①
八月二日朝
射干《しゃが》 ヒアフギ[ひおうぎ]
②
熊坂といふ謡ききて
いと面白かりければ
ぬす人の昼も出る
てふ夏野|哉《かな》
みしか夜や
金商人《こかねあきんど》の
高いびき
夏草や
吉次《きちじ》を
ねらふ
小ぬす人

もと所長のブログ
①
八月二日朝
射干《しゃが》 ヒアフギ[ひおうぎ]
②
熊坂といふ謡ききて
いと面白かりければ
ぬす人の昼も出る
てふ夏野|哉《かな》
みしか夜や
金商人《こかねあきんど》の
高いびき
夏草や
吉次《きちじ》を
ねらふ
小ぬす人
◎バルザック「農民」
図は、岩波文庫「農民からの挿絵と架空の村「エーゲの荘園周辺地図」
蛇足になるが、
ルカーチ「バルザックとフランス・リアリズム」にて曰く(「史的唯物論すぎる」のの評判はあるが、傾聴に値する、なかなか良質な解説ではある。)
「バルザックは晩年の彼の最も注目すべきこの長篇小説において、貴族の大農地が没落してゆく悲劇を書こうとした。彼は一系列の作品群によって、抬頭する資本主義によるフランス貴族文化の解体を描いているが、この作品はそれらの結びとして書き起された。実際それはこの系列の終結となっている。というのはここにおいて、貴族階級の滅亡の直接の経済的諸原因が書き現わされているからである。これよりも前に、バルザックはパリや、或は辺鄙な地方都市における貴族階級の没落の姿を描いた。ここでは彼はわれわれを経済的戦場そのもの、すなわち貴族の大農地と農民階級とが対峙する戦場へと連れてゆくのである。
バルザックはこの書を彼の決定的な作品の一つとみた。彼は言う、「私が書こうと決心した作品のうち最も重要なもので、私は八年間、何度これを放棄し、何度また改めて取り上げたか分りません…」。けれどもバ ルザックは、このように並外れて念の入った準備をしたにもかかわらず、又このように徹底的に腹案をねったにもかかわらず、実際は彼が意図したものとは全く正反対のものを描いてしまった。すなわち彼は分割農地の悲劇を書いてしまったのである。だが、腹案とでき上ったものとの間のこの矛盾、思想家、政治家バルザックと『人間喜劇』の作者との間のこの矛盾の中にこそ、彼の世界史的偉大さは存する。」
あらすじは、
「主軸となる筋立ては1820年代前半に置かれ、エーグという美しい領地が舞台となっている。エーグは架空の土地であるが、ブルゴーニュ地方に位置するとされる。モンコルネ将軍(伯爵)によってここが買収された。裏帳簿によって横領を続けていた管理人ゴーベルタンは以前の地主ラゲール嬢の死後、自らこの土地を入手しようと考えていたので目論見がはずれたのであった。モンコルネ夫人は愛人であるジャーナリストのエミール・ブロンデをこの地に招き、ブロンデは爽快な滞在の様子を同業者である友人ナタンに伝える。
ところが、一見朗らかな田園にしか見えないこの土地は、実は地元の農民によって日常的に収奪されていることが明らかになる。モンコルネ伯爵は地所の管理を厳格化するため、依然として使い込みを続けていた管理人のゴーベルタンを追放するが、ゴーベルタンやその仲間のブルジョワたちが農民に反乱をけしかけ、騒擾はやまない。農民たちの不法行為はさらにエスカレートし、忠実な番人のミショーを殺害するに至る。憎悪に満ち狡猾な不屈の敵陣に悩まされ続けた伯爵は、自分の側が敗北したことを悟り、元値割れで土地を手放す。十数年後、伯爵は死去し、富裕な未亡人となった夫人は当時絶望の淵にあったブロンデの妻となる。
ブロンデはその後知事に任命され、夫妻は工ーグの地に立ち寄るが、そこでは土地の極度の分割化が進み、往時の美しさは失われていた。」
名古屋大学学術機関リポジトリ バルザック『農民』 から
故中村哲さんのドキュメンタリー映画とペシャワール会の中山博喜さんの講演を拝視聴した。案内ビラから→
