日本人と漢詩(102)

◎小田実と沆姜(강항 カン・ハン)

小田実の「民岩太閤記」は、なかなかに読み応えのある小説である。本邦作家の「文禄・慶長の朝鮮侵略戦争」は、数多あるかもしれないが、そのほとんどが武将クラスの活動をあつかったそれで、この小説のように日本の一庶民をヒーローやヒロインを描いた小説はすくないのではないか?ただ、難点と言えば、小説が書かれた20世紀には「カシラが평양に住むクニ」には多少とも憧憬の念はあったかもしれないが、今世紀に至っては彼の体制はすっかり変わってしまったので、挿入された時事問題の「論評」の部分は今では鼻に衝く感もないではない。
有馬温泉在の百姓の兄と妹、トン坊とミン坊、ひょんなことから、「文禄・慶長の役」に駆り出され、半島に渡海、様々な日本人、明国人、高麗人と付き合いながら、数奇な運命をたどる。小説半ばより、二人の目指す志は微妙に食い違いはじめ、地理的にも離れ離れになってしまう。兄のトン坊は、「天下人」になる野心が抑えきれず、片やミン坊は、現地の人たちへの共感を育んでゆく。そして、そして、その結末は、すこしもの悲しい締めになっている。
結局、ミン坊の夢見た理想は何だったのか?彼女により添えなかったトン坊の嘆きの果てにあったのは何だったのか?そんな二人の思いの一環を、小説では、沆姜の漢詩で表現している。

滄海茫茫月欲沈 滄海は茫茫《ぼうぼう》として 月沈《しず》まんと欲す
淚和涼露濕羅衿 涙は涼露に和して 羅衿《らきん》を湿《うるお》す
盈盈一水相思恨 盈盈《えいえい》たる一水 相思の恨《うら》み
牛女應知此夜心 牛女 まさに知るべし 此の夜の心を

小説の中の訳文
滄海《そうかい》は茫として果てしなき月は沈まんとし
涙は冷露とともにうすぎぬの衿を濡らし
いたずらにひろがる海にあい思うの恨み
わぎもこよまさに知るべしこの夜のわが心を

沆姜は、慶長の役の際、藤堂高虎の軍に捕らえられ、捕囚として日本に連れて来られ、三年間にわたり日本で抑留された。(Wikipedia より)捕らえされた時、娘と息子の二人を失ったと言う。さぞかし、トン坊やミン坊と思いを一つにしたことだろう。そして、今になってなお続く侵略的ジェノサイドに対して、いかなる感慨を持ったことだろう。

沆姜の詩をもう二首、小説と彼の著書「看羊録」から。

半世經營土一杯 半世の経営 土一杯《いちぼう》
十層金殿謾崔嵬 十層の金殿 謾《いたずら》に崔嵬《さいき》たり
彈丸亦落他人手 弾丸も亦《また》他人の手に落つ
何事靑丘捲土來 何事ぞ 青丘に捲土《けんど》して来つるとは

そんなどえらい人がやったどえらいことも、ただの土くれ一杯にすぎず
死んだところに金殿玉楼をたてたところで、ただたかだかとむなしくそびえるだけ。
小さな弾丸のごときちっぽけな土地も他人の手に移る。
このていたらくで、何んでまた、青い丘のわが高麗の地に来るか。

「十層」は、小説では「十眉」となっているが、東洋文庫版により訂正。

萬臆千愁若蜜房 万臆の千愁 蜜房の若《ごと》く
年纔三十鬢如霜 年纔《わず》か三十にして 鬢は霜の如《ごと》し
豈縁鶏肋消魂骨 豈《あ》に鶏肋に縁《よ》りて 魂骨を消さんや
端龍眼阻爲渺茫 端《もっぱ》ら竜眼に阻《はばま》れて渺茫たり
平日讀書名義重 平日に読書するも名義重く
後來観史是非長 後来史を観るも是非長し
浮生不是遼東鶴 浮生は遼東の鶴を是《ぜ》とせず
等死須看海上羊 等死須《すべから》く海上の羊を看るべし
[訳文および注釈]
胸に蟠(わだかま)るばかりのこの愁いは、蜂の巣の蜜のように溢れ出て
年は三十でもう白髪まじり
どうして、鳥の肋骨のようなつまらないような、魂の骨を忽(ゆるが)せにすることができようか?
天子さまの眼でなかなか見通しもきかない
書を読むのも名分と正義を思うとほとほとつらく
将来の歴史に、事の是非の論議も長く続くだろう
はかない人生は遼東の鶴の故事(千年の時間を経て、丁令威という仙人が鶴に乗って空に登り、若者が矢をいかけたのを見て世を嘆いたとある)をよしとはしないだろう
死に値する我が身ながら、蘇武の故事(漢の時代、匈奴に捉えられていた蘇武は、十九年間砂漠で羊を飼らされていたが、敵に屈服しなかった)に見習って、この海の向こうで、羊を飼ってゆこう。

付け加えると、「看羊録」は、前述。「民岩」とは「民岩之可畏如此矣(民岩の畏《おそ》るべきは此のごとしや、元々「書経」の「用顧畏于民碞」からの用例)、結局、秀吉は「民岩」に敗れ去り、沆姜は、虜囚が解けて朝鮮へ帰国後は、二度と仕官の道は選ばなかったという。

その頃、本邦では、「関ヶ原」直前、遠く異国フランスでは、アンリ四世が、「三人のアンリ」の戦いを制して即位し、宗教的寛容を一応認めた、ナントの勅令発布の時期に当たる。どうする家康!どうするアンリ四世!

