読書ざんまいよせい(004)

◎トロツキー著青野季吉訳「自己暴露」(002)序言と目次

 我々の時期は、再び、囘顧錄に富み、おそらく嘗つて見ないほど、それが豐富である。と云ふのは語る可きことがどつさりあるからだ。時代の變化が、劇的で豐富であればあるほど、當代にたいする興味は强度である。風景畫藝術は、サハラの沙漠では生れることが出來なかつた。現在のやうな二つの時代の『交叉點』は、すでに遠くすぎ去つた咋日を、その積極的な參加者の眼を通じて顧望しようとする欲望を起させる。世界大戰以來、囘想文學がどえらく成長したのは、これがためだ。その事情は、おそらくまた、この書物の存在をも正當化するだらう。
 この書物が世の中に現れたといふその事實は、著者の積極的な政治生活に休止の期間が來たからである。私の生活での、偶然ではないが、豫期しない停止の一つの場合が、コンスタンチノープルで見出された。こゝで私は幽閉生活をしてゐる―こんなことは始めてヾはないが——そして根氣よく次に起つて來ることを待つてゐる。革命家の生活といふものは、或度合の『定命《フエタリズム》』がなくては、まことに不可能なものであらう。どつち道、コンスタンチノープルでの休止の期間は,周圍の事情が私の動き出すことを許す前に、私にとつて過去を囘想する上の最も適當な契機となつたのである。
 最初私は、諸新聞紙のために、ざつとした自傅的スケツチを書いた。そしてそのまゝでおかうと考へた。ところでこゝに私は次のことを言つておき度い。卽ち、私はこの隠れから、それらのスケツチがどういふ形で公衆の前におかれるか、それを親しく見守ることが出來なかつたのだ。だが、どんな仕事でも、それ自身の論理を持つてゐる。私は、それらの諸諭文を殆ど書き終へてしまふまで、大ピラに堂々と步くことが出來なかつた。そこで私は、ー册の書物を書かうと決心したのだ。範圍、規模をすつかり變へて、極めて廣大なものにし、仕事を全部新しく遣り直した。最初の新聞紙の論文とこの書物とでは、兩者とも同一の主題を論じてゐるといふー點が、共通してゐるに過ぎない。その他の凡ての點では、兩者は全く異つた二つの所產である。
 私は、特に詳細にわたつて、ソヴイエツト革命の第二期を取扱つたが、その時期の端初は、恰も、レーニンの病氣、及び『トロツキー主義』にたいする反對運動の開始と、一致してゐるのだ。權力を得ようとする亞流《エピゴーヌ》共の鬪爭―あとで私が實證するやうに―は、單に諸人物の鬪爭ではなく、それは一つの新しい政治的時期——十月革命にたいする反動、テルミドールの*準備―を代表してゐた。
 私はこれまで屢々、『君はどうして權力を失つたのか?』と人から問はれたが、この質問にたいする答ひは、右のことから、自ら明らかである。

*フランス革命歷の十一月で、七月十九日から八月十七日迄。この第九日目にロベスピエールを敗亡せしたので、こゝではその意昧の反動政治を言ひ表してゐる―譯者。)

 革命的政治家の自叙傳は、否でも應でも、ロシアの社會的發展と結びついた理論的問題の全部に觸れなければならず、またその一部は全體としての人類と結びついたそれに、特に、革命と呼ばれる重大な時期と結びついたそれに觸れなければならない。もちろん私は、この書のうちで、複雜、錯綜した理論的諸問題を、その本質に立つて批判的に檢討することは出來なかつた。謂ゆる永久革命の理論——それは私の個人的生活にあつて、極めて重要な役割を演じたものであり、更に一層重大なことが、東洋諸國においていまや極めて嚴たる眞實性を獲得しつゝあるものである―は、遙かな指導力となつて、この書を貫いてゐる。そこで若し讀者がこの書で滿足しないならば、私は敢て言ふが、私はやがて革命の問題を本質的に考察した別個の一書を著作し、そのうちで、最近數十年の經驗の主要な理論的結論に形を與へることに、努力するであらう。
 私のこの書物の頁のなかには澤山の人物が送迎されて居り、その人々は彼等自身又は彼等の黨派にとつて都合のよいやうな風には必ずしも描寫されてゐないので、彼等のうちの多くの人々は、私の記錄が當然の個別性を缺いてゐることを見出すであらう。現に諸新聞紙に發表された拔萃ですら、或否認說を拔出したのである。だがそれは避くべからざることだ。たとひ私の自叙傳を私の生活の單なる銀板寫眞たらしめることに成功したとしても——私は決してそんなものにしようとは考へなかつたが―それでも、この書物に描寫されてある諸衝突が、當時惹起した論議の反響が、この書物によつて喚起されたであらう——それは疑ひないことだ。この書物は、私の生活の冷靜な寫眞でなく、私の生活の一構成部分である。この諸頁のなかで私は、そのために私の全生涯が捧げられた鬪爭を、繼續してゐるのだ。私は、描寫すると共に、ものゝ特質を明かにし、評價して居り、說明すると共に、私自身を擁護し、また更にしば/\他を攻擊してゐる。私の見るところでは、自叙傅なるものをして高い意味において客觀的ならしめるには、卽ちそれをして個性、諸事情及び時代の最も妥當な表現たらしめるには、これが唯一の方法である。
 客觀性とは、まぎれもない僞善者が、味方及び敵のことを語るに當つて、直接に述べては都合の惡いことを間接に示唆するために用ひる、かの謂ゆる無關心の謂ひではない。この種の客觀性は、月竝のトリツク以外の何物でもないのだ。私にはそんなものは用はない。私は一旦、私自身についてもの’を書く必要―曾つて誰一人として、彼自身について書くことをしないで、一つの自叙傳を書くことに成功したものはないのだ―に服した以上、私は、私の同感又は反感、私の愛着又は嫌惡を隱蔽すべき、何等の理由も持ち得ないのだ。
 これは論戰の書である。この書は、全都矛盾の上に建造されてゐるかの社會生活の力學である。敎師にたいする學生の無作法、禮節のヴエールをかぶつた、客間の羨望から出る意地惡、取引のつくるところなき競爭、純粹な學術、技術及び遊戯のあらゆる部內での、氣狂ひのやうな對抗、深い利益の對立をさらけ出す議會の衝突、日々に新聞紙に現れる猛烈な鬪爭、勞働者のストライキ、示威運動參加者の射殺、文化的隣人同志がお互に、大氣を通じて送り合ふ爆彈の包物、吾々のこの地球に、殆ど絕えることのない內亂の火のやうな舌―これらの一切が、ありふれた、不斷の、尋常な、その度が高いに拘らず、殆ど注意されないものから始めて、異常な、爆發的な、噴火的な戰爭、及び革命のそれにいたるまでの、社會的『論戰』の諸形態なのである。吾々の時代もさうだ。吾々はみんなそれと共に成長したのだ。吾々はそれを呼吸し、それで生きてゐる。もし吾々が、時代の樣式にしたがつて吾々の時期にたいして眞實であらうと欲するなら、どうして論戰的であることを防ぎ得ようか?

