読書ざんまいよせい(076)

◎巌窟王(巖窟王)(上 002)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 一一 宛名は誰れ

呼出された友太郎の入つて來る迄に、蛭峰檢事補は自分の事を考へた、イヤ考へるともなく自分の身の上が胸に浮んだ。

尤も胸に浮ばずには居られぬ際である、米良田めらだ家といふ樣な勢力ある貴族の婿になれば追々出世の道も開けるに極つて居る、其れに妻たるべき姫君禮子は顏も心も美しい上に六萬圓の婚資を持つて居る、六萬圓といへば檢事補の月給の幾十年分にも當るだらう。

此樣なことまで急がしく腹の中で計算するは嬉しさの滿々て居る爲である、婚資の外に、禮子の父が死ねば、其財産が廿萬圓、之も禮子の物になる、母が死んでも凡そ其れに近い財産が矢張り禮子に轉がり込む、禮子の物は我物である、唯一つ氣に掛るのは自分の父の野々内が今以て革命家か謀反人かの樣に世間から疑はれて、其れがやゝもすれば自分の出世の邪魔になる一事である、此の一事を除けば自分の前途は晴々と晴れて居る。

此樣な考へが未だ充分には了らぬ所へ友太郎が這入つて來た、蛭峰はあわてゝ自分の顏から嬉しさの色を取退け、職務相當の眞面目な面持を現はした。

友太郎を連れて來た捕吏の長は先づ蛭峰の傍に來て小聲で以て捕縛の次第を報告し、さうして蛭峰から、其掛引の宜しきを得た事を賞讚せられて立去つた、後には蛭峰と團友太郎と唯二人の差向ひである。

蛭峰は先づ友太郎の顏を見るに全くの美少年で、少年の正直と、少年の熱心とがおもてに現はれて居る、仲々恐ろしい國事犯とは思はれぬ、其れに先刻禮子から云はれた優しい慈悲深い言葉も耳の底にだ殘つて居るから、此人の今までに殆ど例のないほど柔和な聲を出して「貴方が團友太郎ですか」

友「ハイ」蛭「年は」友「十九歳」蛭「何の樣な所から拘引されました」友太郎はいさゝか力を込めて「オヽ私は、婚禮の席から拘引せられたのです、三年まへから許婚に成つて居る女と、今日 愈々いよ〳〵婚禮することになり、式場へ臨む前に、知人しりびとを饗應して居ますと其席へ捕吏が踏込んで參りました」何と自分の境遇に能く似た事ではあると蛭峰は又 いさゝか同情を深くした。

同情は好いけれど只此同情が何時まで續くかゞ疑問である、蛭「其れから、サアもつと言葉を續けなさい」友「此外に何も續けていふ事がありません、お聞下されば何事でも」尤も千萬な答へではあるが、何の意見も何の罪もないのに捕へられたのだから言立てることは一つもないのだ。蛭「貴方は横領者に使はれた事はありますか」

横領者とは拿翁なぽれおんの事である、王の位を横領したと云ふ所で王權黨は皆斯ういふのだ、友太郎が若し拿翁なぽれおん黨の者なら此言葉に幾分不快を感ずる所だけれど、彼れは何とも感ぜぬ「ハイ水兵になる願書を出したことはあります」蛭「貴方の政治上の意見は」友太郎は呆れた顏で「何で私に政治上の意見などがありませう、年が若くて未だ政治のことなど少しも分りません」蛭「政治上でなくとも、平生何か意見を持つて居ませう」友太郎は少し考へ「ハイ、父を大切に思ひます、雇主森江氏を敬ひます、さうそて許婚のお露を可愛いと思ひます、是れが若し意見ならば、平生の意見は唯だ是丈これだけです」

殆ど婀娜あどけない程の返事である、蛭峰は益々感心して決して此男は罪人で無いと思ひ、此樣なのは放免する方が却つて上長に贊成せられて自然自分の出世の端にもなり禮子にも喜ばれると思つた、おほやけには長官のお襃めを得、わたしには美人に嬉しい顏をされるは決して蛭峰の喜ばぬ所ではない、蛭「貴方は誰かに怨まれてゞも居るのですか」友「少しも怨まれる心當りは有りません」蛭「しか廿歳はたち未滿で船長にも成るといふのは異數の出世ですから、怨まぬ迄も羨む人はあるに違ひない、常に能く其邊氣を注けて居ねば何の樣な害に逢ふかも知れません」

尋問ではない寧ろ相談が忠告の樣である。

友「ハイ氣を注けましても、別に私を怨む人は決してないと思ひます」蛭峰は全く友太郎の清淨な事を信じた。「フム、貴方は全く正直な少年らしい、私も極寛大に、常の規則からは外れますけれど、ソレ是れを見せて上げます、此手紙を誰が書いたか心當りはありませんか」斯う云つて差出したのは彼の段倉が左の手でしたゝめた例の密告状である、友太郎は受取つて讀んだけれど、勿論わざと筆蹟を變へて書いて有るのだから心當りのある筈がない、友「誰が書いたか少しも分りません」蛭「しかし此手紙に書いてある事柄は事實ですか」友太郎はいさゝか眉根をひそめつつ「ハイ何うして此樣なことを知つた人がありますか、全く、餘ほど事實に近いのです」何たる有體ありていな返事だらう。蛭「では事實を有の儘に言つて御覽なさい」友太郎は森江氏に語つた通り、船長呉氏の死際に拿翁なぽれおんの居るエルバの島へ立寄つて、是をベルトラン將軍に渡せと小包を托せられた事を語り、「船長の言葉は總て命令と聞かねばなりませんから、私は其通りに致しました、さうしてエルバの島へ上陸し將軍に面會を求めますと容易に許される容子はなかツたのですが、若し面會が六かしい時は是を示せとて、一個ひとつの指環を渡されて居ましたから、其れを出して示しますと直に一室ひとまへ通されました」とて、面會の一部始終を述べ、最後に至り森江氏にさへ明かに言はなかつた祕密まで話し「船長の言葉には此小包さへ渡せば多分將軍から巴里へ送る手紙を托されるで有らうから、直に其手紙を持つて巴里へ行き、直々に宛名の人へ手渡しせよ、決して何人にも見せ、又は聞かせてならぬと言はれました、果して其言葉通り、面會の終る時に將軍から手紙を托されました故私は今日こんにち婚禮が濟めば明日直に其手紙を以て巴里へ立つ積でした、イヤ今も其積りです」

蛭峰は呟いた「アヽ貴方は無意識に國事犯の道具に使はれ掛けたのです、勿論貴方には罪はないのです、直に放免の手續きを運んで上げます」もとより直に放免せられるものとは期して居たけれど友太郎は眞實に感謝した「貴方の御親切はきもに銘じます」蛭「將軍の渡した其手紙といふは巴里の黨員と何事をか打合すものだらう、其手紙を私へお渡しなさい」友「う捕吏に取上げられました、其の貴方の卓子てーぶるの上に在るのが其の手紙です」蛭「オヤさうですか、巴里の誰れあに當たものか知らん」と蛭峰は呟いて卓子てーぶるから其手紙を取上て上封の宛名を見た。

若し雷が頭上に落ちても蛭峰は斯う迄は驚かぬであらう、彼は宛名を見て全く震へ上つた、何うだらう「ヘロン街十三番地にて野々内殿」とある、野々内とは自分の父なのだ。

巖窟王 : 一二 危い處、危い處

今の今まで、自分の運のおほいに開けて來たのを喜んで居た蛭峰檢事補は、唯此手紙の宛名だけで忽ち自分の足許あしもとへ千仞の絶壁が出來て、自分が其底へ落込まねばならぬかの樣に感じた。實に此宛名が自分の身の破滅である。

「ヘロン街十三番地野々内殿」是れ自分の父に非ずして誰ぞや、父の過去つた履歴でさへ此身の出世を妨げる事、一方ひとかたではないのに、今現に拿翁なぽれおんに氣脈を通じ、斯樣な手紙の遣取して居ると有つては、此事が人に知れると同時に此身は何の樣な目に遭ふかも知れぬ、出來るばかりと爲つて居る婚禮さへ覺束ないのでだ、イヤ覺束ない所ではない、禮子の父 米良田めらだ氏は勤王の凝固こりかたまりで有るのに、何で國王を蹴落さうとする拿翁なぽれおん黨の首謀者の息子と縁組をするものか、縁組は破れる、其次第が上官等には知れる、何うしても自分の身が滅びるより外はない。

