日本人と漢詩(029)

◎夏目漱石と森鴎外


並び称される「文豪」だが、両人の漢詩の趣きには相当違いがあるようだ。特に晩年には両人のスタンスは大きなずれとなっている。漱石が、「修善寺の大患」で、大量吐血したあとの詩。
淋漓絳血腹中文 淋漓《りんり》たる絳血《こうけつ》(深紅の血) 腹中の文《ぶん》
嘔照黄昏漾綺紋 嘔いて黄昏を照らして 綺紋《きもん》を 漾《ただよ》わす
入夜空疑身是骨 夜に入りて空しく疑ふ 身は是れ骨かと
臥牀如石夢寒雲 臥牀 石の如く 寒雲を夢む
使われた詩語のうち、「腹中の文」というのが、キーワードの気がするが、逆に解りにくいというか、多義的に思える。まだ、描き足りない小説や彼の思いのように取れるし、「絳血」の末にたどり着いた彼の新境地のようにも思える。その後、明暗の執筆と同時に、「無題」と称する七言律詩の連作が続き、大岡信の言うように、「漱石は、…律詩の詩形の中で、まっすぐに彼自身の感慨を吐露し、自己自身を広漠たる詩の世界に解き放つことに成功した。」そしてその最後の漢詩は、「日本近代の詩の中で、最上級に列するものであった。」それが、後に「則天去私」という「教説」によって語られることはあったとしても、そうした解釈からも充分にはみ出ていると感じる。
http://yoshiro.tea-nifty.com/yoshi…/2012/08/post-6c15.html
他方、鷗外は少なくとも漢詩の分野では、過去の回想や儀礼的な贈答詩に終始した。
その中の「回頭」詩から二首
囘頭 森鴎外
囘頭湖海半生過 頭《こうべ》を回《めぐ》れせば湖海に半生過ぐ
老去何妨守舊窩 老い去って何ぞ妨げん旧窩を守る
替我豫章留好句 我に替《かは》つて豫章《よしょう》好句を留む
自知力小畏滄波 「自《みずか》ら力の小《せう》なるを知り滄波《そうは》を畏《おそ》る
豫章=宋の詩人・黄庭堅「小鴨」
その元は、唐の詩人・杜甫「舟前鵝児」「力 小にして滄波に困《くる》しむ」
題譯本舞姫 小池堅治囑
世間留綺語 世間に綺語《きご》を留《とど》め
海外詠佳人 海外に佳人を詠ず
奄忽吾今老 奄忽《えんこつ》吾今老いたり
囘頭一閧塵 頭《こうべ》を回《めぐ》らせば一閧《いっこう》塵
一閧塵=多くの馬がけたたましく走り去るあとの土ぼこり
以前の森鴎外の漢詩についての投稿

の持っていた「みずみずしい叙情性」と比較のこと
参考)
大岡信「詩歌における文明開化ー日本の古典詩歌4」
鷗外歴史文學集 第13巻
夏目漱石の漢詩 : 修善寺大患期を中心として(上篇) https://core.ac.uk/download/pdf/223201466.pdf
写真は鷗外の第二首目にある独語訳「舞姫」と漱石「倫敦塔」
追記)二日前に当方も、胃カメラの検査を受けた。生検が二箇所、さてどんな結果が帰ってくるだろうか?

日本人と漢詩(028)

◎絶海中津と明・洪武帝


彼が、入明時にときの皇帝・洪武帝との応酬の詩。
釈絶海
制に応じて三山《さんざん》を賦《ふ》す
熊野峰前 徐福の祠《ほこら》
満山の薬草 雨余《うよ》に肥ゆ
只今海上 波濤《はとう》穏《おだやか》なり
万里の好風 須《すべから》く早く帰るべし
明・洪武帝
御製 和を賜《たま》う
熊野峰は高し 血食《けっしょく》の祠
松根の琥珀《こはく》も也《ま》た応《まさ》に肥《こ》ゆべし
当年徐福 仙薬《せんやく》を求め
直《ただ》ちに如今《じょこん》に到って更《さら》に帰らず
 その頃の明では、日本というのは、徐福が流れ着いた東の国というのが共通認識であったようだ。
 日本の中世では、徐福到達の地、紀州南部から、補陀落信仰の機運が生まれ、幾人かの僧が渡海を試みた。Wikipedia(https://w.wiki/3TDi) 以前熊野の地を訪れた際、彼らの行跡に、とても興味深く感じた。写真は、その航海に使った船の模型。
 実は、徐福が紀州に着いたのは、往路であり、補陀落渡海は、徐福が中国に帰った復路をたどった見果てぬ航海だったのかもしれない。そうすると、絶海中津と洪武帝の詩の応酬も別の趣きを持ってくるだろう。
参考)石川忠久「日本人の漢詩ー風雅の過去へ」(大修館書店)

