読書ざんまいよせい(032)

◎風流滑稽譚(一)バルザック著小西茂也訳

編者注】「ゴリオ爺さん」は、青空文庫にて、中島英之訳で収録されていますので、一旦アップは中断します、ただし、訳者の著作権は存続しています。そこで、「風流滑稽譚」全三作の大作の投稿をぼちらぼちらと…まずは、「前口上」から。

目次

前口上
美姫インペリア
仮初の咎
王の愛妾
悪魔の後嗣
路易十一世飄逸記
大元帥夫人
箱入娘
金鉄の友
衣手の風流
当意即妙
後口上

これはド・バルザックの大人、トゥレーヌの諸寺より蒐めて開板せるもの世のパンタグリュエルの徒の慰み草に供すべく、余人の為にはあらず焉。

    前口上

 この草紙は、おらが国さトゥレーヌ不朽の粋士、フランソワ・ラブレエが献酬めされた名うての酒仙や座ぬけの呑助どもの髭口に合わそうとて、吟醸いたした洒脱芳醇なる詩酒でござって、作者の念願は同じくよきトゥレーヌ人たるの実を示し、めぐわしきわが郷土のお歴々の御酒興を添えんが為に他意ござらぬ。五穀はもとより寝取られ男、伊達男、おどけ男に至るまで遍ねく穣ったわが郷土より、簇出いたした法朗西屈指の名士には、追悼の涙も未だ乾かぬクーリエ<*注1>あり、『立身の途』の著者ヴェルヴィルあって、多士済々とは申せ、デカルト大人のみは願い下げといたしたい。その仔細はと申すに、大人はいたって気重な隠士で、美酒佳肴より空虚な夢想の方を讃えられた仁ゆえ、トゥールの町の料亭や喫茶の旦那衆からは貶しまれ見誤まられ、偶々人の噂話に上っても、何処のお人じゃと訊ね返されるほどに、かいもくの野暮太郎でござったからじゃ。
 さてこの書冊の種を申そうならば、グルナディエール・レ・サン・シール、サシェ・レ・アゼエ・ル・リデル、マルムウチェ、ヴェレエツ、ロシュ・コルボンなんど、わが郷土のそんじょうそこらにおいであった、めでたい沙門の翁たちの鬱散養気の風流談義、さては昔覚えの説教僧やしただるい老嫗が口伝たる浮世咄などからでござる。
 総じて古人は笑った途端にお腹のなかから、馬が飛び出ようが、駒が跳ね出そうが、お構いめされずにただ腹の底から、しんから笑いこけられたものじゃが、今時の若い女子衆ときては、澄まし顔にて可笑しがろうとめされてござるわ。したが王妃の頭上に油壺が似合わぬよう、華やかな法朗西国にはさような仕草は、なによりふさわしからぬ限りじゃて。
 されば抱腹絶倒は男子にのみ賦与せられた特権でごあって、人は浮世の波風に曝され放題ゆえ、今更に物の本で読む要もないくらい涙の種を知っとる筈じゃから、ここに些か寛闊の譫言を印行することも、時節柄この上もない御奉公と存ずるわ。
 まこと今の御時世たるや、憂いことばかり糠雨さながらに降りしきって身を濡らし、はては身内に滲み透って、女郎衆の縦線《レイ・ビユブリック》をもって、諸万人《レビユブリック》の諸々の気のつきを晴らさんとしておった往時の風儀も、まさに消融せんといたしておる。剰え分際はずれた手出しもいたさせず、じっと大人しく神や王のなすが儘に任せて、よろず笑いにまぎらせ得心しおった、いにしえ老パンタグリュエルの儕輩《ともがら》も、今や残り尠なになった許りか、日に日に身まかってゆく現状ゆえ、名だたるこれら古雅なる浮世草紙の断簡零墨が、唾は引っ掛けられ、塵芥にはまぶれ、大小便を垂れ流され、さらに咎め立てられ、はじしめられゆくごとき、憂慮すべき成行を目の前にしては、雅趣あるゴオロワの残肴に、ひそかに舌鼓を打つ吾儕など、夜の目も合わぬ何ともじゅつない思いじゃて。
 また僻々しい批評家連《あらさがしや》や、言葉の屑ひろいどもや、人の趣向や心組に難癖つける世の天邪鬼たちに、ひとつ想起して戴きたいことは、笑いは童心からひり出され、歳月の旅枕を重ねるにつれ、ランプの油よろしく薄れ消えゆくものなのでごある。詮ずるところ笑わんが為には、心の無邪気さと浄らかさこそ必須不可欠、その不可欠の持ち合せもない口敲きの下卑蔵《げひぞう》には、汝《なれ》が持前の不徳や不醇をひた隠すべく、あれあのように、頬桁をすぼめ、口をゆがめ、眉をしかめて御座るのでごある。
 この草紙の有様《ありよう》は、抜差ならぬ群図《グループ》であり、布置正しき彫像であるゆえ、いかなる美術家と雖も、その姿容を変改すること叶わぬは明々白々、まして談義の若干、乃至はこの戯作全般が、尼寺に向くように仕立てられてごあらぬからとて、無花果《いちじく》の葉なんどをあてがおうずる道学先生こそ、出頭第一の愚か者となり申そう。さはさりながら吾儕とて、心進まぬながらも尻軽貞女やお転婆娘たちの、耳朶を叩き、明眸を眩ませ、豊頬を赧らめ、紅唇を膨らませかねぬていの、昔言葉の艶々しすぎる文言は、はや心して稿本より剪除いたしておき申した。当代のなり下れる風儀が性に合わぬとばかりぜい言ってはおれぬし、婉曲の語法の方が、なまのよりずんと風雅のこともあるからじゃい。
 まこと吾儕も年をとったかして、束の間の若気の痴れわざより、長々しい莫迦ごとの方が、ゆるゆると賞翫出来るによって、好もしくなり申した。じゃによって拙者に悪口は、平に御容赦を願いたい。昼日中よりも、夜分にこの笑い本を読んで戴けばまことに幸甚。また極めて情を燃やさせ易い冊子ゆえ、いまどき生娘が残りおったとしても、それら熱高い乙女っ子には覗かせぬよう、いっち気を遣われたいものじゃ。――なんどと忠告一番、筆を擱き申すが、この経籍そのものに関しては、顧みて心中晏如たるものがごある。とぬけぬけ申すいわれは、これが生れ故郷は心構の高い雅びな土地柄で、そこに発したるものこれ悉く、何れも大いなる成功を博しおること、金羊皮章、聖霊章、靴下留章、沐浴章なんどの勲記標章や、その他幾多の天下に冠たる文物に照らしても明らかな通りで、それらの加護に身を任せたれば、作者としても先ずは大安心。『いでや心の朋友たち、楽しみめされ。悠々と体を寛ぎ腰を伸ばして、残る隈なく読み興ぜられよ。さりながら読んだ揚句に、はて一向に下らぬわいなど仰有る御仁は、疳瘡に罹ってお果てめさるがよい。』
 かく申されたるは智慧の公子、道化の王侯、われらが崇めるラブレエの宗師にて御座る。方々には帽を脱し膝を正して謹しんで清聴と云爾。

