◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(04)
第一幕 第五場~第二幕 第二場
リヤ王:第一幕 第五場
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第一幕
第五場 同じ處の前庭。
リヤとケントと阿呆と出る。
リヤ
(ケントに)其方は、此書面を持って、予に先き立ち、グロースターまで參れ。 此書中のことを問ふたならば、答へいぢゃが、其餘は其方が存じてをる何等の事をも女兒には知らすまいぞ。 勉強して急いで參らんと、予のはうが先きへ往くぞ。
ケント
御書面をお渡し申しますまでは、休むこッちゃァございません。
ケント入る。
阿呆
もしか人間の腦髓が踵ンとこにあったら、皸が裂りゃァせんかい?
リヤ
裂れるかも知れん。
阿呆
ぢゃァ、御安心なさましだ、お前だけは緩靴を穿く必要が無いから。
リヤ
はゝゝゝゝゝ!
阿呆
今に見な、お前のもう一人の女兒は、きッと親身らしくしてくれるよ。 何故なら、彼女と彼女とは橙(苦林檎)が九年母(林檎)に似てるやうに似てるけれど、 併しおれにゃ解ってることは解ってらァ。
リヤ
如何いふことが解ッとるんぢゃ?
阿呆
彼女と彼女とは同じ味だよ、橙(苦林檎)が橙(苦林檎)に似てるやうに。 お前は知るまい、なぜ人の鼻は顏の中央にあるか?
リヤ
知らんなう。
阿呆
はッて、鼻の兩側を善う見張って、鼻で嗅ぎ出せないことは、目で以て見附ける爲だ。
末女コーディーリャの事を想起して、おのが輕擧を悔む體で
リヤ
(煩悶の思入れ)濟まんことをしたわい彼女には。……
阿呆
蠣は如何して貝を造るか、知ってるかいお前。
リヤ
うんにゃ、知らん。
阿呆
おれも知らん。併しなぜ蝸牛が家を有ってるかは知ってらァ。
リヤ
なぜぢゃ?
阿呆
はッて、己が頭をしまっとく爲だ。 女兒どもに與っちまって角の容場をなくするためぢゃァないや。
リヤ
(煩悶して)親の情を棄てゝしまはう。これほどにしてやった父をば! ……馬の支度はどうした?
阿呆
驢馬が何疋も其支度にいってるよ。七つ星の數は、七つしか無いといふ其理由が面白いや。
リヤ
八つとは無いからであらうが。
阿呆
その通り。お前は立派に阿呆になれらァ。
リヤ
(又煩悶して)是非とも取返して!おそろしい恩知らずめ!
阿呆
小父たん、お前がおれの阿呆だったら、おら撲るよ、餘り早く齡を取ったから。
リヤ
どうして?
阿呆
聰明にもならんうちに、齡を取るやるがあるもんかい!
リヤ
(又煩悶して)おゝ、天よ、氣ちがひにならせて下さるな、氣ちがひに! 正氣にしておいて下され。氣ちがひにはなりたくない、氣ちがひには!
一紳士出る。
どうぢゃ!馬の支度は出來たか?
紳士
出來ましてございます。
リヤ
さァ、來い。
阿呆
(觀衆に對って)今は娘で、おれの引込むのを見て笑ってゐる女子も、 さう~は處女ぢゃゐまいて、物がちょんぎられてしまはぬ以上は。
王を先きに一同入る。
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リヤ王:第二幕 第一場
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第二幕
第一場 グロースター伯の居城。
エドマンドとコーンヲールの家臣キュランとが左右より出て逢ふ。 場所は城内の或建物の前。此建物の内に長子エドガーが隱れてゐるのである。
エドマ
キュランさん、御機嫌よろしう。
キュラ
あんたにも。今お父さんにお目にかゝって、 今夜コーンヲールさまと奧方のリーガンさまとがお成りなされることをお知らせして來ました。
エドマ
如何したといふのでせう?
キュラ
いや、わたしも知りません。世間の噂はお聞きなすったでせう、といふのは窃々話の事です。 まだほんの耳語程度なんですからね。
エドマ
いゝえ、ねッから(知りません)。どんな事なんで?
