日本人と漢詩(070)

◎柳川星巖と柏木如亭

もう一回、やや艶っぽい話題をもう一つ。

先日、瀬戸内海縁の親戚から、大ぶりの牡蠣を贈られてきた。そのまま、電子レンジで加温し、食するにとても美味だった。江戸時代にも、牡蠣は美味しい食材として重宝され、例えとして唐・楊貴妃の乳汁と例えられたようだ。(太真は、楊貴妃が道教寺院に在籍していた時の呼称)ちなみに河豚の肉は、同じ中国美人の西施の乳汁とういう意味で、「西施乳」という艶称がついている。

柳川星巖「太真乳」 七言古詩(一部)
君不見開元天子全盛日
日日後宮事嬉春
太真玉乳飽禄児
餘汁入海化不泯

君見ずや 開元の天子 全盛の日
日日 後宮 嬉春《きしゅん》を事とす
太真《たいしん》の玉乳《ぎょくにゅう》 禄児《ろくじ》を飽《あ》かしむ
余汁《よじゅう》 海に入りて化して泯《ほろ》びず

開元:唐の全盛期であった、玄宗在位中の元号。
禄児:その玄宗に反旗を翻した安禄山。楊貴妃のお気に入りだった。

河豚 柏木如亭 「詩本草」より
河豚美而殺人。一名西施乳。又猶之江搖柱名西施舌蠣房名太眞乳。皆佳艷之稱也。
河豚《かとん》、美にして人を殺す。一に西施乳《せいしにゆう》と名づく。又た、猶《な》ほこれ江揺柱《かうえうちゆう》の西施舌《せいしぜつ》と名づけ、蠣房《れいぼう》の太真乳《たいしんにゆう》と名づくるがごとし。皆な佳艶の称なり。
以下は、「フグ=西施乳」として別項にて紹介予定。

こうした伝説によると、今も楊貴妃の乳は今も海に流れ込んでいるらしい。そうすると牡蠣に舌鼓を打ったのは、その余沢にあずかったとも言えるだろう。

【参考文献】
・揖斐高「江戸漢詩の情景」(岩波新書)
・柏木如亭「詩本草」(岩波文庫)
図は、上村松園「楊貴妃」 Wikipedia より

日本人と漢詩(069)

◎江南先生と「六朝詩選俗訓」
普 無名氏・子夜歌十六首より
郞爲傍人取 郎 傍人に取られ
負儂非一事 儂《われ》に負くとこ一事に非ず
攤門不安橫 門を攤《たん》して横を安《ささ》ず
無復相關意 復《ま》た相ひ関する意無し

こちの人は よそのひとにとられた
わしを袖にさつしやること 一《イ》ちどや二どのことではなひ
門の戸をたてよせて くはんぬき《閂》をさゝぬ
もふしめくゝりするきもなひ

⚪関は、門にかけては関鎖とて門うぃしめること、人事にかけては関渉とてかゝりあふこと、又関束とて身帯などのしめくゝりすること、此《コ》詩関する意も無しと云《イツ》て、門戸をしめる心もなきと、かけかまふ意もなしと秀句せるなり。⚪又門を明離《アケハナ》しに横木《くわんぬき》をも安《さゝ》ずに置て何時皈《(帰)》られずとも郎の勝手次第にて置たがよひ。門を関《しめ》る意も無ひ、郎がことに相関《かまふ》意もなひ。郎が放埒を関束《しめくゝ》る意も、身帯家内の事に関鎖《しめくゝり》する意も無いと云。

三句、四句が若干、意味が取れない。門にカギをかける、かけないなどもうどうでもよいことなのか、カギをかけないとは、男に未練がまだ残っているのか、それとも両方の意味なのか?お判りいただければご教示願いたい。

もう一首、やや艶っぽい詩を紹介する。

擥枕北窻臥 枕を攬《とり》て北窓に臥す
郎來就儂嬉 郎来り儂《われ》に就《つ》きて嬉《き》す
小喜多唐突 小喜 多く唐突
相憐能幾時 相憐む 能《よ》く幾時《いくとき》ぞ

