日本人と漢詩(077)

◎永井荷風と大沼沈山
「江戸詩人選集」には、以前、紹介した成島柳北とともに、大沼沈山の詩も載っていた。そこで、沈山の詩を繙くとともに、彼を扱った永井荷風の「下谷叢話」を読んでみた。

永井荷風は、森鷗外に傾倒し、師とも仰いでいたようだ。特にその史伝小説に影響され、関東大震災の後、古き東京(江戸)に思いをはせ、「下谷叢話」(青空文庫)を発表した。鷗外のそれとは一味違い、扱う人物が荷風の縁者(鷲津毅堂の外孫)なだけに、思い入れが深い気がする。また大窪詩仏、菊池五山、館柳湾、梁川星巌、成島柳北など江戸後期から末期、明治に至るまでの漢詩人が網羅的に多く登場、彼らのコミュニティも描かれ、そこにも荷風の憧れを感じる。後半になると、維新前後の詩人が多くなり、文字通り「二世」を生きた人生だったが、荷風が取り上げる沈山は、江戸時代の「一世」を送り、残りは余燼ともいえる。荷風は書く。

枕山の依然として世事に関せざる態度は「偶感」の一律よくこれを言尽《いいつ》くしている。

孤身謝俗罷奔馳 孤身俗ヲ謝シ奔馳ヲ罷ム
且免竿頭百尺危 且ツ免ル竿頭百尺ノ危キヲ
薄命何妨過壯歲 薄命何ゾ壮歳ヲ過こユルヲ妨ゲンヤ
菲才未必補淸時 菲才未ダ必ズシモ清時ヲ補ハズ
莫求杜牧論兵筆 求ムル莫カレ杜牧ノ兵ヲ論ズルノ筆ヲ
且檢淵明飮酒詩 且ツ検セヨ淵明ノ飲酒ノ詩ヲ
小室垂幃溫舊業 小室幃《い》ヲ垂レテ旧業ヲ温ム
殘樽斷簡是生涯 残樽《ざんそん》断簡是レ生涯
[語注]奔馳:走り去る 竿頭百尺:更に一歩を踏み出すことを目指す 杜牧:唐の詩人、兵法書に詳しい 淵明:晋の詩人、陶淵明、「飲酒」の詩は有名 幃:とばり 断簡:文書の断片、「断簡零墨」という

 わたくしはこの律詩をここに録しながら反復してこれを朗吟した。何となればわたくしは癸亥震災以後、現代の人心は一層険悪になり、風俗は弥いよいよ頽廃《たいはい》せんとしている。此《か》くの如き時勢にあって身を処するにいかなる道をか取るべきや。枕山が求むる莫《なか》れ杜牧《とぼく》兵を論ずるの筆。かつ検せよ淵明が飲酒の詩。小室に幃《い》を垂れて旧業を温めん。残樽《ざんそん》断簡これ生涯。と言っているのは、わたくしに取っては洵《まこと》に知己の言を聴くが如くに思われた故である。

枕山は年いまだ四十に至らざるに蚤《はや》くも時人と相容《あいいれ》ざるに至ったことを悲しみ、それと共に後進の青年らが漫《みだ》りに時事を論ずるを聞いてその軽佻《けいちょう》浮薄なるを罵《のの》しったのである。

飲酒


憶我少年日 憶フ我ガ少年ノ日
距今僅廿春 今ヲ距《へだ》ツルコト僅《わず》カニ廿春
當時讀書子 当時ノ読書子
風習頗樸醇 風習頗ル樸醇
接物無邊幅 物ニ接シテ辺幅無ク
坦率結交親 坦率交親ヲ結ビ
儒冠各守分 儒冠各々《おのおの》分ヲ守ル
不追紈袴塵 紈袴ノ塵ヲ追ハズ
今時輕薄子 今時ノ軽薄子
外面表誠純 外面誠純ヲ表ス
纔解弄文史 纔ニ文史ヲ弄スルヲ解シ
開口說經綸 口ヲ開ケバ経綸ヲ説ク
問其平居業 其ノ平居ノ業ヲ問ヘバ
未曾及修身 未ダ曾テ修身ニ及バズ
譬猶敗絮質 譬フレバ猶敗絮ノ質ノゴトク
炫成金色新 炫《くらま》シテ金色ノ新タナルヲ成ス
世情皆粉飾 世情皆粉飾
哀樂無一眞 哀楽一真無シ
只此醉鄕內 只此ノ酔郷ノ内ニ
遠求古之人 遠ク古ノ人ヲ求ム
小兒李太白 小児ハ李太白
大兒劉伯倫 大児ハ劉伯倫
隔世拚同飮 世ヲ隔テテ同飲ニ拚《まか》セ
我醉忘吾貧 我酔ヒテ吾ガ貧ヲ忘レン

