◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(011)
第二節 とさか・じゅん(戸坂潤)
一 空間論からの出発
戸坂潤の青年時代の魂をとらえた学問は空間論である。哲学の諸問題のなかでも、とくに空間論を明らかにすることに力をそそいだのであった。空間論を哲学の問題としてうけとること、これに対照されるものは時間論である。さて、ここでまず素朴な質問をだしてみよう。それは案外に事態の本質をついている問いだとおもうからである。空間論と時間論、そのどちらが一般に唯物論の立場に関係が多いか?
この質朴な問いには簡単にいっぺんに答えられる。それはもちろん空間論であると答えることである。哲学史は唯物論の祖だといって、いつでも古代ギリシアのレウキボスとデモクリトスをあげるのであるが、これらの自然哲学者ののこした断片のうちには時間の論は見あたらない。そのつきに秀でた唯物論者として私たちはローマの詩人ルクレティウスをあげたいが、彼の『物の本性について』という詩の形でかかれている千何百行のなかにも時間論の思索を汲み出すことはむつかしい、ほとんどできない。同じことは十九世紀のフランスの唯物論者たちについてもいえる。といって、時間論が人間のする思索の対象として価値が少ないのではない。もしも楽しく悠々と思索で暮らせるのだったら、時間は人に限りなく問題を提供することだろう。しかし、人間にとっては運命的にまでさいごまで空間論はまといつく。空間論的に人間が規定されている人間存在の根本事実は、どうしようもない。時間は人に空間論的にしか考えさせない。空間論が明らかにされないでは時間論の成立は考えられない。空間論は科学の哲学の一般的基礎だといってよい。
日本で、はじめて空間論の研究をめざしたのは戸坂潤である。彼は彼の『空間論』という論文註(1)のなかで、こういっている。
「空間というもの、又は空間という概念は、殆んど凡ゆる科学乃至理論の中に、問題となって現われて来る。例えば絵画や彫刻、演劇や、キネマに就いてさえも、その理論の内に空間が可なり大切な問題となって現われるだろう。一体吾々が視・触り・聴くこの、 世界―――実在界―――それらは悉く、空間的な規定を離れることが出来ない。吾々は日々の生活を完全にこの空間の支配下に送っているのである。だから、空間の問題が凡ゆる理論または科学の問題として取り上げられるということは、実は何の不思議もない。それは凡ゆる領域に浸潤している問題である」