 しかしそこにはまた、他の、一層初步的な基準があり、それは事實を述べる上の當り前の良心に關係したものである。最も痛烈な革命的鬪爭も、時間と場所を勘定に入れなければならぬと正に同じやうに、最も論戰的な著作も、事象と人問との間に存在する釣合を觀察しなければならない。私は、この書の全部においてばかりでなく、その部分々々においても、この要求に答へたつもりである。
 或事件——尤も、さういふ事件はそんなに澤山にないが―では、私は問答の形で、長い會話を載せる。だが誰だつて、數年も後になつて、當時の會話の言葉そのまゝの報吿を要求しはしないであらう。また私も、さういふ正確さは求めない。したがつてそれらの問答の或るものは、寧ろ表徵的な性質をもつてゐる。だがどんな人でも、彼の生涯のうちで、その時の若干の特別な會話が彼の記憶にハツキリと印銘されて、どうしても拭ひ去られない、或瞬間をもつものである。そこでいつも人間は、さういふ種類の會話を彼の個人的又は政治的の友達に繰返して話をし、そのお蔭でまた、それが彼の記憶に固着するやうになる。もちろん私は始めつから、政治的性質の一切の會話のことを、こゝで考へてゐるのだ。
 こゝで言つておくが、私は私の記憶を信用する習慣をもつてゐる。これまで一度ならず、その記憶による申立にたいして、事實による立證を求められたことがあつたが、いつも立派にそれに堪へた。しかし差控へることは必要だ。たとひ私の寫實的記憶——私の、音樂的記憶は言はないとして―は甚だ弱く、私の視覺的記憶、私の言語的記憶は甚だ凡庸であつても、私の觀念上の記憶は、普通よりも甚だしく優れてゐる。しかしてその上に、この書物では、諸觀念、その進化、及びそれらの觀念のための人々の鬪爭が、最も重要な地位を占めてゐる。-
 實際、記憶は目動計算者ではない。何によりも先づ、記憶は公平無私ではない。記憶が、自らを左右する生命的本能——削例は野心——にとつて都合の惡い揷話を、追つ拂つてしまひ、又は暗い隅つこに驅り立てゝしまふことは、稀れなことではない。しかしこれは、『心理解剖的』批評の對象でありその批評は往々、非常に聰明で、敎示的ではあるが、氣まぐれな、こじ《丶丶》付けである場合の方が多いのである。
 言ふまでもないことだが、執拗に私は文獻的實證で私の記憶を檢證した。私の勞作の事情では、圖書館で調べたり、雜誌類を搜したりすることは困難であつたが、必要な、一切の重要な事實及び日附は、これを確證することが出來た。
 一八九七年から始めて、私は主として、私の手にベンをもつて戰つて來た。かくて、私の生涯の出來事は、三十二年間の時期にわたつて、殆ど中斷されることなき跡として印刷に附された。一九〇三年に始つた黨の分派的鬪爭は、個人的揷話に富んでゐた。私の反對者も、私と同樣に、打撃をしないではおかなかつた。彼等は誰も彼も、その傷痕を印刷して殘した。十月革命以來、革命的期間の歷史が、若いソヴイエツト學者、及びすべての硏究所の探究において、重要な地位を占てゐる。興味のある一切のことが、革命の雜誌及びツアーの警察の雜誌において探究され、詳細な事實上の評註を附して公表されてゐる。まだ何にものをも虚飾する必要のなかつた最初の數年間は、この仕事は、極めて良心的に遂行された。レーニンの『著作』、及び私のそれの或るものは、國立出版所によつて發行されそれには、各浙に數十頁に亙るノートが附され、著者の活動及び當代の出來事に關して、貴重な事實上の材料が揭げられてあつた。これらは勿論、私のこの勞作を容易にしてくれ、正確な年代記的部分を確立し、事實―尠くとも最も重大な事實の誤りを正すことを助けてくれた。

