読書ざんまいよせい(004)

◎トロツキー著青野季吉訳「自己暴露」(002)序言と目次

 我々の時期は、再び、囘顧錄に富み、おそらく嘗つて見ないほど、それが豐富である。と云ふのは語る可きことがどつさりあるからだ。時代の變化が、劇的で豐富であればあるほど、當代にたいする興味は强度である。風景畫藝術は、サハラの沙漠では生れることが出來なかつた。現在のやうな二つの時代の『交叉點』は、すでに遠くすぎ去つた咋日を、その積極的な參加者の眼を通じて顧望しようとする欲望を起させる。世界大戰以來、囘想文學がどえらく成長したのは、これがためだ。その事情は、おそらくまた、この書物の存在をも正當化するだらう。
 この書物が世の中に現れたといふその事實は、著者の積極的な政治生活に休止の期間が來たからである。私の生活での、偶然ではないが、豫期しない停止の一つの場合が、コンスタンチノープルで見出された。こゝで私は幽閉生活をしてゐる―こんなことは始めてヾはないが——そして根氣よく次に起つて來ることを待つてゐる。革命家の生活といふものは、或度合の『定命《フエタリズム》』がなくては、まことに不可能なものであらう。どつち道、コンスタンチノープルでの休止の期間は,周圍の事情が私の動き出すことを許す前に、私にとつて過去を囘想する上の最も適當な契機となつたのである。
 最初私は、諸新聞紙のために、ざつとした自傅的スケツチを書いた。そしてそのまゝでおかうと考へた。ところでこゝに私は次のことを言つておき度い。卽ち、私はこの隠れから、それらのスケツチがどういふ形で公衆の前におかれるか、それを親しく見守ることが出來なかつたのだ。だが、どんな仕事でも、それ自身の論理を持つてゐる。私は、それらの諸諭文を殆ど書き終へてしまふまで、大ピラに堂々と步くことが出來なかつた。そこで私は、ー册の書物を書かうと決心したのだ。範圍、規模をすつかり變へて、極めて廣大なものにし、仕事を全部新しく遣り直した。最初の新聞紙の論文とこの書物とでは、兩者とも同一の主題を論じてゐるといふー點が、共通してゐるに過ぎない。その他の凡ての點では、兩者は全く異つた二つの所產である。
 私は、特に詳細にわたつて、ソヴイエツト革命の第二期を取扱つたが、その時期の端初は、恰も、レーニンの病氣、及び『トロツキー主義』にたいする反對運動の開始と、一致してゐるのだ。權力を得ようとする亞流《エピゴーヌ》共の鬪爭―あとで私が實證するやうに―は、單に諸人物の鬪爭ではなく、それは一つの新しい政治的時期——十月革命にたいする反動、テルミドールの*準備―を代表してゐた。
 私はこれまで屢々、『君はどうして權力を失つたのか?』と人から問はれたが、この質問にたいする答ひは、右のことから、自ら明らかである。

*フランス革命歷の十一月で、七月十九日から八月十七日迄。この第九日目にロベスピエールを敗亡せしたので、こゝではその意昧の反動政治を言ひ表してゐる―譯者。)