若し誰も居ぬ所ならば、蛭峰は聲を出して泣く所だらう、職務の椅子にり被告人を前に控へて居て泣くにも泣かれぬ、けれど彼は全く呻いた、泣くよりも猶辛い聲だ。

唯だ此手紙が誰の手にも落ずして、我手に落ちたのはせめてのさいはひである、眞の檢事が留守なればこそ、檢事の代理者たる我手に落たのだ、眞逆まさかに未だ我外に此手紙を見た者はないだらうと斯ふ思ふと四邊あたりを見廻すことになつた。

蛭峰の前に立つて居る友太郎はさうとも知らぬ「ハイ、其のヘロン街十三番地野々内殿と書てある手紙が其れなんです」と言ひ足した、蛭峰は再び呻いた、友太郎は容子の異樣なのを怪しんで「オヤ其方は貴方のお知り合ですか」蛭峰は咽に詰る樣な聲で「國王の充實な官吏は決して陰謀者などを知りません」

斯う云つて更に手紙の中をひらいて見た、中には實に容易なぬ大陰謀の打合せを記してある、蛭峰は前額ひたいに油汗が湧いた、此樣な大陰謀を半分我父が背負つて居るのだ、是れが若し人に知れては此身の助かる筈がない。

何うして好いやら、日頃は種々の計略に富んだ身でも、餘りのことに何の思案も浮ばぬまゝ、二度三度手紙の文句を繰返しては讀んだ、讀むうちに益々逃れ道のないことが分つて來る。

其れにしても何とかせずには居られぬのだ、彼れは出拔の樣に友太郎の云ふた「貴方にとくと問はねばなりませんが」友太郎「ハイ何事でも正直にお返辭致します」斯う答へて友太郎の方へ其問を待つて居るのに其問が仲々出て來ぬ。

蛭峰は身を椅子へ仰向けにし、天を眺める樣にして前額ひたひの汗を拭いた、さうして心の中で呟いた「友太郎が此手紙の中を知つて居るかしらん、若し知つて居て、其上に野々内が此身の父だと云ふことまで知つて居れば、最早此の身は助かる所はない、唯だ一人にでも知られて居れば追々外の人にも知られるのだ」

ては友太郎が知らぬならば此手紙を握り潰す積りか知らん檢事補といふ職業に對して、實に相濟まん了見ではないか、彼れはやうやく問ふた「貴方は此の宛名を知つて居ますか」友「宛名を見ずには屆けることが出來ませんから無論讀んで知つて居ます」蛭「イヤ宛名の人を」友「人は少しも知りません」蛭「全くですか」友「全くです、野々内と云ふ姓さへ其上封で見るのが始めてです」蛭峰は少し息をした、さうして更に「此樣な手紙ですから、托される時に、無論中の意味を聞いたでせうね」功に鎌を掛けて居る、友「私が、何で其の樣なことを聞きますものか」蛭「其れにしても中を讀むことは讀んだでせう」友太郎はいさゝか呆れた顏で「イヽエ決して」蛭「中の事柄を知りませんか」友「知りません」蛭「少しも」友「少しも」

いつはりのない樣が分つて蛭峰は初めて本統に人間らしい呼吸いきをした、さうして更に言葉の調子を落着けて「直に貴方を放免する積でしたが放免の前に一應、判事に相談せねばなりません、其れゆゑ、少し時間が掛ります」時間の掛る位は仕方がない、我慢をせねばならぬ、友「宜しう御座います」

檢事補は餘ほど親密な友人に内所事ないしよごとの相談でもするかの樣に、ズツと友太郎に顏を寄せ、且打解けた色を見せて「實はネ」と言掛け、一段聲を低くして「此手紙が貴方の嫌疑の本體だから之れが有る中は貴方の身の面倒が盡きませんよ、貴方の樣な正直な者のさう面倒を掛けるのが決して裁判の本意では有りませんから、私がこゝで此手紙を燒捨て上げませう」

檢事が此樣な手紙を燒捨て善いものか惡いものか其樣なことは友太郎は少しも知らぬ、唯深く此人の親切を感ずるのみだ、「イヤほんとに貴方の御親切は謝する言葉も有ません」

蛭「其代り、誰に何と問はれても此手紙のことを少しも口外しては可けませんよ」友太郎は言切て「決して口外致しません」蛭「此手紙を托されさへせねば貴方は裁判所に呼出される筈は何もない、さいはひ貴方と私より外に知つた者は有りませんから、ソレ此通り」と云ひつゝ立つて、彼の手紙を煖爐の中に入れ、灰も分らぬ迄に燒いて了つた、自分の位地を助けるのが爲めとはいへ甚い仕種しぐさだ。

蛭「此外には何も托されてあ居ないでせうね」友「イヤ何にも」蛭「全く僞りないとお誓ひなさい」友「固く誓ひます」蛭「では今云つた通り貴方を後程まで、イヤ晩方まで當廳に留置きさうして放免の手續きを運びますから暫く警吏の後についてお退き爲さい」斯う云つて直に人を呼び、入つて來た警吏に向つて何事をか細語さゝやいて、さうして又友太郎に向ひ「サア此方について行けば好いのです」友太郎は兎に角日の暮にはお露の傍へ歸られるものと思ひ顏を埀れて一例し、其れとなく熱心に謝意を示して、さうして警吏に導かれて退いた。

其後に蛭峰は胸を撫でゝ「ア好かつた、檢事が不在で、おれが代理を勉めたのは何よりも仕合せだつた、若しも檢事の手にアノ手紙が入つたら何うだつたらう、アヽ危い所、危い所」獨り呟いて頬笑むは何たる恐ろしい度胸だらう、さうして頬笑のあとの消えるか消えぬうち、更に何事をか思ひ附いたと見え、はたと手をつ樣にして「アヽ馬鹿なものだ、此の名案が氣附かなんだ、さうさうだ、わざはひを轉じて福となすはこゝのことだ、少し旨く立廻れば、却つて是れが非常な出世の種になるは」

何うわざはひを福に轉ずる積りか知らぬが、彼れは五分間前に脂汗を流して居たに似ず、滿面に嬉しさを輝かせて「サア直ぐに是れから着手するのだ、さうだ、又とない此の好機會を取逃がしてたまるものか」と勇み勇んで立上つた。

巖窟王 : 一三 人間の日 照らぬ所

日の暮頃には放免せられるものと思ひ、友太郎は警吏の後にいて蛭峰檢事補の前を退いたが、廊下に出ると二人の憲兵が待つて居て、あたかも重い罪人でも取扱ふ樣に、左右から友太郎を挾む樣にして奧へ奧へと連れて行つた。

蛭峰檢事補の親切な約束とは少し容子が違ふ樣だけれど、ナニ晩方には家へ歸ることが出來るのだ、其れ迄の所は何の樣な扱ひを受けても好いと、多寡たかを括つて其扱はれる儘に從つて居ると遂に此の取調廳に附屬して居る牢屋の中まで連れて行かれ、あるへやの重い鐡の戸を開いて其中へ入れられた、憲兵も警吏も外から錠を卸す音と共に立去つたらしい。

牢の鐡戸は、何の樣な横着な男でも之を見ると身を震はす、殊に牢の中の何となく陰氣臭い空氣は誰れの勇氣でもひしいで了ふが唯だ友太郎のみはさうでない、長くとも一二時間の辛抱だと思ひ、寧ろ面白い話の種が出來た樣な心で、暫しが程は物珍しくへやの中を見廻つて居た。

たつた一時間か二時間、其中には誰れか放免の爲に來て呉れるのだ、直ぐに端つてお露のもとに行けば何の樣に喜ぶだらうと、早お露の喜ぶさまなどを心に描いて待つて居ると、唯つた一時間でも短くはない、してや二時間、して、三時間、と經つたけれど誰も來て鐡の戸を開けて呉れぬ。

時々戸の外から靴の音が聞えるので、今度こそはと馳せて戸の所へ行つて待つて居ると其の儘行過て了ふのだ、此の樣な事が何度有つたか分らぬ、こゝへ入つたのが三月一日の午後の四時で有つたが遂に夜の十時まで六時間捨置かれた。

何處かの寺から十時の鐘が聞えて間も無く、ヤツと鐡の戸は開いた、友太郎は其處そこまで走つて行つて見ると、矢張り憲兵の姿が見えて居る、放免するのに何も憲兵は要らぬことだ、さうして猶怪しいのは戸の外に妙な馬車が居る「こゝへ私は乘るのですか」問はぬ譯に行かぬ、憲兵「さうです」友「蛭峰檢事補からの差圖でせうね」憲「さうです」

親切な彼の人からの指圖なら何も間違ひはない、何處かへ連れて行かれて、さうして卸して呉れるのだらう、唯だ此樣に思ふて、自分から進む程にして馬車には乘つた、馬車の背うしろには士官らしい制服を附けた一人乘つて居て馭者ともに都合五人の附添ひである、やがて馬車の戸は閉ぢられて錠までも卸された、何だか嚴めし過る樣でもある。

