◎如月寿印(「中華若木詩抄」)と白居易
前回、漢詩の不特定多数向けの啓蒙書という話題に触れたが、どうやら、その形式ができあがったのが、室町時代の「抄物」が嚆矢だったようだ。その代表例が、「中華若木詩抄」で、中国では、唐・宋・元、そして明にかけての詩人、本邦では、ほぼ同時代の、禅僧の七言絶句、二六一首の解説を行うが、これが実に懇切丁寧である。以下、白居易(白楽天)の詩を紹介する。
明妃曲 白居易
滿面胡沙滿鬢風 面《おもて》に満《み》つる胡沙《こさ》 鬢《びん》に満《み》つる風《かぜ》
眉銷殘黛臉銷紅 眉《まゆ》は残黛《ざんたい》銷《き》え 臉《かお》は紅《べに》銷《き》ゆ
愁苦辛勤憔悴盡 愁苦《しゅうく》辛勤《しんきん》して憔悴《しょうすい》し尽《つ》くし
如今卻似畫圖中 如今《じょこん》 却《かえ》って画図《がと》の中《うち》に似《に》たり明妃は、王昭君也。胡国へ赴かれたが、憐《あわ》れなるによりて、曲に作《つく》りて歌《うた》ふ也。昭君の義は耳熟することなれば、申するに及ばぬ也。一二之句は胡国へ赴かるゝ路《みち》也。面《かほ》へは胡沙を吹《ふき》かけ、髪をば寒風が吹乱《ふきみだれ》すぞ。眉に残《のこ》りたる黛《まゆずみ》も消《きえ》はてて、瞼の紅も失せて、ないぞ。三四之句は、胡国へ赴《おもむく》路次《ろじ》に辛労するほどに、身も衰《おとろ》へて、見し皃《かたち》もないぞ。
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王昭君が選別されるときのエピソード-似顔絵を描く絵師に賂いをやらなかったために、醜婦に描かれ、漢の皇帝が、これなら差し支えないと王昭君を指名した。ところが、いざ顔を合わせると、あまりにも美形であったが、「綸言汗の如し」あとの祭りであったという。しかしこれは史実ではないらしい(Wikipedia 王昭君)ーを記載するが略する。
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宮を出でし時《とき》は画図にも似ずしてうつくしかりつるが、風沙に吹埋《ふきう》められて身も衰《おとろ》へたれば、今こそ始《はじめ》て画図の中に似たれと云心也。妙なる詩也。
この「抄物」にはないが、王昭君第二も掲載する。
王昭君其二
漢使卻回憑寄語 漢使《かんし》 却回《きゃくかい》 憑《よ》りて語《ご》を寄《よ》す
黄金何日贖蛾眉 黄金《おうごん》 何《いず》れの日《ひ》か蛾眉《がび》を贖《あがな》わん
君王若問妾顏色 君王《くんおう》 若《も》し妾《しょう》が顔色《がんしょく》を問《と》わば
莫道不如宮裏時 道《い》う莫《なか》れ 宮裏《きゅうり》の時《とき》に如《し》かずと
ともに、語釈、訳文は、漢文委員会を参考のこと。
嘆髪落 髪ノ落ツルヲ歎ズ 白居易
多病多愁心自知 多病《たへい》多愁 心自ズカラ知ル
行年未老鬂先衰 行年《こうねん》未ダ老イザルニ 鬂先ンジテ衰フ
隨梳落去何須惜 梳ルニ随ヒテ落去ス 何ゾ惜シムヲ須《もち》イン
不落終須変作糸 落チザルモ 終《つい》ニ須《すべか》ラク変ジテ糸ト作《な》ルベシ一の句、多病と云い、多愁と云い、吾と心中《しんぢゆう》に老衰を覚《おぼ》ゆるぞ。二之句、さあるほどに、いまだ年も寄《よ》らねども、鬂から衰《おとろへ》て行《ゆき》たぞ。行年は、星月とともに深《ふけ》行く年也。三四之句は、衰鬂を梳《けづる》に随つて落葉の如く落《おつる》ぞ。落《おつ》ると云《いう》ても、惜むべきことでないぞ。若《もし》此《この》髪が梳に随て落《おち》ずんば、白髪三千丈の絲となるべきぞ。落《お》ちずば、さて也。面白く云出《いひいづ》る也。
以上、「解説訳文」の部分は、カタカナはひらがなへ、訓点部分は読み下して改変掲載した。
語釈、訳文は、yoshのブログを参照のこと。
白楽天は、その当時は長命であったが、現在いう後期高齢者(七十五才)になった途端、世を去った。当方も、とっくに「髪ノ落ツル」時は過ぎたが、そこら辺まではなんとか行けるだろうかな?
【参考】「中華若木詩抄・湯山聯句鈔」(新日本古典文学体系)岩波書店