読書ざんまいよせい(027)

◎蒼ざめたる馬(006)
ロープシン作、青野季吉訳

四月八日

 次に私が合つた時、ヴアニアは云つた。
「僕が始めてキリストを識つて、神に目醒めた時のことを話さうかね?シベリヤへ追放されてゐた時だ。或日獵に出た。オブヂ[オヸ?]流域で、川が大洋《たいやう》へ灌《そそ》ぐところは海のやうだ。天空は低く灰色で、渦卷く流れもやはり灰色だ。岸へは眼がとどかず。全く存在しないやうだ。一隻のボートは僕を小さい島へ上げた、夕方友達が迎へに來ると約束をしたんだ。僕は島を徘徊して、☓[一字不明、鴨か?]を打つた。そして、沼地で、朽ちた赤、小さい綠の丘や澤《さは》があつた。僕は岸が全く見えなくなるまで、步き續けた。僕の打つた☓[一字不明、鴨か?]がどこかに落ちたが、見つけることが出來なかつた。搜してゐる閒に夜になつて來た。だん/\暗くなつて、夜霧が川の上へは匍ひ上つた。僕は岸へ戾ることに定めて途に迷はないやうに、風の方向で確めた。が、一步踏み出すと、僕の足が地中へめり込み出した。 僕は丘の上へ足場を求めやうとしたが、駄目だ、 僕は泥沼へ落ち込んでるんだ。僕はぢわりぢわり<傍点>と沈んで行くんだ。一分閒にインチづゝ位。
「寒くなつて、雨が降り出した。片方の足を拔かうとしたが、一インチ深く更に沈むばかりだつた。もう、絕望して、銃を取上げて空中へ向つて射ち出した。誰か付けて來て、助けて吳れると思つて…
「風のヒユウ/\いふ音だけで、あたりはひつそりしてゐた。僕は膝の上まで埋れて沼地に立つてゐたんだ。僕は思つた。泥沼が僕を吸込んで仕舞つて、僕の頭の上でブクブクと泡が立つ、そして原《もと》のやうに、綠の丘より外に何にも殘らない。僕はすつかり氣落ちがして、泣き出しさうになつた。それからまた足を扱き上げやうとしたがーます/\惡くなるばかりだ。僕は氷のやうに冷くなり、白楊のやうに震えた。こんなになって僕は死ぬんだー世界の果てで……泥沼で……一定の蠅のやうには突然心が全く空虛になつたやうに感じた。何の事はない 僕は死にかゝつてるんだ。僕は血の出るまで唇を噛んだ。出來るだけ力を詰めて『片々の足を拔き上げた。 こんどは甘く行った。片々だけ自由になつたので、大きな歡びを感じた。長靴は泥沼にくつゝいて殘り、足から血が出てゐた。丘に足場を得やうとして、銃を力にして、もう片方の足を泥から拔き始めた。とう/\兩足で立上つた時に、僕は動かなかつた。また踏出すと泥沼に落込むことを怖れたんだ。僕は、 夜明けになるまで、そこで終夜立ち盡くしてゐた。その時なんだ、長い一夜の閒、泥沼の眞中にーー雨は降る、天空は暗い、風は吼えるーー立つてゐた時だ、僕の上 そして僕達の內に在ると、僕の心の深い底で識つたのは。恐怖はすつかり去って仕舞つて、僕 には歡びの外何物もなくなつた。重い/\ものが僕の心から消え去つた。翌朝、友達が來て救つて吳れた。」
「死が近づいた時、神を見る者は澤山あるよ。それをさせるのは恐怖なんさ。ヴアニア」
「恐怖だつて?そうかも知らん。が、こんな穢ない處で神が見られると思ふかい?心靈は、死が近づいて、その境界が見えた時に、高められるんだ。多くの場合、臨終に神を見るのはそれなんだ。僕もまた死が近づいた時神を見たんだ。」
「實際、君。」彼は一寸息を入れて、續けた。「實際、君ーー神を見ることほど君を幸福にすることは無いよ。知らない閒は、神は君の考へに入つて來はしないんだ。君はいろんな種類のことを考へる、然し神のことを考へない。或る人々は頭の中に超人を描いてみる。超人をして彼等は實際、哲學者の寶玉を登見し、人生の問題を解決したと思つてゐる。が、僕から見ると、彼等は みんなスメルヂヤコフみたいなものだ。彼等は、自分に最も近い者を愛すことは出來ない、その代りの最も遠い昔を愛す……·といふ。しかし、君の廻りに居る者に愛が持たれないで、どうして 君から遠い者に愛が持たれるのだ!他人の爲めに死ぬこと、君の死を彼等に與べることは容易《たやす》いことだ。が、人々のめに生きることは非常に六つかしい。 それは、一日々々、一刻々々を愛によつて生きることだ、神の愛するやうに、凡ての人閒を、凡ての生ける者を、愛することだ、自身の存在を忘れることだ。自己の爲めでなく違い者の爲めでもなく、生命を創ることだ。僕等は 慘酷になつてゐる、僕等は獸のやうだ。人閒がどんなに方々で躓いて步くか、彼等がどんなに求 めても見出すことが出來ないかを見るのは、悲しいことではないか?彼等は支那の神々を信じ、木の丸太を信じて、神を信じキリストを愛することは出來ないのだ。僕等は少年の頃からその毒で腐れてゐるのだ。ハインリヒを見ろ。彼は一つの花をた一つの花だと呼ぶことが出來ない。かやうな花冠とかやうな花辯を有つ、かやう/\な屬のかやう/\な科の花と、いつも彼は誰加へなければ氣がすまない。こういふ下らない細かいことが、彼は花そのものを見させてしもふんだ。僕等が役にも立たないつまらぬことの爲めに、神を見そこなふのもやはりそれなんだ。僕等には數學と推理しかないんだ。しかしあの夜は、泥沼の眞中の小さい丘の上で立ち盡して、 死を待つてゐた時に、その時に僕はよく解ったんだ。理性は萬能ぢやない、その上に何物かゞ在るが、僕は目隱しをしてゐるから、見ることが出來んのだ、知ることが出來んのだと。 何故 笑ふのだ、チヨーヂ?」
「む、一人前なことを云ふね。」
「そんなことはどうでもよい。どうだ、人は愛なくして生きることが出來るか?」
「勿論、出來るさ。」
「どうしてだ?どうして出來るんだ?」
「全世界に唾を吐きかけりやいゝんだ。」
「チョーヂ、そりあ眞面目に言つてんぢやなからうね?」
「眞面目だよ。」
「あゝ、ヂヨーヂ!」

