テキストの快楽(014)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(006)

第一編明治以前

第一章への補 東洋の学問

 第一篇の第一章の諸節のなかに出てくる思想家たちを、私たちが歴史的に理解するためには、この人たちがそのなかにいた日本の学問、ひいては東洋の学問の本質をとらえておくことが、何よりも必要である。そのため、私はかつて発表したことのある同名の題の論文に多少の筆を加えて、ここに「補」として収めておきたい。

           

 いっぱんに歴史がほんとうに明らかにされるのは、歴史への眼が現代の眼であることによって、おこなわれるのである。学問の歴史があきらかにされるにおいても同じことである。だから歴史では、いつでも現代の眼がととのうことが、何よりも大切である。唯物論の歴史においては、なおさらである。私たちの現代の眼で科学(ここでは科学という言い方と学問という言い方を区別しないことにする)を見ると、いちばん大切なものが三つ眼につく。ひとつは人民大衆である。もうひとつは自然である。最後のひとつは人や自然のことを知る知識がみな確かなことである。この三つのどれか一つ欠けていても、それはもはや現代における真の学問でないことになる。原子物理学が現代の学問だとすると、この三つの要件を完全に充足させつつ進んでいるはずである。もし、そうでなく、たとえば人民大衆という要件がひとつ欠けていると(というのは、大衆に触れさせない、大衆に秘密になっている、つまり大衆の生活と幸福が考えられていないという意味である)、その学問のある国家はやがて必ず蹉跌し、その国での学問はくずれてゆくに違いない。(そういう実例は今日ないのではない。)現在では科学はまさしくそういうところまでもうきている。これは変質的といっていいほどな学問のすばらしい発展である。私たちの現代の学問の眼は、以上のことを見てとっている。
 さて、学問の歴史を見る眼でみるとして、東洋の学問はどういう学問であったのだろう。これは東洋の学問を根本的に考えてみるにおいて、ぜひ必要なことである。まず人民大衆のことはどうなっていたか。学問と自然はどういう関係であったか。知識の確実性はどう考えられていたか。私たちは最初に中国の古代の学問から問題にしていくことにしよう。えきは当時の科学だった。老子や荘子の学問も、ちゃんと歴史的な役割をもった科学だった。孔子や孟子のそれも同様だった。これらの古代の学問は、あの三つの条件(人民と自然と知識の確実さ)をどういうように具えていたか。私たちはここで、あるひとつの便利な道をえらぶことにしたい。というのは、中国古代の学問にじかにぶつかってゆかないで、それを日本人が受けとったところで中国古代の学問を見るというやりかたをえらぶことにすれば、かねてもって、近世の日本人の学問観も同時にわかるからである。したがって、私たちがこの本でとりあつかっている人たちの学問思想の性質も、浮きあがって眼につくことになると思う。
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テキストの快楽(014)その1

◎ バイロン 土井晩翆訳 チャイルド・ハロルドの巡禮

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チャイルド・ハロルドの巡禮:目次

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土井晩翆 (1871-1952) 譯,バイロン(Lord Byron, 1788-1824) 著 「チャイルド・ハロルドの巡禮 (Childe Harold’s Pilgrimage(1812-1818))」。
底本:チャイルド・ハロルドの巡禮 (英米名著叢書),新月社,昭和二十四年四月五日印刷,昭和二十四年四月十日發行。
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チャイルド・ハロルドの巡禮

バイロン 著

土井晩翆 譯

目次

* はしがき
* マシュー・アーノルドの論集中より
* 第一卷及第二卷の序
* アイアンシイに
* 第一卷
* 第二卷
* 第三卷
* 第四卷
* 註釋

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チャイルド・ハロルドの巡禮:はしがき

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はしがき

黄金の筆を捨ててグリイス獨立戰爭に參加したバイロンが雄圖なかばにミソロンギノ露と消えて後正に一二四年である。 こゝに彼の一代の傑作長篇『チャイルド・ハロルドの巡禮』の全部を日本の韻文に譯して此大詩人に對する記念となし得たのは私の光榮とする處である。

猛虎の如く『初めの跳梁を誤れば呟きて籔に退く』とは詩作に就いてバイロンの僞らぬ告白であらう。 隨つて精神彫琢の功を缺くこともあるが、洪水の如く、猛火の如く、颱風の如き、一氣呵成の天才の筆、雄健に壯大に魂麗に、 マコーレイの評の如く『英國の國語と共にのみ亡ぶべき金玉の佳什が甚だ多い』。 — 此等の作をわが拙劣な日本韻文の瓦礫に變じたのは私の慚愧に堪へぬ處である。

本書は四卷から成り、著作の原序に曰ふ通り、ハロルドといふ假設の主人公に託して、著者が漫遊し視察した諸邦 — 大一卷はポルトガルとスペイン、第二卷がグリイスと其附近、第三卷はベルギイ、ライン地方及びスイス、 第四卷はイタリア — 此等の風土、人情、傳記、逸話等を敍し、其間に著者の感情思想を點綴したもので、 必ずしも首尾一貫の構想があるのでは無い、獨立した幾十篇の詩歌を集めたものと見ても差支は無い。

