読書ざんまいよせい(025)

◎正岡子規スケッチ帖(004)

①同日 茄子《なす》
②七月二十二日晴 天津桃
③七月二十三日雨 甜瓜《てんか》[マクワウリ]一ツ梨二ツ
④[下村為山の画]

第三部から

子規氏の絵 下村為山

 自分が子規氏を知つたのは、子規氏が一高の寄宿舎である常磐舎に居た時であつた。常磐舎の監督をして居たのは、自分の親戚にあたる鳴雪〔内藤鳴雪〕氏で、鳴雪氏の家と常磐舎とは廊下一つでつながつてゐたので、時々嗚雪氏の所へ遊びに行く内、いつか常磐舎へも次第に出入するやうになり、子規とも相知るに至つたのであつた。その当時、子規氏は好く故人の俳句を写してゐたやうに憶えてゐる。
 その後私が本郷の湯島に下宿してゐた頃、子規は二三度訪ねて来てくれたが、何をその時話し合つたか忘れてしまつた。私は子規氏が「日本新聞」に入つた時代には郷里に帰つてゐた。が、日本新聞の別動隊といふべき「小日本」を出した時、子規氏は私に手紙を寄せて、今度新聞に俳句欄を作るやうになり、挿絵を入れたいと思つてゐるが、君一つ書いてはくれぬだろうかと相談されたことがあつた。当時の私は今のやうに日本画はやらず、専ら洋画をかいてゐたのであつたが、一々画材|迄《まで》指図されては困ると言つて、それに応ぜず、断りを言ひ送つた。で、挿絵は不折〔中村不折〕氏の方へ廻ることになつた。

 私が再度郷国から上京した時には、子規氏は、最早《もはや》病人であつた。私は常に御気の毒だと思つてゐたので、度々出かけて余り病人を疲労させてはと思ひ、却《かえ》つて見舞にも出かけずにゐた。唯だ句会には欠かさず出かけて、そこで子規氏に会つてゐた。子規氏は、病中にも拘《かかわ》らず好く短冊をかいては私にくれられた。その短尺は今も家に取つてある。

 恐らく誰にも話されなかつたことだらうと思ふが、或る時、子規氏は私に向つて、体が丈夫なら画家になつて見たく思ふよと言はれたことがあつたが、子規氏は却々《なかなか》絵が上手で、絵画の天分は性来的にもつてゐられた人のやうであつた。寝て居て、枕頭にある花や果物|杯《など》を水彩で写生してゐたが、その絵は誰に習つた訳ではないのに、自ら一家の風格を具《そな》へてゐた。言はば子供の自由画式のものだが併し簡略な筆致の中に却々好いものを表現してゐる。子規氏の絵について思ひ出したが、つい先日、私の郷里の人から、子規氏が幼年の折、(十二三歳時分)誰のものか分らぬが、或る画手本を写したものを送つて、私にその画帳に何か記してほしいと言つて寄越したことがあつた。その子規氏の写した画手本といふものは余程《よほど》好く考へて作られたもので、人物、風景、魚貝類の一々を、何人にも描けるやう、運筆の順序を一格々々平仮名文字で説明し、それを三十一文字の歌に作り成して、歌の通りに筆を運ぶと、自然画が描けるやうになつてゐたが、凡そ三四十枚ばかりあつて、赤紫の二色位で色取りが施してあつた。小冊子ではあるが、子規氏は実に根気好く、且つ忠実にそれを写してゐた。さうして表紙の裏に「正岡|升《のぼる》写す、十二歳」と記してあつた。私は此《こ》の画帳を見た時、子規氏が幼少時代より美術的に天分を有してゐたのを知つて、後年病中で私に画家になつて見たいと言はれたことの、謂《いわ》れなき気紛れ心からでなかつたのをしみじみと感じたのであつたが、恐らく子規氏は、画家として立たれても、亦《また》驚くべき才能を発揮せられたらうと私は思つてゐる。子規氏の幼年時代の絵、並《ならび》に病中略画に見てもその豊かなる才分は十分に窺知《きち》し得らるる所で、氏の多方面的才能には、驚かざるを得ない。
〔「日本及日本人」第百六十号(正岡子規号)昭和三年〕

編者注】寒川鼠骨の文章二篇は、2025年1月に、著作権が消失するので、時期が来れば、改めて投稿する。

読書ざんまいよせい(024)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(007)


編者注】対ウクライナ侵略戦争の激戦地、マリウポリは、チェーホフの生誕地、タガンロフのすぐ隣地だとわかる。一刻も早く、戦争状態が止むことを切に望む。

 吃り吃り馬鹿げたことを喋る男と、毎日食卓を共にするのは堪らない。

 まるまると肥った、いかにも美味そうな女を見て。――こりゃあ女じゃない、満月だ!

 御面相から判じると、胴着の下にどうやら鰓でもついていそうな女。

 笑劇のために。――Kapiton《カピトーン》 Ivanych《イヴアーヌイチ》 Chirij《チリイ》*.
*腫物の意。

 税額査定員と内国消費税吏が、訊かれもしないのに自分の地位を弁明して言う――「面白い仕事ですよ。やることは山ほどあるし、何しろ生きた仕事ですからね。」

 彼女は二十のころZを恋していたが、二十四のときNに嫁いだ。恋愛ではなく、見込みをつけての結婚だった。つまりNを善良で聡明で考えのしっかりした男と思ったのである。N夫婦の仲は円満で、羨望の的になる。まったく彼等の生活は坦々と順調に流れて行く。彼女は満足で、恋愛の話が出ると、夫婦生活に必要なのは恋愛でも情熱でもなく、親しみなつく心だという意見をはく。ところが、不図した拍子に心の琴線が奏ではじめて、胸のなかのあらゆる思いが、春の氷のように一時にひらいた。彼女はZのことや、彼への自分の恋を思い出した。そして、自分の生活はほろびてしまった、もう取返しはつかない、自分は不仕合せな女だと、身も世もあらず思い悶えた。それもやがて忘れた。一年の後、また同じ発作に襲われる。新年を迎えて、「新しい御幸福を」と人に言われたとき、本当に新しい幸福が欲しくなった。

 Zが医者のところへ行く。医者は診察して心臓が悪いという。Zは急に生活法を一変して、強心剤《ストロファンチン》を用い、病気の話ばかりする。で、町じゅうの人が彼の心臓の悪いことを知ってしまう。かかりつけの医者たちもやはり、心臓が悪いと言う。彼は結婚もせず、素人芝居にも出ず、酒も断ち、息をころしてそっと歩く。十一年たってモスクヴァへ出て、大学の先生に見て貰う。その先生は心臓はまったく健全だという。Zは喜ぶ。が、早寝と静かな歩調に慣れてしまった今では正常の生活に戻ることは出来ない。それに病気の話をしないと今では退屈でならない。医者たちを怨むだけで、ほかにどうしようもなかった。

 女は芸術に魅せられるのではない。芸術の取巻き連の立てる騒音に魅せられるのだ。

 劇評家Nは女優Xの情人である。彼女の祝儀興行。脚本も駄作なら演技も拙劣だが、Nはいやでも褒めなければならぬ。彼は手短かに書く、「脚本も花形女優もともに大成功。委細は明日。」最後の二語を書いて彼はほっと息をついた。翌日Xのところへ行く。女は扉をあけ、キスと抱擁を許してから、意地わるな顔をしていう、「委細は明日!」

 Zがキスロヴォックか何処かの温泉場で、二十二歳の娘と一夜の縁をむすんだ。貧しい実意のある娘なので可哀相になって、約束の金のほかに二十五ルーブルを用箪笥の上に置いて、善根を施したあとのいい気持でその家を出た。そのうちにまた行って見ると、例の二十五ルーブルで買い込んだ贅沢な灰皿と毛皮帽子が目についた。娘はというと、またしても腹をすかして、こけた頬をしている。