右図は、文禄の役『釜山鎮殉節図』(Wikipedia より)、左図は、「看羊録」東洋文庫表紙。

参考】
桂島宣弘「姜沆と藤原惺窩――十七世紀の日韓相互認識」
・沆姜「看羊録」(平凡社・東洋文庫)

日本人と漢詩(101)

◎高橋和巳と王士禛と鄭成功

雨森芳洲(1668~1755)が活躍した、17~18世紀の少し前は、東アジア、大きくは世界史的に見て、激動の時代だった。本邦では、戦国時代の乱世、中国では明王朝の衰微と清王朝の勃興、その迫間に位置するのが、我らが王士禛(1634~1711)である。その意味では、彼は「亡国の詩人」だが、これまでのこうした形容を負う幾多の詩人とは少々趣きが違うような気がする。一つには、明王朝滅亡時、彼は未だ十年の齡いしか重ねていたかったこと、もう一つは、幸いなことに、勃興した清王朝は、異民族とは言え、前王朝の到達点の大半を、無傷のまま、手に入ったことだ。世界史的に言えば、欧州を含め、十五世紀から十六世紀の「激変、戦乱」の時代から、比較的安定した統治機構が各国とも確立し、ほぼ現在に至るまでの「国家」のプロトタイプが出来上がってきたことにも関係している。
とまれ、
「価値ある人間のいとなみの総てがそうであるように、詩の美もまた、この世のなにびともまぬがれぬ様様な束縛や制限のうちにあって、しかし怠らず日日に精進する誠実な魂によってのみ築かれる。」
中国詩人選集第二集「王士禛」の解説は、高橋和巳らしい文で始まる。王士禛がデビューしたのは、今の季節にふさわしく「秋柳」四首。
そのうち、第一首(Wikipedia より)
秋來何處最銷魂 秋来 何れの処にか最も銷魂なる 秋になって最も人の哀愁をそそる柳はどこかといえば、
殘照西風白下門 残照 西風 白下の門 むろんそれは夕映えのなか秋風をうける白下の門だろう。
他日差池春燕影 他日 差池たり 春燕の影 先だっては飛び交うツバメが柳の糸に影を落としていたのに、
祇今憔悴晩煙痕 祇今 憔悴す 晩煙の痕 今では柳の糸も枯れ果てて夕もやがたなびくばかり。
愁生陌上黄驄曲 愁生ず 陌上 黄驄の曲 路傍に死んだ愛馬を悲しむ「黄驄の曲」を聴けば哀愁はかきたてられ、
夢遠江南烏夜村 夢は遠し 江南 烏夜の村 江南の村で夜中にカラスが鳴いたというのも今や遠い昔の夢である。
莫聽臨風三弄笛 聴く莫かれ 風に臨む三弄の笛 風に対して三度も吹き鳴らしたという笛の音など聴くものではない、
玉關哀怨總難論 玉関の哀怨 総て論じ難し ましてや柳のない玉門関で奏でる「折楊柳」の曲に至っては。

「楊柳」という古来からの題材に、さり気なく、春(はる)秋(あき)の対比を背景として、亡国の哀惜を一旦昇華させて詠った佳詩である。世にはやるのも頷ける。これぞ、まさしく歴史の「春秋」を表現(あらわ)した「神韻」の七律である。

頻歳 頻歳《ひんさい》
頻歳孫恩亂 頻歳《ひんさい》 孫恩の乱
帆檣壓海頭 帆檣《はんしょう》 海頭を圧す
傳烽連戍塁 伝烽《でんぽう》 戍塁《じゅるい》に連なり
野哭聚沙洲 野哭《やこく》 沙洲《さしゅう》に聚《あつま》る
司馬能靑野 司馬《しば》 能《よ》く青野《せいや》し
天呉漸隠流 天呉《てんご》 漸《ようや》く隠流《おんりゅう》す
江淮非異土 江淮《こうわい》 異土に非《あら》ず
飄泊汝何憂 飄泊《ひょうはく》し 汝《なんじ》何を憂《うれ》う

そこで、
[逐一の語釈は、略、大阪弁で意訳を試みた]

ちかごろはブッソウでんな、昔のソンはんのしでかしたどえらいことのまねしはって
うみべのすぐねきまで、白帆がたってまんがな。
けむりも兵隊はんのいやはるとこまで届いて
ソーレンもせんで、死んでいかはる人もいやはるし、
御国の大将はんは、はたけででけたもんを焼いたはるという噂や。
川の神さんもそれで、きーおさまって、流れものたりのたりやがな。
ここら辺の地面は、遠いかみよの昔から、わてらのもんだっせ。
鄭はん、あんたに土地を分けたげるという話や、ここら辺でてー打ったらええんとちがいまっか。
あんさんが亡くなったあと、リーペン(日本)という国のターポー(大坂)というとこで、ジョールリちゅう京劇にもにてはる人形つかはる芝居でえらいあんさんの評判でっせ。「トラは皮を残し、人は名を残す」というやおまへんか?それで満足できはらしまへんか?リーペンレン(日本人)のあんさんのおかんも、メードで、めえーに涙流してよろこんだはるで。
という意味がどうかは、保証の限りではない。また世界各地での昨今の緊迫した状況を直接には反映したものではない、と断っておく。