「百の診療所より一本の用水路を」映画のキャッチフレーズに若干の違和感を持ったことは事実であるが、実際映画を観て、その真実がよく解った。現地の人たちの疾患の成り立ちが、もっと根源的な(それには人為的な戦火による環境破壊も大きな原因であるが…)、ものを立て直さない限り解決しないのだろう。その上に立って、診療所を!という意味なのだろう。
医者というものは、誰しも「人の役に立ちたい」との懐いを多少なりともあると思う。でも、現実は、そううまくはいかない。中村医師は、自らの次男の死など乗り越えて現実に立ち向かった。そうした姿は、当方にとって遠い、遠い目標であるが、目標にあることには間違いないのかもしれない。
そんなことを考え、少し気が重くなり、会場を後にした。
10年以上前に、中井正一の「土曜日」巻頭言の数編をアップしたことがありましたが、サーバーのHDD不調のため、今では閲覧できません。そこで改めて、「土曜日」復刻版から、OCR で復元できたものを、土曜日毎に掲載してゆきます。とりあえずは、Facebook にかろうじて残っていた、創刊号(1936年7月4日)巻頭言から…(この項は新字新かなです。)
中井正一の経歴などは、Wikipedia 中井正一 を参照してください。また、青空文庫にも、彼の作品があります。
◎花は鉄路の盛り土の上にも咲く
しぶく波頭と高い日の下に、一杯の自分の力を感じた冒険者の様に、かって人々は生きた事があった。今は冷いベトンの地下室で、単調なエンジンの音を聴きながら、黙々と与えられた部署に、終日を暮す生活が人々の生活となって来た。
営みが巨大な機構の中に組入られて、それが何だか人間から離れて来た様である。明日への希望は失われ、本当の智慧が傷つけられまじめな夢がきえてしまった。しかし、人々はそれでよいとは誰も思っていないのである。何かが欠けていることは知っている。
しかし、何が欠けているさだかには判っていないのである。人々が歪められた営みから解放された時間、我々が憩う瞬間、何を望み、何を知り、何を夢みてよいかさえも忘れられんとしているのである。それは自分に一等親しい自分の面影が想出せない淋しさである。
美しいせせらぎ、可愛いい花、小さなめだかが走っている小川の上を覆うて、灰色の鉄道の線路が一直線に横切った時、ラスキンは凡ての人間の過去の親しいものが斜めに断切られてしまったかのように戦慄したのである。しかしテニソンはそのとき、芸術は自然の如く、その花をもって、鉄道の盛土を覆い得ると答えたのである。
この鉄路の上に咲く花は、千鈞の力を必要としたのではない。日々の絶間なき必要を守ったのである。我我の生きて此処に今居ることをしっかり手離さないこと、その批判を放棄しないことに於いて、始めて、凡ての灰色の路線を、花をもって埋めることが出来るのである。
『土曜日』は人々が自分達の中に何が失われているかを想出す午後であり、まじめな夢が瞼に描かれ、本当の智慧がお互に語合われ、明日のスケジュールが計画される夕である。はばかるところなき涙が涙ぐまれ、隔てなき微笑みが微笑まるる夜である。
昭和十一年(1936年)七月四日(創刊号)
秋晴れの日、孫三人らと岩湧山に登ってきました。孫たちはズンズン先に進むのに、当方はマイペース、頂上からは、すすきの群生を通して、大阪湾、金剛山、葛城山、南葛城山など見通せました。
・Wikipedia ススキ
◎41 われもこう 吾亦紅
二分一 昭和癸未秋九月廿六 写于軽井沢旅舎
〔日記〕九月廿六日 日
晴。午前植物写生二種。〔…〕旅舎にかへり、夜半一時まで植物写生十数種。
【付】随筆集「荒庭の観察者」から「海国の葬礼」
昨夕此地に来ました。
Meiner Mutter Tod hat mich hierher abgeholt.【編集者注 原文ドイツ語、日本語訳:母の死が私を立ち直らせてくれた。】
汽車中で藤村《とうそん》(1)さんの「家」を読み続けましたが、同じ日に汽車の窓から買って読んだ貴君の藤島(2)さんの絵の批評に思いあたる事が多くて自らほほ笑まずには居られませんでした。今度頼まれてあの「家」の紹介をしなければならぬ事になって居て困って居る。
