読書ざんまいよせい(034)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」

第二章 私達の鄰人と私の最初の學校

 ヤノウカから一ヴエルスト足ずの所に、デムボウスキイ家の財產があつた。父はその土地を借りてそれへ澤山の營業關係を結びつけた。地主のテオドシア・アントノヴナは嘗ては、知事夫人であつた老ポーランド婦人であつた。彼女は最初の金持ちの夫が死んだ後、彼女よりも二十歲も年下の彼女の支配人のカシミール・アントノヴヰツチと結婚した。テオドシア・アントノヴナは彼女の第二の夫とは永く 一緖にゐなかつたのだが、彼はその後も財產を管理してゐた。カシミール・アントノヴヰツチは背の高い、髭を蓄へた、騷々しい、愉快なポーランド人であつた。彼はよく大きな橢円形のテープルで、私達と茶を飮みながら、騷がしく馬鹿氣た話を幾囘も幾囘も話して、獨特の言葉をくり返しながら、指をポキ/\折つて語調を强めた。
 カシミール・アントノヴヰツチは、蜂がその臭ひを嫌ひだつたので厩や牛小舍から臭ひの來ないだけの距離の所に、蜜蜂の巢をもつてゐた。この蜂は果樹や、白アカシアや、冬葡萄や、蕎麥から筮を造つた。——要するに、蜂は潤澤そのものゝ眞中にゐたのだ。カシミール・アントノヴヰツチはいつも、綺麗な金色の蜜のいつぱいになつた蜂窩の一片を入れて、ナフキンで葢をした二つの皿を私達の所へ屈けてくれた。
 或日イブン・ワシリエヴヰツチと私は、子を取るための鳩をカシミール・アントノヴヰツチから貰ふために出かけた。大きなガランとした家の隅の部屋で、カシミール・アントノヴヰツチは私達に茶やバタや蜜や凝乳などをじめ/\した臭ひのする大きな皿に乘せて出した。私は坐つてコツブのお茶を飮みながら、のろ/\した會話を聞いてゐた。『晚くならないの。』と私はイヴン・ワシリエウヰツチにさゝやいた。『大丈夫少し待つておいで、私達は鳩が鳩小舍に這入るまで待たなくちやならないんだよ。まだ、そこに居るだらう。』私は退屈になつて來た。最後に私達は、穀物小舍の上の鳩小舍の中へ、提燈をつけて登つて行つた。『さあ御覽よ。』とカシミール・アントノヴヰツチが私に叫んだ。鳩小舍は四方に垂木がついてゐて、長くて暗かつた。それは廿日鼠や、蜜蜂や、蜘蛛の巢や鳥の强い臭ひがした。誰かゞ提燈を差出した。『ゐる/\ !捕へなさい!』とカシミール・アントノヴヰツチがさゝやいた。地獄のやうな騷動が起つて、鳩小舍は羽の旋風でいつぱいになつた。一瞬間、私は世界の終りが來て、吾々は何もかも無くしてしまつたやうな氣がした。段々と私は意識を取返して、ひそく聲で云つてゐるのが聞こえた。『こゝにもゐる!こつち/\ーーさう/\、袋にお入れなさい。』イブン・ワシリエヴヰツチは袋を一つだけ持つて行つてゐた。そして歸道の間中、私達は背中で、鳩小舍の中での騷ぎを續けてゐた。私達は鳩小舍を鍛冶場の上に造つた。私はその後、鳩に水をやつたり、小麥や、稷や、パン屑をやるために、一日に十度もそこへ登つて行つた。一週間の後、私は巢の中に卵が二つあるのを發見した。然し私達がこの重大な出來ごとを詳細に觀賞するまへに、鳩は一度に一|番《つがひ》づゝ元の古巢へ歸り始めた。羽を切られた三番がやつと後へ殘つた。そしてこれらも亦その羽が伸びると、私達が彼等のために造つてやつた巢と餌箱のある美しい小舍を後に、飛去つてしまつた。かうして鳩を育てようとした私達の冒險は終つたのである。
