日本人と漢詩(096)

「日本人と漢詩」は番外編が2投稿あるので、連番号を修正した。
◎石川啄木と白居易(白楽天)

啄木には、漢詩の実作はないが、短歌には意外と漢詩的な側面もある。白楽天は、李杜のやや下に置く傾向はあるが、彼の白楽天の詩集は、あまり人口に膾炙する詩以上に、熱心に読んでおり、自らの短歌にも影響を与えたと考えられる。

浪淘沙《ろうとうさ》
       ながくも声をふるはせて
       うたうがごとき旅なりしかな
これは、啄木が、1908年、一年間にわたる北海道各地の旅から離れ、文学一本で身を立てるため、単身で東京生活を始めた、日付は、10月23日の作品である。

浪淘沙 白楽天
隨波逐浪到天涯 波に随《したが》い浪を逐《お》いて天涯《てんがい》に到る
遷客生還有幾家 遷客《せんかく》生きて還《かえ》るは幾家《いくか》か有る
却到帝鄕重富貴 却って帝郷《ていきょう》に到りて重ねて富貴ならば
請君莫忘浪淘沙 請《こ》う君忘るる莫《なか》れ浪の沙《いさご》を淘《とう》するを

浪のまにまに天涯に貶詫《へんたく》(遠く追いやられること)された人は、生きて還ることは稀である。もし幸いに都へ帰って、さらに富貴になりえたならば、全く浪に淘《あら》われた沙のようだと思うがよい。(佐久間節訳解「白楽天詩集」第四巻)

以前、啄木は、白楽天のことを、李白・杜甫の下位に置く傾向があると指摘したが(日本人と漢詩(060))、、決して軽視したわけではなく、ややマイナーな詩作も含めて、こまめに読んでいたらしい。白楽天には珍しい、ややメランコリックな詩情を自作の短歌にうまく取り入れている。

浪淘沙六首白文は、以下のサイトにある。

啄木の本領は、拠点を東京に移した時から始まったと言ってよい。ただし、彼の人生は、あと4年しか残されていなかったが…
「大逆事件」関係では、古い蔵書から、歌人の碓田のぼる氏の新書を読み返した。戦後になりようやく資料が出揃ってきた「大逆事件」の全容を書く端緒で夭折したのが返す返すも残念である。そもそも、秋水が「暴力革命」論者であったかは、かなり難しい問題だろう。「大逆事件」供述書にそのような記載があったとしても、権力側から「嵌められた」側面が強いかな?その供述書を読むことができた啄木は、秋水の意志を受け継ぎ次の時代へ進もうとしたし、厳しい現状に対しても、何とか「人民的議会主義」への模索があったと指摘する。繰り返しになるが、その意志、意欲は、明治の終焉と時を同じくし、そして象徴的だが、啄木の夭折とともに、一旦、断絶と終焉を迎え、継承されることはなかった。碓田のぼる氏は、やがて大正から昭和にかけてのプロレタリア文学に引き継がれたとするが、議会への態度を含め、かなり強引な説明であることは否めないし、今日的な検討が必要であろう。

参考】
啄木と中國一唐詩選をめぐって一
北の風に吹かれて~独り漫遊記~啄木歌碑巡り~1~
・「石川啄木と『大逆事件』」(碓田のぼる 新日本新書)(写真も本書から)

日本人と漢詩(085)

◎柏木如亭と白居易

江戸時代は、漢詩の表現法などが大きな変遷を遂げた時期だった。中期までの、いささや大言壮語に堕した「格調派」から、後期ともなると、日常茶飯事を含む細やかな心の動きを描出する「性霊派」へと変わってきた。柏木如亭もその潮流の一人で、その訳詩集「訳注聯珠詩格」では、白楽天の詩も、ちょっとした日常詩である。

聞亀児詠詩      亀児が詩を詠ずるを聞く    白楽天

憐渠已解弄詩草    憐れむ 渠《かれ》が已に詩草を弄することを解するを
揺膝支頤学二郎    膝を揺がし頤《あご》を支へて二郎を学ぶ
莫学二郎吟太苦    学ぶ莫れ 二郎が吟に太《はなは》だ苦しむを
年纔四十鬢如霜    年纔《わづ》かに四十 鬢《びん》 霜の如し