 Nは地所を抵当に貴族銀行から四分の利息で金を借りる。その金を、やはり地所を抵当に一割二分の利息を取って貸す。

 貴族だと? やっぱり醜悪な形体と、肉体的不浄と、痰と、歯の抜けた老年と、嫌悪すべき死と――町人女も同じことさ。

 Nは記念撮影のときは必ず一同よりも前に立ち、祝辞には一ばん上に署名し、記念式ではイの一番に演説をする。「ほう、スープですな! ほう、揚菓子ですな!」と、しょっちゅう驚いてばかりいる。

 Zは来客が多いのに閉口した。そこでフランス女を傭い入れた。月給を出して、妾という触込みで住み込ませたのである。これが婦人連に衝動を与えて――誰も来なくなった。

 Zは葬儀屋の松明《たいまつ》担ぎをしている。理想主義者である。『葬儀屋で』。

 NとZとは温順しい、心の濃やかな親友同士だったが、連れだって人中へ出ると、すぐもうお互いに毒口を利きはじめる。――きまりが悪いのである。

 愚痴。――うちの息子のステパンは身体が弱いので、わざわざクリミヤの学校へ入れてやりました。するとあの子は葡萄の蔓《つる》でぶたれて、そのためお尻のへんに葡萄虫《フィロクセラ》が附きました。今じゃお医者様も手のつけようがありませんの。

 ミーチャとカーチャはお父さんから、石切場で岩山を爆発する話を聞いた。そこで怒り虫のお祖父さんを爆発して見たくなって、お父さんの書斎から火薬を一|露封度《フント》もち出した。それを壜一ぱいに詰め込んで、導火索《ひなわ》を引いて、昼寝をしているお祖父さんの肱掛椅子の下に装置した。ところが軍楽隊が通ったので、この計画は辛くも実行を妨げられた。

 眠りは玄妙不可思議なる自然の神秘にして、人間の凡ゆる力を心身ともに一新せしむ。(僧正ポルフィーリイ・ウスペンスキイ『わが生涯の書』)

 ある奥さんが、自分は人並外れた特別な体質の持主で、したがってその病気も特別なもので、とても普通の薬では間に合わないと思っている。自分の息子も世間なみの子ではないから、特別な育て方をしてやらなければならぬと思う。世間のしきたりを認めない訳ではないが、それは一般の人が守るべきもので、彼女にだけは当て嵌らないと考えている。自分だけは例外的な条件のもとに生きているからである。息子が大きくなったので、彼女は何か特別な嫁を捜してあるく。まわりの者が迷惑する。息子は出来損いだった。

 憐れむべき多難の芸術よ!「奥さん、ほら天童《ケルビム》を担いで来ましたよ!」(教会の旗*)。
*旗には天童の像がついている。それを洒落れて言った。

 自分が幽霊だと思って気が狂った人。夜更けになると歩き廻る。

 ラヴローフ型のセンチメンタルな男が、甘い感動にひたりながら、こんなことを頼む、「ブリャンスクの叔母さんに手紙をやって下さい。とても可愛い人ですよ……」

 納屋はいやな臭いがする。十年前に草刈人夫が寝泊りして以来、この臭いがついた。

 士官が診察して貰いに来る。お金が盆の上に載っている。患者がその盆から二十五ルーブル取って、それで払いをしたのを、医者は鏡の中でちゃんと見ている。

 ロシヤは官立の国だ。

 Zは陳腐なことばかり言う。「若熊のような敏捷さで。」また、「人の痛い所を。」……

 貯金局。そこに出ている役人は非常にいい男だが、貯金局を軽蔑して無用の長物だと思っている。――そのくせやっぱり勤めている。

 急進的な婦人。夜なかに十字を切る。内々《ないない》は色んな偏見で一ぱいで、人しれず迷信家である。幸福になるには夜なかに黒猫を煮るがいいと聞く。猫を盗んで、夜なかに煮ようと試みる。

 出版者の創業二十五年祝賀会。感涙、演説――「文芸基金として金十ルーブルを義捐つかまつり、その利子を貧苦に悩む作家に授与いたそうと存じます。但し授与規定の作成のため、特別委員会を指命致したく存じます。」

 彼はルパーシカ一枚で押通して、上衣を着ている人間を軽蔑した。そんな国粋主義は、ズボンで甘酒を製るのも同じだ。

 まるで患者が温浴をしたあとの牛乳で製ったようなアイスクリーム。

 見事な建築用材の森があった。林務官が任命された。――すると二年後には森はもうない。蚕の蛾が発生して。

 X曰く、「クヴァス*をやったら腹の中がコレラみたいな騒ぎを起しちまって。」
*ライ麦製の無色飲料。

 一作ずつ切り離して見ると光っているが、全体として見ると頼りない作家がある。一作一作には何の特異さもないが、全体として見ると頼もしく光っている作家もある。

 Nが女優の家の呼鈴を押す。おろおろして、動悸が打って、とうとう怖気づいて逃げだす。女中が開けて見ると誰もいない。彼はまたやって来て呼鈴を押す――が、やっぱり上り込む決心がつかない。挙句のはてに門番が出て来て彼をどやしつけた。

 おとなしい物静かな女教師が、内証で生徒をぶつ、体刑の利き目を信じていたから。

 N曰く、「犬ばかりじゃなく、馬までが吠えました。」

 Nが嫁を貰う。母親と妹は彼の妻に無数の欠点を見出して、とんだ嫁を貰ったと嘆く。三年か五年してやっと、彼女も自分たちの同類だと納得がゆく。

読書ざんまいよせい(023)

◎正岡子規スケッチ帖(003)

①七月二日曇 山形ノ桜ノ実
②七月十日雨 昨日来モルヒネノ利《き》キスギタル気味ニテ昼夜|昏々《こんこん》夢ノ如ク幻ノ如シ 食欲少シモ 無シ 今朝|睡起《ねおき》漸《ようや》ク回復ス 午餐《ごさん》ヲ食シ了《おわ》ツテ巴旦杏《はたんきょう》〔スモモ〕ヲ喫ス 快言フペカラズ
③七月十四日小雨 桃二顆
④七月十六日曇 夏蜜柑又|夏橙《なつだいだい》

岩波文庫には、第二部、第三部として、当時の新聞論調や諸家の批評が載っている。このうち、版権が消失している分から、収録する。

第二部 子規の絵画観

「明治二十九年の俳句界」より

(四)

