日本人と漢詩(116)

◎中井履軒と上田秋成、木村蒹葭堂

 中井履軒は、「懐徳堂」第四代学主・中井竹山の弟。上田秋成ともども、木村蒹葭堂と交流があった。秋成は、名うての悪口家で、竹山、履軒、ひいては、懐徳堂をことに、こき下ろしている。でも、「鶉図画賛」で漢詩と短歌のコラボをしているところを見ると、芸術上、学問上は、二人は共鳴するところがあったのだろう。

履軒幽人題「隱居放言」

悲哉秋一幅 悲しきかな秋一幅、
若聞薄暮聲 薄暮の声の聞くがごとし。
誰其鶉居者 誰か其れ鶉居する者、
獨知鶉之情 独り鶉の情を知らんや

「もの悲しいなあ、秋にふさわしい一幅の画を見ると、薄暮に鶉の鳴く声が聞こえるようだ。どうして鶉居(不常住)するものだけが、鶉の情を知っているだろうか、いや誰でもこの画を見ればその気持ちがわかるだろう」

 一方秋成の歌は、「むすぷよりあれのみまさるくさの庵をうづらのとことなしやはてなむ(ここにすみかとして構えて以来、荒れ放題のこの草の庵を、最後には鶉の住みかとしてしまうだろうか)

図は、左から「鶉図」画賛、上田秋成・自画自賛像、上田秋成和歌を副えた蒹葭堂画。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」(新潮社)
・大阪大学「懐徳堂って知ってはる」展覧会パンフ

日本人と漢詩(114)

◎木村蒹葭堂、伊藤若冲と売茶翁

 今回は、中村真一郎の本の頁数を少し飛ばして…
 京都の福田美術館が、伊藤若冲の画を海外から買い戻したと、2024年11月10日号の、赤旗日曜版に記事があった。2025年1月まで展示しているとのことなので、機会があれば観に行きたいものだ。
 蒹葭堂(1736‐1802)と若冲(1716~1800)は、ほぼ同時代なので、交流があったように思うが、蒹葭堂の交遊録には、若冲の名前は出てこない。間接的には、若冲が師と仰いだ、売茶翁(高遊外)や、同輩・僧大典などは、蒹葭堂開館当時に知っていたので、彼らを通じて若冲の評判は聞いていたかもしれない。このうち大典は、前回紹介した宇野明霞に儒学を学んだとある。
 売茶翁は、肥前(佐賀県)の人。各地で、禅僧として修行するも、「釈氏の世に処《お》る、命の正邪は心也。迹には非ざる也。(人の評価は、ただ行跡にとどまることなく、内なる命が大事である)」として、茶を売ることで飢えをしのぐようになった。それも、「茶銭は黄金百|鎰《いつ》一鎰は二十両ーより半文銭まではくれ次第、ただのみも勝手、たゞよりはまけまうさず」と貼紙がしてあったという。表裏千家の茶道とは違った、洒脱というか、自由なお茶の楽しみ方を目指したようだ。お茶の後は、若干の歌舞音曲と楽しい談笑が待っている、江戸時代中期、生産力もあがり、人々の需要層も量的に、質的にも高まってきたようだ。
 若冲と売茶翁との交流は、NHKの2021年正月TVドラマ「ライジング若冲 天才 かく覚醒せり Wikipedia」 にあったとおりである。
 その売茶翁の詩から
錢筒二題ス
隨處開茶店 ー鍾是ー錢 随処二茶店ヲ開ク、ー鍾《シヨウ》(一杯の意)、コレー銭。
生涯唯箇裏 飢飽任天然 生涯タダコノ裏《ウチ》、飢飽天然二任《マカ》ス

煎茶日々起松風 醒覺人間仙路通 煎茶日々、松風ヲ起ス。醒覚ス、人間《ジンカン》仙路通ズルヿ《コト》ヲ。
要識盧仝眞妙旨 傾愛先入箇錢筒 盧仝《ロドウ》(中唐の詩人。隠棲して仕官しなかった)真妙ノ旨ヲ識ラント要セバ、囊ヲ傾ケテ先ヅ箇《コ》ノ銭筒二入レヨ。