  *注1* クーリエ・ド・メレ(一七七二―一八二五)フランス文人、政治的パンフレットを著す。『ダフニスとクロエ』の飜訳あり。
  *注2* ベロアルド・ド・ヴェルヴィル(一五五八―一六一二)フランス十六世紀の作家。ラブレエ調の好色小咄集『立身の途』の著あり。

編者注】本文、訳者とも、著作権は消失しています。画像はいずれも、Wikipedia より

読書ざんまいよせい(031)

◎アレクサンドル ゲルツェン「誰の罪」「向こう岸から」

 「革命家」に必要な資質とはなんだろうか?どんな状況であろうと失わない「楽天性」か?時には、味方に対してさえ、断罪する「冷徹さ」か?物事をきちんと筋道をつけて分析する「明晰さ」か?「革命家」ゲルツェンの場合は、前の二者ではないことは確かである。あとの評価であろうが、それに彼独特の「憂愁」が付け加わり、のちのレーニンやトロツキーなどと一線を画する所以である。
 最近、刊行された新訳の自伝「過去と思索」でもその傾向は、顕著であり、第一部から第四部まで、一気に読み、ゲルツェンの魅力に引きずり込まれた。この自伝はいずれ紹介する機会があろうが、ここでは、彼のシベリア捕囚時代の小説が、国立国会図書館デジタルコレクション「誰の罪」でなんとか読めるので、パラパラとページを「クリック」してみた。