そんな事ゆえ白樺の展覧会(3)を見る機会を失ったのを残念に思って居ます。
で到頭また「海」と話をするようになりました。「酒」や「女」の代わりに、ぼくには矢張《やはり》海という奴が切っても切れぬ縁なのでした。
そうしてぼくはまたぼくで「海」のそばの一つの家の中へはいって行った。然し家も海も、もっと直接な人の生活も、人情も、悲哀も──ぼくには一度「芸術」と云う註解者がはいらねば心を動かす事が出来ないようになった。──という事を今つくづくと感じて居るところです。(12.Nov.11)
一種のHofmannsthal(4)情調がまだどこかに残って居る。強い冬の斜日が柔い青石の壁にあたって、梅の古木の下には、磯蕗《いそぶき》の花がまっ黄色に光っている。海に近い町のある「家」の坪庭。
裏の井戸のそば、蔵の廂《ひさし》の下、そこに一群の料理人があつまって赤い人参、牛旁《ごぼう》、里芋、それから蓮根、うす青い鑵詰の蕗などの皮を剝いでいる。そして小さい刺の指先に入ったのを事々しく話し立てています。一つの人生。
「もう鶏がとまる時かな」と空の方を見あげながらまぶしい目をしている人がある。
ぼくには、夫々《それぞれ》の小さい「歴史」というものが、ああ手まねをして、生々と「現在」で物語っているように見える。みんな少年時代や、一種の狂飇《きょうひょう》時代やそれから子供が出来たこと……などを知っている人々ですから。
そしてまた畠の方へ出ると、仕切られた花壇の菊が萎れたままに並び……すると「海」を暗指する汽笛の音が、ぼおっと、おおどかに聞えるのです。
店に集って居る人は「海」に親しい関係のものばかりでした。ですから蔵の前の人の、どう云う庖丁がよく切れるかなどと云う話とは違って、此には東京へ船をやる時の風の話、また帆の話、居眠って蒸気を陸《おか》へ乗し上げた、その癖よく熟れていた船長の話などです。
それから何時となく三十年前の話が出て、漂着して来たギヤマン(5)の徳利を珍らしがったり、またそれに、三|分《ぶ》の値を附けたある天竺屋(凡《すべ》て売価の高いという事からのあざ名)の事、千両で頼んだ亜米利加《アメリカ》の機関手の話。
一体くさやの干物はどうして作るか御存知ですか。あれは塩の少い大島で塩の倹約をする為めに、幾度も幾度も漬けたあとへまた漬けたのが始まりだ相です。また錨《いかり》はならし円に二貫目だそうです。
彼等の多くは「海」に尋《つい》では「東京の河岸」に親しいのです。是等の人々から東京の河の生活、その情調の語られるのを聞くのは、心で思う人をほめられる時のような心持を味わしめる。
今窓から見ると夕鳥が遠く紫灰色《しかいしょく》の山の方へと沈んでゆく。夕やけの空なのです。ぼくは昔からこういう時には屹度《きっと》出た情操の、もう明かに思い浮ばれぬのを見て、内と外との生活がうまく足並を合わせてくれねばならんと思ったのです。いつ迄もいつ迄も過ぎし日の情懐の輓歌《ひきうた》ばかりを歌っても居られますまい。
伊豆の、形の小さい、そしてばかに甘い蜜柑でぼくの手はひどく鋭くにおって居ます。この香いも(貴君には想像だが)之から海国の初冬の情趣を想像して下さい。(13.Nov.11)
夕方海岸に出ると、桐の花のような紫色に淀んだ水平線上の空に、遠くゆく船の帆が見えます。暖国の十一月の空気はこの上なく心地よいものと感ぜられました。
幾たびか人に伝えようとして、いつでも作意の為めに害われた海の美貌、夕波のかすかな微笑……それが直ぐに心を古風にします。センチメンタルに。哀れっぽく。
ぼくはそっと昔の唄を歌って見ました。すると女──酒などからかけ離れた生活をして居るぼくにも、その第一属性としての一条の情操を芽ましめるのです。それから特殊の生活(ルパナール(6)などの)、特殊の時代への回想から来る第二属の情調を伴うのです。
静かに歌われる一節のメロディの中に海、波、船、遠里の灯などが溶ろけてゆく様に思われます。