 革命的政治家の自叙傳は、否でも應でも、ロシアの社會的發展と結びついた理論的問題の全部に觸れなければならず、またその一部は全體としての人類と結びついたそれに、特に、革命と呼ばれる重大な時期と結びついたそれに觸れなければならない。もちろん私は、この書のうちで、複雜、錯綜した理論的諸問題を、その本質に立つて批判的に檢討することは出來なかつた。謂ゆる永久革命の理論——それは私の個人的生活にあつて、極めて重要な役割を演じたものであり、更に一層重大なことが、東洋諸國においていまや極めて嚴たる眞實性を獲得しつゝあるものである―は、遙かな指導力となつて、この書を貫いてゐる。そこで若し讀者がこの書で滿足しないならば、私は敢て言ふが、私はやがて革命の問題を本質的に考察した別個の一書を著作し、そのうちで、最近數十年の經驗の主要な理論的結論に形を與へることに、努力するであらう。
 私のこの書物の頁のなかには澤山の人物が送迎されて居り、その人々は彼等自身又は彼等の黨派にとつて都合のよいやうな風には必ずしも描寫されてゐないので、彼等のうちの多くの人々は、私の記錄が當然の個別性を缺いてゐることを見出すであらう。現に諸新聞紙に發表された拔萃ですら、或否認說を拔出したのである。だがそれは避くべからざることだ。たとひ私の自叙傳を私の生活の單なる銀板寫眞たらしめることに成功したとしても——私は決してそんなものにしようとは考へなかつたが―それでも、この書物に描寫されてある諸衝突が、當時惹起した論議の反響が、この書物によつて喚起されたであらう——それは疑ひないことだ。この書物は、私の生活の冷靜な寫眞でなく、私の生活の一構成部分である。この諸頁のなかで私は、そのために私の全生涯が捧げられた鬪爭を、繼續してゐるのだ。私は、描寫すると共に、ものゝ特質を明かにし、評價して居り、說明すると共に、私自身を擁護し、また更にしば/\他を攻擊してゐる。私の見るところでは、自叙傅なるものをして高い意味において客觀的ならしめるには、卽ちそれをして個性、諸事情及び時代の最も妥當な表現たらしめるには、これが唯一の方法である。
 客觀性とは、まぎれもない僞善者が、味方及び敵のことを語るに當つて、直接に述べては都合の惡いことを間接に示唆するために用ひる、かの謂ゆる無關心の謂ひではない。この種の客觀性は、月竝のトリツク以外の何物でもないのだ。私にはそんなものは用はない。私は一旦、私自身についてもの’を書く必要―曾つて誰一人として、彼自身について書くことをしないで、一つの自叙傳を書くことに成功したものはないのだ―に服した以上、私は、私の同感又は反感、私の愛着又は嫌惡を隱蔽すべき、何等の理由も持ち得ないのだ。
 これは論戰の書である。この書は、全都矛盾の上に建造されてゐるかの社會生活の力學である。敎師にたいする學生の無作法、禮節のヴエールをかぶつた、客間の羨望から出る意地惡、取引のつくるところなき競爭、純粹な學術、技術及び遊戯のあらゆる部內での、氣狂ひのやうな對抗、深い利益の對立をさらけ出す議會の衝突、日々に新聞紙に現れる猛烈な鬪爭、勞働者のストライキ、示威運動參加者の射殺、文化的隣人同志がお互に、大氣を通じて送り合ふ爆彈の包物、吾々のこの地球に、殆ど絕えることのない內亂の火のやうな舌―これらの一切が、ありふれた、不斷の、尋常な、その度が高いに拘らず、殆ど注意されないものから始めて、異常な、爆發的な、噴火的な戰爭、及び革命のそれにいたるまでの、社會的『論戰』の諸形態なのである。吾々の時代もさうだ。吾々はみんなそれと共に成長したのだ。吾々はそれを呼吸し、それで生きてゐる。もし吾々が、時代の樣式にしたがつて吾々の時期にたいして眞實であらうと欲するなら、どうして論戰的であることを防ぎ得ようか?