梅田寬譯・ゲルツェン「誰の罪」

ゲルツェンの事ども

 ア・ゲルツェン(一八一二~ー八七〇年)はモスクワの或る富裕な家庭に生れた。彼の母親はドイツ人であった。彼は相當學識ある露・獨・佛等の家庭敎師と獨・佛の十八世紀の哲學者の著書を集めた豐富なる父の圖書室とにつて敎育された。佛の百科全書を選んだ事が彼の心に深い痕跡を殘し、その爲後年、若き友人達と同じく獨の純正哲學の硏究に貢獻した時にも、彼は十八世紀の哲學者から受けた思索の具象的方法及び心意の自然的傾向を決して棄てなかつた。
 一八三〇年のフランス革命が全歐洲の思想家に深い印象を與へたころ、彼はモスクワ大學へはひって物理と數學を學んだ。ゲルツェンはその親友である詩人オガリョーフ等と共に靑年結社を結び、政治上、社會上の問題を討議したり殊にサン・シモン主義を提唱したりした。そして當時のニコラス一世を諷罵した或る歌が之れ等の結社から唱へられため、ゲルツィン等は捕縛された。相當に重罪に處せられる所を或る顯官の運動で赦され、ゲルツェンはウラル地方のヴャトカに追放され共で六年を暮した。 一八四〇年赦されてモスクワに歸った時、彼はロシヤの文壇が獨逸哲學の影響をうけて形而上學の抽象的思想に夢中になつてゐるのを見出した。ヘーゲルの絕對說、その人類に就ての三體說及び「實在するものはて合理である」といふ結果に對する效果盛んに論議されてゐた。そしてヘーゲル崇拜家はニコラス一世の制政治をも合理的であると主張し、大批評家ペリンスキイ(一八〇年~一八四八年)ですらも制政治の歷史的必然說を承認せんとした程であつた。ゲルツェンも無論ヘーゲル硏究に努めたが、その硏究によって共友エム・バクーニン(一八二四年~一八七六年)と同樣全然異つた結論に到達した。かくてゲルチェンやバクーニン、ベリンスキイ、ツルゲーニェフ、チェルヌイシェーツスキイ等は西歐主義《ザパドーニーチェストフ》の左翼主義を組織し、ア・スタンケヴィッチ(一八一七年~一八四〇年)一派はスラヴ國粹主義《スラウヲヤノフイーリストフ》の右翼を組織した。
 西歐主義の大體の綱領は、ロシヤも歐州からの除外物ではなく、 ロシヤも亦西歐諸國の通つてきたと同一の路を必ずや通るであらう。 從つてロシヤの踏むべき次の階梯は農奴制 (後一八五七年より六三年までに斷行された)である。そして次には西歐諸國に於て發達したと同樣の發達を見るであらう、といふのである。彼等はつまり廣義でいふ西歐文明の謳歌者であつた。これに對しスラヴ國粹主義はロシヤはロシヤ自らの使命をもつてゐる。吾人はノルマン民族の樣に外國を征服した事はない。吾人は今尙古い時代の組織を保つてゐる。從つて吾人は國粹主義者の所謂ロシヤ生活の三つの根本的原則、卽ち希臘正敎と露帝《ツァーリ》の絕對權力と家長的家族の原則に返つて、吾人自らの全然獨創的な發達の徑路を進まねばならぬといふのである。 ゲルツェン等前記の人々は西歐主義者の內でも最も進んだ意見をもつてゐた。卽ち、西歐諸國に於いて地主竝びに中產階級の兩者が議會に於て無制限の勢力を占めた結果、勞働者と農民との蒙つ困苦、而して歐洲の大陸諸國がその官僚的中央集權によつて政治的自由を制限したこと、是らは決して「歷史必然」ではない。ロシヤは恁うした失策をくり返す必要はない。寧ろ彼等先進國の經驗に鑑みて反對に出なければならない。而して其土地共有制や帝國の或部面に見らるゝ自治制や或はロシヤの村落に於ける自治體の制限を失ふことなしに工業主義の時代を迎へ得るなら、それは莫大な利益であるであらう。從つて其村落自治體を破壞し地主貴族の手に土地を集中しめ、而して無限、多種多樣なる地方の政治的生活をプロシヤ人、彼はナポレオンの政治的中央集積の理想によつて中央政府の手に掌握せしむるは、資本主義の勢力の强大なる今日、最も大なる政治上の失策といふべきである、と彼等は主張した。然るに、後年農奴制が廢止止せらるゝに至ったとき、この主義者とスラヴ國粹主義者との閒に最も注意すべき一致を確立したのであつた。國粹主義者は總體に於いて保守的ではあったが、その最も立派な代表者の唱へた或る點.卽ち農奴制度の廢止に就いての農民の事實上の根本的制度たる自治、法律、聯邦制度の、その他信仰及び言論の自由等の主張は前者と一致したのである。
 ゲルツェンは一八四二年に再びノヴゴロドへ追放され、次いで四七年外へ行ったがに遂に再び母國へ歸へらず七〇年に五十九歲で、スイスに於て寂しく死んだ。その頃フランスに二月革命(一八四八年)あり、やがてナポレオン三世が出でゝ帝政時代再び出現し、フランスを中心に全歐を風靡してゐた會主義的運動の痕跡すらも一掃さるゝに及んで、ゲルツェンは西歐の文明に深い絕望を感ずるに至つた。彼はブルードンと共に「人民の友」なる新聞を巴里で發刊したが官憲の壓迫著しく、遂にフランスからはれた。彼は其後スイスに歸化したが、一八五七年ロンドンに定住し、その年始めて自由なロシヤ語の雜誌「北極星」を刊した。この誌上で彼は政治上の論文及びロシヤの最近史に關する極めて價値ある材料であると同時に、嘆賞に價する追悼記「過去の事實と思想」を發表した。この雜誌の次に「鐘」と稱する新聞を發行した。この新聞によつて彼は海外に在りながら、その勢力はロシヤに於ける一つの眞の力となった。ツルゲーニェフはこの新聞の爲に遠く援助する所があった。「鐘」上にはロシヤ國內では迚も發表も難い致い失政の事實を摘發し、一方論說はゲルツェンによつて政治文學稀に見る力と、內部的な溫情と、形式の美をもつて書かれた。「鐘」の多數はロシヤに搬入され、至る所に撤布された。アレクサンドル二世までがその每號を讀んでゐた。ゲルツェンのロシヤ國內での勢力がその晚年おとろへて、彼にとつて代つたのは 靑年たちであつた。
 ゲルツェンは政治、社會、哲學、藝術に關する多くの有名な論文を殘したが、また「誰の罪か?《クト ウイノワート》」ほかの數種の小說を書いたことも忘れてはならない。問題小說である「誰の罪か?」は一八四二年ノヴゴ ロドに追放されたときに書き起したもので、ロシヤに於ける知識的典型の發達史のなかにしばしば引あひに出される、彼の有名な代表作である。內容は前篇と後篇とに別れてゐて、かなり興味ある複雜を示してゐるが、要するにこの全篇の主要人物は、貧しい家に生れて大學を卒業し、退役將軍邸に家庭敎師となり、のち中學校《ギムナジア》敎師となったクルチフェールスキイと、そこの將軍の妾腹の娘でクルチフェールスキイと、自由戀愛より結婚生活にはひつたリューポニカ、それからクルチェフールスキイの舊友でその家庭に來つて、戀の三角關係をひき起したペェリトフ、獨身主義の醫者クルーボフ等である。ゲルツェンは、彼獨特の簡潔、明快な、而も老巧な諷刺に富んだ筆法を以て、彼等を心ゆくまで活躍しめてゐる。そこに描き出されたロシヤ貴族、官吏、軍人、知識階級《インテリゲンツィア》、保守階級、無產者、農奴等は、ゲルツェンの目をとほしては容赦なく衣をぬがされ、おどろくべき赤裸々とされて、その眞實、その本體を毫も掩ふよしがない。しかもこの話は恰も現今わ が日本に見るが如き社會問題、婦人問題、戀愛問題、敎育問題、家庭問題等を多量に、また縱橫に含み、そこに生ずる經緯の興味あり又おそるべき結果に向って徐々として進む。ゲルツェンはこの結果に至つて、卽ち三つの破壞された生活の殘骸を指して、これは果して『誰の罪』であるか!と世閒に問はんとしたのである。この問題小說はロシヤ後來の文學者、批評家に常に愛讀され、諸種の議論の材料とされたもので、わが國には未だ紹介されてなかったのが不思議なほどである。

