テキストの快楽(015)その3

◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(04) 第二幕 第三場~第四場


——————————————————————————-
リヤ王:第二幕 第三場
——————————————————————————-

第二幕

第三場 荒れた岡の一部。(前と同じ城内としてあるテキストもある。)

父の勘氣を蒙ったエドガーが出る。他國へ放浪しようとしても、警戒が嚴しいので、 餘儀なく躊躇してゐるていである。

エドガ
布令が出て手が廻ってゐるといふことを聞いたが、幸ひに樹の洞にかくれて追手をばまぬかれた。 どの港も閉され、どこ一箇所非常な警戒で以て俺を捕へようとしてゐない處はない。 のがれられるだけは命を助かるために、 貧窮がかつて人間をして獸も同樣の墮落の極に到らしめた其時の姿も 是程ではと思ふやうな最もあさましい姿をも取らうと思ふ。 顏はむさいもので塗りたて、腰には古ゲットを卷き、頭髮かみのけはもぢゃ~にもつれさせ、 赤裸々あかはだかで以て風雨雷電にも身を曝さう。さういふ先例は、此國のベドラムの乞食共だ、 彼奴等は、わめき聲をあげて、麻痺しびれて無感覺になってゐる素肌のかひなへ、針だの、 木串だの、釘だの、迷迭香まんねんかうの刺だのを突きたて、怖ろしげな樣子を見せて、 呪ったり祷ったりして、下賤の農家から、あはれな小ぽけな村から、羊小舎から、磨粉屋こなやから、 無理やりに布施を貰ふ。なさけないタリーゴッド!なさけないトム(なぞと呼んであるく)! が、まだしもあれは人だ。此エドガーは人でなしだ。

エドガー入る。

“テキストの快楽(015)その3” の続きを読む

テキストの快楽(015)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(007)


  第三節 とみなが・ちゅうき(富永仲基)

    一 彼の生涯

 ヨーロッパで近世の唯物論が盛んにおこったのは、商人階級およびこの階級のひごによる人たちの間から学問が伸び、いきいきとした思想が出はじめてからである。いわゆるブルジョアジーの擡頭からである。日本でもこれと同じことがいえるのである。商人社会がまず成立した大阪から、唯物論への道を用意した思想家が多く出たのは自然のなりゆきである。江戸時代では、皇室を尊崇する風のあつい学者が京都に、幕府の学問に忠実であろうとした学者たちが江戸に、そしてどこにも尊崇の対象や権威のありどころをもたなかった学者たちが大阪に現われたのも、また自然である。
 私たちのとみながちゅうきは大阪に生れ大阪で成長した。江戸時代の日本の学問の歴史からいって江戸時代の中ごろまででは、大阪に生れた青少年たちは、学問する便利があったはずはなかった。大阪という都会が商人社会を形成するようになったのは、だいたい元禄いごである。大阪に学問の風がおこり、就学にも便利になったのは、懐徳堂かいとくどうというひとつの学堂ができてからといってよいであろう。そのはじめは享保九年(一七二四)の頃であった。この学堂のじっさいの世話をした学者はみやけ・せきあん(三宅石庵)という朱子学の系統の人だった。もっともしかし、この学堂は朱子学だけではなく、いわゆる陸王の学の系統でもあった。いずれにしても、三宅は大阪という商人社会が生み出さねばならないような思想家の性格の人ではなかった。この学堂の敷地や建物の配慮からはじめて、その創立の経営までをうけもった人が、五人ほどいた。仲基の父の芳春はそのなかのひとりであった。芳春の家は代々醤油醸造を家業としていたということであって、彼はかなりの分限者ぶげんしゃ(財産もち)であった。だから、仲基はブルジョア社会に成長したのである。でも彼の学問の出発には、父の教養はもとより石庵の学問の影響があったわけである。
 仲基の生涯はまだくわしくは知られていないが、正徳五年(一七一五年)の生れである。このことは仲基研究者たち(日本生命保険会社のあるところ)であるといわれている。幼い時の名は幾三郎、一般に通っていた名は三郎兵衛であった。芳春の三番目の子だった。
 さて、彼の生涯のことで知っておきたいのは、右の学堂での研究の模様、彼の学問の成長のありさま、家庭事情、生涯の職業、社会的活動、著述などである。ところで懐徳堂での研究の様子は殆んどわかっていない。彼が学堂に入ったのは、一七二七年頃であるが、一七三〇年(享保十五年)の頃にはもうすばらしい著述ができていたことがわかっている。というのは、その著述の名まえは『説蔽せつへい』というのであるが、この本は伝わっていないし、またその内容を誰かが書いてくれた本ものこっていないからである。しかし幸いなことに、仲基の著述で今日のこっている『翁の文』のなかにこの本の内容が推定できる箇所がある。もっともしかし『説蔽』にどんなことが主張されてあったかは、つぎの事件が物語っている。それは『説蔽』を公けにしたことが、懐徳堂の石庵の怒りに触れて、仲基は破門されたということである。それほどの事件をひきおこした彼のこの労作は、彼のとしが十六才よりものちのものではなかったのを考えると、彼の才能は驚くべきものであったとおもわれる。私の解釈では、彼は儒学思想の歴史的批判をこの『説蔽』で企てたものとおもわれる。そは前述の『翁の文』の第十一節がその手がかりになる。中国で孔子以後いくつかの学派学統が出ているが、それぞれがその時代時代に立って前行するものを批判するところに意義があるものであって、どの一派、どの一統も権威をもつ性質のものではない、という主張が『説蔽』の骨子だったらしい。このような仲基の学説は当時のいかなる儒学者からも許容されるはずはなかった。彼の学問の眼は、儒者や老荘のあらゆる学説を、イデオロギーと見てとるところまで澄んでいたのであるとせねばならない。このような見識は当時の伝統のどの学問からも流出し得ないものであって、仲基の社会的環境、その生活諸条件がもとで、彼の思索のなかで、いつか結成へとすすんだ新しい思想だとせねばならない。「蔽」を説くのではなくて、「説の蔽」を明らかにするというのが、書名のもとであったと考えられる。
 つぎに、彼の家庭事情であるが、富裕のなかで家庭の平和を享有するようには、できていなかった。この事情は彼の思想を一層せんえいにしたことであったろう。父の芳春のなくなったあとは、同じ家に住むことがたえられないまでに、家庭不和はこうじていたらしい。母とともに、同母弟妹を連れて分家し、独立した。年若い仲基は町儒者として一家を支えねばならなかったものと察しられる。それにもかかわらず、不幸にも仲基は病弱だった。社会的活動といわれ得るほどのことは、ついになかった。というのは、一七四六年(延享三年)八月に、三十二歳でなくなったからである。彼の著述であるが、それについては、つぎの(二)および(三)で述べてみたい。
“テキストの快楽(015)その2” の続きを読む

テキストの快楽(011)その3

◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(04)
第一幕 第五場~第二幕 第二場

リヤ王:第一幕 第五場
——————————————————————————-

第一幕

第五場 同じ處の前庭。

リヤとケントと阿呆と出る。

リヤ
(ケントに)其方は、此書面を持って、予に先き立ち、グロースターまで參れ。 此書中のことを問ふたならば、答へいぢゃが、其餘は其方が存じてをる何等の事をも女兒むすめには知らすまいぞ。 勉強して急いで參らんと、予のはうが先きへ往くぞ。
ケント
御書面をお渡し申しますまでは、休むこッちゃァございません。

ケント入る。

阿呆
もしか人間の腦髓が踵ンとこにあったら、あかぎれりゃァせんかい?
リヤ
れるかも知れん。
阿呆
ぢゃァ、御安心なさましだ、お前だけは緩靴を穿く必要が無いから。
リヤ
はゝゝゝゝゝ!
阿呆
今に見な、お前のもう一人の女兒むすめは、きッと親身らしくしてくれるよ。 何故なら、彼女あれ彼女あれとはだい~(苦林檎)が九年母(林檎)に似てるやうに似てるけれど、 しかしおれにゃ解ってることは解ってらァ。
リヤ
如何どういふことが解ッとるんぢゃ?
阿呆
彼女あれ彼女あれとは同じ味だよ、だい~(苦林檎)がだい~(苦林檎)に似てるやうに。 お前は知るまい、なぜ人の鼻は顏の中央まんなかにあるか?
リヤ
知らんなう。
阿呆
はッて、鼻の兩側を善う見張って、鼻で嗅ぎ出せないことは、目で以て見附ける爲だ。

末女コーディーリャの事を想起して、おのが輕擧を悔むてい

リヤ
(煩悶の思入れ)濟まんことをしたわい彼女あれには。……
阿呆
かき如何どうして貝を造るか、知ってるかいお前。
リヤ
うんにゃ、知らん。
阿呆
おれも知らん。しかしなぜ蝸牛まひ~つぶりが家を有ってるかは知ってらァ。
リヤ
なぜぢゃ?
阿呆
はッて、うぬが頭をしまっとく爲だ。 女兒むすめどもにっちまって角の容場いればをなくするためぢゃァないや。
リヤ
(煩悶して)親の情を棄てゝしまはう。これほどにしてやった父をば! ……馬の支度はどうした?
阿呆
驢馬が何疋も其支度にいってるよ。七つ星の數は、七つしか無いといふ其理由いはれが面白いや。
リヤ
八つとは無いからであらうが。
阿呆
その通り。お前は立派に阿呆になれらァ。
リヤ
(又煩悶して)是非とも取返して!おそろしい恩知らずめ!
阿呆
小父たん、お前がおれの阿呆だったら、おら撲るよ、あんまり早く齡を取ったから。
リヤ
どうして?
阿呆
聰明りこうにもならんうちに、齡を取るやるがあるもんかい!
リヤ
(又煩悶して)おゝ、天よ、氣ちがひにならせて下さるな、氣ちがひに! 正氣にしておいて下され。氣ちがひにはなりたくない、氣ちがひには!