キュラ
軍が始まるらしいといふ噂をお聞きなさらなかったかい、 コーンヲールさまとオルバニーさまとの間に?
エドマ
いゝえ、ちッとも。
キュラ
ぢゃ、今にお聞きなさるでせう。ごきげんよう。
キュラン入る。
エドマ
今夜こゝへ公爵が來る?そいつァうまいや!いよ~うまいや! それもきッと此方の爲事の材料になるに相違ない。 兄貴を捕へる爲に、親父はもう、捕手の者を伏せた。 ところで、是非やってのけんけりゃならん煩瑣い爲事が一つある。 どうか、手取早く、運よく參りますやうにだ!
建物の前に歩みよって
兄さん、一寸。降りていらっしゃい!兄さん~!
エドガー出る。
お父さんが見張ってゐます!さ、兄さん、早くお逃げなさい! あなたが此處にゐるといふことが知れたんです!幸ひ、夜だから、都合がよい。 ……若しか貴下はコーンヲール公のことを何か惡く言やァしなかったんですか? こゝへ、今來ますよ、急に此夜中に、リーガンさんも一しょに。 もしか彼人の肩を持って、オルバニー公のことを何とか言やァしなかったんですか、 考へて御覽なさい。
エドガ
決して、一言も言はない。
エドマ
お父さんが來たやうです。御免なさいよ。謀計で、 貴下と切合ふ眞似をしなけりゃならない。 お拔きなさい。一生懸命になって防禦する眞似をなさい。 ……(と二人とも劍を拔いて、斬り合ふ眞似をしながら、大聲で)さ、降參してお父さんの前へお出なさい! ……おいおい、早く火光を~!……(小聲にて)兄さん、早くお逃げなさい! ……(大聲で)把火々々!……
エドガー足早に入る。
(小聲で)さよなら。……幾らか血が出てゐた方が手強く戰ったやうに見えるだらう。 (袖をまくりあげて時分で腕に劍を附けながら) 情婦への心中立にこれ以上の事をする醉漢が幾らもある。 ……(大聲で)お父さん~!こら、まて、こら!……だれか來てくれ、だれか!
グロースターが把火を持った僕數人と共に急いで出る。
グロー
エドマンドか?奴は何處にゐる?
エドマ
つい今まで爰に立ってゐたんです、昏暗の中に、拔劍を持って、 さうして月に對ッて、願はくば我が爲にとか、何とか、怖ろしい呪文を唱へてゐたんです。
グロー
いやさ、何處にゐると聞くんだ?
エドマ
ねえ、こんなに血が出るんです。
グロー
いや、奴は何處にゐる、エドマンド?
エドマ
此方へ逃げたんですよ、迚も、その、駄目だと悟ったもんだから……
グロー
それ、おッかけろ!蹤を追へ、蹤を。……
僕共急いで入る。
エドマ
迚もわたしに貴下を殺させようとしたッても駄目だと悟ったからです。 親殺しの大罪を犯した者は、神さまが雷を落してお罰しなされる、 父に對する子たる者の義務は重大なもんだとわたしが言ひまして、つまり、 如何しても兄さんの非道な企に合體しないもんですから、私が油斷してる處へ、 凄じい勢ひで以て突いてかゝって、わたしの二の腕を突刺したんです。 けれども私が奮然として正義の爲に大膽に戰はうとしたのを見なすった爲か、 或ひは大きな聲をしたので怖れてだか、急に逃げッちまひました。
グロー
存分遠く逃げろ。此國にをる限り、引ッ捕へずにおかうか!見附け次第打果してくれる。 おれの大事の御主君公爵どのが、今夜ここへ成らせられる、其御威勢を借りて、 あの非道な卑怯者を搜し出して刑場へ伴れ來る者には謝儀を與らす、 かくまふ者は死刑に處するといふ布令を出さう。
エドマ
わたしがいろ~と諫言をして、惡心を止めさせようとしましても、 兄さんは惡口雜言を吐いて、改心なさりさうにも見えませんから、 わたしが、それでは告發すると言ひますと、兄さんは「こゝな無財産の妾腹め! おれが汝を陷れようと思やァ、どれほど汝に徳があらうと、 信用があらうと、世間が信ずると思ふか?いゝや、おれが否認しようとさへ思やァ ……無論、さうするんだが……さうとも、たとひ汝がおれの自筆を持出したからって、 おれはそれを悉く汝の誘惑、思ひ附き、わるだくみに由ることにしッちまふ。 おれが死ねァ汝に取っては夥しい利益になるから、 汝がそれを望むだらうと世間が想像してゐないと思ふのは、世間を大馬鹿にした話だ」 と、さういふんです。