[語注]憶我少年日:陶淵明の雑詩「憶う我少壮の時」 樸醇:質素で真面目 坦率:さっぱりして飾り気がない 儒冠、紈袴:儒者が貴族の子弟に取り入る。杜甫「紈袴餓死せず、儒冠多く身を誤る」 敗絮質:ぼろの綿入れのような実情 李太白、劉伯倫:ともに酒豪、劉伯倫は「竹林七賢」の一人 拚:すっかりまかせる

ここで、荷風が割愛した沈山の「飲酒」の二首目を掲げる。


春風吹客到 春風《しゅんぷう》客《かく》を吹いて到らしむ
春酒傍花斟 春酒《しゅんしゅ》花に傍《そ》うて斟《く》む
不談天下事 天下の事を談《だん》ぜず
只話古人心 只《ただ》古人の心を話《かた》る
樽空客亦去 樽《たる》空《むな》しくして客《かく》亦《また》去る
月淡海棠陰 月淡くして海棠《かいどう》陰《くら》し
明朝又來飮 明朝《みょうちょう》又《また》来《き》たりで飲め
何勞抱素琴 何ぞ素琴《そきん》を抱《いだ》くろ労《ろう》せん

[語注]明朝又來飮:李白「我酔うて眠らんと欲す卿しばらく去れ。明朝意あらば琴を抱いて来たれ」 素琴:弦のはっていない琴。陶淵明が撫でて楽しんだとある。

 枕山がこの「飲酒」一篇に言うところはあたかもわたくしが今日の青年文士に対して抱いている嫌厭《けんえん》の情と殊《こと》なる所がない。枕山は酔郷の中に遠く古人を求めた。わたくしが枕山の伝を述ぶることを喜びとなす所以《ゆえん》もまたこれに他《ほか》ならない。

「天下の事を談ぜず、ただ古人の心をかたる」とは、「紅旗征戎《こうきせいじゅう》吾が事に非ず」(藤原定家「明月記」)にも通じるかもしれないが、沈山や荷風の感慨を額面通りに受け取ってはならず、彼ら独自のイロニーであろう。たしかなことは、時代の風潮に「前向き」なだけが、その人の評価にはならないことである。こうした荷風の江戸末期と大正から昭和にかけてを重ね合わせ、沈山に思いをはせる気持ちは現在にもきっと生かせるだろう。

荷風は、「下谷叢話」を、明治以降についての沈山などの詩作については、その墨を薄くしており、毅堂と沈山の死をもって静かに擱筆する形となる。これまた荷風の見識だろうが、余燼ともいうべき明治に入っての沈山も、世間を確かな眼で眺め、なかなか「熱いもの」を持っているようだが、いずれ、また。

【参考】
・永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫、青空文庫)
・「成島柳北 大沼沈山 江戸詩人選集 第十巻」 岩波書店

後退りの記(005)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」晶文社
◎渡辺一夫「ある王公の話-アンリ四世」(「フランス・ルネッサンスの人々」(岩波文庫)所収)
◎渡辺一夫「寛容《トレランス》は自らを守るために不寛容《アントレランス》に対して不寛容になるべきか」(トーマス・マン「五つの証言」(中公文庫)所収


1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺に触れる前に、少し、渡辺一夫さんの発言を聞こう。渡辺さんは「フランス・ルネッサンスの人々」の中で、ルネッサンスから少し時代を下った、アンリ四世の話題を取り上げている。激烈な宗教対立のなか、よほど、印象深い人物だったのだろう。また、プロテスタントからカトリック、あるいはその逆の転向を選択したのも、ナントの勅令(Wikipedia)につながる「宗教的寛容」として、評価している。さらには、後年には国々の軋轢を抑制、調停する国際機関も構想していたという。カントの「永久平和論」に先立つこと200年も前のことである。彼の政治的思惑や実際的な行動を別にしても、きわめて現代的でもある。ハインリッヒ・マンの弟にあたるトーマス・マン「五つの証言」(渡辺訳)所収の評論では