一紳士出る。

どうぢゃ!馬の支度は出來たか?
紳士
出來ましてございます。
リヤ
さァ、來い。
阿呆
觀衆けんぶつに對って)今はしんぞで、おれの引込むのを見て笑ってゐる女子あまツこも、 さう~は處女むすめぢゃゐまいて、物がちょんぎられてしまはぬ以上は。

王を先きに一同入る。

“テキストの快楽(011)その3” の続きを読む

テキストの快楽(015)その1

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(10)


【編者より】
 底本にある岩波文庫「シベリアの旅」には、その他、短編小説「グーセフ Гусев」「女房ども Бабы」「追放されて В ссылке」が収載されていますが、青空文庫「チェーホフ」にありますので、参照してください。未完に終わった「シベリアの旅」は今回の神西清による解題で終了です。全編は、「シベリアの旅」タグで御覧ください。ご愛読に感謝します。
 全編を通じて、ふりがなは ruby タグ を、傍点は、b タグを用いました。また、より小さな活字体では、font タグを用いたところもあります。
 昭和九年という、日本が暗い世相の予兆から、それが現実になりつつあった時代でこそ書き得た、神西清の全霊を込めたというべき、名解説です。

解題

 ーハ九〇年は、チェ—ホフの作家的生涯に於て重要な轉機をなしてゐる(チェーホフ三十歲)その外向的なあらはれは、 言ふまでもなくシベリヤを橫斷してサガレンへの大族行である。本集はこの旅行から比較的直接に齎らされた藝術的所產を中心にして、當時の彼に見られる幾つかの動向を捉へようと試みた。

       

 サガレン旅行がチェーホフの藝術の進展のうへに演じた役割は、 從來稍ゝもすれば單なるー插話としてその價値が見失はれがちであつたに拘らず意外に大きく、ここに基點を置いて自覺せるチェーホフの出發を記念することは極めて妥當である。その意味は先づ、これに先立つ二三年のあひだに彼を度つた激しい危機と密接に關聯させて考へられなければならない。その危機の釀成は固より非常に複合的であるが、次の二三の事實はこれに就いて幾分の豫備知識を與へるものと思はれる。
 何よりも先づ眼につくことは、チェーホフか文筆生活の開始に當つて極めて不幸であつた事である。彼が一家の生計を支へるためにモスクヴァの滑稽新聞に寄稿し始めたのは、まだ醫科大學に在學してゐた一八八〇年のことに屬する。この卑俗なヂャーナリズムの泥沼に彼を引き入れたについては、 若年の彼が持つてゐた皮相な滑稽的天分も當然ー半の責を負ふべきであるにせよ彼カこの境地に自足してゐたと考へることもまた謬りである。この時期の彼を「陽氣で無帰気なー羽の小鳥」と見、彼のユーモア短篇に今なほ安易なー瞬の愉樂を求める人々に禍あれ。彼等はその「小鳥」の次の絕叫をも聽くべきである。
  「私は奴等の仲間にゐる。奴等と一緖に働き、握手し合つてゐる。遠目にはどうやらーかどの詐欺師に見えるさうだ。ああ腹が立つ。だが晚かれ早かれ緣切りだ。」(一八八三年)
  「もし私の裡に尊重に値する天分があろとすれば、私はこれ迄それを尊重して來なかつたことを自白します。色んな新聞を渡り步いてゐたこの五年のあひだに、私は自分の文學的『下らなさ』に對する世間の眼に泥んでしまひ、自分の仕事を卑めて見ることに慣つつこになりました。」(一ハ八六年)
 この悲慘な墮落は、それが彼の曇らぬ良心の面に歷然と意識されてゐるだけ、ー層眼をそむけさせるものがある。「私はあまり多作はしません。一週間にせいぜい短篇が二つか三つです」(八六年、 スヴォ—リン宛)と怖るべき吿白をしながら、ー八八〇年から一ハ八七年末までに彼が書きなぐつた作品の數は、 よしその大部分が主として片々たる短篇(まれに雜文)の類であるにせよ、 總數五百五十を超えてゐる。かかる沈湎の境に、 その懸命な身もがきにも拘らず長く彼を引留めてゐた一素因として、當時所謂八〇年代のロシャ社會の退嬰無比な倦怠の色が思ひ浮べられる。未曾有の反動の重壓の下、文學にも科學にも訪れるのは預気力な灰色の日々でしかなかつた。あらゆる希求も美への僮憬も悉く凋萎させずには措かぬ小市民生活の泥沼、その中にあつてチェーホフも亦、ある時期のあひだトルストイの無抵抗の敎義に取り縋つた。
 かうした環境と心境とが、 やがて人を自滅の深淵に臨ませることは必然的であろ。出口のない悲慘と墮落の自意識、濫作の末の疲勞困憊、題材の涸渴、無興味、自己嫌忌、やがて完膚ない破滅……。戯曲は『イヴァーノフ』Ivanov Иванов<ロシア語は編者追加>(一八八七年)の主人公が目らを過勞の極困憊した勞働者に譬へ、退屈な話』Skuchnaja istorija Скучная история<ロシア語は編者追加>(一ハ八九年)の老敎授が精神的虛脫者であるのに何の不思議もない。この二つの作品は、右のやうな諸要素及びその發生するあらゆる有機毒素の累積に孕まれた危機の深さを殘りなく反映しつつ、彼に於ける一時期の終結を記すものに他ならない。この意味から、先全な自傅小說と呼びうるこの二作品は、彼が進んで遂げた自滅の記念碑と解することが出來る。彼は饐えきつた自己及び環境の一切を舉げて火に投じ、その屍灰から起ち上るかも知れぬ新しい生命を見守つたのでもあらう。
  「この二年の間、別にこれと言つた理由は何もないが、私は印刷になつた自分の作品を顧る興味を失くしてしまひ、評論にも文學談にもゴシップにも、 成功にも失敗にも、髙い稿料にも無關心になりました。――つまり、私はまるつきり馬鹿になつたのてす。私の魂には一種の沈滯が生じたのです。私はこれを自分の個人生活の沈滯に歸してゐます。私は失望もしてゐないし、疲勞も沮喪もしてゐませんが、ただ突然何もかもが今までほどに面白くなくなつたのです。自分を振ひ起たせるために何とかしなけれはなりません。」(ーハ八九年五月、スヴォーリン宛)
 この何氣ない手紙の一節が、右のやうな危機の深さの端的な表白として改めて讀み直さるべき時期の來てゐることは明かである。チェーホフはー八九〇年の初め頃、たまたま試驗準備をしてゐた弟ミハイルの刑法・裁判法・監獄法などのノオト類をふと眼にして、「足下から鳥の立つやうに」サガレン族行を思ひ立つたといふ。丹念に彼の傳記を調べて見たとしても、或ひはこれがその唯一の「眼に見えた」動機であるかも知れない。そして、實はそれで十分ではないか。あらゆる抑壓の下に形體は自壊しつつ、しかも獨特の何か不可思議な生活力の烈しさによる抵抗熱が身裡に鬱積された極みにあつては、 一行の文字のふとした衝擊に逢つてすら、 忽ち瓣ははじけ飛ぶのである。

 これを機緣として、久しく彼の待ち望んだ一つの情熱が彼の裡に燃え上つた。彼は「一日ぢゆう本を讀み、抜書を作つてゐる。私の頭の中にも紙の上にも今ではサガレンしかない。憑物だ。サカレン病 Mania Sachalinosaだ」(一八九〇年二月、プレシチェーエフ宛)と言ひ、 全く憑かれた人のやうになつてサガレン島に關する文獻に沒頭した。その興味はとりわ、罪囚たちの悲惨な生活の上に凝つた。
  「私達は幾百萬の人間を牢獄に朽ちさせたのです。徒らに、分別もなく、野蠻な遣ロで朽ちさせたのです。私達はー萬露里の寒氣の中を、手械をはめた人々を驅り立て、シフィリスに感染させ堕落させ、みすみす罪囚の數を殖やしたのです。しかも、これら總ての責を、赤鼻の獄卒に轉嫁してゐるのです。」(ー八九〇年三月、スヴォーリン宛)