日本人と漢詩(026)

◎新井白石


政治権力の中枢にいた詩人といえば、まず菅公が挙げられようが、その後は長らく輩出していなかった。新井白石は、その政治家と漢詩人を兼ねていた稀有な例と言えるだろう。加藤周一は、その文学的質の高さを評価していた。白石自身は、「白石」を「王安石」に擬していたのは、吉川幸次郎氏の言うように、「新法」に批判的であったらしく、穿ち過ぎだろうが。藤沢周平の「市塵」では、主に後期の白石について描き、幾首かの漢詩を引くが、ここでは、不遇ともいえた青年期から壮年期の「陶情詩集」という、陶淵明にちなんだ叙情的なネーミングの集から3首。
新井白石
病中書懐 病中懐《おも》いを書す 七言律詩
春來患肺獨憑床 春來 肺を患《わずら》いて 獨《ひと》り床に憑《よ》る
靜裡飽暗書味長 靜裡《せいり》 飽暗《ほうあん》 書味の長きを
竹影揺金檐日轉 竹影 金を揺《ゆる》がして 檐日《えんじつ》轉じ
松花飜粉午風香 松花 粉を飜《ひるがえ》して 午風香る
輕陰林外聽鳩婦 輕陰 林外 鳩婦《きゅうふ》を聽き
困思枕頭夢蟻王 困思 枕頭 蟻王《ぎおう》を夢む
賴有茶功醒病骨 賴《さいわ》いに 茶功の病骨を醒《さ》ます有り
車聲煎作遶羊腸 車聲 煎《い》作《な》して 羊腸を遶《めぐ》る
大意)
春になっても肺のわずらいで臥床していたとき静かな周りに書見を堪能した
竹の影がきらめき日差しも移りゆき風に吹き上げられた松の花粉が香ばしい
暗い森から聞こえる鳩の鳴き声、夢の中では蟻国の王。
煎茶で体はシャキとして、また茶葉を煎る。
郊行 郊行 五言律詩
野濶殘山斷 野濶《ひろ》くして 殘山斷《た》え
天長積水浮 天長くして積水浮ぶ
麥黃難得犢 麥 黃にして 犢《こうし》得難く
江碧只知鷗 江 碧《みどり》にして 只だ鷗《かもめ》を知るのみ
林罅出幽寺 林《はやし》罅《すき》ありて 幽寺出《い》で
川廻蔵小舟 川廻《めぐり》て 小舟を蔵《ぞう》す
晚來何處笛 晚來 何《いずれ》の處《ところ》の笛なるぞ
數曲起前州 數曲 前州に起《おこ》る
(大意)
広い野に山並みと水平線。
麦秋なので同色の子牛を見極め難く、緑の川面で目につくのは白いかもめ。
林のすきまのむこうのひっそりしたお寺、川は湾曲し小舟もみえず。
日暮れときの笛の音はいずこから、中洲で何曲かが響いてくる。
小齋卽時 小齋卽時 七言律詩
小齋新破一封苔 小齋新たに破《やぶ》る 一封《いっぷう》の苔《こけ》
不厭野翁攜酒來 厭《いと》わず 野翁の酒を攜え來《きた》るを
挟冊兎園聊自得 冊を挟《さしばさ》む 兎園 聊《いささ》か自得し
畫圖麟閣本非材 圖を畫《えが》く 麟閣 本《もと》より非材
定巢梁燕啣泥過 巢を定《さだ》む 梁燕 泥を啣《ふく》んで過《よぎ》り
醸蜜山蜂抱蕊囘 蜜を醸《かも》す 山蜂 蕊《しべ》を抱いて囘《めぐ》る
却有散人功業在 却って散人の功業の在る有り
繞欄終日數花開 欄を繞《めぐ》りて 終日 花の開《さ》ける數《かぞ》う
(大意)
ささやかな書斎に酒の差し入れ、才なき身には月並みの読書、軒下にはツバメの巢、かたわらにミツバチも蜜つくりにいそしむ、欄干を行きつ戻りつ花の咲いているのを数えるのも意外な「ひまつぶし」。
語句のいちいちの典拠は省略するが、周囲の儒学者での傾向であった「盛唐偏重」というドグマからは、白石は比較的自由であり、多くは、唐も中唐以降、その後の宋詩を基にしている。また、藤沢周平には「市塵」という題名には、「詩人」という連想が働いたのかもしれない。
(補足)
不遇時代に、白石は俳諧にも親しんでいたようだ。その中から
「白炭やあさ霜きえて馬の骨」
灰となった炭を例えて「馬の骨」(その当時から、「どこの…」という言い回しがあったようだ。
「貧学やきらずの光窓の雪」
きらずは貧相なおかず、おからのこと
当時の心情が垣間見えて興味深い。
白石の第3首にちなんで、写真は、近くの駅の防犯カメラの上で巣食う燕、先日、親燕が巣を作ったと思いきや、もうひな燕が4羽、雁首を並べていた。
参照)一海知義・池澤一郎 「新井白石」 日本漢詩人選集5 研文出版