秩序は、守らなければならず、秩序を紊す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきだろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。…既成秩序の維持に当る人々、…その秩序を紊す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を紊す人々の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。

上記の文章を引いたのは、昨今の状況に鑑みると、十分にアクチュアルだが、特定の個人を念頭に置いたものではないので、誤解なきよう…

渡辺一夫評論を補強する意味で、写真は、鷲田清一「折々のことば」(朝日新聞)(ツイート裕次郎より)

日本人と漢詩(076)

◎武田泰淳と杜甫

先日亡くなった大江健三郎の師ともいうべきフランス文学者・渡辺一夫にとってのラブレー、機会があれば紹介予定の「下谷叢話」( 青空文庫)を書いた永井荷風にとっての江戸後期文化、今回の武田泰淳にとっての司馬遷を始めとする中国文学(戦時中、殺戮の歴史というべき、中国通史「資治通鑑」を読み終えた中井正一も付け加えてもいいかもしれない。)は、彼らにとっては時代の風潮に対する抵抗の拠り所になった。彼らの時代とはまた違う困難な現代を生きる私たちにとって、そのよすがが何であるかをふと考えたくなる。
さて、武田泰淳には、戦後、数年を経て短編「詩をめぐる風景」が発表された
そのエピグラフにはこうある。

ー円き荷《はす》は小さき葉を浮かべ
細き麦は軽き花を落すー杜甫

詩の全体は、以下の通りで、五言律詩の頷聯《がんれん》である。

爲農 農と為る
錦裡煙塵外 錦里《きんり》煙塵《えんじん》の外
江村八九家 江村《こうそん》八九家
圓荷浮小葉 円荷《えんか》小葉浮かび
細麥落輕花 細麦《さいばく》軽花落つ
卜宅從茲老 宅を卜《ぼく》して茲これ従り老いん
爲農去國賒 農と為って国を去ること賒《はる》かなり
遠慚勾漏令 遠く勾漏《こうろう》の令に慚《は》ず
不得問丹砂 丹砂を問うことを得ず

語釈、訳文は、杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会
古代文化研究所:第2室などを参照。

『杜甫にとって安住の地であった、蜀成都の草堂も彼にとって安住ばかりはできなかったようだ。『杜甫の奴僕たちにとっては草堂は宿命のようなものである。……奴僕たちは他の世界を知らない」として、外の世界に開かれない宿命をもった奴僕に対し、杜甫は外界を求めてさまよう宿命にあった。「草堂は永いこと杜甫の脳裏にえがかれた幸福の象徴であった。……自然にひたり、草木にうずもれて詩の世界をひろげるために、杜甫は草堂を求めていた」。杜甫は「草堂」という「混沌世界の中に占める自分の一点」を維持してこそ、「幸福の象徴を追い求めながら旅をつづける文学者の生き方」ができたのだと泰淳は描く。
そのような生き方を選ぶ理由を、泰淳は「詩をめぐる風景」という小説において次のように説明する。「安定できず安住できない自分というものが、自分の詩の不安ではあるが新鮮な泉になっている」、「次から次へあらわれてくる諸現象、そしてそれをむかえての自分のもろもろの精神状態のごく複雑な総合が自分の詩をささえている。……それ故、自分の外界が安定しないばかりでなく、自分の内心そのものが広い広いとりとめもない混沌世界であるように思われる。」泰淳が描いた杜甫は、戦乱によって引き起こされる内心の葛藤こそが詩を作る原動力であることを知り、安穏とした草堂生活に留まることができず、「家」を捨て、「漂泊の生涯」を送る詩人であった。』

王俊文 中国戦地の風景を見つめる「喪家の狗」―武田泰淳の日中戦争体験と「風景」の創出― より

逆に、彼はそうした心情を素直に吐露することで、成都の自然(この詩では、円き荷と細き麦)とうまく重ね合わせたくみに詩情を詠いあげているように思われる。「農と為る」は為りきれない彼の吐露をのぞかせる詩題であろう。それにしても、小説では、農奴である阿火と阿桂の若きカップルの結末が哀れである。

成都の草堂は、チベット・ラサからの帰り道、成都に宿泊、そのついでにたっぷり一日訪れたことがある。もちろん、杜甫の時代の草堂とは大違いで、大規模に整備もされ、効率よく杜甫の生涯を辿ること可能だが、散策の道には人も少なく、彼の真情に少し触れることができた。

