読書ざんまいよせい(033)

◎アレクサンドル ゲルツェン「誰の罪」

 まずは、ゲルツェン「ロシアにおける革命思想の発達について」(金子幸彦訳)の訳者の解説から。

 ベリンスキイはその論文『一八四五年のロシヤ文学』(ー八四六)のなかでゲルツェンの小説『誰の罪か?』の特質について語っている。
 「目的とか内容の空しさとかを意に介せずに、ときには無から作品を生み出すところのたかい芸術性というものを示している作品があるが、ゲルツェンのこの小説はこのような作品には属さない。しかしまたこれはつぎのような作品ーーすなわち空想力に欠けた作家が、あたかも論文のなかにおけるように、一定の道徳的問題についてのおのれの思想と見解とを発展させ、性格も動きもまったくないような作品ともちがう。『誰の罪か?」の作者は知力を詩にみちびき、思想をいきいきとした人物に変え、自己の観察の果実をー劇的な動きにみちた行動へ移す不思議な能力をもっている。全巻をとおして現実のなんという驚嘆すべき正確さが見られることであろう。すベては見事に調和している。ーーーつの余分なものもなく、一つの欠けたものもない。文体のおどろくべき独創性、そしてなんとゆたかな知力、ユーモア、機知、愛情、感情が見られることであろう。」

 「誰の罪か?」の日本語訳は、今のところ、大正11年(1922年)の梅田寛訳しか刊行されていないようだ。そこで、利用規約などを参照すると、著作権フリーの文章を「翻訳・公開」するのは、OK のようなので、今回、「機械翻訳」による訳文作成を試みた。とりあえずは、作品の「梗概」などから…これも、ロシア語版Wikipediaおよび Wikiquote に掲載されているので、ライセンス的にはパスである。
 「機械翻訳」なので、日本語的に意味が通じないところの「瑕疵」はあると思われるが、最小限に止め、基本はそのまま掲載する。なお、梅田寛訳を参照したところもあるが、逐一注記しない。
 以上、したがって訳文の二次利用は可能であるが、訳文の正誤までは、当方の責任外である。

 「誰の罪か?」の新訳が現れることを心から期待しつつ…

「梗概」

作者 Gertsen, Alexander Ivanovich
原語 ロシア語
執筆年代 1841-1846
初版発行1846年
出版社 Otechestvennye Zapiski

 「誰が悪いのか』(原題:Who’s to Blame?)は、アレクサンドル・イヴァノヴィチ・ヘルツェンによる二部構成の小説で、1841年から1846年にかけて書かれ、1846年に雑誌に発表された。ロシア初の社会・心理小説の一つであり、ロシアリアリズムの最初の作品の一つである。

プロット

 村に住む地主のアレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロフは、息子のミーシャのために新しい教師を雇う。ドミトリー・ヤコヴレヴィチ・クルシフェルスキーである。
 ネグロフ一家は、読書やその他の知的探求に馴染みがなく、家庭経営に積極的に参加することもなく、取るに足らない仕事に没頭し、大食と睡眠にふけっていた。無作法で無愛想だ。しかし、ネグロフの隠し子であるルバにとっては、このような生き方はまったく異質なものだった。そのため彼女は、同じくネグロフ家の生き方を受け入れられない教養ある青年クルシフェルスキーに近づく。二人は恋に落ちる。ドミートリ・ヤコヴレヴィチはあえて手紙で自分の気持ちを打ち明ける。クルツィフェルスキーの気持ちを察した家庭教師のエリザ・アウグストヴナが彼を助け、恋人たちのデートの約束を取り付ける。元来臆病なクルツィフェルスキーは、手紙を渡すためだけに夜のデートに出かけることにした。恐ろしくなった青年は、目の前にいたのがルボンカではなく、ネグロフの妻グラフィラ・ルボヴナであることを知り、手紙を忘れて逃げ出す。困惑したグラフィラ・ルヴォヴナもまた、イライザ・アヴグストヴナに騙された罪のない犠牲者となっていた。腹立たしく思った女性は、夫に手紙を渡した。アレクセイ・アブラモヴィッチは、この手紙が非常に好都合に発見されたことに気づき、隠し子という重荷を取り除くために、先生をリュボンカと結婚させることにする。結婚に先立つこのようなばかげた状況にもかかわらず、クルツィフェルスキフの家庭生活は幸せで、夫婦は互いに愛し合っていた。この愛の結実がヤーシャ少年であった。二人は家族ぐるみで仲良く暮らし、唯一の友人はクルポフ医師だった。
 この頃、ネグロヴィー県の中心地であるネルン市に、それまで長い間不在だった裕福な地主ウラジーミル・ベルトフが外国からやってきた。彼は貴族選挙に参加するつもりであった[6]。彼の努力にもかかわらず、NNの住民はベルトフを仲間に受け入れず、ベルトフにとって選挙は時間の無駄であった。ある民事事件のためにNNに留まることを余儀なくされたベルトフは、自分の居場所を見つけようとしたこの試みも失敗に終わったことに絶望する。彼はほとんど完全に孤立し、NNでの唯一の友人はクルポフ医師だけだった。彼はベルトフをクルシフェルスキー家に紹介する。ベルトフとクルツィフェルスキー一家は、新しい出会いをとても喜ぶ。ベルトフは自分の考えやアイデアを分かち合う相手を得、クルツィフェルスキーは彼の中に、自分たちの内面を豊かにすることのできる、高度に発達した人物を見出す。かつてネグロフ家でリューバとドミトリが理解し合ったように、彼らは言葉半分、目半分で理解し合う。リューバとベルトフの一致は、大きなもの、愛へと発展していく。気持ちを隠しきれなくなったベルトフは、クルシフェルスカヤに告白する。そして一気に3人の人生を破壊する。リュボフ・アレクサンドロヴナは夫から離れられず、ベルトフも愛しているが、夫を愛している。クルツィフェルスキーは、自分がもはや以前ほど愛されていないことに気づく。ベルトフは、最も親しい人の人生を台無しにしてしまったという思いに苛まれ、彼のそばにはいられない。街中に噂が広まる。クルシフェルスキーは酔いつぶれている。クルポフ医師は起きたことに罪悪感を覚える。ベルトフは、自分もクルチェフスキーに劣らず苦しんでいること、自分の感情をコントロールできないこと、リュボフ・アレクサンドロヴナは夫より身近な人を見つけたが、以前のように幸せになることはないだろうと断言する。他に出口がないと考えたベルトフは、クルポフと同意して旅立つことにした。彼は再び祖国を去る。
 リュボフ・アレクサンドロヴナは枯れていく。クルーツィフェルスキーは酒を飲んでいる。別れは幸福と心の平安をもたらさなかった。未来は悲しく暗い。

登場人物

 アレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロフは退役した騎兵少将。「太った、がっしりした男。裕福な地主。1812年の戦争に参加。引退してモスクワに定住し、その後、怠惰から村に移り住む。村では農奴の娘ドゥーニャと結ばれ、リューバをもうけた。村での生活も退屈になり、彼はモスクワに戻り、結婚を決意するまで、再び怠惰な娯楽に耽った。ドゥーニャとその娘は不名誉なことになり、精神病院に送られた。結婚後、ネグロフはミーシャとリサという子供をもうけた。世俗的な生活に飽き、すっかり怠惰になった夫婦は、ついに村に移り住んだ。

 ドミトリー・ヤコヴレヴィチ・クルシフェルスキー – モスクワ大学物理数学科卒業。地区医師ヤコフ・イヴァノヴィチとドイツ人女性マルガリータ・カルロヴナの息子。ヤーコフ・イヴァノヴィチの診療所は悲惨な状態で、一家は貧しかった。一家には5人の子供がいたが、3人は猩紅熱で死に、長女はどこかの下士官と駆け落ちし、ミーチャだけが残された。ミーチャは病弱だったが、母親の努力で生き延びた。ある慈善家が地元の体育館を訪れ、そこでミーチャに目を留め、モスクワ大学で学ばせたいと申し出たのだ。大学の物理学科と数学科を卒業したドミートリ・ヤコヴレヴィチは、就職先を見つけることができず、状況はますます悪くなっていった。そんな矢先、ネグロフの寛大な申し出があった。

 グラフィラ・ルボヴナ・ネグロヴナは、アレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロヴの妻だった。浪費家の伯爵と商人の娘である彼女は、マヴラ・イリニシナ伯爵夫人に育てられた。伯爵夫人は姪に対して非常に厳格で厳しかった。結婚が彼女の運命を好転させた。

 セミョン・イヴァノヴィチ・クルポフ医師は医学委員会の検査官である。クルポフは『クルポフ博士』の中で、万病説を展開する。

 リューバは、アレクセイ・アブラモヴィッチ・ネグロフと農奴の娘ドゥーニャの隠し子である。ネグロフの結婚後、彼女はルドメンスカヤに追放されたが、グラフィラ・ルボヴナの取り成しのおかげで紳士の家に戻され、貴婦人として育てられた。

 ウラジーミル・ペトロヴィチ・ベルトフは裕福な地主で、元公務員であった。ベルトフの母ソフィは農奴だった。女主人は、利益を上げるために、農奴の娘数人を家庭教師にすることにした。その中には、後にウラジーミルの母となる女性も含まれていた。教育を受けたソフィーは、近所の地主に売られた。その地主の若い甥は、放蕩三昧の生活を送っていたが、ソフィーに目をつけたが、驚いたことに拒絶された。哀れな少女は仕方なく、地主にタダにしてくれるよう懇願し、サンクトペテルブルクに逃れた。しかし、ベルトフが流した噂が彼女の評判を落とし、どこにも居場所を与えられなかった。窮地に追い込まれたソフィーは、ベルトフに怒りの手紙を出すことにした。その手紙に心を打たれたベルトフは、自分のしたことを深く悔い改め、その結果、二人の関係は結婚に至った。やがてベルトフは2歳の息子を残して亡くなった。教育の重荷はすべて、母親と家庭教師のスイス・ヨーゼフの肩にのしかかった。成長したウラジーミルは、モスクワ大学法学部に入学した。同大学を卒業後、サンクトペテルブルクに奉公に出た。ロシア官界の堅苦しい雰囲気に馴染めず、半年後に退官。医学や美術に携わろうとしたが、こうした活動もすぐに冷めてしまった。恋愛に失敗したベルトフは、異国の地へ赴く。

創作の歴史
作者の紹介によれば、この小説は1841年に亡命先のノヴゴロドで書き始められ、最初の部分もそこで書かれた。モスクワに到着後、ゲルツェンは書き上げた作品を友人たちに見せたが、彼らは気に入らなかった。この原稿はベリンスキーに高く評価された。

編者注】画像は、ベリンスキーの肖像(Wikipedia から)

読書ざんまいよせい(032)

◎風流滑稽譚(一)バルザック著小西茂也訳

編者注】「ゴリオ爺さん」は、青空文庫にて、中島英之訳で収録されていますので、一旦アップは中断します、ただし、訳者の著作権は存続しています。そこで、「風流滑稽譚」全三作の大作の投稿をぼちらぼちらと…まずは、「前口上」から。