〈柏木如亭譯〉
憐《かあい》や渠《あれ》は已《いつか》詩草《し》を弄《つくること》を解《おぼ》えて
揺膝《びんぼゆすり》をしたり支頤《ほゝづゑをつい》たりして二郎《おれ》を学《まね》る
二郎《おれ》が吟《しをつくる》に太苦《なんぎす》るをば莫学《まねやる》な
年は纔《やうゝゝ》四十だが鬢《びん》は 如霜《まっしろになった》
以上、昭和レトロな赤坂の思い出から、語釈も同サイト参照のこと。
よりいっそうの現代語訳は、白楽天 舞夢訳を参照のこと。

訳文も、森川許六の三体詩訳の俳文調から抜け出し、現代の口語訳と変わらないところまで来ており、漢詩の日本語を使った解説の一つの到達点であろう。ずいぶん駆け足だったが、平安から室町、江戸時代にかけての訳文を通じての漢詩受容の話題は、ひとまずは、終わることにする。

実際の彼は、白楽天の詩で触れる「家庭の幸福」を知らない人生で、江戸、新潟から京都などへの放浪の詩人だった。追加として、如亭の晩年の詩作を一つ、どこか唐詩への回帰の趣きがある。
絶句
歸鴉閃閃沒煙霄 帰鴉閃閃 煙霄《えんしょう》に没す
但見漁舟趂晚潮 但だ見る 漁舟の晩潮を趁《お》うを
一傘相扶侵雨去 一傘あい扶《たす》けて 雨を侵し去《ゆ》く
黃昏獨上水東橋 黄昏に独い上る 水東の橋

簡単な注釈】
ねぐらに帰るカラスの群れが霞空へ消え、漁船も夕べの潮を追いかける。相合い傘でアベックが雨の中を寄り添って歩いている。その夕暮れの中に一人橋の上にたたずんでいる。
中村真一郎は「孤独な老人の感慨」と書くが、それでいて、どこかある種の温もりも感じる。

参考】
・柏木如亭「訳注聯珠詩格」(岩波文庫)
・中村真一郎「江戸漢詩」(岩波同時代ライブラリー)

日本人と漢詩(082)

◎藤原定家と白居易

日本での漢詩の「読み解き」を広く取れば、時代を遡ると「和漢朗詠集」あたりからだろう。この時代に引用される詩人は、白居易が一定割合を占め、鎌倉時代になっても定家晩年の作「拾遺愚草員外」の中では、「白氏文集」から題をとった句題和歌が百首ある。どの和歌も、さすが定家、よく熟されている。

氷とく人の心やかよふらむ風にまかする春の山みづ

府西池 白居易
柳無氣力枝先動 柳《やなぎ》に気力無くして 枝先《ま》ず動うごき
池有波紋冰盡開 池に波は紋《もん》有りて 氷《こおり》尽《ことごと》く開らく
今日不知誰計會 今日《こんにち》 知らず誰《たれ》か計会《けいかい》せる
春風春水一時來 春風《しゅんぷう》 春水《しゅんすい》 一時に来たる

語釈・訳文は、Web漢文大系を参照のこと。

白妙の梅咲山の谷風や雪げにさえぬ瀬々のしがらみ
此の里の向ひの村の垣ねより夕日をそむる玉のを柳

春至る   白居易

若爲南國春還至  若為《いかんせん》 南国 春還また至るを
爭向東樓日又長  争向《いかんせん》 東楼《とうろう》 日又長きを
白片落梅浮澗水  白片《はくへん》の落梅《らくばい》は澗水《かんすい》に浮うかぶ
黄梢新柳出城墻  黄梢《こうしょう》の新柳《しんりゅう》は城墻《せいしょう》より出でたり
閑拈蕉葉題詩詠  閑《しづか》に蕉葉《しょよう》を拈《と》り 詩を題して詠じ
悶取藤枝引酒嘗  悶《むすぼ》れて藤枝《とうし》を取り 酒を引きて嘗《たし》なむ
樂事漸無身漸老  楽事《らくじ》 漸《やや》く無くして 身漸《やや》老ゆ

語釈・訳文は、雁の玉梓 ―やまとうたblog―を参照のこと。

思ふとちむれこし春も昔にて旅寝の山に花や散らむ

曲江憶元九

春来無伴閑遊少 春来《しゆんらい》伴《とも》無くして閑遊《かんゆう》少なく
行楽三分減二分 行楽三分《さんぶん》二分《にぶん》を減ず
何況今朝杏園裏 何《なん》ぞ況《いわ》んや今朝《こんちょう》杏園《きょうえん》の裏《うち》
閑人逢尽不逢君 閑人《かんじん》逢い尽くせども君に逢はず

