読書ざんまいよせい(069)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(010)

第二編 明治以後

第四章 マルクス主義の唯物論者

第一節 かわかみ・はじめ(河上肇)

一 河上の思想遍歴

1

 河上肇の生涯、そのなかでもわけて彼が唯物論者として活動するまでの、そしてそれから後の思想の生涯、それをここにのべることが、この節での私の仕事である。
 河上もまた幸徳秋水と同じように、思想のうえの生涯という点では、郷土からくる影響をになっている。彼ははやくから「梅蔭」という号を自分につけていた。彼の家の庭に梅の老木があったためであるが、号は少年の頃から吉田松蔭に私淑していたためにつけたのである。彼は蘇峰の『吉田松蔭』を中学時代に感激してよんだことを後に語っている。松蔭に対する尊敬はなみなみならぬものだった。それは青年時代までつづいていた註(1)。『自叙伝』のなかに、こういうことが記されている。「私の胸の底に沈潜してゐた経世家的とでも云ったやうな欲望は、松蔭先生によつて絶えず刺戟されてゐたことと思ふ」。このようにして、河上は郷土の思想家松蔭のえいきょうのもとにあったことは、まず注意しておいてよいであろう。河上は、中学の課程を岩国学校で学び、ここを卒えてから山口高等中学校に入ったのであるが、そこでは彼は文科の学生だった。ところが卒業試験の直前になって、「法科へ転じよう」という決心をした。この転科のもととなったものは、もうすでに彼のうちに宿っていたようである。松蔭に私淑したこの少年には前述のように「胸の底に、経世家的気分と云ったやうなもの」があったのだった。彼には早くから、少年経世家としての風があっただけではない。すでにれっきとした経世家らしい論策が書かれていた。彼は岩国学校の頃に友人と回覧雑誌をつくっていたが、その雑誌には「討論」という欄があった。彼はこの欄に『日本工業論』という文章をのせていた。「……方今旧日本已ニ去リテ新日本将ニ生レントス、而シテ英アリ露アリ、毎ニ我ガ釁ニ乗ゼント欲ス、……而シテ我国工業盛ンナラズ、故ヲ以テ、例ヘバ戦艦ヲ造ラントスルヤ、又之ヲ仏人ニ委任シ、多量ノ金銭費シ、多量ノ苦労ヲ要シ、或ハ道ニシテ之ヲ失ヒ、遂ニ我レニ勇アリ武アリ才アリ智アリト雖モ大ニ損スルアルニ至ル、嗚呼惜イ哉、是レ実ニ我邦工業ノ盛ナラザルノ致ス所ニシテ実ニ我ガ神州ノ為メニ悲ム可キ事実ナリトス……註(2)」まことに堂々たる経世の文であるといわねばならない。とにかく、彼は法科に転じたのである。ここにすでに彼の遍歴の旅ははじまっているといえよう。このときの転向はいかにも少年らしかった。というのは、日本にはじめて政党内閣ができ、昨日までは青年政治家であったものが「一躍して台閣に列する」というような時代の風がこの少年に「昂奮を与えた」からである。
『自叙伝』の叙述にしたがってではあるが、私が少年河上をこのように批評してくると、河上はやがて大学に入り法科を出て、いわゆる出世街道を馳け進んだ青年だったように描かれるかも知れない。しかし、そうでないことは、「河上肇年譜註(3)」の一九〇一年(明治三十四年)のところを一べつしただけでも、この青年のなかにある経世家的なものが、彼の成長とともに伸びてゆきつつあったことを、知ることができよう。そこにはこう書いてある。「十一月足尾鉱毒地の罹災民救済のための演説会をきき、翌日身に纏ってゐる以外の衣類を残らず行李につめて救済会の事務所にとどけた。このことは当時の毎日新聞(十一月二十三日)に『特志の大学生』といふ見出しで記事にさへなった。」
 河上は一九〇三年(明治三十六年)に東大を出て、翌年は東大の農科大学実科講師や、その他の二、三の学校の講師をしたが、そうしたことよりも、一九〇五年(明治三十八)に読売新聞に『社会主義評論』を書きはじめたことに注意をむけるのが、私たちには意義がある。彼のこの評論は、周知のように、たちまち多くの読者をもち、新聞の発行部数がそのために増加したというほどだった。もとより、このときの河上の評論はマルクス主義には遠いものだった。ここでマルクス主義のことを持ちだすのは、このころ彼はマルクス主義の学説にセリグマンを訳することを通じて注意を払っていたからである。しかし、「社会主義評論」では、まだ唯物論的な社会主義に共感をよせてはいなかった。むしろ、トルストイ的な、平和な無我的な愛を主張註(4)していたくらいだった。
 私はここで河上が、無我愛を主張した伊藤證信との結ばれについて記すべきところへきたとおもうが、その前に彼のなかの「経世家」の動きに属する活動をもうひとつここにのべておかねばならない。明治三十八年は河上にとって多事な年だった。彼はこの年『日本尊農論』を書いて公けにしている。菊判二〇〇頁の本である。今日では見る機会が少なかろう。この本にふれている前掲(註(4)を参照)の『河上肇』のなかにつぎのような記述がある。「彼が尊農を説くゆえんは、商・工業の発展が農民を《無資無産の放浪者として工場に出入せしめ、もつていはゆる資本家の使役する所に任》じ、《多数の国民は凡て労働者階級に堕落し尽く器械の奴隷たるに至れるを見ん》ということや、また工場法制定に反対し、労働条件の向上が生産費を増加し、海外輸出の衰退をきたすとして、《同胞中最多数を占めつつある労働者を敵視して、却つて異邦において異人種を顧客として尊重》するという当時の実情に反対して、大多数の国民の幸福を守るということから、〔河上が〕出発している点が大切である」。とにかく、河上は日本の農民に、心をよせ、これに強く関心をもったのである。これをみても、いぜんとして彼の内なるいわゆる「経世家的」な思想の動きの深かったことを見てとることができる。
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南総里見八犬伝(008)