 私の生活が全く普通の道行きをとらなかつたといふことは、否定出來ないところだ。だがそれが理由は、私自身のうちよりも寧ろ、時代の事情のうちに存するのだ。勿論私のなした仕事にとつても、それがよいにしろ惡いにしろ、そこに一定の個人的諸特性が必要であつた。しかしながら、もし歷史的條件が異つてゐたら、それらの個人的特殊性は、完全に眠つたまゝで殘つたでもあらう。それは恰も、 社會的環境が、何等それに要求を持たない多くの性僻や情熱に於けると同樣である。而して他方、 今日では押退けられ、又は抑壓されてゐる他の諸特質が、正面に現れて來たでもあらう。そこでは主觀的なものゝ上に客觀的なものが昇り、而して最後の決算において、凡てを決定するものは客觀的なものなのである。
 私の十七歲乃至十八歲の頃に始まつた知的及び活動的生活は、一定の想念のための斷えない鬪爭の一つであつた。私の個人的生活のうちには、それ自身が社會的注意に値する出來事は、一つも存在しなかつた。私の生活における多少とも異常な諸揷話は凡て、革命的鬪爭と結びつけられてをり、そこから意義を抽き出して來てゐるのだ。これがあるからこそ、私の自傅を世に發表することが、肯定される譯である。だがまた、この同じ理由から、著者にとつて多くの困難が生ずる。私の個人的生活の諸事實は、實際、歷史的出來事の織物のなかにいかにも密に織込まれてあり、その兩者を切離すことは困難である。その上、この書物は、全然一つの歷史的勞作といふ譯ではない。こゝでは諸出來事は、それの特に客觀的意義を基準として取扱はれないで、それが私の個人的生活の事實と結びつけられてゐる仕方を基準として取扱はれてゐる。從つて特殊的出來事の記述及び全諸時代の記述が、釣合ひを失してゐるのは、極めて自然である―若しこの書物が歷史的勞作であつたら、それらの記述に當然その釣合ひが要求されるであらう。私は、自叙傳と、革命の歷史との間の分界線を搜しまはらねぱならなかつた。私は、一方にこの私の生活の物語をして歷史的記述の中にその影を失つてしまはせないやうにすると同時に、他方に讀者にたいして、社會的發展の諸事實の基礎を與へることが必要であつた。これを果すについて、私は、大きな出來事の主要な輪廓が旣に諸者に知られてゐること、ここで必要とする讀者の記憶は、歷史的諸事實とその連續についての簡單な想起に過ぎないことを前提としたのである。
 この書物が公刊される時までには、私の五十囘目の誕生日がやつて來るであらう。私の誕生日は、十月革命の日附と合致してゐる。神祕家やピタゴラス派の人間は、この事實から、どんなにでも好き氣儘な結論を抽き出すがよい。私自身は、十月××《伏せ字、「革命」であろう》の後僅か三ケ年だけ、この奇しき合致を認めるに過ぎない。私は九つの年まで、遠隔の小さな村落に生活してゐた。八年の間、私は學校で勉强した。學校を去つて一年後に、私は始めて逮捕された。私の時代の他の多くの人達の場合と同樣に、私にとつては牢獄、シベリア、及び外國亡命が、大學であつたのだ。ツアーの牢獄で、私は、二つの時期に四年間服役した。ツアーに流刑に處せられて、私は、第一次には約二ケ年、第二次には數週間、その生活を送つた。私は二囘、シベリアの流刑地から脫走した。外國亡命者として、私に、ヨー ロツパの諸國及びアメリカに、全部で約十二ケ年間生活した——ー九〇五年の革命前に二年間、その失敗後にほゞ十年間。一九一五年、卽ち大戰中に、私は、ホーヘンツオールレン治下のドイツで、不在のまゝ禁錮の宣吿を受け、翌年、フランス及びスペインから追出され、マドリツドの牢獄に一寸停まり、警察の監視の下に力ヂスに一ケ月滯在した後に、アメリカに追放された。而して二月革命が勃發した時には、私はそこにゐたのだ。ニュー・ヨークから〇歸途、私は、ー九一七年三月に、イギリス官憲の手によつて逮捕され、カナダの捕虜集合收容所にーヶ月間抑留された。私は、一九〇五年、及び一九一七年の革命に參加し、一九〇五年に、及び一九一七年にも再び、セントペテルスブルグのソヴイエツトの議長であつた。私は、十月革命に重要な役割を演じ、ソヴイエツト政府の一員であつた。外交人民委員として、私は、ブレスト・リトーウスクで、ドイツ、オーストリア”ハンガリー、トルコ及びブルガリアの委員と、講和商議の衝に當つた。陸海軍人民委員として、私は約五ケ年を赤色陸軍の組織と赤色海軍の復興とのために捧げた。それに加へて、私は、一九二〇年中、國內の混亂した鐵道系統の處理に從つた。
 だが、私の生活の內容は、內亂の數年間を除いて、主として、黨の活動及び文筆的活動であつた。一九二三年に、國立出版所は、私の著作集の公刊を始めた。そして十三冊の刊行を果した―そのまへに公刊された軍事問題に關する五册を除いて。刊行は一九二七年に停止した、といふのはその時『トロツキーズム』の迫害が、特に尖鋭化されたからである。
 一九二八年一月、私は、現在のソヴイエツト政府によつて流刑に處せられ、支那國境で一ケ年を送リ、一九二九年二月に、トルコに追放され、而して今だに、コンスタンチノプルから、この文章を書いてゐるのだ。
 この蜷縮された摘錄ですら、私の生活の外面的行程は、ともかく單調だとは言はれないであらう。反對に、諸轉向、諸急變、諸激爭、諸浮沈の數をかぞへて、人々は、私の生活が寧ろ『冒險』に滿ちてゐると言ふでもあらう。だが、私は言つておかねばならぬ―性來の傾向として、私は、冒險追求者等と共通な何にものも持つてゐないと。私は寧ろ、私の性僻としては、衒學的《ペダンチツク》で、保守的である。私は規律と組織を好み、それを高く評價する。逆說《パラドツクス》を構へるのでなく、事實だから附加へておく要を見るのだが、私は無秩序や破壞を堪へ忍ぶことは出來ないのだ。私はいつもキチンとした、勤勉な學生であつたが、この二つの性質は私の全生活に亙つて保有されて來てゐる。內亂の數年間、地球を幾廻りもするに等しい距離を汽車でかけめぐつてゐる時、私は、切りたての松板でつくられた新しい圍墙《かこひ》を見る每に、いつも非常に嬉しがつた。私のこの性癖を知つてゐたレーニンは、時々友情的な仕方で、それについて私をなじつたものだ。そこに立派な觀念の見出し得られる良く書かれた書物や、他人へ自身の觀念を傳達する上での立派な文筆力やは、私にとつてはいつも文化の最も價値のある、重要な所產であつたし、今日でもさうである。硏究にたいする欲求は,嘗つて私を離れたことがなく私の生活中幾度か、私は、革命が私の體系的勞作の邪魔をすると感じた。だが、私の全意識的生活の約三分の一は、全く、革命的鬪爭で充されてゐた。而して現に今も、再びその生活に入らなければならぬとすれぼ、私ば、躊躇選巡するところなく、その同じ道を執るであらう。
 私は一個の亡命者として―三度目の——この文章を書かなければならぬ運命におかれてあり、この間には、私の親友達は、流刑地と、正にその創建にあたつて彼等が人も知る如き決定的な役割を演じたところの、ソヴイエツト共和國の監獄とを、滿してゐるのだ。彼等の或者達は、動揺し、退却し敵の前に降伏しつゝある。或者がさうなつてゐるのは、道德的に、疲勞したからであり、他の者の埸合は、事情の迷宮からの出路を他に見出し得ないからであり、更にまた他の者の場合は、物質的復讐の壓力に堪へられないからである。私はこれまで、さういふ工合に、大衆的に旗幟を拋棄する現象を二度經驗して來てゐる。一度は一九〇五年の革命の崩壊後、一度は世界大戰の初頭である。かく私は私自身の經驗を通じて、歷史上の潮〇干滿を十分によく知つてゐるのだ。彼等は彼等自身の法則によつて支配されてゐる。單なる焦燥は、彼等の變化を押し急がせはしないであらう。私は、歷史的展望を取扱ふに當つて、私の個人的運命の立場からそれをしないやうに慣らされて今日にいたつてゐる。諸出來事の因果關係を理解し、その關係の何處かに或人間の自身の場所を見出すこと―それが卽ち、革命家の第一の義務である。それと同時に、それはまた、自身の仕事を現在に局限しない人間にとつて可能な、最大の個人的滿足である。
一九二九年
プリンキポにて
エル・トロツキ—