四月十日

 私は今日知事を見た。彼は背の高い、細かく刈込んだ口髥のある、寧ろ容貌いゝの老人で、眼鏡をかけてゐる。 廣場は昨日まで一面雪覆はてゐたが、湿つた舗石道を顕はしてゐた。氷は消え去つて、川は日射にキラ/\と輝いてゐた。雀が囀つてゐた。
 一臺の馬車がその家の玄關に止つた。私はすぐそれと分つたーー黑い馬、黃い輪止め。私は廣場を橫切つて、家の方へ行つた。私が近いた時に、扉が一杯に開かれて、見張りの巡査が挨拶をした。知事は靜かに階段を下りて來た。私は舖石道に根を下したやうに立つて、ちつと彼を見詰めた。彼から目を外すことさへ出來なかつた。彼は頭を上けて、私を見た。私は帽子をとつて、 丁寧に彼にお辭儀《じぎ》した。彼は微笑をうかべて、軍帽に手を舉けて私のお辭儀《じぎ》に答へた。その瞬閒、私は彼を厭に思つた。
 私は公園の方へぶら/”\步いて行つた。足に泥がくつゝいた。鴉が赤揚の閒を飛び廻つてゐた。

四月十日[ママ]

 私は暇潰《ひまつぶ》しに圖書館へ行つた。大きな靜かな室の中の讀書家の多くは、髥を生した大學生や、 髮を短く剪つた女大學生であつた。顏を綺麗に剃つて高いカラーをしてゐる私は、彼等とはひどくかけ離れてゐた。非常な興味を以つて古典を讀んだ。古代の人々は實際良心などを持つてはゐなかつた、彼等は心理を求めはしなかつた。彼等はたゞ生きただけだーー草が生え、鳥が歌ふと同じに。聖《きよら》かな單純ーーそれが、生活を受入れ、それに叛逆《はんぎやく》しない唯一の道ではないか?彼等は彼等を護つてくれるやうに神に願ひ、……神は彼等を護つた。ウリスは彼等の財產を掠奪する者との戰ひに、彼等を護つてくれるバラスの女神を有つてゐた。
 私を見捨てないやうに、どんなに私は禱つたらいゝか?私は誰に助力と保護とを訴へたらいゝか?私は獨りだ。しかし誰も私を護ってくれる者のない以上、私は自分で護らなければならな い。神を有たない以上、私が私自身の神とならなければならないのだ。
 ヴアニアが私に言ったことは何であったか?すべての事が赦されると考へることは、スメルヂヤコフへ導く。……しかしスメルヂヤコフは他のすべての者より惡い者では無い。

編者注】ワーニャ(当訳本ではヴアニア)は、カミュ「正義の人々」でのセルゲイ大公暗殺の実行者カリャエフとされている。画像は「正義の人々」本邦初演のポスター。

読書ざんまいよせい(020)

◎蒼ざめたる馬(005)
ロープシン作、青野季吉訳

◎蒼ざめたる馬(004)
ロープシン作、青野季吉訳

 四月六日

 復活祭の前週間は過ぎた。今日、楽しいは鳴り響いてゐる。復活祭の日曜日だ。夜は、投び 満ちた行列、キリストの讃美の中に、過ぎた。街々は朝から澤山の人出がして、林檎一つ落ちる 余地もない。頭に白いハンカチーフを巻いた百姓女、兵隊、襤褸を着た食、制服の學生 彼等はみんな接吻したり、 向日葵の種を噛んだり、お僥舎《しやべ》りをしたり、笑ったり、無駄口をたさいたりしてゐる。赤い復活祭の卵や、しやうが<傍点>餅が路傍で賣られ、色のついた風船がリボンにつながれてゐる。群衆は、巣の中の密蜂のやうに、ブンブン鳴りざめいてゐる。
 少年時代に私達は、四旬齋《レント》の六週間のあひだ聖晩餐の仕度をした。 丸一週間斷食をして、式の日にも、晩餐の儀禮のすむまでどんな食べ物に觸れなかつた。それから五週間目《パツシヨンウイク》が来た。 ……おゝ、私達の跪拝の狂熱、會堂に展けられた救世主の御慕への熱情的な密着! 「主よ、われらが罪を赦させ玉へ。」復活祭の朝々は、天國のやうな感じを與へた。蠟燭の輝き、蠟の匂ひ、僧侶の雪白な法服、金色の龕があつた。・・・・・興奮で息が詰りそうであつた。キリストはすぐ甦り玉ふか?
 私達は清められた復活祭のバンの一片を持つてすぐ家に歸らうか?
 家では、すべてがお祭りの仕度になつてゐた。復活祭の全週間はお祭り日であつた。
「お占ひなされ、旦那さま。」一人の小娘が私の手に封じ物を押し入れた。
 小娘は裸足で襤褸を着てゐる。お祭りらしい様子は何にもない。 彼女から買った灰色の紙に、次のやうな豫言がある。
「悪運に追廻さるとも、希望を棄つる勿れ、失望に道をゆづる勿れ。汝は大いなる困難に打克ち、運命をして汝にその車輪を向けしむるならん。汝の企は、汝の思ひしよりも更に一層大いな る、全き成功を以つて飾らるゝならん。」
 そうだ、私にとって、これは佳い復活祭の卵ではないか?