馬車は出た、窓から外の樣子を見ると、益々不思議だ、夜中に用事もなさ相な海岸を指して走つて居る、ては港へ行くのか知らん、果してさうだ、凡そ小一時間もはしつて、波の音の聞える所へ着き、背後うしろの士官が先に降りて、憲兵も之に續き、又續いて馬車の戸が開いた、怪訝の思ひで自分も降りると、こゝは海岸に在る番兵小屋の前で、十人ほどの兵士が今の士官の差圖に應じて出て來た。銃の先に附いた剱が星の明りに光つて居る。

友「何うするのです」と憲兵に向つて問ふと、

憲「今に分ります、此方こちらへ」と答へ、先に立つて水際へ下つた、水際には小舟が待つて居る、何事とも知らぬ間に之へ乘せられ、ともの方へ据られた、左右には矢張憲兵が挾んで居て、士官は案内者の樣に船みよしに座して見張つて居る。

四人の水夫が艫を揃へて漕出した、船は暗い海の上を、矢を射る樣に飛んで行つて、間もなく水門を通り越し、港の外へは出た、實に合點が行かぬ、船の中の用意などを見るとさう遠くまで行くものとも思はれぬけれどればとて、近くには漕附けられる樣な親船も居ぬ、何だか不安心な思ひがするから友「全體何處へ行くのです」と再び憲兵に向つて問ふと「着く迄は知らせるなと長官から命ぜられて居るのです」長官の命で以て口を縛られて居る者に問ふたとて仕方がないと友太郎も亦口をつぐんだ。

けれども何しろ放免の手續きらしくはない。何も放免に斯樣な手數は入らぬ事だ、晩程までと云つた蛭峰檢事補の約束は何うなつたのだらう、此身に對する嫌疑の材料とも云ふべき野々内へ宛た手紙は彼の通り燒捨て呉れたし、何にも此身を行方も知れぬ所へ運んで行く筈はないのに、とは云へ此通り事實運んで行かれる所を見ると、檢事補の約束に何か間違ひが有つたか知らん、檢事補の力も及ばぬ事に成つたのか知らんと、益々不安心である、何も身に罪の無い者が、畏れを抱くには及ばぬけれど、氣遣ふて居る父にもお露にも、夜に入つて迄一言の便りを聞かし得ぬのは餘り殘念な譯である。

其うちに船は港の外の岬を廻つて、丁度 西國村すぺいんむらの沖へ掛つた、沖とは云へど水際から數丁しか離れて居ぬ、お露の家もボンやりと一個ひとつあかりが點つて居る、彼のあかりの下に定めしお露が、物案じに沈んで居るのだらう、聲を立てゝ打叫べば聞える程の所だのに今此身がこゝを通つて居る事が何でお露の神經へ通じぬのだらう、何でお露が水際まで出て來ぬのだらう。

殆ど恨めしく思ふうち舟は又進んで西國村すぺいんむらともしも見えなくなつた、友太郎は堪へ兼ねて三たび、憲兵に向ひ「此舟は何處へ着きます、今に私へ分る事を何も隱すには及ばぬではありませんか」と切に問ふた、憲兵は同僚に相談する樣に「さうう直に當人へ分ることだから、いふても構ひますまいがねえ」同「構ひますまい」此返事を得て更に友太郎に向ひ「此先に見える黒い所を知りませんか」友太郎は、慣れた水夫のまなこを以て、やみを透かして向ふの方を見ると、突兀とつこつとして、黒く高く行方に立塞たちふさがる樣に海の表に聳えて居るのは名も高い泥阜でいふの要塞である。

泥阜でいふの要塞とは、巴里のバスチル獄と同じ程、昔から人の恐ろしがる所である、元は要塞で有つたゞらうが、今は何人も用事のない所だから、祕密の罪人を祕密に片附けて置く場所と爲つて居て、こゝへ入る者は殆ど二度と此世に出る事が出來ぬ、イヤこゝへ入れられた事をさへ誰にも知られぬ事が出來ぬのだ、全く人間界の、日の照ぬ所である、泥阜でいふの名を聞くと共に、友太郎の頭には、全身の血が衝き上つた、彼れは全く我を忘れてとても逃去る外はないと思ひ、早くも跳躍りて、舟舷ふなばたから海に飛び込まふとすると直に二人の憲兵に取つて伏せられた、甲「長官の命に背き、一寸行先の名を知らせると早此通りだ」乙「何事も知らせるなといふ第一の命令に背いたけれど、途中で逃亡を企てれば直ぐに射殺せと云ふ第二の命令にはう背かぬぞ」とて短銃ぴすとるの口を直に友太郎の頭に差し向けた、う逃げる事も出來ぬ。人間の日の照ぬ泥阜でいふの要塞に入れられるのみである、實に無慘では無いか。

巖窟王 : 一四 梁谷法師

こゝで、若し少しでも抵抗すれば直ぐに射殺されて了ふのだ、友太郎はいつそ抵抗してやらうかとも思つた、射殺された方がよつぽど好い、生ながらの地獄ともいふ可き泥阜でいふの要塞へ押籠められて了ふよりは。

泥阜でいふの要塞といふ恐ろしい名が、彼れの耳には半鐘の樣に響いて居る。

けれど彼れは斯樣な間にも蛭峰檢事補の約束を思つて居る、彼れほど堅く言葉をつがへ此身に誓ひまで立てさせたのだから其中には何うかして呉れるだらうと、唯だ此約束の爲に、兎に角 生存いきながらへて居る氣になつた、後で思ふと此樣な氣にならぬ方が餘ほど増で有つた。

其中に船は岸邊に突當つた、こゝ泥阜でいふ要塞の斷崖のや雪崩た所である、直に二人の憲兵に兩手を取られ、舟から引揚られ、さうして背後うしろから彼の士官が、帶劍を脱き身にして附いて來る、スワといはゞ直に刺殺さんかと思はれる程の堅固な用心で、餘ほど危險な國事犯をでも扱ふさまである。

友太郎は茫乎ぼんやりとして夢見る心地だ、長い石段を引上げられ、其れから番兵の銃劍の光つて居る門の樣な所を幾個いくつくゞらせられ、路程みちのりにすれば十丁餘も歩んだかと思ふ頃立留つた、初めて顏を上げて四邊あたりを見ると、月のない晴れた夜半で、薄々分るのは四方の高い塀である、自分の身は塀に圍まれた建物との間に庭の樣な所に立つて居るのだ、う逃げやうとて逃げる道はない。

逃げる道がないのに安心してか憲兵の一人は立去つたが直ぐに又一人の役人を連れて來た、後で分つたが此役人は牢番で有つた。

「ドレ囚人は何處に居ます」と云ひ、殘つた憲兵が「こゝに」と答へるのを聞いて「宜しい私が連れて行きます」とて更に友太郎に向ひ「サア此方こつちへ」憲兵は突き放す樣に「サア此方の後に附いて」

裁判も何も受けずに早囚人である、地の下へ潛り込むかと思ふ樣な低い建物の下を潛つて牢と思はれる所の入口に着いた、目に見ゆるは古來幾人の涙にしめつたゞらうと疑はれる四方の壁ばかりである。

牢番「今夜は典獄がう寢たから兎も角此室でお明しなさい、明日は外に移されるかも知れません、こゝへ水と麺麭と、さうして寢床の代りに新しい藁とを置いて有りますから」斯う云つて友太郎を牢の樣なへやの中へ推し込めて無論形の通りに戸も外から錠を卸し「おやすみ」とあざける樣な言葉を遺して去つた。

室には燈明あかりもない、唯だ窓の外にくすぶつた常夜燈が薄暗く燈つて居る、こゝに置くといつた物が何處に在るのか、慣れぬ目には勿論見えぬ。

翌朝牢番が廻つて來て見ると、此囚人は昨夜立つて居た所に其まゝ立つて居る、身動きもせぬさまは石に化したかと怪しまれる、唯だ活て居る樣に見えるのははれまぶたの間から恨みの光を放つまなこばかりである、牢番「昨夜寢ませんでしたか」友太郎「知りません」牢番は麺麭も水も手附かずに有るのを見て、「腹は空きませんか」友太郎「知りません」實に語を發するさへ蒼うるさいとの容子である。

牢番「何も用事は有りませんか」と言ひ捨去らんとした、友太郎は忽ち叫んだ「典獄に逢はせて下さい」牢番「其樣な事が出來るものか」といふ顏で一寸振向いて去つて了つた、こゝに至つて初めて友太郎の心には、今まで起らう、起らう、として居た一切の衝動が、沸き返る樣にのぼつて來た、彼れは床の上に身を投げて聲を放つて慟哭した。