 因にこの拙譯は一九二四年一月ベルリン、ラドゥイジュニコフ書店發行の露語原書による。

    一九二四年一月

 次に、フランスなどでの、1848年の2月~6月革命の勃発から敗北までの彼の見聞きした出来事とそれへの彼の思いを綴った「向こう岸から」より、息子に宛てたその序文から…
 同じころマルクスは「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」を書いた。「題材」が一緒で、しかもどちらも優劣がつかず、それでいて、読後感で違いがあるのは、二人の立ち位置、気質の違いが明らかになり、とても興味深い。1848年革命の顛末の受け止め方は、ゲルツェンらしく、「向こう岸から」の論旨の展開は決して読みやすいものではない。こうした「韜晦」の故に、後世にすんなりとゲルツェンは受け入れられなかったのであるが、今の御時世だからこそ、傾聴に値する。

    わが息子アレクサンドルに

 わが友サーシャ〔「アレクサンドル」の愛称〕
 私はこの本を君に捧げる。それは、私がこれまでこれ以上に良い本を書いたことがなかったし、おそらく、これからもこれ以上に良い本を書くことはないだろうからだ。また、私は闘いの記念碑として、この本を愛しているからだ。この闘いの中で、私は多くのことを犠牲にしてきたが、しかし、知ろうとする勇気を捨てたことはなかった。そして、最後に、古臭い奴隷的な偽りに満ちた見方、別の時代に属しているにもかかわらずわれわれの間に生き延び、ある者たちを妨げ、ある者たちを脅かしている、愚かしい偶像に対する不羈の人間の、時として不遜な抗議を、幼い君の手に託すことを私はいささかも恐れていないからだ。
…。
 来るべき社会改造の宗教はただ一つ、私が君に遺す宗教だけだ。そこに天国はない、褒賞もない。あるのは己の意識、己の良心だけだ……いつの日にか故国に帰り、この宗教を広めてほしい。

 ……人間の理性と個人の自由と友愛の名において、私は君のこの道を祝福する。

    君の父
          一八五五年一月一日 トウィックナムにて

アレクサンドル ゲルツェン. 向こう岸から (平凡社ライブラリー799) . 平凡社. Kindle 版.

編者注】「誰の罪」の訳者、梅田寬は1969年没とあるので、著作権は消失していないと判断するのが妥当である。したがって、ゲルツェンの紹介を兼ねて、訳者の序文の部分引用に留める。また、言うまでもなく、「向こう岸から」も訳者の著作権は存続しているので、これまた、ゲルツェンの序文の一部の「引用」である。代わりに「誰の罪」のロシア語原文からの「自動翻訳」を後日掲載する予定である。

こんなご時世だから(62)


 午前中、新婦人の主催で「広島の高校生が描いた原爆の絵展」があったので、市立公民館へ足を運んだ。
 広島では、亡母の従兄弟が、広島文理大学に在学中で、被爆し、亡くなった。小さい頃、母からその想い出を聞かされたことが、かすかに覚えている。
 原爆の記憶も薄れてゆく現在、その体験を高校生に伝えた被爆体験者や後の世に繋ぎ止めようとの思いで、人々の心を揺すぶるように絵筆をとった広島の高校生に大いに敬意を表したい。

画像は、その絵画展のビラより。

読書ざんまいよせい(029)