 四月七日

 ヴァニアは他の人達と一緒に、馭者立場に暮してゐる。彼は腰掛の上に彼等と喰付いて眠る。彼は共同釜で食つてゐる。 自分で馬の手入れをして、馬車の掃除をする。 彼は馬車を驅って、終日、街中で費す。彼はこぼ<傍点>さない。彼の仕事にすつかり満足してゐる。
今日、彼は新しい着物を着て居り、頭髪は鮮やかに油をぬられて、長靴は氣持よく鳴る。
 彼は私に云つた。
「遂に復活祭が来た。それは善い・・・・・・キリストは甦った。眞實だよ、ジヨーヂ。」
「うむ、何が善いことだい?」
「あゝ、君は・・・・・・君は悦びを持つてゐない。君は、萬象を在りのまゝに受取らないんだ」
「君はそうか?」
「僕?そりあ全く別だ。しかし僕は君が気の毒だよ、ジヨーヂ。」
「気の毒だ?」
「そうだ・・・・・・君は誰をも愛さい。 君自身をさへ愛さないんだ。・・・・・・僕等の立場《たちば》に。一人の馭者がゐる、チツホンと云ふんだ。色の黒い髪の巻き下つた百姓なんだ。彼は悪魔のやうに意地惡だ。以前には大變な物持ちだつたんだが、大火ですつかり持つてたものを無くしたんだ。人が憎くんで彼の家へ放火したんだ。彼はそれが忘れられないで、誰でも、どんなものでも、呪つてゐる。彼は、神も、學生も、商人も、小供さへも、呪つてるんだ。 彼は彼等をすつかり嫌つてるんだ。『彼奴等は犬畜生だ。彼奴等は誰も彼も。』と彼は云ふんだ。『彼奴等はキリスト教徒の 血をすゝつてるんだ。そして神は、天から彼奴等を見下して、それを観て楽しんでゐるんだ。』・・・・・・或日、僕が茶店を出て立場へ歸つて来ると、チツホンが立場の真中に突立つてゐた。脚を廣く 開いて立ち上つて、袖を巻くし上げてゐた。大いに手綱を握つて、馬の眼を激しく打つてゐるんだ。生命《いのち》の氣《け》もない可哀想な馬は、拳固を外そうとして頭をふるのに、彼は續けかけ續けかけ眼を亂打するんだ。『骸骨奴!』 彼は皺枯れ聲で努鳴った。『獣奴!思ひ知らしてやるぞ』『チツホン 何故可哀相なものを打つんだ!』私は彼に問ふた。『默れボロ野郎!』彼はさう答へて、益々怒つて馬を打つんだ。。
 ヴアニアは砂糖の小さい一塊りを嚙んで、茶を綴って、續けた。
「怒るなよ、ジヨーヂ、笑ふな。僕の考へてることを知ってるかね?僕等は、僕等はみんな、貧しい心なんだ。僕が生活を驅つて行く力は何だ?憎惡だ、たゞ憎惡だけだ。僕等は愛さない、愛すと云ふことはどんなことか、僕等は知らない。僕等は戰ふ。僕等は殺す。 僕等は焼く。そして僕等もまた絞め殺され、縊られ、焼かれるのだ。何者の名に於いて、それが爲されるのか?聞かせてくれい。。
私は肩をゆすつた。
「ハインリヒに聞け、ヴアニア。」
「あゝ、ハインリヒ!彼は人々を自由にして、彼等のすべてに食物を與へることを信じてゐる。 しかしそれはマルタの役目なんだ。マリアお役目は何だ?人が自由の爲めに死なんとする。いや 自由の爲めばかりぢやない、一滴の涙の爲めにも死なんとする、それは僕は十分了解する。僕も、地に奴隷なく、飢ゆる者の無いことを、神に禱る。しかしそれで事がすむんぢやないよ、ジヨーヂ。現在、人々の生活が非眞理の上に建てられてあることを、僕等は知ってる。眞理はいつたい何處に在るのか?話せるなら話して呉れ。」
「眞理とは何か?君の言ふのはさうか?」
「そうだ、真理とは何か?ねえ君 『我の生れ、我の此世に来れるは、眞理の證《あかし》を爲さんが爲めなり。眞理に在る凡ての者は、我聲を聞く』さ。」
「ヴァニア、キリストは、汝殺すこと勿れ、と云つたよ。」
「知ってる。しかし血のことはまだ云ふな。何か他のことを話して呉れ。歐羅巴は世界に二つの言葉を與へて、それを苦痛で封じ込んだ。第一が自由だ、第二が社會主義だ。しかし僕等は世界にどういふ言葉を與へたか?自由の名において、多くの血が流された。が、誰が自由を信ずるか?が、君は實際、社會主義が地上の天國だと信ずるか?愛の名において、愛の爲めに、誰が火刑柱に上つたか?人々が自由になり、子供が食に飢えず、母が泣き悲しまないだけでは充分ではないと、僕等のうちの誰かこれまで敢《あ》えて言つたか?それよりもつと以上に、彼等がお互に相愛する必要が、大いなる必要があるんだ。神は彼等共に在り、彼等の心の中に在らねばならんのだ。それだのに、その神と愛を、彼等は忘れてゐる。しかしマルタは眞理の分でしかない。あとの半分はマリアだ。僕等のマリアは何處に居るか?一つの大きな道の爲めに、今や戰はれてゐる、僕は强くそれに信頼する。それは百姓の道だ。凡てのキリスト教徒の道だ、實にそれは、キリストの道なんだ。それは神の爲めに、愛の爲めに、戦はれてゐるんだ。人々は釋放たれ、食を與えられ、愛の生命は彼等のものとなるだろう。僕もまた、吾々は神の民だといふことを、信ずる。愛が吹き込まれ、キリストがその中につてゐるのだ。僕等の言葉は、復活の言葉だ、主よ、甦れ!……僕等の信仰は小さい、僕は小供のやうに弱い。それだから僕等は劍を執《と》るんだ。僕等が劍を振廻すのは、力がある爲ぢやない。僕等の弱さと僕等の恐怖とからなんだ。しかしながら明日来る者を待て。彼は純なる者だ。彼等は劍を要しない。彼等は强い。が、彼等の來る前に、僕等は死ぬだらう。そして僕等の小供のその孫が神を愛するであらう。彼等は神のうちに生き、キリストを讃美するであらう。新しい世界が彼等に啓らけ、彼等はその中に、僕等が現在見ることの出来ないものを、見出すてあらう。……そして、おゝ、ヂヨーヂ!今日は復活祭の日曜日だ。キリストは甦つた!せめて今日一日だけで僕等の傷《きず》を忘れやう。そしてお互に眼を打合ふことを止《よ》そう……」
 彼は、新しい考が突然思ひ浮んだやうに、寧ろ不意に止《や》めた。
「どうしたんだ、ヴァニア?何か云はうとしてるたんぢやないか?」
「君に云ふがねぇ。鎖を斷ち切ることは不可能だ。僕には他の途はないんで、全く何にも。僕は殺しに行く、しかし僕は福音を信する、キリストを讃へる。おゝ、苦痛だ!」
 居酒屋は、お祭りを祝つた酒醉ひの喧騒で滿たされてゐた。ヴアニアは卓子掛の上に頭を低く垂れかけて待つてゐた。私は何をすることが出来たか・・・手綱《たづな》で彼の眼を打つことか?

