日本人と漢詩(087)

中島棕隠

独断ではあるが、京都人は、大坂や江戸とはひと味違い、揶揄とまでは言わないが、自らを客観視する姿勢があったようだ。もっとも、昨今は、「みやこびと」のプライドもいくぶん薄くなっているが…ところで、わが中島棕隠にこんな狂詩がある。

江戶者嘲京 江戸者《えどもの》京を嘲《あざわら》う
木高水淸食物稀 木は高く水は清くして食物《くいもの》稀《まれ》なり
人人飾表內證晞 人々は表を飾りて内証は晞《かわ》く
牛糞路連大津滑 牛糞の路《みち》大津に連《つらな》って滑《なめらか》に
茶粥音向叡山飛 茶粥《ちゃがゆ》の音は叡山に向かって飛ぶ
算盤出合無立引 算盤《そろばん》出合い立引《たてひき》無く
筋壁連中假權威 筋壁連中《きんかべれんちゅう》は権威《けんい》を仮る
女雖奇麗立小便 女 奇麗《きれい》なりと雖《いえど》も 立小便《たちしょんべん》
替物茄子怕數違 替《か》え物の茄子《なすび》数の違《たがわ》んことを怕《おそ》る

棕隠は、文化二年(1805年)から同十一年(1814年)まで江戸に暮らし、その「江戸っ子」の視点で、京都人を少々突き放して評している。語釈や訳文の詳細はほぼ不要と思われるが、「京都の食物《くいもの》、おいしいもの、あらしまへん」、「内証は懐具合、立引は「勉強しときまっさ」、筋壁連中は、塀の向こうのおえらいさん、替物茄子は、農家の下肥え集めの際に交換する野菜の量をめぐる駆け引き、棕隠の「都繁盛記」に微に入り細に入り詳しい。「粋なねーちゃん、たちしょんべん」という寅さんの口上はここから来たのかな?

鴨東四時雑詞より
酣飮何知迫曉天 酣飲《かんいん》何ぞ知らん 暁天に迫るを
粉香脂膩和衾眠 粉香脂膩《ふんこうしじ》衾《しとね》に和して眠る
遊郞畢竟偎花蝶 遊郎《ゆうろう》畢竟《ひっきょう》花に偎《よ》する蝶
抵得芳心非偶然 芳心に抵《いたり》得るは偶然に非らず

夜を徹して飲み続けて、化粧濃厚な妓と同衾、わては、花に身を寄す、てふてふどすえ。花蕊に引き寄せされるのは、たまたまじゃないわいのお。実は、棕隠は、自作の詩に対して、無類の自註や解説好きで、ここでも委細を極めているが、あえて省略。要するに、高い前金を払わずに、雑魚寝をうまく利用しロハでその妓と首尾を遂げようとのことである。

棕隠は、もともと儒家の家柄、その実家とかえってプレッシャーになり、江戸に一定期間逃避するなど、ボヘミアン的な生活を送った。帰京後は、詩家としての名声もあがり、放蕩の経験豊かなせいか、このような「きわどい」「竹枝詞」を作るようになった。

もう一首、京都の風情の一つ、「大文字の送り火」を題材にした七絶。

士女蘭盆送鬼時 士女《しじょ》蘭盆《らんぼん》鬼《き》を送る時
相携薄夜傍前涯 相い携《たずさ》えて薄夜《はくや》前涯《ぜんさい》に傍《そ》う
且觀如意峰頭火 且《しばら》く観る 如意峰頭《にょいほうとう》の火の
大字畫雲收焰遲 大字《だいじ》雲を画《かく》して 焰《ほのお》を収《おさ》むること遅きを

男女連れ添ってお盆の最終イベントに、鴨の河原にでかける。まずは大文字山の「大」の字が雲間に照り、ゆっくりと消えるまで眺めやる。
子ども時代は、近くの醒泉小学校の屋上が開放され、「大文字焼き」(俗称、正式には送り火)を見ていた思い出が残っている。

京都で、詩集や、江戸の寺門静軒の「江戸繁盛記」の対抗して「都繁盛記」も出版、名声が高まったが、元号が天保に入り、天下はにわかに忙しくなってきた。天保の大飢饉を皮切りに、1837年 大塩平八郎の乱、1839年 蛮社の獄と続く騒乱へと続き、棕隠も、なかなかまっとうな見解を詩で表現するが、それは、またの機会に…
写真は、鴨川河原(Wikipedia より)と大文字の送り火
参考】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」(岩波書店)
・中村真一郎「江戸漢詩」

日本人と漢詩(086)

◎松崎慊堂、林述斎、佐藤一斎と鳥居耀蔵

渡辺崋山を巡る人物は、次のような関係である。まず、百姓から身を興した儒学者・松崎慊堂は、崋山の友にして、師と言える人物だった。まず、その詩から…

夜市納涼 松崎慊堂
黃昏浴罷去迎風 黄昏《こうこん》、浴罷《や》みて去《ゆ》きて風を迎え
燈市徜徉西又東 灯市《とうし》に徜徉《しょうよう》して西また東
時節未秋秋已至 時節いまだ秋ならずして、秋すでに至り
滿街夜色賣蟲籠 満街の夜色、虫籠《むしかご》を売る

夕暮れ方、ふろ上がりの身には涼風がここちよい。明かりのともる夜市にそぞろ歩き。虫の鳴き声が、早くも秋の到来をつげるという「時節いまだ秋ならずして、秋すでに至り」という句がすてき。

和一齋墨田遊暑 一斎の墨田遊暑に和す 松崎慊堂
舐眠忽破涌弦歌 舐眠《だみん》忽《たちま》ち破れて弦歌《げんか》涌く
二國橋邊千頃波 二国橋辺、千頃《せんけい》の波
納涼舟似深秋葉 納涼の舟は、深秋の葉に似て
風處紛紛不勝多 風処紛々、多きに勝《たえ》ず