まくらをひきよせ なんどにねてゐれば
わしによりそいて ちわをする
ちとうれしいと思へば つかふどなことばかり
しつぽりとすることは よふどれあらふ

なんど:主に家の女性の居所。
ちわ:痴話喧嘩の「ちわ」
つかうど:不愛想。原文の「唐突」は、「つっかかる」くらいの意味。結構、多義的にも解釈できる。

「訳者」の江南先生は、本名は田中応清(1728-1780)、医学と漢学を学び、後者は荻生徂徠の流れを汲む。徂徠の主張は唐時代、それも盛唐の詩を模範とするもので、江南先生が、唐以前の南朝時代の詩、それも艶っぽい題材を選んだのはその後の「江戸情緒」の先触れとして興味深い。晩年は、京都、大阪で医術を生業として、本書を出版、岡山で客死した。

「東洋文庫」の解説で、一首が紹介されていた。
https://japanknowledge.com/articles/blogtoyo/entry.html?entryid=139

【参考文献】「六朝詩選俗訓」江南先生訓訳 都留春雄・釜谷武志校注

日本人と漢詩(068)

◎宋希璟と「老松堂日本行録」

少し、日本人と漢詩という括り方とは離れる。
「老松堂日本行録」は、1420年、室町時代に李徴朝鮮王朝使節として来日した宋希璟(송희경 1378-1446)の著作。足利義満の子、義持の時代、1429年、正式な使節団が朝鮮から派遣される以前のこと、前年には対馬(長崎県)を攻めた応永の外寇が起こっているから、政情はまだ不安定だったことだろう。その中で、往復9ヶ月をかけての、朝鮮・漢陽↔日本・京都の見聞記を序をつけての漢詩の体裁でまとめたのが本書である。その中では当時の日本での大衆の生活をなかなか鋭い観察眼で詩にまとめており、興味深い。おいおいその部分は紹介するが、まずは漢陽を出発するときの巻頭の七言絶句から。

是月十五日受命発京路上即事
特報綸音出漢陽
馬頭佳到柳初黄
此去忩(怱の異字)々人識未
好伝王語奏明光

是《こ》の月十五日命を受けて京を発する路上の即事《そくじ》
特に綸音《りんおん》を報じて漢陽を出ず
馬頭の佳到 柳初《はじ》めて黄なり
此《ここ》を去る怱々《そうそう》にして人識《し》ること未《いま》だし
好し王語を伝えて明光《めいこう》に奏せん

語釈
馬頭の佳到 馬上から見える佳い景色
柳初めて黄なり 李白「宮中行楽詩」柳の色は黄金の嫩《やわら》かに、梨の花は白雪の香《か》んばし
明光 朝鮮の宮廷を指すが、漢武亭の建てた宮殿に由来する 杜甫「壮遊」賦を奏して明光に入りぬ

とまずはこれからの旅路を見通して、その抱負を語る。

考えて見るに、日本と朝鮮半島の交流・外交関係は、直接に歴代中国王朝とのやりとりの中での間接的な折衝はあったにせよ、古代を除いてはそんなに緊密ではなかったようだ。その例外的な事象が、室町時代と江戸時代(途中、「文禄・慶長の役」という日本の侵略を挟む)に起こった。室町時代は、宋希璟の来日を先駆けとして、室町時代では、1429年以降3回、豊臣時代でも2回、江戸時代では計14回に上っている。(Wikipedia 朝鮮通信使)室町時代は、通信使への返礼として、禅僧を朝鮮に派遣したという。江戸時代は、そうした返礼はなかったところには、徳川政権のある種の「狡猾さ」があったのかもしれない。西洋世界にも明るかった新井白石ですら、朝鮮との関係を「朝衡」と「上から目線」でみていたのも象徴的である。もっとも対馬藩と縁が深かった雨森芳州(Wikipedia)は、通信使と対等な詩の応酬をしているのを見ると、関係はずいぶん成熟しているとも言える。
いずれにしても近代になってからの不幸な関係を考えれば、室町~江戸にかけての交流でくみ取れる教訓が存在していることは間違いない。

