テキストの快楽(014)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(09)

 もし道中の景色が諸君にとってどうでもよい事でないならロシヤを出てシべリヤに旅行する人は、 ウラルから工ニセイ河までの間ずっと退屈し通すに違ひない。寒い平原、曲がりくねつ白樺、 溜り水の沼、ところどころに湖、 五月の雪、そしてオビ河の諸友流の荒涼とした淋しい岸。――これが、 最初の二干露里が記憶に殘すものの全部である。他國人に崇られ、わが國の亡命者に尊ばれ、遠からずシべリヤ詩人にとつて無盡藏の金坑ともならう自然、比類ない雄大な美しい自然は、 やつとエニセイに始まる。
 かう言ふとくヴォルガの熱心な讚美者たちに對して非禮に當るかも知れないが、私は生れて以來エニセイほど壯大な河を見たことがない。ヴォル力を小意氣で內氣て憂ひを含んだ美人に普へればエ二セイはそのカと靑春の遣り場に困つた力强獰猛な勇士であらう。人々はヴォルガに對するとき、最初は奔放に振舞ふけれど、遂には歌謠と呼はれる呻吟に終る。明るい金色の希望は、ヴォルガにあってはやがて一種の無力感に――ロシヤのペシミズムに變ずる。エニセイにあっては先づ呻吟に始まる代りに私逹が夢にも見たことのない奔放さに達する。少くとも私だけは、 宏大なエニセイの岸邉に立つて荒びた北氷洋めがけて奔る凄まじい水の疾さとカとに貪るやうに見入りながらさう考へた。エニセイにとってその兩岸は狹苦しのだ。高くない浪のうねりが互ひに追ひ合ひ、押し合ひへし合ひ、螺旋狀渦を卷く有様を見てゐると、この强力男がまだ岸を崩さず‘底を穿ち通さずにゐるのが不思議に思はれて來る。こちら岸には、シベリヤを通じて一番立派な美しい町クラスノヤ—ルスクが立ち、對岸にはさながらコーカサスを思はせて煙りわたる、夢幻的な山獄が連なる。私は佇立して心に思った――今にどんなに完全な聰明な剛毅な生活がこの兩岸を輝かすことであらうか。私はシビリャコフ*を羨んだ。私の讀んだところでは、 彼はエニセイの河口に達するため遥々ペテルブルクから汽船で北氷洋へ乘り出したのだ。私はまた、大學がクラスノヤ—ルスクではなく、卜ムスクに開かれたのを殘念に思った。さまざまな想念が湧いて來て、それが皆エニセイの河波のやうに押し合ひ縫れ合つた。そして私は幸福だった。……
 エ二セイを越えると間もなく、有名な密林帶タイガーがはじまる。これに關しては色々と宜傳も記述もされて來たが、そのため反つて實際とは遠い姿を期待してゐた。最初はどうやら多少の幻滅感をさへ抱く。松、 落葉松、樅、白樺から成る變哲もない森が、道の兩側に間斷なく續いてゐる。五抱へとある木は一本もなく、見上げると眼まひのするやうな喬木もない。モスクヴァのソコーリニキイ*の森に生えてゐる樹に此べて、 少しも大木といふ感じはしない。密林帶には鳥の啼聲もなく、そこの植物には匂ひがないといふ話だった。で、さう覺悟してゐたが、密林帶を行くあひだ絕えず小鳥の歌が聞え、蟲の嗚聲がした。太陽に溫められた針葉は、强い樹脂やにの臭ひで空氣を滿たし、道傍の草原や林の緣は淡靑や薔薇色や黄色の花々に掩はれて、これも眼を愉しませるだけではなかつた。大密林の記述者たちは春來て見たのではなくて、明らかに夏の觀察なのであらう。夏ならばロシヤの森にすら 、鳥は啼かずす花も匂はない。
 密林帶の迫力と魅力は、亭々と聳える巨木にあるのでもなく、底知れぬ靜寂にあるのでもない。渡鳥でもなければ恐らく見透せまい、その涯しなさにあるのだのだ。はじめの一晝夜は氣にも留.めない。二日目、三日目になると段々驚いて來る。四日目、五日目になると、この地上の怪物の胎內からは、何時になっても脫け出せまいといふやうな氣がしだす。森に蔽はれた高い丘に登って、東のかた道の行手を眺める。見えるのはすぐ眼下の森林、その先に第三の丘、かうして限りがない。一晝夜の後また石に登つて見渡すと、 又しても同じ眺めだ。……道の行方には、 とにかくアンガラ河がありイルクーツクがある筈と心得てゐる。だが道の兩側に南と北へ連なつてゐる森林の向ふには何があるのか、 この森林の深さは何百露里あるのかは、 密林帶タイガー生れの馭者も農夫も知らない。彼等の空想は私達に比べて一層大膽である。その彼等ですら密林帶の奧行を輕々に決めようとはせず、 私達の質間に答へて「りはなしでさ」と言ふ。彼等の知ってゐるのは、冬になると密林帶を越えて遙か北の方から、何とかいふ人間が馴鹿に乘ってパンを買ひに來ることだけだ。が、 この人達が何者なのか、何處から來るのかは、 老人も知らない。