語釈・訳文は、『拾遺愚草全釈』参考資料 漢詩を参照のこと。

釘貫亨氏の「日本語の発音はどう変わってきたか」(中公新書)を興味深く読んだ。それによると、藤原定家は、なかなかの理論家だったらしく、和歌や「源氏物語」など仮名+漢字表記を分かりやすく、しかもバランスがよいように、工夫をこらしたようだ。(私事ながら、釘貫氏は、わが連れ合いの従兄弟にあたる。)

この著書にそって、当時の読みを、下段に提示すると、

咲きぬ也夜の間の風に誘はれて梅より匂ふ春の花園
さきぬなりよのまのかぜにさそふぁれてうめよりにふぉふふぁるのふぁなぞの

 春風  白居易
春風先発苑中梅  春風 先に発《ひら》く 苑中の梅
桜杏桃梨次第開  桜 杏 桃 梨 次第に開く
薺花楡莢深村裏  薺花《せいか》 楡莢《ゆきょう》 深村の裏《うち》
亦道春風為我来  亦《ま》た道《い》う 春風 我が為に来たると

語釈・訳文は、沈思翰藻を参照のこと。

その後、平板になった現代より、より抑揚のある発音であり、和歌の朗詠もなかなかにドラマティックだったように思う。

【参考】浅野春江「定家と白氏文集」(教育出版センター)

日本人と漢詩(081)

◎如月寿印(「中華若木詩抄」)と白居易

前回、漢詩の不特定多数向けの啓蒙書という話題に触れたが、どうやら、その形式ができあがったのが、室町時代の「抄物」が嚆矢だったようだ。その代表例が、「中華若木詩抄」で、中国では、唐・宋・元、そして明にかけての詩人、本邦では、ほぼ同時代の、禅僧の七言絶句、二六一首の解説を行うが、これが実に懇切丁寧である。以下、白居易(白楽天)の詩を紹介する。

明妃曲 白居易

滿面胡沙滿鬢風 面《おもて》に満《み》つる胡沙《こさ》 鬢《びん》に満《み》つる風《かぜ》
眉銷殘黛臉銷紅 眉《まゆ》は残黛《ざんたい》銷《き》え 臉《かお》は紅《べに》銷《き》ゆ
愁苦辛勤憔悴盡 愁苦《しゅうく》辛勤《しんきん》して憔悴《しょうすい》し尽《つ》くし
如今卻似畫圖中 如今《じょこん》 却《かえ》って画図《がと》の中《うち》に似《に》たり

明妃は、王昭君也。胡国へ赴かれたが、憐《あわ》れなるによりて、曲に作《つく》りて歌《うた》ふ也。昭君の義は耳熟することなれば、申するに及ばぬ也。一二之句は胡国へ赴かるゝ路《みち》也。面《かほ》へは胡沙を吹《ふき》かけ、髪をば寒風が吹乱《ふきみだれ》すぞ。眉に残《のこ》りたる黛《まゆずみ》も消《きえ》はてて、瞼の紅も失せて、ないぞ。三四之句は、胡国へ赴《おもむく》路次《ろじ》に辛労するほどに、身も衰《おとろ》へて、見し皃《かたち》もないぞ。


王昭君が選別されるときのエピソード-似顔絵を描く絵師に賂いをやらなかったために、醜婦に描かれ、漢の皇帝が、これなら差し支えないと王昭君を指名した。ところが、いざ顔を合わせると、あまりにも美形であったが、「綸言汗の如し」あとの祭りであったという。しかしこれは史実ではないらしい(Wikipedia 王昭君)ーを記載するが略する。

宮を出でし時《とき》は画図にも似ずしてうつくしかりつるが、風沙に吹埋《ふきう》められて身も衰《おとろ》へたれば、今こそ始《はじめ》て画図の中に似たれと云心也。妙なる詩也。

この「抄物」にはないが、王昭君第二も掲載する。

王昭君其二
漢使卻回憑寄語 漢使《かんし》 却回《きゃくかい》 憑《よ》りて語《ご》を寄《よ》す
黄金何日贖蛾眉 黄金《おうごん》 何《いず》れの日《ひ》か蛾眉《がび》を贖《あがな》わん
君王若問妾顏色 君王《くんおう》 若《も》し妾《しょう》が顔色《がんしょく》を問《と》わば
莫道不如宮裏時 道《い》う莫《なか》れ 宮裏《きゅうり》の時《とき》に如《し》かずと