はじめに―関西勤労協での講義「芸術論への旅」を受講して

 先日まで関西勤労協で「芸術論への旅」とのタイトルの講座があったため、計4回にわたり受講してきた。芸術の発生からはじまり、その哲学的根拠など多岐にわたるテーマであった。途中、絵画、写真、生け花など主に造形芸術に触れた部分など、あまり関わらない分野だけに、教えられる部分が数多くあった。最終回は、チェーホフとブレヒトの芝居を扱った講義であり、一層興味を惹かれた。そこで、講義後のディスカッションに少しでも寄与するために、チェーホフについて、思うところをまとめてみた。
 その昔、まだ芝居など「現役」だったころ、「芸術とは?」といった論議に口泡飛ばしたものだ。「芸術は『表現』だ!」「いや違う『認識』であるべきだ!」との二大論陣の少し離れたポジションにいて、こうした「こ難しさ」にも付き合わされた。前者は、吉本隆明などが主張するところ、後者は「旧」左翼系が譲らぬところ。少しあとで永井潔という画家が、「認識」説をきちんと整理して、提起したところで、「そんなものだろう」と一応の納得したものだ。ただ、吉本の「芸術=表現論」も、「認識」とした上での、歴史的に見て「政治主義」的な引き回しに我慢できなかったことはなんとか理解できたが…
 以下、講座での当方のメモから…
◎チェーホフにおける「表現」と「認識」
・チェーホフの戯曲は、いずれも一筋縄ではゆかず、「演出」する立場からは、意外と厄介である。
・彼の戯曲は、患者の「カルテ」であり、小説は「レシピ=処方箋」に例えられると読んだことがある。
そこで、4大劇の結末を見てみると…(いずれも神西清訳)
○「かもめ」
(ト書き)右手の舞台うらで銃声。一同どきりとなる。
○「ワーニャ伯父さん」
ワーニャのセリフ「…わたしのこのつらさがわかってくれたらなあ!」
ソーニャのセリフ「でも、仕方がないわ、生きていかなければ! (間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。」
(ト書き)テレーギン、忍び音にギターを弾く。
○「三人姉妹」
(ト書き)楽隊はだんだん遠ざかる。
オーリガのセリフ「それがわかったら、それがわかったらね!」
○「桜の園」
(ト書き)はるか遠くで、まるで天から響いたような物音がする。それは弦の切れた音で、しだいに悲しげに消えてゆく。ふたたび静寂。そして遠く庭のほうで、木に斧を打ちこむ音だけがきこえる。
徐々に、劇の結末が、静謐になっているのがわかる。
◎究極の「自己表現」とは?「芸術的感性」の感性はここにあるように思われる。
○「赤旗記事」の画像参照
「いいなずけ」(1903年)は、チェーホフ最後の小説で、好きな小説の一つであるが、肉体的衰えから、やや荒削りの感は否めない。それでも、再論するが、この場合、チェーホフにとっての究極の「自己表現」とは(副)主人公の「死」であろう。最後の言葉が、「Ich sterbe !」“私は死ぬ”というのも彼らしい。もっとも、「人はよく嘘をつく。その死ぬときでさえ」という彼らしい発言あり。
○その「自己表現」は、他との関わりの中で、彼の深い「認識」と結びついていた。と同時に、「奇をてらう自己表現」は、あくまでその場限りでいずれ忘れ去られるだろう。
○ただし、各個人の「認識」が、極めて政治主義的かつあまりにも狭量な「断罪」をくだされた歴史―今も続いているかもしれない―を繰り返してはならない。
◎「ナンセンス劇」と見る中村雄二郎のチェーホフ解釈
○チェーホフの「したたかさ」(表現的には「なにも解らない」とする彼の韜晦」)にまんまと引っかかった、悪質の「不可知論」的な陥穽に過ぎないのではないか?初期の短編「ねむい」や後期の中短編「谷間」、「退屈な話」、「犬を連れた奥さん」などが、「ナンセンス劇」であってたまるか!
○「臨床の知」というのも、「カルテ」と「処方箋」に日々格闘するわが身にとっては、許されない暴論にすぎない。

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(009)

 お嬢さんが嬌態《しな》をつくって、こんなお喋りをする、「みんな私のことを怖がっていますの……世間の男も、風《かぜ》も……。 ああ、もう何も仰しゃらないで! あたしお嫁になんか決して行きませんわ!」家はというと貧乏で、父親は大酒飲みだ。もし人が、彼女が母親と一所懸命に働いて、父親のことを人前に隠そうと骨を折るのを見たら、彼女に対する深い尊敬の気持で一ぱいになるだろう。同時にまた、彼女がなぜ貧乏や労働をそれほど恥かしく思って、あのお喋りを一向に恥じないのか、不思議な気がするだろう。