思へばこゝへ來る舟の中で何故身を投げなかつただらう、憲兵の氣の附く前には幾等でも身投は出來たゞらうに、さうさへすれば泳ぎには逹して居るし何處かの岩角へでも掻附いて居れば、隨分通り合す舟に救はれ、他國へ行く事も出來た、何處の他國とても水夫の身には食ふに困らぬ、身の定まつた上で、お露をも父をも呼寄せる事は出來、生涯、泥阜でいふなどと云ふ此樣な恐ろしい所は知らずに濟む事が出來たのに。

全くその通りである、友太郎は幼い頃から水夫として此近海の大抵の國は故郷の樣に能く知つて居る、さうして伊國いたりー西國すぺいん其他諸國の言葉も自分の國語の樣に話すのだから何處へ行つたとて困る事はない、其れが唯蛭峰の約束をあてにしたばかりに其樣な事になつた。

眞に彼れは、藁より外に敷物のない大地の上に泣暮し又泣明した、何が何でも斯うなつては典獄に逢つて、此身が未だ裁判さへも豫審の調しらべさへも受て居らぬ事を訴へ、聽かれずば爭ふても見ねばならぬ、此の又翌朝再び牢番の來た時に又典獄に面會させて呉れと請ふた、けれど其れは出來ぬとの同じ返事を得た爲に、其れなら何うすれば、逢はれるかと嚴しく問ひ返して止めなかつた、牢番は腹を立てゝ「其樣な無理な事ばかりを云ふと柔順おとなしくなるまで食物を持つて來ません」此の言葉が總ての囚人に對して何よりのおどしであるのに、友太郎には少しの效目きゝめもない。

友「持つて來ねば食はぬ迄です」

隨分絶食も仕かねぬ見幕である、けれど絶食して死なれでもしては困る、其實囚人一人に付き、まかなひの上前や何や彼やで日に六錢の儲けになるのが、此牢番の役徳だから決して役徳の本尊を死なせ度くはない、れば夕方再び來て再び問はれた時には幾分か物柔かに「其れほど典獄に逢ひ度いなら、柔順おとなしく獄則を守つて機會をりを待つが近路だ、獄則を守る者は少しの間庭の散歩が許されるから丁度 其處そこへ典獄が通り合さぬとも限らぬ」友「何れ程の間獄則を守れば」牢番「さうさ、半年か、イヤ一年位も」

一日も待てぬ身が一年とか、其れまで生きても居られぬだらう、友太郎は絶望に餘りに又思案を定めて、少し言葉を柔げて「貴方の百圓、全く百圓上げますから、何うか私の書く只ツた二行の手紙を西國村すぺいんむらまで持つて行つて下さらぬか」牢番「百圓今持つて居ますか」友「持つてはゐぬが 其途みちで私の家に寄つて呉れゝば」牢番は打笑つた「呉れない所で長官に訴へる譯にも行かず、丁度お前さんは梁谷はりや法師と同じ事を云つてゐるワ、今に氣でも違はぬ樣に氣をけるが好い」

梁谷はりや法師とは誰の事だか勿論合點が行かぬから「其れは誰です」と問ひ返した、牢番「丁度此室にゐた伊國いたりやの坊樣だよ、いつも典獄に、牢から出して呉れゝば或所へ大金を隱してあるから其中を百萬圓分て遣るといひ、其事ばかり繰返してゐたが終に」友「終に放免せられましたか」牢番「ナニ、終に發狂して、二年前から今以て、穴倉の底に在る土牢に入れられて居る」

二年前から今以て土牢とは、聞くさへも身の毛が逆立よだつ、眞に話よりも恐ろしい所である、友太郎はう思案も何も得せぬ、絶望の餘りに我知らず、此室の中に在る只一脚の腰掛臺を取上げ「私の手紙を西國村すぺいんむらまで屆けて呉れるか、いやだと云へば、今度お前が此室へ這入つた時に、出し拔に此臺を以てなぎり倒して了ふ」と云ひ、腰掛臺を水車の樣に振廻した、牢番は驚いて身を退き「アヽ丁度 梁谷はりや法師の通りだ、法師も初めは斯うだつた、愈々いよ〳〵發狂するのだな、宜しい直に典獄に逢はせて遣るは」

呟いて下つたから眞に典獄に逢へることかと、やゝ氣を引立てゝ待つて居ると、牢番は間もなく曹長と四人の兵士を連れて現はれ、曹長に差圖して「典獄の命の依り、此囚人を最下の室へ移すのだ」最下の室とは土牢である、さうとも知らずに引行かれて、穴の樣な所を下へ、下へ、と降り、遂に眞暗な所へ投込まれた、何にも見えぬ、只聞えるは曹長の聲で「來る早々土牢とは餘ほど危險な罪人と見えますな」牢番「危險ですとも、極々性の惡い狂人ですもの」友太郎は初めて合點が行つたけれど、事既に遲しである。

全く地獄の底にも同じ土牢へ入れられたのだ、逃去る望みも、叫び聲の人に聞かれる見込も何もない。

巖窟王 : 一五 國王陛下へ宛て

土牢の入れられるのは、丁度、活ながら地の底に埋められる樣なものだ、イヤ地の底に埋められるのは間もなく死んで了ふから苦痛が短い、土牢に至つては苦痛の消ゆる時がない。

そもそも團友太郎を此樣な目に遇はせたのは誰なんだらう、云ふ迄もなく蛭峰檢事補である、友太郎の持て居た拿翁なぽれおん黨の手紙が人に知れては自分の出世の道が塞がるから友太郎と壓潰おしつぶしたのだ、其のみではない、猶ほ彼の手紙に書いて有つた事柄を利用して自分の地位を作らうと思つてゐるのだ。

彼れは檢事の居ないため自分が暫く何事も思ふ通りに成るを幸ひ、旨く友太郎の事に關し自分の思ふ通りの手續を運んで置いて、さうして裁判所を立去つた、立去つて直に米良田めらだ家の婚禮の席へは歸つた。

さうして彼れは許婚の禮子及び其母御に向ひ、暫しでも席を空けた事を謝し、更に禮子の父に向つて數分間、別室で密話が仕たいと申し込んだ。

勿論婿の請ひだから拒絶する筈はない、殊に蛭峰も容子に尋常たゞならぬ所が有つて餘ほどの熱心が現はれてゐる、其れは其筈である。彼れは自分の出世を計るに就き又とない好機會が來たと思ひ、一刻の猶豫もなしに之を利用する積りだもの。

やがて彼れは自分の嶽父しうとたる可き米良田めらだ伯と共に別室に入つたが、内より堅く戸をとざして、さうして出拔に「貴方の財産の中には公債や株劵は有りますか」と問ふた、場合に不相應な問ひで有るけれど、蛭峰の見脈けんまく見脈けんまくだから伯は咎めもせず「左樣、公債と株劵と、合せて十五萬圓ほどは有るだらう」と有體ありていに答へた、蛭「直に其れを賣つてお了ひ成さい」伯「エ」蛭「賣らねば成らぬ時が來ました」

公債や株劵を持つてゐる人は、常に下落の心配が絶えぬ、少しでも其の氣色が見えれば人に先んじて賣り度がる、從つて平生から、人の言葉には能く耳を傾ける、伯「では何か、革命の陰謀者でも捕まり再び世間が騷ぎ相に見えるのですか」蛭「其れは裁判の祕密ゆゑ、貴方にさへも明言する事は出來ませんが、兎も角もお賣り成さい、斯う云ふ中にも後れる恐れが有りますから」伯は心中に、早幾分か裁判の機密を推量し得た用な氣がして、好い婿を持つたものかなと一方ひとかたならず喜んで「直に賣りませう、と云つて、此土地にゐて其れも出來ず、仲買人に宛て手紙を書き巴里へ急使をでも差立てやうか」

蛭「ハイ手紙をお書き成さい、ですが急使には及びません、私は直に之から巴里へ向け出發しますから」伯「エ、貴方が」蛭「ハイ大急ぎで、今から一時間と經ぬうちに立ち、晝夜兼行する積りです」伯はあわてゝ座を立たうとした、蛭峰は之を引留めて「何うかう一通、是は私の爲の手紙をおしたゝめ下さい」と云ふた、伯「誰に宛てゝ」蛭「國王陛下に宛て」伯「エ」蛭「ハイ何うか直接に私が陛下の御前へ出て祕密の事件を奏上する事の出來ます樣に」さては株劵の事で喜ばせたのは此の手紙を書かせる前置で有つた、米良田めらだ伯はさうと迄は思はぬけれど何しろ檢事補と云ふ低い官吏を直接に國王へ面會さするといふはいさゝか破格の事である、伯「では侍從へ宛てゝ書かう」蛭「イエ、侍從長では可けません、直接に上奏せねば、其の手柄が侍從に歸しますから」猶も伯の躊躇するさまを見て「何しろ非常な事件ですから、國王陛下もお聞の上は、貴方が能く其樣な手紙を書いたと必ずお襃めに成りますよ、若しお書き成さらずに後で其事が陛下に分れば、或は陛下がお恨み成さるかも知れません」伯は到頭動かされた「では書かう」