目次

前口上
美姫インペリア
仮初の咎
王の愛妾
悪魔の後嗣
路易十一世飄逸記
大元帥夫人
箱入娘
金鉄の友
衣手の風流
当意即妙
後口上

これはド・バルザックの大人、トゥレーヌの諸寺より蒐めて開板せるもの世のパンタグリュエルの徒の慰み草に供すべく、余人の為にはあらず焉。

    前口上

 この草紙は、おらが国さトゥレーヌ不朽の粋士、フランソワ・ラブレエが献酬めされた名うての酒仙や座ぬけの呑助どもの髭口に合わそうとて、吟醸いたした洒脱芳醇なる詩酒でござって、作者の念願は同じくよきトゥレーヌ人たるの実を示し、めぐわしきわが郷土のお歴々の御酒興を添えんが為に他意ござらぬ。五穀はもとより寝取られ男、伊達男、おどけ男に至るまで遍ねく穣ったわが郷土より、簇出いたした法朗西屈指の名士には、追悼の涙も未だ乾かぬクーリエ<*注1>あり、『立身の途』の著者ヴェルヴィルあって、多士済々とは申せ、デカルト大人のみは願い下げといたしたい。その仔細はと申すに、大人はいたって気重な隠士で、美酒佳肴より空虚な夢想の方を讃えられた仁ゆえ、トゥールの町の料亭や喫茶の旦那衆からは貶しまれ見誤まられ、偶々人の噂話に上っても、何処のお人じゃと訊ね返されるほどに、かいもくの野暮太郎でござったからじゃ。
 さてこの書冊の種を申そうならば、グルナディエール・レ・サン・シール、サシェ・レ・アゼエ・ル・リデル、マルムウチェ、ヴェレエツ、ロシュ・コルボンなんど、わが郷土のそんじょうそこらにおいであった、めでたい沙門の翁たちの鬱散養気の風流談義、さては昔覚えの説教僧やしただるい老嫗が口伝たる浮世咄などからでござる。
 総じて古人は笑った途端にお腹のなかから、馬が飛び出ようが、駒が跳ね出そうが、お構いめされずにただ腹の底から、しんから笑いこけられたものじゃが、今時の若い女子衆ときては、澄まし顔にて可笑しがろうとめされてござるわ。したが王妃の頭上に油壺が似合わぬよう、華やかな法朗西国にはさような仕草は、なによりふさわしからぬ限りじゃて。
 されば抱腹絶倒は男子にのみ賦与せられた特権でごあって、人は浮世の波風に曝され放題ゆえ、今更に物の本で読む要もないくらい涙の種を知っとる筈じゃから、ここに些か寛闊の譫言を印行することも、時節柄この上もない御奉公と存ずるわ。
 まこと今の御時世たるや、憂いことばかり糠雨さながらに降りしきって身を濡らし、はては身内に滲み透って、女郎衆の縦線《レイ・ビユブリック》をもって、諸万人《レビユブリック》の諸々の気のつきを晴らさんとしておった往時の風儀も、まさに消融せんといたしておる。剰え分際はずれた手出しもいたさせず、じっと大人しく神や王のなすが儘に任せて、よろず笑いにまぎらせ得心しおった、いにしえ老パンタグリュエルの儕輩《ともがら》も、今や残り尠なになった許りか、日に日に身まかってゆく現状ゆえ、名だたるこれら古雅なる浮世草紙の断簡零墨が、唾は引っ掛けられ、塵芥にはまぶれ、大小便を垂れ流され、さらに咎め立てられ、はじしめられゆくごとき、憂慮すべき成行を目の前にしては、雅趣あるゴオロワの残肴に、ひそかに舌鼓を打つ吾儕など、夜の目も合わぬ何ともじゅつない思いじゃて。
 また僻々しい批評家連《あらさがしや》や、言葉の屑ひろいどもや、人の趣向や心組に難癖つける世の天邪鬼たちに、ひとつ想起して戴きたいことは、笑いは童心からひり出され、歳月の旅枕を重ねるにつれ、ランプの油よろしく薄れ消えゆくものなのでごある。詮ずるところ笑わんが為には、心の無邪気さと浄らかさこそ必須不可欠、その不可欠の持ち合せもない口敲きの下卑蔵《げひぞう》には、汝《なれ》が持前の不徳や不醇をひた隠すべく、あれあのように、頬桁をすぼめ、口をゆがめ、眉をしかめて御座るのでごある。
 この草紙の有様《ありよう》は、抜差ならぬ群図《グループ》であり、布置正しき彫像であるゆえ、いかなる美術家と雖も、その姿容を変改すること叶わぬは明々白々、まして談義の若干、乃至はこの戯作全般が、尼寺に向くように仕立てられてごあらぬからとて、無花果《いちじく》の葉なんどをあてがおうずる道学先生こそ、出頭第一の愚か者となり申そう。さはさりながら吾儕とて、心進まぬながらも尻軽貞女やお転婆娘たちの、耳朶を叩き、明眸を眩ませ、豊頬を赧らめ、紅唇を膨らませかねぬていの、昔言葉の艶々しすぎる文言は、はや心して稿本より剪除いたしておき申した。当代のなり下れる風儀が性に合わぬとばかりぜい言ってはおれぬし、婉曲の語法の方が、なまのよりずんと風雅のこともあるからじゃい。
 まこと吾儕も年をとったかして、束の間の若気の痴れわざより、長々しい莫迦ごとの方が、ゆるゆると賞翫出来るによって、好もしくなり申した。じゃによって拙者に悪口は、平に御容赦を願いたい。昼日中よりも、夜分にこの笑い本を読んで戴けばまことに幸甚。また極めて情を燃やさせ易い冊子ゆえ、いまどき生娘が残りおったとしても、それら熱高い乙女っ子には覗かせぬよう、いっち気を遣われたいものじゃ。――なんどと忠告一番、筆を擱き申すが、この経籍そのものに関しては、顧みて心中晏如たるものがごある。とぬけぬけ申すいわれは、これが生れ故郷は心構の高い雅びな土地柄で、そこに発したるものこれ悉く、何れも大いなる成功を博しおること、金羊皮章、聖霊章、靴下留章、沐浴章なんどの勲記標章や、その他幾多の天下に冠たる文物に照らしても明らかな通りで、それらの加護に身を任せたれば、作者としても先ずは大安心。『いでや心の朋友たち、楽しみめされ。悠々と体を寛ぎ腰を伸ばして、残る隈なく読み興ぜられよ。さりながら読んだ揚句に、はて一向に下らぬわいなど仰有る御仁は、疳瘡に罹ってお果てめさるがよい。』
 かく申されたるは智慧の公子、道化の王侯、われらが崇めるラブレエの宗師にて御座る。方々には帽を脱し膝を正して謹しんで清聴と云爾。

  *注1* クーリエ・ド・メレ(一七七二―一八二五)フランス文人、政治的パンフレットを著す。『ダフニスとクロエ』の飜訳あり。
  *注2* ベロアルド・ド・ヴェルヴィル(一五五八―一六一二)フランス十六世紀の作家。ラブレエ調の好色小咄集『立身の途』の著あり。

編者注】本文、訳者とも、著作権は消失しています。画像はいずれも、Wikipedia より

読書ざんまいよせい(031)

◎アレクサンドル ゲルツェン「誰の罪」「向こう岸から」

 「革命家」に必要な資質とはなんだろうか?どんな状況であろうと失わない「楽天性」か?時には、味方に対してさえ、断罪する「冷徹さ」か?物事をきちんと筋道をつけて分析する「明晰さ」か?「革命家」ゲルツェンの場合は、前の二者ではないことは確かである。あとの評価であろうが、それに彼独特の「憂愁」が付け加わり、のちのレーニンやトロツキーなどと一線を画する所以である。
 最近、刊行された新訳の自伝「過去と思索」でもその傾向は、顕著であり、第一部から第四部まで、一気に読み、ゲルツェンの魅力に引きずり込まれた。この自伝はいずれ紹介する機会があろうが、ここでは、彼のシベリア捕囚時代の小説が、国立国会図書館デジタルコレクション「誰の罪」でなんとか読めるので、パラパラとページを「クリック」してみた。