【参考文献】
・宋希璟「老松堂日本行録」 村井章介校注 岩波文庫
・三橋広夫「これならわかる 韓国・朝鮮の歴史」 大月書店
図は左「首全(李氏朝鮮首都漢陽[現在のソウル])全図 wikipedia より 右宋希璟の漢陽⇔京都での行程図

日本人と漢詩(067)

◎幸徳秋水と安重根
以前は、診療時間と重ならなかったため、「管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会」の例会に何度か顔を出していたが、今は定期的に送ってくる機関紙に目を通すだけの付き合いである。昨今のコロナ禍では、なかなか例会もままならぬとのこと、残念な事だ。
2022年3月号の機関紙に、「大逆事件と朝鮮ー幸徳秋水と安重根」との題で、神戸学生青年センター理事長飛田雄一氏の一文が掲載され、安重根に触れた秋水の四言詩が載っていた。1910年3月26日に、伊藤博文を暗殺した安重根は処刑されたが、秋水の詩は、彼の死を心から悼んのだろう。(図は、その投稿の一部)

 

舎生取義 生を舎て義を取り
殺身成仁 身を殺して仁をなす
安君一挙 安君の一挙
天地皆振 天地みな震う
秋水題

ちなみに以下はその年、1910年6月、大逆事件発覚後、獄中での漢詩である
辭世
區區成敗且休論 区区たる 成敗 且《しばら》く論ずるを休《や》めよ
千古唯應意氣存 千古 唯《ただ》応《まさ》に 意気に存すべし
如是而生如是死 是《か》くの如《ごと》くして 生き 是《か》くの如《ごと》く死す
罪人又覺布衣尊 罪人 又た覚ゆ 布衣《ふい》の尊きを
語釈は以下を参照
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/jpn211.htm
以上の経緯は、一松書院のブログ-金虎門事件(3)宋学先と安重根の絵葉書に詳しく述べられており、興味深い。

日本人と漢詩(066)

◎一海知義、拝倫《バイロン》と蘇曼殊(付き 莫差特《モーツアルト》と陸游)
蘇曼殊という日本人を母とした、日本で言えば明治期の詩人がいます。(Wikipedia の項)その詩人の詩を一海知義さんは、ある著書中で「私のモーツアルト」という項目で紹介しています。モーツアルトと聞いて浮かび上がるのは、以下の詩だそうです。

題拝倫集 拝倫集《バイロンしゅう》に題す

秋風海上已黄昏 秋風の海上 已《すで》に黄昏
獨向遺編弔拜倫 独《ひと》り遺編に向かって拝倫《ばいろん》を弔う
詞客飄篷君豫我 詞客 飄篷《ひょうほう》 君と我と
可能異域爲招魂 能《よ》く異域にて為《ため》に招魂すべきや


原田憲雄訳(「中国名詩選」より)
あきかぜの海辺は もう たそがれです
のこされた集にむかって バイロンよ あなたをとぶらおう
きみも わたしも あてどなくさまよう詩人
異国でのこの魂《たま》まつり あなたはお受けくださいますか

なかなか蘇曼殊はロマン溢れた詩人のようです。彼自身の数奇な運命とそんな心情だったからこそ、バイロンにアフィニティを感じたのかもしれません。ちなみに、一海知義さん、「中国古典詩」の中には、モーツアルトを思わせる詩はなく、また、お気に入りのモーツアルトはピアノ協奏曲ニ短調 K466だそうです。当方は、陸游の心ならずも別離させられた元妻のの女性に再会したときの詩が、ピアノ協奏曲第23番第2楽章をふと連想されました。
写真は、蘇曼殊(Wikipedia から)
【参考】一海知義著「読書人慢語」(新評論刊)より

日本人と漢詩(065)