・写真は、「集合写真の断片。ボログダでの若きサヴィンコフ(Wikipedia より)
・著者・訳者とも著作権は消失している。

読書ざんまいよせい(010)

◎蒼ざめたる馬(004)
ロープシン作、青野季吉訳

 三月二十八日。

 知事は確かに彼の生命に對する企てを知つた。昨夜彼は、突然ボドゴルノエへ出立した。私達はそこへ尾けて行つた。ヴアニャ、フエドル、ハインリヒは異つた場所で見張りをした。 私は町を彷徨つた。それが私の定められた役目だつた。
 私達はいま彼のこを十分知つてゐる。失敗する筈はない。すぐ日を決めてよい。ヴァニャが第一に……

 三月二十九日。

 アンドレエ・ペトログツチはこゝに居る。彼は、中央委員會の一員で、諸鑛山での長い年月の勞働と西比利へ追放されたことを誇としてゐて、古い革命家の生活をしてゐるのである。 憂鬱な眼と失つた灰色の髪を持つてゐる。
 我々は一緒に料理屋へ登った。
「ねえ。ヂヨーヂ君。」彼は惶てたやうな様子で始めた。「少時《しばらく》仕事を延ばそうと云ふ話しが出てるゐるんだがね。君はどう思ふかね?」
「給仕!」と私は呼び立てた。「蓄音器で『コルネヴイコの鐘』をやれ。」
「君は他事《よそ》々々しくしてゐるが」と彼は言った。「非常に重大な事だよ。我々の現在の策略と下院の仕事とどうして調和し得るか?我々は確實な周到な立場を保たなけりやならない。一方かまたは他方なんだ。立憲主義に適合して下院に這入つて行くか、若くは、明らさまに反對して、そして……それから勿論……ね、どう思ふね?」
「どう思ふつて!どうも思はないさ。」
「然し、よく心を定めて呉れ給へ。事情は君を―‐君達の團隊をだよ--除外するかも知れないから。」
「何?」 私は寧ろ鋭く訊ねた。
「除外すると云ふのは適當な言葉ぢやない、然し--ね、どう云つたらよいか?… 勿論我々は分つてゐる……ねぇヂヨーヂ君、我々は了解してる……それが我々の仲間をどんなに失望させるか知つてゐる。我々は高い価値をおいてる……そして、要するに未だ何事も定つてはないんだ」
 彼の類は檸檬《レモン》のやうに黄く、眼の周りに皺があつた。彼は、場末の惨めな下宿に住んで、酒精ランプで湧かした茶を啜って、一冬《ひとふゆ》薄い外套を着て、企らんだり議論したりして時を費してるたに違ひない。彼は『仕事をしてゐた』のであつた。
「アンドレエ・ペトロヴッチ」と私は彼に言った。「決心なんぞは打捨つて置き給へ。君の勝手にしていゝ譯だ。君達がどんな決定をしやうと、やはり僕達は仕事を続けるばかりさ。」
「本統にそうか?君は中央委員の決定に歸しないのか?」
「然し、ジョーヂ君。」
「それが僕の最後の言葉だ。アンドレエ・ペトロヴツチ。」
「それならどうする?」彼は私をせがんだ。
「うむ。」
「仕事をどうする?」私は言ひ返した。
 彼は溜息をして、私に手を差した。
「君の今言ったことを僕は彼等に云ひはしない。」と彼は言った。「どうにか甘く行って欲しいものだ。君は僕を怒ってやしないだらうね?」
「さよなら、ヂヨーヂ。」
「さまなら、アンドレエ・ペトロヴツチ。」
 空は寒さの近い兆に星で一杯であつた。狭い荒れた通りは不思議な光景を呈してゐた。 アンドレエ・ペトロヴツチは汽車に間に合ふのに急がなければならなかった。可哀そうなお爺さん、可哀そうな父《とつ》ちゃん坊つちやん!······それでもまあ彼等のは天國だ。