 印象の明瞭なる句を作らんと欲せば高尚なる理想と茫漠たる大観とを避け、成るべく客観中の小景を取りて材料となさざるべからざること既に之《これ》を言へり。印象の明瞭といふ事は美の一分子なれども一句の美を判定するは印象の明不明のみを以《もっ》てすべからざること勿論なり。印象の不明なる句の中に幽玄深遠なる者もあり。印象の明瞭なる句の中に浅薄無味なる者もあり。即《すなわ》ち印象不明なるがために却《かえ》って善く印象明瞭なるがために却って悪しき者さへあるなり。然《しか》れども碧梧桐《へきごどう》の特色は多く印象明瞭なる処《ところ》に在り且《か》つ其《その》好むところ亦印象明瞭なる一方に傾くを以て吾人が此《ここ》に論ずるところも亦此一点に在り。
 印象明瞭といふことは絵画の長所なり。俳句をして印象明瞭ならしめんとするは成るべくたけ絵画的ならしむることなり。内容に限りある俳句は到底複雑精緻なる絵画を学ぶ能《あた》はざるを以て簡単明快なる絵画を学ばざるべからず。絵画にー枝の花、一羽の鳥、数顆の菓物、婦人半身の像あるが如き碧梧桐の俳句と相似たる者なり。此の如き絵画、此の如き俳句は写生写実に偏して殆《ほとん》ど意匠なる者なし。精密帮言にへば意匠無き絵画、意匠無き俳句はあるべからざる筈《はず》にてー枝の梅も数顆の梨も其形状の上に於て配置の上に於て多少の撰択と取捨とを要すること勿論なれども他の理想の多き者に比して殆ど意匠無しといふて可なるべし。此意匠無き絵両俳句が美術文学の上に幾何《いくばく》の価値を有するかといふは一疑問に属す。
 理想に偏する人は此の無意匠の著作を嫌ふて浅薄無味|蠟《ろう》を嚙《か》むが如しと為す。普通一般の人も亦之を見て何等の興味をも感せず。而《しか》して此柿の絵両を見て多少の感を起す者は絵画の技術に経験ある者と些《いささか》の智識も無き田舎の爺様婆様の徒を多しとす。(俳句は専門家の感を起すこと同様なれども、爺婆を感ぜしむること能はず。蓋《けだ》し俳句は文字といふ符号を用うるを以て全く無教育無知識の若を絵両の如く直覚的に感ぜしむる能はざるなり)爺婆の感ずる所は「ああ美しい」と感じ「本とうの物のやうだーと感ずるのみにして専門家の複雑なる感情を起す者と同じからずといへども「本とうの物のやうだ」と感ずる一点に至りては両者密も異なることなく、専門家の第一要点として見る者亦実に此処《ここ》に在り。是れ専門家は技術の熟練に感ずる者にして多くは自家の経験より出づ。之を排斥する者には二説あり。日く 一花ー烏の簡単なる事物は尋常にして無味を免れず、同じく写生なりとも今少し珍しき事物、複雑なる事物を写すべしと。日く写生は天然を写すなり。然れども吾人の美術家に望む所は天然よりも史に美なる者を写すに在り。美術家は高尚なる理想を写し出ださざるべからずと。
 第一説は簡単と複雑との美の比較にして(此説を極論すれぱ第二説となるべし)説者は複雑を以て簡単よりも美多きものと為すなり。此小に就きては曽《かつ》て屬々《しばしば》論ぜし所あるを以てここに詳論せずといへども、要するに吾人は此説を否定し、複雑なる者の美、必ずしも簡単なる者よりも多からずといふなり。即ち簡単なる器にして複雑なる者より善きもあり、又複雑なる者にして簡単なる者より悪きもあるなり。例へばー株の牡丹を画く者必ずしもー園の牡丹を画く者に劣らず、石版摺《せきはんずり》の楠公《なんこう》父子訣別の図は必ずしも抱一《ほういつ》[酒井抱一〕上人の一花草の図に勝《まさ》らざるなり。
 説者日く子の言必ずしも偽ならず、然れども大体に於て複雑なる者は簡単に勝ると。吾《われ》問ふて日く大体とは如何《いか》なる意ぞ。説者答ふる能はず。少題《しょうけい》〔しばらくの間〕口を開いて日く、簡単にも美なる者あり。然れども簡単にして最も美なる者と複雑にして域も美なる者とを比較せば、簡単なる者は必ず複雑なる者に劣るべしと。吾日く是れ殆ど比較すべからざる事なり。美術の価値は比校的の者なれば自ら見たる画の外《ほか》に最上の美なる者を想像すべからず、縦《よ》し想像し得たりとも其が最上の画なりや否やを知るべからず。一歩を譲りて子の実験中の画に就きて之を言ふも子が複雑の方を可とするに反して、簡単の方を可とする者もあらん。画の価値が評者によりて多少の相違あること致方《いたしかた》も無きことにて固《もと》より之を判定すべき法律も無ければ、各自の標準を以て判定するより外なけれども、吾は複雑を以て簡単に勝るとするの説には賛せざるなり。さりながら簡単を以て複雑に勝るとも主張するに非ず。吾は簡単の美と複雑の美と各特色ありて必ずしも優劣を判する能はずとするなり。只《ただ》製作の上に於て簡単なる者は変化少く複雑なる者は変化多し。従って多数の意匠を得ることは複雑なる若简単なる者に勝れり。是れ数に於て見易き道理にして吾も之あるを認む。然れどもこれは美の区域の広狭にして美の程度の高低に非《あらざ》るなり。

(五)

 第二説は純粋の写生といふ事を非難するなり。絵両にして純枠のゆ牛たる以上は画家の意匠の上に殆ど見る可き者なく貴ぶべきなしといヘども、写生の技術にして巧ならば其技術の上だけにても人を喜ばしむる筈なり。説者若《も》し写生の技術を斥けて、开《そ》は写真師の撮影術に巧拙あると一般普通の技術として見るべきも美術として見るべきに非ずと言はばそれ迄《まで》なり。されども撫子《なでしこ》の花を両いて撫子に似たらば実際の撫子を見て起すだけの感は画を見ても起る筈なり。説者若しそれをも擯斥《ひんせき》して、画にして此の如きものならんに実物を見て足れり、画を見るに及ばずといはば、これもそれ迄なり。
 此種の人多くは画家に向って極めてむつかしき注文を為す人にして共むつかしき注文に合はざる普通の絵画を以て無用とするなり。其の注文必ずしも悪《あし》きに非ず。或は其注文には最も高尚純潔なる観念を含むことさへあれば画家は此の注文にも応じて製作せざるべからず。しかはあれど画家の翺翔馳駆《こうしょうちく》すべき区域は此むつかしき注文が命令する程の狭隘《きょうあい》なる者に非ず。人間が感じ得べき美の種類も或る理想家が感ずる如き特種の者に限られざるなり。
 今ここに一本二本の野花を巧《たくみ》に画きたる者ありと仮定せよ。吾は之を見て美を感ずべし。少くも天然の実物を見て起すだけの感を起すべし。否《いな》実物を見るよりも更に美なる感を起すことさへ少からず。是れ其形状配置の巧なるにも囚《よ》るべけれど又周囲に不愉快る感を起すべき者無きにも因るべし。即ち絵画の材料として美なる者のみを摘み来りしに因るなり。縦《よ》し一歩を退いて此等の実物以上の感無しとするも絵画は厳冬の候に当りて盛夏の事物を見せ得べく、一室の中に在りて山野の光景をも見せ得べし。曽て見たる者をにても再び見せしむるも絵画の力なり、未だ見ざる所を実に見るが如く明瞭に見せしむる絵両の力なり。写生の一点より論ずるも絵画にして幾多の変化せる.天然の美を容易に眼前に現出するの功あらば猶《なお》美術として存ず<ママ>べきにあらずや。況《いわ》んや純粋の写生にも猶ほ多少の取捨選択あるをや。
 然るに或る理想家が全く之を排して無用の者と為すは其実《そのじつ》、天然美の模写を以て無力と為すのみにあらずして犬然物|其物《そのもの》の美を感ぜざる者多に居る。一草一木の画を見て何等の感を起さぬ人は多く実物の一草一木を見て感を起らぬ人なリ。此種の人の美と感ずるは多く天然にあらずして人間に在り。天然的に見たる人間にあらずして人情的に見たる人間に在り。即ち人間の美は大然の美よりも多しといふに在り。吾の説は之を否定して人間の美必ずしも天然の美より多からずといふなり。或は忠孝を以て美の極致と為し或は恋愛を以て美の極致と為す器あれども吾は必ずしもしか思はず。非情の草木、無心の山河亦た時に之に劣らぬ美を感ぜしむるなり”此の説は略々《ほぼ》前の簡単複雑の説と同一致なる者なれば復《ま》たここに言はず。天然は多く簡単にして人情は多く複雑なりとの一語を言ふを以て足れりとすべし。
 以上主として絵画に就きて論じたれども俳句に於けるも同じ事なり。吾人は此等の点に於て絵画を論ずるも俳句を論ずるも共他の文学美術も同一ならざるべからずと信ずるなり。世人或は文学を重んじて絵両を軽んずる者あり。或は理想を絵両に要求せずして文学にのみ要求する人あり。吾人は此等の謬見《びゅうけん》を破らんがために、且つ印象の点に於て其極端を現さんがために特に絵画を論じたり。絵両を詳論したるは即ち俳句を詳論したるなり。
〔「日本新聞」明治三十年一月六日、一月七日付]