◎空海(弘法大師)
空海 後夜聞佛法僧鳥
閑林獨坐草堂曉
三寶之聲聞一鳥
一鳥有聲人有心
聲心雲水倶了了

読み下し文、語釈は上記リンクを参照のこと。空海の漢詩では有名な作品らしいが、どうも取ってつけたような味わいで、正直なところ詩趣は薄い。それより、
靑陽一照御苑中 青陽一たび照らす御苑の中
梅蕊先衆發春風 梅蕊《ばいずい》衆に先んじて春風に発《ひら》く
春風一起馨香遠 春風一たび起こりて馨香《けいこう》遠《あまね》し
華萼相暉照天宮 華萼《かがく》相暉《あいかがや》きて天宮を照らす

春の太陽が御苑のなかを御苑の中をひとたび照らせば
梅のつぼみも何よりも先に春風とともに花ひらく
春風がひとたび吹けば
花の香りは遠くへとどき
花も萼《がく》も輝き合って、天宮を照らす

字の繰り返しが鼻に突き、詩の背景も「貴人」の感覚の域をでないが、まだ「宗教臭」は薄く、自然な感じがする。

空海は、今の世にも生き仏となり、高野山では三度の飯を給仕しているらしい。そこでの掛け声は…
ーなにか、くうかい?
ー今日は、スパゲッティでカルボナーラが食べたいなあ!
と空海は言ったか言わなかったとか。(お後がよろしいようで!)
【参考】
阿部龍樹「空海の詩」

写真は、高野山壇上伽藍。(Wikipedia より 663highland – 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8349450による)

日本人と漢詩(064)

◎蠣崎波響

蠣崎波響(1764~1826)は、蝦夷地・松前藩第12代藩主松前資廣《すけひろ》の五男、家老職のとき、松前藩転封の憂き目に会い、蝦夷地への復帰に努力した。独特のアイヌ画など絵画にも堪能し、またその頃の詩人などとも広く交友があった。(Wikipedia) 彼の漢詩より、歳暮から正月にかけての詩を数首。画像は「梅花十詠」の表紙。並大抵の労苦ではなかったはずだが、淡々とわが生を振り返る佳詩である。

戊寅歳暮 七絶
書帙堆中心事虚 書帙(しょちつ)うずたかきうち 心事 むなし
官忙老却逐居諸 官忙 老却して 居諸を逐う
今年亦是已経過 今年もまたこれ已に経過す
五十何能読五車 五十にして 何ぞよく五車を読まん

うずたかく積んだ書物のなかで心中はむなしく感じる
公務多忙でめっきり老いてしまいいたづらに月日をおいかけるだけ
今年もまたすでに過ぎてしまった
五十歳にしてどうして五台の車に積んだような書物が読むことができようか

注:戊寅 文政元年(1818年)波響55才 居諸 詩経に「日居月諸」(日よ月よ)とある

歳晩即時 七律

三百六旬如奔輪 三百六旬 奔輪の如く
閑中忙裏忽移巡 閑中忙裏 忽ちまち移り巡る
光陰難逐磨針業 光陰 逐いがたし 磨針の業
活計何愁鋤鏟貧 活計 何ぞ愁えん 鋤鏟の貧
泉脈未通前筧凍 泉脈は未だ通ぜず 前筧(ぜんけん) 凍れるに
梅唇先放半枝春 梅唇は先に放して 半枝の春
不知得得老期近 得々たる老期の近きを知らず
歳歳待花与鳥均 歳々 花を待つこと鳥と均(ひと)し

一年三百六十日は回る車輪のようで
暇でも忙しくてもあっという間に経ってしまう
あくせくとした日常の身を削るような用向きに時の流れが容赦なく過ぎてゆくが
鋤と鍬の農耕生活なら貧乏でも構わない
水の流れはまだ通じておらず庭先のかけいも凍ったままだが
梅の花がまず咲いて枝の半分だけが春になった
悠々自適の老後の生活が近いともしらず
年ごとに鳥と一緒になって花を待っている身である