南總里見八犬傳卷之四第七回
東都 曲亭主人 編次
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「一子いつしを遺のこして孝吉たかよし大義たいぎに死しす」「杉倉氏元」「金まり八郎」「里見よしさね」「百姓一作」「上総の大介」「玉つさ怨霊」

景連奸計信時かげつらかんけいのぶときを賣うる
孝吉節義義實たかよしせつぎよしさねに辭ぢす

 杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもとが使者、蜑崎十郞輝武あまさきじうらうてるたけ、東條とうでふよりはせ參りて、麻呂信時まろののぶときが首級しゆきうを進まゐらせたりければ、義實よしさねは大床子おほせうじのほとりに出いでて、件くだんの使者をちかく召めさせ、合戰かつせんの爲體ていたらくを、みづから問とはせ給ひしかば、蜑崎十郞まうすやう、「兵粮乏ひやうろうともしくまします事、氏元豫かねてこゝろにかゝれば、百姓們ひやくせうばらを催促さいそくして、運送うんそうせばやと思ふ程に、安西景連あんさいかげつら、麻呂信時、はや定包さだかねにかたらはれて、海陸かいりくの通路を塞ふさぎ、小荷駄を取らん、とわれを俟まつ。縡ことの難義なんぎに及びしかば、氏元ます〳〵憂悶うれひもだへて、いたづらに日を過すぐしたり。しかるに景連、一夕竊あるよひそかに、家隸某甲いへのこなにがしをもて、氏元にいはするやう、『山下定包は、逆賊ぎやくぞく也。よしや蘇秦張儀そしんちゃうぎをもて、百遍千遍相譚もゝたびちたびかたらふとも、承引うけひくべうは思はざりしに、信時にそゝのかされて、渠かれが爲に途みちを塞ふたぎ、良將勇士を苦くるしめしは、われながら淺猿あさまし、と後悔臍こうくわいほぞを噬かむものから、信時只管ひたすら鏃やじりを磨とぎて、說とけども思ひかへさねば、是これも亦靴またくつを隔へだてて、癬かゆきを掻かくに異ことならず。猜つら〳〵事の情ぜうを量はかるに、信時は匹夫ひつふの勇士、利の爲に義を忘れて、貪むさぼれども飽あくことなし。景連舊好きうこうを思ふ故ゆゑに、一旦いつたん合體するといへども、もし悞あやまちを改あらためずは、狂人を追ふ不狂人、走るは共にひとしかるべし。所詮しよせん合體の念おもひを飜ひるがへし、まづ信時を擊果うちはたして、兵粮ひやうろう運送の路を開き、里見殿さとみとのに力を勠あはして、賊首ぞくしゆ定包を討滅うちほろぼし、大義を舒のべんと思ふのみ。曩さきにはたま〳〵來臨らいりんせられし、里見ぬしを要えうとゞめず、あるじ態ぶりの禮儀いやなかりしは、彼かの信時が拒こばめるゆゑなり。願ふは和殿わどの、城を出いでて、短兵急たんへいきうに攻せめかゝれ。信時は野猪武者ゐのしゝむしや也、敵を見て思慮もなく、一陣に進んず。そのとき景連後陣ごぢんより、さし挾はさみてこれを擊うたば、信時を手取てとりにせん事、掌たなそこを返す如ごとけん。狐疑こぎして大事だいじを悞あやまち給ふな。をさ〳〵回答いらへを俟まつ』といへり。しかれども氏元は、敵の謀はかりことにもや、と思ひしかば、佻々かろかろしく從はず、使者の往返度わうへんたびかさなりて、僞いつはりならず聞えにければ、さは信時を擊うたんとて、安西に諜てふじ合せ、降ふりみ降ふらずみ五月雨さみだれの、黑白あやめもわかぬ暗夜くらきよに、二百餘騎を引率いんぞつし、枚ばいを銜ふくみ、鑣くつわを鉗つぐめ、麻呂信時が屯たむろせる、濱荻はまをぎの柵さくの前後ぜんごより、犇々ひしひしと推おしよせて、鬨ときを咄どつとつくり掛かけ、無二無三むにむざんに突ついて入いる。