日本人と漢詩(023)

◎菅原道真
また時代をさかのぼって、菅原道真(845-903)の生きていた平安時代へ。
讃岐への国司赴任の時の作。
中途送春    中途にて春を送る
春送客行客送春  春は客行《かくかう》を送り 客《たびびと》は春を送る
傷懐四十二年人  懐《こころ》を傷《いた》む 四十二年の人
思家涙落書斎旧  家を思はば涙落つ 書斎は旧《ふる》びたらんかと
在路愁生野草新  路に在らば愁ひ生ずれど 野草は新たなり
花為随時餘色尽  花は時に随ふ為《ため》に餘色尽き
鳥如知意晩啼頻  鳥は意《こころ》を知るが如くに 晩啼頻《しきり》なり
風光今日東帰去  風光 今日東に帰り去る
一両心情且附陳  一両の心情 且かつ附《ふ》し陳《の》べん
語釈と訳文は、
以下の杜甫の有名な漢詩「春望」に直接的な影響を受けたと、大岡信さんは川口久雄氏を引いて述べていますが、十分説得力があります。
國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す
讃岐滞在中には、社会性の強い作品を完成させます。このあたりも杜甫の直接的な影響なしには考えられないかもしれません。加藤周一氏は、「庶民の飢えと寒さをうたったのは、憶良の「貧窮問答」以後、平安時代を通じて、ただ道真の詩集があるだけ」と述べています。
寒早、十首のうち、その四。
何人寒気早  何《いづれ》の人にか 寒気早き
寒早夙孤人  寒は早し 夙《つと》に孤《こ》なる人
父母空聞耳  父母 空しく耳に聞く
調庸未免身  調庸《てうよう》 免《まぬ》かれざる身
葛衣冬服薄  葛衣《かつい》 冬服薄く
疏食日資貧  疏食《そし》 日資《につし》貧し
毎被風霜苦  風霜に苦しめらるる毎《ごと》に
思親夜夢頻  親を思ひ 夜に夢みること頻《しきり》なり
寒早十首の語釈・訳文は以下を参照のこと
写真は、道真を祀る京都市・北野天満宮拝殿(Wikipedia より)。生家からは、やや遠方だったのであまり記憶にない。受験前に連れ出されたかな?。近年では、娘と孫の居住地(上七軒)のすぐそばだったので、かすかな記憶が蘇ったかもしれません。
参考
大岡信「歌謡そして漢詩文」より「詩人・菅原道真」

日本人と漢詩(022)