前の二卷は一八一二年に刊行されて一朝忽ちバイロンの詩名を九天の高さに揚げたもの、第三卷は一八一六年、 第四卷は一八一八年、いづれも『自ら流竄の』バイロンが英國をとこしへに去つた後の作で、 此後二卷は前二卷より遙かに遠く傑出し、バイロンの名聲を英文學史上に不朽たらしめたものである。

時代の好尚と流行に應じて詩人の聲價は常に變化するが『チャイルド・ハロルドの巡禮』は英詩界の傑作として、 常に青年の愛誦として、 百年の盛名を失はぬ。高等英文學の教科書として全世界に今日尤も廣く採用さるゝ長篇の英詩は恐らく本當であらう。 我國にも東亰高等師範學校の故岡倉教授が邦文の註譯を加へて刊行せしめたものがある。

バイロンは革命時代の潮流の中に生れた。

彼の生るる(一七八八)五年前アメリカの植民地は獨立して合衆國を建設した。 彼が生れて一年後フランス革命は端を開いた。彼は青春の曙に於て、 舊來の制度信仰習慣が『道理の法廷』の前に喚び出され、 一朝忽ち顛覆さるるを見た。彼は一般の革命的感情が自由、民生、道理、 革命の語をして到るところ人口に膾炙せしむるを見た。 ワーヅワースが山川の間に自然と默會しつゝある際、コレリヂが超自然界を夢みつゝある際、 キーツが美の女神を崇拜しつゝある際、彼はシェリイと共に革命の使徒として人界の狂瀾怒濤を凌いだ。 『チャイルド・ハロルドの巡禮』は自由と民政に對する熱烈奔放の貢獻である。

大ゲーテが驚嘆したバイロン、全歐洲の文壇を風靡したバイロン( — プシキン、ミケイヰチ、ラマルテン、 ユーゴー、ミュッセイ、ハイネ等第一流の名はこれを證明する)、 今日なほ全大陸がシェークスピアにつぐ英國最大の詩人と稱するバイロン、 — 極東の我々は彼の一二四年祭の今日に當りて彼の傑作に一瞥を投ずるを惜むだらうか。

  一九四八年十二月

土井晩翆

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チャイルド・ハロルドの巡禮:マシュー・アーノルドの論集中より

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マシュー・アーノルドの論集中より

わが見るところ此世紀の英國詩人中バイロンとワーヅワースは實際の作品に於て優秀で卓越で正に光榮の雙星である。一千九百年の暦が飜る時、わが國民が正に終り去れる世紀中の詩的光榮を追想する時、其時到らば英國にとりて第一流の名は此兩者である。

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チャイルド・ハロルドの巡禮:第一卷及第二卷の序

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第一卷及第二卷の序

此詩は大概その描寫を試むる其場其場で書き下され、アルバニアに於て先づ初められたものである。 スペインとポルトガルの關する部分は此國々に於ける著者の觀察から作られた。 敍述の正當を確かむるため斯く陳ぶることは必要であらう。描かんと試みた場所はスペイン、 ポルトガル、エパイラス、アカルナニア及グリイスで、現在の本詩はそこで止る、 著者が進んでアイオニア及びフリヂアを過ぎ、 東邦の首府へと讀者を導くや否やは本詩に對する世間の歡迎如何に因て決せらるるであらう。 此第一第二卷は只の試筆に過ぎぬ。

本篇に纒まりを附くるため(いつも左樣とは曰ひ得ぬが)一個の假の人物が設けられた。 此假作人物チャイルド・ハロルドとは著作たる餘が或る實際の人物を指したものとの疑を招くかも知れぬとわが敬服する友逹は忠告してくれた。 此の疑は斷然斥けねばならぬ、ハロルドは全く想像の所作で其目的は前述の通である。些々たる若干の — しかも單に局所的な — 場所に於てかゝる疑の根據があるかも知れぬ、しかし大體に於ては一つもかゝるものがない。

チャイルド・ヲータース、チャイルド・チルダース等の如く、 チャイルドといふ稱號は餘が採用した韻文法に適當するものとして使用されたことは殆ど曰ふ迄もないことである。 第一卷の初めにある「別れの曲」はスコット氏が刊行した「邊境曲」の中、「マクスヱル卿の別の曲」から暗示を得た。

スペインを題目として發刊された種々の詩とイベリヤ半島(スペイン及ポルトガル)を説いた本詩の第一部との間には、 聊かの類似があるかも知れぬが全く偶然に外ならなぬ。一二の終の章を除けば本詩の全部は東邦に於て書かれたのである。