 父はT夫人と云ふ强い性格の四十がらみの未亡人から、エリザヴェートグラード近くの土地を少し借りた。彼女の處にいつも侍《はべ》つてゐるのも同じく 一人者になつた牧師で、彼は|かるた<傍點>や音樂その他樣樣なものゝ、愛好者であつた。T夫人はこの牧師と一緖に、私達との契約の條件を見るために、ヤノウカへやつて來た。私達は、居間とそれに績く部屋を彼等に割當てゝ、夕食には、鷄肉のフライやシエリイ酒や、櫻のプデインが料理として出された。食事が終つた後、私は客間に殘つてゐて、牧師がT夫人の側に坐つて、彼女の耳に何事かを笑ひながらさゝやいたのを見た。彼は上衣の前をめくつて、縞ズボンのポケットから、組合せ文字のついた銀の煙草入れを出して、紙卷煙草に火をつけ、まるく煙の輪を吹いた。それから彼は女主人がゐない間に、彼女は小說の中に對話だけを讀むのだと私達に話した。皆は上品に笑つたけれども、批評することは差控へたと言ふのは、私達は彼がそれを彼女に吿げる許りでなく、それに尾に鰭をつけかねないことを知つてゐたからである。
 父はカシミール・アントノヴヰツチと組合で、T夫人から土地を借り始めた。アントノヴヰツチの妻が恰度その頃死んだので、彼に急激な變化が起つた。彼の髥からは灰色の毛が消え、彼は糊の固いカラーをはめ、ネクタイにはネクタイビンを差して、婦人の寫眞をポケツトに入れて步いてゐた。他の凡ての人のやうに、カシミール・アントノヴヰツチも私の叔父のグレゴリイのことを笑つたが、彼が彼の凡ゆる秘密を打開けたのは、グレゴリイにであつた。彼は封筒から寫眞を取出して叔父に見せた。『見て下さい。私はこの美人に云つたのです「御婦人よ、あなたの唇はキツスをするために出來てゐるのです」とね。』と彼は有頂天で殆ど失神しさうな有様で、グレゴリイ叔父さんに叫んだのだ。カシミール・アントノヴヰツチはその美人と結婚した。が結婚生活の一年牛許りを終つた時に、突然に死んでしまつた。Tの領地の廣場で、牝牛が彼を角で突いて、突殺してしまつたのだ。
 F兄弟は、私達の所から約ハヴエルストの所に、數千エーカーの土地を所有してゐた。彼等の家は宮殿のやうであつて、澤山の客室や、撞球室や、その他樣々なもので贅澤に設備せられてゐた。Fの二人兄弟レウとイヴンは、この凡てを彼等の父親テイモシイから相續したのである。そして段々とその相續財産をすり減してゐた。この財產の管理は用人の手中にあつて、二重記入簿記であるにも拘らず、帳簿は缺損を示してゐた。
『グヰツド・レオンテイエヴヰツチは、もし土造の家に住んでゐたなら、私よりもずつと金持ちですよ。』とこの兄の方がよく私の父のことを云つた。そして私達がこのことを父に繰返すと、父は非常に喜んだ。弟のイヴンは、或時、彼等の銃をかついだ二人の臘師と、ー團の白い狼獵用犬を背後に從へて、ヤノウカを馬で乘拔けたことがあつた。こんなことはヤノウカでは嘗て見られないことであつた。『奴さんたちは閒もなく金をみんなすつてしまふだらうがなあ。』と父は不贊成らしく云つた。非運の前兆は、ケールソン縣のかうした諸家族の上にあつた。彼等は凡て非常な速力で下り坂を突進した。そして或者は世襲の貴族に屬し、或者は勤勞の代償として土地を赋與せられた政府の官吏に或者はポーランド人に、或者はドイツ人に、また或者は一八八一年以前に土地を買ふことの出來たユダヤ人に屬する等々、その種千差萬別であるにも拘らず、このことだけは眞理であつた。これらの草土地時代の發見者の多くは、その道に於ける優れた、成巧的な巧妙な自然の掠奪者であつたのだ。