参考】
・高橋和巳 中国詩人選集第二集「王士禛」 岩波書店
・橋本循 漢詩大系23 「王漁洋」 集英社

日本人と漢詩(100)

◎雨森芳洲

江戸幕府が確立した後、秀吉の朝鮮侵略で途絶えていた、(李氏)朝鮮との外交関係が復活する。復活後に、日朝関係を真に友好的なものに確立したのが、雨森芳洲(1668-1755)である。芳洲は、現在の滋賀県伊香郡高月町(今は長浜市に編入)出身、戦国時代、浅井氏の輩下で、主君を滅ぼした、秀吉をとことん嫌っていた。父の代になり、医業を生業にするようになり、父を嗣ぎ、当初は医学(その頃は東洋医学)を学んだが、師から「医者というものは、数多くの失敗を重ねて(もっと率直に言えば、患者を死なせて)大成するものだ」と言われ、以後、儒学者としての道を歩んだという。このあたり、彼の人格形成を考えるうえで興味深い。儒者としては、木下順庵年門下に入り、同門の先輩に新井白石(1657-1725)がいる。また、荻生徂徠(1666‐1728)と同時代人である。
江戸時代前期の日本は、それまでの「無視ないし敵対関係」にあった、中国や朝鮮の近隣国との関わりが大きくなったことである。「鎖国」状態から想像される以上に思いの外、幕府は善隣外交に力を入れていたようだ。朝鮮との関わりでは対馬藩が大きな位置を占め、その要職に登り詰めた、雨森芳洲は、多くの江戸期文人とは違った立ち位置だったのだろう。特に白石とは、木門一家の逸材の二人であったが、生来の気質やその学習環境の違いは大きかったようだ。白石は、我も相当以上で、朝鮮通信使との交渉でも、江戸幕府一辺倒であったが、芳洲は、もうすこし広い視点、東アジア全体を見渡す視点をいくばくなりともは持っていたようだ。それが、中国語やハングルをも習熟した所以であろう。通信使の朱子学に忠実な「事大主義」(朝鮮側にしたら、秀吉の朝鮮侵略の甚大な被害も昨日のことではなかろう。)にも柔軟に対応できたことに繋がる。そんな芳洲が白石の出世を聞き、読んだ詩。(以後、読み下し文は略、簡単な訳文を附ける。)1710年、芳洲42歳、白石53歳の時の作。

寄贈新井勘解由在西京
星軺聞説駐京陽 星のように輝くあなたは京都にあり
彩節錦袍跨驌驦 美しい服で駿馬に騎り
古寺花深登白閣 花深い古寺で閣に登り
綺筳酒緑倚黃堂 酒宴を立派な部屋で開き
跡尋禹穴詩篇富 禹穴(中国の伝説の禹帝の住んだという洞穴、杜甫「送孔巢父謝病歸遊江東兼呈李白」(Web 漢文大系が典拠だろう。)を訪ね詩をたくさん書いて
栄擬畿門姓字香 名を全国にとどろかせている
慾識邊城客思多 私は辺境の地で憂いばかりで
黒貂半敞鬂爲霜 黒貂の服もなかばやぶれ、白髪模様。

白石の身と比べて心労多忙な日々を、ともすれば嘆かざるをえなかった芳洲は、その後、数回の朝鮮通信使との接待という大役を果たした後は、54歳の時、ようやく「隠居」の身となる。享保の通信使(1719年)の一員、申維翰(신유한)は、別れに臨んで、

今夕有情來送我 今夜、心づくしに見送ってくれるあなたに
此生無計更逢君 この世ではもう二度と会えますまい

と詠み、芳洲は涙したとある。

その後も対馬藩の醜悪な内情や対外交渉にも関与せざるをえなかったようが、最晩年には畿内に帰ること能わず、88歳の長寿で終焉の地となった対馬で次のような詩を書き残した。

曲崎峯月
木落楓衰海面寛 木の葉が落ち、楓も散り、海原が広く感じる
素娥粧出暮雲端 月の女神は化粧して雲の端っこにたたずむ
清輝含露桂花冷 清い光は露を含んで桂の花を照らし
送與詩人褰箔看 詩人と一緒にすだれをかかげて見やっている

何か典拠の詩があるようだが、未検。教えを乞う。今までの儒学(朱子学)を吹っ切ったような艶やかで、しかもどこか清冽な作である。

芳洲の外交戦略の要諦「欺かず争わず」とする「誠信」の精神は、長年の試行錯誤を重ね努力を経て作られたものである。
「朝鮮人のみだりに言葉にあらはし申さず候は、前後をふまへたる知慮の深さにて。おろかなるとは申されまじく候。」
「とにかく義理を正し申さず押付け置き候て相済み候と存じ候は、後来の害を招き申すべき事に候。」

少なくとも言えることは、同時代の白石の「偏見」とは自由な立場であるが、現在を含めて、半島外交が芳洲の理想とほど遠いことは、あまりにも明らかであろう。ともあれ、遅きに失したが、当方は、芳洲の顰みにならって、ハングルの学習を再開しよう。

参考】
・上垣外憲一「雨森芳洲」(中公新書)
・田井友季子「対馬物語」(光言社)

日本人と漢詩(099)

◎菅原道真

以前も一度だけ菅原道真(845-903)を取り上げたが、本邦屈指の漢詩人、道真公の話題はこれにとどまらない。ここでは、初期の漢詩を中心に…まずは、詩人道真の11歳時のデビュー作。師の島田忠臣が感心したと云う。