三月三十日

 私はまたエレーナの家の近くをぶらつき始めた。それは巨大な、灰色な、重々しい建物だ。 地主は商人のキユボロソフだ。エレーナはそんな立派な家にどうして住んでることが出来るんだらう。
 霜の中に立つて、閉ちた扉の前を何度も行つたり來たりして、起つて来そうもないことを待つ てゐるのは、馬鹿々々しいと云ふことを私は知つてゐる。ひょつとして彼女に遭ったとしても、 それがどうなることか?何にもならないのだ。
 私は昨日大通りでエレーナの夫に會つた。最初私が遠くから彼を見た。その時彼は寫真を見るのに或店の窓際に立ち止つたのであつた。彼は私の方へ背中を向けてゐた。私は這いて、彼の傍に止った。彼は背の高い、細々して、頭髪の見事な、二十五位の男で、士官だ。
 彼は見返つてすぐ私が分つた。私は彼の眼の中に悪意と嫉妬とを認めた。彼が私の眼に何を認めたかは知らない。
 私は彼に嫉妬もしてゐなければ、彼を嫌つてもゐない。然し彼は私の邪魔になつてゐる。そこに物或物が在る。 彼を眺めたときに私には次の言葉が思ひ浮んだ。
 今日は雪がして小川は傾斜地を走つてゐる。水が日光にキラ/\輝いてゐる。 雪が溶け 田舎の空氣には春の匂ひ、興奮させるやうな森の濕りがある。夜はまだ霜が下るけれど、 日盛りには地面は滑らかになつて屋根からは滴りが落ち始める。
 この前の春を私は南方で過した。夜は參宿《オリオン》の輝きがあるばかりでのやうに闇であつた。 朝、私は海へ出る道でよく砂利濱を歩いた。 ひーず《傍点》は森の中で蕾がふくらみ、白百合もやはりそうだ。私は懸崖に登った。焼くやうな陽光は私の頭上にあり、遙か下方に海の透き通るやうな靑さを見ることが出來た。 蜥蜴は石の上を匍ひ、蚊は空中に羽を鳴らしてゐた。 私は熱い石の上に軀を伸して波の音に入ることが好きだった。時が過ぎて、物は忽ち私の眼から消えて仕舞ふ――海も、森も、春の花も。全宇宙が生命の無限の歓びに滿ちた巨大な一軆となつた・・・・・・そして 今は?
 私の友達のベルデユームの士官が、コンゴーで服務した闇の生活を私に語った。そこには
彼が唯一人で、五十人の黒人兵士を率いてゐた。彼の哨兵線は大きな川の岸に在つた。太陽は少 しもほどよい濕さを送らず、發黄病の不斷の危険のある所であつた。對岸には彼等の王と法律と 有つてゐる黑奴の獨立部落があつた。晝は夜に続き、再び晝が来た。朝も、晝も、晩も、彼は 砂の岸のある同じ濁つた川、靑く光つた同じ爬蟲類、分らない言葉をかつてゐる同じ黒人を見る のであった。折々暇つぶしに彼は銃を取つて茂つた葉の中にある毛の頭を打った。
 彼の兵士が岸の黒奴を一人捕虜にすると、それを一定の場所において、暇つぶしに射撃の標的にした。逆《ぎやく》にまた、彼の方の一人が對岸で捕へられると、手足を切取られて、川の中に立たせられ、頭だけ出して一晩中そうしておかれた。翌日には彼の首は切られた。
 白人が黑人と異いがあるかどうか私は疑ふ。異ひは何であるか?選擇がなされなければなら ない。「汝殺す可からず」か――この場合、我々の凡ては、黑人があると同じに、人殺しだ。また は「眼には眼、齒には齒」か――この場合には、辯解する必要はない。私の望みはそうだ。 そして 私は私の好きなことを實行する。申譯や、他人の意見を非常に氣にする中には、臆病の要素が含 まれてみないか?何故人は、人殺しと呼ばれることを怖れ、英雄と呼ばれることを欲するか?要するに、他人の言ふことに向つて、私は何を氣にするか?
 ラスコルニコフは婆さんを殺して、婆さんの血で彼自身が息を止められた。ヴアニアは殺す爲 めに出てゐる。彼は幸福を感ずるであらう。 彼はそうであらうか、私は疑ふ!愛の爲めにそれをするのだと、彼は言ふ。しかし愛は存在するか?キリストは實際三日目に死から甦つたか?······ それはみんな言葉に過ぎないのだ・・・・・・。否《いな》。」
  お前の襦袢の虱《しらみ》が、
 「お前は蚤《のみ》だ」とお前を嘲ったら
 引きづり出して殺して仕舞へ。

著者・訳者とも著作権は消失している
図は、ザヴィンコフ「テロリスト群像」(上)岩波現代文庫 表紙

読書ざんまいよせい(007)

◎蒼ざめたる馬(003)
ロープシン作、青野季吉訳

  三月十七日。

 私が何故この仕事を始めたか、私は知らない。然し他の者がそれに入つて來た理由は知つてる。ハインリヒはそれが私の義務だと信じてゐる。フエドルは妻が殺されたので私と付い た。 エルナは生きてゐるのは恥だと云ふ。ヴァニアは… ヴァニア自らに語らせやう。
 最近彼が私の者となつて、一緖に郊外で終日した。 私は彼と旅舍で談合する約束があつた。
 彼は、下層階級の人の着けるやうな長靴に靑服でやつて來た。彼は鰓髯を直して髮を圓く刈込んでゐた。彼は言つた。
「時に、君はこれまでキリストのことを考へたことがあるか?」
「誰のこと?」
「キリストのことさ、神人キリストのことさ。君はこれまで、何を信じなければならんか、どうして生きなければならんか、君自身に尋ねたことがあるかね?宿屋や、馭者溜りで僕はよく聖書を讀むんだ。そして僕は、人閒にはた二つの道しか開けてゐない、實際二つ切りだといふ結論に達したんだ。一つは、ての事は許す可きだと信することだね。いゝかね、例外無しに凡てのことがだだよ。もしどんな考へにも冒し進んで慄《おじ》けない心を持つてゐれば、その道によつてドストイエフスキーのスメルヂヤコフのやうな人物が作られるだ。 要するその態度にも論理はある、と云ふのは、神が存在せず、キリストが一個の人閒に過ぎない以上は、そこにはまた愛もない、卽ち君を抑へる何物も無いからね。モウ一つはキリストに導いて行くキリストの道だ。人閒の心に 愛があるなら―本統の深い愛だよ―彼は殺すことが出[來 1字補]ると思ふか出來ないと思ふか?」
 私は答へた。「出來るさ、どんな場合でも」
「いや、どんな場合にも出來ない。 殺すことは大きな罪だ。「同胞の爲にその生命を棄つるより 「大いなる愛は無し」さ。 そして彼は、生命より以上の―彼の心靈も投け出さなければならないんだ。彼は彼自身の十字架に上らなければならんし、愛によつて―愛だけによつてが促されないからには、どんな決心もしてはならないんだ。他の動機なら彼をスメルヂヤコフ*に戾して仕舞ふんだ。僕の生命を取つて見給へ。何の爲めに僕は生きてゐるか?僕の最後の時が、僕が全生命をその爲に生きなければならなかつたものを證據立てる爲めなんだ、全く。僕は神に祈る。神樣、愛の爲めに君を死なせて下さいと。が、人殺しをする爲めにお禱りをする者があるか?人は殺すであらう、然しそれに就いて禱りはしない…僕は知つてゐる、僕は心の中に十分に愛を持つてゐないんだ。 僕の十字架は僕には重過ぎて擔へないんだ。」
「笑ふな。」と彼はすぐ後で言つた。「何にも笑ふことは無い。僕は神と神の言葉のことを話してるんだ。僕が譫語《たわごと》を言つてると君は思つてるんだらう。實際君は僕が譫語を云つてると思つてるかい?え?」
私は返事をしなかつた。
「默示錄の約翰」を覺えてゐるだらう。「この時に人々死を求ん爲《なせ》ども能はず。死んことを願へど死は遁去《のがれさる》べし。」と云つてゐる。死を願ふ時に、死が君から去るほど恐ろしいことがあらうか?君もまた死を求めるだらう。 我々皆も。どうして僕等は血を流すか?法律を破るか?君は法律を認めない。血は君には水と同じだ。然し覺えてる給へ、いつか君は僕の言葉を思出すだら う。君はその結末を追ひ求めてゐるが、それはやつて來ないだらう。 死は君から遁去るだらう。 僕はキリストを信ずる、實際信ずる。然し僕は彼と共に居ないのだ。 僕は彼に値しない。 僕は泥と血で穢されてるのだ。それでもなほ慈悲深い神は來て下さるだらう。」
 私はぢつと彼の眼を凝視めて答へた。
「それなら、 何故殺すか?君は勝手に僕から離れていゝんだよ。」
 彼の顏はすつかり靑ざめた。
「どうして君はそんなことを言ふんだ?僕の靈は惱んでゐる。然し僕は出來ない…… 僕は愛する。」
「譫語だ。ヴァニア。もうそんなことを考へるな。」
 彼は答へなかつた。
 私は彼を離れて、街へ出るとすぐ、すつかり忘れて仕舞つた。