 然しながら私は彼等の凡てが『八十年代』の初めに死んだので、その中の誰をも知らなかつた。彼等の多くは、はした金でゝはあるが、巧妙な機敏さで活動を始め、たとひそれが住々犯罪的なものであつたとしても、彼等は恐るべき財產を造つた。これらの人々の第二代目は、フランスの知識や、自分の家の撞球室や、彼等の信用に對する凡ゆる惡德によつて、新參の貴族になつた。『八十年代』の農業恐慌は大西洋の彼方との競爭を捲起し、彼等を無慈悲に打ちのめした。彼等は枯れた木の葉のやうに沒落した。第三の時代は半ば腐つた無賴漢、人でなし、骨ぬき、早熟の役立たずの一組を、生み出した。
 貴族の敗滅の最高峰はゲルトパノフの一家によつて達せられた。一大村落及びー全郡は彼等の名で呼ばれてゐた。その全地方が一時、彼等に屬してゐたのだ。それだのに年取つた相續人に現在殘されてゐるもわは僅かに千エーカーの土地であるのだ。しかもそれすら二重にも三重にも抵當に這入つてゐた。私の父はこの土地を借てゐたのだが、地代は銀行へ利子に這入つてしまつた。ゲルトパノフは年中歎願書と、農民に宛てた苦情と命令の手紙を書いて暮してゐた。彼は私達所を訪問する時にはいつも煙草と砂糖の塊りを袖の中に隱すのであつた。そして彼の細君も同じことをした。彼女は涎を流しながら、農奴と、グランドピアノと、絹と、香水との彼女の若い時の話しをいつも物語つた。彼等の二人の息子は殆ど無敎育で育つてゐた。弟のヴイクトールは私の家の鍛冶場の弟子であつた。
 ヤノウカから凡そ六ヴエルストの所に、ユダヤ人の地主の一家が住んでゐた。彼等の名はM……スキイと云ふのであつた。彼等は奇妙な、狂つた運命にあつた。彼等の父親のモイセイ・カーリトノヴヰツチは六十歲であつたが、貴族的方面の敎育を受けてゐたことによつて有名であつた。彼はフランス語を流暢に話し、ピアノを彈き、文學を談じた。音樂會でピアノを彈くには彼の左手は弱かつたが右手は大丈夫なのだと彼は云つてゐた。彼の伸び放題にした指の爪が、私の家の古いスピネットの鍵盤を打つと、カスタネットのやうな騷がしい音を立てた。彼は、オジンスキイのポーランド舞踏曲から始めて、いつの閒にかリツツの狂想曲に移り、それから急に『處女の祈り』に落込んだ。彼の會話もそれと同樣に出鱈目であつた。彼はいつも彈奏の最中にそれを止して、立ち上つて、鏡の方へ行つた。そこで誰も側にゐる者がないと、彼は髭をさつぱりさせると云ふ考へから、彼の火のついた卷煙草で口の兩側の髭を燒いた。彼は絕えず煙草を吸つた。そして彼は煙草を吸ふことが嫌いでもあるやうに、それを歎いた。彼は彼の物凄い年取つた細君に、十五年の閒口をきかなかつた。彼の息子のダビツドは三十五歲だつた。彼はいつも顏の半面を白い繃帶で蔽ひ、その上から赤いピク/\動く眼を覗かせてゐた。ダビツドは自殺未遂者であつた。彼は軍隊にゐた時、勤務中の士官を侮辱した。士官は彼を毆つた。ダビツドは士官の頰に平手打ちを食はして兵舍の中へ走り込み、自分の銃で自殺しようとした。彈は彼の頰をかすつた。さうしたわけで彼は今でも、始終白い繃帶をくつゝけてゐるのだ。この罪を犯した兵士は嚴重な軍法會議でやつゝけられたが、然しM……スキイ家の戶主は、その當時まだ生きてゐた――金持ちで、勢力家で、無敎育で、專制家の老カーリトンであつた。彼は全地方を起たせて、孫に責任のないことを明言せしめた。要するに恐らくこの事件は全然嘘ではなかつたのだ。その時以來、ダビッドは彈に擊たれた頰と、氣狂ひの證明書とをもつて暮して來たのだ。