グロー
おゝ、世にも珍しい、おッそろしい惡漢めが!あの手紙を、覺えが無いといふか? 彼奴はおれの子ぢゃァ無い。
タケット調の喇叭(行進曲)が聞える。
ありゃ公爵の喇叭ぢゃ!何故ござらっしゃったのか知らん。……あらゆる港を閉ぢさせてしまはうから、 彼奴め逃れッこは無い。是非公爵にお許可を受けう。 且つ又、彼奴の肖像画を遠近に送って、全國の者に注意をさせう。 おのしは兄とは全く腹ちがひの孝行者ぢゃ、家督を相續するやうに計らふてくれる。
此時、コーンヲール公爵、同夫人リーガン、及び侍者ら大勢ついて出る。
コーン
どうなすったな!只今こゝへ參ると同時に、竒怪な風説を傳聞ったが……
リガン
もしそれが事實であるなら、其科人には何樣な嚴罰を課しても尚ほ足らない程です。 え、どうなすったの?
グロー
おゝ、奧方、此胸が張り裂けるやうでござります、此胸が!
リガン
や!では、父上の名附兒が貴下を殺さうとしたのですか? あの父上が名附親におなりなされた、あの兒が?エドガーが?
グロー
おゝ、奧方、奧方、お恥かしうござりますわい!
リガン
もしやエドガーは、父上にお仕へしてゐる彼の亂暴な武士共と交際をしてはゐませなんだか?
グロー
そりゃ存じてをりませんが……あんまりな惡行でござる、あんまりな。
エドマ
(リーガンに)はい、お交際をしてをりました。
リガン
そんなら不思議は無い、不良になったのも。(コーンヲールに)彼奴らが教唆したんです、 あの老人を殺して其財産をわが有にしようと思って。つい今、姉上からのお使ひで、 彼等武士共の事を詳細にお知らせがありました。 若し彼等が寄寓するため、私たちの館へ參るやうなら、それを避けて、わざとゐないことにしたがよい、 といふお心添がございました。
コーン
わしとても居らんはうがよいのだ。……エドマンド、お前は父御に對して、 立派に孝子らしう振舞ふたさうだの。
エドマ
當然な務めを致しましたに過ぎません。
グロー
兄の奸計を知らせくれまして、それから彼れを捕へうとて働きまするうちに、 御覽の如き手傷をば受けました。
コーン
追手を出しましたか?
グロー
出しましてござります。
コーン
捕らへさへすれば二度と害をする虞れはあるまい。 わしが力を如何やうにも利用して志望をお遂げなさい。 ……エドマンド、お前の孝順の振舞ひは如何にも感心の至りだから、只今すぐに、 わしの家臣に召抱へる。かういふ忠誠な人物は必要だ。
エドマ
忠義だけはお盡し申しまする、他の事はともかくも。
グロー
彼れの爲に、お禮を申し上げまする。
コーン
時に、まだ御存じあるまい、何故吾々が參ったかを……
リガン
突然に暗の夜を辿って。グロースターどの、實は重大な理由があって、 是非とも貴下の御助言が承はりたいのです。父からも、姉からも其仲たがひの事情を申し越されたのですが、 それは邸を離れて返辭をしたはうが適當であるやうに考へましたの、 それ~゛の使ひの者には爰で返書を渡す筈になってゐます。グロースターどの、 御心中は察しますが、暫く忍んで、わたしどもの爲にさしせまって入用な忠告を述べて下さい。
グロー
心得ましてござります。……ようこそ渡らせられました。
喇叭。皆々入る。
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リヤ王:第二幕 第二場
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第二幕
第二場 グロースター伯居城の前。
ケントと、今使者となってやって來たオズワルドとが左右から出る。薄昏い夜明方なので、 ケントをコーンヲール家の者と思ってオズワルドが呼びかける。
オズワ
お早う。お前は此邸の人かい?