参考】
中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」(新潮社)

日本人と漢詩(113)

◎木村蒹葭堂と宇野明霞


 前回までの「脱線」を修正し、「木村蒹葭堂のサロン」に沿って、取り上げられた漢詩人を紹介してゆく。木村蒹葭堂を取り巻く人達は、その豊富さを誇る。重複しているのを厭わずに言うと、第一に、小説、漢詩、俳句、絵画などを得意とした、文人のグループ。第二に、その周辺にいた、コレクター、第三に、懐徳堂をはじめとする儒学者、さらには、第四に、名前も知られない市井の人々。また、師弟関係の「系統樹」をたどると、その頃の日本、部分的には、世界と繋がっていたと言えるのではまいか。
 まず、蒹葭堂と直接の師弟関係はないが、漢詩人の結社「混沌詩社」の指導者、片山北海の師匠筋にあたる、主には儒学者たる宇野明霞から。
 中村真一郎は、「明霞は詩才に乏しい」と断言するが、それでも数首、彼の詩を引く。このあたり、中村の守備範囲の広さがうかがえる。比較的佳作とする詩から、三首ほど。

咏秋海棠
海棠秋睡熟 含露倚籬根
曉風吹不覺 初日滿前園
(海棠、秋、睡り熟シ、露ヲ含ミテ、籬根二倚《ヨ》ル。暁風吹キテ覚エズ、初日、前園二満ツ)
「朝起きてみると、前庭のシュウカイドウのピンクの花が、朝日に照らされて咲いている。」のような意味か?

偶作
靜窓驚遠梦 忽爾還千里
也知客夜中 幾處鄕心起
(静窓、遠夢二驚キ、忽爾トシテ千里還ル。マタ知ル、客夜ノウチ、幾処、郷心起ルヲ)
「これなどは、天才的とは言えないが、小さな成功を見せていて、好意が持てる。」と中村は書く。

謝ー壑禪師見贈庭花
竹院春深少往還 庭花折贈市塵間
數枝紅白看無厭 也得浮生幾日閑
(竹院、春深ク、往還少ク、庭花、折り贈ラル、市塵ノ間。数枝ノ紅白、看ルニ厭フナク、マタ得ル、浮生、幾日ノ閑)

必ずしも、順風満帆でなかった、己の人生もようやく落ち着いたところに落ち着いたという感慨であろうか?

図は、宇野明霞の七絶の筆跡、繊細なタッチで、どこか物悲しく感じる。

日本人と漢詩(110)

◎祇園南海と木村蒹葭堂と中村真一郎(補足)

 しばらくは、中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」に載る漢詩を、書籍の最初から順を追って紹介したい。まずは、木村蒹葭堂の本格的なオープンであるが、前回紹介分のの祇園南海の補足から。
 木村蒹葭堂の絵の師匠、池大雅は、一度だけ祇園南海に面会したことがある。その一度の邂逅で、真髄を伝授されたという。池大雅は木村蒹葭堂の絵の師匠。文化史的につながっていると中村真一郎はいう。図は、池大雅と祇園南海の画から。
 祇園南海は、漢詩作での名をあげたと、江村北海「日本詩史」で評価されるが、若い頃は、その才を托んで、周囲の反発をかったようだ。「放蕩無頼」の罪状で、一度は流謫の身となったが、将軍吉宗の斡旋もあり、その後、紀州藩の儒官の身分を得る。その間も、彼は、外面《そとずら》と隔絶した、内面性を持っていた、と野口武彦氏は指摘する。最晩年の73才の時の、彼の詩。

『己巳歳初作』(寛延二年、一七四九)
我素人間無用客 我素卜人間《じんかん》無用ノ客
設令有用亦何益 タトヒ用有ルモ亦タ何ノ益アラン
惟應嬾眠冤復眠 惟ダ応二嬾眠覚メテ復タ眠ルベシ
撃攘起息亦役役 撃攘 起息 亦タ役々

&emsp:結句は、直訳すれば「地面をを踏み硬めて息をハーハーさせるなど日常生活動作をもっぱらにする」くらいの意味か?