【参考】
・武田泰淳「中国小説集 第二巻」新潮社(写真)

後退りの記(004)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎アレクサンドル・デュマ「王妃マルゴ」
◎萩尾望都「王妃マルゴ」

アンリ・ドュ・ナヴァール(後のアンリ四世)は、1572年、人生の大きな転換点を迎えることは、前回に述べた。時の王母カトリーヌ・メレディスの娘、マルゴリットと結婚したことは、その一つであった。王族の婚姻はご多分に漏れず、政略や思惑の上にあっていることは例外ではあり得ない。実の母を毒殺したとのうわさもあるカトリーヌの縁者など常識では考えられない。しかし、そうしたことをのり越えて、アンリにとっては案外慧眼であったのかもしれない。のちのち、マルグリット王妃は、彼にとっては、結果的にはキーパーソンになる要素があるからだ。
アンリにとって、マルゴは幼いころに知り合ったかもしれないが、決して愛愛の相手ではないし、マルゴにしてもカトリック派の首領、ギーズ公との関係が深かったかもしれないが、同様である。その後のアンリも愛妾には事欠かなかったようだ。
第一巻だけだが、萩尾望都の少女漫画を久しぶりに読んだ(ないし眺めた)が、少女時代のマルゴの描写が興味を引いた。周囲に信仰が少しだけ異なるだけで、簡単に人を殺める風潮に、きっぱりと「私は人を殺さない」の決意するところなど、彼女のその後の人生を形作る元になったのだろう。母のカトリーヌとは違う気質のようだ。
デュマも二人の結婚直前から小説を起こしている。その二人の会話
「承知しましたわ」彼女はいった。
「政治的同盟、誠実で忠実な同盟を?」アンリはたずねた。
「誠実で忠実な同盟を」マルゴは答えた。

「ありがとう、マルグリット。…あなたの愛を手に入れるのは無理にしても、友情は欠けていない。あなたを当てにしています。あなたもわたしを当てにしください。」

ナヴァール王はかすかに笑いながらつけ加えた。「わたしは、恋愛の貞節よりも、政治の忠実さを必要としているのです」
本邦の同時代の夫婦で言えば、織田信長と濃姫に比することができようか。

日本人と漢詩(075)

◎一海知義と中国留学生

本箱が、本の重みで一部棚が落ちてしまった。仕方なく新調することにして、並べていた書物を取り出したが、パラパラめくり、中には熱中し、読み返しの連続で、なかなか作業が進行しない。漢詩を中心とした時折の随想を集めた著書で、7年前に物故の、一海知義先生の本があったので、結局読みふけってしまった一本の一つである。そのなかに、「『文革』を批判した漢詩」という一節があった。
思えば、1989年の第二次天安門事件から、やがて34年が経とうとしている。その弾圧の首謀者の一人、李鵬(Wikipedia)も亡くなってしまった。天安門事件の2年後、1991年3月20日、「人民日報」海外版にアメリカ留学生の、李鵬を諷する漢詩が投稿された。さすがに「人民日報」もその寓意は理解できなかったようだ。
ちょうど今の時期、中国では全人代が開催されている。前回だったかの会議の直前には、当方は中国滞在中であったが、会議の始まる前に、なかば強制的に中国から追い払われ、予定を切り上げ、日本に帰国した。今回もそうした強権発動があったことだろう。そして天安門事件などなかったように、習体制の賛美に終始することだろう。

東風拂面催桃李 東風(はるかぜ)面《おもて》を払いて桃李を催《うながせ》ば
鷂鷹舒翅展程 鷂鷹(とんび)《ようとう》翅《はね》を舒《のべ》て鵬程を展ず(鵬とおなじように遠くまで飛ぼうとする)
玉盤照海熱涙 玉盤(白玉の大皿のような月)を照せば熱涙下《くだ》り
遊子登思故城 遊子(たびびとである私は)台に登りて故城(故郷の町)を思う
休負生報國志 負《そむ》く休《な》かれ平生国に報いんとする志に
育我勝萬金 人民の我を育《はぐ》くむこと万金に勝《まさ》れり
起急追振華夏 憤起急追して華夏(祖国中国)を振《ふる》わさんも
且待神洲遍地春 且《しばら》く待たん神洲(中国)の地に遍《あまね》きの春を