ケント
うん。
オズワ
馬は何處においたらいゝか?
ケント
沼ン中が好いよ。
オズワ
どうか、をしへてくんなよ、深切心があるなら。
ケント
深切心なんざ無い。
オズワ
ぢゃ、汝にゃァ關はん(さういふ不埒なことをいふなら)。
ケント
へん、關はんとも言へまいぞ、リプスベリーの獸類欄へ抛り込まれる段となりゃ。
オズワ
なんでそんな無禮を申すか?知合でもない汝が。
ケント
野郎、おれは汝を知ってるぞ。
オズワ
おれを何だと思ってゐる?
ケント
はて、惡黨よ、ろくでなしよ、人の食ひあましを有難がって食ふ、卑劣な、高慢な、薄っぺらな、けちな、 三枚著物の、年給たった百ポンドの、毛絲靴下の、ぢゝむさ野郎め!肝玉の小ぽけな、 何かといふと政府頼みの、下賤な、自惚鏡と睨めくらをする、虚飾家、おせっかい、 親讓りの財産といッちゃァ櫃一箇しかない奴隸、 體のいゝ慶菴をしかねぬ野郎、 惡漢と乞食と臆病者と誘拐者と小牝犬の惣領息子とを混成にしたやうな野郎、 もし斯う竝べた名を只の一字だって然うでないと吐しゃァがると、大聲あげて吠えるまで、 撲って~撲ちのめしてくれたい野郎だ。
オズワ
てもまァ、何といふ怪しからん奴だ汝は!知りもせず知られもせん者に對って、 そんな惡體を吐きをるとは?
ケント
おれを知らん?何といふ鐵面皮奴だ汝は! 王さまの前で足をすくって、汝をおれが撲りつけたは、まだやっと二日前だ。 さァ、拔け、惡黨!夜中ぢゃァあるが幸ひ月が照ってゐる。 汝を材料にしておれが名月汁をこさへてくれる。 さ、卑劣な、下賤な、氣取屋め、拔きゃァがれ。
ケントは劍を拔く。
オズワ
えィ、退れ!汝にゃ用は無い。
ケント
拔け、惡黨!汝は名聞殿の肩を持って、王樣のお爲にならん書面なぞを持參し、 曲事を働く奴だ。拔け、惡黨、拔かんと、其脛に切形を附けてくれるぞ! 拔け、惡黨。さァ、突いて來い。
オズワ
助けてくれ!人殺しだ!助けてくれ!
と逃げにかゝるのを遮って
ケント
さ、打って來い、奴隸め!待て、惡黨、待て。虚飾奴め、打て!
ケント劍の背でオズワルドをさん~゛に打擲する。
オズワ
助けてくれ!人殺し!人殺し!
エドマンドが細刄劍を提げて出る。
エドマ
どうしたんだ!何事が起ったのだ?
と二人を引分ける。
ケント
(怒って)お若いの、お望みなら敵手にならう。さァ、喧嘩の爲方ををしへてやる。 さァ、突いて來な。
此時、コーンヲール、リーガン、グロースターを先きに、從僕ら大勢ついて出る。
グロー
武噐を持って?刄物を?どうしたのぢゃ?
コーン
しづまれ、命が惜しいならな!立騷ぐと死刑に處するぞ!どうしたのだ?
リガン
姉上の使ひの者と父上の使者ではないか?
コーン
なぜ爭鬪に及んだのだ?申せ。
オズワ
息が斷れて物が言へません。
ケント
不思議はないや、おッそろしく勇を揮ったんだからなァ。やい、憶病者、 造化も汝を造へた記憶は無いといふだらう。 裁縫師の手で出來た野郎だ汝は。
コーン
竒怪なことを申す奴だ。裁縫師が人間を造るか?
ケント
へい、造ります。石工や繪工なら、二時間も職を習やァ、 まさか是れ程拙い人形は製へませんや。
リガン
なぜ爭鬪をしたんぢゃ?