「スペンサアの詩節スタンザ」は、最も成功した詩人中の一人の説に據ると、 あらゆる種類の敍述に適する。ベッティ博士は曰ふ『遠からぬ前、餘はスペンサアの詩節と詩體で一詩を初めた、 而してこゝに餘は諧謔或は悲壯、敍述或は感傷、温柔或は諷刺等、 氣分の向くに隨つてあらゆる傾向をほしいまゝに現はさうと思ふ。 若し餘が誤らぬなら餘が採用した韻律法は以上の種類の詩を等しく容るゝからである』かゝる大家により、 又イタリヤ詩人の最高なるものの例により、我説を確められて、餘は本詩に於て同種の試をなすことに對し、 何等辨解の必要を認めぬ、若し我が詩が不成功なら、其缺點は我が作爲の上に係るので、決してアリオスト、 トムソン及びベッティの作により是認された意匠に依るのではないと信ずる。

一八一二年二月

ロンドンに於て

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チャイルド・ハロルドの巡禮:アイアンシイに

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アイアンシイに

  *アイアンシイに

1.
女性の艷美類なしと早く曰はれしさとながら
わが先つ頃漂浪の旅をたどりし**邦々に、
或は獨り夢にのみ眺め得たりと吐息する
人の心に示されし其幻影のただなかに、
君に似し者あらざりき、うつつにも又思ひにも。
君を一たび仰ぎ見て、光かゞやき移りゆく
その美の力描くべく我空しくも試みじ —
君を見しことなきものに我言わがこと何の效あらむ?
君を眺めし者にとり何等の言葉あり得べき?

*オックスフォード伯の第二女シャーロット・ハーレイ十一歳の少女
**スペインとトルコ

2.
あゝ願くは今のまゝ君とこしへにあり得んを、
其青春の約束にふさはぬことに無からんを。
姿いみじく、其心清うして且つ暖かに、
獨り翼を缺くばかり*「愛」の地上の姿なり、
「希望」の思ふ處より更に優りて無垢の影!
心をこめて其若さ養ひめづる母君は
斯く刻々に照りまさる君に確かに認め得ん
未來の年の空染むる其虹霓こうけいのきらめきを、
その天上の色の前、あらゆる悲哀消え去らむ。

*キュピト、「愛の神」

3.
あゝ西歐の年わかき*仙女よ!すでにわが齡
君の齡にたくらべて倍數ふるぞ我に善き、
わが愛なき目ゆるかずに君の姿を眺め得ん、
その熟し行く艷麗を心安けく望み得ん。
行末遠きうつろひを見ざらん我の運もよし、
猶さちなるは若き心傷まん時に我ののみ
逃れん辛き運命を、 — 續きて來る讚美者よ
君が目來す運命を — 彼らの讚美さりながら
「愛」の甘美を極めたる時にも惱纒ふべし。

*原語ペリ、ペルシヤ語にて「精」の意

4.
羚羊れいやうの目の如くして或は晴やかに勇しく
あるは美しくはにかみて、見廻す時に心奪ひ、
見つむる處眩ましむる君の其まみ願くは
この集の上一瞥を投げよ、しかしてわが作に
その微笑を惜まざれ、 — *たゞ友のみに非らば
そは我が胸のいたづらにあこがれ慕ふものならむ。
親しき少女、願くは之を與へよ、問ふ勿れ
何等の故にうらわかき人にわが歌捧ぐると、
ひとつ類なき百合の花、許せ花環に加ふるを。

*友人以上に愛を抱くならば其微笑にあこがるは空し

5.
このわが歌に結ばれし君の名正に此*たぐひ、
世々のやさしき人の目が、此ハロルドの詩の上を
永く射る時、其中に初に見られ、いやはてに
忘らるる名ぞこゝにいつくアイアンシイの名なるべき。
われの現世の生閉ぢて此過ぎ去れる慇懃の
禮辭は君の艷麗を讚ぜし彼の**豎琴の
かたへに君の美はしき指をいざなひ導かば、
そは思ひづるわが靈の願ふ至上の幸たらむ、
***「希望」の請に優れども、劣るを「友情」求めんや?

*百合の花の清さ
**琴を彈ず、即此詩卷を讀む
***望みて得がたかるべけれど友情として其以下は求めず

【注記】
ネットでのリソースは、osawa さん(更新日: 2003/02/16)によるものを使用し、UTF8化した、なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた。
編集日時: 2025/10/07

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テキストの快楽(013)その3

◎生田譯:ハイネ詩集


図は、Wikipedia から。

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生田春月(1892-1930年)譯の「ハイネ詩集」(Heinrich Heine, 1797-1856年)。
底本:ハイネ詩集(新潮文庫,第三十五編),新潮社出版,昭和八年五月十八日印刷,昭和八年五月廿八日發行,昭和十年三月二十日廿四版。
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ハイネ詩集