除夜 二首
其一 五絶
歳酒迎賓酌 歳酒 賓を迎えて酌み
塵忙忘酔中 塵忙 酔中に忘る
五更春信動 五更 春信 動き
門外柳枝風 門外に 柳枝の風

年忘れの酒を来客と酌み交わすと
日頃の忙しいのも酔って忘れる
明け方には春の便りが届いたよう
門の外には柳の枝に吹く風の音

其二 七絶
椒酒避寒垂暁天 椒酒(しゅくしゅ) 寒を避けて 暁天になんなんとす
梅風馥郁遶窓前 梅風 馥郁(ふくいく)として 窓前をめぐる
残燈不滅猶明影 残燈はきえず 猶お明影あり
明影堂中遇一年 明影の堂中 一年にあう

寒さよけにお屠蘇を飲んで明け方になってきた
梅の香の風はふくいくとして 窓の前をめぐっている
昨年の残りの灯火は消えずになお明るく影を照らす
その光と影の部屋で新しい年に出会った

【参考】
・中村真一郎「蠣崎波響の生涯」
・高木 重俊「蛎崎波響漢詩全釈―梅痩柳眠村舎遺稿」

日本人と漢詩(063)

◎西村真琴、豊中市と魯迅
魯迅のこの詩への題記に
「西村博士、上海戦後に喪家の鳩を得、持ち帰りて之を養う。初めは亦相安んずるも、終に化し去る。塔を建てて以て蔵《おさ》め、且つ題詠を徴《もと》む。率《にわか》に一律を成し、聊《いささ》か遐情《かじょう》(はるかな心)に答うと爾《しか》云《い》う。一九三三年六月二十一日、魯迅」とある。
題三義塔  三義塔に題す
奔霆飛熛殲人子
敗井頽垣剩餓鳩
偶値大心離火宅
終遺高塔念瀛洲
精禽夢覺仍啣石
闘士誠堅共抗流
度盡劫波兄弟在
相逢一笑泯恩仇
読み下し文は、写真右参照のこと
西村真琴は、戦後すぐに豊中市会議員(議長)を勤めた。その後公民館館長を歴任、戦時中は、上海事変のさなか、中国滞在中に、傷ついた鳩を日本に持ち帰ったが、1933年3月、その鳩は死に、豊中市穂積の自宅に埋葬、三義塔と名付け、題詠を依頼し、魯迅が詠んだ七律。
奔霆《ほんてい》は飛行機の爆撃、飛熛《ひひょう》は砲弾が飛び交う様、敗井・頽垣《はいせい・たいえん》くずれ落ちた家の垣。大心は大悲の心、火宅は燃え盛る家で、高塔とともに仏教用語。大心は大悲心、火宅は日に包まれた家。瀛洲は日本の「美称」。
(以下略)
現在ある豊中市の碑には、こうした悲惨さについては触れられていない。以下のブログにあるように、歴史を捨象したところに、「日中友好」など生まれようがないと思うのは私だけだろうか?
ブログ「Arisanのノートー大事なことが抜けている」

ちなみに、西村真琴氏(Wikipedia)は、水戸黄門役で名を馳せた俳優・西村晃氏の父君。

日本軍の飛行機の爆弾や銃火が中國人民を殺傷し井戸や垣をやぶり崩して町を荒廃させ、一羽の餓えた鳩をのこした。
たまたまその鳩が西村真琴博士の大慈悲心にあって火に包まれた家を離れたがとうとう死んで三義塚をのこし日本を(一つの気高い心の故に)記念している。
死んだ鳩は眠りから覚めて、かの古伝説に言う精衛の如く、日中間をへだてる東海を小石をくわえて埋めんとし、私と貴方(日中両国人民)は誠心かたく時流に抗して闘う。
今は日中両国のへだたりははるかに遠いが長い年月を苦難して渡り尽くせば、日中両國の大衆はもとより兄弟である。その時逢ってニッコリすれば深いうらみも滅び去るだろう。

一九三三、六、二十一魯迅

 

日本人と漢詩(062)