月夜見梅花 月夜に梅の花を見る
月耀如晴雪 月の耀《かがや》くは晴れたる雪の如し (げつようせいせつのごとく)
梅花似照星 梅花は照れる星に似たり (ばいかしょうせいににたり)
可憐金鏡轉 憐れぶべし 金鏡の転《かいろ》きて (あわれむべしきんきょうてんじて)
庭上玉房馨 庭上に玉房の香れるを (ていじょうにぎょくぼうのかおれるを)

語釈、訳文は、古典・詩歌鑑賞(ときどき京都のことも)を参考ののこと。

この頃から、道真は天性の詩情が備わっていたようだ。作曲家モーツァルトのほうがもっと早熟だが、どこかモーツァルトを彷彿させるものがある。

もう一首、恋する年齢に達して、その思慕の情を表現したもの、白文は省略する。

翫梅華 梅華を翫す
梅樹 花開きて 白き繒《かとり》を剪《き》る 純白の薄絹のごとき 咲き満ちる梅の花よ
春情 勾引されて 相仍《あいよ》ること得たり 春情に導かれて 私はあなたに寄ろうとする
狂風第一《ていいち》 吹きて狼藉ならませば すると 狂った春風がいきなり吹いてきて 見る間に花を散らす
叱々忩々《そうそう》 意《こころ》 勝《た》へざらまし ああ それをただ見ているだけの耐えがたさよ

下記参考図書によると、恋心の対象は、藤原基経の妹にして先代文徳天皇の女御であった明子であったという。

大岡信や加藤周一などは、菅原道真を、文学的対象や視野を格段に拡げたと評価する一方、その後はこうした文学的継承がなされなかったとも言うが、そうした詩が書かれるのは、詩人がもう少し成熟したのちである。。

写真は、北野天満宮境内での、どこか道真公の幼き日の面影のある稚児像と梅の花(Wikipedia)

参考】 ・高瀬千図 道真(上)花の時 NHK出版

日本人と漢詩(098)

◎中江兆民と真山民


兆民の「一年有半」は、彼が余命を知りながら、時の政治家の人物評や、大阪に療養の居を構えてから、通った人形浄瑠璃や浪花節のことなど、なかなかに話題が多岐にわたり、面白い著書である。

「越路音声の美、曲調の巧、真に匹儔《ひっちゅう》なし。けだし津太夫、呂太夫は、玉造の男形と相ひ待ち、越路太夫は紋十郎の女形と相ひ待ちて、倶にその妙を極むるを得、皆逸品なり。」

その著の紹介が恩田 雅和氏による「繁昌亭」支配人による連載として、大阪保険医協会のHP にある。

ところで「一年有半」の中では、彼が親しんだ漢詩にも触れた箇所がある。若い頃から、時折漢詩に親しんだ兆民は、杜甫、李白、高青邱をはじめ、宋末の遺民とされる真山民の詩の一部を引く。彼のバックグラウンドもなかなか奥深いものがあろう。ここではやや季節をことにするが、その全句を紹介する。

山間秋夜     真山民
夜色秋光共一闌 夜色秋光 共に一闌
飽収風露入脾肝 飽くまで風露を収めて 脾肝に入る
虚檐立盡梧桐影 虚檐立ち尽くす 梧桐の影
絡緯数聲山月寒 絡緯数声 山月寒し

語釈は関西吟詩文化協会HP参照のこと。ここでは、この詩の詩吟も紹介されている。

なかなか詩吟も力演だが、どうも重過ぎるきらいもないではない。本来の詩のピンイン読みが、さすが本場の雰囲気が出ていて、より効果的のような気がする。中国発の、漢詩原文読みのサイトがあるようなので触れておきたい。

新春 真山民

餘凍雪纔乾 余凍《よとう》 雪《ゆき》纔《わず》かに乾《かわ》き
初晴日驟暄 初晴《しょせい》 日《ひ》驟《にわ》かに暄《あたた》かなり
人心新歳月 人心《じんしん》 新歳月《しんさいげつ》
春意舊乾坤 春意《しゅんい》 旧乾坤《きゅうけんこん》
煙碧柳回色 煙《けむり》は碧《みどり》にして 柳《やなぎ》色《いろ》を回《かえ》し
燒靑草返魂 焼《やけあと》は青《あお》くして 草《くさ》魂《たましい》を返《かえ》す
東風厚薄無 東風《とうふう》 厚薄《こうはく》無《な》く
隨例到衡門 例《れい》に随《したが》いて 衡門《こうもん》に到《いた》る

語釈などは、M&Cメディア・アンド・コミュニケーションを参照のこと。

参考】
中江兆民「一年有半・続一年有半」(岩波文庫)

日本人と漢詩(097)

◎大塩平八郎

元号というのは、時の為政者の思惑や、民の願望とは齟齬し、皮肉な結果をもたらすものだ。昭和が決して平和が明らかではなかっとのと同じように、天保というのも、天はおろか、地も凶作にあえぎ、民も困窮に苦しむなど、保つどころか、多事多難な時代であった。ある意味、日本の歴史の転換点とも言えるだろう、
以前、Facebookに以下のように、投稿した。