蛭峰は後程巴里へ出發する時、受取つて行く旨を告げ、其れ迄にしたゝめて呉れる樣に頼んでうして元の席に歸り、禮子と母御とには、職務上の止むを得ぬ用事の爲め數日の間旅行せねば成らぬと披露し、尤もらしく何から何まで言ひ繕うて置いて分れを告げた。母御と禮子との驚きは管々くだ〳〵しく記す迄もない。

外に出て、心は矢竹の樣に急いで居るけれど、馬港まるせーゆの樣な狹い土地で、檢事の職に在る者が、途中を馳出かけだしなどしては何の樣に人に驚かれ疑はれかも知れぬ、心に祕密を抱く人ほど其樣な用心が深い、さうして常に落着いた歩調で、歸つて來て我家の門に立つと、こゝに一人の美人が立つて居て「貴方お願ひです、伺い度い事があります」とて蛭峰を引留めた、蛭峰は未だ知らぬけれど、是れが友太郎の妻、イヤ、ホンの寸刻の差で妻とは未だ成つて居ぬお露である、友太郎の事を聞きに來たのだ。

巖窟王 : 一六 出世と云ふ一語

土牢に入れられた友太郎が、牢の中で何の樣な事に成るかは暫く後の話に廻して置かねば成らぬ。

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さてもお露に引留められた蛭峰檢事補は蒼蠅うるさいと云ふ風で、著しく眉を顰めた、けれどもお露は其樣な事に頓着せぬ、心の底から絞り出す樣な聲で「貴方は團友太郎と何う成されました、あの人は未だ放免に成りませんか」此一語でさては友太郎の許婚の女かと氣が附いた、うして彼れの顏は忽ちに青くなつた。

幾等自分の出世の爲め外の事は少しも構はぬ樣な人でも、自分が人一人の生涯を土牢の中へ埋めて了つたと思ふては氣が咎めぬ譯には行かぬ、而も其人たるや、當年 わづかに十九歳で、だ限り無き春秋を持つて居て、爾して前途に非常な見込も有り、殊に今將に最愛の女と婚禮しやうと云ふ人生第一の喜びに際して居たのだ、自分の今の境遇に引較べて充分同情を表す可きで有るのに却て其人を活ながら地獄の底に入れて了つた、是が何うして氣が咎めずに居られやう。

お露の切なる言葉は、恰も罪人に對する裁判官の言葉の樣に此人の耳に響いた、人を裁判する身が却て一少女に裁判せられたのだ、彼れはやうやく、震はぬばかりの聲で「オヽ友太郎と云ふは確か先刻の嫌疑人で有つた、オヽ彼は、重い重罪人だから私の力では何とする事も出來ぬ」露「でも今何處に居るかは貴方は能く御存じでせう、友太郎は何處の牢に入れられました、何うか其れだけでも私にお聞かせ下さい」蛭「ハイ其れは知らぬ彼れは既に私の手を離れて、外の役人の手に移つたのだから私に問ふたとていけないよ」ヤツと是だけの遁辭いひぬけを吐いて、振拂ふ樣にして家に入り、内から堅く戸をとざした。

お露は蹌踉よろめいて家に歸り、其まゝ倒れて翌朝まで唯だ泣明した、傍には彼の次郎が夜徹し附切で介抱した、けれどもお露は何事をも感ぜぬ、全く一心が友太郎に凝固まつて一切外の感覺を失ふたさまである、次郎はお露の背を撫でもした、其手を取つて、其甲に熱い接吻を與へもした、お露の方では總て知らぬ、翌日、日のけて後、初めて泣止んで氣が附いた「オヤ次郎さん、貴方がこゝに居て呉れたのですか」と訝怪けげんに問ふた「オヽ居なくて何としやう、俺は昨日から片時でもお前の傍を離れはせぬ」と次郎は悲しげだか、恨めしげだか、常とは違つた聲で叫んだ。

其はさて置き、蛭峰檢事補は家に入つてたゞちに我が居間に馳せ入つたが、寸刻も猶豫して居られぬ場合だのに、卓子てーぶるの上にかうべを埀れ、考へまいと思ひつゝ考へ込んだ、罪もない人一人を、だまして此世へ出られぬ者にして了つたとの念が、幾等 壓附おしつけても湧いて出る、續いては今見たお露の悲しげな顏も實物よりは猶悲しげに目の前へ現はれて恨みつ訴へつする樣にも思はれ、其上に友太郎が幽靈の樣に自分の前へ出て來て復讐を迫る樣に思はれた。

嗚呼此人や、今まで自分の雄辯を以て幾人もの罪人を死刑臺に上らせたかも知れぬ、けれど其度に自分で自分の手際を喜び、痛く嬉しくは思ひこそ、曾て一度も此樣な恐ろしい思ひをした事がない、其故は何ぞや、今までの場合は總て向ふに罪が有ると信ずるが爲である、總て自分が正直に職務を盡してゐると信じるが爲である、今の場合は之をは違ふ、眞に根本から違ふのだ。同じく人一人を推潰おしつぶすにしても今度のは罪のない人である。爾して自分が職務に背いてゐるのだ、單に自分の私慾の爲に、人に知られてはならぬ事をしたのだ、若し今 こゝへお露が再び現はれて來て「何うか友太郎をかへして下さい」と願ふたらなら、彼れは最早之を拒む力もなく、放免状をしたゝめて署名したかも知れぬ、或はお露ならずとも、自分の許婚禮子がこゝへ來て、「總ての嫌疑者を慈悲深くして遣つて下さい」と説いたなら全く友太郎を此世へ引戻す心に成つたかも知れぬ。

彼れは凡そ廿分間程も、此樣に獨り後悔の念に攻められて居たが、やがて「エヽ、此樣に心が弱くて、出世が出來るものか」と叫び、蹶然けつぜんとして立上つた、アヽ出世と云ふ一語は、人に何れほどか異樣な決心を與へるのだらう、政治家の野心も、世の中の爭ひも血も涙も是より出るのが多い。

斯くて蛭峰は早々旅の仕度を調へ、箪笥の抽斗に在る金貨や銀貨を殘らず財布へさらひ込んで、狂人の樣に再び家を出た、此時は無論夜に入つて居る。

米良田めらだ伯のもとへ駈着けると早手紙が出來て居る。一通は仲買人へ宛て、一通は國王の傍近く出入する宰相へ宛てゝある、眞逆まさか國王へ直接に檢事補の謁見を請ふことははゞかつたと見える。しか米良田めらだ伯は合點の行く樣に蛭峰へ云つた「此手紙をさへ出せば必ず宰相が貴方を陛下の前へ連れて出て呉れる、連れて出ねば成らぬ樣に書いてあるから」と、蛭峰は一刻も無駄には失はれぬ場合だからたゞちに分れを告げ、馬や車の急ぎ得るだけ速力を以て巴里を指した。

此時は早電信と云ふものが出來、政府の用だけには供せられて居た時だけれど、蛭峰の野心の爲めに使ふ事は許されない、しや許されても蛭峰は、電信では自分の熱心な忠勤を國王に見せることが出來ぬ。

彼れの巴里行は、正に是れ拿翁なぽれおんが既にエルバの島を脱して、彿國ふらんすの本土に足を掛けたか掛けぬかの時である、彿國ふらんすと云ふ大舞臺に、又も活劇の幕が開かれんとする間際であつた。

巖窟王 : 一七 國王の御前

白日秦兵はくじつしんぺい天上よりきたる」と詩人のうたふた楚宮の有樣とは違ふけれど、拿翁なぽれおんがエルバの島を脱して彿國ふらんすへ歸つた時の警報は、國王 路易るい十八世の朝廷に取つて、實に天から敵が降つて來た樣な驚きであつた。

こゝに少しばかり歴史家の記す所を摘み、國王が初めて此警報を聞いた時の有樣を記して置かう、彼の蛭峰が何の樣に國王に謁見したかも分る。

時は三月四日の朝である。王は拿翁なぽれおんが最愛の宮殿として居た其同じチウレリー宮の而も拿翁なぽれおんの居間として居た同じ室に、日頃愛讀するホレースの古詩集をひもとき、自ら筆を取つて、讀むに隨つて評註を書入れて居る。是れが此王の何のよりの慰みであつたのだ。