 当方、この詩作の年齢以上になり「惟ダ応二嬾眠覚メテ復タ眠ルベシ」は当っているにしても、こんな心境に達しているかどうか、疑問であるし、あるし、別途の問題ではある。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」
・野口武彦「江戸文学の詩と真実」

日本人と漢詩(090)

◎葛子琴と頼山陽


前回も述べたように、葛子琴は、木村兼葭堂と縁の深い混沌詩社のいわば盟主。木村兼葭堂への賛詞は以前に記した。

頼春水も渡った、玉江橋が完成した時の作。

玉江橋成 葛子琴

玉江晴度一條虹 玉江《ぎょっこう》 晴れて度《わた》る 一条の虹
形勢依然繩墨功 形勢 依然たり 縄墨《じょうぼく》の功
朱邸綠松當檻映 朱邸《しゅてい》 緑松《ろくしょう》 檻《かん》に当たりて映じ
紅衣畫舫竝橈通 紅衣《こうい》 画舫《がほう》 橈《かじ》を並べて通ず
蹇驢雪裡詩寧拙 蹇驢《けんろ》 雪裡《せつり》 詩寧《なん》ぞ拙《せつ》ならん
駟馬人閒計未工 駟馬《しば》 人間《じんかん》 計《けい》未だ工《たくみ》ならん
南望荒陵日將暮 南のかた 荒陵《こうりょう》を望めば 日将《まさ》に暮れんとし
浮圖湧出斷雲中 浮図《ふと》湧出《ゆうしゅつ》す 断雲《だんうん》の中《うち》

首聯と頷聯の語釈、訳文は、サワラ君の日誌を参考のこと、そこには訳文として、

玉江橋 晴れわたる 一筋の虹のごとし
その姿 以前のままに 完成
諸藩の蔵屋敷 緑の松 欄干の水際に映り
派手な衣装 色艶やかな遊覧船 橈(かじ)を並べて通う

とある。頸聯、尾聯と続けると、
「この橋のたもとに住む私が、雪の中、ロバ上での詩は、下手なわけはないと思うが、四頭立ての馬車に乗るほど出世したかった司馬相如のように、作詩の工夫は上達しそうにない。南の方には、天王寺方面の高台には、日が暮れようとし、四天王寺五重の塔が雲のあいまから湧き出て見えている。」
玉江橋を南北に通る、なにわ筋を南に眼をやると、天王寺の五重の塔が見えたことは、前に述べた。「浪華風流繁盛記」の挿絵にも、遠景として描かれている。

頼山陽は、子琴を「混沌社の傑材」として称賛する。

論詩絶句 其十六
浪速城中朋童箸 浪速《なにわ》城中に朋童箸《あつま》り
猶従嘉蔦索金銭 猶ほ嘉蔦に従って金銭を索《もと》む
廷証混沌新穿薮 廷証たる混沌に新たに薮《あな》を穿《うが》つは
唯有多才葛子琴 唯だ多才有るのみ 葛子琴

竹村則行氏「頼山陽の論詩絶句と哀枚の論詩絶句」より

子琴の作品は、五言、七言の古詩など力作長編詩も多いが、ここでは、今の季節感に満ちた五言律詩を一首。

端午後一日芥元章見過留酌 端午後一日《たんごごいちにち》。芥元章《かいげんしょう》過《す》ぎらる、留め酌《しゃく》す
風烟堪駐客 風烟《ふうえん》 客を駐《とどむ》るに堪《た》う
落日一層樓 落日 一層《いっそう》の楼
緑樹連中島 緑樹《ろくじゅ》中の島に連なり
靑山擁上游 青山《せいざん》 上游《じょうゆう》を擁《よう》す
采餘河畔草 采《と》り余《あま》す 河畔《かはん》の草
競罷渡頭舟 競《きそ》い罷《や》む 渡頭《ととう》の舟
不但殘蒲酒 但《た》だに蒲酒《ほしゅ》を残《ざん》するのみならず
簾櫳月半鉤 簾櫳《れんろう》 月半《なか》ば鉤《こう》す