参考】
・復本一郎編「正岡子規スケッチ帖」(岩波文庫)
・国立国会図書館デジタルコレクション「正岡子規 果物帖」

読書ざんまいよせい(022)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(006)

 悪には抗しえないが、善には抗しうる。

 彼は坊主のように権門に媚びる。

 死人に恥辱はない。だがひどい悪臭を放つ。

 敷布の代りに汚ないテーブル掛。

 ユダヤ人Perchik.*
*小っぽけな胡椒。

 俗物が会話のなかで――「そのほか何《なん》が<傍点>ら何《なん》まで。」

 大ていの富豪は図々しくって自惚れの強いものだが、その富をまるで罪のように背負っている。もしも貴婦人や将軍が慈善の催しに彼の寄附を求めず、貧しい学生も乞食もいなかったら、彼は定めし憂鬱と孤独を感じることだろう。もし乞食がストライキを起して、一さい彼の施しを求めぬことに申し合わせたら、彼は自分から出掛けて来るに違いない。

 夫が友人たちをクリミヤの別荘へ招待する。あとで妻は、夫には黙って勘定書をそのお客さんたちに出して、間代と食事代を受けとる。

 ボターポフは兄と親交を結んで、それが妹への恋のもとになる。妻と離別をする。やがて息子が、兎小屋のプランを送って来る。

 ――僕はうちの畠に豌豆《えんどう》と燕麦を蒔いたよ。
 ――つまらんことをしたものだ。Trifolium(苜蓿《うまごやし》)を蒔けばよかったのに。
 ――豚を飼いはじめたのさ。
 ――つまらん。有利でない。仔馬を飼った方がいい。

 友情に厚い少女が、非常に美しい動機から、困ってもいない親友Xのために寄附金を募って歩いた。 何故こうも屡〻コンスタンチノープルの犬*のことを書くのだろう。
*コンスタンチノープルは野良犬の多いことで有名。

 病気。――あの男は水療法《みずりょうほう》に罹ってね。

 知人の家へ行くと、ちょうど夜食の最中で、お客が大勢いる。とても賑かだ。隣り合う婦人連と世間話をしたり、葡萄酒を飲んだりで私は愉快だ。とてもいい気分。突然Nが検事みたいな荘重な顔付で立ち上って、私のための乾杯の辞をやる――「言葉の魔術師よ、理想の影が朦朧と消えゆく現代に残された理想よ……願わくは聡明にして久遠なるものを種播《たねま》かれんことを……。」私は、それまですっぽりと頭巾をかぶっていたのに、その頭巾を取られて、銃の先で狙われるような気がした。スピーチが済むと、杯を打ち合わせて、それから沈黙。座は白けてしまった。「さあ、貴方が何か仰しゃる番よ」と隣席の婦人が言う。だが何を言えばいいのか。私はその男に酒瓶でも投げつけてやりたかった。で、胸の底に沈渣《おり》が溜っているような気持で寝床につく。「見給え、見給え、諸君。この席には何という馬鹿者がいるのだ!」

 小間使が寝床を直すたびに、スリッパを寝台の下のずっと壁際へ投げ込んで置く。肥っちょの主人が到頭かっとして、小間使を追出そうとする。ところがこれは、肥満症を癒すためスリッパを成るべく奥の方へ投げて置くように、医者が彼女に命じたものと判明した。

 あるクラブで、会員一同が不機嫌だったばかりに、さる立派な男を落選させた。そして彼の将来を台無しにしてしまった。

 大きな工場。若い工場主が皆を「お前」呼ばわりして、学士号のある部下たちに暴言を吐く。ドイツ人の庭男だけが勇敢にも憤慨した。――「お前《めえ》何を言うだ、この金袋め!」

 Trachtenbauer《トラフテンバウエル》という苗字の、ちっぽけな豆みたいな生徒。

 新聞で大人物の死を知ると、そのたびに喪服を着る男。

 劇場で。ある紳士が、前にいるレディの帽子が邪魔になるので、脱いで下さいと頼む。不平の呟き、腹立たしさ、歎願。とうとう白状に及ぶ、「奥さん、私が作者なんですよ!」――その返事、「あたし別に構いませんわ。」(作者は人目を忍んでこっそり劇場に来ている)

 賢く振舞うには、賢いだけでは足りない。(ドストエーフスキイ)

 AとBが賭をする。Aはその賭でカツレツを十二皿きれいに平らげる。Bは賭金を払わないのみか、カツレツの代まで払わない。

読書ざんまいよせい(021)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」

第一章 ヤノウカ(続き)

