つの部分は極端な對蹠をなして對立してゐた。獨逸人區は、家竝は淸楚で、一部分は瓦で屋根を弄き、一部分は蘆で葺いてあり、馬は大さく、牛は艷々してゐた。ユダヤ人區では、小舍は荒廢してをり、屋根はすたすたに破れ、家畜は瘦せこけてゐた。
 私の最初の學校が、ごくわづかな印象をしか殘さないのは不思議なことだ。私が股初にロシア語のアルハベツトを書きつけた石の黑板。ペンを握つてゐる先生の瘦せた人差指、みんなで一緖にやつた聖書の音讀、物を盜んだ二三人の少年の刑罰、——凡て漠然とした斷片であり、霧のやうにきれ/”\であつて、一個の生きた繪ではないのだ。恐らく例外は、背が高くて、押出しのいゝ、先生の細君であつた。彼女は始終思ひがけなく私達の學校生活に仲閒入してゐた。或時授業中に彼女は夫に、新しい麥粉に特種の臭ひのあることをこぼしに來た。そして先生が彼女の手のひと握りの麥粉に尖つた鼻をもつて行つた時、彼女はそれを先生の顏に投げつけた。それが彼女の冗談の槪念であつたのだ。少年少女達は笑つた。たゞ先生だけは下を向いてゐた。私は、麥粉まみれになつた顏で、敎埸の眞中に立つてゐる彼を氣の毒に思つた。
 私は人のいゝラシエル叔母さんと共にゐながら、彼女のことは少しも氣に留めないで暮してゐた。母屋の同じ庭に面してアブラム叔父さんが君臨してゐた。彼は、甥や姪を全然公平に待遇した。時々彼は私だけを選り出して、招待し、私に髓のある骨を御馳走して、そしてつけ加へた。『俺《わし》はこの骨のために、お前から十ルウブルは取らないよ。』
 私の叔父さんの家は、殆どこの居留地の入口にあつた。向ひ側の端には脊の高い、陰鬱な、瘦せたユダヤ人が往んでゐた。彼は馬泥棒だといふ評判があり、、<ママ>餘り香しくない商ひをしてゐた。彼には娘があつたーー彼女にも亦如何はしい風評があつた。この馬泥棒の所から遠くない所に帽子屋が住んでゐて、ミシンの上でちく/\やつてゐた。——燃えるやうな赤い髭のある若いユダヤ人だ。この帽子屋の細君はよく、アブラム叔父さんの家にいつもゐた居留地の監督官の前へ來て、馬泥棒の娘が彼女の夫を盜まうとしてゐると云つて不平を竝べてゐた。だが監督官は一向加勢する樣子もなかつた。或日私は學校から歸りに、群衆が町の中で若い女、馬泥棒の娘を曳きずつてゐるのを見た。群衆は罵り叫び、そして彼女に唾を吐きかけた。この聖書にあるやうな情景は、永久に私の記憶の中に刻み込まれた。數年後、アブラム叔父さんはまた當時のこの婦人と結婚した。その時には彼女の父は居植地の法規によつて、共同社會の好ましからぬ人物として、シベリアに流刑に處せられてゐた。
 私の元の保姆のマーシヤは、アブラム叔父さんの家の召使であつた。私はたび/\臺所にゐる彼女の所へ走つて行つた。彼女は私とヤノウカとの關係の象徵であつた。マーシヤの所には、時々むしろ耐えられないやうな訪問者が來た。さうすると私は寧丁に送り出された。或犬觀のいゝ朝のこと、居留地の他の子供達と共に、私はマーシヤが赤ん坊を生んだことを知つた。私達は大變な興味をもつて、祕密さうにさゝやき合つた。數日後私の母がヤノウカからやつて來た。そして臺所へマーシヤとその幼兒とを見舞に行つた。私は母の背後からこつそりついて行つた。マーシャは目の上まで垂下がる頭巾をかぶつてゐた。廣いベンチの上に瘦せた幼兒が橫つてゐた。私の母はマーシャに目をやり、それから小兒を眺めた。そしてその次に何んにも云はないで、口惜しさうに頭を振つた。マ—シャは下を見詰めたまゝ默りこくつてゐた。それから母は幼兒の方を見て口を開いた。『御覽、この兒は自分の小さい手を、大人のやうに頰の下に當てゝゐるぢやないか?』
『お前はその子が不惘ではないかい。』と私の母が訊ねた。
『い、え、彼は大變親切なのです。』とマーシャは橫着さうに答へた。
『それは噓だ、お前はかはいさうだ。』と私の母は宥るやうな調子で答へ返した。一週閒の後、この瘦せた幼兒は、彼がこの世に生れて來た時と同じやうに、神祕的に死んでしまつた。