 私が始めて彼等を知つた時、旣にM……スキイの一家は下り坂にあつた。私の幼年時の閒、モイセイ・カーリトノヴヰツチは立派な輓馬に輓かれた四輪馬車に乘つて、よく私達の所を訪問してゐた。私がまだごく少さな、恐らく四つか五つの時に、私は長兄と一緖に^M……スキイ家を訪ねたことがあつた。彼等は大きな、手の行屈いた庭園を持つてゐたが、そこではー―-實際に!―-孔雀が逍遙してゐた。私はそこで生れて始めて、氣まぐれな頭に冠をかぶり可愛いゝ小さな鏡を尻尾につけ、足に拍車をつけたこの不思議な鳥を見たのであつた。孔雀はもの後ゐなくなつた。そしてそれと同時に色色なことが起つた。その庭園の垣はこな/”\に毀され、家畜が果樹や草花を折つてしまつた。此頃ではモイセイ・カーリトノヴヰツチは肥料馬に引かれた荷馬車に乘つてヤノウカへやつて來る。その息子は財產を盛返さうと努力してゐる。然しそれは百姓としてゞあつて、紳士としてゞはない。
『私達は數頭の年とつた馬を買つて、ブロンスタインがやつたやうに、朝のうちそれを乘廻して見たいものだ!』
『あの人達は成功しないよ。』と私の父が云つた。ダビッドはエリザヴエートグラードの市場へ『年取つた小馬』を買ひにやられた。彼は市場の巾を步き廻り、騎兵であつた眼をもつて馬な鑑定し、そしてトロイカを選んだ。彼は夜おそく歸つて來た。家は輕い夏物を着たお客さんでいつぱいだつた。アブラムは手にランプを持つて、馬を見るために玄關《ポーチ》に出て行つた。婦人の一團や學生や若^建が彼に續いた。タビツドは突然彼が得意な境遇にあることを感じた。そして各々の馬のいゝ所を讃美し、特に一頭の馬を讃めて若い貴婦人に似てゐると云つた。アルバムは頣鬚を搔きながら云つた。『馬はみな上等だ。』この騒ぎは小野宴で終つた。ダビツドは美しい若い貴姉人のスリツパーを脫がせ、それにビールを滿して唇へ持つて行つた。
『あなたはそれを飮まうとしてゐるのではないでせうね?』とその少女は、驚愣か、それとも嬉しさかで、顏を赤らめて叫んだ。
『若し私が自殺を恐れないならば……』スリツパーの中味を喉に流し込みながら、吾等の英雄は答へた。
『お前の功名を手放しで自慢するものではないよ。』といつも無口な彼の母が不意に応酬した。彼女は隅の大きな、氣力のない女で、家庭上の凡ゆる車荷が彼女の上にかゝつてゐるのだ。
『あれは冬小麥ですか?』アブラム・M……スキイは彼の拔目なさを示す爲に、或時私の父に訊ねた。
『春小麥でないことは確かです。』
『ニコポール小麥ではないですか?』
『あれは冬小麥だと云ひませう。』
『私もあれが冬小麥であることは知つてますが、然しその種類は何になんです、ニコポールですか、ギル力ですか』
『どれがどうなんだか、私はニコポール冬小麥なんて云ふのは聞いたことがありませんよ。誰か持つてゐる人があるかも知れませんが、私はそんなものを持つたことはありませんよ、私のはサンドーミル小麥なんです。』と私の父は答へた。
 この息子の努力は何等酬ひられるところがなかった。一年後に、私の父は再び彼等から土地を借りた。

読書ざんまいよせい(008)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」
トロツキーの「田園交響曲」は続く
第一章 ヤノウカ(続き)


 私はも一つの、私の家の料理場で起つた早い頃の情景を思ひ起す。父も母も家にゐない。料理人と女中と彼等の客とがそこに居る。休日で家にゐた長兄のアレキサンドルが、竹馬にでも乘つたやうに、木製のシヤベルの上に乘つかつて、がや/\饒舌りながら漆喰ひの床の上を、縱橫に跳廻つてゐる。私は兄に、そのシヤベルを貸してくれと賴んで、その上に乘つからうとしたのだが、落つこちてわつと泣き出す。兄は私を起上らせ、私にキッスをして、それから私を抱いて料理場からつれ出してくれたのだつた。