ハイネ 原著

生田春月 譯

目次

* 序
* 若い悲み
* 「夢の繪」から(三章)
* 小唄(二十七章)
* 抒情插曲(六十九章)
* 歸郷(百章)
* ハルツ旅行から
* 山の牧歌
* 牧童
* 北海
* 海邊の夜
* 宣言
* 船室の夜
* 凪ぎ
* 破船者
* フヨニツクス鳥
* 船暈
* 新しい春(四十四章)
* 巴里竹枝 その他
* セラフイイヌ
* アンジエリク
* デイアヌ
* オルタンス
* クラリツス
* ジョラントとマリイと
* ジェンニイ
* エンマ
* キテイ
* フリイデリイケ
* カタリナ
* 他國で
* 悲劇
* 小唄
* 何處に?
* 後年の詩から
* 女
* 祕密
* ロマンツエロから
* アスラ
* 世相
* かしこい星
* 最後の詩集から
* エピロオグ

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ハイネ詩集中普通廣く讀まれるのは『歌の本ブツフ・デル・リイデル』と『新詩集ノイエ・ゲデイヒテ』とである。 この譯本も右の二卷を主とし、これに後年の『ロマンツェロ』『最後の詩集レツツテ・ゲデイヒテ』中の作を加へて、 總計三百有一篇、ハイネの才能のあらゆる方面を示すために十分の注意を彿つたつもりである。 ハイネ愛好者の滿足を買ふを得ば幸ひである。

『歌の本』中最も主要なる『抒情插曲リリツシエス・インテルメツツオ』 (もと劇詩『ラトクリッフ』と『アルマンソル』の中間に插まれて出版せられたので此名がある) 『歸郷デイ・ハイムケエル』の二部門、 『新詩集ノイエ・ゲデイヒテ』卷頭なる『新しい春ノイエ・フリユリング』及び 『若い悲みユンケ・ライデン』中の『小唄リイデル』は全部譯出したから、 それ等の番號は原詩と全然同一である。そして原詩の番號による事の出來ないものに限り、 番號の打ち方を(その一)といふ風にして置いた。

譯語は全部口語を用ゐた。多少無理なところもあつた代り、或點ではかなり成功したかと思ふ。 譯し方は嚴密な直譯をしたり、また極めて意譯をしたりした。韻律上の用意のためである。 尚この譯はレクラム版の全集を底本とし傍らボンス・スタンダアド・ライブラリイの英譯を參照した。

一九一九年一月

譯 者

ハイネ詩集:若い悲み

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若い悲み(一八一七年 – 一八二一年)

「夢の繪」から

  その一

むかしわたしは夢みた、はげしい戀を
きれいな捲毛を、ミルテじゆを、木犀草を
苦い言葉の出て來る甘い唇を
悲しい歌の悲しい曲調メロデイ

その夢はとつくに破れて消え失せた
わたしの夢想はすつかり逃げ去つた!
そしてわたしがかつて熱い湯のやうに
やはらかな歌の中に注いだもののみが殘つてゐる

とり殘された歌よ!さあおまへも行くがよい
そしてとつくに消え去つた夢をたづね出し
もし見付けたらよろしくと言つてくれ —
はかない影にわたしははかない思ひをおくる

【注記】
ネットでのリソースは、osawa さん(更新日: 2003/04/24)によるものを使用し、UTF8化した、なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた。
編集日時: 2025/10/04
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テキストの快楽(013)その2

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(08)

     