 見ると松林の傍を、 樺皮の袋と銅を背負つた脫走人がよたよた步いて行く。彼の悪行も苦難も彼自身も、この巨大な密林に比べるとき、何と小さくつまらぬものに見えることだ。よし彼がこの森林のなかで消えて無くなったとしても、蚊が死んだも帀然何の意外さも何の畏怖も感じられまい。人口が稠密にならず‘密林帶の威力を征服しえぬあひだは、 此處ほどに「人は萬物の靈長」といふ文句が力無く洞ろに響く場所は、何處にもあるまい。今シベリヤ街道に沿って住む人間が皆寄って、密林を取拂はうと申し合はせて斧や火を持ち出した所で、 海*を焼かうとした四十雀の話の二の舞を演じるに過ぎないだらう。時には山火事で森が五露里も燒けることカある。が、全軆としてみれば焼跡は殆ど氣附かぬ程度で、しかも二三十年もすると焼けた埸所には前よりー層密に茂った若森が生える。或る學者が東岸地方に滯在中ほんの粗忽から森の中で火を失した。一瞬にして見渡す限りの綠の森は炎に包まれた。この異常な光景に戰慄した學者は、自分を「怖るべき災禍の因」と呼んでゐる。しかし巨大な密林帶にとって、 高々數十露里が何だらう。今日ではきっと、その火事の跡は人迹の及ばぬ森になって、 熊が安んじて橫行しなし大松鶏おおらいてうが飛んでゐるに違ひない。その學者の爲業は、 彼を怯え上らせた怖るべき災禍どころか、 反つて大きな功績を大自然の中に印したのだ。密林帶では 、人間音通の尺度は役に立たない。
 また密林帶は、どれだけの祕密を藏してゐることだらう。樹々の間に傍道や小徑がこつそり忍び入り、喑い森の奧に消える。何處へ行くのだらう。秘密の酒造場へか、 地方警視も評議員もその名を曾て聞いたこともない村へか、それとも放浪者仲間がひそかに見附けた金坑へか? この謎めいた小徑からは、 何といふ無分別な、唆かすやうな自由の氣が吹いて來ることだ。
 馭者の話では、密林には熊や狼や大鹿、黑貂や野生の羊が棲むといふ。沿道の百姓たちは、 仕事の暇には幾週間も林の中で獣獵をして暮らすさうだ。この土地の狩獵術は至極簡單だ。つまり鐵砲から弹丸が出れば儲け物だし、 不發たったら潔く熊に喰はれろである。ある獵師が、 自分の鐵砲は五度續けて引いても駄目で、飛びだすのはやつと六度目からだと零してゐた。この珍寶を提げて、 刀も逆茂木もなしで獵に行くのは、危險千萬なことである。輸入した銃は粗悪でしかも高價住だ。だから街道沿ひの町村で、銃の製作までする殿治屋を見掛けるのは珍しくない。一般に鍛冶屋は多藝多才なものだが、 他の才人の群のなかに姿を沒する懼れのない密林帶では、殊にそれが日立つのである。必要があって或る鍛治屋と僅かのあひだ接近する機會を持ったが、馭者が彼を推薦した言葉はかうであった。――「そのお、大名人なんで。鐵砲まで作りますだ。」その馭者の口調や顏附は、私達が有名な藝術家に就いて話す時の樣子に彷彿たるものがあった。實は私の旅行馬車が毀れたので、修繕の必要があったのだ。馭者の紹介で宿場にやって來たのは痩せた蒼白い男で、その神經質な動作といひ、义あらゆる兆候に徵しても、才人凡つ大洒飮みに違ひなかつた。興味のない病氣を扱ふのが退屈でならぬ名開業醫のやうに、彼はこの族行馬車にちらつと横目を吳れて簡單明瞭な診新を下すと、ちよつと默想し、 私には物も言はず物臭ささうに路上を漫步してから、振返って馭者にかう言った。――
 「どうしたね! ひとつ鍛治場まで引つ張って來て貰ひましよ。」
 馬車の修繕には四人の大工か彼の手傳ひをした。彼はさも厭々らしい怠慢な働き振りを示した。鐵の方で彼の意に反して色んな形を取るかの樣でもあった。彼は屢屢煙草をふかし、何の必要もないのに鐵屑の堆のなかをがさがさやり、私が急いで吳れと言ふと天を仰いだ。藝術家も歌や朗讀をせがまれると、やはりかうした様子を見せるのである。時たま、まるで媚態の一種か,それとも私や大工達の度膽を拔かうとしてか、高々と槌を振りかぶって火の子を八方に散らし、 一撃の下に複雜極まる難問を解決する。鐵砧かなしきも碎けよ、 大地も震動せよとばかりに打ち下ろした粗大なー撃で、 輕い一枚の鐵板は、蚤からも文句が附くまいほどの申分ない形になる。手間賃に彼は五ル—ブル半受取った。その内五ル—ブルは自分が取つて、半ル—ブルを四人の大工に分けてやつた。彼等は禮を言って馬車を宿場まで引いて歸った。恐らく内心には、己れの價値を主張し傍若無人に振舞ふ才人(それは密林帶でも都會でも變りはない――)を羨みながら。

* シビリャコフ(アレクサンドル、一八四九――?)シベリヤの社会事業家。シべリヤ大學の開設に巨資を捧げ、探檢隊の後援をなすなど貢獻が大きい。彼がシベリヤの航海路の發見に協力したのは一八七五・七六年のことである。弟二コライも同じくシベリヤの恩人として知られる。
* ソコーリニキイの森 モスクヴ北郊にある有名な遊園地。
* 海を燒かうとした四十雀の話 四十雀が海を燒いて見せるぞと大言壮語したので、海神の都に恐慌を起して、鳥獸や獵師まで見物に集まったが、勿論泡ひとつ立たなかつた話。クルィロフ『四十雀』と題する寓話詩に基く。

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