酔いの気分でのうたた寝が覚めたら、しゃみの音色が聞こえる、両国橋の川辺には、幾多の波が寄せる。見れば、涼みの船は、秋のもみじばに似て、風に揺れるばかり。

松崎慊堂は、蛮社の獄では、渡辺崋山の助命、釈放に尽力した。

慊堂のそのまた師匠筋で上司であったのが、昌平黌のトップであった、林述斎。

夏日 林述斎
半窗梧葉影交加 半窓の梧葉、影は交加《こうか》し
胡蝶夢醒西日斜 胡蝶、夢醒《さ》めて西日斜めなり
將起渾身無氣力 まさに起きんとし、渾身《こんしん》に気力なく
呼童目指濯盆花 童《わらわ》を呼びて目指《もく》し盆花に濯《そそが》しむ

半開きの窓からのアオギリの葉にさす影は、陽と交錯し、「胡蝶の夢」覚めたらもう夕方。起き上がろうとするが、どうも気力がわかない。従僕を呼び、目で花に水をやるよう、そっと合図する。「胡蝶の夢」は、荘子からの類推か?目指《もく》しという表現が、とても面白い。

谷口樵唱 林述斎
辭枝花作委泥花 枝を辞《じ》する枝、花は泥に委《ゆだ》ぬる花と作《な》り
絲雨隋風整復斜 糸雨《しう》風に随《したが》いて整《ととの》い復た斜めなり
索莫吟懷無所得 索莫《さくばく》として吟懐《ぎんかい》得るところなく
惟聽哈哈滿池蛙 ただ聴く、哈々《こうこう》満池《まんち》の蛙《かわず》

少しアンニュイ気分の詩。桜の花びらは枝から落ち、泥にまみれてゆく。細雨は、風に逆らうことなく、真っ直ぐに、はたまた斜めへと向きを変える。ここらあたりの表現が絶妙。なかなか、詩句が浮かんでこない中、池の蛙の鳴き声がかしましい。ちゃんと一首できてるじゃないかと、ツッコミどころ満載である。

松崎慊堂は、林述斎にも懇願するが、色よい返事はさっぱり。その陰で、述斎の三男(四男という説あり)、鳥居耀蔵の暗略があり、崋山の助命はかなわぬこととなった。中村真一郎は、林述斎は「根っからのエピキュリアン」と述べるが、生涯、正妻をめとらず、しかも子どもや孫が幾人もいたのだから、その意味はずいぶん多義的である。昌平黌では、「朱子学」がその学問の柱とされたが、建前と本音もずいぶん乖離したものである。

慊堂の隅田川遊びに、同行したのが佐藤一斎で、昌平黌では、慊堂の同輩。著書「言志四録」に、「春風もって人に接し、秋霜もって自ら慎む。」との格言があり亡父が好んでおり、父の実直な生き様を反映していると思っている。長年連れ添った連れ合いに先立たれた悲しみの時の「悼亡詩」

愛日楼詩 佐藤一斎
屈伸臂項物全非 臂項《ひこう》を屈伸するに、物全て非なり
一去孤鸞不復歸 ひとたび去りて、孤鸞《こらん》また帰らず
八載相從都是夢 八載、あい従うも都《すべて》これ夢
遺箱忍看嫁時衣 遺箱看るに忍《しの》びんや、嫁の時の衣《ころも》

ひとり寝の床で四肢を曲げ伸ばしするも、すべては幻。ひとたび去って、霊鳥といえども、長年連れ添っても夢のまた夢、帰ってこない。嫁入りに持参した着物を、躊躇しながらそっと見てみる。

佐藤一斎は、蛮社の獄では、崋山などの助命活動に熱心ではなかったと「偽君子」との世評を得た。「文は人なり」と簡単には言わないが、こうした詩を改めてみていると、まだ明らかにされない、複雑な事情もあったのかもしれない。

一方、弾圧者だった 鳥居耀蔵は、天保の改革後、幽囚の身になるが、幕府崩壊後は、釈放され東京に戻り、そこで生涯を終えた。その時の詩、

「東京」
交市通商競つて狂の如し
誰か知らん胡虜深望あるを
後五十年すべからく見得べし
神州恐らくはこれ夷郷とならん

(現代語訳)
人々の行き交いも商業も狂ったように競っている。
誰が知るだろう、過去の罪人(耀蔵)の考えを。
五十年後の未来を予想できるならば
日本はおそらく野蛮人の国となっているだろう。

(ともにWikipediaより)

幕臣であった栗本鋤雲の評は、
「刑場の犬は死体の肉を食らうとその味が忘れられなくなり、人を見れば噛みつくのでしまいに撲殺される。鳥居のような人物とは刑場の犬のようなものである」
となかなか手厳しいが、こんな「詩」を見ると、まあ、そんな人物だったのだろう。「俺の言うことを聞いていたら、こうはならなかったのだろう」というのが、最晩年の口癖だったらしい。いつの時代も、今日《こんにち》でも、こういうやから、いるよね。いずれにしても、佞人という評価は免れないだろう。
参考】
・中村真一郎「江戸漢詩」
・杉浦明平「椿園記・妖怪譚」(講談社)

日本人と漢詩(085)

◎柏木如亭と白居易

江戸時代は、漢詩の表現法などが大きな変遷を遂げた時期だった。中期までの、いささや大言壮語に堕した「格調派」から、後期ともなると、日常茶飯事を含む細やかな心の動きを描出する「性霊派」へと変わってきた。柏木如亭もその潮流の一人で、その訳詩集「訳注聯珠詩格」では、白楽天の詩も、ちょっとした日常詩である。

聞亀児詠詩      亀児が詩を詠ずるを聞く    白楽天

憐渠已解弄詩草    憐れむ 渠《かれ》が已に詩草を弄することを解するを
揺膝支頤学二郎    膝を揺がし頤《あご》を支へて二郎を学ぶ
莫学二郎吟太苦    学ぶ莫れ 二郎が吟に太《はなは》だ苦しむを
年纔四十鬢如霜    年纔《わづ》かに四十 鬢《びん》 霜の如し