西区靭本町にある大塩平八郎終焉の地のプレート(左画像)。大塩平八郎(Wikipedia)は、1837年(天保八年)、相次ぐ大飢饉で、大商人などが暴利を貪り、民衆が塗炭の苦しみを味わう中で、門人たちと決起します。しかし、事破れて、靭にある商家に匿われ、追手が迫る中で、自決したと伝えられています。実際には、その商家は、この天理教の建物の後ろ側、道路ひとつ挟んだ北側にあったようです。
「言貌の文(げんぼうのあや・言葉や表情をうわべだけ飾りたてること)のみならば、則ち君子は親しみ信ぜず。しかして情(じょう)と誠(まこと)とあれば、則ち言貌の文なしといえども、必ず之を親しみ信ずるなり。いわんやその言貌に見(あら)はるるをや。(情と誠が言葉や表情に加わっているいるならベストである。)」(大塩平八郎「洗心洞箚記」)
現代においてはもちろん、その「武装蜂起」の手段は議論のあるところですが、彼の言葉は、誰かさんに聞かせたいものです。(ま、聞く耳を持たないでしょうね。)
以上は、ともかくとして、(大阪きづがわ医療福祉生協の)定款地域の西区には、こうした史跡碑が20数カ所あります。大正、港、西成区の数カ所より随分多いですね。歴史的に、大坂の中心だった事がよく分かります。

ところで、大塩が公務で箕面の滝を訪れた時のこんな詩がある。

箕山の楓を尋ぬるに人の其の一枝を誤るあり。山僧集まりて之を拘へ面縛す、予其の無知なるものの妄作して此に陥るを憫み、且つ僧の為す所の慈ならざるを悪む。故に僧に告げて以て其の囚を釈さしめ、戯れに絶句を賦して其の僧に贈る

律厳法具梵王宮
赤子猶懲縲絏中
楓葉容看不容損
明朝定捕五更風

(寺のおきては厳しく、きまりもいろいろあるのだろう)
(かよわい民すら罰せられ、縄にかけられるとは)
(紅葉を見るのは良いが、折ってはならぬというのなら)
(私は明日、夜明けに吹く風を捕まえなければなるまいな)

※梵王宮=仏寺。縲絏(るいせつ)=罪人として捕らわれること。五更=寅の刻、午前三時から五時頃。
私はこの詩に、市井の人に注ぐ大塩の暖かな視線、怒った時は、硬い魚の骨も噛み砕くほどだった世評とは異なる寛容さを感じるのだが、如何だろうか。
参照→大塩平八郎雑感(PDF)

日本共産党の元参議院議員・三谷秀治はその小説「大塩平八郎」で、交友のあった頼山陽に贈った詩を引く。(白文は略)
春暁城中、春睡《しゅんすい》衆《おお》く
檐《のき》を繞《めぐ》る燕雀《えんじゃく》、声虚《むな》しく囀《さえず》る
高楼に上りて、巨鐘を撞《つ》くに非ざれば
桑楡《そうゆ》日暮れて猶《なお》昏夢《こんむ》ならん

訳文)春のあかつき、大坂のえせ儒者たちは眠りまどろみ、軒端を飛びかう小人どものさえずりは空しいばかり、今高い楼に昇り警鐘をつかねば、日が暮れてもなお目覚めることはないだろう。

果たして、彼の反乱・決起は「高楼に上りて、巨鐘を撞」いたのだろうか?私たちが考えなければならない課題でもあろう。

参考】
三谷秀治「大塩平八郎」新日本出版社 1993年

日本人と漢詩(096)

「日本人と漢詩」は番外編が2投稿あるので、連番号を修正した。
◎石川啄木と白居易(白楽天)

啄木には、漢詩の実作はないが、短歌には意外と漢詩的な側面もある。白楽天は、李杜のやや下に置く傾向はあるが、彼の白楽天の詩集は、あまり人口に膾炙する詩以上に、熱心に読んでおり、自らの短歌にも影響を与えたと考えられる。

浪淘沙《ろうとうさ》
       ながくも声をふるはせて
       うたうがごとき旅なりしかな
これは、啄木が、1908年、一年間にわたる北海道各地の旅から離れ、文学一本で身を立てるため、単身で東京生活を始めた、日付は、10月23日の作品である。

浪淘沙 白楽天
隨波逐浪到天涯 波に随《したが》い浪を逐《お》いて天涯《てんがい》に到る
遷客生還有幾家 遷客《せんかく》生きて還《かえ》るは幾家《いくか》か有る
却到帝鄕重富貴 却って帝郷《ていきょう》に到りて重ねて富貴ならば
請君莫忘浪淘沙 請《こ》う君忘るる莫《なか》れ浪の沙《いさご》を淘《とう》するを

浪のまにまに天涯に貶詫《へんたく》(遠く追いやられること)された人は、生きて還ることは稀である。もし幸いに都へ帰って、さらに富貴になりえたならば、全く浪に淘《あら》われた沙のようだと思うがよい。(佐久間節訳解「白楽天詩集」第四巻)

以前、啄木は、白楽天のことを、李白・杜甫の下位に置く傾向があると指摘したが(日本人と漢詩(060))、、決して軽視したわけではなく、ややマイナーな詩作も含めて、こまめに読んでいたらしい。白楽天には珍しい、ややメランコリックな詩情を自作の短歌にうまく取り入れている。