目 次

譯者小序………………………………………………………. 一
序言………………………………………………………….. 七

第 一 章 ヤノウカ……………………………………………. 三
第 二 章 私達の隣人と私の最初の學校…………………………….四五
第 三 章 オデツサ・私の家庭と學校………………………………六九
第 四 章 書物と初期の鬪爭……………………………………..九九
第 五 章 田舎と都會…………………………………………一三三
第 六 章 破綻………………………………………………一五七
第 七 章 初期の革命團體……………………………………..一七三
第 八 章 最初の入獄…………………………………………一九一
第 九 章 最初の流刑…………………………………………二〇七
第 十 章 第一囘の脫走……………………………………….二二三
第 十一章 初めての亡命者……………………………………..二三五
第 十二章 黨大會と分裂……………………………………….二四九
第 十三章 ロシアへ歸る……………………………………….二七三
第 十四章 一九〇五年…………………………………………二八九
第 十五章 裁判・流刑・脫走……………………………………三〇九
第 十六章 二度目の外國亡命。ドイツ社會主義………………………三三五
第 十七章 新しい革命への準備………………………………….三六七
第 十九章 パリーとチンメルワルト………………………………三八九
第 二十章 フランスから放逐さる………………………………..四〇五
第二十一章 スペイン通過……………………………………….四二一
第二十二章 ニユー・ヨ—ク………………………………………四三一
第二十三章 捕虜集合收容所……………………………………..四五一
第二十四章 ペトログラード入り…………………………………..四七九
第二十五章 逆宣傳問題………………………………………….五〇一

木下杢太郎「百花譜百選」より(004)

54 ぼけ 木瓜


昭和十九年二月十三日 日曜日

栗山重信の齎《もたら》せる枇杷《びわ》、丹子の画に箱がきす。日中周易象義を読み且つ抄す。石川富士雄氏所恵の木母《木瓜》開花す。

参考】
・ぼけ(Wikipedia
・木下杢太郎画/前川誠郎編「新編 百花譜百選」(岩波文庫)

読書ざんまいよせい(003)

◎ロープシン「蒼ざめたる馬」(青野季吉訳)

はじめに】
 OCRがいくら進歩しても、元の画像が一定程度以上劣化しては、テキストとして復元できない。特にスキャン型のソフトに付随するOCRでは、全く認識しないと言っても間違いではない。例えば、国立国会図書館にある公開ライブラリにある画像は、何回かの画像処理が施されているらしく、テキスト化は無理とあきらめていたが、手間はかかるが、iPad のアプリでなんとかテキスト化ができることが分った。前回、トロツキーの著作を重訳した青野季吉を紹介したが、同じ訳者の、ロープシン「蒼ざめたる馬」を、国会図書館のライブラリーからテキストとして公開する。手始めに青野季吉の「解題」から。以下、本文公開は遅々たる歩みになると思うが、根気よくお待ちいただきたい。

自由・文化叢書
第二篇
蒼ざめたる馬
ロープシン作
青野季吉譯
冬夏社
THE FREEDOM AND CIVILIZATION SERIES

解題

 ロープシンが、ケレンスキー内閣當時の内務大臣であつた、サヴヱチニコフの名である事は可成りに知られてゐる。「蒼い馬」はこの革命黨員の自傳的告白であつて、露西亞の西に逃れてゐて、戰時通信文を寄稿するジヤナリストであつた頃からロープシンは光彩ある人として注目されてゐた。「蒼い馬」は彼が文壇に出た最初の作であつて、同時に近代 露西文學中の傑作である。 メレデユコフスキーのこう批評した事もロープシンが内務大臣である程有名である。「近代の文學中これ程露西亞人の生活及び魂をよく描出したものは無い」。露西亞の傑作に現れてゐる中心が常にユートピア・フリーランドを渇望し。時に は全くの空想である事を追求するやうな人間、並に生活であつて一九一八年の露西亞革命はこの精神的生活からの産物である事は極めて自然な合理的な解決とされてゐる。ロープシンが自個の生活の告白として描いた「蒼い馬」の人間もその通り「ユートピア・フリーンド」にしてゐる、リアリスチックアイデアリストである。ローブシンが「二つの途」と云つてゐる言葉並に革命黨員が古い虚無主義者のやうなローマンチックな因襲的な氣持よりも、アイデアリスチックな氣持で働いてゐる生活は露西亞にしか見られい型の人々で、ドストエフスキーの主人公とよく似た性情を持つてゐる。革命は人を殺し乍ら、神を信ずる事を論じ、政治的實際運動に従ふと共に、それと等しい熱情を以つて宗教信仰の問題を考へてゐる。こうした露西亜人らしい最もい型の人間が「蒼い馬」には最も心 理的に描寫されてゐる、 それと共にこの露西亞人の持つてゐる問題は吾々にも在り、近代生活の何にも潜んでゐる問題であるに於て、「蒼い馬」は直ちに版を重ねていゝ價値 をもつてゐる。そうしてそうい型の人間の最も純な人々によって成立つてゐる革命黨員 と共に生活した實際記録であるだけに力強く「文學以上」であるといつてもいゝ。 ロープシンはその後に「what never happened」を書いたがそれも「蒼い馬」と同様の人々な一九〇五年のモスクワ騒動を背景として描いてゐる。本篇の姉妹篇として續刊するであらう。

【参考】
Wikipedia ボリス・サヴィンコフ 筆名 ロープシン

 この、ボリス・サヴィンコフに降り掛かった同じような悲劇が、今日《こんにち》のロシアでも起こってしまった、痛ましいい限りである

読書ざんまいよせい(002)

◎トロツキー著青野季吉訳「自己暴露」(001)
◯訳者小序

 OCR を試す意味で、一冊の本に取り組んでみた。やるからにはなるべく古い本、戦前の旧字体、旧仮名の一冊にしてみた。その本は、トロツキー著青野季吉訳「自己暴露」。最初は、青野季吉の「訳者小序」からである。なお、この部分は、著作権は消失している。トロツキーの本文部分は、英訳本からの重訳とのことだが、訳者の固有名詞は挙げられていない。国立国会図書館のライブラリでは、この著のデジタルデータが掲載されているので、フリーテキストとして判断する。したがって追い追い掲載の予定としておこう。

以下「訳者小序」

譯者小序

(1) トロツキーはこの書の『序言』の始めに『……現在のやうな二つの時代の「交叉點」は、すでに遠く過ぎ去った昨日を、その積極的な參加者の眼を通じて顧望しようとする欲望を起させる。』と言つてゐる。彼はたしかに、現在の世界的な、社會心理の一つを彼らしい鋭敏さで、しつかりと捉へてゐる。彼がこの囘想的な書を書いたのも、要するにその欲望の作用であり、また私が敢てこの書の日本譯を企てたのも、衝きつめて行けば、そこに源をもつてゐると言ひ得られる。
 而して、何等かの形でその『欲望』を分け持ってゐる人々は、カテゴリカリーにこの書の譯出の意義を認めるであらうし、またこの書を悅んで迎へもするであらう。