 私は屢々學校を休んで私の村へ歸つた。そして時には殆ど一週閒もそこに停まつてゐた。私はユダヤ語を話さないものだから、學校友達の閒には親しい友人がなかつた。學校の授業期閒はほんの數ケ月しか緻かなかつた。この事實は、この時代の私の追憶が貧弱であることを說明するであらう。而かもシユファーーそれがグロモクレイ學校の先生の名であつた——は私に讀書と習字とを敎へた。この兩者は私のその後の生活の役に立つた。だから、私は私の最初の先生を感謝の心をもつて記憶してゐる。
 私はブリントの紙で勉强することを始めた。私は詩を筆寫した。私は自分で詩を書きさへした。後には私の從兄弟のセーニャZと一緖に雜誌を始めた。而かもなほこの新しい道は困難であつた。私はそれにそゝのかされて、やつと筆記の技術を會得した。或時、私は獨りで食堂にゐた閒に、私は、商店や、料理場で聞いた言葉で、私の家族からは聞いたことのない特別な言葉を、印刷字體に書下し始めた。私は、私の爲すべきでないことを行つてゐるのだと承知してゐたけれども、その言葉は、禁ぜられてゐるので、猶更ら私を引きつけた。私はこの小さな紙片とマツチの空箱に入れて、納屋の背後に埋めて隱して置かうと決心した。姉がその部屋の中へ這入つて來た時は、私がその表を完成するにはまだ/\遠い頃で私は夢中になつてゐた。私はその紙を摑んだ。母が姉の後から這入つて來た。彼女達は、私に書いたものを見せろと要求した。恥かしさに眞赤になつて、私はその紙を褥椅子《ふとん》の背後に投込んだ。姉はそれを取らうとしたが、私はヒステリツクに叫んだ。『私が自分で取るから。』私は褥椅子の下に這込み、その紙を切れ切れに引き裂いた。私の失望と、淚とには止め度がなかつた。
 ー八八六年のクリスマス週閒のことであつたに相違ないが、と云ふのは、私は旣に、私達が或夜茶を飮んでゐた時に、食堂の中へ假面舞踏者達の一群が雪崩れ込んで來たことを、その時どうを書き記したがいゝか知つてゐたからである。私は驚いて大急ぎで、褥椅子の上へ飛上つた。私は靜かにして素人劇『ツアー・マキシミリアン』を貪るやうに開いた。初めて夢幻的世界が私を包み、その世界は演藝的な實在性のあるものに轉形された。私は、その主役がもと兵士であつた、勞働著のブロコールによつて演じられたことを聞いた時には、驚きあきれた。その翌日、私は夕食後、鉛筆と紙とをもつて召使部屋に行き、ツアー・マキシミリアンに彼の獨白を、私に口授するやうにと懇願した。ブロコールは餘り氣がなかつたらしいが、私は彼にまとひつき、請求し、要求し、懇願して、彼をうるさがらせた。最後に私は、自分で窓の側に坐り場所をこしらへて、傷のついた窓の閾を使ひテーブル代りにして、ツアー・マキシミリアンの詩のやうな言葉を寫し始めた。やつと五分位經つた時に、私の父が入口の所へ來て、窓の側の光景を眺めて、嚴かに云つた。『リヨヴァ、お前の部屋へ御歸り。』私は諦められないで、褥椅子の上で午後の問中泣き通した。
 私は弱々しい調子の詩を綴つた。それは恐らく、言葉に對する私の愛は示してゐたであらうが、詩の發展上に於ては、確かに何等の豫示をもなされなかつた。姉は私の詩のことを知つてゐた、彼女を通じて母がそれを知り、母を通じて父が知つてゐた。彼等は、私の詩をお客さんの前で聲高に朗讀しないかと云つた。それはとても苦しいことだつた。私は承知しなかつた。彼等は、私に最初は溫和しく、次ぎにはいら/\し、最後には嚇しつけて、催促した。時には、私は逃出した。けれども私の目上の人達は、どうすれば自分逹の望みが達せられるかを知つてゐた。私は胸をどき/\させながら、眼に淚を溜めて、他から剽竊した行ひと、とつちんかんな韻律を恥かしがりながら、自分の詩を朗讀した。
 それはそれとして、私は智慧の木の實を知つた。生活は單に日每、いや、一時閒一時閒の中にすら廣がつて行つた。食堂の破れた褥椅子から、絲は他の世界に伸びて行つた。讀書が私の生活に新紀元を開いたのだ。

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