浪淘沙六首白文は、以下のサイトにある。

啄木の本領は、拠点を東京に移した時から始まったと言ってよい。ただし、彼の人生は、あと4年しか残されていなかったが…
「大逆事件」関係では、古い蔵書から、歌人の碓田のぼる氏の新書を読み返した。戦後になりようやく資料が出揃ってきた「大逆事件」の全容を書く端緒で夭折したのが返す返すも残念である。そもそも、秋水が「暴力革命」論者であったかは、かなり難しい問題だろう。「大逆事件」供述書にそのような記載があったとしても、権力側から「嵌められた」側面が強いかな?その供述書を読むことができた啄木は、秋水の意志を受け継ぎ次の時代へ進もうとしたし、厳しい現状に対しても、何とか「人民的議会主義」への模索があったと指摘する。繰り返しになるが、その意志、意欲は、明治の終焉と時を同じくし、そして象徴的だが、啄木の夭折とともに、一旦、断絶と終焉を迎え、継承されることはなかった。碓田のぼる氏は、やがて大正から昭和にかけてのプロレタリア文学に引き継がれたとするが、議会への態度を含め、かなり強引な説明であることは否めないし、今日的な検討が必要であろう。

参考】
啄木と中國一唐詩選をめぐって一
北の風に吹かれて~独り漫遊記~啄木歌碑巡り~1~
・「石川啄木と『大逆事件』」(碓田のぼる 新日本新書)(写真も本書から)

日本人と漢詩(093)

◎幸徳秋水と中江兆民

師弟の関係にあった幸徳秋水が中江兆民の葬儀の時の詩。その敬愛に満ちた評伝「兆民先生」の冒頭に掲げる

寂寞北邙呑涙回 寂寞《せきばく》たる北邙《ほくぼう》
斜陽落木有餘哀 斜陽《しゃよう》 落木《らくぼく》 余哀《よあい》あり
音容明日尋何處 音容《おんよう》 明日《みょうにち》 何處《いづ》くにか尋《たづ》ねん
半是成煙半是灰 半《なか》ばは、是れ煙と成り、半は是れ灰

語釈、訳文は詩詞世界を参照のこと。

続く文章も、思慕の念が溢れるものになっている。

「想起す去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村 に送りて荼毘に附するや、時正に初冬、一望曠野、風勁く草枯れ、満目惨凄として万感胸に湛へ、去らんと欲して去らず、悄然車に信せて還へる。這の一首の悪詩、即ち当時車上の口占に係る。嗚呼、逝く者は如斯きか、匆々茲に五閲月、落木蕭々の景は変じて緑陰杜の天となる。今や能く幾人の復た兆民先生を記する者ぞ。」

一方、師の兆民も、漢詩の詩作が数百首あったようだが、まとまって紹介されることは少ない。そのなかで、「兆民先生」で引用される詩がある。

病中得二首之二 病中二首を得の二 中江兆民
西風終夜壓庭區 西風《せいふう》 終夜《しゅうや》 庭区《ていく》を圧《あ》っし
落葉撲窗似客呼 落葉《らくよう》 窓《まど》を撲《う》ちて 客の呼ぶに似たり。
夢覺尋思時一笑 夢覚め 尋思《じんし》の時一笑《いっしょう》
病魔雖有兆民無 病魔《びょうま》ありと雖《いえど》も兆民《ちょうみん》なし

語釈、訳文は同じく詩詞世界を参照のこと。

これ以上、余分な解釈は必要あるまい。兆民は、大坂堺市でその療養生活を送った。堺市市之町にはその居住先があるという。今度、機会があれば訪れてみよう。

参考】
・幸徳秋水「兆民先生」(岩波文庫)
・中江兆民「一年有半・続一年有半」(岩波文庫)

日本人と漢詩(092)

◎佐藤一斎と潘岳とカズオ・イシグロ

先日、カズオイシグロ脚本による「生きる」を観てきた。オリジナルの黒澤明監督「生きる」をイギリスに置き換えたリメイク版である。息子には伝えきれなかった数々の思い…でも濃淡はありつつも周囲との関係の中で、幾許かは共有しながら、最期に公園のブランコに乗り、スコットランド民謡を唄う。志村喬とは、少し違った趣きがあり、見ごたえがある映画だった。主人公の過去にあった、亡き妻との永訣、その面影でも、映画脚本にあったらなら、もう少し深みがでてきたのかもしれないと、ふと思ったがそれは「無いものねだり」というものだ。