 誰だつたかヾ、私を羊のやうに溫和しい、馬勒も鞍もなくて、馬首索一本きりの大きな灰色の牝馬の背に乘つけてくれたのは、私が凡そ四歲くらゐの時であつたに相違ない。私は兩脚を一杯に開き、兩手で鬣[編集者注:たてがみ]にしがみついてゐた。馬はすばやく私を梨の木の下へつれて行つて、私を中閒に吊下げさうな枝の下を步いた。どうしたことか知らないが、私は牝馬の尻の上を滑つて草の中へ落つこちた。私は怪我はせず、まごついたヾけだつた。
 私は、幼年時代には殆ど賣物の玩具を持つたことがなかつた。尤も一度だけ母がカルコフから厚紙細工の馬と、ボールとを買つて來て來れたことがあつた。妹と私とは、私達で造つた人形と遊んでゐた。また一度は父の妹であるフエニヤ叔母さんとライザ叔母さんとが、私達のためにボロ布人形を造つてくれた。そしてフェニャ叔母さんはその人形に、鉛筆でもつて目鼻や口をつけてくれた。その人形は私には大變立派なものゝやうに思はれた。今でもそれを頭の中に浮べることが出來る。或冬の夜のこと、私達の機械技師イヷン・ワシリエヴヰッチは、厚紙で車輪と窓とのついた小さい汽車を切拔いて、それを糊で貼合せた。クリスマスで家にゐた長兄は、卽座に、彼もすぐ汽車を造つて見せると云ひ出した。彼は私の汽車を散々に引裂くことから始めた。それから彼は定規と鉛筆と銚とで武裝して、長い問圖を引いてゐた。ところが彼の書いた圖を切つて見ても、ちつとも汽車らしいものは出來なかつたのだ。
 私の親域の人や友人などが町へ行く時には、時々、エリザヴエートグラードとか二コラエヴで何にを買つて來てやらうかと云つて訊ねた。私の眼はその度に輝いた。何を賴めばいゝか知ら? それには彼等が加勢してくれた。或者は玩具の馬はどうだと云ふし、他の者は本を、また一人はクレオンをそれからスケート一揃ひはどうだと云ふ者もあつた。『僕はハーフ・ハリフアツクス・スケートがいいなあ。』私は兄からさう云ふ名前を聞いてゐたので、よくさう叫んだ。だが彼等は閾を跨げば、もうその約束を忘れてゐるのが常だつた。私は幾週もの閒樂しみにして待つてゐて、その舉句は長い失に襲はれたものだつた。
 一匹の蜜蜂が庭の日向葵にとまつてゐる。蜜蜂は刺すのだから、注意深く扱はねばならない。私は牛蒡[編集者注:ごぼう]の葉をとつて、それで二本の指の閒に蜜蜂をつまむ。ところが私は急に耐へられないほどの痛さで剌されたのである。私は金切り聲を舉げながら、庭を橫切つて鍛冶場の方へ橫飛びに飛ぶ。そこではイヷン・ワシリエヴヰツチが針を拔いて、私の指の上に藥水を塗つてくれるのである。
 イヷン・ワシリエヴヰッチは、ふくろ蜘蛛が浮いてゐる、日向葵油のいつぱい入つた壺をもつてゐた。これは蜂に剥された傷には最良藥だと考へられてゐたのだ。ヴイクトール・ゲルト・ハノフと私とは、いつもこのふくろ蜘蛛(タランチユラス)を捕へてゐた。それをやるには、私達は索蠟の一片を絲に固くゝつゝけて、それを蜘蛛の穴の中へ垂らすのである。タランチユラスは蜜蠟をその手でしつかりつかまへて、突通すのだ、そこで私達はたヾそれを引出して、空のマツチ箱の中に納めさへすればよいのだ。もつとも、かうしたタランチュラス退治はずつと後年のことであつたに相違ない。
 私は永い冬の夜の、ある會話を記憶してゐる。私の家の年上の人達は、ヤノウカが買はれたのは何時だつたか、小供の誰彼はその時何歲だつたか、イヷン・ワシリエヴヰッチが私達の所へ働きに來たのは何時だつたか。それに就て茶の閒中議論した。私の母はずるさうに私を一瞥しながら云ふ。『私達はリヨヴァを畠からレデイ・メイドでもつて來たのだよ』私はその理由を自分で解かうと試みる。そして最後に聲高らかに云ふ。『ぢや私は畠の子なんですね。』『さうぢやないよ』彼等は答へる。『お前はこゝで、ヤノウカで生れたのだよ』と。