(2) 我々はこれまで、革命の理論や、革命の歷史を、浴びるやうに提供されて來た。一口に言へば吾々はこれまで文献的に、革命の數學でもつて『武裝』されてゐるとも言ひ得るのだ。だが、それで吾々は、革命を知つたと言ひ得るだらうか?革命のー揃ひの理論書を嚙って、忽ち『尖鋭な』(?)革命的闘士として、自己を誇り示すものは中學の數學書を踏臺として、『數理的』宇宙に到着したと信ずる可憐なる迷想家と、選ぶところがない。レーニンは名著『左翼小兒病』のなかで、一般に歷史特に革命の歷史の全構造を鹼廓づけてかう言つてゐる。『歴史は一般に――そして特に革命の歴史は常に最善の黨や,最も進步した階級の最も自覺した前衛が想像するよりも、遙かにその內容が豐富であり多方面であり、潑溂として生氣があり、且つ遙かに「狡猾」なものだ。このことはまた當然だ。と言ふのは最善の前衛の場合でも、その表現するものは僅かに數萬人の意識と、意志と、感情と、想像とに限られてゐるが、反對に、革命は……數千萬人の意識と、感情と、想像との、ありとあらゆる人間能力の特別な昂揚と、緊張との瞬間に、實現されるからだ。』かく革命には『數學』の外に、『心理學』、『生理學』、『物理學』等の一切の方面があり、その全體が、革命の全體を成すものなのだ。
 だから吾々は、どんな意味でも、その『數學』の公式を知つたゞけで、革命を知つたとは言はれない。
 私自身について言へば、革命を內部的に、立體的に、それに參加した人間の感覺と表象とを通じて、眞に皮脂に觸れ、血肉に接し、その砂塵を浴びるまでに知り度いと欲求してゐる正にその時に、この書が提供されたのだ。
 トロツキーのこの書は、言はゞ、潑測と描かれ、光彩ある形象的表現に滿ちた、革命生長の生理學だ。

(3) 私は、この書を譯出、再讀してゐる間に、實際、ペンを離し、眼を外らすことさへ欲しないほどの『面白さ』を覺えたことを吿白する。勿論謂ゆる著者の『永久革命』理論のためではない。またこゝに見出される無數の興味的なエピソードのお蔭でもない。また必ずしも『內部鬪爭』の暴露に惹かれたものでもないのだ。
 こゝに展開されてゐる革命の生長力が、深谷から平地、平地から丘陵、丘陵から山獄へと、層々と隆起して遂に天に摩する革命の生長力が、すべてを結合し、統一し、引上げて行く、巾斷されない、鋼鐵のやうな、强い力として、私を捉へて瞬時も離さなかつたからに外ならないのだ。
 であるからその『面白さ』は、革命の自己展開の力學の持つ『面白さ』だったと言っても、決して大袈娑ではない。
 別の言葉でその狀態を說明すると、この書の牧歌的な第一頁からして、人々は革命の磁場に置かれた自分を感じないではをれないのだ。

(4) もうーつの『興味』は,一人の近代的革命家の內部生活の佯らざる現實に關聯してゐる。吾々はこれまで、革命家の手記や自傳と言ったやうなものに不足してゐる譯ではない。その最も感銘的なものは、例へばクロポトキンの吿白であり、ベーベルの自傳だ。それらの大きな革命家の足跡の記錄から、トロツキーのこの書を嚴に區別するものは、その社會的環境が吾えと同時代的であるといふ事實は別として,一人の革命家としてのトロツキ—の人間的存在が、いかにも複雜であり、多方面的であり、實踐家と同時に理論家、科學者と共に詩人、客觀家と同時に情熱家、低徊家と同時に猛進家、大人と同時に小供が、そこに雜居してゐることだ。
 さうした複雜な人間的存在が、一個の實踐的革命家として、懷疑と、遂巡と、停滯とを示さすに、素晴しく行動し得ること--その底には、無數の大きな、乃至は小さな、摩擦がなければならない。
 それをトロツキーは、隱さずに、率直に、且つ彼らしく『藝術的』に、こゝに橫へてゐるのだ。
 --吾々は、自分自身のことを除いては、現彖や人間について、機械的に考へる弊に陷り易い。よぼど用心してゐても、やつぱり結果から見るとさうなつてゐる場合が多い。特にそれが、ものゝ機械的な取扱ひを極度に排するマルクシストの間に、特に多く見られるのは、何んと言ふ矛盾だらう。
 そこでこの書は一人の大きな革命家が、いかに機械的な取扱ひを許さない存在であるかを人々の面前で立證するところの、實物證據としても、特に意義がある。而もトロツキーは、彼らしい遣り方で革命人間學を吾々に贈つてゐるのだ。

(5) かう言ふことを書かねばならぬのは、悲しいことではないにしても、勘くとも不快なことだが、やはり仕方がない。それは何んのことか? この書が他の何人でもないトロツキーによって書かれたものだと言ふ事情から、それは發するのだ。トロツキーは謂ゆる『トロツキーズム』の開祖でありレー二ン主義の裏切者であり、スタ—リンによってソヴイエツト・ロシアから追拂はれた反動革命家であり、日く何々、何々である! さう折紙づけられた人間の著書を反譯する者は同じく『トロツキーズム』の賛同者であり、反動革命に一票を投するものである!さう機械的に—!やっぱりこゝでも機械的な取扱ひの尻尾が、激しく頭部と胴閥を打つ--斷截される危險が、實際吾々のまはりにはお伽噺的ではなく、實際的に存在するのだ。
 單的に言ふ。それは間違ひだ。
 私は謂ゆる『トロツキーズム』の賛同者でもなければ、どんな意味でも彼の『味方』ではない。だがそれと、この書に革命成長の生理が活寫されてゐるといふ事實とは、關係のないことだ。
 この死體は『罪人』の死體だから、解剖にも人體硏究の科學的材料にも役に立たない、と言ふ科學者があつたとしたら、人は彼を單純に馬鹿だと思ふだらう。
(こゝに單なる『罪人』の例をもって來たことは、明かにトロツキーにたいして、恐しい非禮であって、その點は、ヨー ロツパの僻隅プリンキポの地に在る著者に向って、遙かに謝罪しなければならない。)