梅田寬譯・ゲルツェン「誰の罪」

ゲルツェンの事ども

 ア・ゲルツェン(一八一二~ー八七〇年)はモスクワの或る富裕な家庭に生れた。彼の母親はドイツ人であった。彼は相當學識ある露・獨・佛等の家庭敎師と獨・佛の十八世紀の哲學者の著書を集めた豐富なる父の圖書室とにつて敎育された。佛の百科全書を選んだ事が彼の心に深い痕跡を殘し、その爲後年、若き友人達と同じく獨の純正哲學の硏究に貢獻した時にも、彼は十八世紀の哲學者から受けた思索の具象的方法及び心意の自然的傾向を決して棄てなかつた。
 一八三〇年のフランス革命が全歐洲の思想家に深い印象を與へたころ、彼はモスクワ大學へはひって物理と數學を學んだ。ゲルツェンはその親友である詩人オガリョーフ等と共に靑年結社を結び、政治上、社會上の問題を討議したり殊にサン・シモン主義を提唱したりした。そして當時のニコラス一世を諷罵した或る歌が之れ等の結社から唱へられため、ゲルツィン等は捕縛された。相當に重罪に處せられる所を或る顯官の運動で赦され、ゲルツェンはウラル地方のヴャトカに追放され共で六年を暮した。 一八四〇年赦されてモスクワに歸った時、彼はロシヤの文壇が獨逸哲學の影響をうけて形而上學の抽象的思想に夢中になつてゐるのを見出した。ヘーゲルの絕對說、その人類に就ての三體說及び「實在するものはて合理である」といふ結果に對する效果盛んに論議されてゐた。そしてヘーゲル崇拜家はニコラス一世の制政治をも合理的であると主張し、大批評家ペリンスキイ(一八〇年~一八四八年)ですらも制政治の歷史的必然說を承認せんとした程であつた。ゲルツェンも無論ヘーゲル硏究に努めたが、その硏究によって共友エム・バクーニン(一八二四年~一八七六年)と同樣全然異つた結論に到達した。かくてゲルチェンやバクーニン、ベリンスキイ、ツルゲーニェフ、チェルヌイシェーツスキイ等は西歐主義《ザパドーニーチェストフ》の左翼主義を組織し、ア・スタンケヴィッチ(一八一七年~一八四〇年)一派はスラヴ國粹主義《スラウヲヤノフイーリストフ》の右翼を組織した。
 西歐主義の大體の綱領は、ロシヤも歐州からの除外物ではなく、 ロシヤも亦西歐諸國の通つてきたと同一の路を必ずや通るであらう。 從つてロシヤの踏むべき次の階梯は農奴制 (後一八五七年より六三年までに斷行された)である。そして次には西歐諸國に於て發達したと同樣の發達を見るであらう、といふのである。彼等はつまり廣義でいふ西歐文明の謳歌者であつた。これに對しスラヴ國粹主義はロシヤはロシヤ自らの使命をもつてゐる。吾人はノルマン民族の樣に外國を征服した事はない。吾人は今尙古い時代の組織を保つてゐる。從つて吾人は國粹主義者の所謂ロシヤ生活の三つの根本的原則、卽ち希臘正敎と露帝《ツァーリ》の絕對權力と家長的家族の原則に返つて、吾人自らの全然獨創的な發達の徑路を進まねばならぬといふのである。 ゲルツェン等前記の人々は西歐主義者の內でも最も進んだ意見をもつてゐた。卽ち、西歐諸國に於いて地主竝びに中產階級の兩者が議會に於て無制限の勢力を占めた結果、勞働者と農民との蒙つ困苦、而して歐洲の大陸諸國がその官僚的中央集權によつて政治的自由を制限したこと、是らは決して「歷史必然」ではない。ロシヤは恁うした失策をくり返す必要はない。寧ろ彼等先進國の經驗に鑑みて反對に出なければならない。而して其土地共有制や帝國の或部面に見らるゝ自治制や或はロシヤの村落に於ける自治體の制限を失ふことなしに工業主義の時代を迎へ得るなら、それは莫大な利益であるであらう。從つて其村落自治體を破壞し地主貴族の手に土地を集中しめ、而して無限、多種多樣なる地方の政治的生活をプロシヤ人、彼はナポレオンの政治的中央集積の理想によつて中央政府の手に掌握せしむるは、資本主義の勢力の强大なる今日、最も大なる政治上の失策といふべきである、と彼等は主張した。然るに、後年農奴制が廢止止せらるゝに至ったとき、この主義者とスラヴ國粹主義者との閒に最も注意すべき一致を確立したのであつた。國粹主義者は總體に於いて保守的ではあったが、その最も立派な代表者の唱へた或る點.卽ち農奴制度の廢止に就いての農民の事實上の根本的制度たる自治、法律、聯邦制度の、その他信仰及び言論の自由等の主張は前者と一致したのである。
 ゲルツェンは一八四二年に再びノヴゴロドへ追放され、次いで四七年外へ行ったがに遂に再び母國へ歸へらず七〇年に五十九歲で、スイスに於て寂しく死んだ。その頃フランスに二月革命(一八四八年)あり、やがてナポレオン三世が出でゝ帝政時代再び出現し、フランスを中心に全歐を風靡してゐた會主義的運動の痕跡すらも一掃さるゝに及んで、ゲルツェンは西歐の文明に深い絕望を感ずるに至つた。彼はブルードンと共に「人民の友」なる新聞を巴里で發刊したが官憲の壓迫著しく、遂にフランスからはれた。彼は其後スイスに歸化したが、一八五七年ロンドンに定住し、その年始めて自由なロシヤ語の雜誌「北極星」を刊した。この誌上で彼は政治上の論文及びロシヤの最近史に關する極めて價値ある材料であると同時に、嘆賞に價する追悼記「過去の事實と思想」を發表した。この雜誌の次に「鐘」と稱する新聞を發行した。この新聞によつて彼は海外に在りながら、その勢力はロシヤに於ける一つの眞の力となった。ツルゲーニェフはこの新聞の爲に遠く援助する所があった。「鐘」上にはロシヤ國內では迚も發表も難い致い失政の事實を摘發し、一方論說はゲルツェンによつて政治文學稀に見る力と、內部的な溫情と、形式の美をもつて書かれた。「鐘」の多數はロシヤに搬入され、至る所に撤布された。アレクサンドル二世までがその每號を讀んでゐた。ゲルツェンのロシヤ國內での勢力がその晚年おとろへて、彼にとつて代つたのは 靑年たちであつた。
 ゲルツェンは政治、社會、哲學、藝術に關する多くの有名な論文を殘したが、また「誰の罪か?《クト ウイノワート》」ほかの數種の小說を書いたことも忘れてはならない。問題小說である「誰の罪か?」は一八四二年ノヴゴ ロドに追放されたときに書き起したもので、ロシヤに於ける知識的典型の發達史のなかにしばしば引あひに出される、彼の有名な代表作である。內容は前篇と後篇とに別れてゐて、かなり興味ある複雜を示してゐるが、要するにこの全篇の主要人物は、貧しい家に生れて大學を卒業し、退役將軍邸に家庭敎師となり、のち中學校《ギムナジア》敎師となったクルチフェールスキイと、そこの將軍の妾腹の娘でクルチフェールスキイと、自由戀愛より結婚生活にはひつたリューポニカ、それからクルチェフールスキイの舊友でその家庭に來つて、戀の三角關係をひき起したペェリトフ、獨身主義の醫者クルーボフ等である。ゲルツェンは、彼獨特の簡潔、明快な、而も老巧な諷刺に富んだ筆法を以て、彼等を心ゆくまで活躍しめてゐる。そこに描き出されたロシヤ貴族、官吏、軍人、知識階級《インテリゲンツィア》、保守階級、無產者、農奴等は、ゲルツェンの目をとほしては容赦なく衣をぬがされ、おどろくべき赤裸々とされて、その眞實、その本體を毫も掩ふよしがない。しかもこの話は恰も現今わ が日本に見るが如き社會問題、婦人問題、戀愛問題、敎育問題、家庭問題等を多量に、また縱橫に含み、そこに生ずる經緯の興味あり又おそるべき結果に向って徐々として進む。ゲルツェンはこの結果に至つて、卽ち三つの破壞された生活の殘骸を指して、これは果して『誰の罪』であるか!と世閒に問はんとしたのである。この問題小說はロシヤ後來の文學者、批評家に常に愛讀され、諸種の議論の材料とされたもので、わが國には未だ紹介されてなかったのが不思議なほどである。

 因にこの拙譯は一九二四年一月ベルリン、ラドゥイジュニコフ書店發行の露語原書による。

    一九二四年一月

 次に、フランスなどでの、1848年の2月~6月革命の勃発から敗北までの彼の見聞きした出来事とそれへの彼の思いを綴った「向こう岸から」より、息子に宛てたその序文から…
 同じころマルクスは「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」を書いた。「題材」が一緒で、しかもどちらも優劣がつかず、それでいて、読後感で違いがあるのは、二人の立ち位置、気質の違いが明らかになり、とても興味深い。1848年革命の顛末の受け止め方は、ゲルツェンらしく、「向こう岸から」の論旨の展開は決して読みやすいものではない。こうした「韜晦」の故に、後世にすんなりとゲルツェンは受け入れられなかったのであるが、今の御時世だからこそ、傾聴に値する。

    わが息子アレクサンドルに

 わが友サーシャ〔「アレクサンドル」の愛称〕
 私はこの本を君に捧げる。それは、私がこれまでこれ以上に良い本を書いたことがなかったし、おそらく、これからもこれ以上に良い本を書くことはないだろうからだ。また、私は闘いの記念碑として、この本を愛しているからだ。この闘いの中で、私は多くのことを犠牲にしてきたが、しかし、知ろうとする勇気を捨てたことはなかった。そして、最後に、古臭い奴隷的な偽りに満ちた見方、別の時代に属しているにもかかわらずわれわれの間に生き延び、ある者たちを妨げ、ある者たちを脅かしている、愚かしい偶像に対する不羈の人間の、時として不遜な抗議を、幼い君の手に託すことを私はいささかも恐れていないからだ。
…。
 来るべき社会改造の宗教はただ一つ、私が君に遺す宗教だけだ。そこに天国はない、褒賞もない。あるのは己の意識、己の良心だけだ……いつの日にか故国に帰り、この宗教を広めてほしい。

 ……人間の理性と個人の自由と友愛の名において、私は君のこの道を祝福する。

    君の父
          一八五五年一月一日 トウィックナムにて

アレクサンドル ゲルツェン. 向こう岸から (平凡社ライブラリー799) . 平凡社. Kindle 版.

編者注】「誰の罪」の訳者、梅田寬は1969年没とあるので、著作権は消失していないと判断するのが妥当である。したがって、ゲルツェンの紹介を兼ねて、訳者の序文の部分引用に留める。また、言うまでもなく、「向こう岸から」も訳者の著作権は存続しているので、これまた、ゲルツェンの序文の一部の「引用」である。代わりに「誰の罪」のロシア語原文からの「自動翻訳」を後日掲載する予定である。

読書ざんまいよせい(029)

はじめに―関西勤労協での講義「芸術論への旅」を受講して

 先日まで関西勤労協で「芸術論への旅」とのタイトルの講座があったため、計4回にわたり受講してきた。芸術の発生からはじまり、その哲学的根拠など多岐にわたるテーマであった。途中、絵画、写真、生け花など主に造形芸術に触れた部分など、あまり関わらない分野だけに、教えられる部分が数多くあった。最終回は、チェーホフとブレヒトの芝居を扱った講義であり、一層興味を惹かれた。そこで、講義後のディスカッションに少しでも寄与するために、チェーホフについて、思うところをまとめてみた。
 その昔、まだ芝居など「現役」だったころ、「芸術とは?」といった論議に口泡飛ばしたものだ。「芸術は『表現』だ!」「いや違う『認識』であるべきだ!」との二大論陣の少し離れたポジションにいて、こうした「こ難しさ」にも付き合わされた。前者は、吉本隆明などが主張するところ、後者は「旧」左翼系が譲らぬところ。少しあとで永井潔という画家が、「認識」説をきちんと整理して、提起したところで、「そんなものだろう」と一応の納得したものだ。ただ、吉本の「芸術=表現論」も、「認識」とした上での、歴史的に見て「政治主義」的な引き回しに我慢できなかったことはなんとか理解できたが…
 以下、講座での当方のメモから…
◎チェーホフにおける「表現」と「認識」
・チェーホフの戯曲は、いずれも一筋縄ではゆかず、「演出」する立場からは、意外と厄介である。
・彼の戯曲は、患者の「カルテ」であり、小説は「レシピ=処方箋」に例えられると読んだことがある。
そこで、4大劇の結末を見てみると…(いずれも神西清訳)
○「かもめ」
(ト書き)右手の舞台うらで銃声。一同どきりとなる。
○「ワーニャ伯父さん」
ワーニャのセリフ「…わたしのこのつらさがわかってくれたらなあ!」
ソーニャのセリフ「でも、仕方がないわ、生きていかなければ! (間)ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。」
(ト書き)テレーギン、忍び音にギターを弾く。
○「三人姉妹」
(ト書き)楽隊はだんだん遠ざかる。
オーリガのセリフ「それがわかったら、それがわかったらね!」
○「桜の園」
(ト書き)はるか遠くで、まるで天から響いたような物音がする。それは弦の切れた音で、しだいに悲しげに消えてゆく。ふたたび静寂。そして遠く庭のほうで、木に斧を打ちこむ音だけがきこえる。
徐々に、劇の結末が、静謐になっているのがわかる。
◎究極の「自己表現」とは?「芸術的感性」の感性はここにあるように思われる。
○「赤旗記事」の画像参照
「いいなずけ」(1903年)は、チェーホフ最後の小説で、好きな小説の一つであるが、肉体的衰えから、やや荒削りの感は否めない。それでも、再論するが、この場合、チェーホフにとっての究極の「自己表現」とは(副)主人公の「死」であろう。最後の言葉が、「Ich sterbe !」“私は死ぬ”というのも彼らしい。もっとも、「人はよく嘘をつく。その死ぬときでさえ」という彼らしい発言あり。
○その「自己表現」は、他との関わりの中で、彼の深い「認識」と結びついていた。と同時に、「奇をてらう自己表現」は、あくまでその場限りでいずれ忘れ去られるだろう。
○ただし、各個人の「認識」が、極めて政治主義的かつあまりにも狭量な「断罪」をくだされた歴史―今も続いているかもしれない―を繰り返してはならない。
◎「ナンセンス劇」と見る中村雄二郎のチェーホフ解釈
○チェーホフの「したたかさ」(表現的には「なにも解らない」とする彼の韜晦」)にまんまと引っかかった、悪質の「不可知論」的な陥穽に過ぎないのではないか?初期の短編「ねむい」や後期の中短編「谷間」、「退屈な話」、「犬を連れた奥さん」などが、「ナンセンス劇」であってたまるか!
○「臨床の知」というのも、「カルテ」と「処方箋」に日々格闘するわが身にとっては、許されない暴論にすぎない。

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(009)