[編集者注]
* ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の登場人物、小説では、父親を殺害。

  三月十九日。

 エルナは泣いて淚の中から云つた。
「あなたはもうわたしを愛してゐない。」
 彼女は私の肱掛椅子に坐つて、手で顏を蔽ふてゐた。彼女の手がそんなに大いことを、前に氣が付かなかつたのは不思議だ。
私は彼女を深く凝視して言つた。
「聲を立てるな、エルナ」
 彼女は眼を上げて私を見た。彼女の赤いと落込んだ下唇が彼女を醜くした。私は窓の方へ向いた。 彼女は肱掛椅子から立つて、おづ/\私の袖を引いた。
「ごめんなさいよ」彼女は言つた。「もう聲を立てませんから」
 彼女は時々泣聲を立てる。 最初に眼が赤くなつて、それから頬が膨れ出して、おしまひにはかすかな涙が頬の上にけて来る。何といふかな涙だ!
 私は彼女を膝に引寄せた。
「エルナ」私は彼女に言つた。「僕がおまへを愛すると此迄云つたことがあつたかい?」
「いゝえ」
「僕はおまへを欺いたかい?他の女も僕は愛すると云はなかつたかい?」
彼女は答へなかつた。たゞ全身を震はした。
「どうだね。」
「え、そう仰つたわ。」
「だからね、おまへに飽きが来たら、僕はおまへに言つて仕舞ふよ。決してお前に祕したりなんかしない。僕を信するだらうね?」
「え、信じます。」
「む、それでいゝ。さあもう泣くのは止せ。 おまへより外には無いんだよ。」
 私は彼女にキスした。 彼女は次のやうに云つて、樂しさうな顔をした。
「どんなにわたしはあなたを愛してるでしやう!」
 然し私は彼女の大きな手を忘れることは出来なかつた。

  三月廿一日。

 私は英語は一言も知らない。旅館や、料理屋や、町で、片言混りの露亞西語をつかふ。それか 時々いやなことが起つて來る。
 昨夜私は芝居に行つた。赭い、汗つほい顏をした嚴丈な男が側に掛けてゐた。彼が鼻を鳴して深い呼吸し、幕の開いてる間半眠りをしてゐた。幕合に私の方を向いて訊ねた。
「あなたは何國《どこ》の方《かた》ですか?」
 私は返事をしなかつた。
「お分りになりませんか?」と彼は再び訊た。「あなたのお國を知り度いんです」
 私は彼を見ないで答へた。
「私は英國皇帝の一臣民です。」
これで彼は満足しないらしかつた。
「誰の臣民だと仰るんですか?」と彼は重ねて訊ねた。
「英國人ですよ。」
「あゝ英國人…あなたが?それならあなたは世界で一番悪い國民にしてるんですね。 彼奴等《あいつら》は日本人に加勢して對島海峡で我國の旗艦を沈めた。彼奴等のすることはそんなもので。それでゐてあなたは知らん顏で、露西亞へ旅行に來てゐる。 止しにして貰ひ度い!」
 人々が私達に目を向けた。
「私にものを仰ることをやめて戴きましやう。」と私は低い聲で言つた。
「あなたを巡査に渡します。 私のすることはそれだ。」彼は聲を張り上げて言ひ續けた。「お覧なさい此の男を!あれはきつと日本の間だ。それでなけりあ、何かの詐欺師だ。英国人だつて、本統に!巡査がなぜ尾けないんだらう」
 私はポケットの中の拳銃を觸つた。
「お默んなさい。」と私は命じた。
「默れつて!いや、二人で警察へ行かう。そこへ行けばも何《なに》彼《か》も分るんだ。間諜は我国では許されないんだ。神聖な露西亞萬歳だ!」
 私は立ち上つて、彼の闘い血の灑いた眼を眞直に見詰めた。
「三度君に警告する、默んなさい!」
 彼は肩をすくめて一言も言はないで坐つて仕舞つた。
 私は劇場を出た。