(6) この害は、レオン・トロツキー著『わが生活』傍題『一つの自叙傅の企て』の英譯から作られたものだか、この卷は正にその前半の反譯である。後牛の革命の物理とも言ふ可き全體は、すぐつゞけて反譯刊行する手筈になってゐる。
 なほこの書の反譯には、田口運藏、長野兼一郞の兩君及びその他の諸君の助力に俟つところが多かつたし、特にアルス編輯部の村山吉郞君には多大の厄介をかけた。こゝに記して心から感謝しておく。

一九三〇年七月五日

勞農藝術家聯盟の仕事に關して、新たに一つの『敎訓』を得、ひそかに決意するところがあり、疲れた體を初めて安らかに横へた日に。

靑野 季吉

青野季吉は、プロレタリア文学出身だが、思いのほか博識で、文学に対して、視野も広い。(Wikipedia)運動の中では、意に添わぬことが多かったと思われるが、そんな彼がふともらした「左翼運動」に対する彼の意見、感想が見て取れる。もっとも現代においても、彼が直面した現実と同質的な事態がないわけでもないが…

読書ざんまいよせい(001)

別に、「新しもの好き」ではないが、新シリーズとして、今まで読んだり読みかけの書籍を「断捨離」するつもりで、感想、注釈、抜き書きでも何でもいいが、記録に留めておくことにする。
◎実験医学序説
クロード•ベルナール著 三浦岱栄訳 岩波文庫

以下は、第2回 近代医学と実験—-クロード・ベルナール『実験医学研究序説』を読む—-からの、抜き書きが多分に占める。
奥付けをみると、昭和45年1月とあるので、学生時代に一度、研修医だった頃に二度目に読んだ時は、特に学生時代は、色んな意味で「挫折感」を味わっていたので、本書のベルナールの精緻な論理展開に、「医学」の未来に大いに希望を持ったものだ。特に、「デテルミニスム(le determinisme)=決定論」という命題と小気味良い論調には、大いに感服した。従来の医学の「神秘」的な傾向への反駁もに、小気味良い。(残念ながら現代でも「トンデモ医学」は、ネットなどでも後を絶たない。当方の理解の域をでないが、一言で言えば、「Aという原因からBという結果が出現するという因果律があるとすれば、それを証明するのは実験(E)しかない」に尽きよう。そこには、第一原因として「神の手」とか神秘的なものはなにもない。生命現象の複雑さも、A→B という因果律が、無数に連関的に絡み合ったものだ。くりかえすが、従来の魔術的な「医学」との決別が明言されていた。
しかし、今読み返してみれば、もちろん、その実証主義的な精神に感心はするが、少々厄介な問題も内包する著作とも感じる。

「実験生理学は実験医学の本来の基礎となるのであるが、患者の観察を禁じるわけでもなく、またその大切なことを軽んじるものでもない。それどころか生理学の知識は、単に疾病を説明するために必要欠くことができないのみでなく、良い臨床的観察をするためにも必要なのである。」

とベルナールは書くが、まず、「医学」の発展のおかげで言ってよいのか難しいところだが、現在において、われわれ臨床家は、ほぼエンドユーザーの立場であり、本格的な臨床実験に関与する余地はぼない、と言ってよい。せいぜい、患者の観察をするのが関の山である。テレビのコマーシャルを見て購買意欲を狩りたたれる消費者とあまり、変わりがない。その媒体が製薬会社のプロパーであったり、見栄えの良いパンフレットに置き換っただけの話である。

「我々は 観察家という名称を、自らは変化させることなく、したがって自然が彼に示すままに蒐集した現象の研究に、単純または複雑な探究方法を応用する人に対して与える。 実験家という名称は、自然現象を変化させたり、何らかの目的をもってそれらを変え、自然が彼に提供しなかったような環境や条件において自然現象を出現させるために、単純または複雑な探究方法を応用する人に対して与える。」

「 生物においても、無生物におけると同様に、すべての現象の存在条件は絶対的に決定されているということを実験学の公理として、まず承認しなければならない。換言すれば、ある現象の条件が一旦知られ、また実現されるならば、その後この現象は実験家の意のままにつねに必然的に作り出されなければならない。この命題を否定するならば、それは取りも直さず科学自身を否定することになるだろう。」

とは、なり得ないのである。
更に重大なのは、著作の第2篇くらいから、論調の変化が見られるが、

「我々が自然現象の確定的基礎的条件を認識するに至るには、ただ一つの道しかない。即ち 実験的分析によってである。」

「内科医は病人について毎日治療的実験を行い、外科医もまた被手術者について毎日生体解剖を実行している。したがって人間についてもたしかに実験することができるといわねばならぬ。」
「我々は人の生命を救うとか病気をなおすとか、その他その人の利益となる場合には、何時でも人間について実験を行う義務があり、したがってまた権利もある。内科及び外科における道徳の原理は、たとえその結果が如何に科学にとって有益であろうと、即ち他人の健康のために有益であろうと、その人にとっては害にのみなるような実験を、決して人間において実行しないということである。しかしながらそれを受ける患者の利益になるようにという見地に立ってつねに実験したり、或いは手術をしたりしつつ、同時にこれを科学のために利用することは少しも差し支えない。実際またこのようにすることは当然である。」

A→Bを証明するのは、実験(E)であるが、ではそのEを準備計画するのは、人である限り、その倫理性を担保するにはどうするか?ある意味、ベルナールは、ナチスや731部隊の蛮行を見ずに済んだのは幸せだったかもしれない。ベルナールの原則―「患者の利益」的な原則提起は案外難しい。そしてなによりも、実験(E)という手段は容易に目的化されるものである。それを避けるために、様々な倫理規定が提唱されてきたので、また改めて考えてみたいと、この著作で触発された。折しも、しんぶん「赤旗」・「歴史の証言に学ぶ」では、日本軍が散布したペスト菌の記事が掲載されていた。(記事の部分のみ抜粋)
ベルナールは、最後は、ややパセティックに自らの方法論を総括して語る。若いころ劇作家を志したとあるから、この著作にもその余燼が残っているのかもしれない。

「これらの体系(従来の「神秘的」医学の下に従属する科学は、それによって自己の豊穣性を失い、かつまた人類のあらゆる進歩の本質的条件である精神の独立と自由を失うからである。」

豊穣性を持ち、精神の独立と自由を保つ医学の道に憧れるのは、今も変わらぬつもりである。
ちなみに、岩波文庫の解説によれば、彼の連れ合いは、「ソクラテスの妻」状態であったらしいのは、妻までは、「デテルミニスム」では、説明しがたく、極めて人間的なエピソードである。
参考】
大阪大学医学部講義—-クロード・ベルナール『実験医学研究序説』を読む—-
・クロード・ベルナール 三浦岱栄訳『実験医学序説』、岩波文庫