 レストラン。自由主義的な話がはずんでいる。温厚なブルジョアのアンドレイ・アンドレーイチが急にこんなことを言い出す――「妙な話ですが、これでも私はアナーキストだったことがあるんですよ!」みんなびっくりする。A・Aの話。――厳格な父親。その田舎町に徒弟学校が出来たが、職業とは何ぞや教育とは何ぞやなどというお談義に夢中になって、何一つ教えては呉れず、だいいち何を教えたらいいかも見当がつかなかった。(だって町じゅうの人を靴屋にしたら、誰が靴を註文するものですか。)彼は学校を追い出された。家からも追い出された。地主邸の執事の助手に住込んだ。金持や飽食の徒や肥っちょが癪に障って来た。地主が桜の木を植えた。A・Aは手伝いをしているうちに、手もとが狂った振りをして、シャベルでその生白い肥った指をばらばらにしてやりたくて堪らなくなった。そこで眼をつぶって力一ぱいに打ち下したが、外れてしまった。それから出て行った。森、野原の静寂、雨。温かい場所が恋しくなって、叔母さんの家へ行った。叔母さんは輪形パンでお茶を御馳走して呉れた。すると、アナーキズムは消えてしまった。……話が済んだとき、卓子の傍を四等官のLが通り過ぎる。それを見ると、A・Aは直ぐさま起ち上がる。それからLが家作持であることなどを説明する。
 ――私は仕立屋へ徒弟奉公に出されました。親方が裁って呉れたズボンを、私が縫いはじめたところが、側条《わきすじ》が曲がっちまって、それこんな工合に膝のところへ出てしまいました。そこで指物師の所へ奉公にやられました。或るとき鉋を使っていると、手が滑った拍子に鉋が窓へ飛んで、硝子が割れました。――その地主はレット人で、栓抜き《シトーボル》という名でした。今にもめくばせをして、「ええおい、一杯やりてえなあ!」とでも言い出しそうな顔つきをしていました。毎晩一人で飲んでいましたっけが、それが癪に障って来ました。

 クヴァス販売商が、王冠印のレッテルを貼っている。Xはそれを見て、癪で業腹でならない。商人の分際で王冠を簒奪しやがってと思うと、居ても立っても居られない。Xは法廷へ訴え出たり、誰かれ問わずつき纏ったり、返報の手段をさがしたりしているうちに、心痛と過労がもとで死ぬ。

 家庭教師をこう言ってからかう、「マダム・手真似《テマネ》」。

 Shapcherygin《シャエプチェルギン》,Tsambizebuljskij《ツァムビゼぶりスキー》,Svinchutka《スヴィンチュトカ》,Chemouraklia《チェモウラクリア》.

 老年の尊大さ、老年の厭人主義。軽蔑されている老人を私は何人見て来たことだろう!

 晴れ渡った厳寒の日に、卸したての橇に敷物を掛けて届けて来るのは実にいい気持だ。

 XがN町に赴任して来た。彼は暴君のように振舞う。自分以外の人が成功《もて》るのを喜ばない。第三者がいると態度が変る。女の姿が見えると声の調子が変る。葡萄酒を注《つ》ぐときには、先ず瓶《びん》の頸のところを自分のコップにちょっぴり注いでから、同席の人達に注ぐ。婦人と散歩するときは腕を支える。つまり何かにつけて教養を見せようとするのである。他人の洒落には決して笑わない。――「もう一度言って見たまえ。」「その手は古いな。」人の顔さえ見ればとっつかまえて一席講話をやるので、みんなが飽々してしまった。老婦人連が「独楽」と綽名をつけた。

 立居振舞も、部屋へ這入るときの作法も、物の問い方も、何一つ知らない男。

 Utjuzhnyj《ウチュージヌイ》*氏。
*熨斗という字から作る。

 問われもせぬのにしょっちゅう先手を打つ男。――私には梅毒はありません。私は正直な男です。家内も正直な女です。

 Xは一生涯、召使の風紀頽廃や、その矯正法や抑制法のことばかり、話したり書いたりした。そして、自分の家の従僕やコック女を除いて、ほかの誰からも見棄てられて死んだ。

 小さな娘が有頂天になって自分の叔母さんのことを、――「うちの叔母さんはとても美人よ、美人よ、家《うち》の犬みたいに美人よ!」

 Maria《マリア》 Ivanovna《イヴァーノヴナ》 Kolotovkina《コロトフキナ》*.
*「攪拌棒」、或いは「やりきれぬ女」。

 恋文の一節。――「お返事の切手を同封しました。」

 優秀な人たちが農村から都会へ出てくる。だから農村は疲弊しつつあるのだし、今後も疲弊を続けるであろう。

 パーヴェルは四十年の間コックをしていた。しかも自分の作ったものは食わず嫌いで、ついぞ口に入れたことがなかった。

 保守的な人達が害毒を流すことが極めて少ないのは、彼等が臆病で、自己に確信をもっていないからである。害毒を流すのは保守主義者ではなく、心の荒んだ人達である。

 女への恋が冷める。恋から解放された感情。やすらかな気分。のびのびと安らかな想念。

 どっちか一つ。――馬車に乗っているか、それとも降りちまうか。

 戯曲のために。――自由主義の婆さんが若づくりをする、煙草をすう、話相手なしでは居られない、情深い。

 特別寝台の乗客――それは社会の屑だ。

 あそこにいるのは黒土帯人《チェルノジェム》です。つまりレーピン*の『ザポローグ人』ですね。
*ロシヤの人物画の大家。『スルタンへの国書をしたためるザポローグ人』はその傑作の一つ。