 お嬢さんが嬌態《しな》をつくって、こんなお喋りをする、「みんな私のことを怖がっていますの……世間の男も、風《かぜ》も……。 ああ、もう何も仰しゃらないで! あたしお嫁になんか決して行きませんわ!」家はというと貧乏で、父親は大酒飲みだ。もし人が、彼女が母親と一所懸命に働いて、父親のことを人前に隠そうと骨を折るのを見たら、彼女に対する深い尊敬の気持で一ぱいになるだろう。同時にまた、彼女がなぜ貧乏や労働をそれほど恥かしく思って、あのお喋りを一向に恥じないのか、不思議な気がするだろう。

 レストラン。自由主義的な話がはずんでいる。温厚なブルジョアのアンドレイ・アンドレーイチが急にこんなことを言い出す――「妙な話ですが、これでも私はアナーキストだったことがあるんですよ!」みんなびっくりする。A・Aの話。――厳格な父親。その田舎町に徒弟学校が出来たが、職業とは何ぞや教育とは何ぞやなどというお談義に夢中になって、何一つ教えては呉れず、だいいち何を教えたらいいかも見当がつかなかった。(だって町じゅうの人を靴屋にしたら、誰が靴を註文するものですか。)彼は学校を追い出された。家からも追い出された。地主邸の執事の助手に住込んだ。金持や飽食の徒や肥っちょが癪に障って来た。地主が桜の木を植えた。A・Aは手伝いをしているうちに、手もとが狂った振りをして、シャベルでその生白い肥った指をばらばらにしてやりたくて堪らなくなった。そこで眼をつぶって力一ぱいに打ち下したが、外れてしまった。それから出て行った。森、野原の静寂、雨。温かい場所が恋しくなって、叔母さんの家へ行った。叔母さんは輪形パンでお茶を御馳走して呉れた。すると、アナーキズムは消えてしまった。……話が済んだとき、卓子の傍を四等官のLが通り過ぎる。それを見ると、A・Aは直ぐさま起ち上がる。それからLが家作持であることなどを説明する。
 ――私は仕立屋へ徒弟奉公に出されました。親方が裁って呉れたズボンを、私が縫いはじめたところが、側条《わきすじ》が曲がっちまって、それこんな工合に膝のところへ出てしまいました。そこで指物師の所へ奉公にやられました。或るとき鉋を使っていると、手が滑った拍子に鉋が窓へ飛んで、硝子が割れました。――その地主はレット人で、栓抜き《シトーボル》という名でした。今にもめくばせをして、「ええおい、一杯やりてえなあ!」とでも言い出しそうな顔つきをしていました。毎晩一人で飲んでいましたっけが、それが癪に障って来ました。

 クヴァス販売商が、王冠印のレッテルを貼っている。Xはそれを見て、癪で業腹でならない。商人の分際で王冠を簒奪しやがってと思うと、居ても立っても居られない。Xは法廷へ訴え出たり、誰かれ問わずつき纏ったり、返報の手段をさがしたりしているうちに、心痛と過労がもとで死ぬ。

 家庭教師をこう言ってからかう、「マダム・手真似《テマネ》」。

 Shapcherygin《シャエプチェルギン》,Tsambizebuljskij《ツァムビゼぶりスキー》,Svinchutka《スヴィンチュトカ》,Chemouraklia《チェモウラクリア》.

 老年の尊大さ、老年の厭人主義。軽蔑されている老人を私は何人見て来たことだろう!

 晴れ渡った厳寒の日に、卸したての橇に敷物を掛けて届けて来るのは実にいい気持だ。

 XがN町に赴任して来た。彼は暴君のように振舞う。自分以外の人が成功《もて》るのを喜ばない。第三者がいると態度が変る。女の姿が見えると声の調子が変る。葡萄酒を注《つ》ぐときには、先ず瓶《びん》の頸のところを自分のコップにちょっぴり注いでから、同席の人達に注ぐ。婦人と散歩するときは腕を支える。つまり何かにつけて教養を見せようとするのである。他人の洒落には決して笑わない。――「もう一度言って見たまえ。」「その手は古いな。」人の顔さえ見ればとっつかまえて一席講話をやるので、みんなが飽々してしまった。老婦人連が「独楽」と綽名をつけた。

 立居振舞も、部屋へ這入るときの作法も、物の問い方も、何一つ知らない男。

 Utjuzhnyj《ウチュージヌイ》*氏。
*熨斗という字から作る。

 問われもせぬのにしょっちゅう先手を打つ男。――私には梅毒はありません。私は正直な男です。家内も正直な女です。

 Xは一生涯、召使の風紀頽廃や、その矯正法や抑制法のことばかり、話したり書いたりした。そして、自分の家の従僕やコック女を除いて、ほかの誰からも見棄てられて死んだ。

 小さな娘が有頂天になって自分の叔母さんのことを、――「うちの叔母さんはとても美人よ、美人よ、家《うち》の犬みたいに美人よ!」

 Maria《マリア》 Ivanovna《イヴァーノヴナ》 Kolotovkina《コロトフキナ》*.
*「攪拌棒」、或いは「やりきれぬ女」。

 恋文の一節。――「お返事の切手を同封しました。」

 優秀な人たちが農村から都会へ出てくる。だから農村は疲弊しつつあるのだし、今後も疲弊を続けるであろう。

 パーヴェルは四十年の間コックをしていた。しかも自分の作ったものは食わず嫌いで、ついぞ口に入れたことがなかった。

 保守的な人達が害毒を流すことが極めて少ないのは、彼等が臆病で、自己に確信をもっていないからである。害毒を流すのは保守主義者ではなく、心の荒んだ人達である。

 女への恋が冷める。恋から解放された感情。やすらかな気分。のびのびと安らかな想念。

 どっちか一つ。――馬車に乗っているか、それとも降りちまうか。

 戯曲のために。――自由主義の婆さんが若づくりをする、煙草をすう、話相手なしでは居られない、情深い。

 特別寝台の乗客――それは社会の屑だ。

 あそこにいるのは黒土帯人《チェルノジェム》です。つまりレーピン*の『ザポローグ人』ですね。
*ロシヤの人物画の大家。『スルタンへの国書をしたためるザポローグ人』はその傑作の一つ。

 奥さんの胸に、肥ったドイツ人の肖像がぶら下っている。

 一生涯、選挙のたびに左派に投票した男。

 死人の着物を脱がせた。けれど手袋を脱がせるひまがなかった。手袋をした屍体。

 地主が食事をしながら自慢する、「田舎は暮らしが安いですよ。――鶏も自分のだし、豚も自分のだし。――暮らしが安いですよ!」

 税関吏が職務を愛するのあまり、政治上の不穏文書を捜して、旅客の持物を残る隈なく検査する。これには憲兵までが憤慨してしまう。

 真の男性(muzhchina《ムシチーナ》)は、夫(muzh《ムーシ》)と官等(chin《チン》)とより成る。

 教育。――「よく嚼《か》むんだよ」とお父さんが言う。そこでよく嚼んで、毎日二時間ずつ散歩をして、冷水浴をした。だがやっぱり不仕合わせな無能な人間が出来あがった。

 商工業的医学。

 四十歳のNが十七になる少女と結婚した。第一夜、彼は彼女を炭坑町へ連れて帰った。彼女は床にはいると、彼を愛していないと言って急に泣き出した。善人のNは狼狽して、悲哀に胸をつまらせて、書斎へ寝に行く。

 むかし荘園のあった場所には、その跡形も残っていない。ただ一つ紫丁香花《ライラック》の叢だけは、そっくり残っているけれど、どうしたわけか花が咲かない。

息子 今日は木曜でしたね。
 (聞き取れずに)え?
息子 (怒って)木曜ですよ!(静かに)お風呂にはいらなくちゃ。
 え?
息子 (ぷりぷりして、憤然と)お風呂ですよ!

読書ざんまいよせい(028)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(008)

 妻が咽び泣いた。夫が肩をつかんで揺すぶると、彼女は泣きやんだ。

 結婚すると、彼には政治も文学も社会も、一切が今までほど面白く思えなくなった。その代り、妻や赤ん坊に関するあらゆる些事が、非常に重大なものになって来た。

「なぜお前さんの歌はそんなに短いの?」と或るとき小鳥にたずねてみた、「もしや息が続かないのじゃないの?」
「私には歌がとても沢山あるのです。それをみんな歌ってしまいたいので。」
――アルフォンス・ドーデ

 犬が教師を憎む。彼に吠えついてはいけないと言われたのだ。犬は見上げて、吠えずに口惜し涙を流す。

 信仰は精神のはたらきだ。動物には信仰はない。野蛮人や未開人にあるものは、恐怖と疑惑である。信仰に達し得るのは高尚な組織体だけだ。

 死は怖ろしい。だが、永劫に生きて決して死ぬことがないと意識したら、もっと怖ろしいことだろう。

 公衆が芸術に於いて愛するのは、何よりも先ず俗なもの、とうに彼らが知っているもの、慣れているものである。

 リベラルで、教育もあり、年も若いが、そのくせ吝嗇な学校の主事。毎日学校へやって来て、長広舌をふるうが、お金と来たらびた一文も出さない。学校はぐらぐらで今にも倒れそうだ。しかも彼は、自分が必要且つ有用な人物だと心から思い込んでいる。教師は彼を憎んでいるが、当人はそれに気がつかない。害毒は実に甚だしい。或る日教師は堪忍袋の緒が切れて、怨恨と嫌悪に燃える眼で睨みつけながら、思いきり悪罵を浴びせかける。

 教師曰く、「プーシキンの百年祭をする必要はないです。彼は教会に何の貢献もしませんでした。」

 Guitarova《ギターロヴア》嬢(女優)。

 オプチミストになって人生を知得したいなら、他人の言うこと書くことを信ずるをやめよ。自ら観照し、自ら究め探れ。

 ある夫婦が生涯X(イクス)の説を熱心に信奉して、公式のようにそれに則って自分の生活を築いた。そして死ぬ間際になって、はじめて自分の胸に問うてみた――「ひょっとしたらあの説は間違っていはしなかったかしら?Mens sana in corp oresano(身健則心明)という諺は、嘘っぱちじゃなかったかしら?」

 私の嫌いなもの――陽気なユダヤ人、急進論者のウクライナ人、酔いどれたドイツ人。

 大学はあらゆる才幹を養成する。但し鈍才をも含む。

 これに鑑みまして、足下*よ。事情みぎの如くでありますので、足下よ。……
*原文にはMy dear Sirをmydeasrとでも略したほどの可笑味がある。

 最もやりきれない人種は、田舎の名士なり。

 われらの不真面目なる性情により、われらの大多数が人生現象を洞見し熟考する能力と習慣を欠くことにより、「ちぇっ、下らない!」との言の頻繁に発せらるることわが国の如きを見ず。かくも安易に、屡〻嘲笑を以て、他人の功績乃至は真摯なる問題に対すること、わが国の如きを見ず。また一面、権威の名の重んぜらるること、幾世紀にわたる奴隷の境涯によって卑屈となり自由を怖るる、われらロシヤ人に於けるが如きを見ず。……

 医者が商人(それも教育のある――)に、肉汁とチキンを勧めた。商人はてんから茶化してかかった。先ず昼飯に野菜スープと仔豚を食べて、それから医者の命令を思い出しでもしたように肉汁とチキンを命じ、これもぺろりと平らげた。とても滑稽だと思いながら。

 修道司祭《イエロモナフ》のエパミノンド神父は、魚を釣ってポケットに入れて置く。家に帰って食べたくなると、一尾ずつポケットから出して揚げる。

 貴族Xは、家具も備品も一切つけて領地をNに売って置きながら、何から何まで竈の風戸《かぜど》まで浚って行ってしまった。それ以来Nは、貴族と名のつくものは一切嫌いになった。