第一句の最後の文字から斜め上にたどり、第八句をそのまま読むと、
李鵬、台より下《くだ》れば、民の憤《いきどお》りを平らげん、
且《しばら》く待たん神洲の地に遍《あまね》きの春を。

なお、Wikipedia 掲載の詩とは若干の異同がある。

汚職の噂も絶えない李鵬が内閣、大臣をやめれば、民衆の怒りもしずまり、春の訪れも期待できるだろう。それまでは、忍耐がつづくかもしれないが…

天安門事件で、旗を振りながら素手で戦車に立ち向かった一人の若者がいた。彼を想いながら、上記の漢詩に倣って、短歌を一つ。

いはざり
はたにおり
かぜには
とわ()つたゑかし
づつにむかひて

「『文革』は本質的にはまだ決着がついていません。しかしほんとうにそこから脱却する日は必ず来るでしょう。中国人民の批判精神と楽天性、私はそこに信頼をおき、期待しています。」(一海知義)
写真は、事件以前の天安門(1988年 Wikipediaより)
【参考】
一海知義「詩魔ー二十世紀の人間と漢詩」 藤原書店
 

後退りの記(003)

◎堀田善衛「ラ・ロシュフコー公爵傳説」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

「われわれの美徳は,ほとんどの場合,偽装した悪徳に過ぎない。」人口に膾炙したこの句は、高校時代山仲間だったN君の口癖だった。ある意味、温厚だったモンテーニュの口調とはひと味ちがう感触に驚いたものだった。それがラ・ロシュフコー「箴言と考察」という本を知るきっかけだった。

1572年は、フランスにとって多事多難な年であった。アンリ四世(当時皇太子)の母が、ナバラ王国女王ジャンヌ・ダルブレ(Wikipedia)が、息子のマルグリット(マルゴ)王妃との結婚式に列席するため、パリに赴く途中で急死した。ライバル・カトリーヌ・ド・メディシス(Wikipedia)が、毒殺したとの噂が絶えなかった。母の遺言を結婚式に向かうアンリに託したのが、フランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)であると、ハインリッヒ・マンは書く。三世は、「箴言と考察」の著者の曽祖父にあたる。その後、サン・バルテルミの虐殺(Wikipedia)という大悲劇が起こった。その結果、その頃は、プロテスタントだったフランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)は、パリの路上で殺されてしまったのである。その後は、当代の六世に到るまで、ラ・ロシュフコー家にとって苦難の日々だったのである。フランス絶対王政の確立の契機となったフロンドの乱(Wikipedia)では、当代は瀕死の重傷を負うが、それは後の話となるので、機会があれば言及するだろう。

日本人と漢詩(074)

◎成島柳北


仏蘭西《フランス》がらみの話題である。

成島柳北(1837-1884)は、幕末から明治にかけての人、当初は幕臣にて、荻生徂徠からの系譜で儒官であった。遊蕩にも精をだしたらしく、「柳橋新誌」なる戯作も著した。森繁久彌も時代を下っての縁者らしい。(Wikipedia)その柳北は、維新後、「東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)、共に欧米を巡る。」その時にパリとベルサイユを訪れたときの詩。

巴里雜詠 巴里雑詠(四首のうち二首)
一.
十載夢飛巴里城 十載《じつさい》 夢は飛ぶ 巴里城《パリじよう》
城中今日試閑行 城中 今日《こんにち》 閑行《かんこう》を試《こころ》む
畫樓涵影淪渏水 画楼《がろう》影を涵《ひた》す 淪渏《りんい》の水
士女如花簇晚晴 士女《しじよ》 花の如く晩晴に簇《むら》がる
閑行:のんびり歩くこと。
淪渏:さざ波。
二.
五洲富在一城中 五洲《ごしゆう》の富 一城の中《うち》に在《あ》り
石叟陶公比屋同 石叟《せきそう》 陶公《とうこう》 比屋《ひおく》同じ
南海珊瑚北山玉 南海の珊瑚《さんご》 北山の玉《たま》
廛廛排列衒奇工 廛廛《みせみせ》 排列《はいれつ》して 奇工《きこう》を衒《てら》う
五洲:全世界。
石叟:晋の石崇。富裕の人。
陶公:中国・春秋時代、越王勾践に仕えた范蠡《はんれい》。のちに斉に移り、巨万の富を築いた。
比屋:どの家も。