〈柏木如亭譯〉
憐《かあい》や渠《あれ》は已《いつか》詩草《し》を弄《つくること》を解《おぼ》えて
揺膝《びんぼゆすり》をしたり支頤《ほゝづゑをつい》たりして二郎《おれ》を学《まね》る
二郎《おれ》が吟《しをつくる》に太苦《なんぎす》るをば莫学《まねやる》な
年は纔《やうゝゝ》四十だが鬢《びん》は 如霜《まっしろになった》
以上、昭和レトロな赤坂の思い出から、語釈も同サイト参照のこと。
よりいっそうの現代語訳は、白楽天 舞夢訳を参照のこと。

訳文も、森川許六の三体詩訳の俳文調から抜け出し、現代の口語訳と変わらないところまで来ており、漢詩の日本語を使った解説の一つの到達点であろう。ずいぶん駆け足だったが、平安から室町、江戸時代にかけての訳文を通じての漢詩受容の話題は、ひとまずは、終わることにする。

実際の彼は、白楽天の詩で触れる「家庭の幸福」を知らない人生で、江戸、新潟から京都などへの放浪の詩人だった。追加として、如亭の晩年の詩作を一つ、どこか唐詩への回帰の趣きがある。
絶句
歸鴉閃閃沒煙霄 帰鴉閃閃 煙霄《えんしょう》に没す
但見漁舟趂晚潮 但だ見る 漁舟の晩潮を趁《お》うを
一傘相扶侵雨去 一傘あい扶《たす》けて 雨を侵し去《ゆ》く
黃昏獨上水東橋 黄昏に独い上る 水東の橋

簡単な注釈】
ねぐらに帰るカラスの群れが霞空へ消え、漁船も夕べの潮を追いかける。相合い傘でアベックが雨の中を寄り添って歩いている。その夕暮れの中に一人橋の上にたたずんでいる。
中村真一郎は「孤独な老人の感慨」と書くが、それでいて、どこかある種の温もりも感じる。

参考】
・柏木如亭「訳注聯珠詩格」(岩波文庫)
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波同時代ライブラリー)

日本人と漢詩(084)

◎妹背山婦女庭訓と藤原惺窩


先日、久しぶりに文楽を観て(聴いて)きた。演目は、「妹背山婦女庭訓(Wikipediaより)《いのせやまおんなていきん》」、近松半二などの合作、「本邦版ロメオとジュリエット」と称せらることも多く、確執ある二家の、若君と姫の悲恋物語である。近松門左衛門から下ること半世紀以上、人形浄瑠璃は、人情の機微を語ることのほかに、舞台演出上も大いに工夫を凝らしたものになっている。「婦女庭訓」の最大の見せ場、三段目、「妹山背山の段」では、二家の別荘を挟んで、中に吉野川が流れ、それを仲立ちにした、二人の掛け合いが見事である。上手が、ヒーロー久我之介の別荘、下手がヒロイン雛鳥の別荘、しかも浄瑠璃語りは、左右に分かれて、三味線のピッチも微妙に変えながら、男女の心根を憎いほどに、一人語りと唱和を繰り返す。これで、二回目の観賞となるが、最初は下手側、今回は上手側で、趣の違いも実感できた。当時の客もそのダイナミックな構成に堪能したことだろう。浪華での浄瑠璃文化は、ある意味ここで頂点を極めたように思われる。
今の時代、こうした文化を気軽に享受できるようになっているだろうか?ふとそんな気もしてきた。ここ十年来、文楽をめぐるさまざまな環境は変化を遂げた。ガサツとも言える勢力による文楽攻撃、コロナ禍もあった、それに輪をかけ、大阪を、単に猥雑な街に変えようとする愚策のなか、風格のある上演を望むばかりである。

妹山背山は、古くから歌枕とあるが、そこを題材とした漢詩は寡聞にして見当たらなかった。ネット上では、藤原定家十二世の孫の儒学者、藤原惺窩のやや月並みとも思える七絶を一首。

山居

靑山高聳白雲邊 青山 高く聳ゆ  白雲の辺
仄聽樵歌忘世縁 仄かに 樵歌を 聴きて  世縁を 忘る
意足不求絲竹樂 意 足りて 求めず  糸竹の楽しみを
幽禽睡熟碧巖前 幽禽 睡りは 熟す  碧巖の前

語釈、訳文は、「詩詞世界」を参照のこと。

もちろん、「妹背山婦女庭訓」での二家の別荘は、フィクションであり、廃墟であったとしても惺窩の時代に残っているはずもないが、隠遁の地には似つかわしい雰囲気であったのだろう。また、文楽では、悪役・敵役の蘇我入鹿は皇位を簒奪して、即位した後の話としているのが江戸時代の天皇観を垣間見ることができる。

参考】国立文楽劇場パンフレット(2023年4月)

日本人と漢詩(083)

◎渡辺崋山と杉浦明平

渡辺崋山( Wikipedia )は、愛知県知多半島にあった田原藩(小藩というより貧藩と言えるだろう)の家老。蛮社の獄で、高野長英らと、捕縛、崋山は切腹に追い詰められた。従来、絵画が有名だが、彼の漢詩が紹介されることは意外と少ない。たしか、杉浦明平の大部な小説「小説 渡辺崋山」では、上巻は、一首だけだったと思う。

ここでは、まずは、その一首、27歳のおり、江戸在住での作と小説にはある。

中秋歩月
俗吏難與意 俗吏意を与《とも》にし難く
孤行却自憐 孤行却って自ら憐れむ
松林黒于墨 松林は墨より黒く
江水白於天 江水は天よりも白し
樓遠唯看燭 楼は遠く唯燭を看る
城高半帯雲 城は高く半ば雲を帯ぶ
不知今夜月 知らず今夜の月
偏照綺羅莚 偏《ひとえ》に綺羅《きら》の莚《むしろ》を照らすを

語釈】孤行:同僚と協調しない独自の生き方 樓遠唯看燭:将軍家斉の観月の宴 綺羅:その豪勢の様

小説では、華山のハラのうちを描く。為政者の金の使い方の理不尽さは現在も続く。

おれたちは腹をすかしておるのに、夜中まで飲み食い遊びほうけてけつかる腹が立ってならなかったんだ。…いまは日本中が飢えている。それなのに、大奥では依然として、毎日白砂糖千斤ずつ消費している。…そういう後宮のために消尽された無駄な費用をよそへ廻せば、四、五十万人と見込まれる今年の餓死者の大半は生きのびることができたのではなかろうか。