 金持のインテリXは農民の出だったが、手を合わさんばかりに息子に頼んで曰く、「ミーシャ、自分の身分を変えるなよ! 死ぬまで百姓でいるがいい。貴族にも商人にも町人にもなるなよ。今じゃ郡会の役人に百姓を処罰する権利が出来たという話だが、そんならそれで勝手に権能を持たせて処罰させて置け。」彼は百姓の身分を誇りにして、尊大でさえあった。

 ある謙遜な男のために祝賀の催しがあった。一同はいい機会とばかり、てんでに自己誇示やお互い同志の褒めっくらで時を忘れた。食事も終ろうという頃になってやっと気がついてみると――当の御本尊を招ぶのを忘れていた。

 可愛らしい物静かな奥さんが、激怒のあまりこんなことを言った。――「もし私が男だったら、あいつの横面を張り倒してやるんですのに!」

 回教徒は魂の救いのために井戸を掘る。私達も銘々に、生涯が跡形もなく永劫の中へ過ぎ行かぬため、学校か井戸か、何かそんなものを遺すことにしたらさぞいいだろう。

 われわれは卑屈と偽善とでへとへとになっている。

 犬に着物を食い破られたことのあるNは、今でも何処かへ這入るたびにこう訊く、――「ここには犬はいませんか?」

 Peter《ピョートル》 Demianych《デミヤーノウッチ》 Istochnikov《イストーニチコフ》.*
*源泉または名人の意。

 Grush《グルーシ》氏、Polkatytskij《ポルカトイツキイ》*氏。
*「梨」カトイク(有名な煙草製造者の名)の半分の意。

 男妾を職業とする若い男が、精力を保つため大蒜《にんにく》ソースを常用する。

 学校の主事。鰥夫《やもめ》ぐらしの司祭が、手風琴を鳴らしながら、『聖者には霊の安息《いこい》!』を歌う。

 のばしちゃうぞ*!
*「のしちゃうぞ!」の言い違いほどの可笑味。

 七月には高麗鶯が朝いっぱい歌う。

「Sigov《シゴーフ》(鮭)豊富に取揃え」――毎日街を通るたびにXはそう読んで、一たい鮭だけで店が立ち行くものか、誰が鮭を買うのかといつも不思議に思っていた。三十年たってからやっと、気をつけて正しく読んだ、「Sigar《シガール》(葉巻)豊富に取揃え。」

 技師の眼にうつる賄賂。――百円札の一ぱい詰ったダイナマイトの筒。

「あたくし、スペンサーを読んだことがありませんのよ。どんな事を書いているのか話して下さいな。一たい何に就いて書いていますの?」「あたくし、巴里の展覧会に壁間画《パノオ》を出品しようと思いますの。題材を下さらない?」(うるさい奥さん。)

 労働をしない人々、つまりいわゆる支配階級は、長いあいだ戦争なしでは居られない。戦争がないと彼等は退屈になる、安逸に倦んでいらいらして来る。何のために生きているのか分らなくなり、共喰いをしたり、せいぜい不愉快な悪口を、なるべく後の祟りのないような言い方で浴びせ合うのに懸命だ。なかで最も優秀な分子は、お互い同士にも自分自身にも飽きが来ないように、精根をつくすのである。ところが戦争が始まると、みんな吾を忘れて熱狂して、共通の不幸によって一致団結する。

 不貞をはたらいた妻は、大きな冷えたカツレツだ。誰かほかの人の手に握られたに違いないので、触《さわ》る気がしない。

 ある老嬢が、『敬虔の電車*』という論文を書く。
*古臭い敬虔と近代的な電車の対照から来る可笑味。

 Rytseborskij《ルイツエボルスキー》,Tovbich《トヴビチ》,Gremuhin《グレムーヒン》,Koptin《コプチン》*.
*「騎士の格闘」「乞食の負袋」「轟く」「煤ける」。

 彼女の顔には皮膚が足りなかった。眼をあくには口を閉じなければならぬ。及びその逆。

 彼女がスカートをもち上げて、しゃれたペチコートを見せると、男に見られつけている女のような身装《みなり》をしていることがわかる。

 Xが理窟をこねる。――「たとえば鼻《ノース》という字をとって見給え。ロシヤじゃ君、この字は尾籠千万にも、謂わば不体裁な肉体の一部を意味するね。ところがフランスじゃ、婚礼という字だぜ。」そして実際、Xにあっては鼻は不体裁な肉体の一部だった。

読書ざんまいよせい(027)

◎蒼ざめたる馬(006)
ロープシン作、青野季吉訳

四月八日

 次に私が合つた時、ヴアニアは云つた。
「僕が始めてキリストを識つて、神に目醒めた時のことを話さうかね?シベリヤへ追放されてゐた時だ。或日獵に出た。オブヂ[オヸ?]流域で、川が大洋《たいやう》へ灌《そそ》ぐところは海のやうだ。天空は低く灰色で、渦卷く流れもやはり灰色だ。岸へは眼がとどかず。全く存在しないやうだ。一隻のボートは僕を小さい島へ上げた、夕方友達が迎へに來ると約束をしたんだ。僕は島を徘徊して、☓[一字不明、鴨か?]を打つた。そして、沼地で、朽ちた赤、小さい綠の丘や澤《さは》があつた。僕は岸が全く見えなくなるまで、步き續けた。僕の打つた☓[一字不明、鴨か?]がどこかに落ちたが、見つけることが出來なかつた。搜してゐる閒に夜になつて來た。だん/\暗くなつて、夜霧が川の上へは匍ひ上つた。僕は岸へ戾ることに定めて途に迷はないやうに、風の方向で確めた。が、一步踏み出すと、僕の足が地中へめり込み出した。 僕は丘の上へ足場を求めやうとしたが、駄目だ、 僕は泥沼へ落ち込んでるんだ。僕はぢわりぢわり<傍点>と沈んで行くんだ。一分閒にインチづゝ位。
「寒くなつて、雨が降り出した。片方の足を拔かうとしたが、一インチ深く更に沈むばかりだつた。もう、絕望して、銃を取上げて空中へ向つて射ち出した。誰か付けて來て、助けて吳れると思つて…
「風のヒユウ/\いふ音だけで、あたりはひつそりしてゐた。僕は膝の上まで埋れて沼地に立つてゐたんだ。僕は思つた。泥沼が僕を吸込んで仕舞つて、僕の頭の上でブクブクと泡が立つ、そして原《もと》のやうに、綠の丘より外に何にも殘らない。僕はすつかり氣落ちがして、泣き出しさうになつた。それからまた足を扱き上げやうとしたがーます/\惡くなるばかりだ。僕は氷のやうに冷くなり、白楊のやうに震えた。こんなになって僕は死ぬんだー世界の果てで……泥沼で……一定の蠅のやうには突然心が全く空虛になつたやうに感じた。何の事はない 僕は死にかゝつてるんだ。僕は血の出るまで唇を噛んだ。出來るだけ力を詰めて『片々の足を拔き上げた。 こんどは甘く行った。片々だけ自由になつたので、大きな歡びを感じた。長靴は泥沼にくつゝいて殘り、足から血が出てゐた。丘に足場を得やうとして、銃を力にして、もう片方の足を泥から拔き始めた。とう/\兩足で立上つた時に、僕は動かなかつた。また踏出すと泥沼に落込むことを怖れたんだ。僕は、 夜明けになるまで、そこで終夜立ち盡くしてゐた。その時なんだ、長い一夜の閒、泥沼の眞中にーー雨は降る、天空は暗い、風は吼えるーー立つてゐた時だ、僕の上 そして僕達の內に在ると、僕の心の深い底で識つたのは。恐怖はすつかり去って仕舞つて、僕 には歡びの外何物もなくなつた。重い/\ものが僕の心から消え去つた。翌朝、友達が來て救つて吳れた。」
「死が近づいた時、神を見る者は澤山あるよ。それをさせるのは恐怖なんさ。ヴアニア」
「恐怖だつて?そうかも知らん。が、こんな穢ない處で神が見られると思ふかい?心靈は、死が近づいて、その境界が見えた時に、高められるんだ。多くの場合、臨終に神を見るのはそれなんだ。僕もまた死が近づいた時神を見たんだ。」
「實際、君。」彼は一寸息を入れて、續けた。「實際、君ーー神を見ることほど君を幸福にすることは無いよ。知らない閒は、神は君の考へに入つて來はしないんだ。君はいろんな種類のことを考へる、然し神のことを考へない。或る人々は頭の中に超人を描いてみる。超人をして彼等は實際、哲學者の寶玉を登見し、人生の問題を解決したと思つてゐる。が、僕から見ると、彼等は みんなスメルヂヤコフみたいなものだ。彼等は、自分に最も近い者を愛すことは出來ない、その代りの最も遠い昔を愛す……·といふ。しかし、君の廻りに居る者に愛が持たれないで、どうして 君から遠い者に愛が持たれるのだ!他人の爲めに死ぬこと、君の死を彼等に與べることは容易《たやす》いことだ。が、人々のめに生きることは非常に六つかしい。 それは、一日々々、一刻々々を愛によつて生きることだ、神の愛するやうに、凡ての人閒を、凡ての生ける者を、愛することだ、自身の存在を忘れることだ。自己の爲めでなく違い者の爲めでもなく、生命を創ることだ。僕等は 慘酷になつてゐる、僕等は獸のやうだ。人閒がどんなに方々で躓いて步くか、彼等がどんなに求 めても見出すことが出來ないかを見るのは、悲しいことではないか?彼等は支那の神々を信じ、木の丸太を信じて、神を信じキリストを愛することは出來ないのだ。僕等は少年の頃からその毒で腐れてゐるのだ。ハインリヒを見ろ。彼は一つの花をた一つの花だと呼ぶことが出來ない。かやうな花冠とかやうな花辯を有つ、かやう/\な屬のかやう/\な科の花と、いつも彼は誰加へなければ氣がすまない。こういふ下らない細かいことが、彼は花そのものを見させてしもふんだ。僕等が役にも立たないつまらぬことの爲めに、神を見そこなふのもやはりそれなんだ。僕等には數學と推理しかないんだ。しかしあの夜は、泥沼の眞中の小さい丘の上で立ち盡して、 死を待つてゐた時に、その時に僕はよく解ったんだ。理性は萬能ぢやない、その上に何物かゞ在るが、僕は目隱しをしてゐるから、見ることが出來んのだ、知ることが出來んのだと。 何故 笑ふのだ、チヨーヂ?」
「む、一人前なことを云ふね。」
「そんなことはどうでもよい。どうだ、人は愛なくして生きることが出來るか?」
「勿論、出來るさ。」
「どうしてだ?どうして出來るんだ?」
「全世界に唾を吐きかけりやいゝんだ。」
「チョーヂ、そりあ眞面目に言つてんぢやなからうね?」
「眞面目だよ。」
「あゝ、ヂヨーヂ!」

四月十日

 私は今日知事を見た。彼は背の高い、細かく刈込んだ口髥のある、寧ろ容貌いゝの老人で、眼鏡をかけてゐる。 廣場は昨日まで一面雪覆はてゐたが、湿つた舗石道を顕はしてゐた。氷は消え去つて、川は日射にキラ/\と輝いてゐた。雀が囀つてゐた。
 一臺の馬車がその家の玄關に止つた。私はすぐそれと分つたーー黑い馬、黃い輪止め。私は廣場を橫切つて、家の方へ行つた。私が近いた時に、扉が一杯に開かれて、見張りの巡査が挨拶をした。知事は靜かに階段を下りて來た。私は舖石道に根を下したやうに立つて、ちつと彼を見詰めた。彼から目を外すことさへ出來なかつた。彼は頭を上けて、私を見た。私は帽子をとつて、 丁寧に彼にお辭儀《じぎ》した。彼は微笑をうかべて、軍帽に手を舉けて私のお辭儀《じぎ》に答へた。その瞬閒、私は彼を厭に思つた。
 私は公園の方へぶら/”\步いて行つた。足に泥がくつゝいた。鴉が赤揚の閒を飛び廻つてゐた。