 然しこのやうな罪囚に封する異常な執心が、或る衝動的な性質を帶びてゐることは蔽ふべくもない。ここで圖らずも、 私達は彼の生活樣態のー特徴に思ひあたるのである。それは彼獨特の潑刺たる勤勞愛であり、苦行愛である。ではあるが彼が、「私は懶惰を軽蔑する。精神の動きの虛弱さや不活潑さを輕蔑すると同様に」といひ、「舊制度と和解せずに、たとひ愚かしからうと賢明であらうと、とにかくそれと闘つてこそ健康な靑春と呼びうる」と語るとき、 少くもその放射面が現實であり社會である限り、そこに働いてゐるのは彼自身の心性ではなく、何者かがその裡に巢喰つてゐて、時に彼の心性をしてこの叫びを上げさせてゐる樣な感想を、私達は受けるのを常とする。饑饉時や疫病時に際して彼のあらはした獻身的な努力、僻地の學校圖書館に豊かならぬ財囊を割いて圖書を寄附する彼――その眞撃さは疑ひもなく、これを見て感激せぬのは鬼畜であるかも知れないが、しかもこれらの行動は、彼の生活量の總體から考量するとき、常に何かしら間歇的であり無花果的であり、 受身的な積極性の相を帶びるのを常とする。そしてここで、 彼の良心的な感性の鋭さを考慮に入れながら、かかる衝動を喚び起す奥底の刺戟として一種の「苛責」に想到することは極めて自然である。のみならすこれに關しては、彼の書簡集から幾つかの證據を拾ひ出すことさへ可能である。日く、等閑に附して來た醫者としての務めに對する自責。日く、藝術の自由性乃至藝術上の制作の實踐的無價値に對する執拗な反省。……これらの不安は、恐らくその全生涯を通じて彼の心裡に巢喰ひつづけ、絕えず迸出の機會を窺ふ魔であつたのである。
 この地に絕えず追はれ、突き轉ばされるとき、彼が悲慘極りない孤獨者の悲劇を露呈することは何としても否定し難い。實際彼ほどに、倨傲ならぬ純粹の個性の殉敎者はあまり見當らぬであらう。この敎養深い孤獨人は、「連帶性とか何とかいふ囈語は、取り所や政治や宗敎などに就いてなら私にも分る」乃至「仲間の助けになりたいなら、先づ自分の個性と仕事を尊敬することだ」といひ、一切の共働を拒否し、階級を認めず、勞働者を知らず農民を信ぜず、 インテリを憎悪しブルジョアを蔑視した。固より、かうしたあらゆる集團的階級的なるものへの彼の拒否を取り上げて、これを指彈し非難することは今日となつては常識以外の何物でもない。その故に最早彼を棄て去ることも亦、各人の隨意である。然しながら忘れてはならぬことは、この個性の悲劇が實は彼の近代的全悲劇の中核に極めて接近してゐること、 或ひは中核そのものであることである。しかも彼にあつては、これは常に意識された悲劇であつた。(彼の親友メンシコフは興味ある插話を齎らしてゐる。チェーホフの仕事机の上には銅印が置いてあり、その銘に「孤獨者にとつて世界は沙漠だ」とあつたといふ。)
 チェーホフは絕えず土地や人的環境や風物の新鮮さを好んだ。健康が許すあひだ殆ど間斷なしに國內を旅行し、その足跡が外國へ及んだことも一再ではない。それが矢張り右に見た魔の所業であり、 それが絶えず彼の裡に「遠方の招きに牽かれる心」を、「居に安んぜぬ徒心」を搖すつてゐたことは否定すべくもないのである。そのあらはれが、假借することのない勞力と時間の浪費――つまり一種の苦行の相を呈することも屢ゝであつた。その意味から言つて、彼のシベリヤ及びサガレンの旅を、かかる苦行の相なるものと呼び得る。それは彼に餘りにも高價に値した。彼の早死の原因をなした胸の痼疾も、その源をこの辛勞多い旅に歸せられてゐる。
 右のやうに、チェーホフをこの旅行に驅リやつた衝動的素因を瞥見した上は、 更にこの衝動を强化し支持した謂はば潛在的動因に眼を轉じないでは濟まされない。實をいふと、前に見たやうに突然彼の激しい興味が向けられた對象が偶々罪囚の生活であつたといふことは、ここで更に彼の作家的內奧の動向と微妙な契合をなしてゐるのである。それは、彼の危機の深さを如實に反映する『イヴァーノフ』及び『退屈な話』などの祕かな根底をなしてゐる特徵――すなはち自他の病患、世紀末のロシヤ社會を蔽ふ怖るべき變態的事象に對する異常な凝視である。この二作あたりを轉機として、彼の作家的視線は漸く病的、變態的な方面――彼の鋭敏な感性には人一倍强く映ずるあらゆる醜惡さに注がれはじめた。作家チェーホフの內部に、かかる病患・變態によつてのみ初めて創造欲をそそられる、一種の傾向が漸く形成され、それが次第に强まりつつあつた。勿論自他の病患を正視しようとする彼の眼光は、彼が徒らな笑ひの性格を喪ふにつれ、 また久しきに亙る混濁生活の間に、徐徐に養はれ鍛へられてゐたとはいへ、この期に於て充分に鞏固であつたと言ふことは出來ない。それはまだ、何かしら潜在的何かしら無意識的な作家的本能の生成でしかなかつた。だがこの様な瞬間に、ふとした衝動によつてサガレン島がロシア的悲痛の完全な軆現者或ひば象徵として眼底に映’じたとすれば、チェ—ホフが勿心ち全身全靈を舉げて共處へ牽引されたのは極めて當然である。この場合、彼の作家的本能の趨向は、 突發的な一つの衝動が指し示した方向と完全に合致して,その衝動を支持し强化し、やがてこれに取つて代るべき役目を見事に果たしたのである。
“テキストの快楽(015)その1” の続きを読む

テキストの快楽(014)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(09)