 しかしそこにはまた、他の、一層初步的な基準があり、それは事實を述べる上の當り前の良心に關係したものである。最も痛烈な革命的鬪爭も、時間と場所を勘定に入れなければならぬと正に同じやうに、最も論戰的な著作も、事象と人問との間に存在する釣合を觀察しなければならない。私は、この書の全部においてばかりでなく、その部分々々においても、この要求に答へたつもりである。
 或事件——尤も、さういふ事件はそんなに澤山にないが―では、私は問答の形で、長い會話を載せる。だが誰だつて、數年も後になつて、當時の會話の言葉そのまゝの報吿を要求しはしないであらう。また私も、さういふ正確さは求めない。したがつてそれらの問答の或るものは、寧ろ表徵的な性質をもつてゐる。だがどんな人でも、彼の生涯のうちで、その時の若干の特別な會話が彼の記憶にハツキリと印銘されて、どうしても拭ひ去られない、或瞬間をもつものである。そこでいつも人間は、さういふ種類の會話を彼の個人的又は政治的の友達に繰返して話をし、そのお蔭でまた、それが彼の記憶に固着するやうになる。もちろん私は始めつから、政治的性質の一切の會話のことを、こゝで考へてゐるのだ。
 こゝで言つておくが、私は私の記憶を信用する習慣をもつてゐる。これまで一度ならず、その記憶による申立にたいして、事實による立證を求められたことがあつたが、いつも立派にそれに堪へた。しかし差控へることは必要だ。たとひ私の寫實的記憶——私の、音樂的記憶は言はないとして―は甚だ弱く、私の視覺的記憶、私の言語的記憶は甚だ凡庸であつても、私の觀念上の記憶は、普通よりも甚だしく優れてゐる。しかしてその上に、この書物では、諸觀念、その進化、及びそれらの觀念のための人々の鬪爭が、最も重要な地位を占めてゐる。-
 實際、記憶は目動計算者ではない。何によりも先づ、記憶は公平無私ではない。記憶が、自らを左右する生命的本能——削例は野心——にとつて都合の惡い揷話を、追つ拂つてしまひ、又は暗い隅つこに驅り立てゝしまふことは、稀れなことではない。しかしこれは、『心理解剖的』批評の對象でありその批評は往々、非常に聰明で、敎示的ではあるが、氣まぐれな、こじ《丶丶》付けである場合の方が多いのである。
 言ふまでもないことだが、執拗に私は文獻的實證で私の記憶を檢證した。私の勞作の事情では、圖書館で調べたり、雜誌類を搜したりすることは困難であつたが、必要な、一切の重要な事實及び日附は、これを確證することが出來た。
 一八九七年から始めて、私は主として、私の手にベンをもつて戰つて來た。かくて、私の生涯の出來事は、三十二年間の時期にわたつて、殆ど中斷されることなき跡として印刷に附された。一九〇三年に始つた黨の分派的鬪爭は、個人的揷話に富んでゐた。私の反對者も、私と同樣に、打撃をしないではおかなかつた。彼等は誰も彼も、その傷痕を印刷して殘した。十月革命以來、革命的期間の歷史が、若いソヴイエツト學者、及びすべての硏究所の探究において、重要な地位を占てゐる。興味のある一切のことが、革命の雜誌及びツアーの警察の雜誌において探究され、詳細な事實上の評註を附して公表されてゐる。まだ何にものをも虚飾する必要のなかつた最初の數年間は、この仕事は、極めて良心的に遂行された。レーニンの『著作』、及び私のそれの或るものは、國立出版所によつて發行されそれには、各浙に數十頁に亙るノートが附され、著者の活動及び當代の出來事に關して、貴重な事實上の材料が揭げられてあつた。これらは勿論、私のこの勞作を容易にしてくれ、正確な年代記的部分を確立し、事實―尠くとも最も重大な事實の誤りを正すことを助けてくれた。