語釈など]端午の翌日の作 芥元章:京都の儒者、子琴より二十九才年長 風烟:かぜにたなびく靄 一層の楼:唐・王之渙「登鸛鵲楼」より「更に上る一層の楼」より 緑樹 中の島に連なり:今より中の島は緑豊かだった 青山 上游を擁す:上流には、金剛、葛城などの山々が連なり 采り余す 河畔の草 競い罷む 渡頭の舟:屈原の入水にちなんで、薬草を採取したり、舟競争を行ったり 蒲酒を残する:厄払いに少なくなった菖蒲酒を飲み 簾櫳 月半ば鉤す:すだれ窓に、(旧暦なので)三日月の倍くらいの六日月がかかる

葛子琴の墓は、大阪市北区栗東寺にあるが、写真のように、表面が剥げ落ちている。どうか、なんとかならないものだろうか?生粋の浪華詩人であるだけに、復元整備を切に望みたい。また、機会あれば、葛子琴の作品を紹介することにする。

写真は、「浪華風流繁盛記」より、落成当時の玉江橋、大阪市HPより、玉江橋顕彰碑、子琴の旧居近く、橋の北詰めにあるが、彼の名前は出てこない。 葛子琴の墓碑(栗東寺)(参考文献から)

・参考文献】
・水田紀久注「葛子琴 中島棕隠 江戸詩人選集 第六巻」
・中村真一郎「木村兼葭堂のサロン」

日本人と漢詩(089)

◎中村真一郎と頼春水、木村兼葭堂

中村真一郎の「漢詩三部作」のうち(「頼山陽とその時代」、「蠣崎波響の生涯」と本書)「木村兼葭堂とそのサロン」での執筆動機の序章は、思いの外、情緒的でもある。
まず、戦争中に、書信を持って、励ましてくれた師ともいえる人物が三人、片山敏彦、吉満義彦、それと、「フマニスト(人文主義)」に対して強固な信念を持ち続けた渡辺一夫の名を挙げる。それに続けて、戦後の日本に対しても、

それは手のつけられない混乱と分裂の有様であり、極めて優秀な若者が生長しつつある反面、単なる日本猿の親戚に過ぎない、絶望的な未開の大衆も生産しつつある。ある種のテレビのお笑い人物とか称するもののなかには、動物園以下のもの、人間の言葉を間違って真似して喋っている連中が横行していて、もし彼らが民主主義の原則に従って多数を占め、権力を握った時を想像すると、「猿の王国」以下に悲惨な世界が出現するだろうと、慄然とする。

もちろん、こうした「蔑視主義」に全面的に組みはしないが、彼が懸念するディストピアの危険性が高まってきたのも事実だろう。

日本の多くのマルクス主義者が、ご本尊の託宣を鵜呑みにして、西欧の歴史上の長い社会主義的蓄積を「空想的社会主義」のもとに切り捨て、自分の頭脳で検証するのを省略する軽薄さ…毛沢東の文化大革命の大波が起こると、それに軽々と乗って、「日本の実権派」を退治せよなどなどと大見得を切る…他人事ながら顔を𧹞らめた…」

これも、満腔の賛意ではないが、遠い昔にマオイストに振り回され、幾ばくかの友人を失ったことを経て、理解の範囲内であり、同意の半ばを共有する。また、昨今に至っても、あまりにも物事を単純化する運動集団の羅列には事欠かない。

こうして、中村真一郎は、江戸漢詩に出会い、その豊かな世界に魅了され、頼山陽、蠣崎波響の評伝執筆を経て、木村兼葭堂とそれを中心として円心上に廻るといった「知識人の共和国」を描く最晩年になった。この大部な著作からくみ取れることは、豊穣とも言えるが、以前の拙稿の続編(過去の記事は、タグ「木村兼葭堂」を参照)
ということで、蒹葭堂と関係の深かった、混沌社で「詩豪」の名を馳せた頼山陽の父、頼春水 Wikipediaが、その社中で中村真一郎にコクトーと讃えられる葛子琴( Wikipedia)に贈った玉江橋(子琴は、御風堂と称し、橋の北詰に書楼を営んだ)からの眺めを詠った詩。春水は、明和3年(1766年)当時は、大坂在住で、子琴の住まいを、たびたび訪問した。ちなみに混沌社は、子琴のネーミングだったらしく、ロシア革命時のアバンギャルド詩人集団を彷彿させるステキな名である。