  三月廿四日。

 ハインリヒは丁度二十二になる。學生の時には會合でよく饒舌つた。その時分は眼鏡をかけて長い髪をしてゐた。今は、彼もヴアニアのやうに粗野になつた。痩せていつも顏を剃るつてゐない。彼の馬も痩せて、馬具はボロ/\で、橇は古物だ。彼は最下層階級のありふれた橇屋だ。
 ある日彼は私とエルナをに乗せて來た。町の門を出る時に、彼はくるりと後を向いて言つた。
「このあいだ僕は坊主と喧嘩したよ。そいつがラウンド・スクエヤの番地を云つて、十五コペ ーキの橇代を拂はうと云つたんだ。僕は所を知らないから、橇をくる/\後を挽いて廻つたんだ。とう/\ 奴《やつ》怒り出して仕舞つて、毒付き出すんだ。『泥棒め、貴様は道を知らないんだな、巡査に引渡すぞ!』 それから續けて云ふんだ。『馭者といふものは自分の燕麥《からすむぎ》の嚢のやうに町をちゃんと知つて居らにやならんもんだぞ。貴様はきつと騙つて鑑札を取つたんだな。一ルーブル位の賄賂を つかつて、試驗なしに通して貰つたんだろう。』僕はそいつを取るのに面倒したよ。『どうぞ旦那様お赦し下さい』と僕は云つた。『キリスト様の爲めにお赦し下さい!』 彼の言ふことは實際だ。僕は試験を受けやしないんだ。 宿無しのカルプジヤが僕の代りに受けてくれて、僕は手間賃に五十コベーキ拂《はら》つたんだからね」
 エルナは聞いてるなかつたが、彼は非常に油が乗つて續けた。
「すぐ二三日前も藝當をやつたよ。或お爺さんの夫婦を乗せたんだ。いゝ階級の禮儀正しい人らしかつたが、かなりの老夫婦だつた。丁度ロング・スツリートを駆けて行つた時に、電車が停留所に止つたんだ。それを餘り気にも留めないで、僕は軋道を駆けぬけた。すると橇の中の老夫婦は飛び上つて、激しく僕の首筋を蹴飛した。『惡者奴!』と彼は呼んだ。『貴様は私達が轢死させるつもりか?氣狂のやうに驅立てゝどうするんだ、畜生!』
「『旦那様何も驚きなさることはありません。』と私は言った。『横切つたつて何でもないことでございます。電車の出る迄にはまだ少時《しばらく》あります。その時女が佛蘭西語で彼に云ふのが聞えた。ジアン、そんなにお怒りなさるなよ。お體に大層さわりますよ。馭者もやはり人間ですから』 彼女 は實際、馭者もやはり人間だと云つたんだ。すると彼は露西亞語で答へた。『それはそうだらうが、此奴は獸《けだもの》だよ』『おゝ、ジアン、』と彼女は云つた。『そんなことを仰つては恥《はぢ》になります。それから彼が僕の肩を軽く叩くのを感じた。『濟《す》まなかったな。』と彼は言った。『氣に掛けなさんな。』そして彼は二十コペーキのチツプを呉れた。……彼等は多分自由黨なんだらう。……おい右だ 婆《ばあ》さん孃《ぢやう》さん!」
 ハインリヒは惨めなよろ/\の馬に鞭を當てた。 エルナはそつと私に寄り添った。
「エルナ・ヤコヴレヴナさん。此の土地はいかゞですね?仕事に慣れましたか?」
ハインリヒは寧ろ辱かしそうにしてこの問ひを發した。 エルナは嫌やらしい風で答へた。 「すつかり満足してますわ。 そりあ仕事にももう慣れましたわ」
 私の右手には黑い亡靈のやうな櫟樹があり、左手には野原《のはら》の白い衣があつた。町は前に展がつてゐた。會堂は日光に輝いてゐた。
 ハインリヒは口を噤み、橇の軋る音の外は、通りは深い沈默の中にあつた。ハインリヒは私達を町へ返した。橇から下りる時に私は、彼の手に五十コベーキをおいた。彼は霜を被った帽子を脱いで、長い間私を見つてゐた。
 エルナは低語いた。
「今夜、あなたのところへ行ってもよくつて?」

注記】画像は、古本市場で出品の「蒼ざめたる馬」奥付き。なお本文、訳文の著作権は消失している。
参考】川崎浃訳「蒼ざめた馬」(岩波書店 同時代ライブラリー)

読書ざんまいよせい(005)

◎蒼ざめたる馬(002)
ロープシン作、青野季吉訳

第一編

「……一匹の蒼ざめたる馬を見たり、之に乗る者の名は死と云ふ……」……黙示錄六ノ八、
「兄弟を憎む者は暗に居り、暗に行きて其往くところを知らず、その目を暗に曇らさるればなり」……約翰第一書二ノ十一、

  三月六日。

 私は昨夜 N に着いた。このまへ見た時と同じだ。 食堂の上には十字架が閃き、橇はバリ/\する雪の上を辷つてキィ/\音を立てる。 朝は霜深く 窓硝子には氷の華が出来て僧院の鐘は聖餐を告げてる。私はこの町を愛する。私はこゝで生れたのだ。
 私は英國皇帝の赤い印章とランスダウン卿の署名のある旅行免狀を有つてゐる。この旅行免狀は、私―英國臣民、ジョージ・オブラインエン―が土其古及び露西亜に旅行することを証明してゐる。 私は露西亞官憲からは、「観光客」として録されてゐる。
 この旅館は私を退屈させる。 青銅の大廣間廻りも、金ピカの鏡も、絨緞も、知りぬいてゐる。 私の部屋にはボロボロの安樂椅子があり、窓掛けは埃だらけだ。 私は三キログラムのダイナマイトを机下に置いてある。 それは外國から携へて来たのだ。ダイナマイトが藥種屋の店先へ行つたやうな匂ひがする。夜、私は頭痛がした。
 私は今、散歩に出掛けてゐる。並樹道は暗く、淡雪が降つてゐる。 遠い所で大時計が鳴る。全く私ひとりだ。私の前には、町と懶惰な住民の安らかな生活が横たはつてゐる。 私の心の中で、 箴言が響く。
「而して、われ汝に暁の星を與へん。」*

[編集者注〕
*ヨハネ黙示録2-28

  三月八日

 エルナは青い眼と重そうに編んだ髪を有つてゐる。彼女は私にすがり着いて哀願した。
「些とはわたしを愛して?」
 五六個月前には、彼女は女王のやうに身を委せて、私からは何物も求めず、 何の望みも持つてゐなかつた。今は、乞食のやうに君に愛を希ひ求める。 私は雪で蔽はれた廣庭を窻ごに眺めながら、彼女に言つた。
「真つ白な雪だねえ」
 彼女は首垂れて返事をしなかつた。
 私はまた言つた。
「昨日街へ出て、モツト綺麗な雪を見たよ。全く薔薇色だつた。そして、赤楊樹の影が靑かつたよ」
 私は彼女の眼の中に讀んだ。
「何故わたしも一しよに連れてつて下さらなかつたの?」
「ね」私は再び始めた。「おまへは露西亞の田舎へ入つたことがあるかね?」 
 彼女は答へた。「いいえ」
「そうか。春先になつて、野原には下萌えがして、森の中には待雪草が持つやうになつても、山峡にはまだ雪があるんだ。そりや妙だよ。白い雪に白い花だ。見たことがある?無い?珍らしい光景だつてことは想像が付くだらう?」
 彼はささやいた。「いいえ」
 そして私は、エレーナのことを考へてゐた。