 もし道中の景色が諸君にとってどうでもよい事でないならロシヤを出てシべリヤに旅行する人は、 ウラルから工ニセイ河までの間ずっと退屈し通すに違ひない。寒い平原、曲がりくねつ白樺、 溜り水の沼、ところどころに湖、 五月の雪、そしてオビ河の諸友流の荒涼とした淋しい岸。――これが、 最初の二干露里が記憶に殘すものの全部である。他國人に崇られ、わが國の亡命者に尊ばれ、遠からずシべリヤ詩人にとつて無盡藏の金坑ともならう自然、比類ない雄大な美しい自然は、 やつとエニセイに始まる。
 かう言ふとくヴォルガの熱心な讚美者たちに對して非禮に當るかも知れないが、私は生れて以來エニセイほど壯大な河を見たことがない。ヴォル力を小意氣で內氣て憂ひを含んだ美人に普へればエ二セイはそのカと靑春の遣り場に困つた力强獰猛な勇士であらう。人々はヴォルガに對するとき、最初は奔放に振舞ふけれど、遂には歌謠と呼はれる呻吟に終る。明るい金色の希望は、ヴォルガにあってはやがて一種の無力感に――ロシヤのペシミズムに變ずる。エニセイにあっては先づ呻吟に始まる代りに私逹が夢にも見たことのない奔放さに達する。少くとも私だけは、 宏大なエニセイの岸邉に立つて荒びた北氷洋めがけて奔る凄まじい水の疾さとカとに貪るやうに見入りながらさう考へた。エニセイにとってその兩岸は狹苦しのだ。高くない浪のうねりが互ひに追ひ合ひ、押し合ひへし合ひ、螺旋狀渦を卷く有様を見てゐると、この强力男がまだ岸を崩さず‘底を穿ち通さずにゐるのが不思議に思はれて來る。こちら岸には、シベリヤを通じて一番立派な美しい町クラスノヤ—ルスクが立ち、對岸にはさながらコーカサスを思はせて煙りわたる、夢幻的な山獄が連なる。私は佇立して心に思った――今にどんなに完全な聰明な剛毅な生活がこの兩岸を輝かすことであらうか。私はシビリャコフ*を羨んだ。私の讀んだところでは、 彼はエニセイの河口に達するため遥々ペテルブルクから汽船で北氷洋へ乘り出したのだ。私はまた、大學がクラスノヤ—ルスクではなく、卜ムスクに開かれたのを殘念に思った。さまざまな想念が湧いて來て、それが皆エニセイの河波のやうに押し合ひ縫れ合つた。そして私は幸福だった。……
 エ二セイを越えると間もなく、有名な密林帶タイガーがはじまる。これに關しては色々と宜傳も記述もされて來たが、そのため反つて實際とは遠い姿を期待してゐた。最初はどうやら多少の幻滅感をさへ抱く。松、 落葉松、樅、白樺から成る變哲もない森が、道の兩側に間斷なく續いてゐる。五抱へとある木は一本もなく、見上げると眼まひのするやうな喬木もない。モスクヴァのソコーリニキイ*の森に生えてゐる樹に此べて、 少しも大木といふ感じはしない。密林帶には鳥の啼聲もなく、そこの植物には匂ひがないといふ話だった。で、さう覺悟してゐたが、密林帶を行くあひだ絕えず小鳥の歌が聞え、蟲の嗚聲がした。太陽に溫められた針葉は、强い樹脂やにの臭ひで空氣を滿たし、道傍の草原や林の緣は淡靑や薔薇色や黄色の花々に掩はれて、これも眼を愉しませるだけではなかつた。大密林の記述者たちは春來て見たのではなくて、明らかに夏の觀察なのであらう。夏ならばロシヤの森にすら 、鳥は啼かずす花も匂はない。
 密林帶の迫力と魅力は、亭々と聳える巨木にあるのでもなく、底知れぬ靜寂にあるのでもない。渡鳥でもなければ恐らく見透せまい、その涯しなさにあるのだのだ。はじめの一晝夜は氣にも留.めない。二日目、三日目になると段々驚いて來る。四日目、五日目になると、この地上の怪物の胎內からは、何時になっても脫け出せまいといふやうな氣がしだす。森に蔽はれた高い丘に登って、東のかた道の行手を眺める。見えるのはすぐ眼下の森林、その先に第三の丘、かうして限りがない。一晝夜の後また石に登つて見渡すと、 又しても同じ眺めだ。……道の行方には、 とにかくアンガラ河がありイルクーツクがある筈と心得てゐる。だが道の兩側に南と北へ連なつてゐる森林の向ふには何があるのか、 この森林の深さは何百露里あるのかは、 密林帶タイガー生れの馭者も農夫も知らない。彼等の空想は私達に比べて一層大膽である。その彼等ですら密林帶の奧行を輕々に決めようとはせず、 私達の質間に答へて「りはなしでさ」と言ふ。彼等の知ってゐるのは、冬になると密林帶を越えて遙か北の方から、何とかいふ人間が馴鹿に乘ってパンを買ひに來ることだけだ。が、 この人達が何者なのか、何處から來るのかは、 老人も知らない。
 見ると松林の傍を、 樺皮の袋と銅を背負つた脫走人がよたよた步いて行く。彼の悪行も苦難も彼自身も、この巨大な密林に比べるとき、何と小さくつまらぬものに見えることだ。よし彼がこの森林のなかで消えて無くなったとしても、蚊が死んだも帀然何の意外さも何の畏怖も感じられまい。人口が稠密にならず‘密林帶の威力を征服しえぬあひだは、 此處ほどに「人は萬物の靈長」といふ文句が力無く洞ろに響く場所は、何處にもあるまい。今シベリヤ街道に沿って住む人間が皆寄って、密林を取拂はうと申し合はせて斧や火を持ち出した所で、 海*を焼かうとした四十雀の話の二の舞を演じるに過ぎないだらう。時には山火事で森が五露里も燒けることカある。が、全軆としてみれば焼跡は殆ど氣附かぬ程度で、しかも二三十年もすると焼けた埸所には前よりー層密に茂った若森が生える。或る學者が東岸地方に滯在中ほんの粗忽から森の中で火を失した。一瞬にして見渡す限りの綠の森は炎に包まれた。この異常な光景に戰慄した學者は、自分を「怖るべき災禍の因」と呼んでゐる。しかし巨大な密林帶にとって、 高々數十露里が何だらう。今日ではきっと、その火事の跡は人迹の及ばぬ森になって、 熊が安んじて橫行しなし大松鶏おおらいてうが飛んでゐるに違ひない。その學者の爲業は、 彼を怯え上らせた怖るべき災禍どころか、 反つて大きな功績を大自然の中に印したのだ。密林帶では 、人間音通の尺度は役に立たない。
 また密林帶は、どれだけの祕密を藏してゐることだらう。樹々の間に傍道や小徑がこつそり忍び入り、喑い森の奧に消える。何處へ行くのだらう。秘密の酒造場へか、 地方警視も評議員もその名を曾て聞いたこともない村へか、それとも放浪者仲間がひそかに見附けた金坑へか? この謎めいた小徑からは、 何といふ無分別な、唆かすやうな自由の氣が吹いて來ることだ。
 馭者の話では、密林には熊や狼や大鹿、黑貂や野生の羊が棲むといふ。沿道の百姓たちは、 仕事の暇には幾週間も林の中で獣獵をして暮らすさうだ。この土地の狩獵術は至極簡單だ。つまり鐵砲から弹丸が出れば儲け物だし、 不發たったら潔く熊に喰はれろである。ある獵師が、 自分の鐵砲は五度續けて引いても駄目で、飛びだすのはやつと六度目からだと零してゐた。この珍寶を提げて、 刀も逆茂木もなしで獵に行くのは、危險千萬なことである。輸入した銃は粗悪でしかも高價住だ。だから街道沿ひの町村で、銃の製作までする殿治屋を見掛けるのは珍しくない。一般に鍛冶屋は多藝多才なものだが、 他の才人の群のなかに姿を沒する懼れのない密林帶では、殊にそれが日立つのである。必要があって或る鍛治屋と僅かのあひだ接近する機會を持ったが、馭者が彼を推薦した言葉はかうであった。――「そのお、大名人なんで。鐵砲まで作りますだ。」その馭者の口調や顏附は、私達が有名な藝術家に就いて話す時の樣子に彷彿たるものがあった。實は私の旅行馬車が毀れたので、修繕の必要があったのだ。馭者の紹介で宿場にやって來たのは痩せた蒼白い男で、その神經質な動作といひ、义あらゆる兆候に徵しても、才人凡つ大洒飮みに違ひなかつた。興味のない病氣を扱ふのが退屈でならぬ名開業醫のやうに、彼はこの族行馬車にちらつと横目を吳れて簡單明瞭な診新を下すと、ちよつと默想し、 私には物も言はず物臭ささうに路上を漫步してから、振返って馭者にかう言った。――
 「どうしたね! ひとつ鍛治場まで引つ張って來て貰ひましよ。」
 馬車の修繕には四人の大工か彼の手傳ひをした。彼はさも厭々らしい怠慢な働き振りを示した。鐵の方で彼の意に反して色んな形を取るかの樣でもあった。彼は屢屢煙草をふかし、何の必要もないのに鐵屑の堆のなかをがさがさやり、私が急いで吳れと言ふと天を仰いだ。藝術家も歌や朗讀をせがまれると、やはりかうした様子を見せるのである。時たま、まるで媚態の一種か,それとも私や大工達の度膽を拔かうとしてか、高々と槌を振りかぶって火の子を八方に散らし、 一撃の下に複雜極まる難問を解決する。鐵砧かなしきも碎けよ、 大地も震動せよとばかりに打ち下ろした粗大なー撃で、 輕い一枚の鐵板は、蚤からも文句が附くまいほどの申分ない形になる。手間賃に彼は五ル—ブル半受取った。その内五ル—ブルは自分が取つて、半ル—ブルを四人の大工に分けてやつた。彼等は禮を言って馬車を宿場まで引いて歸った。恐らく内心には、己れの價値を主張し傍若無人に振舞ふ才人(それは密林帶でも都會でも變りはない――)を羨みながら。

* シビリャコフ(アレクサンドル、一八四九――?)シベリヤの社会事業家。シべリヤ大學の開設に巨資を捧げ、探檢隊の後援をなすなど貢獻が大きい。彼がシベリヤの航海路の發見に協力したのは一八七五・七六年のことである。弟二コライも同じくシベリヤの恩人として知られる。
* ソコーリニキイの森 モスクヴ北郊にある有名な遊園地。
* 海を燒かうとした四十雀の話 四十雀が海を燒いて見せるぞと大言壮語したので、海神の都に恐慌を起して、鳥獸や獵師まで見物に集まったが、勿論泡ひとつ立たなかつた話。クルィロフ『四十雀』と題する寓話詩に基く。

テキストの快楽(014)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(006)

第一編明治以前

第一章への補 東洋の学問

 第一篇の第一章の諸節のなかに出てくる思想家たちを、私たちが歴史的に理解するためには、この人たちがそのなかにいた日本の学問、ひいては東洋の学問の本質をとらえておくことが、何よりも必要である。そのため、私はかつて発表したことのある同名の題の論文に多少の筆を加えて、ここに「補」として収めておきたい。

           