 私の生活が全く普通の道行きをとらなかつたといふことは、否定出來ないところだ。だがそれが理由は、私自身のうちよりも寧ろ、時代の事情のうちに存するのだ。勿論私のなした仕事にとつても、それがよいにしろ惡いにしろ、そこに一定の個人的諸特性が必要であつた。しかしながら、もし歷史的條件が異つてゐたら、それらの個人的特殊性は、完全に眠つたまゝで殘つたでもあらう。それは恰も、 社會的環境が、何等それに要求を持たない多くの性僻や情熱に於けると同樣である。而して他方、 今日では押退けられ、又は抑壓されてゐる他の諸特質が、正面に現れて來たでもあらう。そこでは主觀的なものゝ上に客觀的なものが昇り、而して最後の決算において、凡てを決定するものは客觀的なものなのである。
 私の十七歲乃至十八歲の頃に始まつた知的及び活動的生活は、一定の想念のための斷えない鬪爭の一つであつた。私の個人的生活のうちには、それ自身が社會的注意に値する出來事は、一つも存在しなかつた。私の生活における多少とも異常な諸揷話は凡て、革命的鬪爭と結びつけられてをり、そこから意義を抽き出して來てゐるのだ。これがあるからこそ、私の自傅を世に發表することが、肯定される譯である。だがまた、この同じ理由から、著者にとつて多くの困難が生ずる。私の個人的生活の諸事實は、實際、歷史的出來事の織物のなかにいかにも密に織込まれてあり、その兩者を切離すことは困難である。その上、この書物は、全然一つの歷史的勞作といふ譯ではない。こゝでは諸出來事は、それの特に客觀的意義を基準として取扱はれないで、それが私の個人的生活の事實と結びつけられてゐる仕方を基準として取扱はれてゐる。從つて特殊的出來事の記述及び全諸時代の記述が、釣合ひを失してゐるのは、極めて自然である―若しこの書物が歷史的勞作であつたら、それらの記述に當然その釣合ひが要求されるであらう。私は、自叙傳と、革命の歷史との間の分界線を搜しまはらねぱならなかつた。私は、一方にこの私の生活の物語をして歷史的記述の中にその影を失つてしまはせないやうにすると同時に、他方に讀者にたいして、社會的發展の諸事實の基礎を與へることが必要であつた。これを果すについて、私は、大きな出來事の主要な輪廓が旣に諸者に知られてゐること、ここで必要とする讀者の記憶は、歷史的諸事實とその連續についての簡單な想起に過ぎないことを前提としたのである。
 この書物が公刊される時までには、私の五十囘目の誕生日がやつて來るであらう。私の誕生日は、十月革命の日附と合致してゐる。神祕家やピタゴラス派の人間は、この事實から、どんなにでも好き氣儘な結論を抽き出すがよい。私自身は、十月××《伏せ字、「革命」であろう》の後僅か三ケ年だけ、この奇しき合致を認めるに過ぎない。私は九つの年まで、遠隔の小さな村落に生活してゐた。八年の間、私は學校で勉强した。學校を去つて一年後に、私は始めて逮捕された。私の時代の他の多くの人達の場合と同樣に、私にとつては牢獄、シベリア、及び外國亡命が、大學であつたのだ。ツアーの牢獄で、私は、二つの時期に四年間服役した。ツアーに流刑に處せられて、私は、第一次には約二ケ年、第二次には數週間、その生活を送つた。私は二囘、シベリアの流刑地から脫走した。外國亡命者として、私に、ヨー ロツパの諸國及びアメリカに、全部で約十二ケ年間生活した——ー九〇五年の革命前に二年間、その失敗後にほゞ十年間。一九一五年、卽ち大戰中に、私は、ホーヘンツオールレン治下のドイツで、不在のまゝ禁錮の宣吿を受け、翌年、フランス及びスペインから追出され、マドリツドの牢獄に一寸停まり、警察の監視の下に力ヂスに一ケ月滯在した後に、アメリカに追放された。而して二月革命が勃發した時には、私はそこにゐたのだ。ニュー・ヨークから〇歸途、私は、ー九一七年三月に、イギリス官憲の手によつて逮捕され、カナダの捕虜集合收容所にーヶ月間抑留された。私は、一九〇五年、及び一九一七年の革命に參加し、一九〇五年に、及び一九一七年にも再び、セントペテルスブルグのソヴイエツトの議長であつた。私は、十月革命に重要な役割を演じ、ソヴイエツト政府の一員であつた。外交人民委員として、私は、ブレスト・リトーウスクで、ドイツ、オーストリア”ハンガリー、トルコ及びブルガリアの委員と、講和商議の衝に當つた。陸海軍人民委員として、私は約五ケ年を赤色陸軍の組織と赤色海軍の復興とのために捧げた。それに加へて、私は、一九二〇年中、國內の混亂した鐵道系統の處理に從つた。
 だが、私の生活の內容は、內亂の數年間を除いて、主として、黨の活動及び文筆的活動であつた。一九二三年に、國立出版所は、私の著作集の公刊を始めた。そして十三冊の刊行を果した―そのまへに公刊された軍事問題に關する五册を除いて。刊行は一九二七年に停止した、といふのはその時『トロツキーズム』の迫害が、特に尖鋭化されたからである。
 一九二八年一月、私は、現在のソヴイエツト政府によつて流刑に處せられ、支那國境で一ケ年を送リ、一九二九年二月に、トルコに追放され、而して今だに、コンスタンチノプルから、この文章を書いてゐるのだ。
 この蜷縮された摘錄ですら、私の生活の外面的行程は、ともかく單調だとは言はれないであらう。反對に、諸轉向、諸急變、諸激爭、諸浮沈の數をかぞへて、人々は、私の生活が寧ろ『冒險』に滿ちてゐると言ふでもあらう。だが、私は言つておかねばならぬ―性來の傾向として、私は、冒險追求者等と共通な何にものも持つてゐないと。私は寧ろ、私の性僻としては、衒學的《ペダンチツク》で、保守的である。私は規律と組織を好み、それを高く評價する。逆說《パラドツクス》を構へるのでなく、事實だから附加へておく要を見るのだが、私は無秩序や破壞を堪へ忍ぶことは出來ないのだ。私はいつもキチンとした、勤勉な學生であつたが、この二つの性質は私の全生活に亙つて保有されて來てゐる。內亂の數年間、地球を幾廻りもするに等しい距離を汽車でかけめぐつてゐる時、私は、切りたての松板でつくられた新しい圍墙《かこひ》を見る每に、いつも非常に嬉しがつた。私のこの性癖を知つてゐたレーニンは、時々友情的な仕方で、それについて私をなじつたものだ。そこに立派な觀念の見出し得られる良く書かれた書物や、他人へ自身の觀念を傳達する上での立派な文筆力やは、私にとつてはいつも文化の最も價値のある、重要な所產であつたし、今日でもさうである。硏究にたいする欲求は,嘗つて私を離れたことがなく私の生活中幾度か、私は、革命が私の體系的勞作の邪魔をすると感じた。だが、私の全意識的生活の約三分の一は、全く、革命的鬪爭で充されてゐた。而して現に今も、再びその生活に入らなければならぬとすれぼ、私ば、躊躇選巡するところなく、その同じ道を執るであらう。
 私は一個の亡命者として―三度目の——この文章を書かなければならぬ運命におかれてあり、この間には、私の親友達は、流刑地と、正にその創建にあたつて彼等が人も知る如き決定的な役割を演じたところの、ソヴイエツト共和國の監獄とを、滿してゐるのだ。彼等の或者達は、動揺し、退却し敵の前に降伏しつゝある。或者がさうなつてゐるのは、道德的に、疲勞したからであり、他の者の埸合は、事情の迷宮からの出路を他に見出し得ないからであり、更にまた他の者の場合は、物質的復讐の壓力に堪へられないからである。私はこれまで、さういふ工合に、大衆的に旗幟を拋棄する現象を二度經驗して來てゐる。一度は一九〇五年の革命の崩壊後、一度は世界大戰の初頭である。かく私は私自身の經驗を通じて、歷史上の潮〇干滿を十分によく知つてゐるのだ。彼等は彼等自身の法則によつて支配されてゐる。單なる焦燥は、彼等の變化を押し急がせはしないであらう。私は、歷史的展望を取扱ふに當つて、私の個人的運命の立場からそれをしないやうに慣らされて今日にいたつてゐる。諸出來事の因果關係を理解し、その關係の何處かに或人間の自身の場所を見出すこと―それが卽ち、革命家の第一の義務である。それと同時に、それはまた、自身の仕事を現在に局限しない人間にとつて可能な、最大の個人的滿足である。
一九二九年
プリンキポにて
エル・トロツキ—