◎清岡卓行と李賀、岳飛

 先日、Facebook で紹介した清岡卓行に「李杜の国」という小説がある。タイトルの如く、李白や杜甫などの詩を引いて、日本の詩人団体の中国旅行記の体裁であるが、別の筋立てとして、主人公の評論家と女流詩人との恋愛の始まりから、一旦終焉になり、また復活の経緯がある。もっとも、後者は当方も経験外であるので、感想はひとまず置いておこう。李杜の詩の他に、紹介されるのは、白居易、など。李賀の詩も、冒頭のとても印象的であり、どこか中原中也あたりを彷彿させる二句「長安に男児有り、二十 心已でに朽ちたり」が載っている。その詩、あまり、全編を掲載しているサイトが少ないので、アップしておく。

 贈陳商       陳商に贈る  李賀
長安有男児   長安に男児《だんじ》有り
二十心已朽   二十《にじゅう》 心已《す》でに朽ちたり
楞伽推案前   楞伽《りょうが》 案前《あんぜん》に推《うずたか》く
楚辞繋肘後   楚辞《そじ》 肘後《ちゅうご》に繋かく
人生有窮拙   人生《じんせい》 窮拙《きゅうせつ》有り
日暮聊飲酒   日暮《にちぼ》 聊《いささ》か酒を飲む
祗今道已塞   祗《ただ》今 道 已に塞《ふさが》り
何必須白首   何ぞ必ずしも白首《はくしゅ》を須《ま》たん
淒淒陳述聖   淒淒《せいせい》たり 陳述聖《ちんじゅつせい》
披褐鉏爼豆   褐《かつ》を披《き》て 爼豆《そとう》に鉏《そ》す
学為堯舜文   堯舜《ぎょうしゅん》の文を為《つ》くることを学び
時人責垂偶   時人《じじん》 垂偶《すいぐう》を責《せ》む
柴門車轍凍   柴門《さいもん》 車轍《しゃてつ》凍《こお》り
日下楡影痩   日《ひ》下りて 楡影《ゆえい》痩せたり
黄昏訪我来   黄昏《こうこん》 我を訪《と》い来たる
苦節青陽皺   苦節《くせつ》 青陽《せいよう》に皺《しわ》む
太華五千仭   太華《たいか》 五千仭《ごせんじん》
劈地抽森秀   地を劈《つんざ》いて森秀《しんしゅう》を抽《ぬき》んず
旁苦無寸尋   旁《かたわら》に寸尋《すんじん》無きを苦しむ
一上戛牛斗   一《ひとた》び上れば牛斗《ぎゅうと》に戛《かつ》たり
公卿縦不憐   公卿《こうけい》 縦《たと》え憐《あわれ》まずとも
寧能鎖吾口   寧《なん》ぞ能《よ》く吾《わ》が口を鎖《とざさ》んや
李生師太華   李生《りせい》は太華《たいか》を師しとし
大坐看白昼   大坐《たいざ》して白昼《はくちゅう》を看《み》る
逢霜作樸樕   霜に逢えば 樸樕《ぼくそく》を作り
得気為春柳   気を得ては 春の柳と為《な》る
礼節乃相去   礼節《れいせつ》 乃《すなわ》ち相去り
顦顇如芻狗   顦顇《しょうすい》 芻狗《すうく》の如し
風雪直斎壇   風雪《ふうせつ》 斎壇《さいだん》に直《ちょく》し
墨組貫銅綬   墨組《ぼくそ》 銅綬《どうじゅ》を貫《つらぬ》く
臣妾気態間   臣妾《しんしょう》 気態《きたい》の間《かん》
唯欲承箕帚   唯《た》だ箕帚《きそう》を承《う》けんと欲す
天眼何時開   天眼《てんがん》 何の時にか開く
古剣庸一吼   古剣《こけん》 庸《も》って一吼《いっこうせん》