オズワ
此亂暴な老年が、……こやつは先だって胡麻鹽鬚髯に免じまして、 一命を助けつかはしました奴でございますが……
ケント
やい、Z野郎!無くても差支へのない餘計文字野郎!……殿さま、お許可さへ出りゃァ、 俺が此赤土野郎を石灰になるまで、蹈みのめして、それで雪隱の壁を塗ってくれます。 ……胡麻鹽鬚髯にめんじた?此鷦鷯め!
コーン
默れ!……おのれ、無禮千萬な奴、尊敬といふことを存じをらんか?
ケント
存じてゐます。でも腹の立つ時ァ別です。
コーン
なぜ腹を立ったのだ!
ケント
こんな、面目玉に附けかたも知らないやうな奴が、劍を附けてゐやァがるのが癪にさはりました。 斯うにや~笑ってゐる野郎が、兎角、 釋きほぐすことの出來んほどに善く結ばれてゐる貴い絆をも鼠のやうに咬み切ります。 主人の胸であばれる氣儘我儘を御無理御尤もと撫で附けます。燃え立つ火には油をかけ、 冷い心には雪をかぶせ、否と言ったり、然と言ったり、主人の風の手の變るにつれて、 翡翆のやうに嘴の方向を變へます。何も知らんで、犬のやうに、 只もう主人の尻に尾いてあるく奴です。
オズワルドてれかくしに笑ふ。
其癲癇顏止してくれ!おれの言ふ事を聽いて、うぬ、笑やァがるな? おれが幇間でゝもあるかのやうに。雁め、汝にセーラムの原で出逢やァ、がァ~いはせて、 キャメロットへ逐ひこくってくれように。
コーン
やァ、うぬは、氣でも狂ったか?
グロー
どうして爭論に及んだのぢゃ?それを言へ。
ケント
およそ反の合はないッて、此奴と手前とほどなのはありゃしません。
コーン
此男をなぜ惡黨と呼ぶんだ?
ケント
あの面附が氣に入りません。
コーン
さういや、予の顏色とても、(グロースターを見返りつゝ)あの仁のとても、又、奧のとても、 汝の氣に入らんかも知れん。
ケント
正直に言ッちまふのが手前の性分です(から、言ひますが)、斯う竝んでゐる肩の上に、 今載ッかってゐるどの面よりも、もう少しァ見ッともいゝのを(今までに)見てゐますよ。
コーン
此奴は、無遠慮なのを襃められたところから、故と無禮不作法にもてなして、 強ひて性質でもない言動を粧ふやつと思はれる。 手前は阿諛ふことは出來ません、迚も……正直に、何の飾りもなく…… 有りの儘の事を言はざるを得んなぞと!世人がそれを容れゝば、よし。咎めれば、 正直一圖だからと言ひぬける。往々にして此類の惡黨がある。 小心翼々として役目を務める世間にありふれた諂諛者共より、正直を賣物にする斯ういふ奴が、 えて一段と腹黒で、油斷がならんものだ。
ケント
(わざと馬鹿丁寧に)お殿さまへ、えゝ、眞實、誓言にかけまして、恐れながら、みゆるしを蒙りまして、 輝き渡る日の神の御額に渦卷き立つ赫々たる猛火にひとしき……
コーン
何を申す?
ケント
あなたがお嫌ひなさるから、手前の口吻を變へて見たので。 手前は決して諂諛者ぢゃございません。 無遠慮で貴下を騙したとかいふ奴は、 そりゃァ明々白々の惡黨なんでございませう。 手前は貴下の御機嫌が治るからと頼まれても、さういふ惡黨にゃァなりたくありません。
コーン
(オズワルドに)彼れに對して如何な不都合をしたのだ?