目 次

譯者小序………………………………………………………. 一
序言………………………………………………………….. 七

第 一 章 ヤノウカ……………………………………………. 三
第 二 章 私達の隣人と私の最初の學校…………………………….四五
第 三 章 オデツサ・私の家庭と學校………………………………六九
第 四 章 書物と初期の鬪爭……………………………………..九九
第 五 章 田舎と都會…………………………………………一三三
第 六 章 破綻………………………………………………一五七
第 七 章 初期の革命團體……………………………………..一七三
第 八 章 最初の入獄…………………………………………一九一
第 九 章 最初の流刑…………………………………………二〇七
第 十 章 第一囘の脫走……………………………………….二二三
第 十一章 初めての亡命者……………………………………..二三五
第 十二章 黨大會と分裂……………………………………….二四九
第 十三章 ロシアへ歸る……………………………………….二七三
第 十四章 一九〇五年…………………………………………二八九
第 十五章 裁判・流刑・脫走……………………………………三〇九
第 十六章 二度目の外國亡命。ドイツ社會主義………………………三三五
第 十七章 新しい革命への準備………………………………….三六七
第 十九章 パリーとチンメルワルト………………………………三八九
第 二十章 フランスから放逐さる………………………………..四〇五
第二十一章 スペイン通過……………………………………….四二一
第二十二章 ニユー・ヨ—ク………………………………………四三一
第二十三章 捕虜集合收容所……………………………………..四五一
第二十四章 ペトログラード入り…………………………………..四七九
第二十五章 逆宣傳問題………………………………………….五〇一

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