玉江橋春望贈葛子琴 頼春水
玉江乘霽好從容 玉江、霽《はれ》に乗じて、好《はなは》だ従容
水映長橋淑景濃 水、長橋に映じて、淑景濃し
侯邸古松濤陣陣 侯邸の古松、涛陣々
市樓春柳翠重重 市楼の春柳、翠重々
雲邊塔影天王寺 雲辺の塔影は天王寺
海上嵐光佛母峰 海上の嵐光は仏母峰
莫道村郊靑可蹈 道《い》う莫《なか》れ、村郊、青、踏むべしと
不如此處植吟筇 ここに吟筇を植《たつ》るにしかず

語釈]
従容:ゆったりとした様 淑景:春の光を伴う景色 陣々:切れ切れに続く 侯邸:大名屋敷だが誰のかな?玉江橋北詰近くには、福沢諭吉生誕の地の中津藩屋敷があった 雲辺の塔影は天王寺:当時は、玉江橋から南を見れば、四天王寺の塔が見えたらしい。もちろん今はビルに遮られててそうした展望はない。逆に、大阪大空襲後の焼け野原では、天王寺から大阪城天守が見えたとのことである 道《い》う莫《なか》れ、村郊、青、踏むべしと:郊外の村に青草を踏みにいかなくても 吟筇:詩作にふけるための杖

今は川沿いに、散歩道も出来ているが、行き交う人は、気忙しく、詩作(ないし思索)にふけるとまではいかない。
写真は、頼春水画像(Wikipedia)と現在の玉江橋から南方天王寺方面を見る(筆者撮影)

参考】
中村真一郎「木村兼葭堂のサロン」(新潮社)

日本人と漢詩(018)