 シべリヤ街道、 これは世界ぢゆうで一番大きな道だ。また一番單調な道かも知れぬ。チュメーンからトムスクまでは、それでもまだ我慢が出來る。と言っても決して役人のお蔭ではなく、この地力の自然的條件の賜物である。この邊は森林のない平原で、 朝降った雨も夕方には乾いてしまふ。若しまた五月の末になっても雪解がやまず、 街道が氷の小山で蔽はれてゐるやうなら、 勝手に野原を突切って廻り路も出來るわけである。トムスクから先は大密林と丘陵の連續だ。こつでは地面はなかなか乾かず、 廻り路などはしようと思つても出來ない。厭でも街道を行くことになる。そこでトムスクを過ぎると旅行者が急にロ喧しくなって、 不平帳にせつせと書き込むやうになるのだ。役人諸君も几帳面に彼等の不平を讀んで、 一々「詮議に及ばず」と書いて行く。書くなんて餘計な手間だ。支那の役人ならとつくに印判スタンプにしてゐるだらう。
 トムスクからイルク—ツクまで、 二人の中尉と軍醫が一人道伴れになった。中尉のの一人は步兵で、 毛むくじゃらな毛皮帽を被つてわる。もう一人は測量將校で總肩券アクセルバンド附けてゐる。宿場に着くたびに、 馬車ののろさと動搖とでくたくたになった上に泥だらけで、びしょ濡れで、 睡くてならぬ私達は、早速長椅子に轉がって不平を連發しだす。――「やれやれ、 何て汚ない何てひどい道だい。」すると驛の書記や各主がかう答へる。――
 「これ位はまだ何でもありませんよ。まあ見てゐて御覽なさい、コズーリカ越えはどんな工合だが。」
 トムスクから先は、宿場に着くたびにこのコズーリカで威かされる。書記たちは謎みたいな笑ひを浮べ、行き合ふ旅人は意地の悪い笑顏で、 かう言ふ ――「私は越して來ましたよ。今度は君の番ですね。」あまり威かされるので、化舞には神祕なコズーリカが嘴の長い綠色の眼をした。鳥になって、夢にまで現れて來ろ。コズーリカといふのは、チェルノレーチェンスカヤとコズーリカの兩驛間二十ニ露里の道を指すのだ(これはーノチンスクとクラスノヤールスク兩市の間に當る)。この怖ろしい場所の手前二三驛あたりから、旣に豫言者が出現しはじめる。行き合った一人は四度も顚覆したといふし、 もう一人は車の心棒を折ったと零すし、三人目は難しい顏をして物も言はない。道はいいかと訊いて見ると、かう答へる,「いやはや結構の何のって。」とりわけ私を見る人々の眼は、死者を悼む眼附に似てゐる。何故なら私の馬車は自腹を切って買った車だからだ。
 「きっと毀して、泥んこの中へはまりますよ」と、 溜息まじりに言って吳れる、「惡いことは言はない、 驛馬車になさい。」
 コズーリカに近づくにつれて、豫言者は次第に物凄くなる。程なくテェルノレーチェンスカヤ驛といふ邊で、道伴れの乘つた馬車か引繰り返つた。夜だった。兩中尉も軍醫も、 トランクや包みや碁石やヴァイオリンの函もろとも、泥んこめがけて飛んでしまつた。その夜中には今度は私の番だった。愈ヽチェルノレーチェンスカヤ驛といふ間際になって、 私の車の軸釘が曲ったと急に版片が言ひ出した。(これは車臺の前部と軸部とを結ぶ鐵のボルトだ。だからこれが曲ったり折れたりすると、車體は地面に腹這ひになってしまふ。)宿場で修繕がはじまる。むかつくほど大蒜にんにくや玉葱の臭ひをさせる馭者が五人掛りで、泥んこの車を横倒しにして、曲った軸釘を金槌で打ち出しはじめる。まだ何とかいふ橫木も割れてゐる、何やらの舌も她んでゐる、ナットが三本も飛んでゐるなどと、彼等は口々に吿げる。が私には何ひとつ分らない。また分りたくもない。……暗いし、寒いし、退屈だし、睡い。……
 宿場の部屋に簿暗いランプが燃えてゐる。石油と大蒜と玉葱の臭ひがする。長椅子の一つには毛皮帽の中尉が橫になつて眠ってゐる。もう一つの長椅子には何やら髯の長い男が坐つて、て、大儀さうに長靴を穿いてゐる。今しがた電信の修理に何處やらへ行けと命令を受けたのだが、睡いので出掛けたくないのである。總肩章の中尉と軍醫とは卓に向つて、重くなった頭を兩手に支へて居睡りしてゐる。毛皮帽の舟聲が聞え、外では金槌を打つ音がする。
 馭者の話聲も聞える。……かういふ宿場の話といふと、 街道ぢゆうを通じて話題は一つだ、 つまりその土地土地の役人の月旦と、道路の惡口とである。遞信關係の業務はシベリヤ街道に沿ひ謂はば君臨してゐるだけで、別に政治を布いてゐるわけではないのに、天の憎みを蒙ることが最も甚だしい。イルクーツクまでまだー千露里以上の道程を扣へながら、 すでに困憊し切ってゐる旅人の耳には、 宿場の物語は唯々凄まじく響く。何とかいふ地理學會の會貝が、細君を伴っての旅行中に二度も自分の馬草を毀し、とどのつまりは森の中で一夜を過ごさなければならなかった話、何とかいふ貴婦人があまり搖れが酷いため頭を割ってしまった話、何とかいふ收稅吏が十六時間も泥濘のなかに坐り績けて、たうとう百姓に二十五ルーブルやって引張り出して貰ひ、宿場まで送り屆けられた話、 自用の馬車は一臺として無事に驛まで行き通した例しがないといふ話。かういふ話がみんな、まるで不吉な鳥の啼聲のやうに胸に響き返るのである。