次に、晩年幽居での詩作を掲げる。

辛丑元旦二首
其一
萬甍烟裏海暾紅 万甍烟裏 海暾《かいとん》紅《くれない》なり
投刺飛轎西又東 刺を投じ轎を飛ばして 西又た東
滾々馬聲皆醉夢 滾々たる馬声 皆な酔夢
今朝眞箇迎春風 今朝真箇《まこと》に春風を迎う

語釈】辛丑:天保十二年(1841年) 海暾;海から昇る太陽 投刺飛轎西又東:人々のせわしい様 滾々馬聲皆醉夢:駆け抜ける馬の蹄の音も、酔っ払った後の夢の中

其二
四十九年官道樗 四十九年 官道樗《ちょ》なり
昨非不改愧衞蘧 昨非改めず 衛蘧《えいきょ》に愧《は》ず
天下難望只天樂 天下望み難きは只だ天楽
七十萱堂數架書 七十の萱堂《けんどう》 数架の書

語釈】官道樗:宮使いも樗(節が多く曲がりくねった木)で役に立たない。莊子に由来 衛蘧:春秋時代、衛の蘧伯玉は、齢五十にして、それまでの非を悟った 天樂:至高の楽しみ、萱堂(自らの母親)と數架の書をせめてもの楽しみにしたい

これらの詩を読むと、吹っ切れたというより、なにかそれまでの緊張感が抜けていった印象があり、自刃直前の華山の心情はいかばかりのものだったろうか?

付】Wikipeda 写真の詩を、訓読すると「石に倚って疎花痩せ、風を帯びて細葉長し。霊均の情夢遠く、遺珮沅湘に満つ」となる。霊均は、屈原の字だから、蘭を屈原に例えると同時に華山自らの自負であるだろう。天保十年(1839年)の「蘭竹双清」に添えたものだそうだ。

とまれ、蛮社の獄で犠牲になった、渡辺崋山や高野長英は、当時最高の知性であり、彼らが、非業の死を遂げたことは、日本の近代史でも、有数の悲劇であったことは論を俟たない。

【参考】
・入矢義高「日本文人詩選」(中公文庫)
・杉浦明平「小説 渡辺崋山」(上)(朝日新聞社)

日本人と漢詩(082)

◎藤原定家と白居易

日本での漢詩の「読み解き」を広く取れば、時代を遡ると「和漢朗詠集」あたりからだろう。この時代に引用される詩人は、白居易が一定割合を占め、鎌倉時代になっても定家晩年の作「拾遺愚草員外」の中では、「白氏文集」から題をとった句題和歌が百首ある。どの和歌も、さすが定家、よく熟されている。

氷とく人の心やかよふらむ風にまかする春の山みづ

府西池 白居易
柳無氣力枝先動 柳《やなぎ》に気力無くして 枝先《ま》ず動うごき
池有波紋冰盡開 池に波は紋《もん》有りて 氷《こおり》尽《ことごと》く開らく
今日不知誰計會 今日《こんにち》 知らず誰《たれ》か計会《けいかい》せる
春風春水一時來 春風《しゅんぷう》 春水《しゅんすい》 一時に来たる

語釈・訳文は、Web漢文大系を参照のこと。

白妙の梅咲山の谷風や雪げにさえぬ瀬々のしがらみ
此の里の向ひの村の垣ねより夕日をそむる玉のを柳

春至る   白居易

若爲南國春還至  若為《いかんせん》 南国 春還また至るを
爭向東樓日又長  争向《いかんせん》 東楼《とうろう》 日又長きを
白片落梅浮澗水  白片《はくへん》の落梅《らくばい》は澗水《かんすい》に浮うかぶ
黄梢新柳出城墻  黄梢《こうしょう》の新柳《しんりゅう》は城墻《せいしょう》より出でたり
閑拈蕉葉題詩詠  閑《しづか》に蕉葉《しょよう》を拈《と》り 詩を題して詠じ
悶取藤枝引酒嘗  悶《むすぼ》れて藤枝《とうし》を取り 酒を引きて嘗《たし》なむ
樂事漸無身漸老  楽事《らくじ》 漸《やや》く無くして 身漸《やや》老ゆ

語釈・訳文は、雁の玉梓 ―やまとうたblog―を参照のこと。

思ふとちむれこし春も昔にて旅寝の山に花や散らむ

曲江憶元九

春来無伴閑遊少 春来《しゆんらい》伴《とも》無くして閑遊《かんゆう》少なく
行楽三分減二分 行楽三分《さんぶん》二分《にぶん》を減ず
何況今朝杏園裏 何《なん》ぞ況《いわ》んや今朝《こんちょう》杏園《きょうえん》の裏《うち》
閑人逢尽不逢君 閑人《かんじん》逢い尽くせども君に逢はず

語釈・訳文は、『拾遺愚草全釈』参考資料 漢詩を参照のこと。

釘貫亨氏の「日本語の発音はどう変わってきたか」(中公新書)を興味深く読んだ。それによると、藤原定家は、なかなかの理論家だったらしく、和歌や「源氏物語」など仮名+漢字表記を分かりやすく、しかもバランスがよいように、工夫をこらしたようだ。(私事ながら、釘貫氏は、わが連れ合いの従兄弟にあたる。)

この著書にそって、当時の読みを、下段に提示すると、

咲きぬ也夜の間の風に誘はれて梅より匂ふ春の花園
さきぬなりよのまのかぜにさそふぁれてうめよりにふぉふふぁるのふぁなぞの

 春風  白居易
春風先発苑中梅  春風 先に発《ひら》く 苑中の梅
桜杏桃梨次第開  桜 杏 桃 梨 次第に開く
薺花楡莢深村裏  薺花《せいか》 楡莢《ゆきょう》 深村の裏《うち》
亦道春風為我来  亦《ま》た道《い》う 春風 我が為に来たると