『ぢやあ、何故お母さんは、レディ・メイドの私を伴れて來たのだと云つたのでせう?』
『お母さんが、うまくからかつたのさ』
それでも私は得心せず、そしてそれは何んだか怪しい洒落たと考へるのだ。然し私は、私の決して見たことのない特殊の笑ひが、この大人の侵入者の顏に現れてゐるのを、注意してゐたので平氣だつた。確かな年代記の分つたのは、われ/\の冬のお茶の暇に交換せられた追憶からである。私は十月の二十六日に生れたのだ。私の兩親は一八七九年の春か其には、小さな農場からヤノウカへ移つてゐたに相違ない。
 私の生れた年は、ツアーリズムに對する最初の爆彈攻擊のあつた年である。ほんのその當時組織せられたばかりのテロリスト團『人民の意志』は、私がこの世に現れるニケ月前、一八七九年の八月の二十六日に、アレキサンダア二世の死刑宣吿文を發表した。そして十一月の十九日には、ツアーの列車を爆破する企てがなされた。一ハ八一年三月一日に於ける、アレキサンダア二世の暗殺を導き、それと同時に『人民の意志』を全滅に歸せしめた不吉な圖爭は、恰もこの頃初まつたのだ。
 露土戰爭は、その前年に終つてゐた。一八七九年の八月には、ビスマルクは獨墺同盟の基礎を作り上げてゐた。この年にゾラは彼の小說のナナを發表し、その中で未來聯合國の創始者、常時のイギリス皇太子のみが、喜樂劇のスターの洗練された鑑賞家として紹介されてゐた。普佛戰爭と、パリ・ゴンミユンの陷落の後に起つた反動の風は、なほ物凄くヨオロツパの政治界を吹き捲つてゐた。獨逸に於ける社會民主々義は、ビスマルクの差別的立法の下に、旣に亡びてゐた。一八七九年にはビクト・ル・ユウゴオとルイ・ブランが、フランス下院に於て、コンミユン鬪士に對する大赦を要求してゐた。
 けれども、私が初めて日の光を見、そして私の生涯の最初の九年閒を過したヤノウカの村では、この議會の討論や、外交上の事件の反響は勿論のこと、ダイナマイトの爆裂の反響さへ聞くことは出來なかつた。ケールソンの廣漠限りなき草土帶の上や、南口シアー帶の車土帶は、小麥と羊の王國であつて、すべてそれ自身の法則で生活してゐた。それはその地方の廣漠さと、道路の不足とによつて政治の侵人を固く防護してゐた。草土帶の上の無數の墳墓のみが、僅かに國氏大移動の地標として殘されてゐたに過ぎない。
私の父は、最初には小規模の、そして後には大規模の農夫であつた。彼は少年の時に,南方の草土帶に好運を求むべく、彼の兩親と共に、彼の生れたポルタワ縣のユダヤ人町を離れたのであつた。當時ケールソン及びエカテリノスラウ縣には、總計凡そ二萬五千人の住民を有する、約四十のユダヤ人の農業植民地があつた。このユダヤ人の百姓は、その法律上の權利(ー八八一年まで)のみならず、その財產に於ても、他の百姓と同一の資格の上に立つてゐた。自分自身をも、また他人をも容赦なしにこき使つた、不撓不屈な殘酷な勞働と、ー錢づゝの貯蓄によつて、私の父は世の中に頭を擡げて行つた。
 グロモクレイの植民地では、戶籍簿は非常に正確といふ譯でなかつたので、多くの記入は、記錄された出來事の日時の後になされた。それで、私に高等學校へ入學する時が來た時にも、許可を出すには餘りに若すぎると云ふやうなことが起つた。それで私の出生年月が一八七九年から一八七八年に變更された。だから、私はいつも,私の公年齡と、私の家族の閒で云はれる年齡との二つの記錄をもつてゐた。