 いっぱんに歴史がほんとうに明らかにされるのは、歴史への眼が現代の眼であることによって、おこなわれるのである。学問の歴史があきらかにされるにおいても同じことである。だから歴史では、いつでも現代の眼がととのうことが、何よりも大切である。唯物論の歴史においては、なおさらである。私たちの現代の眼で科学(ここでは科学という言い方と学問という言い方を区別しないことにする)を見ると、いちばん大切なものが三つ眼につく。ひとつは人民大衆である。もうひとつは自然である。最後のひとつは人や自然のことを知る知識がみな確かなことである。この三つのどれか一つ欠けていても、それはもはや現代における真の学問でないことになる。原子物理学が現代の学問だとすると、この三つの要件を完全に充足させつつ進んでいるはずである。もし、そうでなく、たとえば人民大衆という要件がひとつ欠けていると(というのは、大衆に触れさせない、大衆に秘密になっている、つまり大衆の生活と幸福が考えられていないという意味である)、その学問のある国家はやがて必ず蹉跌し、その国での学問はくずれてゆくに違いない。(そういう実例は今日ないのではない。)現在では科学はまさしくそういうところまでもうきている。これは変質的といっていいほどな学問のすばらしい発展である。私たちの現代の学問の眼は、以上のことを見てとっている。
 さて、学問の歴史を見る眼でみるとして、東洋の学問はどういう学問であったのだろう。これは東洋の学問を根本的に考えてみるにおいて、ぜひ必要なことである。まず人民大衆のことはどうなっていたか。学問と自然はどういう関係であったか。知識の確実性はどう考えられていたか。私たちは最初に中国の古代の学問から問題にしていくことにしよう。えきは当時の科学だった。老子や荘子の学問も、ちゃんと歴史的な役割をもった科学だった。孔子や孟子のそれも同様だった。これらの古代の学問は、あの三つの条件(人民と自然と知識の確実さ)をどういうように具えていたか。私たちはここで、あるひとつの便利な道をえらぶことにしたい。というのは、中国古代の学問にじかにぶつかってゆかないで、それを日本人が受けとったところで中国古代の学問を見るというやりかたをえらぶことにすれば、かねてもって、近世の日本人の学問観も同時にわかるからである。したがって、私たちがこの本でとりあつかっている人たちの学問思想の性質も、浮きあがって眼につくことになると思う。
“テキストの快楽(014)その2” の続きを読む

テキストの快楽(014)その1

◎ バイロン 土井晩翆訳 チャイルド・ハロルドの巡禮

——————————————————————————-

チャイルド・ハロルドの巡禮:目次

——————————————————————————-

土井晩翆 (1871-1952) 譯,バイロン(Lord Byron, 1788-1824) 著 「チャイルド・ハロルドの巡禮 (Childe Harold’s Pilgrimage(1812-1818))」。
底本:チャイルド・ハロルドの巡禮 (英米名著叢書),新月社,昭和二十四年四月五日印刷,昭和二十四年四月十日發行。
——————————————————————————-

チャイルド・ハロルドの巡禮

バイロン 著

土井晩翆 譯

目次

* はしがき
* マシュー・アーノルドの論集中より
* 第一卷及第二卷の序
* アイアンシイに
* 第一卷
* 第二卷
* 第三卷
* 第四卷
* 註釋

——————————————————————————-

チャイルド・ハロルドの巡禮:はしがき

——————————————————————————-

はしがき

黄金の筆を捨ててグリイス獨立戰爭に參加したバイロンが雄圖なかばにミソロンギノ露と消えて後正に一二四年である。 こゝに彼の一代の傑作長篇『チャイルド・ハロルドの巡禮』の全部を日本の韻文に譯して此大詩人に對する記念となし得たのは私の光榮とする處である。

猛虎の如く『初めの跳梁を誤れば呟きて籔に退く』とは詩作に就いてバイロンの僞らぬ告白であらう。 隨つて精神彫琢の功を缺くこともあるが、洪水の如く、猛火の如く、颱風の如き、一氣呵成の天才の筆、雄健に壯大に魂麗に、 マコーレイの評の如く『英國の國語と共にのみ亡ぶべき金玉の佳什が甚だ多い』。 — 此等の作をわが拙劣な日本韻文の瓦礫に變じたのは私の慚愧に堪へぬ處である。

本書は四卷から成り、著作の原序に曰ふ通り、ハロルドといふ假設の主人公に託して、著者が漫遊し視察した諸邦 — 大一卷はポルトガルとスペイン、第二卷がグリイスと其附近、第三卷はベルギイ、ライン地方及びスイス、 第四卷はイタリア — 此等の風土、人情、傳記、逸話等を敍し、其間に著者の感情思想を點綴したもので、 必ずしも首尾一貫の構想があるのでは無い、獨立した幾十篇の詩歌を集めたものと見ても差支は無い。

前の二卷は一八一二年に刊行されて一朝忽ちバイロンの詩名を九天の高さに揚げたもの、第三卷は一八一六年、 第四卷は一八一八年、いづれも『自ら流竄の』バイロンが英國をとこしへに去つた後の作で、 此後二卷は前二卷より遙かに遠く傑出し、バイロンの名聲を英文學史上に不朽たらしめたものである。

時代の好尚と流行に應じて詩人の聲價は常に變化するが『チャイルド・ハロルドの巡禮』は英詩界の傑作として、 常に青年の愛誦として、 百年の盛名を失はぬ。高等英文學の教科書として全世界に今日尤も廣く採用さるゝ長篇の英詩は恐らく本當であらう。 我國にも東亰高等師範學校の故岡倉教授が邦文の註譯を加へて刊行せしめたものがある。

バイロンは革命時代の潮流の中に生れた。

彼の生るる(一七八八)五年前アメリカの植民地は獨立して合衆國を建設した。 彼が生れて一年後フランス革命は端を開いた。彼は青春の曙に於て、 舊來の制度信仰習慣が『道理の法廷』の前に喚び出され、 一朝忽ち顛覆さるるを見た。彼は一般の革命的感情が自由、民生、道理、 革命の語をして到るところ人口に膾炙せしむるを見た。 ワーヅワースが山川の間に自然と默會しつゝある際、コレリヂが超自然界を夢みつゝある際、 キーツが美の女神を崇拜しつゝある際、彼はシェリイと共に革命の使徒として人界の狂瀾怒濤を凌いだ。 『チャイルド・ハロルドの巡禮』は自由と民政に對する熱烈奔放の貢獻である。

大ゲーテが驚嘆したバイロン、全歐洲の文壇を風靡したバイロン( — プシキン、ミケイヰチ、ラマルテン、 ユーゴー、ミュッセイ、ハイネ等第一流の名はこれを證明する)、 今日なほ全大陸がシェークスピアにつぐ英國最大の詩人と稱するバイロン、 — 極東の我々は彼の一二四年祭の今日に當りて彼の傑作に一瞥を投ずるを惜むだらうか。

  一九四八年十二月

土井晩翆

——————————————————————————-

チャイルド・ハロルドの巡禮:マシュー・アーノルドの論集中より

——————————————————————————-

マシュー・アーノルドの論集中より

わが見るところ此世紀の英國詩人中バイロンとワーヅワースは實際の作品に於て優秀で卓越で正に光榮の雙星である。一千九百年の暦が飜る時、わが國民が正に終り去れる世紀中の詩的光榮を追想する時、其時到らば英國にとりて第一流の名は此兩者である。

——————————————————————————-

チャイルド・ハロルドの巡禮:第一卷及第二卷の序

——————————————————————————-

第一卷及第二卷の序

此詩は大概その描寫を試むる其場其場で書き下され、アルバニアに於て先づ初められたものである。 スペインとポルトガルの關する部分は此國々に於ける著者の觀察から作られた。 敍述の正當を確かむるため斯く陳ぶることは必要であらう。描かんと試みた場所はスペイン、 ポルトガル、エパイラス、アカルナニア及グリイスで、現在の本詩はそこで止る、 著者が進んでアイオニア及びフリヂアを過ぎ、 東邦の首府へと讀者を導くや否やは本詩に對する世間の歡迎如何に因て決せらるるであらう。 此第一第二卷は只の試筆に過ぎぬ。

本篇に纒まりを附くるため(いつも左樣とは曰ひ得ぬが)一個の假の人物が設けられた。 此假作人物チャイルド・ハロルドとは著作たる餘が或る實際の人物を指したものとの疑を招くかも知れぬとわが敬服する友逹は忠告してくれた。 此の疑は斷然斥けねばならぬ、ハロルドは全く想像の所作で其目的は前述の通である。些々たる若干の — しかも單に局所的な — 場所に於てかゝる疑の根據があるかも知れぬ、しかし大體に於ては一つもかゝるものがない。

チャイルド・ヲータース、チャイルド・チルダース等の如く、 チャイルドといふ稱號は餘が採用した韻文法に適當するものとして使用されたことは殆ど曰ふ迄もないことである。 第一卷の初めにある「別れの曲」はスコット氏が刊行した「邊境曲」の中、「マクスヱル卿の別の曲」から暗示を得た。

スペインを題目として發刊された種々の詩とイベリヤ半島(スペイン及ポルトガル)を説いた本詩の第一部との間には、 聊かの類似があるかも知れぬが全く偶然に外ならなぬ。一二の終の章を除けば本詩の全部は東邦に於て書かれたのである。

「スペンサアの詩節スタンザ」は、最も成功した詩人中の一人の説に據ると、 あらゆる種類の敍述に適する。ベッティ博士は曰ふ『遠からぬ前、餘はスペンサアの詩節と詩體で一詩を初めた、 而してこゝに餘は諧謔或は悲壯、敍述或は感傷、温柔或は諷刺等、 氣分の向くに隨つてあらゆる傾向をほしいまゝに現はさうと思ふ。 若し餘が誤らぬなら餘が採用した韻律法は以上の種類の詩を等しく容るゝからである』かゝる大家により、 又イタリヤ詩人の最高なるものの例により、我説を確められて、餘は本詩に於て同種の試をなすことに對し、 何等辨解の必要を認めぬ、若し我が詩が不成功なら、其缺點は我が作爲の上に係るので、決してアリオスト、 トムソン及びベッティの作により是認された意匠に依るのではないと信ずる。

一八一二年二月

ロンドンに於て

——————————————————————————-

チャイルド・ハロルドの巡禮:アイアンシイに

——————————————————————————-

アイアンシイに

  *アイアンシイに

1.
女性の艷美類なしと早く曰はれしさとながら
わが先つ頃漂浪の旅をたどりし**邦々に、
或は獨り夢にのみ眺め得たりと吐息する
人の心に示されし其幻影のただなかに、
君に似し者あらざりき、うつつにも又思ひにも。
君を一たび仰ぎ見て、光かゞやき移りゆく
その美の力描くべく我空しくも試みじ —
君を見しことなきものに我言わがこと何の效あらむ?
君を眺めし者にとり何等の言葉あり得べき?