語釈・訳文は、沈思翰藻を参照のこと。

その後、平板になった現代より、より抑揚のある発音であり、和歌の朗詠もなかなかにドラマティックだったように思う。

【参考】浅野春江「定家と白氏文集」(教育出版センター)

日本人と漢詩(081)

◎如月寿印(「中華若木詩抄」)と白居易

前回、漢詩の不特定多数向けの啓蒙書という話題に触れたが、どうやら、その形式ができあがったのが、室町時代の「抄物」が嚆矢だったようだ。その代表例が、「中華若木詩抄」で、中国では、唐・宋・元、そして明にかけての詩人、本邦では、ほぼ同時代の、禅僧の七言絶句、二六一首の解説を行うが、これが実に懇切丁寧である。以下、白居易(白楽天)の詩を紹介する。

明妃曲 白居易

滿面胡沙滿鬢風 面《おもて》に満《み》つる胡沙《こさ》 鬢《びん》に満《み》つる風《かぜ》
眉銷殘黛臉銷紅 眉《まゆ》は残黛《ざんたい》銷《き》え 臉《かお》は紅《べに》銷《き》ゆ
愁苦辛勤憔悴盡 愁苦《しゅうく》辛勤《しんきん》して憔悴《しょうすい》し尽《つ》くし
如今卻似畫圖中 如今《じょこん》 却《かえ》って画図《がと》の中《うち》に似《に》たり

明妃は、王昭君也。胡国へ赴かれたが、憐《あわ》れなるによりて、曲に作《つく》りて歌《うた》ふ也。昭君の義は耳熟することなれば、申するに及ばぬ也。一二之句は胡国へ赴かるゝ路《みち》也。面《かほ》へは胡沙を吹《ふき》かけ、髪をば寒風が吹乱《ふきみだれ》すぞ。眉に残《のこ》りたる黛《まゆずみ》も消《きえ》はてて、瞼の紅も失せて、ないぞ。三四之句は、胡国へ赴《おもむく》路次《ろじ》に辛労するほどに、身も衰《おとろ》へて、見し皃《かたち》もないぞ。


王昭君が選別されるときのエピソード-似顔絵を描く絵師に賂いをやらなかったために、醜婦に描かれ、漢の皇帝が、これなら差し支えないと王昭君を指名した。ところが、いざ顔を合わせると、あまりにも美形であったが、「綸言汗の如し」あとの祭りであったという。しかしこれは史実ではないらしい(Wikipedia 王昭君)ーを記載するが略する。

宮を出でし時《とき》は画図にも似ずしてうつくしかりつるが、風沙に吹埋《ふきう》められて身も衰《おとろ》へたれば、今こそ始《はじめ》て画図の中に似たれと云心也。妙なる詩也。

この「抄物」にはないが、王昭君第二も掲載する。

王昭君其二
漢使卻回憑寄語 漢使《かんし》 却回《きゃくかい》 憑《よ》りて語《ご》を寄《よ》す
黄金何日贖蛾眉 黄金《おうごん》 何《いず》れの日《ひ》か蛾眉《がび》を贖《あがな》わん
君王若問妾顏色 君王《くんおう》 若《も》し妾《しょう》が顔色《がんしょく》を問《と》わば
莫道不如宮裏時 道《い》う莫《なか》れ 宮裏《きゅうり》の時《とき》に如《し》かずと

ともに、語釈、訳文は、漢文委員会を参考のこと。

嘆髪落 髪ノ落ツルヲ歎ズ 白居易
多病多愁心自知 多病《たへい》多愁 心自ズカラ知ル
行年未老鬂先衰 行年《こうねん》未ダ老イザルニ 鬂先ンジテ衰フ
隨梳落去何須惜 梳ルニ随ヒテ落去ス 何ゾ惜シムヲ須《もち》イン
不落終須変作糸 落チザルモ 終《つい》ニ須《すべか》ラク変ジテ糸ト作《な》ルベシ

一の句、多病と云い、多愁と云い、吾と心中《しんぢゆう》に老衰を覚《おぼ》ゆるぞ。二之句、さあるほどに、いまだ年も寄《よ》らねども、鬂から衰《おとろへ》て行《ゆき》たぞ。行年は、星月とともに深《ふけ》行く年也。三四之句は、衰鬂を梳《けづる》に随つて落葉の如く落《おつる》ぞ。落《おつ》ると云《いう》ても、惜むべきことでないぞ。若《もし》此《この》髪が梳に随て落《おち》ずんば、白髪三千丈の絲となるべきぞ。落《お》ちずば、さて也。面白く云出《いひいづ》る也。

以上、「解説訳文」の部分は、カタカナはひらがなへ、訓点部分は読み下して改変掲載した。

語釈、訳文は、yoshのブログを参照のこと。

白楽天は、その当時は長命であったが、現在いう後期高齢者(七十五才)になった途端、世を去った。当方も、とっくに「髪ノ落ツル」時は過ぎたが、そこら辺まではなんとか行けるだろうかな?

【参考】「中華若木詩抄・湯山聯句鈔」(新日本古典文学体系)岩波書店

日本人と漢詩(080)

◎森川許六と王維、杜荀と柳宗元

江戸時代、荻生徂徠の古文辞学派の「盛唐詩」偏重の前は、日本では、三体詩(七言絶句、五言律詩、七言律詩の三詩型をいう)はじめの唐詩のみならず宋詩を含む詩集が実作の手本だった。江戸中期以降も、改めてその傾向は続く。それのみならず、多様な受け止め方がされるようになり、松尾芭蕉の弟子・森川許六の七五調を交えた訳文もその一つで、漢詩の受容のあり方として興味深い。

そもそも、現代も行われている、漢詩解説の、白文、読み下し文、語句の解説・典拠、訳文が確立したのは、いつの時代だったのだろう。遡れば、室町時代の「抄物」になるらしいが、いずれ紹介する機会があろう。

許六の「和訓三体詩」から、二、三首、比較的有名どころの詩の、注や訳文を挙げてみると、

九日懐山東兄弟 九日山東の兄弟を懐ふ 王維

獨在異鄕爲異客 独り異郷に在りて異客と為る
每逢佳節倍思親 佳節に逢ふ毎に倍《ます》々親を思う
遙知兄弟登高處 遥に知る兄弟高きに登る処
遍插茱萸少一人 遍く茱萸を挿して一人少なからん