◎絶海中津


少し、室町時代までさかのぼって…京都五山と呼ばれた寺院在籍の僧侶が中心となった「五山文学」。といっても現在まで「伝統」と受け継がれているかといえばそうでもない。いろいろ原因はあろうが、「新・日本古典文学体系」での入矢義高さんの解説によれば、当時の日本の禅宗にあった、一家相伝主義(丸山真男流にいえば「蛸壺文化」)の影響で、それぞれの僧侶・詩人にあったはみ出た詩的感覚が、削ぎ落とされたことに求められるだろう。その中では、絶海中津(1334-1405)には、感性鋭く、佳品が多い。ネットに掲載されていた七言絶句を一首…
綠陰
綠樹林中淨似秋 綠樹の林中  淨《きよ》きこと秋に似て,
更憐翠鎖水邊樓 更に憐れむ 翠《みどり》 鎖《と》ざす  水邊の樓
乘涼踏破蒼苔色 涼《りゃう》に乘《じょう》じて 踏破《たふ は》 す  蒼苔《さうたい》の色
撩亂袈裟上小舟 撩亂《れうらん》たる袈裟《けさ》  小舟に上《の》ぼる
晩春から初夏での風景であろうか、解説や語訳は以下を参照のこと。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/jpn385.htm
写真は、絶海中津ゆかりの、京都・相国寺。子ども時代に何度か、祖父に連れてもらった記憶がある。

日本人と漢詩(021)

◎毛有慶(亀川盛棟)


日本人であるかどうかは微妙ですが、「琉球処分」により琉球王朝が消滅しようとしていた時代、彼は、清国に救援を求めに渡ったが、琉球に帰ったところ、投獄されたとあります。
「日日王城を瞻望《せんぼう》し、悲歎《ひたん》に勝《た》えず、偶《たま》たま書す」 毛有慶(亀川盛棟)(1861-1893)
城古《ふ》りて転《うた》た蒼茫たり
城荒れて草木長ず
龍楼《りゅうろう》龍《たつ》既に脱し
鳳闕《ほうけつ》鳳《おおとり》猶お翔《と》ぶ
本《もと》簫笙《しょうしょう》の殿《でん》を以て
変じて剣戟《けんげき》の倉《くら》と成す
一朝《いっちょう》一《ひと》たび首を翹《あ》げ
愁断《しゅうだん》す 九廻《きゅうかい》の腸
首里城での詩歌管弦の御殿も、今や武器庫となっていると嘆くところは、現在の沖縄基地の重圧につながるように感じます。
最近、Youtube のじゅんちゃんの哲学チャンネルで、関西学院大学の冨田先生との対談を聴きました。富田先生は、丸山真男を援用しながら、日本の近代から現代にかけては、「他者」をきちんと対象化しながら、対峙してこなかった弊害について述べられていました。それは、実際の対話も欠落していたし、自己の内側でも、なおさらそうであったとしています。琉球に根付いた文化は、狭い意味での「日本」にとって他者であることを、彼の漢詩は示してくれます。(本場中国の漢詩では、いくたびの亡国の際に、その感情表現が昂ぶることが多いように思われます。)
彼の漢詩は、以下の琉球大学アーカイブで読むことはできますので、ゆっくり読んでみたいと思っています。
https://core.ac.uk/download/pdf/59152852.pdf
写真は、焼失前の首里城です。
参考】
・石川忠久「日本人の漢詩」琉球の詩人たちより

日本人と漢詩(020)

◎頼山陽と江馬細香


文化十年(1813年)暮に山陽は細香の住む美濃を跡にして、翌年新春に梨影という女性を娶ります。大垣を去るにあたって
「重ねて細香女史に留別す」
宿雪《しゅくせつ》漫々《まんまん》として謝家《しゃけ》を隔《へだ》す
離情《りじょう》述《の》べんと欲《ほっ》して 路程《ろてい》賒《はる》かなり
重ねて道藴《どううん》に逢ふ 何処《いづこ》に期《き》せん
洛水《らくすい》春風《しゅんぷう》 柳花《りゅうか》を起《おこ》す
とまた京都で逢うことを期待している一方で
蘇水《そすい》遙々《ようよう》 海に入りて流る
櫓声《ろせい》雁語《がんご》 郷愁を帯ぶ
独り天涯《てんがい》に在りて 年暮れんと欲す
一篷《いっぽう》の風雪 濃州《のうしゅう》を下る
と傷心の胸裡も述べます。
翌年春2月半ばに細香と再会、嵐山に花見遊山し、
山色稍《やゝ》暝《くろう》して 花《はな》尚《》お明《あき》らかなり
綺羅《きら》人散じて 各々城に帰る
渓亭《けいてい》に独り 吟詩の伴《とも》有り
共に春燈《しゅんとう》を剪《き》 水声《すいせい》を聞く
暮《く》れて帰《かえ》る 旧《むかし》を話し 歩み遅々たり
鬢《びん》に挿す 桜花 白一枝
濃国《のうこく》に 相逢《あいあ》ふ 昨日の如し
記す 君が雪を衝《つ》きて 吾を訪《おとず》れし時
江馬家蔵「山陽先生真蹟詩巻」よりとあるので、細香に直接贈ったのでしょう。
でも、『山陽詩鈔』では、次のように七絶に改作
「武景文細香と同じく嵐山に遊び旗亭に宿す」
山色稍《やゝ》暝《くろう》して 花《はな》尚《》お明《あき》らかなり
綺羅《きら》路を分ちて 各々城に帰る
詩人故《ことさら》に人後に落ちんと擬《ほっ》す
燭を呼んで 渓亭《けいてい》に 水声《すいせい》を聴く
といろいろ経緯を巡って憶測を呼ぶようになったのです。
写真は、京都・嵐山(Wikicommon より)
参考】
・門玲子「江馬細香」