 この地方では、冬は平和な時であつた。たゞ鍛冶場と製粉場とが實際に動いてゐる許りだつた。燃料として、私達は、召使が途中にばら撒きながら腕いつぱいに抱へ込んで來る麥藁を燃した。ばら撒いたものは、彼等が後で集めて掃除した。この麥藁をストーブの中へ詰込んで、それの燃上るのを見守つてゐるのは愉快だつた。何時だつたかグレゴリイ伯父さんが、私と妹と許りが、靑い木炭素の煙でいつぱいになつた食堂にゐるのを見つけ出したことがあつた。私はぐる/\室內を廻つてゐて、自分が何處にゐるのかも分らなかつた、そして伯父さんの大聲で呼息も絕え絕えで倒れた。私達は冬になると、殊に父が留守になつて、凡ての仕事が母の手でなされてゐる時には、よく私達許りで家の中にゐたものだ。薄闇の中で妹と私は竝んでソファーに坐り、固く抱合ひ、眼を見張つて動くことを恐がつたものだ。
 大きな靴をのろ/\と動かしながら、大きなカラーのついた馬鹿々々しく大きな上衣に包まれ、大きな帽子を被つた巨人が、寒い外から暗い食堂へ這入つて來ることがあつた。彼の手は大きな手套の中へ突込まれてゐた。大きな氷柱《つらら》が彼の頤髭からぶら下つてゐて、彼の大きな聲はごおん/\と闇の中に響いた。『今晚は。』だが私達はソファーの隅でひしとかじりつき合つて、返事をすることも恐かつた。さうするとその怪物はマツチをすつて、隅に小さくなつてゐる私達を覗き込むのだ。見ると臣人は私達の隣の人であつたのだつた。時によると食堂の中での寂しさが、とても耐えられないものになつて來ることがあつた。さうすると私は寒いのをかまはず、外廊下に飛び出して、前の扉を開き、、閾の上に橫つてゐる大きな石の上に上つて、闇に向つて『マシュカ! マシュカ! 食堂へお出よ!と再三再四金切聲で叫ぶのであつた。マシュカは料理場とか、女中部屋とかその他の所にゐて、自分の仕事で忙しかつたのだ。遂々最後に母が、多分製粉所から歸つて來たのだらう、ランプを點し、サモワルを運んで來るのだつた。
 私達は、夜は私達が眠り込むまで食堂に坐つてゐる習慣だつた。人々は鍵を取りに來たり返しに來たり、種々なことの手筈をきめたり、明日の仕事の計畫をしたりするために、食堂を這入つたり出たりした。そこで私の妹のオリヤと姉のリザ、部屋女中と私自身は、いつも大人の生活に從屬し、彼等によつて指導させられてゐるのだか,こんどは私達自身の生活を展開した。時には大人の中の誰かの偶然の言葉が、私逹に何にか特別の記憶を呼起した。
 そこで私が妹に目をしかめると、彼女は低い聲でくす/\と笑つた。さうすると大人達は上の空で彼女の方を見る。私はも一度目をしかめた、すると彼女は油布の下で笑を殺さうとして、頭をテーブルにぶつゝけた。これは私にも傳染し、時にはまた十三歲と云ふ貫祿をもつて大人と子供との中にさ迷つてゐた姉にまで傅染した。私達の笑ひが制禦し得られないものになつて來ると、テーブルの下へ滑り落ちて、大人の足の間を這廻り、おつかなびつくりもので、保姆の部屋である次の室に飛込まねはならなかつた。再び食堂へとつて返すと、それがも一度始つた。私の指は笑ひのためにコップを持つことが出來ない程ぐにや/\になつた。私の頭、私の唇、手、足、私の身體の何處でもが笑ひ震へた。『まあ、どうしたと云ふのだい、お前達は。』と母が訊ねるのだつた。生活の二つのサークルである年長者と幼年者が、一寸の間接觸する。大人は彼等の目を怪げんさうにして子供達を眺める、それは時には馴れ馴れしいものであるが、多くは精いつばいいら/\してゐるのだ。すると不意に湧上つた私達の笑ひはどつと爆發する。オーリヤの頭は再びテーブルの下に這入り、私はソファーの上に身を投出し、リーザは上唇を嚙み、そして部屋女中は扉の外へ逃出すのである。
 すると大人達は『もうお寢みよ。』と叫ぶ。
 然し私達は寢床へは行かない。私達は互ひに顏を見合はせるのを恐れて隅の方へ隱れる。私の妹は床の中へ運んで行かれることがあつたが、私はいつもソファーの上で眠り込むのだ。誰か了私を腕の中へ抱上げて、つれて行つてくれたこともあつた。さうすると私は半分眠つたまゝ、私が犬に迫つかけられてゐたところや、蛇が私の前でのた打つてゐたところや、盜賊が私を森の中へ連れて行つてゐたやうな夢を見て、大きな聲を擧げてわめいたものだ。子供の夢魔は大人の國樂の邪魔をした。寢床へ行く途中では、私はもう溫和しかつた。彼等は私を軟かく叩いてキツスをしてくれた。だから私は笑ひから眠りに、夢魔から正氣に、そして溫かい寢室の羽根の床の中で再び眠りに落ちたものだ。
 冬は一年の中の家庭時代である。母や父が滅多に家を開けない日が來る。兄や姉がクリスマスで學校から歸つて來る。日曜日には綺麗に頭を洗ひ、顏を剃つて、櫛と𨦇とをもつたイヴン・ワシリエヴヰツチが、まづ最初に父の頭を刈り、それからサアシヤの頭を、その次に私の頭を刈つた。
『カブール式に毛が刈れるかね。イヴン・ワシリエヴヰツチ?』とサアシヤが訊ねる。皆がサアシヤを見る。すると彼はエリザヴエートグラードで、以前に床屋が彼の毛を、美しいカブール式に刈つたが、次の日に彼は學生監から嚴格な譴責を與へられた、と說明する。
 散髮が終つて後、私は晝食の席に坐る。父とイヴン・ワシリエヴヰツチとはテーブルの兩端の时掛椅子に、子供達は安樂椅子に、そして母はその向ふ側に座つた。イヴン・ワシリエヴヰツチは彼が結婚するまで私達と一緖に食事をしてゐたのだ。冬は、私達はゆつくりと食事をし、その後でも坐つて話をした。イ・ワン・ワシリエヴヰツチは煙草を吸つて巧妙な煙の輪を吹いた。また時々サアシヤやリーザが聲高く本讀みをすることもあつた。父はストーヴの凹みの所で居眠りをした。私達は、たまには宵のうちに、お婆拔きをやつたが、そのために仰山な騷ぎと笑ひが起り、そして時には小競合まで始まつた。私達は、少しも注意しないでやつてゐる父を詐すのが一番愉快だと思ひ、そして父が失敗すると笑つた。その代り母は上手にやつた、そして興奮して來て、母を詐さうとしてゐはしないかと銳く兄に注意をしてゐた。
 最も近い郵便局は、ヤノウカから二十三キロメートルもあり、鐵道までは三十五キロメートル以上もあつた。そこから官廳や商店や市の中心には更に遠く、そして澤山の出來事のある世界には遙かにずつと遠かつたのだ。ヤノウカの生活は、農場での勞苦のリズムによつて、完全に調整されてゐた。何事も起らず、世界市場に於ける穀物の値段の他には何もなかつた。その頃私達は田舍で雜誌ー册、新聞一枚見たことがなかつた。それを見たのは、ずつと後になつて私が高等學校の生徒になつてからのことである。たゞ手紙だけは特別の場合に受取ることがあつた。時には近所の人がボブリネツツで私達宛の手紙を發見することがあり、それを彼のポケットに入れたまゝ、一週閒も二週閒も持つて步くことがあつた。手紙が一寸した出來事なら、電報は大事件だつた。電報と云ふものは針金を傳つて來るものだと或人が私に說明した。けれども私は、大人が馬に乘つて電報を持つて來るのを見た、その電報には父が二ルウブル五十コペツク拂はされた。電報は手紙のやうな紙片だつた。それには言葉が鉛筆で書いてあつた。風が針金をつたはつて手紙を吹きつけるのだらうか? 私はそれが電氣の力で來るのだと敎へられた。それはなほ惡るかつた。アルバム伯父さんは一度熱心に私のために說明してくれた。『電流が針金を渡つて來て、紙片《リボン》の上に印をつけるのだよ。私の云つたことを繰返してごらん。』私はくり返した。『電流が針金の上を來て、紙片に印をつけるのだ。』
『どうだい、解つたかい?』
『うん、解つたよ、だがだれがどうして手紙になるのだらう?」と私はボブリネツツから來た電報賴頼信紙のことを考へながら訊ねた。
『手紙は別に來るんだよ。』と伯父さんは答へた。私は一寸當惑したがすぐ訊ねた。『ぢや何故手紙が馬に乘つた人に屆けられるのに、なぜ電流の必要があるのだらう?』だがこゝで伯父さんは我慢の緖を切らしてしまつた。『うん、手紙は別だよ、俺はお前に逐報のことを說明して遣らうとしたのだ、だのに、お前は手紙のことを言出すのだ』と怒鳴つた。だもんだから問題は不可解のまゝで殘つたのだ。
 ボブリネツツから來た婦人のポウリナ・ペトロヴナは私達の家に宿つてゐた。彼女は長い耳環と、額に捲毛をもつてゐた。後で母が彼女をボブリネツツへ送つて行つたので,私も彼女達と一緖に行つた。私達が十一ベルストと印した標柱を通り越した時に電柱の列が現れて、その針金が唸つてゐた。
『電報はどうして來るの?』と私は母に訊ねた。
『ポウリナ・ペトロヴナに訊いてごらんよ。』と母は當惑して答へた。『あの方が說明して下さるでせう』
 ポウリナ・ペトロヴナは說明した。
『その紙片の印は字の代りなのですよ。電信技師がそれを紙に書きつけ、その紙が馬に乘つた人によつて配られるのです。』私はそれでやつと解つた。
『だが電流は誰も番してゐないのに、どうして行くのでせう?』私は針金を見ながら訊ねた。
『電流は針金の中を行くのですよ、その針金は小さな管のやうに出來てゐて、電流はその中を走るのです。』とポウリナ・ペトロヴナは答へた。
 私はそれも理解した。そしてすつと後になつてやつと得心した。凡そ四年後に私の物理の先生が云つてくれた電磁氣流動體は、私には遙かに譯のわからない理論的な說明だと思つた。

読書ざんまいよせい(020)