連れ合いを亡くした時の漢詩は、古来「悼亡詩」としてある。その嚆矢が、中国南北朝時代・西普の詩人・潘岳(247~300)のそれである。

悼亡詩 潘岳
荏苒冬春謝 荏苒《じんぜん》として 冬春謝《さ》り
寒暑忽流易 寒暑 忽《たちま》ちに流易《りゅうえき》す
之子歸窮泉 之の子 窮泉《きゅうせん》に帰し
重壤永幽隔 重壤《ちょうじょう》 永《とこし》えに幽《かく》し隔《へだ》つ
私懷誰克從 私懐《しかい》 誰《たれ》か克《よ》く従《したが》わん
淹留亦何益 淹留《えんりゅう》するも亦《また》何の益あらん
僶俛恭朝命 僶俛《びんべん》として朝命《ちょうめい》を恭《つつ》しみ
囘心反始役 心を回《めぐ》らして始役《しょえき》に反《かえ》らんとす
望廬思其人 廬《かりや》を望《のぞ》みて思其人
入室想所歷 室《へや》に入《い》りては歴《へ》し所を想《おも》う
幃屏無髣髴 幃屏《いへい》には髣髴《ほうふつ》無きも
翰墨有餘跡 翰墨《かんぼく》には余跡《よせき》あり
流芳未及歇 流芳《りゅうほう》 未だ歇《や》むに及ばず
遺挂猶在壁 遺挂《いけい》 猶を壁に在り
悵怳如或存 悵怳《ちょうよう》として或いは存するが如く
周遑忡驚惕 周遑《しゅうこう》として忡《うれ》いて驚惕《きょうてき》す
如彼翰林鳥 彼の林に翰《と》ぶ鳥の
雙栖一朝隻 雙《なら》び栖《す》みて一朝《いっちょう》に隻《ひとり》たる如く
如彼遊川魚 彼の川に遊《およ》ぐ魚《うお》の
比目中路析 比目《ひもく》して中路《ちゅうろ》に析《わか》るるが如し
春風緣隙來 春の風は隙《すき》に縁《よ》りて来たり
晨溜承簷滴 晨《あさ》の溜《あまだれ》は簷《のき》を承《つた》いて滴《したた》る
寢息何時忘 寝息《しんそく》 何《いず》れの時か忘れん
沈憂日盈積 沈憂《ちんこう》 日びにに盈《みち》積《つ》む
庶幾有時衰 庶幾《こいねが》わくは時に衰《おと》うるあらんことを
莊罐猶可擊 荘《そう》が缶《ほとぎ》猶《な》お撃《う》つべし

語釈などは「石九鼎の漢詩館」などを参照のこと。

訳文など、高橋和巳訳を参考にした。]冬と春は移ろい、寒暑もたちまち変わった。妻は、窮泉(よみの国)に帰り、土塊により永久に隔てられた。吾だけが思い続けても誰も分かってくれないし、そこにとどまっていてもなんの益があろうか。…だが、喪中の廬《いおり》や、わが家でもをみれば、彼女を思い出すし、とばり、屏風には、彼女の手跡が残っている。香りや琴も以前のまま、あたかもまだ居るように錯覚し、こころさわぐ。林のつがいの鳥が、一羽取り残されたように、また川を泳ぐ伝説上の比目魚が途中で分かれてしまったようだ。(「彼の林に翰《と》ぶ鳥の雙《なら》び栖《す》みて一朝《いっちょう》に隻《ひとり》たる如く」とは、「雙」と「隻」という漢字の字体の違いをうまく使った表現である。)春の風、朝の雨だれも、独り寝の身には、深い愁いがつのるばかり。いっそ昔、莊子がしたように妻を失ったとき酒甕をたたいてうたったようにしてみたいものだ。

愛日樓詩

西風直置不堪悲 西風ただ悲しみに堪えず
況復鰥鰥枕易攲 いわんや復《ま》た鰥々《かんかん》枕を攲《そばた》てやすきを
淡月黃蘆秋似畫 淡月黃芦、秋は画に似る
憶君水墨寫成時 憶う君が水墨写し成る時

訳文など]
秋風に悲しみはたえず、独り身になり、すっかり目ざとくなった。淡い月、黄の芦は画のようで、亡妻が水墨画を書いていた時を思い返す。「淡月黃芦、秋は画に似る」とは、うまい表現。潘岳の妻も絵心があったというから、一斎は、彼の悼亡詩からまともに影響を受けたのだろう。

晩春掃亡妻墓 晩春、亡妻の墓を掃《は》く
春老山村路 春は老ゆ、山村の路
到来敲梵扉 到り来て梵扉《ぼんぴ》を敲《たた》く
新墳芳草合 新墳、芳草合し
古道晩花飛 古道、晩花飛ぶ
先後倶長夜 先後倶《とも》に長夜
壽殤同一歸 寿殤同じく帰を一つにす
啼鴉覔棲樹 啼鴉《ていあ》、棲樹を覔《もと》む
暮景足歔欷 暮景、歔欷《きょき》するに足る

訳文など]
晩春の候、山路をたどって寺の門をたたく、新しい墓は香草に囲まれ、道は遅咲きの花が散る。生まれは違っても、いずれは偕老同穴なのだ、カラスがすみかを求めて啼いている夕暮れの景色にたたずんでいると、すすり泣きせざるを得ない。

晩年の作ではあるが、率直な悲しみが伝わる詩であり、彼の「人としての優しさ」もうかがえる。ここで思い起こすのは、すこし時を遡り、天保年間に、大塩平八郎は、乱の勃発直前に佐藤一斎に書状を差し出した。また、そのすこし前に、大塩が昌平黌の林述斎に、相当な額の資金を融通したとも言う。塾頭の一斎の反応は残っていないが、書状が残存していることから、一斎は、大塩の心情は充分理解していたのではあるまいか?そのことが、彼の立場を微妙なもののしてしまい、蛮社の獄では、「日和見」的な態度に終止したのではとも思う。彼が、言志録にある「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む」のを言葉とおりに実行していたなら、また違った結末になったかもしれない。それが彼にとっても。「生きる」ということに繋がったのでは、とふと夢想してみる。

参考】
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波書店 同時代ライブラリ)
・高橋和巳作品集9(河出書房新社)

日本人と漢詩(091)

◎梁川紅蘭と梁川星巌

先日、昨今のコロナ感染症(COVID19-9)後遺症の診療を精力的に取り組んでおられる医師の講演を拝聴した。現在わかっていること、解決の課題となっていることが、なかなかに整理されていた講演であった。後遺症(SNS などでは、long corona と呼ばれている。)の一部には、昔から「血の道を良くする」とされる漢方薬の当帰芍薬散が、効果があるらしい。(もちろん、個人差や症状の微妙な相違があるので、服用にあたっては、必ずかかりつけ医と相談することが必須である。)
当方も成分は少し違うが、山歩きなど「こむら返り」を起こした時に「芍薬甘草湯」を即効性の有る漢方薬として、重宝している。