木下杢太郎「百花譜百選」より(001)

木下杢太郎という文芸家がいた。本名は、太田正雄、東大医学部皮膚科の教授、太田母斑の命名者として知られる。( Wikipedia 木下杢太郎)その彼が、生を終える直前に描いた、植物のスケッチ帳が遺されている。岩波文庫では「新編 百花譜百選」として刊行されている。ここでは、なるべく描かれた月日を合わせながら、順次紹介し、その植物の項を、Wikipedia などを使ってリンクしておく。また、当方のコメントも含む場合もある。ちなみに、彼の死後七十年以上、経過しているので、版権は消失している。
52 志茂つけ(しもつけ) 下野
昭和十八年十二月五日 此枝採之于植物園

自らの病魔にあがらいながら、戦争の敗色が濃くなってきた 1943年、これらの植物を見た時、彼の心境は如何ばかりだったであろうか?今は知る由もない。

参考】
Wikipedia シモツケ
・木下杢太郎画/前川誠郎編「新編 百花譜百選」(岩波文庫)

後退りの記(016)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の完成」
◎堀田善衛「城舘の人」
◎渡辺一夫「世間噺 後宮異聞」

前回は、モンテーニュの「サン・バルテルミの虐殺」について述べた。堀田善衛は「城館の人」でこう書くが、その一言で尽きるであろう。
「けれども、何も書かないということもまた、一つの表現であり、かつ一つの主張でもありうることを忘れてはならないであろう。」
それでも、間接的に事件に対して感慨を催すことは避けられない。モンテーニュの引用の繰り返しにはなるが、「エセー」から少しパラドキシカルな表現で…

〈平穏普通の時代には、人はただ平凡な事件に対して心積りをする。けれども、三十年もつづいて来た混乱の時代には、あらゆるフランス人が、個人としても全体としても、二六時中、いまにも己れの運命が全的にひっくり返りそうな状態に生きている。それだけに、心にいっそう強く、逞しい覚悟をしておかなければならない。運命がわれわれを、柔弱でもなければ無為でもない時代に生きさせてくれたことを感謝しよう。他の手立てでは有名になれそうもない人間でも、自分の不幸のせいで有名になれるかもしれないのである。〉
〈私は歴史のなかで、他の国々におけるこの種の混乱を読むたびに、自分がその現場にいていっそう詳しく考察することが出来なかったことを、いつも残念に思うのである。それほどにも好奇心が強いので、わが国家の死という、この目ざましい光景を、その徴候と状態とを、目のあたりに見ることを、私はいささか喜んでいる。また自分でこの死を遅らせることが出来ない以上、この場に臨んでそこから教えられる運命をになったことを満足に思っている。〉

またしても長い引用になってしまったが、話をアンリ寄りに、というより彼周辺の女性たちに戻そう。
彼をめぐる女性は、当時から話題に事欠かなかったようだが、とりあえず当方は5人を挙げることにする。まず、祖母にあたる、マルグリット・ド・ナヴァル、その娘で母に当たり、ナバラ女王となり、熱心なプロテスタントだったジャンヌ・ダルブレ、この二人は、DNA としてアンリに受け継がれたようだ。あとは、「配偶者」としての、マルグリット・ド・ヴァロワ(マルゴ王妃)、後に再婚し、ブルボン王朝歴代の王を残した、マリー・ド・メディシス、唯一、心を通わせたとされるガブリエル・デストレの三人であろう。マルゴ王妃は、以前触れたのと、マリー・ド・メディシスは、アンリ四世没後の話題になるので、省略するが、マルゴ王妃とは、アンリが一番苦しい時代(虐殺前後から三人のアンリが絡んでの内乱状態)に、案外とアンリのサポートになったのではないか?短い期間だったが、心の支えであったろうと推測される。
さて、取り上げるのは、ジャンヌ・ダルブレをめぐる様々な人間関係であるが、少し、年代的に「虐殺」後から「ナントの勅令」あたりまでのアンリ四世をめぐる年表を整理してみる。
1572年 マルグリット・ド・ヴァロワと結婚、直後にサンバートロミューの虐殺
1573年 本意ならず、新教から離脱、ルーブル宮殿に幽閉
1574年 シャルル九世死ぬ、アンリ三世即位
1576年 パリ脱出、新教に戻る
1580年 モンテーニュ「エセー」出版(~1588年)
1584年 マルゴ幽閉
1585年 三アンリの戦い(~1588年)
1588年 スペインの無敵艦隊、イギリスに敗戦。旧教同盟のリーダー、ギュイーズ公暗殺
1589年 アンリ三世暗殺。カテリーナ・ド・メディチ死ぬ
1590年 パリ包囲
1591年 ガリブエル・デストレと知り合う
1594年 新教を捨て、シャルトルで即位式、パリ入城
1598年 ナントの勅令
1599年 ガリブエル・デストレ死ぬ。マリー・ド・メディシスと婚約
ハインリッヒ・マン「アンリ四世の完成」より抜き書き
本邦では、織豊時代から、秀吉の「朝鮮侵略」をへて、家康の台頭、関ヶ原直前までの出来事である。

寵姫ガリブエルは、父の系統は、歴代バロア朝のフランス王に使えた武人、母の実家は、
「呪わなければなるまい、この手をば、
人類《ひとびと》に快楽を与えんとして
惜しげもなく、かくも見事な verces (からすえんどうを指すが、「淪落女」の意もあるという)をば
撒き散らすこの手をば。」
と当時の戯れ歌に唱われたほどだから、一家揃って、浮名を流したのだろう。母は、複数の男性と関係をもち、挙げ句の果て、1592年に惨殺されてしまった。ガリブエルは、こんな母と距離を保っていたようで、叔母イザベールが母の変わりに宮廷における「後見人」を勤めていたそうである。姪に似て、イザベールも相当な美形だったらしく、当時の宮廷詩人ロンサールもその艶色を称える詩篇を献呈した。ガリブエルは、一応、1571年が生年とされるので、「虐殺」後の世代だろう。のちの歴史家ミシュレによれば、
「その肌色は驚くほど白く繊細であり、かすかに薔薇色を帯びている。その眼差しには、何とも言えないところ、人の心を恍惚とさせずには措かないが、安堵もさせない veghezza (魅力)がある。」
と書くぐらいだから、相当魅惑的、かつちょっぴりリスキーな女性だったんだろう。アンリ三世の宮廷に出仕した頃には、のちのちまで腐れ縁となるベルガント公と深い仲になってしまうが、1589年にアンリ三世の暗殺後、法的にフランスの王位継承者となった、アンリ四世は、それを名実共にすることに奮闘と生来の艶色家で、色香に溺れていた過程で、ガリブエルと、そのベルガント公の紹介で出会う。彼女は、文才などなかったが、宗旨のこだわりも少なく、連戦つづきのアンリにとっての心の慰みとなったのだろう。その後、別人と結婚する目にはあったが、アンリの何回目の「改宗」の後、パリ攻略に成功、1594年3月22日に、無血入城となった。9月の入市式典の際には、正式な王妃に準ずる体裁だったとある。