◎蒼ざめたる馬(005)
ロープシン作、青野季吉訳

◎蒼ざめたる馬(004)
ロープシン作、青野季吉訳

 四月六日

 復活祭の前週間は過ぎた。今日、楽しいは鳴り響いてゐる。復活祭の日曜日だ。夜は、投び 満ちた行列、キリストの讃美の中に、過ぎた。街々は朝から澤山の人出がして、林檎一つ落ちる 余地もない。頭に白いハンカチーフを巻いた百姓女、兵隊、襤褸を着た食、制服の學生 彼等はみんな接吻したり、 向日葵の種を噛んだり、お僥舎《しやべ》りをしたり、笑ったり、無駄口をたさいたりしてゐる。赤い復活祭の卵や、しやうが<傍点>餅が路傍で賣られ、色のついた風船がリボンにつながれてゐる。群衆は、巣の中の密蜂のやうに、ブンブン鳴りざめいてゐる。
 少年時代に私達は、四旬齋《レント》の六週間のあひだ聖晩餐の仕度をした。 丸一週間斷食をして、式の日にも、晩餐の儀禮のすむまでどんな食べ物に觸れなかつた。それから五週間目《パツシヨンウイク》が来た。 ……おゝ、私達の跪拝の狂熱、會堂に展けられた救世主の御慕への熱情的な密着! 「主よ、われらが罪を赦させ玉へ。」復活祭の朝々は、天國のやうな感じを與へた。蠟燭の輝き、蠟の匂ひ、僧侶の雪白な法服、金色の龕があつた。・・・・・興奮で息が詰りそうであつた。キリストはすぐ甦り玉ふか?
 私達は清められた復活祭のバンの一片を持つてすぐ家に歸らうか?
 家では、すべてがお祭りの仕度になつてゐた。復活祭の全週間はお祭り日であつた。
「お占ひなされ、旦那さま。」一人の小娘が私の手に封じ物を押し入れた。
 小娘は裸足で襤褸を着てゐる。お祭りらしい様子は何にもない。 彼女から買った灰色の紙に、次のやうな豫言がある。
「悪運に追廻さるとも、希望を棄つる勿れ、失望に道をゆづる勿れ。汝は大いなる困難に打克ち、運命をして汝にその車輪を向けしむるならん。汝の企は、汝の思ひしよりも更に一層大いな る、全き成功を以つて飾らるゝならん。」
 そうだ、私にとって、これは佳い復活祭の卵ではないか?

 四月七日

 ヴァニアは他の人達と一緒に、馭者立場に暮してゐる。彼は腰掛の上に彼等と喰付いて眠る。彼は共同釜で食つてゐる。 自分で馬の手入れをして、馬車の掃除をする。 彼は馬車を驅って、終日、街中で費す。彼はこぼ<傍点>さない。彼の仕事にすつかり満足してゐる。
今日、彼は新しい着物を着て居り、頭髪は鮮やかに油をぬられて、長靴は氣持よく鳴る。
 彼は私に云つた。
「遂に復活祭が来た。それは善い・・・・・・キリストは甦った。眞實だよ、ジヨーヂ。」
「うむ、何が善いことだい?」
「あゝ、君は・・・・・・君は悦びを持つてゐない。君は、萬象を在りのまゝに受取らないんだ」
「君はそうか?」
「僕?そりあ全く別だ。しかし僕は君が気の毒だよ、ジヨーヂ。」
「気の毒だ?」
「そうだ・・・・・・君は誰をも愛さい。 君自身をさへ愛さないんだ。・・・・・・僕等の立場《たちば》に。一人の馭者がゐる、チツホンと云ふんだ。色の黒い髪の巻き下つた百姓なんだ。彼は悪魔のやうに意地惡だ。以前には大變な物持ちだつたんだが、大火ですつかり持つてたものを無くしたんだ。人が憎くんで彼の家へ放火したんだ。彼はそれが忘れられないで、誰でも、どんなものでも、呪つてゐる。彼は、神も、學生も、商人も、小供さへも、呪つてるんだ。 彼は彼等をすつかり嫌つてるんだ。『彼奴等は犬畜生だ。彼奴等は誰も彼も。』と彼は云ふんだ。『彼奴等はキリスト教徒の 血をすゝつてるんだ。そして神は、天から彼奴等を見下して、それを観て楽しんでゐるんだ。』・・・・・・或日、僕が茶店を出て立場へ歸つて来ると、チツホンが立場の真中に突立つてゐた。脚を廣く 開いて立ち上つて、袖を巻くし上げてゐた。大いに手綱を握つて、馬の眼を激しく打つてゐるんだ。生命《いのち》の氣《け》もない可哀想な馬は、拳固を外そうとして頭をふるのに、彼は續けかけ續けかけ眼を亂打するんだ。『骸骨奴!』 彼は皺枯れ聲で努鳴った。『獣奴!思ひ知らしてやるぞ』『チツホン 何故可哀相なものを打つんだ!』私は彼に問ふた。『默れボロ野郎!』彼はさう答へて、益々怒つて馬を打つんだ。。
 ヴアニアは砂糖の小さい一塊りを嚙んで、茶を綴って、續けた。
「怒るなよ、ジヨーヂ、笑ふな。僕の考へてることを知ってるかね?僕等は、僕等はみんな、貧しい心なんだ。僕が生活を驅つて行く力は何だ?憎惡だ、たゞ憎惡だけだ。僕等は愛さない、愛すと云ふことはどんなことか、僕等は知らない。僕等は戰ふ。僕等は殺す。 僕等は焼く。そして僕等もまた絞め殺され、縊られ、焼かれるのだ。何者の名に於いて、それが爲されるのか?聞かせてくれい。。
私は肩をゆすつた。
「ハインリヒに聞け、ヴアニア。」
「あゝ、ハインリヒ!彼は人々を自由にして、彼等のすべてに食物を與へることを信じてゐる。 しかしそれはマルタの役目なんだ。マリアお役目は何だ?人が自由の爲めに死なんとする。いや 自由の爲めばかりぢやない、一滴の涙の爲めにも死なんとする、それは僕は十分了解する。僕も、地に奴隷なく、飢ゆる者の無いことを、神に禱る。しかしそれで事がすむんぢやないよ、ジヨーヂ。現在、人々の生活が非眞理の上に建てられてあることを、僕等は知ってる。眞理はいつたい何處に在るのか?話せるなら話して呉れ。」
「眞理とは何か?君の言ふのはさうか?」
「そうだ、真理とは何か?ねえ君 『我の生れ、我の此世に来れるは、眞理の證《あかし》を爲さんが爲めなり。眞理に在る凡ての者は、我聲を聞く』さ。」
「ヴァニア、キリストは、汝殺すこと勿れ、と云つたよ。」
「知ってる。しかし血のことはまだ云ふな。何か他のことを話して呉れ。歐羅巴は世界に二つの言葉を與へて、それを苦痛で封じ込んだ。第一が自由だ、第二が社會主義だ。しかし僕等は世界にどういふ言葉を與へたか?自由の名において、多くの血が流された。が、誰が自由を信ずるか?が、君は實際、社會主義が地上の天國だと信ずるか?愛の名において、愛の爲めに、誰が火刑柱に上つたか?人々が自由になり、子供が食に飢えず、母が泣き悲しまないだけでは充分ではないと、僕等のうちの誰かこれまで敢《あ》えて言つたか?それよりもつと以上に、彼等がお互に相愛する必要が、大いなる必要があるんだ。神は彼等共に在り、彼等の心の中に在らねばならんのだ。それだのに、その神と愛を、彼等は忘れてゐる。しかしマルタは眞理の分でしかない。あとの半分はマリアだ。僕等のマリアは何處に居るか?一つの大きな道の爲めに、今や戰はれてゐる、僕は强くそれに信頼する。それは百姓の道だ。凡てのキリスト教徒の道だ、實にそれは、キリストの道なんだ。それは神の爲めに、愛の爲めに、戦はれてゐるんだ。人々は釋放たれ、食を與えられ、愛の生命は彼等のものとなるだろう。僕もまた、吾々は神の民だといふことを、信ずる。愛が吹き込まれ、キリストがその中につてゐるのだ。僕等の言葉は、復活の言葉だ、主よ、甦れ!……僕等の信仰は小さい、僕は小供のやうに弱い。それだから僕等は劍を執《と》るんだ。僕等が劍を振廻すのは、力がある爲ぢやない。僕等の弱さと僕等の恐怖とからなんだ。しかしながら明日来る者を待て。彼は純なる者だ。彼等は劍を要しない。彼等は强い。が、彼等の來る前に、僕等は死ぬだらう。そして僕等の小供のその孫が神を愛するであらう。彼等は神のうちに生き、キリストを讃美するであらう。新しい世界が彼等に啓らけ、彼等はその中に、僕等が現在見ることの出来ないものを、見出すてあらう。……そして、おゝ、ヂヨーヂ!今日は復活祭の日曜日だ。キリストは甦つた!せめて今日一日だけで僕等の傷《きず》を忘れやう。そしてお互に眼を打合ふことを止《よ》そう……」
 彼は、新しい考が突然思ひ浮んだやうに、寧ろ不意に止《や》めた。
「どうしたんだ、ヴァニア?何か云はうとしてるたんぢやないか?」
「君に云ふがねぇ。鎖を斷ち切ることは不可能だ。僕には他の途はないんで、全く何にも。僕は殺しに行く、しかし僕は福音を信する、キリストを讃へる。おゝ、苦痛だ!」
 居酒屋は、お祭りを祝つた酒醉ひの喧騒で滿たされてゐた。ヴアニアは卓子掛の上に頭を低く垂れかけて待つてゐた。私は何をすることが出来たか・・・手綱《たづな》で彼の眼を打つことか?