四月十日[ママ]

 私は暇潰《ひまつぶ》しに圖書館へ行つた。大きな靜かな室の中の讀書家の多くは、髥を生した大學生や、 髮を短く剪つた女大學生であつた。顏を綺麗に剃つて高いカラーをしてゐる私は、彼等とはひどくかけ離れてゐた。非常な興味を以つて古典を讀んだ。古代の人々は實際良心などを持つてはゐなかつた、彼等は心理を求めはしなかつた。彼等はたゞ生きただけだーー草が生え、鳥が歌ふと同じに。聖《きよら》かな單純ーーそれが、生活を受入れ、それに叛逆《はんぎやく》しない唯一の道ではないか?彼等は彼等を護つてくれるやうに神に願ひ、……神は彼等を護つた。ウリスは彼等の財產を掠奪する者との戰ひに、彼等を護つてくれるバラスの女神を有つてゐた。
 私を見捨てないやうに、どんなに私は禱つたらいゝか?私は誰に助力と保護とを訴へたらいゝか?私は獨りだ。しかし誰も私を護ってくれる者のない以上、私は自分で護らなければならな い。神を有たない以上、私が私自身の神とならなければならないのだ。
 ヴアニアが私に言ったことは何であったか?すべての事が赦されると考へることは、スメルヂヤコフへ導く。……しかしスメルヂヤコフは他のすべての者より惡い者では無い。

編者注】ワーニャ(当訳本ではヴアニア)は、カミュ「正義の人々」でのセルゲイ大公暗殺の実行者カリャエフとされている。画像は「正義の人々」本邦初演のポスター。

読書ざんまいよせい(026)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」

 私の父母は彼等の過勞な生活を、時に多少不和ではあつたが、槪して甚だ幸福に送つた。私の母は百姓を手の荒れてゐる故を以つて、見下げるやうな都會人の家から來てゐたのであつた。然し私の父は、若い時には男らしい、精力的な顏をした立派な人であつた。彼は後年彼をしてヤノウカを買收し得せしめたのと同じ手段で、二人が一緖になることに成功したのだ。都會から伴れて來られて、寂しい草土地方の眞中へ投出されたこの若い婦人は、最初彼女自身を農場生活の苛酷な狀態に適應させることの困難なのを發見した。然し遂に彼女は自らを完全に適應させることに成功した。そして一度その中に這入るや、彼女は四十五年の閒、遂にその仕事を放棄しなかつたのである。この結婚によつて生れた八人の子供の中四人が生き殘つた。私は出生順に云へば五番目である。四人の子供は幼いうちにヂフテリアと猩紅熱とで死んだ。死は生殘てゐる者の生と同じに、構ひつけられなかつた。土地、家畜、家鷄、製粉所等、私の兩親の時代に作つたものは、今では何一つ私達に殘つてはゐなかつた。農繁期は隔年に成功した。そして農場勞働の餘波は、家庭內の親和を一掃した。私達の家では殊に最初の頃は|やさしさ<傍点>と云ふものが皆無であつた。然し私の父と母との閒には强固な同志意識が存在した。
 父は、母が製粉所の埃で眞白になつて閾を跨ぐと、すぐ叫んだ。『お母さんに椅子を持つて行くんだよ。』
『マアシャ、早くサモワルをお焚き。』と母はまだ家に着かないうちに云ひつけた。『お前の御主人は間もなく野良から歸つて來るのぢやないか。』二人とも、肉體の疲勞が極限に達すると、その結果がどうなるかを知つてゐたのである。
 父は知識に於ても人物に於ても明かに母に勝つてゐた。彼は思慮深く、控へめで如才なかつた。彼は物事に對しても人間に對しても、竝々ならぬいゝ眼をもつてゐた。私の父母は、特に私達の幼少時代には餘り買物をしなかつた。彼等は二人とも、如何にしてー錢づゝを貯蓄すべきかを知つてゐたのだ。父は、彼の圍つた反物、帽子、靴、馬又は機械に決して失敗したことがなくいつも金目を生かした。『俺は金が嫌いだ』と彼は嘗てずつと後になつて、金が欲しさうに見えることを辯解するやうに私に話したことがある『然し一文もない時には多少好きさ、金が必要なのにないと云ふことは惡いことさ。』彼はウクライナ語の勝つたロシア語とウクライナ語の混合した無茶苦茶な言葉を使つた。彼は人々をその動作や、顏付きや、習慣で判斷した。それでいつも正確に判斷してゐた。
『私は、あんた方くらゐの學生さんは嫌ひだよ。』父は.時々私達の御客さんに向つて、かう云ふことがあつた。『白狀しなさい、あんた方自身でも、そんな學生が馬鹿だつてことを考へませんか?』私達は私達の友人のために氣を惡くした。だが胸の中では父の方が正しいことを知つてゐた。父は一度人の家を訪問すると、速座にその家庭の現狀を正確に云ひ當てた。
 母は澤山の子供を產み、過度の勞働をしたので病氣になつて、カルコフまで醫者の診察を受けに行つたことがあつた。さうした旅行は大事件だつたので、そのために色々な支度が調へられた。母はお錢や、バターの壺や、美味いビスケットの罐や、鷄のフライや等々を與へられて段々良くなつて行つた。が彼女の前途には澤山の支出が必要だつた。ー囘の診察に三ルウブルかゝつた。私の兩親は、科學の恩惠に對する彼等の尊敬を、彼等が餘りに高い金を拂ひ過ぎた後悔を、また彼等にとつては聽いたこともない額の金を支拂ふことの出來た彼等の誇りを、手眞似や表情をもつて、お互ひにもお客にも話して聽かせた。私達は母の歸りを首を長くして待つた。母はヤノウカの私の家の食堂では、信じられないやうな立派に見える新しい着物を着て歸つて來た。
 私達がまだ幼かつた頃、父は母よりも私達に物靜かで溫厚であつた。母は時々何んの理由もないのに私達に腹を立てゝ、彼女の疲勞や煩悶を何にか家內の過失にことよせた。私達はいつも父に庇護を求める方が母に求めるよりも有利であることを發見した。然し年を經るに從つて父は嚴格になつて行つた。この原因は、彼の生活の困難、彼の仕事が增へたゝめの心配、殊に『八十年代』の農業不況時代から來た事情と、彼の子供達によつて與へられた失望とにあつたのだ。
 母は、ヤノウカが草土地方の凡ゆる隅々から吹きよせて來る吹雪に蔽はれ、雪が窓の高さにまで積る頃の永い冬の閒を、讀書をすることが好きであつた。母は彼女の足を前の椅子に乘つけて、食堂の三角椅子に坐つてゐるか、或ひは日脚の早い冬の薄明りが落ちかゝつた時には、彼女は小さな凍つた窓の側にある父の肘掛椅子に移つて、ボブリネツツの圖書館から持つて來た古い小說を、勞働に荒れた指で辿りながら音讀した。彼女は特に長い文章に行き當ると、行き詰つて口籠つた。時には子供の中の誰かの說明で、彼女は、彼女の讀んでゐた小說について、全く新しい光が與へられることがあつた。然し彼女は忍耐强く、倦むことを知らずに讀書を續けた。そして靜かな冬の日に、私達は、彼女の單調なひそ/\ 聲を、向ふの廣閒から聞いたものだつた。
 父は私の著書の表題の字だけでも讀めるやうになりたいと云ふので、可成りの老人にかゝはらず、單語の綴りを勉强してゐた。私は一九一〇年に女をつれてベルリンへ勇んで行つたが、その時父は私の獨逸社會民主々義に關する著書を忍耐强く理解しようと試みてゐる。十月革命は私の父を非常に幸運な人として發見した。母はー九一〇年に死んだが、父はソヴイエツ卜の支配を見るまで生きてゐたのだ。南部地方では特種の憤激をもつてかき亂され、政府の連續的變更が行はれた內亂の絕頂に當つて、七十歲になつた老人が、オデツサに避難所を求めるべく、數百哩を步かされたのである。赤軍は彼が金持ちであると云ふので迫害したし、白軍は彼が私の父であると云ふので虐待した。南部地方がソヴイエツトの軍隊によつて、白軍から奪還された後で、彼はモスコウへ歸ることが出來た。彼は革命で彼の全財產を失つた。一年以上もの間、彼はモスコウ附近の小さな國立製粉所に働いてゐた。當時食物代表委員であつたチユヴルパは、彼と胸襟を開いて農業上の問題を語り合ふことを樂しみにしてゐた。父は一九二ニ年の春、恰度私が第四囘コムミユニスト・インタナシヨナル會議で、私の報吿書を朗讀してゐた恰度その時に、チブスで死んでしまつた。