世の泰平、といふ程でもない、上部うはべばかりは泰平でも、エルバの島に怪物が潛んで居るといふことは誰の胸にも妙に不穩の念を起させて居る、殊には此ほどエルバ島から歸つて來た一武官 毛脛けすね中將が拿翁なぽれおん黨らしく見えて其實は路易るい王に心を寄せて居たといふが爲に、拿翁なぽれおん黨の祕密倶樂部で暗殺せられた事件などもある、此暗殺に彼の蛭峰檢事補の父野々内が連類して居るだら[う]とは、事實を知る人々の暗に疑ふ所で有つたが、斯る有樣の中で、唯だ安心して居たのは、國王と其の朝廷の役人共であつた。

尤も朝廷の中でも、國王の眞の忠臣は多少心配もして居たのだ、今しも國王 路易るいの傍に、と氣遣はしく何事かを述べて居た一人は、彼の米良田めらだ家から蛭峰の持つて來た手紙を受取つて蛭峰當人を國王に拜謁させやうといふ内大臣ブランカ伯である、伯は蛭峰から聞いた言葉と我考へとを混交とりまぜて、近頃東南方の人心が不穩なことから、エルバ島畔に油斷のならぬ雲行の見えることを熱心に説いたけれど、肝腎の國王を驚かせる樣な大祕密は、蛭峰が自分の手紙の爲に取つて置いて此人には話してないので、此人の言葉だけでは充分國王を動かすことが出來ぬ。

國王は暫らくして註釋の筆を止め、詩集から顏を上げて「イヤ横領者 拿翁なぽれおんの事は昨日も詳しい報告書を警視長官から差出させた、其方の安心する爲に見せて遣らう」是を見せて置けば其暇に落着いて註釋が出來るといふ風である。斯る所へ丁度其の警視長官が入つて來た、此の警視長官は男爵ダンドルと云ふ人である。

國王は是れ幸ひといふ面持で「オヽ、ダンドル男か丁度好い所へ來合せた、横領者の近状を内大臣に告げて安心させて遣つて呉れ」とは云つたものゝ流石に國王である「しかしアノ後、別に新しい報告は到着せぬであらうな」と問足した、長官は恭々うや〳〵しく「ハイ、今にも他の方面から來るべき筈の報告がありますので、只今まで官房に居て、心待に待つて居ましたけれど、未だ參りません、しや參りました所で、別に氣遣ふ樣なことは、勿論ないに極つて居ります」王「では昨日の報告を内大臣へ」

長官はかしこまつて内大臣に向ひ「一口にいへば、詰り横領者の雄心日々に沮喪しつゝあるといふに過ぎぬのです、其上に彼れも追々我陛下に恭順の意を表すると見え、既に先日歸つて來た毛脛けすね中將外數名へも、是れから後は能く國王に忠勤せよと言渡したと云ふことです」是だけでは未だ内大臣を安心させるに足らぬ、國王は促す樣に 國王「其れから」長官「其れから、横領者は甚い皮膚病に罹つて居ます」とあたかも皮膚病が英雄の眞價ねうちを下げて了ふかの樣に云つた、内大臣「其れは風土が違ひますから皮膚病にも罹りませう」長官「イヤ其れに神經の弱く成つた方は一方ひとかたでなく、殆ど發狂の兆候が見えるといひます、是れは彼の島へ渡つた者の報告ゆゑ間違ひありません」内大臣「シテ其兆候といふのは」長官「數ある中に最も著しいのは、少しのことに怒つたり喜んだり殆ど常人には見えぬのです、時々は海岸へ行き浪へ小石を投附けて喜んだりする相ですが」内大臣「左樣、昔のシピヨの樣な英雄も海へ小石を投げるのを、樂しんで居たといひますから」長官「イヤ其れのみではなく、此頃は政治上の事や、軍事上の事などは全く忘れた樣で、面會者に對しても、他の詰らぬ事柄ばかり話す相で……」内大臣「成程然しそれは發狂の兆候ですか、夫共それとも思慮の深い兆候でせうか」實に尤もな言葉ではある、國王「う疑へば限りもないが、何うだ、ダンドル、もつと能く此ブランカ伯を安心させる樣な材料はないのか」長官「イヤ今申した他の方面の報告がちやくしたかも知れません、是から歸つて見屆けて參りませう」内大臣は畏れ多いといふ樣で、内大臣「イヤ陛下、勿論斯樣な事はダンドル男が當局ですから、私の思ふ所よりは男の見る所が正いに違ひはありません。其にしましても斯樣なことは常に心配して疑ふ方へ組した方が安全ですから」國王「それは全く爾である」内大臣「兎も角も、私が連れて參つて居る小官吏に謁見をお許し下さる譯に行きますまいか、彼は故々わざ〳〵陛下へ、自分で非常な警報だと認める事件を奏上したいとて三日三夜、休みもせずに馬港まるせーゆから上京した者ですが」

爾うも熱心な忠勤者が有るかと思へば、國王も決してあしうは思ぼしめさぬ、國王「其の小官吏は何といふ名か」内大臣「蛭峰といふ檢事補です」國王「オヽ蛭峰檢事補か、朕は能く覺えて居る、赴任の頃、謁見を許したが、アレは野々内の息子だけれど熱心な勤王者だ、勤王の爲に自分の父まで縁を切つたといふ事ぢや、是れは直々に通せ」何しろ有難い仰せである。

内大臣の喜びに引替へて警視長官の方は不機嫌である、警察以外の小官吏が、我が報告に反對の事を奏上するとは何たる僭越の事だらうと、心に思ひ、新しい報告を持つて來て、我が權威を確めて呉れやうと思ひたゞちに御前を退いた、引違へて蛭峰は、旅の埃も未だ拂はぬ衣服の儘で、國王の御前に引出された。

實に異數な事柄である。

巖窟王 : 一八 青天の霹靂

如何に大膽、イヤ横着な男でも、國王陛下の前に出ては、其の稜威に打たれて進み得ぬ、彼れ蛭峰は王の姿は見ゆると共に立留つた、爾してまぶしい樣にかうべを埀れた。

「サア、近う」と國王は勵ました、けれど彼は唯一足出たのみで眞に近くへは進み得ぬ、王「オヽ其方が、何か大切な警報を朕に傳へ度いよしに聞くが、はゞからず申すがい」蛭峰はこゝぞと思つた、こゝで巧に述べおほせねば晝夜兼行で來た甲斐がない、眞に其身の生涯の運不運が此一瞬の間に懸つて居る。

彼れは必死の想ひで蛭峰「臣はじやう迫つて從はず、措辭の拙い所は幾重にも御許しを願ひます」と斷り置き、更に蛭峰「警報と申しますは臣が檢事補の職務を行ふに當り、端無はしなく發見した一事實に外なりません、其要は横領者 拿翁なぽれおんひそかに三艘の舟を買調へ、今より一週間前、即ち二月廿六日に之をエルバの島なる、ボート、ベルラデヨの灣の影に集め、大陸を指して多分は出帆した事と思はれます、私の申す日には、既に出帆の用意が整ツたとて、此國の拿翁なぽれおん黨の者へ密旨みつしを送り、且は出迎への準備として大に人心を煽動せよとの命を傳へんことを計りました」是だけは蛭峰が燒捨た彼のベルトラン將軍の密書に記して有つた事柄である。

勿論國王に取りては寢耳に水ともいふ可き意外の事である、國王は半信半疑のさまで 王「其報道の根據は、根據は」と問返した、若しも彼の密書が蛭峰の父野々内へ宛た者でさへなかつたなら、蛭峰は其れを燒捨てもせず、根據は即ち此通りですと云つて國王の前へ差出しなゝめならぬ叡感に與かることも出來るのに、今は其れが出來ぬ、出來ぬ代りに我が言葉を以て補はねばならぬ、蛭峰「ハイ根據は臣に於て最も確實と認めます、實は、兼て馬港まるせーゆに住する水夫の中、頗る過激な若者がありまして、確に拿翁なぽれおん黨に氣脈を通じて居る如く見えましたゆゑ、其れとなく注意して居ました所、此度このたび此者がエルバ島附近を經て寄港しましたゆゑ、拘引して詮議しました所、包み得ずして右の次第を白状に及びました、此者が即ち、巴里の同類へ對し、右の傳言をベルトラン將軍の口づから託されて來たのです」王「フム、口づから、何か書類は持つて居なんだか」蛭「餘ぽど露見を恐れたと見え何も書類は持ちません」王「其傳言は巴里の誰れへ」蛭「彼れは其れを白状致しません、其白状が肝腎だと存じ嚴重に彼れを監禁して置きました、何に致せ重大な事體ゆゑ、其の白状を待つ譯にも行かず、臣は其の場から上京致しました」