 さうした話から推すと、 最も苦勞の多いのは郵便であるらし.い。もし篤志な人があって、ペルミからイルクーツクに至るシベリヤ郵便の動きを丹念に追って、 その印象記を書きとめるなら、さだめし讀者の淚を誘ふやうな物語になるだらう。それは先づ、宗敎、敎化、商業、 秩序、金錢などをシベリヤに齎らすこれらの皮製のこりや叺の總てが、怠惰な汽船がいつも汽車との連絡に;..!にはいといふだけの理由で、空しく幾晝夜かをペルミに停滞するところから始まる。チュメーンからトムスクまでは、春も六月に入るまで、郵便も河川の凄まじい氾濫と這ひ出ることも出來ぬ泥濘と闘ふ。氾濫のお蔭で、ある宿場にー畫夜ちかく待たされたことがあった。郵便もやはり待つてゐた。重い邺便物を小舟に積み込んで、河や水浸しの牧地を渡す。その小舟が顚覆を免れるのは、シベリヤの郵便夫のため、その母親が恐らく熱い祈りを捧げてゐればこそである。さてトムスクからイルクーツクまでには、コズ—リカだのチェルノレーチェンスカヤだのといふ難所が數知れずあって、郵便馬車は十時間乃至二十時間づつも泥濘の中に立往生する。五月二十七日に或る宿場で聞いた話では、郵便物の重みでカチャ川の橋が落ちて、馬も郵便も危く沈んでしまふ所だつたといふ。こんなことは普通の事故で、シベリヤの郵便はもうとうに慣れつこになつてゐるのだ。イルクーツクを發って先へ進む途で、六晝夜の間もモスクヴァからの郵便に追ひ抜かれなかったことがある。つまり郵便が一週間以上も遲れてゐた譯で、まる一週間何かの事故に引き留められてゐたことになる。
 シベリヤの郵便夫は殉敎者だ。その負ふ十字架は重い。彼等は英雄だ。祖國が頑迷にも認めようとしない英雄だ。彼等ほどに勞働し自然と鬪ふ者は、他にはゐない。時には堪へられぬほどの苦勞も嘗める。しかも、 彼等が免職され解雇され罰金を課せられる度數は賞與を受ける度數に比して頗る頻繁だ。諸君は彼等の月給の額を知つてゐるだらうか。諸君は生涯に一度でも、 郵便夫が褒章を着けてゐるのを見たことカあるだらうか。「詮議に及ばす」と書く人達などより、 彼等はずっと有用かも知れぬ。だが見るがいい。彼等が諸君の前に出ると、どんなに怯えたち、どんなにおどおどしてゐるかを。……
 だが、やっと修繕が出來たと言って來た。これで先へ進める。
 「起き給へ」と、軍醫が毛皮帽を起す、「呪はれたコズ—リカなんか、 さっさと越してしまふのが一番だ。」
 「いや皆さん、 繪で見るほどに惡魔は怖くないと言ひましてね」と、 長髯の男が慰める、「なあに、コズーリカだって、他の宿場よりちつとも惡いことはありません。それにもし怖けりや二十二露里ぐらゐ步いたつて譯はありませんや。」
 「さう‘泥んこに陷りさへしなけりやね……」と、 書記が言ひ添へる。
 空が朝焼けけに染まりはじめる。寒い。立場たてばの構內を岀もせぬうちから、もう馭者が言ふ、 ――「何て道だね、やれやれ。」最初は村の中を行く。……車輪を沒するどろんこの泥道があるかと思ふと、 今度はからからな丘になる。かと思ふと粗朶や棧道を渡した卑濕地に出る。それもどろどろの糞を被ってゐるうへに、丸太が肋骨のやうに突き出て、渡るとき人間の魂は反轉し、馬車の前は摧ける。……
 だが村が盡きた。怖るべきコズ—リカに差し掛る。成る程ひどい道てはあるが、といつてマリインスクや例のチェルノレ—チェンスカヤあたりの道にくらべて、 別段惡いとも思へない。幅のひろい森の切通しかあってそれについて幅五間足らずの粘土と塵芥の堤が、ずつと續いてゐると想像して見給へ。これがつまり街道だ。この堤を横から眺めると、 樂器の蓋を外した胴みたいにオルガンの太い心棒が地上に突き出て見える。その兩側には溝がある。心棒の上には、深さ一尺以上もある辙の跡が何本も走り、またこれを橫切る夥しい轍がある。從って心棒全軆は一群の山脈狀を呈し、それなりにカズベック*もあればエリブルース*もある。山巔は乾いてゐて車輪に突き當るし、麓の方はまだ水をはねかす。よつぽど巧みな奇術師でもなければ、 この堤の上に馬車を平らに据ゑることは難しいだらう。先づ大抵、 馬車はまた慣れぬ諸君が「おい馭者 、引繰り返るぢやないか!」と、 思はす一分毎に怒鳴り出すやうな位置をとる。右側の車輪が二つとも深い轍に陷り込み左の車輪が山巔に突き立つかと思ふと、二つの車輪が泥濘にめり込み、第三の車輪は山巔に、第四は空に廻ってゐる。……馬車の位置が千變萬化するにつれて、諸君が頭を抱へたり横腹を抱へたり、四万八方へお辭儀をしたり舌を嚙んだりする傍では、トランクや箱が大騒動をして、互ひに重なり合つたり諸君の上に被さったりする。だが版者を見給へ。この輕業師は何と上手に馭者臺の上に坐ってゐることだ。
 もし誰かが私達を橫から眺めたら、 あれは馬車で行くのではない、氣が觸れたのだと言ふだらう。少し先の所で、 私達は堤から離れようと思ひ、 棧道を探しながら森の緣を辿った。だがそこにも轍があり、小山があり、肋骨があり、棧道がある。暫く行くと馭者は車を停めた。ちよつと考へてゐたが、やがて、さあ愈ヽ愚劣千萬なことをやりますぞと言ふやうな表情で力無く咳拂ひをすると、堤の方へ馬首を轉じていきなり溝へ乘り掛けた。物の爆ける音がする。前の車輪ががちやんと行き、次いで後の車輪もがちやんと行く。溝を越すのである。それから堤へ乘り上げるときも、 矢張りがちやがちやんと鳴る。馬から湯気が立つ。梶棒が裂ける。尻帯も頸圈も橫へずれてしまふ。……「ほうれ、大將」と、馭者は力一ぱい鞭を振りながら叫ぶ、「ほれさ、御兩人。ぼやぼやするなってば!」十步ほど馬車を引きずつたかと思ふと、馬は停つてしまふ。幾ら鞭をやらうが、喚かうが、今度は動かうともしない。仕方がない。また溝を乘り越えて堤を下りる。また抜道を探す。それからまた逡巡して、車を溝へ向ける。りがない。