ともに、語釈、訳文は、漢文委員会を参考のこと。

嘆髪落 髪ノ落ツルヲ歎ズ 白居易
多病多愁心自知 多病《たへい》多愁 心自ズカラ知ル
行年未老鬂先衰 行年《こうねん》未ダ老イザルニ 鬂先ンジテ衰フ
隨梳落去何須惜 梳ルニ随ヒテ落去ス 何ゾ惜シムヲ須《もち》イン
不落終須変作糸 落チザルモ 終《つい》ニ須《すべか》ラク変ジテ糸ト作《な》ルベシ

一の句、多病と云い、多愁と云い、吾と心中《しんぢゆう》に老衰を覚《おぼ》ゆるぞ。二之句、さあるほどに、いまだ年も寄《よ》らねども、鬂から衰《おとろへ》て行《ゆき》たぞ。行年は、星月とともに深《ふけ》行く年也。三四之句は、衰鬂を梳《けづる》に随つて落葉の如く落《おつる》ぞ。落《おつ》ると云《いう》ても、惜むべきことでないぞ。若《もし》此《この》髪が梳に随て落《おち》ずんば、白髪三千丈の絲となるべきぞ。落《お》ちずば、さて也。面白く云出《いひいづ》る也。

以上、「解説訳文」の部分は、カタカナはひらがなへ、訓点部分は読み下して改変掲載した。

語釈、訳文は、yoshのブログを参照のこと。

白楽天は、その当時は長命であったが、現在いう後期高齢者(七十五才)になった途端、世を去った。当方も、とっくに「髪ノ落ツル」時は過ぎたが、そこら辺まではなんとか行けるだろうかな?

【参考】「中華若木詩抄・湯山聯句鈔」(新日本古典文学体系)岩波書店

日本人と漢詩(050)

◎文楽(人形浄瑠璃)と白楽天

 先日、文楽(人形浄瑠璃)を観た(聴いた)。演目は、夏祭浪花鑑《なつまつりなにわかがみ》。「浪花の俠気の男たちとその妻たちの物語」。題名のように夏向きの趣向で、泥場といわれる最後に近い五反目の殺人現場での修羅場が人形ならではの見せ場である。
Wikipedia → https://w.wiki/3fyn
 ところで、文楽の舞台での襖には、漢詩が掲げられていることがあり、ちょっとした「小道具」である(写真)。「仮名手本忠臣蔵」山科閑居の段には、白楽天の「折剣頭」が書かれており、まがった釣針は、高師直(吉良上野介)に贈賄した側、折れた刃は、塩冶判官(浅野内匠頭)を指し、放蕩に耽る大星由良之助(大石内蔵助)の内心での「忠義」が示唆される。
折劍頭 折れたる剣の頭 白居易
拾得折劍頭  折れたる剣の頭《さき》を拾い得たり
不知折之由  折れたる由《いわれ》は知らず
一握靑蛇尾   一握りの青き蛇の尾か
數寸碧峰頭  数寸なる碧の峰の頭《いただき》か
疑是斬鯨鯢  疑うらくは是れ鯨鯢《けいげい》を斬りしならん
不然刺蛟虯  然らずは蛟虯《こうきゅう》を刺せしか
缺落泥土中  泥土の中に欠け落ち
委棄無人收  委ね棄てられて収《ひろ》う人無し
我有鄙介性  我は鄙《いや》しく介《かたくな》なる性有りて
好剛不好柔  剛《かた》きものを好めど柔きものを好まず
勿輕直折劍  直きゆえに折れたる剣を軽んずる勿かれ
猶勝曲全鉤  曲がりつつ全き鉤《つりばり》には猶お勝りなんものを
白楽天は自負とおり、硬骨漢でもあったようだ。
解説は、 https://www.eg-gm.jp/e_guide/yowa/yowa_01_2014.html を参照のこと、図も同サイトからの転載。

日本人と漢詩(109)

◎白楽天と袁枚と一海知義

男女を問わず、高齢者の方に何とも言えぬ「風情」を感じることがあるが、それは、一海先生の説くごとく、その人の醸し出す、人としての「色気」なんだ。記事は、2012年7月20日付けの赤旗文化欄・一海知義の漢詩閑談。イラストには、赤旗では珍しく「風情=色気」を感じる(笑)。