◎木村蒹葭堂と葛子琴
贈世粛木詞伯 葛子琴 五言排律
酤酒市中隠 酒を酤《う》る 市中の隠《いん》
傳芳天下聞 芳《ほまれ》を伝へて 天下に聞《きこ》ゆ
泰平須賣剣 泰平《たいへい》 須《すべから》く剣を売るべく
志氣欲凌雲 志気《しき》 雲を凌《そそ》がんと欲す
名豈楊生達 名は豈《あ》に 楊生《ようせい》の達《すす》むるならんや
財非卓氏分 財は卓氏の分《わ》くるに非《あら》ず
世粉稱病客 世粉《せふん》 病客《びょうきゃく》と称《しょう》し
家事託文君 家事《かじ》 文君《ぶんくん》に託《たく》す
四壁自圖画 四壁《しへき》 自《おのづ》から図画《とが》
五車富典墳 五車《ごしゃ》 典墳《てんふん》に富《と》む
染毫銕橋柱 毫《ふで》を染《そ》む 銕橋《いきょう》の柱
滌器白州濆 器《うつわ》を滌《あら》ふ 白州の濆《ほとり》
堂掲蒹葭字 堂に掲《かか》ぐ 蒹葭《けんか》の字《じ》
侶追鷗鷺群 侶《とも》は追《お》ふ 鷗鷺《おうろ》の群《むれ》
洞庭春不盡 洞庭《どうてい》 春は盡《つ》きず
數使我曹醺 数《しばしば》 我が曹《そう》をして醺《よわ》しめたり
江戸時代18世紀後半、蒹葭堂をして、サロンたらしめたのは、三つの条件があったと思う。一つには、主人の収集を価値とする生い立ち、二つには、大坂商人の「エートス」ともいうべきまめな性格で、毎日の来訪者を丹念に書き留めており、現在は、その「蒹葭堂日記」として残っている。日記を調べると、堂を訪れた文人は、広く日本全国に及んでいると言う。三つ目は、実際、蒹葭堂を会場にして、詩の集いなどのミーティングが、毎月定例化されたことだ。その詩会は、当初蒹葭堂が会場になったが、毎月、お店が会場になるというのも商売に差支えもあったのだろう、やがてその場所を移し、明和二年(1765)、「混沌詩社」の結成へと発展していった。その中での中心メンバーが、作者の葛子琴(Wikipedia)である。
葛子琴は、元文4年(1739年)生まれとあるから、木村蒹葭堂より、三つ年少だが、ほぼ同時代に生を受けたとみて良い。大坂玉江橋北詰に屋敷があった生粋の浪速人、しかも代々医を家業としていた(同業者!)。このことは、大坂生まれの漢詩人というのは、寡聞にして他にいないので、そのたぐいまれな詩才は、もっと知られてもよいと思う。45年という比較的短い生涯であったが、詩会を通じての知り合いだったが晩年は、蒹葭堂に出入りしたと「日記」にはあるという。詩は、その蒹葭堂讃である。詩の背景として、前漢の時代、その文名をはせた司馬相如(Wikipedia http://is.gd/IjZ7Io)に蒹葭堂を模している。司馬相如は、不遇の時代、酒屋を営んで、糊口をしのいでいた。しかも、駆け落ち同然で結ばれた卓文君という妻が、なかなかのやり手で、司馬相如が漢の武帝に見出されるまでは、内助の功を発揮した。司馬相如は若い頃は剣の達人だったというエピソードは、木村蒹葭堂の祖先が、大坂夏の陣で活躍した後藤又兵衛というから、それに重ねあわせたのかもしれない。しかし、「ボロは着てても心は錦」、志気の極めて軒高なことを司馬相如に例える。次は、蒹葭堂のユニークなところ、楊生のような推薦者がいたわけではなく、細君の実家からの援助があったわけでもない。ただ、元来「蒲柳の質」で、家事は妻(と妾―江戸時代は、妻妾同居が当たり前だったんだろう)に任していた。その結果、汗牛充棟、三典五墳の一大コレクションが出来上がった。銕橋(くろがねばし)は、今はもう埋め立てられてしまった、堀江川にかかる橋、蒹葭堂のあった北堀江と南堀江の境だろう。6月始めに、この近くにある保育所健診に行くので、このあたりの地理的関係を確かめておこう。(後注:http://www.yuki-room.com/horie.html によると北堀江と南堀江の境の道路から一つ南の筋にかかっていたらしい。)清人から送られた蒹葭堂の書斎に掲げられた扁額に触れ、その縁語で、堂に集う文人たちを鷗鷺に例え、そこにいると名勝地洞庭湖にも比すべき別天地、その春の情は尽きることなく、美酒に酔う心持ちであると述べ、讃詩の結びとしている。
*参考文献:水田紀久「水の中央にあり―木村蒹葭堂研究」(岩波書店)
写真は、明治末年に発刊された「漢籍国字解全書」詩疏図解・淵景山述(安永年間の人とあるので、ほぼわが主人と同時代である。)で、「蒹葭」の図が載っている。こんな本で四書五経を学んだという意味でスキャンした。

日本人と漢詩(014)

◎木村蒹葭堂と祗園南海

白屋靑燈獨夜情 白屋青燈、独夜の情
樽中有酒誰共傾 樽中、酒あり、誰と共にか傾けん
寒花十月無人見 寒花十月、人を見るなく
黃葉滿山聽鹿行 黄葉満山、鹿の行くを聴くのみ
「私たちの主人公、小字《おさなな》木村太吉郎が生まれたのは、元文元年(1736)、11月28日、大坂北堀江瓶橋北詰の酒造屋の一室であった。」とするのは、先日の投稿した史跡になるのだろうか?
中村真一郎氏は、その伝を執筆動機からはじめて、主人公の出生に及んでゆく。そこで、わが蒹葭堂が、少年時代から勤しんだ書画などの勉学から説く。大阪市の記念碑には、絵とともに漢詩の師匠筋にあたるのが、片山北海、柳沢淇園などの名を挙げる。更に中村氏は、淇園の先輩であり、同じ流派であった祗園南海らの詩や絵の中国直輸入ぶりに、逆に純粋なインターナショナルな精神を感じるという。
祗園南海(Wikipedia)は、わが蒹葭堂と15年くらい生涯が重なる詩人、文人。なかなか起伏に富む生涯であったようだ。中村氏が引用する詩は、その謫居中の詩。ひとり住むあばら屋に花は咲けども酒の相手もいない、紅葉の山に鹿の鳴く声のみがうつろに響く、とする七言絶句は、単に「唐詩選」からの模倣ではなく、ずいぶん率直な詩だと感じる。
「…十八世紀大坂の一少年太吉郎の胸を騒がせたのも(世界主義という)同じ衝動であり、やがてこの衝動は『蒹葭堂』という国際博物館の実現にまで、その夢が膨らんで行くことになる。