ぼくはそれから温泉へいっても、尚小さい声で歌い続けました。
家に帰ると柩《ひつぎ》の傍で僧侶が経を誦して居た。そして香のにおい、かすけき灯に光る水晶の数珠《じゅず》、細く立つ煙などが見られた。
店先では近所の人々がまだ大話をしています。また切株から吹く新芽を想像させる子供達が騒いでいます。また酒のかおり。
こう云う人間らしさ。人情味などが、きょうつくづくと身にしみて感ぜられました。(13.Nov.11)
田舎の「家」の生活は此上もなく装飾的です。もう四十、五十、六十のそれぞれ家を持った人々が──中には一生海と争った人も居ます。いくたびか事業を始め幾度か失敗し、また始めつつある人も居ます。危うく情海の波瀾を逃れて後顧的の半生を暮《おく》っている人も居ます──二十人近く莚《むしろ》の上に陣取って、丸く切った白紙に鋏《はさみ》を入れ、また金銀の紙を花弁に切り、それを丸い竹に巻いて、糸目で皺をつくり、牡丹の花、蓮の花またその葉、その蕚《うてな》を拵《こしら》えて居るのを見ると、何と云いましょうか、一種可憐の情に似た心持が油然と湧き出すのを感ずるのです。
天井から二つの巻いた莚を弔《つる》し、その上に半成の牡丹花の茎が挿されるのです。そういう光景の間に手を動かす人々は実際の自然が永い月日の間に彫《きざ》み込んだいろいろの相貌の持主であると云うことを想像して下さい。──
少時の中休みの間に土地の名物の蜜柑が配られる。人々の手の指があの濃い緑色にそまると、そこここが一体に鋭い酸い香の海とかわるのです。
「海」──「葬礼の準備」──「銀紙の蛇」──そを罩《こ》むる雰囲気として「南国の黄なる木の実」──こういう蕪村の俳句のような連想は、実際その光景を見ない貴君にも、原物の味の幾分を彷彿せしむることが出来るでしょう。(14.Nov.11)
(一九一一年二六歳)
1[藤村]島崎藤村(作家・詩人、一八七二─一九四三)。
2[藤島]藤島武二(洋画家、一八六七─一九四三)。
3[白樺の展覧会]雑誌「白樺」が主催した美術展。
4[Hofmannsthal]フーゴ・フォン・ホフマンスタール。オーストリアの新ロマン主義の作家・詩人(一八七四─一九二九)。
5[ギヤマン]ガラス。
6[ルパナール]娼館。
◎正岡子規「草花帖」
明治三十五年八月一日
秋海棠《しゅうかいどう》 シウカイダウ
同日
金蓮花《きんれんか》
ノウゼンハレン
NASTURTUM
桃牛兒科(ゲンノショーゴ科)
Geraniaceae
参考】
・Wikipedia 秋海棠
・Wikipedia 金蓮花
◎正岡子規「草花帖」
此《この》帖は不折子《ふせつし》*よりあづ(預)かりたりと思ふ 併《しか》し此頃《このごろ》の病苦にては人の書画帖などへ物書くべき勇気更になし 因《よ》つて此帖をもらひ受くる者なり 若《も》し自分のものとして之に写生するときは快《かい》極《きわまり》りなし 又其《その》写生帖を毎朝毎晚手に取りて開き見ること(ヿ)何よりの楽《たのし》みなり 不折子欧州より帰り来るとも余の病眛より此唯一の楽み(即《すなわ》ち此写生帖)を奪ひ去ること(ヿ)なからんを望む
明治三十五年八月一日
病子規
泣いて言ふ
写生は総《すべ》て枕に頭つけたままやる者と思 へ
写生は多くモルヒネを飲みて後やる者と思へ
*中村不折(一八六六—一九四三)。洋画家、書家。
◎「菓物帖」末尾の俳句
青梅をかきはじめなり菓物帖
南瓜《かぼちゃ》より茄子《なす》むつかしき写生|哉《かな》
病間《びょうかん》や桃食ひながら李《すもも》画《か》く
画がくべき夏のくだ物何々ぞ
画き終へて昼寝も出来ぬ疲れかな
追加】右図は、下村為山の画(無署名)
参考】岩波文庫「正岡子規スケッチ帖」
◎40 落葉(羽)松〔らくうしょう〕
昭和十八年九月十九日大学
「森鷗外博士の訂正『オルフエウス』」の原稿を浄書して細川侯爵に送る。其(その)写しを颯田琴次君に送る。
・参考 Wikipedia 落葉(羽)松