・写真は、「集合写真の断片。ボログダでの若きサヴィンコフ(Wikipedia より)
・著者・訳者とも著作権は消失している。

後退りの記(016)

◎モンテーニュとアンリ四世
◯堀田善衞「ミシェル 城館の人」
◯ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

一瞬だが、歴史が澱んだ日に寄せる

 1580年は、モンテーニュとアンリ四世にとって特別な年であったようだ。モンテーニュは、生涯唯一の外国旅行に出かける。アンリ四世にとっては、4年前にパリ宮廷を脱出に成功、ようやく未来に一筋の光明が見えてきた。三人のアンリの戦いは、これからだったが…

「われわれのミシェルは、一五八〇年六月二十二日に彼の城館を出て、北東フランス、ドイツ、スイス、オーストリアを経てイタリアへの、十七カ月にもわたる旅に出た。」

「人生は、旅なり」が、彼に似つかわしいが、「公務」以外の実際の旅の経験は、意外と少ない気がする。今週(2024年7月7日付け)の赤旗日曜版で池澤夏樹さんが、「動く作家」の代表として、堀田善衛を挙げているが、この旅行で、わがミッシェルは、「動く作家」として、一段と深化を遂げたことは間違いないだろう。

〈旅行は私にとって有益な訓練であるように思われる。精神は未知のもの、新奇なものを見て、絶えず修業をする。また、しばしば言ったように、生活を形作って行くには、精神に絶えず多くの異った生活や思想や慣習を見せ、われわれの人間性がつねに様々に変化して、形をつくって行くものであることを味わわせること以上に、よい教育はないと思う。そうしてやれば、肉体も暇をもてあましもしなければ、疲れすぎもしない。いや、適度の運動は肉体を生き生きと息づかせる。私は結石病みではあるが、八時間から十時間は、馬に乗ったままでいても苦痛を感じない。〉

堀田善衞. ミシェル 城館の人 第三部 精神の祝祭 (集英社文庫) より

 旅行の直前、1580年に「エセー」初版を上梓し、アンリ四世に献呈したモンテーニュは、アンリ四世と二度目の邂逅をはたす。(このあたりは、多分、ハインリッヒ・マン特有のフィクションであろう。ただ、プロテスタントの盟主であった、アンリ四世に与することは、モンテーニュにとって、命がけの行動であったには確かであろう。今日《こんにち》、フランスにおいて、極右政権阻止のために、中道勢力が、左派の「ヌーボー・フロン」と選挙協定を締結したことに例えられようか?とまれ、その証拠に、「エセー」が、ローマ・カトリックによって「禁書」と断罪される憂き目に遭っているのが、なによりの証拠であろう。)

「『何をわたしが知っていよう』(ク•セ•ジュ)とアンリは言葉をはさんだ。二人が最初に言葉をかわして以来、それは彼が忘れたことのないものだった。今それが折よく彼の口からもれたのだった。モンテーニュはそれを否定しなかった。彼は頭をふりながら、神を前にしてはそう言わなくてはならぬ、とだけ言った。われわれはもとより神の知をわかちあうものではない。それだけにわれわれは、 地上のことに通じる定めをもっている。節度と懐疑をもってすれば、地上のことは大方理解ができよう。『均衡のとれた中庸の人物をわたしは愛する。度をこえることは善においてもほとんどいとうべきものだ。ともかくも、無節度はわたしの言葉をふさいでしまう。これに対してはわたしは言葉をもたない。』(「エセー」第一巻第三十章)」

「アンリは去ってゆく人(モンテーニュ)を追って、もう一度彼をいだき、その耳もとで言った。『わたしには作品はない。しかし作品をしあげることができる。』」

ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」より

 図左は、モンテーニュのイタリアなどの旅の軌跡。「モンテーニュの旅」 から収録した。 図右は、「エセー」へのモンテーニュの書き込み

旅の内容は、機会があれば投稿する。

読書ざんまいよせい(019)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(005)

 新米の知事が属僚に向って演説をした。商人を集めて演説をした。女学校の卒業式で、教育の真義について演説をした。新聞の代表者に演説をした。ユダヤ人を集めて、「ユダヤ人よ、余が諸君の参集を求めたのは……。」一と月たち二た月たつが仕事の方は何一つしない。また商人を集めて演説。またユダヤ人を呼んで、「ユダヤ人よ、余が諸君の参集を求めたのは……。」みんな飽々してしまった。とうとう彼は官房の長官に言う、「いや君、こいつは俺の手に合わんよ。辞職しちまおう!」

 田舎の神学校生徒が、ラテン語の糞勉強をする。半時間ごとに女中部屋へ駈け込んで、眼を細くして女中たちをつついたり抓《つね》ったりする。女中たちはキャッキャッと笑う。それからまた本に向う。彼はこれを「気分爽快法」と名づけている。

 知事夫人が、例の役人を招んでチョコレートを一杯御馳走した。この声の細い男は、彼女の崇拝者だ。(胸にぶら下げた肖像)。彼はそれから一週間というもの幸福な気分を味う。彼は小金を蓄めていて、無利子でそれを貸していた。――「貴女にはお貸し出来ませんな。貴女のお婿さんがカルタで擦ってしまうでしょう。いや、それだけは御免を蒙ります。」知事の娘というのは、いつか毛皮頸巻《ボア》をして劇場のボックスに納まっていた女だが、その夫がカルタに負けて官金を使い込んだのだ。鯡《にしん》でヴォトカをやるのに慣れて、ついぞチョコレートというものを飲んだことのない役人は、チョコレートのお蔭で胸が悪くなる。知事夫人の顔に浮んでいる表情、「私、可愛らしいでしょう。」身仕舞いに大そうな金をかけて、それを見せびらかす機会――夜会の開催を、いつも待ち焦れている夫人だった。