敵よすべしとはおもひかけなき、麻呂の一陣劇騷あはてさわぎて、繋つなげる馬に鞭むちを當あて、弦つるなき弓に箭やをとり添そえ、紊立みだれたつたる癖くせなれば、只活路たゞにげみちを求もとむるのみ、防戰ふせぎたゝかはんとするものなし。そのとき信時聲を激はげまし、『憑たのもしげなきもの共どもかな。敵は正まさしく小勢こぜい也。推包おしつゝんで擊うちとらずや。落おとされて前原まへはらなる、安西に笑わらはれな。擊うてよ進め』、と烈はげしく令げぢして、眞先まつさきに馬乘出のりいだし、鎗やりりう〳〵とうち揮ふりて、逼入こみいる寄手よせてを突倒つきたふす。その勢ひは正まさに是これ、群むらがる羊ひつじの中うちに入いる、猛虎まうこの暴あるゝに異ことならず。士卒はこれに勵はげまされ、將後陣はたごぢんなる安西が、援來たすけきなんと思ひけん、逃にげんとしたる踵きびすを旋めぐらし、唬叫わめきさけびて戰へば、こゝろならずも躬方みかたの先鋒せんぢん、面外とのかたへ追おひかへされ、路みちのぬかりに足も得えたゝず、辷すべり跌つまつき引ひきかねたり。當下そのとき杉倉氏元は、眼まなこを瞪いからし、聲をふり立たて、『一旦破りし一二の柵さくを、追おひかへさるゝことやはある。名を惜をしみ、恥はぢをしるものは、われに續け』、といひあへず、白旄採さいはいとつて腰に插さし、鐙あぶみを鳴らし、馬を進めて、烏夜やみに晃きらめく長刀なぎなたを、水車みづくるまの如く揮廻ふりまはして、信時に擊うつて懸かゝれば、笧かゞりの火光ひかりに佶きつと見て、『汝なは氏元欤か。よき敵也。其處そこな退のきそ』、と呼びかけて、鎗やりを捻ひねつて磤はたと突つけば、發石はつしと受うけてはねかへし、引ひけばつけ入いり、すゝめば開き、一上一下いちじやういちげと手を盡す。大將かくのごとくなれば、躬方みかたも敵も遊兵ゆうへいなく、相助あいたすくるに暇いとまなければ、氏元と信時は、人を雜まじへず戰ふ程に、信時焦燥いらつて突つき出いだす、鎗やりの尖頭ほさきを氏元は、左手ゆんでへ丁ちやうと拂除はらひのけ、おつと唬おめいて、向上みあぐる所を、長刀なぎなたの柄ゑを拿延とりのべて、內兜うちかぶとへ突入つきいれて、むかふざまに衝落つきおとせば、さしもの信時灸所きうしよの痛手いたでに、得堪えたヘず鎗やりを手にもちながら、馬より摚だうと滾落まろびおつる、音に臣等わくらは見かへりて、飛とぶがごとくに走はせよせて、その頸取くびとつて候」、と言葉せわしく聞えあぐれば、義實つく〳〵とうち聞きゝて、「氏元がその夜の軍功、賞するに堪たへたれども、計略足はかりことたらざりけり。景連猛にはかに心裏反うらかへりて、信時を擊うたする事、その故ゆゑなくはあるべからず。夫兩雄それりゃうゆうは竝立ならびたゝず。信時景連相與あひともに、われを擊うつとも早とみに捷かたずは、必變かならずへんを生ずべし。然さるを氏元ゆくりなく、安西にそゝのかされて、信時を擊うちとりしは、躬方みかたの爲に利はなくて、景連が爲になりなん。彼かの安西は何なにとかしつる」、と問とはせ給へば蜑崎あまさき十郞、「さン候景連は、その夜よさり躬方みかたの爲ために、征箭一條そやひとすぢも射出いいださず、いつの程にか前原まへはらなる、柵さくを退しりぞきて候」、と答こたへまうせば、義實は、扇あふぎをもつて膝ひぎを鼓うち、「しかれば既に景連が、奸計かんけいは著あらはれたり。