日本人と漢詩(081)

◎如月寿印(「中華若木詩抄」)と白居易

前回、漢詩の不特定多数向けの啓蒙書という話題に触れたが、どうやら、その形式ができあがったのが、室町時代の「抄物」が嚆矢だったようだ。その代表例が、「中華若木詩抄」で、中国では、唐・宋・元、そして明にかけての詩人、本邦では、ほぼ同時代の、禅僧の七言絶句、二六一首の解説を行うが、これが実に懇切丁寧である。以下、白居易(白楽天)の詩を紹介する。

明妃曲 白居易

滿面胡沙滿鬢風 面《おもて》に満《み》つる胡沙《こさ》 鬢《びん》に満《み》つる風《かぜ》
眉銷殘黛臉銷紅 眉《まゆ》は残黛《ざんたい》銷《き》え 臉《かお》は紅《べに》銷《き》ゆ
愁苦辛勤憔悴盡 愁苦《しゅうく》辛勤《しんきん》して憔悴《しょうすい》し尽《つ》くし
如今卻似畫圖中 如今《じょこん》 却《かえ》って画図《がと》の中《うち》に似《に》たり

明妃は、王昭君也。胡国へ赴かれたが、憐《あわ》れなるによりて、曲に作《つく》りて歌《うた》ふ也。昭君の義は耳熟することなれば、申するに及ばぬ也。一二之句は胡国へ赴かるゝ路《みち》也。面《かほ》へは胡沙を吹《ふき》かけ、髪をば寒風が吹乱《ふきみだれ》すぞ。眉に残《のこ》りたる黛《まゆずみ》も消《きえ》はてて、瞼の紅も失せて、ないぞ。三四之句は、胡国へ赴《おもむく》路次《ろじ》に辛労するほどに、身も衰《おとろ》へて、見し皃《かたち》もないぞ。


王昭君が選別されるときのエピソード-似顔絵を描く絵師に賂いをやらなかったために、醜婦に描かれ、漢の皇帝が、これなら差し支えないと王昭君を指名した。ところが、いざ顔を合わせると、あまりにも美形であったが、「綸言汗の如し」あとの祭りであったという。しかしこれは史実ではないらしい(Wikipedia 王昭君)ーを記載するが略する。

宮を出でし時《とき》は画図にも似ずしてうつくしかりつるが、風沙に吹埋《ふきう》められて身も衰《おとろ》へたれば、今こそ始《はじめ》て画図の中に似たれと云心也。妙なる詩也。

この「抄物」にはないが、王昭君第二も掲載する。

王昭君其二
漢使卻回憑寄語 漢使《かんし》 却回《きゃくかい》 憑《よ》りて語《ご》を寄《よ》す
黄金何日贖蛾眉 黄金《おうごん》 何《いず》れの日《ひ》か蛾眉《がび》を贖《あがな》わん
君王若問妾顏色 君王《くんおう》 若《も》し妾《しょう》が顔色《がんしょく》を問《と》わば
莫道不如宮裏時 道《い》う莫《なか》れ 宮裏《きゅうり》の時《とき》に如《し》かずと

ともに、語釈、訳文は、漢文委員会を参考のこと。

嘆髪落 髪ノ落ツルヲ歎ズ 白居易
多病多愁心自知 多病《たへい》多愁 心自ズカラ知ル
行年未老鬂先衰 行年《こうねん》未ダ老イザルニ 鬂先ンジテ衰フ
隨梳落去何須惜 梳ルニ随ヒテ落去ス 何ゾ惜シムヲ須《もち》イン
不落終須変作糸 落チザルモ 終《つい》ニ須《すべか》ラク変ジテ糸ト作《な》ルベシ

一の句、多病と云い、多愁と云い、吾と心中《しんぢゆう》に老衰を覚《おぼ》ゆるぞ。二之句、さあるほどに、いまだ年も寄《よ》らねども、鬂から衰《おとろへ》て行《ゆき》たぞ。行年は、星月とともに深《ふけ》行く年也。三四之句は、衰鬂を梳《けづる》に随つて落葉の如く落《おつる》ぞ。落《おつ》ると云《いう》ても、惜むべきことでないぞ。若《もし》此《この》髪が梳に随て落《おち》ずんば、白髪三千丈の絲となるべきぞ。落《お》ちずば、さて也。面白く云出《いひいづ》る也。

以上、「解説訳文」の部分は、カタカナはひらがなへ、訓点部分は読み下して改変掲載した。

語釈、訳文は、yoshのブログを参照のこと。

白楽天は、その当時は長命であったが、現在いう後期高齢者(七十五才)になった途端、世を去った。当方も、とっくに「髪ノ落ツル」時は過ぎたが、そこら辺まではなんとか行けるだろうかな?

【参考】「中華若木詩抄・湯山聯句鈔」(新日本古典文学体系)岩波書店

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