日本人と漢詩(018)

◎市河寛斎


あまり昨今の時勢とは関係ないかもしれませんが、再開します。通し番号は、前回の続きです。では、徒然なるままに、気が向いたら…
先日、下記の映画を観ました。 
大コメ騒動
大正年間に起こった富山魚津から始まった、米騒動を扱ったものです。主人公の井上真央さんのやや抑えた演技が光っていました。江戸時代に同じ富山を流れる神通川の水害があり、市河寛斎(1749-1820)でその後の貧窮を扱っています。
岩波文庫 「江戸漢詩選」(下)より
「窮婦の嘆き」
路《みち》に小羽邨《こばむら》に過ぎる。九月十二日、神通《じんづう》の岸崩《くず》るること数百歩、農民の家を壊す。

神通川の頭《ほとり》 岸の崩るる辺《あたり》
響きは平地に及び 良田を陥《おと》す
拆勢《たくせい》 横さまに入る 民人の宅《いえ》
屋は傾き 壁は壊れ 殆んど顚《たお》れんと欲す
門に農婦の子を抱きて哭《こく》する有り
自ら陳《の》ぶ 夫壻《ふせい》は本《も》と薄福
山田《さんでん》の贏余《えいよ》 菜《さい》と蔬《そ》と
父子《ふし》六箇《ろっこ》の腹を満たさず
前年の水旱《すいかん》に田は荒蕪《こうぶ》し
歳の終りに猶《な》ほ未《いま》だ輸《ゆ》せざるの租《そ》あり
計《けい》尽《つ》き 仮貸《かたい》して牛犢《ぎゅうとく》を買ひ
塩を鬻《ひさ》いで遠く度《わた》る 飛山《ひざん》の途《みち》
飛山《ひざん》の石路《せきろ》 二百里
大は刃《やいば》を蹈《ふ》むが如《ごと》く 小は歯の如し
但《た》だ人の労《つか》るるのみならず 牛も亦《ま》た労れ
官租《かんそ》未《いま》だ輸《ゆ》せざるに 牛先《ま》づ死す
官租 仮貸《かたい》 一身に負《お》ひ
怨訴《えんそ》して天に号《さけ》べど 陳ぶるに処《ところ》無し
其《そ》れ淵《ふち》に投《とう》ずる予《よ》りは 寧《むし》ろ自ら売らんと
奴《ど》と為《な》り 家を離れて 已に幾春《いくしゅん》
妾《われ》は孤独と為りて空室を守り
児子《じし》は背に在《あ》り 女《むすめ》は膝を遶《めぐ》る
昼は人の傭《やとわれ》と為り 夜は纑《あさ》を辟《つむ》ぐ
光陰《こういん》空《むな》しく度《わた》る 一日日《いちにちにち》
何ぞ計《はか》らんや 天変《てんぺん》又た我に帰し
一夜 此の顚覆《てんぷく》の禍《わざわい》に覯《あ》はんとは
児《じ》は号《さけ》び女《むすめ》は泣いて 妾《わ》が身に纏《まつ》はる
嗟《ああ》 是れ何の因《いん》ぞ 又た何の果《か》ぞ
吾《わ》が壻《おっと》 平生《へいぜい》 悪を作《な》さず
妾《われ》も亦《ま》た艱苦《かんく》して耕穫《こうかく》を助《たす》く
身の死するは何ぞ厭《いと》はん 女児を奈《いか》んせんと
語《ご》畢《おわ》りて 双涙《そうるい》 糸絡《しらく》の如し
一行《いっこう》の聴《き》く者 皆な傷愁《しょうしゅう》し
為《ため》に喩辞《ゆじ》を作《な》して沈憂《ちんゆう》を慰《なぐさ》む
悠悠《ゆうゆう》たる蒼天《そうてん》 爾《なんじ》の為ならざるも
明明《めいめい》たる皇天《こうてん》 爾 尤《とが》むること勿《なか》れ
天高くして 人語《じんご》響《ひび》き易《やす》からず
中に冥吏《めいり》の忠儻《ちゅうとう》ならざる有るも
恃《たの》む所は 皇天 生生《せいせい》を好む
豈《あ》に雨露《うろ》の枯壌《こじょう》を湿《うるお》すこと無《な》からんやと
日本人の漢詩は、中国の伝統と違い、一部の優れた例外(菅原道真公くらいか)を除きこうした社会的視野をもった題材は極めて少ないと思います。また、比較的平明な言葉遣いで、余計な訳文は不要だとおもいますが…大意を示すと
神通川辺の水害、田畑、家屋に及んだ。被災者の農婦の言、
「もともとの貧乏暮らし、家族の食事にも事欠く始末、また年貢も納めるのもむつかしい。
 夫は、飛騨の国に、塩の行商の途中で、牽いていた牛が死ぬ始末、年貢と借金を背負う始末。少しの足しにと夫は他家に稼ぎにいったのも何年か前。
 私は、子どもの面倒を見ながら、人に傭われ、夜も夜なべ仕事にあけくれたところに今度の水害。家も転覆する始末、夫婦とも悪いことはした覚えはないのに、何の因果でしょうか、子どもたちをどうすれば…」と目に涙に皆ももらい泣き、なんとか慰めの言葉をかけた。
「神様をうらむじゃないよ、民の声が天がたかければ届かないこともあるだろう、また神の側近には不忠、不誠実な輩もおるだろう。(このあたり、現実に当時の役人の実態の反映でしょうね。)天の神は、人々、万物が生き生きと暮らすことを望まれているはず、きっとそのうちに恩恵もあるだろうよ。(まさか作者は本気では信じておるまい。)
米騒動だってしかり、映画を観てはじめて地下水脈として受け継がれる庶民の思いを感じました。