此の言葉を若しも團友太郎に聞かせたなら何の樣に思ふだらう、一方には友太郎に向ひ、決して宛名を白状するなと誓はせて於いて一方では白状せぬからと稱してゐる、王「其の樣な過激の徒はし白状したとしても再びわざはひくみせぬ樣、嚴しく取締るが好い、シタが其の方は之を眞實に重大な、確實な報道と認めるか」蛭「認めますればこそ、臣はあたかも陛下の忠良なる近臣 米良田めらだ伯の息女との結婚の場合でありましたけれど、宴席を捨置いて取調べに着手し、捨置いて上京致しました:餘計なこと迄述べて我が忠勤を目立せやうとするは、いさゝか國王の御前みまえれた者と思はれる。

王「上陸地は」蛭「分りませんが、伊國のネープル港か、タスカニーか、無くば我が彿國の海岸だらうと思はれます」王はいさゝか顏色を變へたけれど、未だ信じはせぬ「横領者のことだから、色々其樣な目論見もくろみは立てゝゐるだらう、けれど朕の率る國家に於て其樣なことの實行は出來ぬ、朕十ヶ月前に位についてより、殊に政府の各機關をして南方に目を注がせ、注意警戒に怠りはない、横領者若しネープル港に上陸せば、彼れ上陸後卅分を經ずに捕へられる、して此國の海岸へ上陸せば、今は普天率土ふてんそつど、皆王臣ゆゑ、彼れの麾下きかに加はる者はなく、彼れは單身で、其の第一囘の關所に於て射殺されるに極つてゐる」

驚く可き自信である、歴史家が、王の一族を評して「流竄るさん廿五年の間に何事をも覺えず何事をも忘れなんだ」と評したのは至言である、全く多年の艱苦にも、別に新な長所をも覺えねば古い短所をも忘れてゐぬ。

とはいへ王は餘程不安心の色を浮べた、爾して蛭峰に向ひ「いづれにしても其方の忠勤はよみすべしである、追つて何分の恩賞に及ぶまで、聽き置く」と宣せられた、勿論蛭峰は即座で恩賞を得る樣な卑近な目的ではないのだから「聽き置く」の一言で出世の階段が出來上つた樣な氣がした。

王の言葉が終るか終らぬに、先程退いた警視長官が歸つて來た。彼れの顏色が一目見れば、彼れが非常な新報告に接した事が分る、彼れの顏色は土の如しである、身體からだ總體に震へてゐる、王「ダルドン男、何うした」男は「陛下」と一言發したまゝ後の言葉が續かぬ、國王は心配の色を深くして再び問ふた「何うした」長官「陛下」王「陛下とけでは分らぬ、何うした」三たび問ふた。三たび目の言葉は嚴命である、ダルドン男は王の足下に平伏した「全く臣の罪です、臣の落度です、 事こゝに至りましたのは……」王「事 こゝに至ツたとは何事だ」全く長官は枯渇して咽喉を通らぬ聲だ「横領者が、エルバの島を脱け出しました、二月廿六日、爾して三月一日、當國へ、上、上、上陸致しました」眞に是れ青天の霹靂、唯此一語が朝廷の破滅、王の落位、王國王政の覆滅を意味してゐる。

巖窟王 : 一九 天運か天道か

「横領者 拿翁なぽれおんの上陸」唯だ此の一語眞に青天の霹靂である、國王の顏は烈火の如しである、今までに是ほどの怒氣を現はした事は無い「何處に、何處に、ダンドル男、横領者は何處に上陸した、伊國いたりやにか」長官「ジュアンの灣に添ひアンチブの附近に在る一小港に」國王「何と申す、伊國いたりやでは無く當國のアンチブ附近に、オヽわづかに此巴里をる二百五十里、三月一日に上陸したのを、電信線も出來てゐる世に、警視長官たる者が三月四日と云ふ今日まで知らずにゐたのか」詰問の言葉が矢を衝く樣に發したが、やがて又「眞逆まさかに事實では有るまい、何かの間違ひだらう」長官「悲しい哉間違ひでは有りません、事實です」

國王は、我を忘れて立上り 王「横領者が此國に、アヽ汝等は彼れの一擧一動に警戒す可き職務であるのに彼れと内通してゐるのでは無いか」内大臣は聞兼て 内大臣「陛下の忠良なる官吏の中、何で横領者に内通する者が有りませう、今日こんにち上下誰れ一人横領者が此國に歸り得やうと思ふ者無く、警視長官とても爾うまでは看破すうことが出來なんだのです」此時、默つて隅の方に控へてゐた彼の蛭峰は我れ知らず 蛭「しかし」と一言發し、初めて氣の附いた樣に 蛭「イヤ熱心の餘り、思はず口を開きました、何うか粗忽の段は御許しを願ひます」國王はあわてゝ蛭峰に向ひ 王「イヤ粗忽で無い、朕へ第一の警報を傳へたのは汝である、何か善後に就ての策でも有れば遠慮なく申せ」

溺るゝ人が藁にさへつかまる樣に、一國の王たる人が小官吏を頼りにしてゐる、蛭峰は恐る〳〵、蛭峰「當國南部の人心は總て横領者を憎みますゆえ、彼れ若し南部に廻ればランケドウ及びプロバン兩州の民を起たせて彼れを逐ひ還す事は出來ませう」警視長官「所が彼はプロバンの方へは出ず、たゞちに山道を取つて進みつゝ有るのです」王は又驚いた「何だ彼は上陸したのみで無く早進みつゝ有るのか、何處を指して、コレ長官、此の巴里を指して進むのか」長官は一語も發し得ぬのは「其の通りです」と斷言するに同じ事だ、王は又蛭峰に向ひ「山道とならばトピネー附近の人心は何うで[あ]らう」蛭「山道附近は遺憾ながら王化未だあまねからず、横領者にくみする者が多いのです」王は實に恨みに堪へぬ「オヽ彼は、間違つた報告をする警視長官が無いけに能く詮議が行屆いてゐると見える」何たる苦しい言葉だらう、國王は更に恥入る警視長官の顏を見詰めて、「シテ彼は如何ほどの從者を連れてゐる」長官「其れは迄は未だ分りません」王「分らぬ、オヽ汝の目には彼が兵力を以て進んでゐるか、兵力無しに進んでゐるか、其の樣な事は必要と見えぬのであらう」長官「イヤ陛下、全く其の邊の事は未だ知ることが出來ぬので、報告は取敢ず彼れの上陸進路だけを知らせて來たの止まりますゆゑ」王「其の報告は何うして逹した」長官は赤面の上に赤面して 長官「電信に依りまして」王は長官に掴み掛るかと疑はるゝ樣で二足ほど進んだが、擴げた手を胸に當て踏留まり、怒りか、恨みか、天にも訴へる樣な聲で、

王「嗚呼汝等知らずや七國連合の兵を以て彼れ拿翁なぽれおんを破り、彼れを放逐して朕を流竄るざんより呼還し、祖先のみ給ひたる王位に登らしめたのは眞に天佑の致す所である、朕は流竄るざん廿五年の間、日には祖先の王位囘復を望み、夜には祖先の國家を夢み、潛心一意せんしんいちい、民心の向ふ所を考へ自ら社稷千歳しやしよくせんさいの計を案じて、能く天佑に應へん事を期したるに、位に有ることわづかに十ヶ月、鴻圖こうと未だじふ一を果さずして再び國家の朕が手より奪はれんとするに會すとは、是れ何の爲である潛然さんぜんの涙は下らねど千秋盡きぬ深い恨は言外に溢れてゐる。

長官は顏を上げ得ぬ、唯だ聞えぬ程の聲で 長官「眞に天運 — 痛恨に堪へません」王は聞咎める樣な「天運か、天道か、口に忠良の語を吐いて心に忠良の誠無き官吏に奉仕せられ、泰平ならぬ泰平を信じたのでや朕の不肖、た不運である、彼等官吏[と?]は何者ぞ、朕に頼て得、朕に頼て食ひ、朕に頼て身を立つる者では無いか、朕ありて彼等あり、朕無くば彼等無し、朕が位を失ふ日は彼等が路頭に迷ふ日に非ずや、而も彼等の王國王家を思ふこと厚からず、事をこゝに至らしむるとは眞にダンドルの云ふ通り天運である、天運の盡くる所である」

長官はもとより内大臣さへ顏を上げ得ぬ、獨り心中に悦ぶのは蛭峰のみである、彼れは拿翁なぽれおんが如何に巴里を指して進まふとも未だ此王國王政を覆へす力が有らうとは思はぬ、今に自分の時代が來る、國王の傍に坐し大なる名利榮逹を握る時が來ると信じてゐるのだ、國王は猶ほ恨が盡きぬ。