 奥さんの胸に、肥ったドイツ人の肖像がぶら下っている。

 一生涯、選挙のたびに左派に投票した男。

 死人の着物を脱がせた。けれど手袋を脱がせるひまがなかった。手袋をした屍体。

 地主が食事をしながら自慢する、「田舎は暮らしが安いですよ。――鶏も自分のだし、豚も自分のだし。――暮らしが安いですよ!」

 税関吏が職務を愛するのあまり、政治上の不穏文書を捜して、旅客の持物を残る隈なく検査する。これには憲兵までが憤慨してしまう。

 真の男性(muzhchina《ムシチーナ》)は、夫(muzh《ムーシ》)と官等(chin《チン》)とより成る。

 教育。――「よく嚼《か》むんだよ」とお父さんが言う。そこでよく嚼んで、毎日二時間ずつ散歩をして、冷水浴をした。だがやっぱり不仕合わせな無能な人間が出来あがった。

 商工業的医学。

 四十歳のNが十七になる少女と結婚した。第一夜、彼は彼女を炭坑町へ連れて帰った。彼女は床にはいると、彼を愛していないと言って急に泣き出した。善人のNは狼狽して、悲哀に胸をつまらせて、書斎へ寝に行く。

 むかし荘園のあった場所には、その跡形も残っていない。ただ一つ紫丁香花《ライラック》の叢だけは、そっくり残っているけれど、どうしたわけか花が咲かない。

息子 今日は木曜でしたね。
 (聞き取れずに)え?
息子 (怒って)木曜ですよ!(静かに)お風呂にはいらなくちゃ。
 え?
息子 (ぷりぷりして、憤然と)お風呂ですよ!

読書ざんまいよせい(028)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(008)

 妻が咽び泣いた。夫が肩をつかんで揺すぶると、彼女は泣きやんだ。

 結婚すると、彼には政治も文学も社会も、一切が今までほど面白く思えなくなった。その代り、妻や赤ん坊に関するあらゆる些事が、非常に重大なものになって来た。

「なぜお前さんの歌はそんなに短いの?」と或るとき小鳥にたずねてみた、「もしや息が続かないのじゃないの?」
「私には歌がとても沢山あるのです。それをみんな歌ってしまいたいので。」
――アルフォンス・ドーデ

 犬が教師を憎む。彼に吠えついてはいけないと言われたのだ。犬は見上げて、吠えずに口惜し涙を流す。

 信仰は精神のはたらきだ。動物には信仰はない。野蛮人や未開人にあるものは、恐怖と疑惑である。信仰に達し得るのは高尚な組織体だけだ。

 死は怖ろしい。だが、永劫に生きて決して死ぬことがないと意識したら、もっと怖ろしいことだろう。

 公衆が芸術に於いて愛するのは、何よりも先ず俗なもの、とうに彼らが知っているもの、慣れているものである。

 リベラルで、教育もあり、年も若いが、そのくせ吝嗇な学校の主事。毎日学校へやって来て、長広舌をふるうが、お金と来たらびた一文も出さない。学校はぐらぐらで今にも倒れそうだ。しかも彼は、自分が必要且つ有用な人物だと心から思い込んでいる。教師は彼を憎んでいるが、当人はそれに気がつかない。害毒は実に甚だしい。或る日教師は堪忍袋の緒が切れて、怨恨と嫌悪に燃える眼で睨みつけながら、思いきり悪罵を浴びせかける。

 教師曰く、「プーシキンの百年祭をする必要はないです。彼は教会に何の貢献もしませんでした。」

 Guitarova《ギターロヴア》嬢(女優)。

 オプチミストになって人生を知得したいなら、他人の言うこと書くことを信ずるをやめよ。自ら観照し、自ら究め探れ。

 ある夫婦が生涯X(イクス)の説を熱心に信奉して、公式のようにそれに則って自分の生活を築いた。そして死ぬ間際になって、はじめて自分の胸に問うてみた――「ひょっとしたらあの説は間違っていはしなかったかしら?Mens sana in corp oresano(身健則心明)という諺は、嘘っぱちじゃなかったかしら?」

 私の嫌いなもの――陽気なユダヤ人、急進論者のウクライナ人、酔いどれたドイツ人。

 大学はあらゆる才幹を養成する。但し鈍才をも含む。

 これに鑑みまして、足下*よ。事情みぎの如くでありますので、足下よ。……
*原文にはMy dear Sirをmydeasrとでも略したほどの可笑味がある。

 最もやりきれない人種は、田舎の名士なり。

 われらの不真面目なる性情により、われらの大多数が人生現象を洞見し熟考する能力と習慣を欠くことにより、「ちぇっ、下らない!」との言の頻繁に発せらるることわが国の如きを見ず。かくも安易に、屡〻嘲笑を以て、他人の功績乃至は真摯なる問題に対すること、わが国の如きを見ず。また一面、権威の名の重んぜらるること、幾世紀にわたる奴隷の境涯によって卑屈となり自由を怖るる、われらロシヤ人に於けるが如きを見ず。……

