◎誤りをふみしめて『土曜日』は一年を歩んできた ー九三七年七月五日
七月は再び来た。
多くの幸いではない条件の下に、独立と自由を確保しながら、『土曜日』が生き残れるか否か、これを、私たちはこの現実に問いただしたかった。
そして『土曜日』は、一年をここに歩みきたったのである。鉄路の上に咲ぐ花は、千均のカを必要としたのではない。日々の絶間なき必要を守ったのである。われわれの生きて此処に今いることをしっかり手離さないこと、その批判を放棄しないことにおいて、はじめて、すべての灰色の路線を花をもって埋めることができるのである、と一年前に私たちはいった。
そうして、花は今、鉄路の盛り土の上に咲いたのである。
この現実を前にして、過去を顧るとき、それが決して容易な道でなかったことを知るのである。それを常に破滅の前に置くほどの、激しい批判の火花を貫き、多くの誤りを越えて、辿りきたのを知るのである。
真実は誤りの中にのみ輝き出ずるもので、頭の中に夢のごとく描かるるものでないことを、この一年が私たちに明瞭に示した。
否定を媒介として、その過程において自分みずからを対象とすること、それがあるべき最後の真実であることを学んだ。
真実のほか、つくものがないこと、そのことが率直にわかること、それがほんとうの安心である。
それは草がもっている安心である。
それは木の葉がもっている安心である。
私たちの社会は、今一葉の木の葉の辿る秩序よりも恥しい。自分たちの弱さも、また、そうだ。
木の葉のすなおさほど強くない。
真実へのすなおな張りなくして、この木の葉にまともに人々は面しうるか。
この新聞はこれを読むすべての人々が書く新聞である。すべての読者は直ちに執筆者となって、この新聞に参加した人たちである。この新聞が三銭であることにかかずらうことなく、自分たちが売り物でも買物でもないことを示した人たちである。私達の一年の歩みは、鉄路の盛り土にも咲く花のすなおさとそのもつ厳しい強さを、お互いの批判の涯に、やっととらえた自然な喜びを示すものである。
私たちはこの喜びを包みかくすすべはないのである。