  三月九日

 知事は衛兵と刑事の二重の警護の下に、昔からの家に住んでゐる。
 私達は五人の小さい仲間だ。フエドルとヴアニアとハインリヒとは橇屋に化けてゐる。彼等は 知事の動靜をうかゞつて私に知らせる。 エルナな藥品には手慣れてゐる。彼女は爆弾を製へる。
 私は室内に坐つて町の圖取りを調べてみる。私達の仕事をする道路の圖引きする。 私の彼の生活や日々の習慣を建て直して見る。思考の中で、私は彼の家の招待會に出席する。 私は彼と相携へて門の後の花園を散歩する。夜、彼に隠れて、彼が床に入る時に、彼と一緒にお歸りをする。
 今日、私は彼を瞥見した。私は通りで彼を待ち受けて、長い間凍てた人選を行つたりきたりしてみた。暗くなつて、寒さが烈しかつた。私はもう望を棄てやうとしてゐた時不意に、隅つこにゐた巡査監督が手袋を振つた。巡査共が緊張し、刑事が諸方へ走つた。死のやうな沈黙が街路に滿ち渡つた。
 一臺の馬車が疾走し去つた。馬は黒かつた。馭者は赤髯であつた。戸の曲つた把手、黄い輪止めが私の目に止つた。馬車の後に一臺の橇がぴつたり喰付いてゐた。
 目の前を余り迅く行き過ぎたので、彼の顔を見当てることが出来なかつた。彼も私を認めなかつた。彼によつては私は街路の一部分に過ぎなかつた。私は静かに踊りかけた。幸福に感じた。

  三月十日。

 彼のことを考へる時に、私は嫌悪又は忿怒を意識し無い。同時に、彼に対して何等のも感じ無い。一個人としては彼は私と無関係だ。然し私は彼の死ぬこ欲する。力は下らないものを打壊さんとする。私は言葉に信頼し無い。私は、私自身が奴隷であることを欲しないし、他の誰かが奴隷であることも欲しない。
 何故殺してはならないか?人殺しが何故に、成場合には是認され、他の場合又は非認される 人々は理由を見出す、然し私は、何故人は殺すことをしてはならぬかを知ら無い。これこれの名に於いて殺すことが正しいと考へられ、他の何かの名に於いて殺すことが誤つてゐるとは何故であるか、私は了解が出来ない。
 私は始めてに行つた時のことを記憶してゐる。刈り取られた畑は赤く、到るところに蜘蛛の巣がかかゝつて、森は靜かであつた。私は雨に叩かれた路の傍の森の端に立つてゐた。赤緑樹は、囁きを立て、黄葉が舞つてゐた。私は待つてゐた。 突然、草の中に掻きすやうな動きが起つた。小さい灰色の塊のやうな野兎が、茂みから飛出して來て、用心深く後足で蹲踞んだ。彼は邊はりを見廻した。私は震えなから銃を上げた。遠い森の中に反響が起り、青い煙が赤緑樹の中にボーと登つた。血で濡れた黑ずんだ草の上にいた野は悶え苦しみ、赤兒のやうに鼻を鳴して欷歔《すゝりな》いた。私は可哀そうに思つた。 二發目を放つた。悲鳴が止んだ。
 家に還へると私は、彼が存在してゐなかつたかのやうに、また彼からその最も大切なもの―生命―を奪つたことがなかつたかのやうに、彼のことはすつかり忘れて仕舞つた。そして 私は、私の享樂のために彼を殺したといふ事が、私にどんな感情も起さないのに、彼の悲む呼びを聞いた時に苦しく感じたのは何故であるかと、自ら訊いた。

  三月十三日

 エレーナは結婚してこに住んでゐる―彼女について私の知つてるのはそれだけだ。毎朝、 閑散な時に、私は彼女の家を見る爲めに並樹路を彷徨く。白い絨毛のやうに柔かだ。雪が足の下で音を立てる。 時計の鈍い音を聞く。十時だ。ベンチに腰を下して、氣長に時を數へる。私は自らいふ。
「昨日は彼女にはなかつたが、今日は食べるだらう」
 一年前に私は始めて彼女を見た。その春、私はNを還りがゝつて、朝大公園へ行つた。大地は濕つて、高い樹と細いボブラは、通りを詰めた沈默の中に、ほんやり立つてゐた。小鳥さへ啼かなかつた。たゞ小川の低いさやきがあつただけだつた。太陽がぶつぶつと流れる水の上に 輝いてゐた。君はその昔に聞入つてゐた。私が眼を上けた時に反對の側に一人の女を見た。彼女は私に氣が付かなかつた。私は、私が同じものに耳を傾けてゐたのだといふことを知つた。 その女はエレーナであつた。

  三月十四日

 私は私の室に坐つてゐる。上の部屋で誰かピヤノを弾いてゐる。かすかに聞くことが出来る。 足は柔かい絨氈の中に消えてゐる。
 私は革命家の不安な生活とその寂しさに慣れてゐる。私は私の未來のことを考へない、また知り度くも無い。私は過去を忘れやうとする。私は家もない、名も無い、家族も無い。 私は自分にいふ。
  黒い大きな眠りが
  私の生命の上に落つ、
  眠れ すべての望、
  眠れ すべての欲、
 希望は決して死な無い。何の希望?「曉の星」を得ることか?私はよく知つてゐる。私は昨日殺した、今日も殺そうと思ふ、明日も殺すことを續けて行くであらう。「而してして第三の天使は、河の上、泉の上に、その場を注き出し、それらは血となれり。」*汝は水で血を消すことは出來ない。火でそれを焼き盡すことは出來ない。墓に行くすべての道は血であらう。
  私はもう何もしない。
  私は記憶を減する
  美いことも悪いことも
  おゝ、哀れな歴史!
 キリストの復活を信じ、ラザロの復活を信する者は幸だ。社會主義を信じ、地上に来る可き天國を信ずる者は幸だ。こんな古臭い話は私には馬鹿々々しいだけだ。分配される十五エーカーの土地は私を誘惑し無い。私は自身に云つた、奴隷であることを欲しないと。 これが私の自由か?實際みぢめな自由だ!何故私はそれを追つてゐるのか?何の名に於いて、私は殺す爲めに出て行くのか?たゞ血の、一層多くの血の爲めにか?
  私は赤子だ
  白い片手は
  墓穴の洞に、
  沈默…沈默…**
 戸にノックがある。 エルナに違ひない。

[編集者注〕
*ヨハネ黙示録16-4
**ヴェルレーヌ「叡智」
フランス語原文は
Un grand sommeil noir
Tombe sur ma vie
Dormez, tout espoir,
Dormez, tout envie.

Je ne vois plus rien,
Je perds la mémoire
Du mal et du bien,
O, la triste historie !

Je suis un berceau,
Qu’une main bakance
Au crex d’un caveau
Silence, silence…

注記】本文および訳文の著作権は消失している。