 医者が商人(それも教育のある――)に、肉汁とチキンを勧めた。商人はてんから茶化してかかった。先ず昼飯に野菜スープと仔豚を食べて、それから医者の命令を思い出しでもしたように肉汁とチキンを命じ、これもぺろりと平らげた。とても滑稽だと思いながら。

 修道司祭《イエロモナフ》のエパミノンド神父は、魚を釣ってポケットに入れて置く。家に帰って食べたくなると、一尾ずつポケットから出して揚げる。

 貴族Xは、家具も備品も一切つけて領地をNに売って置きながら、何から何まで竈の風戸《かぜど》まで浚って行ってしまった。それ以来Nは、貴族と名のつくものは一切嫌いになった。

 金持のインテリXは農民の出だったが、手を合わさんばかりに息子に頼んで曰く、「ミーシャ、自分の身分を変えるなよ! 死ぬまで百姓でいるがいい。貴族にも商人にも町人にもなるなよ。今じゃ郡会の役人に百姓を処罰する権利が出来たという話だが、そんならそれで勝手に権能を持たせて処罰させて置け。」彼は百姓の身分を誇りにして、尊大でさえあった。

 ある謙遜な男のために祝賀の催しがあった。一同はいい機会とばかり、てんでに自己誇示やお互い同志の褒めっくらで時を忘れた。食事も終ろうという頃になってやっと気がついてみると――当の御本尊を招ぶのを忘れていた。

 可愛らしい物静かな奥さんが、激怒のあまりこんなことを言った。――「もし私が男だったら、あいつの横面を張り倒してやるんですのに!」

 回教徒は魂の救いのために井戸を掘る。私達も銘々に、生涯が跡形もなく永劫の中へ過ぎ行かぬため、学校か井戸か、何かそんなものを遺すことにしたらさぞいいだろう。

 われわれは卑屈と偽善とでへとへとになっている。

 犬に着物を食い破られたことのあるNは、今でも何処かへ這入るたびにこう訊く、――「ここには犬はいませんか?」

 Peter《ピョートル》 Demianych《デミヤーノウッチ》 Istochnikov《イストーニチコフ》.*
*源泉または名人の意。

 Grush《グルーシ》氏、Polkatytskij《ポルカトイツキイ》*氏。
*「梨」カトイク(有名な煙草製造者の名)の半分の意。

 男妾を職業とする若い男が、精力を保つため大蒜《にんにく》ソースを常用する。

 学校の主事。鰥夫《やもめ》ぐらしの司祭が、手風琴を鳴らしながら、『聖者には霊の安息《いこい》!』を歌う。

 のばしちゃうぞ*!
*「のしちゃうぞ!」の言い違いほどの可笑味。

 七月には高麗鶯が朝いっぱい歌う。

「Sigov《シゴーフ》(鮭)豊富に取揃え」――毎日街を通るたびにXはそう読んで、一たい鮭だけで店が立ち行くものか、誰が鮭を買うのかといつも不思議に思っていた。三十年たってからやっと、気をつけて正しく読んだ、「Sigar《シガール》(葉巻)豊富に取揃え。」

 技師の眼にうつる賄賂。――百円札の一ぱい詰ったダイナマイトの筒。

「あたくし、スペンサーを読んだことがありませんのよ。どんな事を書いているのか話して下さいな。一たい何に就いて書いていますの?」「あたくし、巴里の展覧会に壁間画《パノオ》を出品しようと思いますの。題材を下さらない?」(うるさい奥さん。)

 労働をしない人々、つまりいわゆる支配階級は、長いあいだ戦争なしでは居られない。戦争がないと彼等は退屈になる、安逸に倦んでいらいらして来る。何のために生きているのか分らなくなり、共喰いをしたり、せいぜい不愉快な悪口を、なるべく後の祟りのないような言い方で浴びせ合うのに懸命だ。なかで最も優秀な分子は、お互い同士にも自分自身にも飽きが来ないように、精根をつくすのである。ところが戦争が始まると、みんな吾を忘れて熱狂して、共通の不幸によって一致団結する。

 不貞をはたらいた妻は、大きな冷えたカツレツだ。誰かほかの人の手に握られたに違いないので、触《さわ》る気がしない。

 ある老嬢が、『敬虔の電車*』という論文を書く。
*古臭い敬虔と近代的な電車の対照から来る可笑味。

 Rytseborskij《ルイツエボルスキー》,Tovbich《トヴビチ》,Gremuhin《グレムーヒン》,Koptin《コプチン》*.
*「騎士の格闘」「乞食の負袋」「轟く」「煤ける」。

 彼女の顔には皮膚が足りなかった。眼をあくには口を閉じなければならぬ。及びその逆。

 彼女がスカートをもち上げて、しゃれたペチコートを見せると、男に見られつけている女のような身装《みなり》をしていることがわかる。

 Xが理窟をこねる。――「たとえば鼻《ノース》という字をとって見給え。ロシヤじゃ君、この字は尾籠千万にも、謂わば不体裁な肉体の一部を意味するね。ところがフランスじゃ、婚礼という字だぜ。」そして実際、Xにあっては鼻は不体裁な肉体の一部だった。