 私の生涯に於ける最初の九ヶ年、私は私の故鄕の村から殆&外先も出さなかつた。この村の名ヤノウカは地主のヤノウスキイから來たものであり、この土地も彼から買つたのである。元の所有主ヤノウスキイは、兵卒から陸軍大佐の位にまで登つた人であつて、アレキサンダア二世治下に於ける權勢家達の寵愛を專にし、ケールソン縣の無人の草土帶に於て、一千エーカーの土地を選取りさせられたのだ。彼は自分で麥藁で屋根を葺いた土の小舍や、同じやうな粗末な農場倉を建てた。然し彼の農業は成功しなかつた。そして、大佐の死後その家族はポルトヴアへ移つた。私の父はヤノウスキイから二百五十エーカー餘りの土地を買收し、その上約四百エーカー餘りを借りたのである。私はこの大佐の未亡人をよく知つてゐる。彼女は凋びた小さな婆さんであつたが、私逹から地代を集めたり、寓事キチンと行つてるかどうかを見るために、年に一ニ度くらゐやつて來た。私達は彼女を迎へるためにバネつきの馬車を停車場まで送ることにしてゐた、そして彼女が降易いやうにするために、馭車臺に椅子を積んで行つた。父が輓馬を持つてからと云ふものは、この四輪馬車はいつも父に御せられるやうになつた。大佐の未亡人は、鷄の茹肉と、軟かい茹卵とで饗應せられてゐた。彼女は私の妹と一緖に庭を散步しながら、凋びた指先で、垣根から樹脂を搔集めて、それが世界中で一番味のいゝ菓子であることを保證してゐた。
 私の父の收穫は、牛や馬の群が增へるに從つて增加した。そこでメリノ緬羊の飼育さへもが試みられた、然しこの冒險は不成功に終つた。一方にまた澤山の豚が飼つてあつた。彼等は自由に凡ゆる場所を步き廻り、至る所を鼻で掘返して、菜園を完全に臺なしにしてしまつた。所有地は注意深く管理されてゐたが、それは舊式なやり方であつた。人々は目分量で豐凶を識別した。さうしたわけだから父の財產の大きさを確定することは困難であつたらしい。父の財產の凡ては、大抵土地の中か、作物の穗先かにあるか、でなければ、倉の中か、港へ送り出す途中の手持品かにあつた。時としてお茶の最中とか夕食の時に、父は思ひ出したやうに叫び出すことがあつた、『おい、これを書いてくれ!俺《わし》は中買商人から千三百ルウブル受取つたのだ。俺は大佐未亡人に六百ルウブルとデムボウスキイに四百ルウブル遣つた。去年の春エリザヴエートグラードにゐた時、テオドシア・アントノヴナに遣つた百ルウブルも書付けておいてくれ』と。これが父の帳簿のつけ方の大略だ。にも拘らず、父は徐々にではあるが執拗に頭を擡げて行つた。

注記】本文および訳文の著作権は消失している。

読書ざんまいよせい(006)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」


第一章ヤノウカ

 幼年時代とは、人生の最も幸福な時代であると考へられてゐる。果してそれはいつも眞實であらうか? 否、ごく少數の者が幸福な幼年時代を持つに過ぎない、幼年時代の理想化は特權階級の黴の生えた文學によつて始められた。傳統的富と敎養とのある家庭で送られた、安全で、裕福で、苦勞のない幼年時代、情愛と遊戯との幼年時代は、人をして人生の旅路の最初に於ける輝かしい牧場の思ひ川を思ひ起させる。文學の貴族、或ひはこの貴族を讃美する庶民達は、この幼年時代に對する純粹に貴族的な見解を神聖化した。然し民衆の大多數は、たとひその過去の凡てを回顧して見たとしても、それとは反對に、暗黑と、飢餓と、奴隸との幼年時代を見るに過ぎないのだ。生活は弱者を打ちのめす——そして小兒よりも弱い者が何處にあらう?