*許六注 他国に旅寝すれば、他国のものになりたると云ふことなり。―中略―佳節は爰にては重陽を指す。王維十七歳の作なり。親にます〳〵孝心深きものなり。此詩微弱なれど孝子の情ます〳〵厚きゆえに称して世に伝ふ。九日に高きに登って茱萸をかくること、本註にくはし、日本洛陽にて茱萸を売る。家毎に買い取りて之をかく、是なり。

《詩意》京生れの人。年若にして東に下り。一とせ二とせを過ぎざるに関東の訛りを習ひ。都言葉は露ばかりも見えず。二階のろく台には、庭竈の春を思ひ。吾妻の柏餅をすゝめられては。鞍馬笹の粽を忘れずして。母の俤を慕ふ。殊に重陽の節は。古きを追ひ。東山の高きに登らむろて。姉は妹を負ひ兄は弟の手を引き。残らず茱萸《ぐみ》を買ひとりて。故郷の家に帰へらん。はらから打ちならびたる食時《めし》どきには。われ一人の膳を少《かゝ》さんと。旅の乏しきにうち添へ。一入故郷の空をおもひ出ける。
(解釈)重陽の日には家族小高い丘に登る「登高」 。佳節がめぐるたびに京の家族を思い出して、母や兄弟の姿を思いやり、自分ひとり欠けた膳が哀しく目に浮かぶのである。参勤交代の勤務が始まれば、東武にあって関東の言葉に馴染み、鞍馬笹の粽の味も遠い。家族を想う漢詩は和訳され俳文に整うと、より親族のぬくもりを表す。

現代語の語注や訳は、くらすらんを参考のこと。(解釈)の部分は、藤井美保子氏の論考からの引用。

酬曹侍御過象縣見寄 曹侍御が象縣を過きて寄せ見らるゝに酬ゆ 柳宗元
破額山前碧玉流 破額山前《はがんさんぜん》 碧玉の流れ
騒人遥駐木蘭舟 騒人遥に駐《とど》む木蘭《もくらん》の舟
春風無限瀟湘意 春風限《かぎ》りなし瀟湘の意
欲採蘋花不自由 蘋花を採《とら》んと欲するに自由ならず

*許六注 破額山は五祖寺のある所、碧玉の流は水の色なり。騒人は曹侍御をいふ。遥駐は象県というところまで来たるを聞き及びたりといふ意。木蘭の舟は舟をほめていふ詞なり。註にくはし。三の句、常に曹侍御が事を忘れず、思ひくらすといふ事、瀟湘は曹侍御が在りし所、四の句は早速罷り出で蘋花を採って迎へたけれども、流人の身自由ならずといふことなり。

《詩意》石山の麓《ふもと》勢多の流れに。木蘭《もくらん》の舟をつなぎて夜泊せる俳諧の翁いませりと遥に聞きけり。其風を慕ふ者、あるは官袴につながれ儘《まゝ》ならぬ身の恨に、春風の限りなきを添へたり。江東筑摩江には、蓴菜《じゅんさい》いたづらに肥えて、五老井の新茶はむなしく壺に朽ちたりとて、相訪らはざるうらみを述べたり。

現代語の語注や訳は、ティェンタオの自由訳漢詩を参照のこと

旅懐《りょかい》 旅の懐《おも》い 杜荀鶴悵

月華星彩座来収 月華星彩座し来れば収まる
嶽色江聲暗結愁 嶽色江聲暗に愁を結ぶ
半夜燈前十年事 半夜燈前十年の事
一時和雨到心頭 一時に雨に和して心頭に至る

*許六注 二の句暗の一字、流浪行く末のおぼつかなきを尽くせり。かたらふべき友なき一人旅、たしかにあらわれたり。嶽色江聲は月華星彩に対せる辞、和はあはするといふ心。全編客中の雨の慵《ものう》き事にて結ぶ。

《詩意》くたびれて宿かる頃の藤の花。月のたそがれ星の隈。雲に収まる峯の色。闇の川音すさまじく。旅の枕に寐ざめたり。夜半の灯撥き立てゝ。十とせ余りの流浪の身。居をうつすこと七所。一時にうかぶ胸の上。降り出す雨にまじへたり。

現代語の語注や訳は、日々是好日を参照のこと

《詩意》は、松尾芭蕉「くたびれて宿かる頃の藤の花」の句を敷衍したのだろう。また、杜荀は、杜牧の庶子で、父親の「遣懷」とのタイトルでの「十年ひとたび覚む揚州の夢、占め得たるは 靑樓 薄倖《はくこう》)の名」の名句を明らかに意識する。

村上哲見『三体詩・上』は、残念ながら、許六の「和訓三体詩」は、「詩意」のみの所収であるが、他の詩も紹介する機会がこれまたあろう。

参考】藤井美保子「森川許六『和訓三体詩』-「序」と「詩意」」

日本人と漢詩(079)

◎高村薫と杜甫、劉長卿、張謂

 以前のサーバにあったのだが、その不調で閲覧できない状態になっていたので、改めて稿を起こすことにする。
 この本を読んだのが、何年か前に、中国からチベットへ行ったときだった。たしか飛行機の中のような気がする。
 ハードボイルドの中の漢詩という取り合わせに興味を惹かれるとともに、中国が近づくにつれ、小説世界の中に入り込んだような錯覚だった。おまけに、ラサで格安の岩塩を買ったのが、北京での手荷物検査に反応し、官憲が飛んできてリュックを開けるよう求められた。中国語で「这就是岩盐」と言おうとしたが、とっさのことで口にできず、「It’s rock salt !」と叫び、ようやく事なきを得た。ヤクの運び屋と間違えられたのかもしれない。とまれ、作中の漢詩は、高村にとって、この小説の叙情的な支えになっているようだ。