オズワ
何もいたしゃしません。王樣が、此間、何か誤解遊ばしまして、私を御打擲になりました時分に、 此男が、王と御一しょになって、御立腹の後押をいたして、 私の足を背後からすくひました、で私がつい倒れますと、 侮辱いたしたり、雜言を吐いたりいたして勇者がりますので、えらさうに見えますると、 王が御稱讚になりました、故と負けてをりますものを攻撃したい過ぎませんのですが。それから、 其偉い手柄に味をしめて、今日またこゝで拔いたのでございます。
ケント
憶病者の大ほらふき、こいつらに比べりゃァエーヂャックスなんぞァ徒の末社だ。
コーン
足枷臺を持って來い!……おのれ、頑固な老惡黨め、老莊士め、きッと教へてくれる。
ケント
習ふにゃァ齡を取り過ぎてゐます。足枷臺を取寄せるのァお止しなさい。私は王さまの直參で、 お使ひで此方へ參ったのです。お使者を足枷臺に掛けちゃァ、王さまの御身分に對して、 餘り不作法なお待遇で、失禮過ぎませうぜ。
コーン
足枷臺を取って來い!正午までは、決して身動きさせるな。
リガン
正午まで!夜までになさい!夜の明けるまでに。
ケント
もし、奧さん、私が父御さまの飼犬であったって、さういふ風にお扱ひなすっちゃ濟みますまいぜ。
リガン
飼犬でなくって、お抱への惡黨だから、さうするんぢゃ。
コーン
此奴は姉上が申し越された徒輩の同類なんだ。……さァ~、足枷臺を持って來い!
從者が足枷臺を持って出る。とコーンヲールが指圖してケントを足枷臺に上らせようとするのを、 グロースターが見かねてとゞめる。
グロー
まゝ、おとゞまり下されませう。此者の不埒は重大でござります、が、それに對しては、 御主人の王さまが屹と御譴責あそばされることゝ存じまする。 あなた樣の思し立たれましたお處刑は、 小盜其他違警罪などにて罰せらるゝ最もあさましい下賤な徒輩に相當した下等な御懲罰でござります。 王のお使者を斯樣にお扱ひになっては、王が定めし、御自身を輕しめられたやうに思し召されて、 御氣色にさへられませう。
コーン
其責は予が負ふ。
リガン
王よりも姉上がお怒りなさらう、御用で參った御家來が、侮辱を受けたり、攻撃されたりしたとお聞きになったら。 ……其奴の脚を填めい。
從者らが立ちかゝりてケントを足枷臺に掛ける。
さァ、あなた、あちらへ。
グロースターとケントの他は皆入る。
グロー
(ケントに)氣の毒ぢゃなう。いひ出しては後へは退かぬと世間も知る公爵どのゝ御意ぢゃから、是非に及ばん。 今に何とか調停しませう。
ケント
どうか放擲ッといて下さい。眠ないで、みっちり歩いたから、暫く眠ます。 目が覺めたら口笛でも吹いてゐませう。善人の運は踵から延びるといひます。おやすみなさいまし!
グロー
(傍白)公爵のなされかたは善うない。きッと御氣色にさはらう。
グロースター入る。
ケント
リヤ王どの、貴下は諺をば身に思ひ知らっしゃらねばなりませんぞ。 天惠を失って日向ぼッこり!……(懷中から書状を取出しつゝ、東の空を見やって)早く來てくれ、 此下界への合圖火、汝の氣持の好い光りで此密書が讀みたい! 災禍極らざれば竒蹟あらずだ。こりゃ慥かにコーディーリャどのからの通信だ。 俺が名をも姿をも昏まして斯うしてゐるといふことを都合よく傳へ聞かれたところから、時機を俟って、 此竒怪な状態から國を救ひ、弊を除かうと望んでをられるのだ。 ……疲れた上に眠足らんので重たくなった眼よ、ちょうど好い、此見ッともない宿を見るな。 ……運の神よ、おやすみなさい。もう一度白い齒を見せて、車の輪を廻して下さい!
ケントは足枷臺に掛かったまゝで眠る。
坪内逍遙(1859-1935)譯のシェークスピヤ(1564-1616)作「リヤ王」です。
底本:昭和九年十月廿五日印刷、昭和九年十一月五日發行の中央公論社、新修シェークスピヤ全集第三十卷。
【ネットでの底本】
osawa さん、投稿(更新日: 2003/02/16)
2025年10月19日 一部訂正(底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた、また一部文字は UTF8 に変換できなかった。)にてアップ。