ところで、梁川紅蘭にこんな漢詩がある。

階前栽芍藥 階前《かいぜん》に芍薬《しゃくやく》を栽《う》え
堂後蒔當歸 堂後《どうご》に当帰《とうき》を蒔《ま》く
一花環一草 一花環《ま》た一草
情緖兩依依 情緒《じょうちょ》両《ふた》つながら依依《いい》たり

語釈など]当帰:「当《まさ》に帰るべし」と夫の帰りを待ちわびる 花草に心を寄せる(どうして別れることがありましょうや)

また従兄弟で夫である梁川星巌が、旅に出て、留守宅で、薬草を育てていた時の作である。新婚当時で、夫が不在がちなので、親類からは「別かれては…」と勧められていたそうだ。当時は、こうして自家栽培で、それを収穫、煎じて、薬にしていたことが分かり、興味深い。

当時、紅蘭は美濃「梨花村草舎」(現在の大垣市)におり、夫から「三体詩」の暗誦を命ぜられていたが、みごとに全編を諳んじることで、帰宅した星巌を驚かせたという。無聊を慰めるため、江馬細香らの詩の集いに参加し、大いに腕を磨いたとある。孤閨にこりた紅蘭は、文政五年(1822年)、連れ立って西遊の長征の旅に出る。ときに、紅蘭十九歳。帰宅したのは、文政九年(1826年)、あしかけ4年の長丁場の旅路だった。途中の旅先で、その路銀の寡なさを記にしながらも、その頃詩名の高かった、頼家の人々や、菅茶山などと交友を深め、それが目的の一つだったのだろう、歓待、逗留の光栄に浴した。旅も三年目になると、望郷の念、耐えがたく、一首を残している。

紅事蘭珊綠事新 紅事は蘭珊《らんこ》として緑事新《あらた》なり
每因時節淚沾巾 時節に因《よ》るごとに涙は巾《きれ》を沾《うるお》す
遙知櫻筍登厨處 遥に知る桜筍《おうじゅん》厨《くりや》に登る処
姉妹團欒少一人 姉妹団欒《だんらん》一人を少《か》くらん

訳文など]桜、桃、杏の季節も過ぎ、すっかり新緑のときとなった。こうしためぐりの中で、涙がハンカチに溢れる。家では、さくらんぼや筍をが台所に並んでいるのに、姉妹は、仲良く歓談しているのに、私一人だけ不在なのだ。

彼女は、詩作にあたっては、三体詩をそらんじていたというから、王維の「九日山東の兄弟を懐ふ」を念頭に置き、詩のモチーフとして用いたと思われる。(日本人と漢詩(080)を参照)
一方、夫の星巌は、食道楽もあり、広島で牡蠣を食し、詩では、楊貴妃のおっぱいに見立てて表現している。ここらあたりは、遺稿を託された柏木如亭のひそみに習ったのかもしれないが、紹介は別の機会に…

天保五年(1834年)星巌は、江戸で「玉池吟社」を起こし、以来弘化二年(1845年)それを閉じるまでは江戸在住、以前紹介した大沼枕山などと広く交流したのだろう。天保という年号の時代、世の中は、天保の大飢饉、大塩平八郎の乱、蛮社の獄など大きく変動した、その最中である。
星巌は、良く言えば、用字など先鋭的な表現に工夫し、悪く言えば「僻字《へきじ》」(異常に奇異な文字)を用いるなど、奇をてらうところがあろう。こうした事は、現実世界への態度にも反映し、政治的には、ときに過激な行動を取らしめたのではないか?想像に過ぎないが、彼の主管した「玉池吟社」などは、「勤王志士」の情報交換の場だったかもしれない。対する、 旅先の彦根で知り合った(かもしれない)井伊直弼の懐刀・長野主膳には目の敵にされていたようだ。ところが、星巌は、明治維新を見ることなく、安政の大獄直前にその頃流行っていたコレラで急死する。紅蘭もそのとばっちりを受けて、半年間の牢獄の実となった、明治十二年(1879年)にこの世を去ったが、なかなか芯の強い女性であった。

最後に、梁川星巌が、大塩平八郎の乱の勃発を聞き及んだ時の詩

誰か仁義を名とし戈矛《かぼう》を弄《ろう》せん
清平《せいへい》に軍《いくさ》あることこれ天警《てんけい》
合党《ごうとう》多しといえども国讐《こくしゅう》にあらず
君子は情を原《たず》ね功罪《こうざい》を定めよ

訳文など]
仁義を名分として乱を起こすやつがいるか。やむにやまれぬ気持ちというのがあるのだ。天下泰平に内乱というのは天の戒めというやつだ。合力は多いが、国の仇にはなるまい。その事情と気持を察した上で、功績と処罰を決めるべきだ。

ここでは、白文を略する。「小説 渡辺崋山」には、七律とあるが、一、二句が対になっていないので、七言絶句の誤りだろう。星巌せんせー、至極当然の事をのべるなどなかなかやるじゃん。

写真は、当帰と芍薬の花(Wikipedia から)と二人の旅程図
参考図書】
・大原富枝「梁川星巌・紅蘭 放浪の鴛鴦」(淡交社)
・杉浦明平「小説 渡辺崋山」(上)