 小説の大部分は、大阪市の西側、中小の工場がひしめいていた地帯である。子ども時代に、京都から大阪に越してきたが、まず驚いたのは、京都と全く趣が違う十三付近の賑わいであった。それでも、高校時代は時には十三まで「遠征」もしたが、その先となると、まるで異世界のように感じられたものだ。その中で、主人公は、工場経営のかたわら、チャカ(拳銃)の修理補修に勤しんでいたのである。

 小説では、数首の漢詩の全体ないし数句が引用され、まず杜甫の詩について軽く触れられる。いづれも「唐詩選」に収録されている。杜甫の五言古詩の全文を示すと、

杜甫 春帰
苔径臨江竹 苔径 江に臨む竹
茅簷覆地花 茅簷 地を覆う花
別来頻甲子 別来 頻りに甲子
帰到忽春華 帰り到れば 忽ち春華
倚杖看孤石 杖に倚りて 孤石を看
傾壷就浅沙 壷を傾けて 浅沙に就く
遠鴎浮水静 遠鴎は 水に浮かんで静かに
軽燕受風斜 軽燕は 風を受けて斜めなり
世路雖多梗 世路 ふさがるること多しと雖も
吾生亦有涯 吾が生も 亦た涯り有り
此身醒復酔 此の身 醒めて復た酔う
乗興即為家 興に乗じて 即ち家と為さん

語釈は、Web 漢文大系 参照のこと

 杜甫の心の片隅には「世路 梗(ふさが)るること多しと雖も吾が生も 亦た涯り有り」との思いもあるが、季節が春だけに、自然描写を背景に、成都の草堂にふたたび帰還した喜びを素直に現す杜甫らしい佳詩である。

 次の杜甫「返照」は省略する。「ガラスの迷宮」などのサイトを参照のこと。

 次は、作者も変わって、主人公が謎の殺し屋、李歐を大阪市大正区で密航船に見送るシーンで、写真に書き付けた詩だ。

重送裴郞中貶吉州 かさねて裴郎中はいろうちゅう吉州きっしゅうへんせらるるをおくる 劉長卿

猿啼客散暮江頭 さるき かくさんず 暮江ぼこうほとり
人自傷心水自流 ひとおのずか傷心しょうしん みずおのずかなが
同作逐臣君更遠 おなじく逐臣ちくしんりてきみさらとお
靑山萬里一孤舟 青山せいざん 萬里ばんり 一孤舟いちこしゅう

語釈、訳文は詩詞世界を参照のこと。青山《せいざん》 萬里《ばんり》 一孤舟《いちこしゅう》とは、李歐が岸壁を離れ、逃亡の船で出航するのと、また李歐自体の人生とも重なるようだ。

湖中對酒行 張謂
夜坐不厭湖上月 夜坐やざいとわず 湖上こじょうの月
晝行不厭湖上山 昼行ちゅうこう厭わず 湖上の山
心中萬事如等閑 心中しんちゅうの万事 等閑とうかんのごとし
濁醪數斗應不惜 濁醪だくろう数斗すうと まさに惜まざるべし
主人有黍萬餘石 主人きびあり 万余石ばんよこく
即今相對不盡歡 即今そっこん相対あいたいしてかんを尽くさずんば
別後相思復何益 別後べつご相思あいおもうも復た何のえきかあらん
茱萸灣頭歸路賖 茱萸しゅゆ湾頭わんとう 帰路きろはるかなり
願君且宿黄公家 願がわくは君しばら宿しゅくせよ 黄公こうこうの家
風光若此人不醉 風光ふうこうくのごとくして人酔わずんば
參差辜負東園花 参差しんしとして東園とうえんの花に辜負こふせん

語釈などは、Web 漢文大系 を参照のこと。

 昔、京都の祖母が、父に向かって、「夜道に日は暮れんよってに!」と大阪に帰ろうとするのを引き止めて酒を勧めていたのをふと思い出した。

 小説は、思わぬ悲劇のあと、「ユートピア」の入り口で幕を閉じるが、今となっては、意外と現実感は薄く、もうひとりのヒーロー、李歐の印象も、イマイチとも思う。年月のすぎるというのも、こういうことを言うのだろう。

画像は、Wikipedia 劉長卿 より。

参考]
以前の文章
日本人と漢詩(027)
高村薫「李毆」
 阪大にほど近い千里丘陵のアパートから小説は始まり、やがて舞台は大陸へと広がるが、その内容を紹介するのが本筋ではない。ハードボイルド的なタッチの中で、ところどころ、漢詩が挿入されているのが、とても印象的で、「乾いた叙情」ともいうべきだろう。最初は、タイトルだけで、杜甫の「春歸」。白文で示すと
苔徑臨江竹,茅簷覆地花。別來頻甲子,倏忽又春華。
倚杖看孤石,傾壺就淺沙。遠鷗浮水靜,輕燕受風斜。
世路雖多梗,吾生亦有涯。此身醒複醉,乘興即為家。
全唐詩(巻228) より
語釈と読み下し文は、Web漢文大系参照

張謂と劉長卿の詩は、ブログ内部のリンク参照のこと。
劉長卿の詩の白文は、
猿啼客散暮江頭、人自傷心水自流。
同作逐臣君更遠、青山萬里一孤舟。
読み終えたのは、初めて中国に足を踏み入れた時で、成都の杜甫草堂を訪れたのはその翌年だった。

日本人と漢詩(078)

◎高橋和巳と(陳舜臣と)六朝詩選(曹植、阮籍、無名氏)

学生時代、高橋和巳が中国文学者出身とは知らずに読みふけっていた。柴田翔の「されど我らが日々」から続くわが人生において、彷徨といえばカッコいいが、「ネクラ」と言っていい時期からようやく抜けきろうとしていたのと重なる。周囲からは文字どおり白い眼で見られていただろう。吉川幸次郎門下の彼が、歴代の漢詩の歴史から、分担執筆したのが、「六朝詩選」とあるが、実は詩経から始まり「漢」「三国」から「南北朝」の「古詩」の世界。彼の文学的淵源がここにありそうだ。