 ヤノウカに於て非常に大切な實際上最も肝要な場所は、イヷン・ワシリエヴヰツチ・グリエーベンの働いてゐた鍛冶場であつた。彼はそこへ二十歲の時、恰度私が生れた年に來たのであつた。私達は彼に丁寧に『あなた』と云つてゐたにも拘らず、彼は凡ての子供に、可成り大きい子供にまで 『お前』と云つて話しかけた。彼が從軍のための屆出をする時には、私の父は彼と一緖に行つた。彼等は誰だかに贈賄して、グリエーベンはヤノウカに止つた。このイヷン・ワシリエヴヰツチは立派な男で、才能もあつた。彼は赤黑い口髭を生やし、頤鬚をフランス風に刈つてゐた。彼の技術上の知識は該博であつた。彼はエンヂンを造り變へ、ボイラーを修繕し、木や金のボールを作り、眞鍮の軸承を鑄造し、馬車をこしらへ、時計を繕ひ、ピアノを調節し、家具を造り付け、タイヤのない自轉車を造ることが出來た。私が初等科と第一級との閒にゐた年に、自轉車に乘ることを覺えたのは、彼の造つた自轉車によつてゞあつた。近鄰の獨逸の移住者達は、彼のところへ播種機や結束機を修膳しに持つて來た。また脫穀機や蒸汽エンヂンを買ひに伴れて行くために、彼を招待した。人々は父には農業に關する助言を求めに、イヷン・ワシリエヴヰツチの所へは機械についての相談をしにやつて來た。機械場には助手と弟子とが雇ひ込まれた。種々な意味で私はその弟子の生徒であつた。或時私は螺旋止めの溝を切ることを許されて、機械場で螺旋廻《ねじまは》しを廻したことがあつた。私はかうした仕事は直ちにその直接の結果が解るので好きだつた。私は或時塗料の原料を圓い滑つこい石の上で挽かうとしたが、すぐ疲れてしまつた。そして再三再四もうお終ひに近いかどうかを訊ねた。イヷン・ワシリエヴヰツチは指で混合物を攪廻しながら頭を振つた、そこで私はその石を弟子の一人に渡してしまつた。
 イヷン・ワシリエヴヰツチは、時々、仕事椅子の背後の隅にある箱の上に、道具をもつたまゝ坐つてゐた。彼は煙草を啣へて遠くを眺めながら、大分何かを考へてゐるか、何事かを思ひ出さうとしてゐるか、或ひは單に何事も考へないで休んでゐるかした。そんな時に私も彼の側に坐つて、彼の深い赤鳶色のロ髭を私の指に卷いたり、職人として失敗する事のない彼の手を檢査したりした。彼の皮膚は臼石《うすいし》を刻む時に出來た小さな黑子《ほくろ》でいつばいだつた。彼の指は木の根のやうにがつしりしてゐたが固くはなかつた。そしてそれらは先が廣がつてゐたが、非常にしなやかで、彼の拇指はアーチ型をなして後ろへそり返つてゐた。指は一本々々意識的で自由に動いた。然しそれが一緖になつて效果的な勞働同盟を形造つてゐた。私はまだ非常に幼なかつたのだけれども、旣にその手は他の手のやうにハンマーやペンチを持つた手でないことを感じた。深い疵痕が彼の左手の拇指に丸くついてゐた。イヷン・ワシリエヴヰツチは、私の誕生日に、手斧で殆どそれを切落したのであつた。それは殆ど皮一枚になつてぶら下つた。その時父はたま/\若い技手が彼の手を枝の上に載せて、彼の拇指全體を切斷しようとしてゐるところを見付けた。『待つた待つた』と父が叫んだ。『君の指はまた伸びるよ』『あなたは、これがまた伸びると思ひますか?』G技手はさう云ひながら、手斧を側へ置いたのであつた。その後拇指は伸びて、他の指のやうにぐんと後ろへそり返らないだけで再びよく動いてゐた。
 一度イヷン・ワシリエヴヰツチは、古いベルダン銃で、短距離銃を造つて、彼の射手として手練を試みた。皆が交互に、數步離れた所から引金を引いて蠟燭を消すことを試みた。誰も成功した者はなかつた。父が恰度通りかゝつた。そして鐵砲を肩に當てた時に、彼の手は震へて銃が安定しなかつた然し彼は最初のー發で蠟燭を消した。彼は何事に對してもいゝ眼をもつてゐた、そしてイヷン・ワシリエヴヰツチはそれを知つてゐた。父は他の勞働者を叱つたり、その仕事の失敗を見つけたりしたが二人の間では決して爭ふことはなかつた。
 鍛冶場の中では私は決して退屈しなかつた。私はよくイヷン・ワシリエヴヰツチが彼の設計によつて造つた送風機のハンドルを引張つた。通風機は屋根裏の中に消えた。これは見る人をみんなー驚させた。私はよく旋盤を息の切れるまで廻したものだ、特にアカシヤの木のクロツケツト・ボールを造る時には。鍛冶場で行はれる會話は、何よりも面白いやうに思はれた。禮儀作法が必ずしもこの場所を支配しはしなかつた——と云ふよりはむしろ、決して支配しなかつたと云つた方がいゝだらう。私の見界はそこで一刻每に擴大されて行つた。フォマは彼が働いてゐた領地のことについて、それからそこの紳士や淑女の冒險について話しをした。私は、彼が彼等はたいして甚しくは阿諂的でなかつたことを云はねばならない。粉屋のフィリップはこの話に續いて軍隊生活の話をした。イヷン・ワシリエヴヰツチは、質問をしたり、他の者を制したり、彼等の話を輔足したりした。
 火夫のヤーシユ力は三十歲位の無愛想な赤毛の男で、彼はどんな仕事も永くは績かなかつた。何にかゞよく彼の身の上に起つた。彼は春か秋かにゐなくなつて、六ヶ月すると歸つて來た。彼は度々酒を飮まないで、時を定めて飮んだ。彼は我無しやらに獵が好きだつたが、それにも拘らず酒を飮むために銃を賣つてしまつた。フオマはヤーシユ力がどんなにして、裸足でボブリネツツの店屋へ這入つて來たかを話した。彼の足は黑い泥で塗りつぶされてゐた、そして彼は電管の箱があるかと訊ねた。彼はわざと電管を床の上に滑り落して、身を屈めてそれを拾つた。さうしながら彼は彼の泥足で幾つかの電管を踏みつけ,それをつけたまゝ出て行つた。
『フォマは嘘をついてるんだらう?』とイヷン・ワシリエヴヰツチが質ねた。
『何故彼が噓をついてると思ふんだね?』とヤーシュカが云つた。『私はそれを買ふ金を一文も持つてゐなかつたんだもの。』
 私はこれは何にか欲しいものを得るには誠にいゝ方法で、皆が眞似する價値があると思つた。
『わたし達のイグネートが來ましたよ。』と女中のマシユカが敎へに來た。『でもダン力はゐないわ、あの人はお休みで歸つたの』
 私達は火夫のイグネートを、タラスが來る前からの古くからゐるせむしのイグネ—卜と區別するために『私達の』イグネートと呼んでゐた。『私達の』イグネートは軍隊に選拔せられて行つてゐたので――イヷン・ワシリエヴヰッチ自身が彼の胸を計つて云つた。『軍隊は彼を役に立つたとは考へないだらう』と。檢査局は試しにイグネートを一ヶ月の間病院へ入れた。彼はそこで都會の勞働者と知合ひになつて、彼の運命を、工場で試して見る決心をしたのであつた。歸つて來た時、彼は都會型の長靴を穿き、前を色絲で刺繍した羊皮の上衣を着てゐた。イグネートは鍛治場へ歸つてからは、町の事や、仕事の事や、その狀態や、機械の事や、そこで得た賃銀の事を語りながら、一日中を過してゐた。
『勿論、そりあ工場さ。』フオマが考へ深さうに始めた。
『工場は鍛冶場とは異ふんだよ。』とフイリツプは親察した。そして彼等は誰も彼も、恰かも鍛冶場の向ふ側をを見やるかのやうに考へ深く見えた。
『町には機械が澤山あるな?』とヴイクトールが熱心に訊ねた。
『機械の森さ。』
 私は身體中を耳にして聽いた。そして森の中の樹木のやうにいつぱい機械のある工場を心の中に描いて見た。機械が右にも左にも、前にも背後にも在り、何處もかもが機械だ。そして私の想像したその中に、イグネートがすつかりとした皮のベルトを腰に卷いて立つてゐる。イグネートはまた時計を買つて持つてゐたがそれは手から手へと移された。夕方イグネートは支配人をつれて父と庭を行つたり來たりしてゐた。私もまた、或時は父の側を、或時はイグネートの側を走りながらついてゐた。
『ぢやお前はどうして生活すると云ふのだ?』と父が質ねた。『お前は自分のパンや乳を買ふと云ふのか、そして室を借りるのか?』
『確かにあなたがすつかり何にも彼にも支拂つてくれなけりあなりませんな。だが賃銀は此處とは同じぢやありませんぜ。』とイグネートが同意した。
『同じでないのは知つてゐる、だが、それはみんな食費になつてしまふさ。』
『いや。』と彼は强く答へた。『私は六ヶ月の閒に二三枚の着物と時計を買ふだけの金を蓄めましたよ。そらポケットの中にありますよ。』そして彼は再び時計を引張り出した。議論には答へられなくなつて、父は何にも云はなかつた。が、また彼は訊ねた。
『お前は酒を飮んだつたかね?イグネート、何しろお前の周圍にそんなに色々の先生がゐるのぢや、それを覺えるのも難かしくはないだらう!』
『何故です、私はウオツカのことを考へたことさへありませんよ。』
『ではお前はダン力をつれて行くつもりなのかい?イグネート。』と母が訊ねた。
 イグネートは、多少圖を當てられたやうに、笑つて答へなかつた。
『おゝ解つた、解つた。ぢやお前はもう町の牝犬を見つけてゐるんだね、白狀おし、このならず者!』と母は云つた。
 かうしてイグネートは、再びヤノウカから出て行つてしまつた。
 私達子供は、召使の部屋に這入つて行くことを禁じられた。然し私逹のさうするのを誰が防害することが出來るものか。そこにはいつも澤山の珍らしいことがあつた。私建の料理人は永い間頰骨の高い鼻のペやちんこな女であつた。年寄りで、顏の片側を麻痺させてゐた彼女の夫は、私逹の家の羊飼ひであつた。彼等は內地の或州から來たものだから、私達は彼等を『モスコウ者』と呼んでゐた。この夫婦は綠色の眼と、ブロンドの髮をもつた美しい少女をつれてゐた。彼女は、兩親が絕えず喧嘩をするのを見てゐた。
 日曜日には少女達がよく少年の髮の中や、彼女逹自身の髮の中の虱を退治してゐた。召使部屋の麥藁の束の上で、大タチヤナと小タチヤナの二人のタチヤナが、竝んで轉つてゐた。支配人のプツドの息子であり、コツクのパラス力の兄弟であるアフアナシイは、この二人の閒に、足を小タチヤナの上に投出し、大タチヤナによりそつて、坐つてゐた。
『何んてモハメツト信者だらう、お前さんは!もう馬に水をやる時閒ぢやないか。』と若い支配人が嫉しさうに叫んだ。
 この赤毛のアフアナシイと、髮の毛の黑いムツゾークは、私の迫害者であつた。もし私が、恰度むし菓子だとか雜炊を配つてゐる所へ這入つて行くと、おいでリヨヴア、私達と一緖に喰べようよ!』とか『何故お前さんはお母さんに云つて鷄肉を一片貰つてくれないのだい、リヨヴア。』などゝ笑ひながら叫んだ。私はすつかり困つて默つて出て行つた。復活祭には、母は勞働者達のために菓子を燒き、色卵を造るのが習慣だつた。ライサ叔母さんは仲々藝術家で、卵に色を着けた。或時、彼女はグロモクレーから數個の美しく色彩つた卵を持つて來て、私に二個くれた。私達は穴藏の背後の滑り臺で卵を轉がして、どれが一番强いかを檢査するのが常であつた。或時私は最後に殘されて、アフアナシイと私が殘つてゐたきりだつた。
『これ綺曜だらう。』と私は自分の色卵を見せながら訊ねた。
『あゝ隨分綺麗ですね。』とアフアナシイは、 氣のない樣子で答へた。
『どれが一番强いか。私に試めさせて下さいね。』
私は別にその要求を拒まなかつた。アフアナシイは私の卵を敲いて、その先を割つた。
『ぢやこれは私のだよ!今度はも一つのを試させて下さい。』とアフアナシイか云つた。& 私は從順に、も一つの色卵を出した。
アフアナシイはそれも敲いた。
『これも私のですよ!』
アフアナシイは事務的に二つの卵を取上げて、振返りもしないで行つてしまつた。私は彼が行つてしまふのを、驚いて見守つてゐた。そして泣出しさうになつた。だがどうしょうもなかつた。
 こゝには極く少數の、一年中領地で働いてゐる永久的勞働者がゐた。彼等の多くは――大收穫の年には領地に數百人も彼等がゐた――ホンの一時的に、十月の初めまで雇れた者で、キエフやチエルニゴウフやポルトヴから來た者の集りであつた。豐作の年には、ケルソン縣のみでも二三十萬のかうした勞働者が必要であつた。刈取人は夏の四ヶ月の間に、四十ルウブル乃至五十ルウブルと、その他に、賄ひを得た。女は二十ルウブル乃至三十ルウブル取つた。天氣のいゝ日には、野原が彼等の家であつた。天氣の惡い日には彼等は乾草堆の下に避難した。彼等は晝食には野菜スープと雑炊を食べ、夕食には稷のスープを吸つた。彼等はちつとも肉を取らなかつた。彼等の取るものゝ凡ては野菜の脂肪であつて、それも少量であつた。この食物は時々不平の種になつた。勞働者逹は畑から出て廣場に集つた。彼等は穀物小舍の陰の所にうつ伏せになつて橫はり、胝《あかぎれ》のした、藁のくつゝいた、素足を上に揚て、振廻しながら、何事が起るかを見ようと待つてゐた。すると父は少量の酸敗した牛乳だとか、水瓜だとか、干魚の半袋を與へた。すると彼等は再び引返して、しばく歌ひながら働いた。これは凡ての農場の狀態であつたのだ。私逹は逞ましい年寄りの刈取人をもつてゐた、彼等は常にこの仕事が彼等を保證することを知つてゐて、十年の間引き績いて私の所へ働きに來た。彼等は他の者より數ルウブルも多く取り、いつもウオツカを一杯貰つて、他の者の能率の基準として置かれてあつた。そのある者は長い一隊の行列の家庭的の大將としてやつて來た。彼等はその故鄕から徒步で、.パン皮で命を繫ぎ、市場で夜をしのぎながら、一月中旅をして步いて來たのである。夏になると凡ての勞働者は鳥目の旅行病にかゝつた。彼等は薄明りの巾を手搜りで步いた。私達の所を訪問した母の甥は、それに關する論文を新聞に送つた。それが地方廳《ゼムストヴオ》の管理になつて、檢査官がヤノウカに送られた。私の父母は、彼等が非常に好きだつた、この新聞通信員のために困らされた。そして彼自身も、そんなことを始めたのを悲しんでゐた。けれども何等不愉快なことは起らなかつた。檢査官は、この病氣は食物中の脂肪の不足に原因するものであつて、勞働者達は何處でも同樣の營養狀態で、時にはもつと甚だしい所もあるから、それは凡ての地方に共通なものであと決定した。
 鍛冶場や、料理場や、後庭では、私が自分の家の中で導れた生活とは異つた、より廣い生活が私の前に展開した。生活のフイルムは果てしがなかつた。そして、私は漸くその發端に在つたのである。私が幼かつた時には、誰も私の存在に注意しなかつた。殊にイヷン・ワシリエヴヰツチと支配人とが.ゐない時には人々は自由にしやべり散らした。何故かならば、その兩人半ば支配階級に這入つてゐたからである。鍛冶場の仕事場の光や、臺所の火の側では、私は、兩親や、親戚の人々や、近鄰の人人などを、全く異つた光で眺めたことがよくある。私が幼い時に漏聞いた澤山の會話は、生きてゐる間、私の思ひ出の中に殘るであらう。その多くは、恐らく今日の社會に對する私の態度の基礎を造つたものであつたのだ。