語釈、訳文などは、 http://itaka84.upper.jp/bookn/kansi/1104i.html を参照のこと。

 同じく清岡卓行の「詩礼伝家」の由来となったのは、額にあるような、南宋の武人・岳飛の「文章報國 詩禮傳家」という言葉である。(左の図)。「李杜の国」の中でも、簡単な紹介がある。岳飛の詞と詩を二つほど載せておく。
 右の図は、亡母が中国旅行の土産に買ってきた、岳飛書のレプリカ。母の仏間に今も掲げている。「我に河山を還せ」とは、失われた宋の領土への尽きせぬ思いだったんだろう。

岳飛の詞「滿江紅」http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/p8yuefei.htm

詩「池州翠微亭  池州の翠微亭 」 https://taweb.aichi-u.ac.jp/toyohiro/yue%20fei%20chizhoucuiweiting.html

 

日本人と漢詩(060)

◎石川啄木、簡野道明と白居易(白楽天)
 白楽天は言っている。
「世に謂うところの『文士は数奇なること多く、詩人は尤も命薄し』とは斯こにおいて見わる。」まるで、啄木を指すような言葉である。その啄木に、明治41年9月26日の日記で次のような一節がある。
「白楽天詩集をよむ。白氏は蓋《けだ》し外邦の文丈にして最も早く且《か》つ深く邦人に親炙《しんしゃ》したるの人。長恨歌、琵琶行、を初め、意に会するものを抜いて私帖に写す。詩風の雄高李杜《りと》に及ばざる遠しと雖《いえ》ども、亦《また》才人なるかな。」
 少し、評価は低いが、多面的な白居易の詩に触れ合う機会には恵まれなかったゆえであろう。そんな「閑適」の詩、老境を詠ったちょっと身につまされるメランコリックとも言える一首を、簡野道明講述の「和漢名詩類選評釋」から、白文、読み下し文、訓詁、評釈の全文。
春晚詠懷贈皇甫朗之 春晩《しゆんばん》懐《くわい》を詠《えい》じて皇甫朗之《くわほらうし》に贈《おく》る
艷陽時節又蹉跎 艶陽《えんやう》の時節《じせつ》又《また》蹉跎《さた》たり
遲暮光陰復若何 遅暮《ちぼ》の光陰《くわういん》復《また》若何《いかん》
一歲平分春日少 一歳《さい》平分《へいぶん》すれば春日《しゆんじつ》少《すくな》く
百年通計老時多 百年《ねん》通計《つうけい》すれば老時《らうじ》多《おほ》し
多中更被愁牽引 多中《たちゆう》更《さら》に愁《うれひ》に牽引《けんいん》せられ
少處兼遭病折磨 少処《しょうしよ》兼《かね》て病《やまひ》に折磨《せつま》せらる
頼有銷憂治悶藥 頼《さいはひ》に憂《うれひ》を銷《け》し悶《もん》を治《ぢ》するの薬《くすり》あり
君家濃酎我狂歌 君《きみ》が家《いへ》の濃酎《のうちう》我《わ》が狂歌《きやうか》
訓詁
艷陽時節:百花爛漫たるうるはしき盛りの春
蹉跎:つまづく(失足)貌 時を失ふにいふ
遅暮:晩年、老年の意
平分:平均に分つ
遭:「ラル」と訓む、被なり
折磨:損する
濃酎:濃くしてうまき酒
評釋
平聲歌韻、彌生の春も思ふにまかせず、空しく過ぎ去り、己も老境になりては如何ともし難し、一年の中を分くれば春の樂しき日は最も少く、百年の生涯を通算すれば、老を歎ずる時、多きなり、其の多き中 にて更に種種の愁に牽きまつわれ、少なき春の日をば、病の爲めに減損せらる、只幸に憂悶を銷し治むる藥ありて、聊か心を慰むべきものあり、それは他にあらず、君の家の美酒と、我が歌ふ詩との二つなりと、詩酒を友として興を遣らんとの意を敍せり。
「一歲平分春日少 百年通計老時多」は、実感するところである。
図は、「長恨歌」挿絵( http://chugokugo-script.net/kanshi/chougonka.html )豊満な美人の楊貴妃とは、違ったプロポーションのところが面白い。