雜詩 曹植

轉蓬離本根 転蓬《てんぽう》は本《もと》の根を離れ
飄颻隨長風 飄颻《ひょうりょう》として長風に随《したが》う
何意迴飆舉 何んぞ意《おも》わんや 迴飆《かいほう》の挙《あ》がり
吹我入雲中 我を吹いて雲中《うんちゅう》に入れんとは
高高上無極 高高《こうこう》として上《あが》りて極《きわ》み無し
天路安可窮 天路 安《いずく》んぞ窮《きわ》む可《べ》けんや
類此遊客子 類《に》たるかな 此の遊客《ゆうかく》の子の
捐躯遠從戎 躯《み》を捐《す》てて遠く戎《じゅう》に従うに
毛褐不掩形《もうかつ》 形を掩《おお》わず
薇藿常不充 薇藿《びかく》 常に充《み》たず
去去莫復道 去《ゆ》去《ゆ》きて復《ま》た道《い》うこと莫《な》けん
沈憂令人老 沈憂《ちんゆう》 人をして老いしむ

【語注】轉蓬:風に吹かれ、根を離れて、丸くなってころがって行くヨモギ。 漢詩では、人が漂泊することのモチーフとなる 毛褐:毛皮のチョッキ 不掩形:体全体をカバーできない 薇藿常不充:わらびや豆の葉など粗末な食べ物では満腹にならない

訳は、私家版曹子建集を参考

曹植は、陳舜臣氏が挙げる次の詩も秀逸である。

野田黃雀行(Wikisource

高樹多悲風 高き樹に悲風多く
海水揚其波 海水 其《そ》の波を揚ぐ
利劍不在掌 利剣 掌《て》に在《あ》らずんば
結友何須多 結友 何ぞ多きを須《もち》いん
不見籬間雀 見ずや 籬間《りかん》の雀
見鷂自投羅 鷂《たか》を見て自ら羅《あみ》に投ず
羅家得雀喜 羅《あみ》する家《ひと》 雀を得て喜べど
少年見雀悲 少年 雀を見て悲しむ
拔劍捎羅網 剣を拔きて羅網《らもう》を捎《はら》えば
黃雀得飛飛 黄雀《こうじゃく》飛び飛ぶを得たり
飛飛摩蒼天 飛び飛びて蒼天《そうてん》を摩《ま》し
來下謝少年 来り下《くだ》りて少年に謝す

大樹(自らをに見立てる)には、風当たりも強くなる。海の波も波立つほどだ。鋭い剣を持たなければ友もできまい。ごらんよ、垣のところのスズメがタカを見て自ら網に引っかかった。仕掛けた人は喜んだが、若者(自分を指す)は悲しみにくれた。剣をはらって網を切るとスズメは飛びに飛び、青空まで届かんばかりだったが、今度は舞い降りて助けてくれた礼を言った。(そうしたいものだ。)
【語注】などは、Web漢文大系など参照。

詠懐 阮籍

其三
嘉樹下成蹊    嘉《よ》き樹として下に蹊《こみち》を成すは
東園桃與李    東の園の桃と李なれど
秋風吹飛藿    秋風の飛藿《ヒカク》を吹けば
零落從此始    零落は此《ここ》從《よ》り始まる
繁華有憔悴    繁華には憔悴有りて
堂上生荊杞    堂上には荊杞《ケイキ》を生ず
驅馬舍之去    馬を驅りて之れを舍《す》てて去り
去上西山趾    去りて西山の趾《ふもと》に上らん
一身不自保    一身すら自ずから保たざるに
何況戀妻子    何ぞ況《いわ》んや妻子を恋いん
凝霜被野草    凝《こご》れる霜は野の草に被《かむ》り
歳暮亦云已    歳,暮るれば亦た已《や》むを云えり

【語注】
嘉樹下成蹊:よい木のもとにはめでる人も多く集まり自ずからこみちができる 飛藿:豆の葉 繁華:はなやかな賑わい 堂上:宮殿の座敷 荊杞:いばら 西山:昔、伯夷と叔斉が、周の食べ物を拒否し、餓死したところ 凝霜被野草 秋の霜が凍り霜となり野の草を被う 云已:万事休す

阮籍は、竹林七賢の一人。客を迎えるに当たり、嫌な奴には、白眼を、歓迎するときは、青眼を向けたとある。いわゆる「白眼視」はここからの由来。時代は、こうした詩人にとって、決して軟なものではなかった。阮籍や陶淵明などは、刑死など免れた例外と言えるだろう。「政治の悪からのがれて山野にかくれようとしながら、なお仙化することも、餓死することもかなわず、心みだれて慟哭した彼の悲哀を、よく象徴するものといえる。」と高橋和巳は言う。

最後に、少々艶っぽい詩を二首。

子夜歌  其三 其七 普代呉歌

宿昔不梳頭 宿昔《しゅくせき》頭《こうべ》を梳《くしけず》らず
糸髪披両肩 糸髪《しはつ》両肩《りょうけん》を披《おお》う
婉伸郎膝上 郎《ろう》の膝上《しつじょう》に婉伸《えんしん》すれば
何処不可憐 何れの処《ところ》か可憐ならざる

始欲識郎時 始めて郎を識らんと欲せし時
両心望如一 両心《りょうしん》一の如きを望む
理糸入残機 糸を理《おさ》めて残機《(ざんき》に入る
何悟不成匹 何ぞ悟らん匹《ひつ》を成らざるを

訳文は、サワラ君の日誌を参照のこと。

六朝時代は、一癖も二癖もある詩人が多く、アクも強いが、それ故多感である。こうした傾向が民謡風の歌詞にも現れているのが興味を惹かれる。

とまれ、高橋和巳の文学は、それなりにアクチュアルだった時代から、半世紀が経った今は、その源も含め、トータルに向かい合わさなければならないのかもしれない。もっとも、彼の中国訪問の際の毛語録を読んでいるらしい「人民服」の姿は、「あの頃の文学者の多くが同じ心情だったんだ」以上の評価をすることしかできないし、あの時代、当方も含めて、中国に対して幾分「浮かれた」気分があったのだろう。

【参考】
・高橋和巳作品集 9 「中国文学論集」(河出書房新社)
・陳舜臣 「中国詩人伝」(講談社文庫)