烏児塞宮 烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》

想曾鳳輦幾回過 想《おも》う 曾《かつ》て鳳輦《ほうれん》幾回《いくかい》か過《よぎ》り
来与淑姫長晤歌 来《きたり》て淑姫《しゅくき》と長く晤歌《ごか》せしを
錦帳依然人未見 錦帳《きんちよう》依然たるも 人見《み》えず
玻璃窻外夕陽多 玻璃《はり》窓外《そうがい》 夕陽《せきよう》多し

烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》:バロア朝時代のルーブル宮からブルボン朝のルイ十四世(アンリ四世の孫)から王宮はパリ郊外のベルサイユに移された。
鳳輦:フランス歴代の王や皇帝の馬車。
淑姫:貞淑で美しい婦人
晤歌:一緒に歌う。詩経陳風「東門之池」「彼の美なる淑姫、与《とも》に晤歌すべし」
依然:昔のまま。

成島柳北は、他の多くの官僚・知識人と同様に、福沢諭吉のいうごとく、江戸時代から明治にかけて「二世を生きた」ことは間違いない。でも、成島は、福沢のように、近代的な自己を持つことはついにできなかった。(もちろん、後年の福沢が唱えた「侵略主義」的主張を是とはしないが…)成島がパリを訪れた、1872年といえば、前年、パリコミューンが樹立されたが、約半年で崩壊させられ、徹底的な弾圧の嵐が吹き荒れていた直後であるが、彼の詩情では一顧だにされない。かろうじて、ヴェルサイユ宮から見た夕陽が、普仏戦争、パリコミューンを経た大仏帝国の落日を象徴するとも言えるだろう。

写真は、Wikipedia から
【参考文献】江戸詩人選集第十巻 成島柳北 大沼沈山 岩波書店

後退りの記(002)

◎シラー「悲劇 マリア・ストゥアルト」 岩波文庫
◎ツヴァイク「メリー・スチュアート」 みすず書房

前回、ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」がらみで言えば、王母カトリーヌ・ド・メディシスの長男にして、夭折したフランソワ2世(François II de France, 1544年1月19日 – 1560年12月5日)と結婚したのが、後のスコットランド女王・メアリー・シュチュアート。彼女のその後の人生は、様々な小説、伝記、脚本、映画などでの題材を提供した。最期の数日間を緊迫するセリフで描いたのが、シラーの戯曲。そのクライマックスとも言える、政敵エリザベス女王との直接対決のシーン。

マリア:…---姉上!この全島国に代えても、いや、大洋に囲まれたすべての国を呉れるといわれても、私は今のこのあなたのような、そんな態度であなたの前に立ちたくはありません!
エリーザベット:とうとうあなたもご自分の敗北を承認なさったのね。策略もこれで尽きたのですか。もはや刺客も、来ようとしてはいませんか。この上、冒険者があなたのために悲しい騎士の努めを敢えてつくすことはないのですか。ーーーそうとも、もうお終いですよ、マリア様。

女王の寵臣で、メアリーとまんざらの中でもなかったレスター卿の思慕の思いが復活し、助命活動に傾きかけたところの、直前の裏切りなど必ずしも史実には忠実ではないだろう。ただ、レスター卿のマリアの最期を見届ける段での、彼の嘆きは、充分にドラマティックである。

レスター:(ただ一人居残って)俺はまだ生きている!この上にも生きておらねばならぬのだ!…俺は何たる損失をしたのだ。何という立派な真珠を投げ棄てたのだ。何という天福を取逃がしたことだ。ーーーあの方は死んでゆく、浄められた精霊として。ところが俺には呪われた者の絶望が残っているのみだ。…

あまり知られていないが、ロベルト・シューマンに、晩年に「女王メアリー・スチュアートの詩」として歌曲集が残っている。その中から、Youtube 収録の「祈り」。また、「あそびの音楽館」には、メアリー・スチュアート女王の詩 作品135 (Gedichte der Königin Maria Stuart, Op.135)全曲のMidi版と訳詞が載っている。彼女自身の詩に曲をつけたものだが、短調主体で物悲しく、それが彼女の人生だったのだろう。

岩波文庫のカバーにある、メリー・スチュアートは、16歳のころ、フランス王妃時代の肖像画である。(ツヴァイク「メリー・スチュアート」による、ツヴァイク曰く「それらを見るひとは、失望もしないが、あの讃歌的感激のとりこになりきることもない。そこに見られるのは、光り輝く美しさではなく、むしろ、きりっとした美しさである。」