 それは日本にとっては、十六世紀後半の切支丹伝来時の、短い国際化に次ぐ本格的な、世界に向っての窓の開かれた、又、世界の水平線上に日本の影の現れはじめた時代なのである。

 そうした世界的雰囲気のなかで、ブルジョアジーの支配する都市、大坂の一隅に、世界を視野においた博物学のディレッタントが成長して行くのである。」(同)
これからも、「春風が(ガラス越しにも)伝わ」(芥川龍之介)ってくるようなわがディレッタントに則しながら、また時には離れ、時空も超えて、ゆっくり、ゆったりと書き綴ってゆくとする。
なお、大阪市の記念碑がある所は、正確には蒹葭堂跡ではないらしい。その石碑より100mほど西に入った所が、生家のようである。(Google map

【参考】中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』(新潮社)

日本人と漢詩(013)

◎芥川龍之介と木村蒹葭堂と皆川淇園

採蓮曲 皆川淇園
別渚《べっしょ》 風少《すく》なくして 花 乱れ開《ひら》く
船を移《うつ》し 槳《しょう》を揺《うご》かして 独り徘徊《はいかい》す
偶《たまたま》 葉底《ようてい》 軽波《けいは》の動《うご》くに因って
知る是《こ》れ 人の相逐《あふお》ひ来《きた》る有《あ》るを

 江戸時代の大坂の「文化遺産」で誇れるものが三つはある。一つは、人形浄瑠璃、二つには、懐徳堂(Wikipedia)、商人が設立した学問所である。加藤周一の「三題噺」の一題に登場する富永仲基はこの学問所の門人であった。三つ目に、木村蒹葭堂が開いたサロンがあげられるのではないか。明治や戦争中を経ていづれの「文化遺産」もその「保存・継承」は決してたやすいことではなかった。橋下大阪市長の自分の好き嫌いだけでの文楽助成打ち切りや、懐徳堂保存会長に、日本郵政公社第一代総裁だった西川善文氏が座っていることなどは、また別の話題ではある。
 ところで、東京人は、めったに大阪をほめない。逆もまた真実であろう。しかし、東京人龍之介は、「僻見」(青空文庫)の「四題噺」の一題に、木村蒹葭堂のサロンを誉めちぎる。巽斎の生涯に「如何に落莫たる人生を享楽するかを知つてゐた」として深い共感を寄せている。その収集物には、「クレオパトラの金髪」も混じっていたに違いないと龍之介特有のウィットまで付け加える。そうした思いを継ぐ形で「江戸文化人の共和国」を一冊の書物として作り上げたのは中村真一郎氏。その遺稿となった「木村蒹葭堂のサロン」がそれである。大部の本から、抜き出したらきりはないが、本日は、蒹葭堂が京都に訪ねた皆川淇園(Wikipedia)の詩を、遇《たまたま》NHKカルチャーラジオ「漢詩を読む」で流れていたので…
 真一郎先生は、淇園を「清濁併せ呑む」と、NHK解説者宇野直人先生は、「なかなか幅の広い人格」と論評する。
 ま、他愛もない詩と言えばそれまでだが、一応解説すると、採蓮曲は、楽府という日本でいう小唄に比べられるか、そのお題。「お客さんとの接待に飽きてか、別の船に移って舵を動かして一人で蓮の花が愛でていると、風がないのに葉が浮いた水面にさざ波が...さては、私を追いかけてきたのかしら」位の意味だろうか?
これはこれは、淇園先生、隅に置けないですな。祇園で相当浮名を流さないとここまでは書けないだろうな(笑)。

写真は、谷文晁作の木村蒹葭堂肖像画(Wikipedia の「木村蒹葭堂」の項目と現在の蒹葭堂跡石碑。