*オックスフォード伯の第二女シャーロット・ハーレイ十一歳の少女
**スペインとトルコ

2.
あゝ願くは今のまゝ君とこしへにあり得んを、
其青春の約束にふさはぬことに無からんを。
姿いみじく、其心清うして且つ暖かに、
獨り翼を缺くばかり*「愛」の地上の姿なり、
「希望」の思ふ處より更に優りて無垢の影!
心をこめて其若さ養ひめづる母君は
斯く刻々に照りまさる君に確かに認め得ん
未來の年の空染むる其虹霓こうけいのきらめきを、
その天上の色の前、あらゆる悲哀消え去らむ。

*キュピト、「愛の神」

3.
あゝ西歐の年わかき*仙女よ!すでにわが齡
君の齡にたくらべて倍數ふるぞ我に善き、
わが愛なき目ゆるかずに君の姿を眺め得ん、
その熟し行く艷麗を心安けく望み得ん。
行末遠きうつろひを見ざらん我の運もよし、
猶さちなるは若き心傷まん時に我ののみ
逃れん辛き運命を、 — 續きて來る讚美者よ
君が目來す運命を — 彼らの讚美さりながら
「愛」の甘美を極めたる時にも惱纒ふべし。

*原語ペリ、ペルシヤ語にて「精」の意

4.
羚羊れいやうの目の如くして或は晴やかに勇しく
あるは美しくはにかみて、見廻す時に心奪ひ、
見つむる處眩ましむる君の其まみ願くは
この集の上一瞥を投げよ、しかしてわが作に
その微笑を惜まざれ、 — *たゞ友のみに非らば
そは我が胸のいたづらにあこがれ慕ふものならむ。
親しき少女、願くは之を與へよ、問ふ勿れ
何等の故にうらわかき人にわが歌捧ぐると、
ひとつ類なき百合の花、許せ花環に加ふるを。

*友人以上に愛を抱くならば其微笑にあこがるは空し

5.
このわが歌に結ばれし君の名正に此*たぐひ、
世々のやさしき人の目が、此ハロルドの詩の上を
永く射る時、其中に初に見られ、いやはてに
忘らるる名ぞこゝにいつくアイアンシイの名なるべき。
われの現世の生閉ぢて此過ぎ去れる慇懃の
禮辭は君の艷麗を讚ぜし彼の**豎琴の
かたへに君の美はしき指をいざなひ導かば、
そは思ひづるわが靈の願ふ至上の幸たらむ、
***「希望」の請に優れども、劣るを「友情」求めんや?

*百合の花の清さ
**琴を彈ず、即此詩卷を讀む
***望みて得がたかるべけれど友情として其以下は求めず

【注記】
ネットでのリソースは、osawa さん(更新日: 2003/02/16)によるものを使用し、UTF8化した、なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた。
編集日時: 2025/10/07

“テキストの快楽(014)その1” の続きを読む

テキストの快楽(013)その3

◎生田譯:ハイネ詩集


図は、Wikipedia から。

——————————————————————————-

生田春月(1892-1930年)譯の「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)。
底本:ハイネ詩集(新潮文庫,第三十五編),新潮社出版,昭和八年五月十八日印刷,昭和八年五月廿八日發行,昭和十年三月二十日廿四版。
——————————————————————————-

ハイネ詩集

ハイネ 原著

生田春月 譯

目次

* 序
* 若い悲み
* 「夢の繪」から(三章)
* 小唄(二十七章)
* 抒情插曲(六十九章)
* 歸郷(百章)
* ハルツ旅行から
* 山の牧歌
* 牧童
* 北海
* 海邊の夜
* 宣言
* 船室の夜
* 凪ぎ
* 破船者
* フヨニツクス鳥
* 船暈
* 新しい春(四十四章)
* 巴里竹枝 その他
* セラフイイヌ
* アンジエリク
* デイアヌ
* オルタンス
* クラリツス
* ジョラントとマリイと
* ジェンニイ
* エンマ
* キテイ
* フリイデリイケ
* カタリナ
* 他國で
* 悲劇
* 小唄
* 何處に?
* 後年の詩から
* 女
* 祕密
* ロマンツエロから
* アスラ
* 世相
* かしこい星
* 最後の詩集から
* エピロオグ

——————————————————————————-

ハイネ詩集中普通廣く讀まれるのは『歌の本ブツフ・デル・リイデル』と『新詩集ノイエ・ゲデイヒテ』とである。 この譯本も右の二卷を主とし、これに後年の『ロマンツェロ』『最後の詩集レツツテ・ゲデイヒテ』中の作を加へて、 總計三百有一篇、ハイネの才能のあらゆる方面を示すために十分の注意を彿つたつもりである。 ハイネ愛好者の滿足を買ふを得ば幸ひである。

『歌の本』中最も主要なる『抒情插曲リリツシエス・インテルメツツオ』 (もと劇詩『ラトクリッフ』と『アルマンソル』の中間に插まれて出版せられたので此名がある) 『歸郷デイ・ハイムケエル』の二部門、 『新詩集ノイエ・ゲデイヒテ』卷頭なる『新しい春ノイエ・フリユリング』及び 『若い悲みユンケ・ライデン』中の『小唄リイデル』は全部譯出したから、 それ等の番號は原詩と全然同一である。そして原詩の番號による事の出來ないものに限り、 番號の打ち方を(その一)といふ風にして置いた。

譯語は全部口語を用ゐた。多少無理なところもあつた代り、或點ではかなり成功したかと思ふ。 譯し方は嚴密な直譯をしたり、また極めて意譯をしたりした。韻律上の用意のためである。 尚この譯はレクラム版の全集を底本とし傍らボンス・スタンダアド・ライブラリイの英譯を參照した。

一九一九年一月

譯 者

ハイネ詩集:若い悲み

——————————————————————————-

若い悲み(一八一七年 – 一八二一年)

「夢の繪」から

  その一

むかしわたしは夢みた、はげしい戀を
きれいな捲毛を、ミルテじゆを、木犀草を
苦い言葉の出て來る甘い唇を
悲しい歌の悲しい曲調メロデイ

その夢はとつくに破れて消え失せた
わたしの夢想はすつかり逃げ去つた!
そしてわたしがかつて熱い湯のやうに
やはらかな歌の中に注いだもののみが殘つてゐる

とり殘された歌よ!さあおまへも行くがよい
そしてとつくに消え去つた夢をたづね出し
もし見付けたらよろしくと言つてくれ —
はかない影にわたしははかない思ひをおくる

【注記】
ネットでのリソースは、osawa さん(更新日: 2003/04/24)によるものを使用し、UTF8化した、なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた。
編集日時: 2025/10/04
“テキストの快楽(013)その3” の続きを読む

テキストの快楽(013)その2

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(08)

     