こんなご時世だから(59)

ピーター・ブルック先生曰く
「私は唯一の真実というものを信じたことがない。ある時ある場合にだけ有用である、と信じている。時は移り、私たちは変わり、世界は変化する。それにつれて、目標が変わり、視点も変わる。もちろん、ある視点を生かすためには、それを全面的に信じ、貫徹しなければならない。とはいえ、生真面目になりすぎてもいけない。「死守せよ、だが、軽やかに手放せ」」
写真はピーター・ブルック氏

今の御時世だから(37)


ほくせつ医療生協機関紙での木村久夫さんの話の続き(2015年9月号)・前号に対しての当方の感想も掲載されていた。
「お便りコーナー」テキスト
 8月号「ほくせつの歴史散歩」で取り上げられた木村久夫さんは私の豊中高校 (当時は中学)の先輩にあたります。一時は、金沢第四高等学校志望とありま すから、実現していたら二重の意味で先輩です。
 昨年、東京新聞などで「きけわだつみのこえ」に収録分以外にもう一通別の遺書があったと報じられました。そこにはさらに鋭い当時の軍部批判 が書かれていました。
「彼(軍人)が常々大言壮語して止まなかった忠義、犠牲的精神、其の他の美学 麗句も、身に装ふ着物以外の何者でもなく、終戦に依り着物を取り除かれた彼等の肌は実に耐え得ないものであった。此の軍人を代表するものとして東條前首 相があ る。更に彼の 終戦に於て自殺(未遂)は何たる事か。無責任なる事甚だ しい。之が日本軍人の凡てであるのだ。」
 歴史に仮定が許されるはずはありません。でもその歴史的事実を起こした原因の深い洞察と、現在の私たちに課せられた課題に真剣に向き合うこ とが木村久夫さんが遺したものだと思えてなりません。「戦争法案」の帰趨が危惧される昨今、もう一度そのことを噛みしめてみたいと思います。