 私の幼年時代は、飢ゑと寒さのそれではなかつた。私の一家は、私の生れる時には旣に相應の財産を作り上げてゐた。然しそれは、貧困の中からやつと頭を持上げながら、中途で止まらうとする何等の欲求もない民衆の、かつ/\の財產であつたのだ。凡ゆる人間がこき使はれ、凡ゆる企圖が實行され、そして貯蓄された。かうした家庭の狀態は、小兒のために僅かに質素な餘地を殘したに過ぎなかつた。私達は困窮も知らなければ、人生の寬大——その愛撫——をも知らなかつた。私の幼年時代は、私に取つて、少數者になされるが如き輝かしき牧場としても現れなければ、大多數者になされるが如き飢ゑと混亂と悲慘の眞暗な洞窟としても現れなかつた。私のそれは、自然が茫漠としてゐて、風習や、見解や、興味が縮められ、狹められた僻地のー村落の中で送られた下層中產階級の、灰色の幼年時代であつたのだ。
 私の幼少時代を圍繞した精神的環境と、私の、後年の意識的生活をそこで過ごしたそれとは、時間的、空間的に幾十年間と、そして遠い國々によつて分たれた許りでなく、偉大なる出來事の山積と、より不明瞭ではあるが、彼の個性には非常に必要である內部の地滑りとによつて分たれた、二つの異つた世界であつたのだ。最初私がこれらの思ひ出を起稿し始めた時に、をれは私には自分自身の幼年時代のことを書いてゐるのではなくて、遠方の國への大昔の旅行の話を書いてゐるのではないかと思はれたことが屢々あつた。私は私の物語を三人稱で書かうとさへした。然しこの月竝な形式は、私がどんな犠牲でも拂つて避けようとする、作り話をすぐと密輸入して來易いのだ。
 この二つの世界の矛盾にも拘らず、人格の統一は、隱れた通路を通じて、一つの世界から他の世界へと入つて行く。一般的に云ふならば、これは人々が種々な理由によつて、社會生活に於て、或る、素晴しい地位を占めた人々の傳記や、自叙傳の中に見出す興味の故であるのだ。そこで私は、私の幼年時代の話を多少詳細に亙つてお話しゝようと試みるであらう。——先を越したり、豫め將來を豫言したりしないで、卽ち理想された梗概に當てはまる事實を選擇しないで——單に私の記憶の中に貯藏されたまゝを、思ひ付いたまゝに記述することゝしよう。

 時として私は、母親の胸にもたれて乳を吸つてゐるところを思ひ起し得るやうな氣がする。尤もそれは、私が幼兒達の間で見たことを、自分に當てはめて考へてゐるのだらうとは思ふが。私は庭の林檎の木の下での、一つの情景をかすかに覺えてゐる。それは私が、ー歲六ケ月の時にあつたことで、しかも、その記憶も亦甚だ暧昧なものなのだ。私は、かなり正確に、いま一つの事件を思ひ出す。私は母と一緒にX家を訪れて、ボブリネツツに來てをり、そこには二歲か三歲の女の兒がゐた。私が花笠なら、その女の兒は花嫁だ。子供達は客間のペンキ塗の床の上で遊んでゐる。女の子はむづかリ始めて來た。男の兒は面喰つて突立つたまゝ、箪笥の橫に釘づけにされたやうになつてゐる。彼の母親と女主人とが、這入つて來た。彼の母親は男の子を眺めて、それから側のむづかり屋に目を移し、それから更に男の兒を見返して、口惜しさうに彼女の頭を振りながら『何かおいたをしましたね?』と云ふ。男の兒は、どうしていゝか分らないやうに、母親を眺め,自分を眺め、それからむづかり屋の方を見る。
『何んでもありませんわ、子供達は遊びすぎたのですよ。』と主婦が云ふ。
 男の兒は恥かしさも、後ろ暗さも感じはしない。その時の彼は幾歲だつたらう?二歲か或ひは三歲だつたかも知れない。
 私が保姆と一緖に庭を散步してゐて、毒蛇の中へ走り込んだのも、ほヾこの時代であつた。『リヨヴァ、御覽』彼女は叢の中のピカ/\したものを指差しながら叫んた。『土の中に嗅煙草入れが埋まつてゐるよ。』さう云つて私の保姆は、棒切れをもつてそれを掘出し始めた。保姆自身も十六歲より多くではなかつたのだ。その嗅煙草入れはひとりでに渦を解いて蛇に變つた。そして蛇泣きをしながら、叢の中へ這込み始めた。『アレーツ』保卿は金切り聲を出して、私を抱へて走つた。私にはまだ走り出すことが出來なかつたのだ。その後私は、私が叢の中で蛇になつた嗅煙草入れを發見したことを、昂奮して息を切らせながら、話したものだつた。
*トロツキイの本名は、Lev Davydovich Bronstein で、彼の父の名前は Leontyevich Bronstein であつた。『リヨヴア』は字義上から云つて 『ライオン』に當るレウの、數多の指少詞の一つである。イギリスやフランス風に云へば、トロツキイはレオンとして知られてをリ、ドイツではレオとして知られてゐる。爾後の諸頁に於て讀者諸君は彼が、レヴ・ダヴイドウツチと呼ばわてゐるのを屢々發見するであらうし、また屢々彼の夫人の日記からの拔萃に簡單にオル・デイと記されてあるのに出つくはずであらう。

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