日本人と漢詩(073)

◎宋希璟と「老松堂日本行録」(続き)

 

朝鮮半島から、対馬、九州、瀬戸内海の港に停泊しながら、現在の西宮に上陸、のちは「西国街道」をたどって京都に向かった。西国街道は、江戸時代に京から瀬戸内海への通路として整備され、「忠臣蔵=赤穂浪士」の登場人物、萱野三平の屋敷跡もこの街道沿いにあった。(Wikipedia https://w.wiki/6N9Q)室町時代にも、京へのショートカットとして利用されたようだ。
さて、使節の宋希璟は、そんなに社会的関心が強いほうではない。それでも西宮に上陸後、すぐに、食糧難民に出くわした。漢詩自体が伝統的に社会的関心が濃厚だった伝統ゆえか、彼の役人としての「経世救民」の心情のためか、次の一首を詠んでいる。
二十日發兵庫向王所路中雜詠二首 (四月)二十日兵庫を発して王所に向う路中の雑詠 二首
過利時老美夜店 利時老美夜店を過ぐ
處〃神堂處〃僧 処〃の神堂処〃の僧
人多遊手少畦丁 人に遊手多畦丁少なし
雖云耕鏧無餘事 耕鏧に余事なし云うと雖も
每聽飢民乞食聲 毎《つね》に聴く飢民の食を乞うる声
日本人多又多飢人又多殘疾處〃道邊合坐逢行人卽乞錢 日本は人多し。また飢人多く、また殘疾多し。処々の道辺に合坐し、行人に逢えば即ち錢を乞う。

語注】利時老美夜:にしのみや、摂津国西宮
畦丁:農民

宿盛加臥店用前韻 盛加臥店に宿す 前韻を用う
良人男女半爲僧 良人の男女は半ばは僧と為る
誰是公家役使丁 誰か是れ公家《こうけ》役使の丁ならん
未見賓來支對者 未だ賓《ひん》来りて支対する者を見ず
唯聞處〃誦經聲 唯聞くは処々に経を誦《よ》む声

語注】盛加臥:摂津国瀬川、西国街道の宿駅、現在の箕面市瀬川、瀬川神社のある所だろう
公家:朝廷。国家

貧窮の結果、仏門に入るものが多く、出迎えもなく、僧侶の読経の声がむなしく響く、といった所か?
小学校低学年の頃は、箕面市の隣、池田市石橋井口堂に住み、北豊島小学校にかよっており、瀬川神社のあたりまでが遊びのテリトリーだった記憶がある。

後退りの記(001)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

(右図は、本の表紙、左図は、Google Map でのアンリ四世像案内図)
「『人類は後退《あとじさ》りして未来へ入ってゆく』というヴァレリーの言い古された言葉が、私の脳裡に深く刻まれている。我々には未来は見えないが、過去ならば、見る眼がある限り見える筈である。後退りしながら未来へ進む我々の足を導き、愚劣なことを繰返さないようにしてくれるのも過去への反省である。…
自分自身に巣喰う痴愚と狂気を知り、それの蠢動を警戒する人々ならば、この大作が遺された幾多の教訓と慰安とを秘めていることを悟るだろう。」(渡辺一夫 本書推薦の辞より)

そこで、ヴァレリー先生や渡辺一夫先生の言葉に見習って今まで読みさしの本(それも今では結構古びた蔵書)の中から、比較的大部な本からの覚書をつくることにした。

もう、十数年前だったろうか、そういえば、セーヌ川に架かるボンヌフ橋のたもとに騎士の銅像があったのを覚えている。その時は、人物の名前や由来などは知らなかったが、この本に接して、その正体が判明した。時代は、日本で言えば、織豊時代から江戸時代にようやくかかる頃、フランスでのブルボン王朝の始祖、アンリ四世を主人公とし、彼にかかわる様々な人物の人間模様である。作者のハインリッヒ・マン(1871-1950)は、トーマス・マンの兄、1933年、ナチスの迫害により亡命、本書は1935年に発表されている。

アンリ四世は、スペインとの国境、ピレネー山脈に麓にあったナバール王国の王子、女王であり、熱烈なプロテスタントであった母ジャンヌ、フランス国王母で、メディチ家出身で策謀好きのカテリーナとの丁々発止の関わりから物語は展開する。