わが瀧田を攻せめしとき、勝敗測はかりかたしといへども、定包さだかねは天神地祇あまつかみくにつかみも憎にくませ給ひて、人のゆるさぬ逆賊なり、一旦その利あるに似たるも、始終全しじうまつたからじとは、景連は思ひけん。定包竟つひに滅亡めつぼうし、義實その地を有たもつに及びて、信時は安西が翼たすけになるべきものならず。只大たゞおほばやりに勇めるのみ、與ともに無謀むぼうの軍いくさをせば、脆もろく負まけなんことをおそれて、陽うへには義實と合體して、氏元に信時を擊うたせ、景連はその虛に乘じやうじて、平館ひらたてを攻落せめおとし、朝夷郡あさひなこふりを合あはせ領れうして、牛角ごがくの勢ひを張らんとす。鼓うちし扇あふぎは外はづるゝとも、わが推量は違たがはじ」、とその脾肝はいかんを指さすくごとく、いと精細つばらかに宣のたまふ折、氏元が再度の注進ちうしん、某乙なにがしをとこはせ參りつ、「信時既に擊うたれしかば、殘兵頻ざんへいしきりに紊みだれ騷さわぎて、逃にぐるを直ひたと追捨おひすてて、氏元は軍兵ぐんびやうを、纏まとめて軈やがて東條へ、歸陣して候ひしに、豈あにおもはんや景連は、はや前原まへはらを退しりぞきて、平館ひらたての城を乘取のつとり、麻呂まろが采地朝夷れうぶんあさひな一郡、みなおのが物とせり。狗骨いぬほねをりて、鷹たかに捉とらせし、氏元は勞して功なし。おん勢せいをさし向むけ給はゞ、先鋒せんぢんを奉うけたまはりて、朝夷一郡いへばさらなり、景連が根城ねしろを屠ほふりて、この憤いきどはりを散はらすべし。このよしまうし給へ」とて、孝吉貞行等に書簡を寄せたり。金碗かなまりも堀內も、こゝに至りてその君の、聰察叡智そうさつゑいちに感伏かんふくし、「はやく景連を討うち給へ」、と頻りに勸すゝめ奉れば、義實頭かうべをうち掉ふりて、「否いな安西は討うつべからず。われ定包さだかねを滅ほろぼせしは、ひとり榮利ゑのりを思ふにあらず、民の塗炭とたんを救すくはん爲也。さは衆人もろひとのちからによりて、長狹平郡ながさへぐりの主ぬしとなる、こよなき己おのが幸さいはひならずや。景連梟雄けうゆうたりといふ共、定包が類たぐひにあらず。その底意そこゐはとまれかくまれ、志をわれに寄せ、木曾介氏元が、信時を擊うつに及びて、渠かれいちはやく平館なる、城を拔ぬきしを媢ねたしとて、軍いくさを起し、地を爭ひ、蠻觸ばんしよくの境さかひに迷ひて、人を殺し民を損そこなふ、そはわがせざる所也。景連奸計行おこなはれて、平館を取るといへども、なほ嗛あきたらで攻來せめくるならば、一時いちじに雌雄しゆうを決すべし。さもなくは境さかひを戍まもりて、こゝより手出しすべからず。僉みなこの旨むねをこゝろ得よ」、と叮嚀ねんころに喩さとし給へば、孝吉貞行は、さらにもいはず、左右に侍る近習輩きんじゆのともがら、蜑崎等もろ共に、感佩かんはいせざるものもなく、「いにしへの聖賢せいけんも、此このうへややはある」、と只顧稱贊ひたすらせうさんしたりける。かくて義實は、手づから氏元に書を給はりて、渠かれを賞ほめ、渠かれを喩さとして、安西を討うつことを禁とゞめ、「人の物を取らんとて、わが手許たなもとを忘るゝな。鄙語ことわざにいふ、飽あくことしらぬ、鷹たかは爪つめの裂さくるかし。籠城ろうぜうの外ほか、他事あだしこと、あるべからず」、と警いましめて、蜑崎十郞等を還かへし給ひつ。
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