あと、アンリ四世の知世は、曲がりなりにも「宗教的寛容」を唱った「ナントの勅令」まで一直線であるが、ガリブエルの存在が支えになったのかもしれない。後日、ガリブエルの動向と合わせて記する機会もあろう。

今の世界において、世界史の教科書でなかば無理矢理覚えさせられた「ナントの勅令」は、本当に有効なのだろうか?有効だとすれば誰が発令するのか、誰がそれを守らせるのか?すくなくとも「勅令」の効力はルイ十四世の時代まで、曲がりなりにも続いたとされる。数日間の危な気な停戦とは言わない。世代を越えた、恒久的な平和を切に望みたい。

添付した曲は、アンリ四世が、マリー・ド・メディシスと婚姻を遂げた時の、晩年にアンリの宮廷音楽家であったウスタシュ・デュ・コレア(Eustache du Caurroy)の祝典曲、2018年の「古楽の楽しみ」から、最初の1分ほどを採った。

後退りの記(015)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎堀田善衛「城舘の人」
関根秀雄訳「モンテーニュ随想録」

前回は、アンリ四世とモンテーニュとの邂逅について触れたが、「アンリ四世の青春」訳者あとがきによれば、特に「サン・バルテルミの虐殺」以前のそれは、作者ハインリヒ・マン特有の、フィクション上の創作だそうだ。それにしても、よくできた創作であり、作品に奥深い味わいをもたらしている。彼らの実際の出会いは、モンテーニュの晩年になってかららしいが、その時二人は「十年来の知己を得た」思いだったに違いない。
ここでは、少し遡って、モンテーニュをめぐって「虐殺」前後までの歩みを振り返ってみる。

まず、堀田善衛は、モンテーニュは、「エセー」の中では。「虐殺」のことは一言も触れていない、と云う。ところが、「エセー」は、1572年、虐殺の年に第一稿が作られている。この事で、彼のスタンス、彼が語らないことで、おのずと語っていることが感じられるのは、当方だけであろうか?よくモンテーニュは「折衷主義」「現状肯定の保守派」とも評されるが、この「頑なさ」は、そうした評判とは相容れないことは確かであろう。

少し長くなるが、遡ること彼の勉学時代に、少し年上で無二の親友だったラ・ボエジーの言葉から…

「実際、すべての国々で、すべてのひとびとによって毎日なされていることは、ひとりの人間が十万ものひとびとを虐待し、彼等からその自由を奪っているということなのだ。これをもし目のあたりに見るのでなく、ただ語られるのを耳にするだけだったならば、誰がそれを信じようか。(中略)しかし、このただひとりの圧制者に対しては、それと戦う必要もなく、それを亡ぼす必要もない。その国が彼に対する隷従に同意しないだけで彼は自ら亡びるのだ。(中略)それ故、自分を食いものにされるにまかせ、またはむしろそうさせているのは民衆自身ということになる。隷従することをやめれば彼等はすぐそのような状態から解放されるのだろうから。民衆こそ自らを隷従させ、自らの咽喉をたち切り、奴隷であるか自由であるかの選択を行なってその自主独立を投げすて軛をつけ、自らに及ぶ害悪に同意を与え、またはむしろそれを追い求めているのだ。」

「あわれ悲惨なひとびとよ、分別のない民衆たちよ、自分たちの災厄を固執し、幸福に盲目である国民たちよ。諸君は諸君の面前でその収入のうち最も立派で明白な部分が、諸君から奪い去られてゆくままに放置している。(中略)そしてすべてのそのような損害、不幸、破壊は、数々の敵からではなくて、まさにひとりの敵、諸君が、それが今あるように大きく今あるように大きくしてしまっているその人間から来ているのだ。その人間のために諸君はあれほど勇敢に戦争に出かけて行き、その人間を偉大にするために、諸君は自分の身を死にさらすことを少しも拒まない。しかし、諸君をそれほどに支配しているその人間は、二つしか眼を持たず、二つしか手を持たず、一つしか身体を持たず、諸君の住む多数無数の都市の最もつまらない人間の持っているもの以外は持っていない。ただあるものは、諸君が自分たちを破壊するために、彼に与えている有利な地歩だけなのだ。」
「諸君は子供たちを養うが、それは彼が彼等に対してなし得る最良のこととして、彼等を自分の戦争へと連れ出し、殺戮の中へ送り込み、自分の貪慾の執行者、自分の復讐の実行者とするためなのだ。」
「獣すらも全然了解できないか、耐えられないほどの、かくも多くの卑劣な行為から、もし諸君がそう試みるならば諸君は脱出出来るのだ。それもそれから脱出しようと試みるのではなく、ただそうしようと望むだけでよい。もはや隷従するまいと決心したまえ。そうすればそれで諸君は自由なのだ。私は、諸君が彼を押したり揺らせたりするようにすればよいと言いたいのではない。ただ彼をもはや支えないようにしたまえ。そうすれば彼は、基礎をとりのけてしまった大きな巨大な人像のように、それ自身の重みによって崩れ、倒れ、砕けるのが見られるであろう。」

ラ・ボエジーは、むしろカソリックに近い立場を堅持した。その彼をして、こうしたプロテスト(抗議)を上げせしめたのは、フランス宗教戦争の悲惨さを前にして、止むに止まれぬ思いからであろう。再三に渡って述べるが、21世紀の現在の実状を訴えているわけではないが、自ずと重なって響くのは、悲しい現実だろう。

「虐殺」前は、カソリックとプロテスタントに政治的党派としてほぼ明確に別れていたが、その後はその色分けは、単純化されるどころか、政治的打算も重なって、プロテスタントめいたカソリック、またはその逆といったように混沌とも言える状況になってきた。モンテーニュは、心に期するものがあってか、シャルル九世、アンリ三世を中心とした王統派に近づきはするが、その親好は、プロテスタント寄りの知識人と結んでいた。そんな中で、アンリ四世との関わりはどうなっていくだろうか?次回は、1572年~1592年くらいの時期に触れたい。日本史で言えば、信長の台頭から、秀吉の朝鮮侵略くらいにあたる。

どうする、信長・秀吉・家康、どうする、三人のアンリたち、そしてモンテーニュ!