第一章 ヤノウカ 終了

読書ざんまいよせい(024)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(007)


編者注】対ウクライナ侵略戦争の激戦地、マリウポリは、チェーホフの生誕地、タガンロフのすぐ隣地だとわかる。一刻も早く、戦争状態が止むことを切に望む。

 吃り吃り馬鹿げたことを喋る男と、毎日食卓を共にするのは堪らない。

 まるまると肥った、いかにも美味そうな女を見て。――こりゃあ女じゃない、満月だ!

 御面相から判じると、胴着の下にどうやら鰓でもついていそうな女。

 笑劇のために。――Kapiton《カピトーン》 Ivanych《イヴアーヌイチ》 Chirij《チリイ》*.
*腫物の意。

 税額査定員と内国消費税吏が、訊かれもしないのに自分の地位を弁明して言う――「面白い仕事ですよ。やることは山ほどあるし、何しろ生きた仕事ですからね。」

 彼女は二十のころZを恋していたが、二十四のときNに嫁いだ。恋愛ではなく、見込みをつけての結婚だった。つまりNを善良で聡明で考えのしっかりした男と思ったのである。N夫婦の仲は円満で、羨望の的になる。まったく彼等の生活は坦々と順調に流れて行く。彼女は満足で、恋愛の話が出ると、夫婦生活に必要なのは恋愛でも情熱でもなく、親しみなつく心だという意見をはく。ところが、不図した拍子に心の琴線が奏ではじめて、胸のなかのあらゆる思いが、春の氷のように一時にひらいた。彼女はZのことや、彼への自分の恋を思い出した。そして、自分の生活はほろびてしまった、もう取返しはつかない、自分は不仕合せな女だと、身も世もあらず思い悶えた。それもやがて忘れた。一年の後、また同じ発作に襲われる。新年を迎えて、「新しい御幸福を」と人に言われたとき、本当に新しい幸福が欲しくなった。

 Zが医者のところへ行く。医者は診察して心臓が悪いという。Zは急に生活法を一変して、強心剤《ストロファンチン》を用い、病気の話ばかりする。で、町じゅうの人が彼の心臓の悪いことを知ってしまう。かかりつけの医者たちもやはり、心臓が悪いと言う。彼は結婚もせず、素人芝居にも出ず、酒も断ち、息をころしてそっと歩く。十一年たってモスクヴァへ出て、大学の先生に見て貰う。その先生は心臓はまったく健全だという。Zは喜ぶ。が、早寝と静かな歩調に慣れてしまった今では正常の生活に戻ることは出来ない。それに病気の話をしないと今では退屈でならない。医者たちを怨むだけで、ほかにどうしようもなかった。

 女は芸術に魅せられるのではない。芸術の取巻き連の立てる騒音に魅せられるのだ。

 劇評家Nは女優Xの情人である。彼女の祝儀興行。脚本も駄作なら演技も拙劣だが、Nはいやでも褒めなければならぬ。彼は手短かに書く、「脚本も花形女優もともに大成功。委細は明日。」最後の二語を書いて彼はほっと息をついた。翌日Xのところへ行く。女は扉をあけ、キスと抱擁を許してから、意地わるな顔をしていう、「委細は明日!」

 Zがキスロヴォックか何処かの温泉場で、二十二歳の娘と一夜の縁をむすんだ。貧しい実意のある娘なので可哀相になって、約束の金のほかに二十五ルーブルを用箪笥の上に置いて、善根を施したあとのいい気持でその家を出た。そのうちにまた行って見ると、例の二十五ルーブルで買い込んだ贅沢な灰皿と毛皮帽子が目についた。娘はというと、またしても腹をすかして、こけた頬をしている。

 Nは地所を抵当に貴族銀行から四分の利息で金を借りる。その金を、やはり地所を抵当に一割二分の利息を取って貸す。

 貴族だと? やっぱり醜悪な形体と、肉体的不浄と、痰と、歯の抜けた老年と、嫌悪すべき死と――町人女も同じことさ。

 Nは記念撮影のときは必ず一同よりも前に立ち、祝辞には一ばん上に署名し、記念式ではイの一番に演説をする。「ほう、スープですな! ほう、揚菓子ですな!」と、しょっちゅう驚いてばかりいる。

 Zは来客が多いのに閉口した。そこでフランス女を傭い入れた。月給を出して、妾という触込みで住み込ませたのである。これが婦人連に衝動を与えて――誰も来なくなった。

 Zは葬儀屋の松明《たいまつ》担ぎをしている。理想主義者である。『葬儀屋で』。

 NとZとは温順しい、心の濃やかな親友同士だったが、連れだって人中へ出ると、すぐもうお互いに毒口を利きはじめる。――きまりが悪いのである。

 愚痴。――うちの息子のステパンは身体が弱いので、わざわざクリミヤの学校へ入れてやりました。するとあの子は葡萄の蔓《つる》でぶたれて、そのためお尻のへんに葡萄虫《フィロクセラ》が附きました。今じゃお医者様も手のつけようがありませんの。

 ミーチャとカーチャはお父さんから、石切場で岩山を爆発する話を聞いた。そこで怒り虫のお祖父さんを爆発して見たくなって、お父さんの書斎から火薬を一|露封度《フント》もち出した。それを壜一ぱいに詰め込んで、導火索《ひなわ》を引いて、昼寝をしているお祖父さんの肱掛椅子の下に装置した。ところが軍楽隊が通ったので、この計画は辛くも実行を妨げられた。

 眠りは玄妙不可思議なる自然の神秘にして、人間の凡ゆる力を心身ともに一新せしむ。(僧正ポルフィーリイ・ウスペンスキイ『わが生涯の書』)

 ある奥さんが、自分は人並外れた特別な体質の持主で、したがってその病気も特別なもので、とても普通の薬では間に合わないと思っている。自分の息子も世間なみの子ではないから、特別な育て方をしてやらなければならぬと思う。世間のしきたりを認めない訳ではないが、それは一般の人が守るべきもので、彼女にだけは当て嵌らないと考えている。自分だけは例外的な条件のもとに生きているからである。息子が大きくなったので、彼女は何か特別な嫁を捜してあるく。まわりの者が迷惑する。息子は出来損いだった。

 憐れむべき多難の芸術よ!「奥さん、ほら天童《ケルビム》を担いで来ましたよ!」(教会の旗*)。
*旗には天童の像がついている。それを洒落れて言った。

 自分が幽霊だと思って気が狂った人。夜更けになると歩き廻る。

 ラヴローフ型のセンチメンタルな男が、甘い感動にひたりながら、こんなことを頼む、「ブリャンスクの叔母さんに手紙をやって下さい。とても可愛い人ですよ……」

 納屋はいやな臭いがする。十年前に草刈人夫が寝泊りして以来、この臭いがついた。

 士官が診察して貰いに来る。お金が盆の上に載っている。患者がその盆から二十五ルーブル取って、それで払いをしたのを、医者は鏡の中でちゃんと見ている。

 ロシヤは官立の国だ。

 Zは陳腐なことばかり言う。「若熊のような敏捷さで。」また、「人の痛い所を。」……

 貯金局。そこに出ている役人は非常にいい男だが、貯金局を軽蔑して無用の長物だと思っている。――そのくせやっぱり勤めている。

 急進的な婦人。夜なかに十字を切る。内々《ないない》は色んな偏見で一ぱいで、人しれず迷信家である。幸福になるには夜なかに黒猫を煮るがいいと聞く。猫を盗んで、夜なかに煮ようと試みる。

 出版者の創業二十五年祝賀会。感涙、演説――「文芸基金として金十ルーブルを義捐つかまつり、その利子を貧苦に悩む作家に授与いたそうと存じます。但し授与規定の作成のため、特別委員会を指命致したく存じます。」

 彼はルパーシカ一枚で押通して、上衣を着ている人間を軽蔑した。そんな国粋主義は、ズボンで甘酒を製るのも同じだ。

 まるで患者が温浴をしたあとの牛乳で製ったようなアイスクリーム。

 見事な建築用材の森があった。林務官が任命された。――すると二年後には森はもうない。蚕の蛾が発生して。

 X曰く、「クヴァス*をやったら腹の中がコレラみたいな騒ぎを起しちまって。」
*ライ麦製の無色飲料。

 一作ずつ切り離して見ると光っているが、全体として見ると頼りない作家がある。一作一作には何の特異さもないが、全体として見ると頼もしく光っている作家もある。

 Nが女優の家の呼鈴を押す。おろおろして、動悸が打って、とうとう怖気づいて逃げだす。女中が開けて見ると誰もいない。彼はまたやって来て呼鈴を押す――が、やっぱり上り込む決心がつかない。挙句のはてに門番が出て来て彼をどやしつけた。

 おとなしい物静かな女教師が、内証で生徒をぶつ、体刑の利き目を信じていたから。

 N曰く、「犬ばかりじゃなく、馬までが吠えました。」

 Nが嫁を貰う。母親と妹は彼の妻に無数の欠点を見出して、とんだ嫁を貰ったと嘆く。三年か五年してやっと、彼女も自分たちの同類だと納得がゆく。