 シべリヤ街道、 これは世界ぢゆうで一番大きな道だ。また一番單調な道かも知れぬ。チュメーンからトムスクまでは、それでもまだ我慢が出來る。と言っても決して役人のお蔭ではなく、この地力の自然的條件の賜物である。この邊は森林のない平原で、 朝降った雨も夕方には乾いてしまふ。若しまた五月の末になっても雪解がやまず、 街道が氷の小山で蔽はれてゐるやうなら、 勝手に野原を突切って廻り路も出來るわけである。トムスクから先は大密林と丘陵の連續だ。こつでは地面はなかなか乾かず、 廻り路などはしようと思つても出來ない。厭でも街道を行くことになる。そこでトムスクを過ぎると旅行者が急にロ喧しくなって、 不平帳にせつせと書き込むやうになるのだ。役人諸君も几帳面に彼等の不平を讀んで、 一々「詮議に及ばず」と書いて行く。書くなんて餘計な手間だ。支那の役人ならとつくに印判スタンプにしてゐるだらう。
 トムスクからイルク—ツクまで、 二人の中尉と軍醫が一人道伴れになった。中尉のの一人は步兵で、 毛むくじゃらな毛皮帽を被つてわる。もう一人は測量將校で總肩券アクセルバンド附けてゐる。宿場に着くたびに、 馬車ののろさと動搖とでくたくたになった上に泥だらけで、びしょ濡れで、 睡くてならぬ私達は、早速長椅子に轉がって不平を連發しだす。――「やれやれ、 何て汚ない何てひどい道だい。」すると驛の書記や各主がかう答へる。――
 「これ位はまだ何でもありませんよ。まあ見てゐて御覽なさい、コズーリカ越えはどんな工合だが。」
 トムスクから先は、宿場に着くたびにこのコズーリカで威かされる。書記たちは謎みたいな笑ひを浮べ、行き合ふ旅人は意地の悪い笑顏で、 かう言ふ ――「私は越して來ましたよ。今度は君の番ですね。」あまり威かされるので、化舞には神祕なコズーリカが嘴の長い綠色の眼をした。鳥になって、夢にまで現れて來ろ。コズーリカといふのは、チェルノレーチェンスカヤとコズーリカの兩驛間二十ニ露里の道を指すのだ(これはーノチンスクとクラスノヤールスク兩市の間に當る)。この怖ろしい場所の手前二三驛あたりから、旣に豫言者が出現しはじめる。行き合った一人は四度も顚覆したといふし、 もう一人は車の心棒を折ったと零すし、三人目は難しい顏をして物も言はない。道はいいかと訊いて見ると、かう答へる,「いやはや結構の何のって。」とりわけ私を見る人々の眼は、死者を悼む眼附に似てゐる。何故なら私の馬車は自腹を切って買った車だからだ。
 「きっと毀して、泥んこの中へはまりますよ」と、 溜息まじりに言って吳れる、「惡いことは言はない、 驛馬車になさい。」
 コズーリカに近づくにつれて、豫言者は次第に物凄くなる。程なくテェルノレーチェンスカヤ驛といふ邊で、道伴れの乘つた馬車か引繰り返つた。夜だった。兩中尉も軍醫も、 トランクや包みや碁石やヴァイオリンの函もろとも、泥んこめがけて飛んでしまつた。その夜中には今度は私の番だった。愈ヽチェルノレーチェンスカヤ驛といふ間際になって、 私の車の軸釘が曲ったと急に版片が言ひ出した。(これは車臺の前部と軸部とを結ぶ鐵のボルトだ。だからこれが曲ったり折れたりすると、車體は地面に腹這ひになってしまふ。)宿場で修繕がはじまる。むかつくほど大蒜にんにくや玉葱の臭ひをさせる馭者が五人掛りで、泥んこの車を横倒しにして、曲った軸釘を金槌で打ち出しはじめる。まだ何とかいふ橫木も割れてゐる、何やらの舌も她んでゐる、ナットが三本も飛んでゐるなどと、彼等は口々に吿げる。が私には何ひとつ分らない。また分りたくもない。……暗いし、寒いし、退屈だし、睡い。……
 宿場の部屋に簿暗いランプが燃えてゐる。石油と大蒜と玉葱の臭ひがする。長椅子の一つには毛皮帽の中尉が橫になつて眠ってゐる。もう一つの長椅子には何やら髯の長い男が坐つて、て、大儀さうに長靴を穿いてゐる。今しがた電信の修理に何處やらへ行けと命令を受けたのだが、睡いので出掛けたくないのである。總肩章の中尉と軍醫とは卓に向つて、重くなった頭を兩手に支へて居睡りしてゐる。毛皮帽の舟聲が聞え、外では金槌を打つ音がする。
 馭者の話聲も聞える。……かういふ宿場の話といふと、 街道ぢゆうを通じて話題は一つだ、 つまりその土地土地の役人の月旦と、道路の惡口とである。遞信關係の業務はシベリヤ街道に沿ひ謂はば君臨してゐるだけで、別に政治を布いてゐるわけではないのに、天の憎みを蒙ることが最も甚だしい。イルクーツクまでまだー千露里以上の道程を扣へながら、 すでに困憊し切ってゐる旅人の耳には、 宿場の物語は唯々凄まじく響く。何とかいふ地理學會の會貝が、細君を伴っての旅行中に二度も自分の馬草を毀し、とどのつまりは森の中で一夜を過ごさなければならなかった話、何とかいふ貴婦人があまり搖れが酷いため頭を割ってしまった話、何とかいふ收稅吏が十六時間も泥濘のなかに坐り績けて、たうとう百姓に二十五ルーブルやって引張り出して貰ひ、宿場まで送り屆けられた話、 自用の馬車は一臺として無事に驛まで行き通した例しがないといふ話。かういふ話がみんな、まるで不吉な鳥の啼聲のやうに胸に響き返るのである。
 さうした話から推すと、 最も苦勞の多いのは郵便であるらし.い。もし篤志な人があって、ペルミからイルクーツクに至るシベリヤ郵便の動きを丹念に追って、 その印象記を書きとめるなら、さだめし讀者の淚を誘ふやうな物語になるだらう。それは先づ、宗敎、敎化、商業、 秩序、金錢などをシベリヤに齎らすこれらの皮製のこりや叺の總てが、怠惰な汽船がいつも汽車との連絡に;..!にはいといふだけの理由で、空しく幾晝夜かをペルミに停滞するところから始まる。チュメーンからトムスクまでは、春も六月に入るまで、郵便も河川の凄まじい氾濫と這ひ出ることも出來ぬ泥濘と闘ふ。氾濫のお蔭で、ある宿場にー畫夜ちかく待たされたことがあった。郵便もやはり待つてゐた。重い邺便物を小舟に積み込んで、河や水浸しの牧地を渡す。その小舟が顚覆を免れるのは、シベリヤの郵便夫のため、その母親が恐らく熱い祈りを捧げてゐればこそである。さてトムスクからイルクーツクまでには、コズ—リカだのチェルノレーチェンスカヤだのといふ難所が數知れずあって、郵便馬車は十時間乃至二十時間づつも泥濘の中に立往生する。五月二十七日に或る宿場で聞いた話では、郵便物の重みでカチャ川の橋が落ちて、馬も郵便も危く沈んでしまふ所だつたといふ。こんなことは普通の事故で、シベリヤの郵便はもうとうに慣れつこになつてゐるのだ。イルクーツクを發って先へ進む途で、六晝夜の間もモスクヴァからの郵便に追ひ抜かれなかったことがある。つまり郵便が一週間以上も遲れてゐた譯で、まる一週間何かの事故に引き留められてゐたことになる。
 シベリヤの郵便夫は殉敎者だ。その負ふ十字架は重い。彼等は英雄だ。祖國が頑迷にも認めようとしない英雄だ。彼等ほどに勞働し自然と鬪ふ者は、他にはゐない。時には堪へられぬほどの苦勞も嘗める。しかも、 彼等が免職され解雇され罰金を課せられる度數は賞與を受ける度數に比して頗る頻繁だ。諸君は彼等の月給の額を知つてゐるだらうか。諸君は生涯に一度でも、 郵便夫が褒章を着けてゐるのを見たことカあるだらうか。「詮議に及ばす」と書く人達などより、 彼等はずっと有用かも知れぬ。だが見るがいい。彼等が諸君の前に出ると、どんなに怯えたち、どんなにおどおどしてゐるかを。……
 だが、やっと修繕が出來たと言って來た。これで先へ進める。
 「起き給へ」と、軍醫が毛皮帽を起す、「呪はれたコズ—リカなんか、 さっさと越してしまふのが一番だ。」
 「いや皆さん、 繪で見るほどに惡魔は怖くないと言ひましてね」と、 長髯の男が慰める、「なあに、コズーリカだって、他の宿場よりちつとも惡いことはありません。それにもし怖けりや二十二露里ぐらゐ步いたつて譯はありませんや。」
 「さう‘泥んこに陷りさへしなけりやね……」と、 書記が言ひ添へる。
 空が朝焼けけに染まりはじめる。寒い。立場たてばの構內を岀もせぬうちから、もう馭者が言ふ、 ――「何て道だね、やれやれ。」最初は村の中を行く。……車輪を沒するどろんこの泥道があるかと思ふと、 今度はからからな丘になる。かと思ふと粗朶や棧道を渡した卑濕地に出る。それもどろどろの糞を被ってゐるうへに、丸太が肋骨のやうに突き出て、渡るとき人間の魂は反轉し、馬車の前は摧ける。……