 妻君を連れて巴里へ行くのは、サモヴァル持参でトゥーラ*へ行くのと同じさ。
*欧露の都会。サモヴァルなどの金属手工業で有名。

 インテリの地主一家の治療に招かれて、毎日その邸に通った。お金で払うのは工合が悪いので、その家では亭主へ服を一着贈ってよこして、彼女を大いに無念がらせた。長々とお茶を飲んでいる夫を見ると、彼女は癇癪が起きて来るのだった。夫と一緒に暮すうち、彼女はやつれて器量が落ちて、意地の悪い女になる。地団太を踏んで、夫をどなりつける、「あたしを離縁してお呉れ、この碌でなし!」夫が憎くてならなかった。彼女が働いて、謝礼は夫が受取るのである。彼女は県会の医員だから、謝礼を受ける訳には行かないのだ。知合いの人達が亭主の人物を見抜いて呉れず、やっぱり思想のしっかりした男だと思っているのが、彼女は忌々しかった。

 青年が文学界にはいって来ないというのは、その最も優れた分子が今日では鉄道や工場や産業機関で働いているからである。青年は悉く工業界に身を投じてしまった。それで今や工業の進歩はめざましいものがある。

 女がブルジョア風を吹かす家庭には、山師やぺてん師やのらくら者が育ち易い。

 教授の見解。――大切なのはシェークスピヤではなく、これに加えられる註釈なり。

 来るべきジェネレーションをして幸福を達せしめよ。だが彼等は、彼等の父祖が何のために生き、何のために苦しんだかを自問せねばならぬ。

 愛も友情も尊敬も、何物かに対する共通の憎悪ほどには人間を団結せしめない。

 十二月十三日。工場の女主人に会った。これは一家の母であり、富裕なロシヤ婦人だが、ついぞロシヤで紫丁香花《ライラック》を見たことがないという。

 手紙の一節。――「外国にいるロシヤ人は、間諜かさもなければ馬鹿者だ。」隣の男は恋の傷手を癒しにフロレンスへ行く。だが遠くなるほど益々恋しくなるものだ。

 ヤルタ*。美貌の青年が四十女に好かれる。彼の方は一向に気がなく、彼女を避けている。彼女はさんざ思い悩んだ挙句、腹立ちまぎれに彼についての飛んだ醜聞を言い触らす。
*クリミヤ半島にある避暑地。

 ペトルーシャの母親は、婆さんになった今でも眼を暈《くま》どっていた。

 悪徳――それは人間が背負って生れた袋である。

 Bは大真面目で、自分はロシヤのモーパッサンだと言う。Sも同じ。

 ユダヤ人の姓。――Chepchik《プロチョール》*.
*小さな頭巾。

 魚が逆立ちしたような令嬢。口は木の洞みたいで、つい一銭入れて見たくなる。

 外国にいるロシヤ人。――男はロシヤを熱烈に愛する。女の方はじきにロシヤを忘れて一向に愛さない。

 薬剤士Protior*.
*「眼を擦《こす》った」というほどの意。

 RosaliaOssipovnaAromat《ロザーリア オシポヴナー アロマート》*.
*「花咲く小薔薇」と「芳香」を組合せた女の姓名。

 物を頼むには、金持よりは貧乏人の方が頼みいい。

 で彼女は春をひさぐことになって、今ではベッドの上で寝る身分だった。零落した叔母さんの方は、そのベッドの足もとに小さな毛氈を敷いて臥せって、嫖客《おきゃく》がベルを鳴らすと跳ね起きるのだった。お客が帰るとき、彼女は嬌羞を浮べて、科《しな》を作って言うのだった。
「女中にも思召しを頂かしてよ。」
 そして時おり十五銭玉をせしめた。

 モンテ・カルロの娼婦たち、いかにも娼婦らしいその物腰。棕櫚も娼婦みたいな感じ。よく肥った牝鶏も娼婦みたいな感じ。……

 独活《うど》の大木。ペテルブルグの産婆養成所を出て助医の資格をとったNは、思想《かんがえ》のしっかりした娘である。それが教師Xに恋した。つまり彼もやはり思想《かんがえ》のしっかりした男で、日ごろ彼女の大いに愛読している小説ごのみの刻苦精励の人だと思ったのである。そのうち次第に、彼が酒喰いののらくら者で、お人好しの薄野呂だということが分って来た。学校を首になると、彼は女房の稼ぎを当てにして居候暮しをやりだした。まるで肉腫《サルコマ》みたいな余計者で、彼女を搾り尽すのだった。或るとき彼女は、インテリの地主一家の治療に招かれて、毎日その邸に通った。お金で払うのは工合が悪いので、その家では亭主へ服を一着贈ってよこして、彼女を大いに無念がらせた。長々とお茶を飲んでいる夫を見ると、彼女は癇癪が起きて来るのだった。夫と一緒に暮すうち、彼女はやつれて器量が落ちて、意地の悪い女になる。地団太を踏んで、夫をどなりつける、「あたしを離縁してお呉れ、この碌でなし!」夫が憎くてならなかった。彼女が働いて、謝礼は夫が受取るのである。彼女は県会の医員だから、謝礼を受ける訳には行かないのだ。知合いの人達が亭主の人物を見抜いて呉れず、やっぱり思想《かんがえ》のしっかりした男だと思っているのが、彼女は忌々しかった。

 若い男が百万マーク蓄めて、その上に寝てピストル自殺をした。

「その女」……「僕は二十《はたち》のとき結婚して以来、生涯ヴォトカ一杯飲んだことも、煙草一本喫ったこともありません。」そういう彼が他に女をこしらえると、世間の人は反って彼を愛しはじめ、今までよりも信用するようになった。街を歩いても、皆が今までより愛想よく親切になったのに彼は気づくのだった――罪を犯したばかりに。

 結婚するのは、二人ともほかに身の振り方がないからである。

 国民の力と救いは、懸ってそのインテリゲンツィヤにある。誠実に思想し、感受し、しかも勤労に堪えるインテリゲンツィヤに。

 口髭なき男子は、口髭ある婦人に同じ。

 優しい言葉で相手を征服できぬような人は、いかつい言葉でも征服はできない。

 一人の賢者に対して千人の愚者があり、一の至言に対して千の愚言がある。この千が一を圧倒する。都市や村落の進歩が遅々としている所以である。大多数、つまり大衆は、常に愚かで常に圧倒的である。賢者は宜しく、大衆を教化しこれを己れの水準にまで高めるなどという希望を抛棄すべきだ。寧ろ物質力に助けを求める方がよい。鉄道、電信、電話を建設するがよい。そうすれば彼は勝利を得、生活を推し進め得るだろう。

 本来の意味での立派な人間は、確乎として保守主義的な乃至は自由主義的な信念を抱く人々の間にのみ見出されるだろう。いわゆる穏健派に至っては、賞与や年金や勲章や昇給に著しく心を惹かれがちである。

 ――あなたの叔父さんは何で亡くなったのです?
 ――医者の処方はボトキン氏下剤*を十五滴となっていたのに、十六滴のんだのでね。
*極めて無害な緩下剤。

 大学の文科を出たての青年が郷里の町へ帰って来る。そして教会の理事に選挙される。彼は神を信じているわけでもないが、勤行《おつとめ》には几帳面に出て、教会や礼拝堂の前を通るときは十字を切る。そうすることが民衆にとって必要であり、ロシヤの救いはそれに懸っていると考えたからである。やがて郡会の議長に選ばれ、名誉治安判事に選ばれ、勲章を貰い、たくさんの賞牌を受けた。――さていつの間にか四十五の年も過ぎたとき、彼ははっとして、自分がこれまでずっと身振狂言をやって来たこと、道化人形の真似をして来たことを悟った。だが既に生活を変えるには晩かった。或る夜の夢に、突然まるで銃声のような声がひびいた――「君は何をしている?」彼は汗びっしょりになって撥ね起きた。