 かうして乘って行くのは辛い。實に辛い。だが、 このみつともない痘痕あばただらけの地の帶、この黒痘痕が、ヨ— ロッパとシベリヤを繫ぐ殆ど唯一の動脈であるのを思ふ時、心は一層暗くなる。人々は一軆、 どの動脈を通ってシベリヤへ文明が流れ入ると言ふのか。如何にも、 彼等の喋々する所は實に多い。だがこれを若し、馭者なり郵便夫なり、それともヨーロッパ へ茶を送る荷車の列の傍で泥濘に膝まで潰かつて、びしよ濡れに泥を浴びてゐる農民なりが耳にしたとしたら、彼等のヨーロッパ及びその誠意に對する感槪は果してどんなものであらうか。
 序でに荷車の列を見て置き給へ。四十臺ほどの車が茶箱を積んで、 堤の上に續いてゐる。……。車輪は半ば轍の深みに隱れ、瘦馬が一齋に頸をのばす。……車の傍には運搬夫がついて行く。足を泥濘から引つこ抜いたり、 馬に力を借したりで、精も根もとつくに盡きてゐる。……列の一部が停ってしまった。どうしたのだ。一臺の車の輪が碎けたのだ。……いや、もう見ない方がいい。
 へとへとになった馭者や郵便夫や運搬夫や馬を、まだ嘲弄し足りないのか、誰やらの差圖で煉瓦の碎片かけらや石塊が道の兩側に盛り上げてある。これは、 間もなく道がもっと酷くなるぞといふことを、 瞬時も忘れさせぬためである。シベリヤ街道に沿ふ町や村には、道路修繕の名で月給を取る人間がゐるといふ。これが若し本當なら、どうそ修繕には及びませんと、月給を上げてやらなければなるまい。彼等の修繕に逢ふと道は益ヽ惡くなるばかりだから。百姓の話では、 コズーリカなどの道路修繕は次のやうにするのだといふ。六月の末から七月の初めにかけては、 この土地の「埃及のわざはひ*」として殼物につく蚊の盛んに發生する季節だが、 その頃になると人人を村から「驅り出し」て、指の間で擦り潰せる程からからな枯枝で、 乾いた轍や穴を埋めさせる。修理の仕苦は更か終るまで續く。すると雪が降って船醉ひを起させるほど搖リ上げ搖り下ろす世界無類の穴ぽこが、 道路一面に出來る。それから春の泥濘が來る。また修理が始まる。これが連年の行事である。
 トムスクの手術で或る評議貝と知合ひになって、 三二驛のあひだ一緖に行ったことがある。私達が、とあるユダヤ人の農家に坐って鱸のスープを食べてゐると百人頭がはいって來て、何處共處の道略がすつかり損じてゐるが‘そこの請負人が修理をしようともしないと、評議員に報告した。……
 「ここへ呼んで來い」と評議貝は命じた。
 暫くすると頭の毛のもぢやもぢやな小男の土百姓が、 顔を歪めて這人って來た評議員は威勢よく椅子を起つて、百姓めがけて突進した。……
 「この恥知らず奴。何だって道を修理せんのか」と彼は泣聲で呶鳴りはじめた。「道は通れん、 頸つ玉は折れる、 知事の報吿は飛ぶ、 何もかもこの俺の罪になる。ええ、この惡黨め。呪はれたこのへちゃむくれ奴。――それでいいと思ふか、ああん。何たる貴樣は穀潰しだ。明日はちゃんと通れるやうにして置け。明日引き返して來て、萬一まだ直ってゐなかつたら、 しやつ面ひん吳れるぞ。ちんばにして吳れるぞ。出て行け!」
 土百姓は眼をばちくりさせて、 汗だくになった。益ヽ歪んだ顏附をして、扉から消え失せた。評議員は卓子に歸って來ると、 坐るなりにやにや笑ってかう言った。――
 「左様、そりや勿論ペテルブルグやモスクヴァの後ぢや、 ここの女はお氣には召しますまい。だが、じっくりと捜して見れば、ここにだって娘はをりますで……」
 土百姓が明日までに間に合つたかどうか知りたいものだ。この短い間に一體何が出來るだらうか。シべリヤ街道にとって幸か不幸かは知らないが、評議員は長くその椅子にとどまらない。その交送は頻繁である。こんな話も聞いた。――ある新任の評議員が持場に着くや占や、百姓を驅り出して道の兩側に溝を掘らせた。その後を襲つた男がまた、前任者の奇行に負けまいと、百姓を驅り出して溝を埋めさせた。三人目は持場の道路に、.厚さ一尺餘の粘土を敷かせた。それから四人目、五人目、六人目、七人目も思ひ思ひに、せつせと蜜を蜂巢へ運んだ。……
 一年中を通じて道路は通行に適しない。春は泥海で、春は小山と穴と修理で、冬は陷し穴で。嘗てヴィーケリや、後れてはゴンチャローフの息の根をとめたと言はれる疾走は、今日では冬、雪の初路ででもなければ想像し得ぬところだ。現代の作家も、シベリヤを术ばす壯快さを書いてにゐる。だがこれは、苟もシベリヤに來て、よし空想でなりと疾走の壯快を味はないでは、 引つ込みがつかぬからである。……
 コズーリカが軸棒や車輪を毀さなくなる日を待つのは、空頼みも甚たしい。シベリヤの役人たちがその生涯に、道路が改善されるのを見たことがあらうか。この儘の方がお氣に召すらしい。ド平帳も通信記事も、シべリヤ族行者の批評も、修理に計上される金額と同様、道路には殆ど利目がない。……
 コズーリスカヤ驛に着いたときは、 もう日が高かった。道伴れには先へ行つて貰つて、 私は馬車の修繕に殘つた。