 だが村が盡きた。怖るべきコズ—リカに差し掛る。成る程ひどい道てはあるが、といつてマリインスクや例のチェルノレ—チェンスカヤあたりの道にくらべて、 別段惡いとも思へない。幅のひろい森の切通しかあってそれについて幅五間足らずの粘土と塵芥の堤が、ずつと續いてゐると想像して見給へ。これがつまり街道だ。この堤を横から眺めると、 樂器の蓋を外した胴みたいにオルガンの太い心棒が地上に突き出て見える。その兩側には溝がある。心棒の上には、深さ一尺以上もある辙の跡が何本も走り、またこれを橫切る夥しい轍がある。從って心棒全軆は一群の山脈狀を呈し、それなりにカズベック*もあればエリブルース*もある。山巔は乾いてゐて車輪に突き當るし、麓の方はまだ水をはねかす。よつぽど巧みな奇術師でもなければ、 この堤の上に馬車を平らに据ゑることは難しいだらう。先づ大抵、 馬車はまた慣れぬ諸君が「おい馭者 、引繰り返るぢやないか!」と、 思はす一分毎に怒鳴り出すやうな位置をとる。右側の車輪が二つとも深い轍に陷り込み左の車輪が山巔に突き立つかと思ふと、二つの車輪が泥濘にめり込み、第三の車輪は山巔に、第四は空に廻ってゐる。……馬車の位置が千變萬化するにつれて、諸君が頭を抱へたり横腹を抱へたり、四万八方へお辭儀をしたり舌を嚙んだりする傍では、トランクや箱が大騒動をして、互ひに重なり合つたり諸君の上に被さったりする。だが版者を見給へ。この輕業師は何と上手に馭者臺の上に坐ってゐることだ。
 もし誰かが私達を橫から眺めたら、 あれは馬車で行くのではない、氣が觸れたのだと言ふだらう。少し先の所で、 私達は堤から離れようと思ひ、 棧道を探しながら森の緣を辿った。だがそこにも轍があり、小山があり、肋骨があり、棧道がある。暫く行くと馭者は車を停めた。ちよつと考へてゐたが、やがて、さあ愈ヽ愚劣千萬なことをやりますぞと言ふやうな表情で力無く咳拂ひをすると、堤の方へ馬首を轉じていきなり溝へ乘り掛けた。物の爆ける音がする。前の車輪ががちやんと行き、次いで後の車輪もがちやんと行く。溝を越すのである。それから堤へ乘り上げるときも、 矢張りがちやがちやんと鳴る。馬から湯気が立つ。梶棒が裂ける。尻帯も頸圈も橫へずれてしまふ。……「ほうれ、大將」と、馭者は力一ぱい鞭を振りながら叫ぶ、「ほれさ、御兩人。ぼやぼやするなってば!」十步ほど馬車を引きずつたかと思ふと、馬は停つてしまふ。幾ら鞭をやらうが、喚かうが、今度は動かうともしない。仕方がない。また溝を乘り越えて堤を下りる。また抜道を探す。それからまた逡巡して、車を溝へ向ける。りがない。
 かうして乘って行くのは辛い。實に辛い。だが、 このみつともない痘痕あばただらけの地の帶、この黒痘痕が、ヨ— ロッパとシベリヤを繫ぐ殆ど唯一の動脈であるのを思ふ時、心は一層暗くなる。人々は一軆、 どの動脈を通ってシベリヤへ文明が流れ入ると言ふのか。如何にも、 彼等の喋々する所は實に多い。だがこれを若し、馭者なり郵便夫なり、それともヨーロッパ へ茶を送る荷車の列の傍で泥濘に膝まで潰かつて、びしよ濡れに泥を浴びてゐる農民なりが耳にしたとしたら、彼等のヨーロッパ及びその誠意に對する感槪は果してどんなものであらうか。
 序でに荷車の列を見て置き給へ。四十臺ほどの車が茶箱を積んで、 堤の上に續いてゐる。……。車輪は半ば轍の深みに隱れ、瘦馬が一齋に頸をのばす。……車の傍には運搬夫がついて行く。足を泥濘から引つこ抜いたり、 馬に力を借したりで、精も根もとつくに盡きてゐる。……列の一部が停ってしまった。どうしたのだ。一臺の車の輪が碎けたのだ。……いや、もう見ない方がいい。
 へとへとになった馭者や郵便夫や運搬夫や馬を、まだ嘲弄し足りないのか、誰やらの差圖で煉瓦の碎片かけらや石塊が道の兩側に盛り上げてある。これは、 間もなく道がもっと酷くなるぞといふことを、 瞬時も忘れさせぬためである。シベリヤ街道に沿ふ町や村には、道路修繕の名で月給を取る人間がゐるといふ。これが若し本當なら、どうそ修繕には及びませんと、月給を上げてやらなければなるまい。彼等の修繕に逢ふと道は益ヽ惡くなるばかりだから。百姓の話では、 コズーリカなどの道路修繕は次のやうにするのだといふ。六月の末から七月の初めにかけては、 この土地の「埃及のわざはひ*」として殼物につく蚊の盛んに發生する季節だが、 その頃になると人人を村から「驅り出し」て、指の間で擦り潰せる程からからな枯枝で、 乾いた轍や穴を埋めさせる。修理の仕苦は更か終るまで續く。すると雪が降って船醉ひを起させるほど搖リ上げ搖り下ろす世界無類の穴ぽこが、 道路一面に出來る。それから春の泥濘が來る。また修理が始まる。これが連年の行事である。
 トムスクの手術で或る評議貝と知合ひになって、 三二驛のあひだ一緖に行ったことがある。私達が、とあるユダヤ人の農家に坐って鱸のスープを食べてゐると百人頭がはいって來て、何處共處の道略がすつかり損じてゐるが‘そこの請負人が修理をしようともしないと、評議員に報告した。……
 「ここへ呼んで來い」と評議貝は命じた。
 暫くすると頭の毛のもぢやもぢやな小男の土百姓が、 顔を歪めて這人って來た評議員は威勢よく椅子を起つて、百姓めがけて突進した。……
 「この恥知らず奴。何だって道を修理せんのか」と彼は泣聲で呶鳴りはじめた。「道は通れん、 頸つ玉は折れる、 知事の報吿は飛ぶ、 何もかもこの俺の罪になる。ええ、この惡黨め。呪はれたこのへちゃむくれ奴。――それでいいと思ふか、ああん。何たる貴樣は穀潰しだ。明日はちゃんと通れるやうにして置け。明日引き返して來て、萬一まだ直ってゐなかつたら、 しやつ面ひん吳れるぞ。ちんばにして吳れるぞ。出て行け!」
 土百姓は眼をばちくりさせて、 汗だくになった。益ヽ歪んだ顏附をして、扉から消え失せた。評議員は卓子に歸って來ると、 坐るなりにやにや笑ってかう言った。――
 「左様、そりや勿論ペテルブルグやモスクヴァの後ぢや、 ここの女はお氣には召しますまい。だが、じっくりと捜して見れば、ここにだって娘はをりますで……」
 土百姓が明日までに間に合つたかどうか知りたいものだ。この短い間に一體何が出來るだらうか。シべリヤ街道にとって幸か不幸かは知らないが、評議員は長くその椅子にとどまらない。その交送は頻繁である。こんな話も聞いた。――ある新任の評議員が持場に着くや占や、百姓を驅り出して道の兩側に溝を掘らせた。その後を襲つた男がまた、前任者の奇行に負けまいと、百姓を驅り出して溝を埋めさせた。三人目は持場の道路に、.厚さ一尺餘の粘土を敷かせた。それから四人目、五人目、六人目、七人目も思ひ思ひに、せつせと蜜を蜂巢へ運んだ。……
 一年中を通じて道路は通行に適しない。春は泥海で、春は小山と穴と修理で、冬は陷し穴で。嘗てヴィーケリや、後れてはゴンチャローフの息の根をとめたと言はれる疾走は、今日では冬、雪の初路ででもなければ想像し得ぬところだ。現代の作家も、シベリヤを术ばす壯快さを書いてにゐる。だがこれは、苟もシベリヤに來て、よし空想でなりと疾走の壯快を味はないでは、 引つ込みがつかぬからである。……
 コズーリカが軸棒や車輪を毀さなくなる日を待つのは、空頼みも甚たしい。シベリヤの役人たちがその生涯に、道路が改善されるのを見たことがあらうか。この儘の方がお氣に召すらしい。ド平帳も通信記事も、シべリヤ族行者の批評も、修理に計上される金額と同様、道路には殆ど利目がない。……
 コズーリスカヤ驛に着いたときは、 もう日が高かった。道伴れには先へ行つて貰つて、 私は馬車の修繕に殘つた。

【注】
カズベック コ—カサスの高峯。氷のピラミッドをなし、高さ一萬六千五百呎。
エリブル—ス コーカサス主山脈め最高峯。東西の兩峯があって、ともに一萬八千呎を超える。
埃及の災 エホバが、十の災(血に化する水・蛙・蚤 蚋、獣疫、腫物、雷雹、蝗、暗黑、長子の死)をエジプトに降した說話。『出埃及記』第七章――第十二章。
ヴィーゲリ 『囘想錄』の著がある。(一七八七―一八五六)
ゴンチャローフ 『オブローモフ』の作者(一ハ一ニ―九一)が提督ブーチャチンの祕書として、海路遙々日本を訪問したのは一八五三年(嘉永六年)である。その翌年彼はシベリヤを橫斷して歸つた。