王「國家の爲に養ふた官吏が國家を思はず、泰平の一具に備へた電信が、却て朕に、朕の社稷しやしよくの沒落を傳へる具とは成つた、朕は物笑ひと爲つて此チウレリー宮を逐はれるより、寧ろ朕の兄 路易るい十六世王の上ツた斬首臺に上されん、一國の王としては、命を斷るゝは敢て悲しみ恐るゝに足らねども笑ひを遺すに至つては忍ぶにも忍ばれぬ、汝等は死よりも名の惜む可きを知つてゐる筈で有る」流石に國王の言葉たるに恥ぢぬ、長官は嘆願する樣に唯だ「陛下、陛下」と呟いた、王は此語を耳に入れず、無言に立つてゐる蛭峰を顧みて、やがて其の方に身を向けた。

巖窟王 : 二〇 顏中に黒い頬髭

蛭峰檢事補に振り向いた國王は、猶も急がしげな聲で 國王「近う寄れ、近う寄れ、爾して警視長官に、横領者の密謀を前以て探知した者のある事を知らせて遣れ」と宣諭のたまふは、いやが上にも長官を懲しめる御心と見える。

長官はせつない聲で 長官「イヽエ横領者の密謀は到底前以て知る事は出來なかつたのです」と辨解した國王「何だ到底知る事が出來なんだとな、オヽ爾であらう、爾であらう、手下しゆかに五百人の官吏を使ひ、誰の家にも踏入り誰を捉へてでも尋問し、爾して警吏も探偵吏をも自由に使ひ、一年百五十萬圓の機密費を消費してゐる其方には到底知る事が出來なんだであらう、能く聞け、却て此蛭峰の如き熱心の外に何の機關も何の機密費も有つて居ぬ單獨の小官吏には其れを知る事が出來た、若し蛭峰に、汝の如く電信を發する職權があつたならば、今より四日以前、彼横領者が未だ此國の土を踏まぬ前に、朕に知らせて來る事が出來る所で有つたのだ、サア蛭峰、此の警視長官の心得の爲に汝の行ふた次第を詳しく話して遣れ」

警視長官に取りて是ほどの不面目はないと同時に、蛭峰に取つては又是ひぢの面目はない、彼れの心の中で早遠からず自分が警視長官に取立てられ内閣の一員に列せられる時も來るかと怪んだ。

眞に嬉しさは心の中に滿渡る程だけれど、今此の恥入つてゐる警視長官に此の上の不面目を加へる事は蛭峰の好まぬ所である、イヤ好まぬのではない、實は非常に危險なのだ、此の長官がう免職されるのは見え透いてゐるけれど、若し免職され際に、此身へ恨を持つ事に成ては、或は此身の祕密を探らぬとも限らぬ、若しも恨の餘り長官自身が直直に彼の團友太郎を呼出して尋問する樣な事にでも成れば、自分の祕密が直ぐ分る、若し友太郎の持てゐた其手紙が自分の父へ宛た者で有た事を知られたなら何うだらう、直ぐに長官は其の祕密をあばき立てゝ此身へ復讐するに極つてゐる、此身は檢事補の職權を濫用した者として職は奪はれ嚴重に罪をたゞされるに極つてゐる、何が何でも 今茲こゝで此長官の機嫌をも取つて置かねばならぬ。

實に官海を巧に游泳する人の心掛は又別である、蛭峰は王に向ひ蛭「イヤ何う致しまして」と云ひと謙遜げに辭退した、爾うして猶ほ言葉を足し蛭峰「臣が此事を知つたのは決して臣の手柄ではなく、全く偶然と云ふ者です、長官の云はるゝ通り、全く知ることの出來ぬ事柄が萬が一つの僥倖を以て臣の手に落たのに過ません」と、短い言葉ではあるけれど、充分に側面から長官を辯護した、長官は有難さに堪へぬ、俯向た顏からまなこだけを擧て蛭峰に注ぎ暗に感謝の意を通じた。

是で蛭峰は一丸で二鳥を射留めた樣なものである、國王と警視長官とを同時に手の中に丸めたのだ。

國王はいさゝか思ひ直した容子で 王「イヤ、朕に陸軍にある間は、未だ單獨の彼の横領者に、地位を奪はれやうとは思はぬ、内大臣よ、陸軍大臣に參内を命じて呉れ」内大臣「イヤ仰せの通りです、陸軍のあります限りは、彼の流竄るざんに歸國した拿翁なぽれおんを少しも恐るゝ所はありません、早速陸軍大臣を召ませう」と御請おうけの語を遺して退いた、後に國王は長官に打向ひ 王「イヤ陸軍といへば、近時 やゝもすば陸軍の感情を害する樣な事が有つて困る、彼の毛脛けすね中將暗殺の件なども未だ探偵が行屆かぬだらうな」

毛脛けすね中將暗殺とは拿翁なぽれおん黨に仕業しわざに相違ないのだから蛭峰は之を聞いて、若や我父が連類して屡々國王の耳に入る事にでも成つては自分の今日の働きも或は水の泡にならぬとも限らぬ、之に反して長官の方は其身の信用を囘復する好問題が出たと思ひ、今まで廿分間以上も揚げ得なんだ顏を揚げて「イヤ陛下、苟も此の國の境界以内で起る事件ならば、斯く申す男爵ダンドルの目の屆かぬ件は一つもありません、毛脛けすね中將暗殺の件も、既に全く拿翁なぽれおん黨の祕密倶樂部へ招かれた歸途かへりみちだといふ事まで突留め — 」國王「其れは突留めても肝腎の暗殺者が — 」長官「イヤ其れも既に手掛りを得て居ります、當日其の祕密倶樂部から、中將を迎へに來た人の人相が分りまして」國王「何の樣な人相の ー」長官「是は其の時の、中將の顏を剃つてゐた理髮師から探り得ましたが、年は五十位、せいが高くて顏中に黒い頬髯が澤山にありまして、眉毛濃く、爾して太いすてつきを持つて、身には紺色の外套を着け、咽喉のんどの所まで釦を〆めて、襟元に勳章の略綬があつたと申ます」述べ來たる人相が全く我父に能く似て居ると、蛭峰は心の底でおののいた、長官は猶ほ語を繼いで「既に昨日、私の配下の諜者てふじやが某所で其人相に相違ない一人を認めまして、巧に尾行致しましたが、ヘロン街の入口で遺憾ながら見失ひました、ナニ充分手配りが行屆いて居りますから、三日と出ぬ中に捕縛します」ヘロン街の入口と云へば愈々いよ〳〵父の野々内らしく蛭峰は感じた。

斯る所へ内大臣が今直ぐに陸軍大臣の參内する旨を報じて歸つた、國王は三人に向ひ 王「では是で其方逹は退け」と命じたが、言葉と同時に自分の胸から一の勳章を取外し「蛭峰檢事補、追つて何分の沙汰をする迄、賞與の記しに之を與へて置く」内大臣は之を見て「陛下、其れは軍人の勳章で蛭峰の如き文人には」國王「後で其方から引替て遣れば好い、イヤ檢事補、若し朕が忘れた場合には其方から遠慮なく直々に催促すて呉れる樣に」全く此國王の物忘れは當時名高い事實で有つた、しかし蛭峰は、身に餘る光榮として、出來るだけに恭しさを表して退いたが、一緒に警視長官は、馬車に乘らうとして、蛭峰に細語さゝやいて「私が若し此上在職する樣なら貴方を祕書官にして上げます」彼れも國王の信用を得た此男を利用して我位置を強固にする禁厭まじなひに供する積りと見える、何の祕書官位にと蛭峰は心の底では可笑しいけれど此人の機嫌が大切な場合ゆゑ蛭「萬事何分宜しく」と頼む樣に云つて別れた。

分れて直に通り合す馬車を呼び、兼て自分の定宿にするツールノン街のマドリッド、ホテルに着き、借切つたへやの中に閉ぢ籠つて、先づ食事に取掛つたが、其終るか終はらぬ中に、取次の給使が來て「貴方にお目に掛り度いといふ人があります」自分が此の巴里に來たのは未だ誰も知らぬ筈だのにと怪しみ「名は何といふ」取次「名は何とも云ひませんが年の頃五十位で顏中に黒い髯の生えた、爾して背の高い紳士です」先刻警視長官が國王に申上げた人相と、言葉の上では同じ樣に聞こえる。蛭峰が眉を顰むる暇もなく、早や廊下の外から其人だらう、トン〳〵と戸を叩いた。

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