【注】
カズベック コ—カサスの高峯。氷のピラミッドをなし、高さ一萬六千五百呎。
エリブル—ス コーカサス主山脈め最高峯。東西の兩峯があって、ともに一萬八千呎を超える。
埃及の災 エホバが、十の災(血に化する水・蛙・蚤 蚋、獣疫、腫物、雷雹、蝗、暗黑、長子の死)をエジプトに降した說話。『出埃及記』第七章――第十二章。
ヴィーゲリ 『囘想錄』の著がある。(一七八七―一八五六)
ゴンチャローフ 『オブローモフ』の作者(一ハ一ニ―九一)が提督ブーチャチンの祕書として、海路遙々日本を訪問したのは一八五三年(嘉永六年)である。その翌年彼はシベリヤを橫斷して歸つた。

日本人と漢詩(121)

◎ 私と許六、張継

 李杜は別にして、漢詩と言えば真っ先に挙げられるのがこの詩である。日本人に愛好されたようで、よく、お寺や古い家の客間に掲げられている。江戸時代の俳人、森川許六が、「和訓三体詩」という俳文的な訳文の中で記しているので、同時に挙げておく。

Fēng qiáo yè bó   Táng   Zhāng jì
楓 橋 夜 泊   唐 ・ 張 継
Yuè luò wū tí shuāng mǎn tiān
月 落 烏 啼 霜 滿 天
 講習の中では、まさに月が沈んでゆくので、落(luò)は、4声が似つかわしいとのこと、なるほど。
Jiāng fēng yú huǒ duì chóu mián
江 楓 漁 火 對 愁 眠
Gū sū chéng wài hán shān sì
姑 蘇 城 外 寒 山 寺
Yè bàn zhōng shēng dào kè chuán
夜 半 鐘 聲 到 客 船

 読み下し文と訳文は、Wikipedia 参照のこと。

トモの夜泊のカヂ枕、ムロのうき寝の波の床、汐馴衣シオナレコロモひと夜妻、かさねて寝んと漕よせて、上りくたりの舟懸、近付ぶりにかいま見の、ソラ約束に待ワビる、門のじゃらつき、階子ハシコトゝロき、胸つぶるゝ折からに、田舎渡りのわけ知らず、まかれて人にモラハるゝ、只獨寝の床寒く月落かゝる淡路嶋、イク田の森の村烏、秌の霜夜の明けかねて、海士のあさり火行違ひ、寝覚の多葉粉くゆらせて、すこし晴行うき眠り、松の嵐の一の谷、須广寺につく鐘の声、波の枕に伝ひ来て、舟ハ湊を押出しける。

 いささか、というよりかなり「和臭」ぽいところが面白い。原詩には、色事はないとは思うが、ひょっとすると、結句の「客船(kè chuán)」は女性同伴なのかもしれない。